──とある日。
「身体の具合はどうだい」
水をかけられる。取り敢えず身体には問題無いらしいとポジティブにとらえた。
──また、ある日。
「良い魚が手に入ったんだ。どう料理するのが好みかな」
顔だけ出してじぃっと魚を見つめている。どうやら魚は好物らしい。
少し目を離すと彼女は魚と共にその場から消えていた。
──そのまた、ある日。
「凄い雨だけど! 平気なのかな!」
雨音に負けないように声を張り上げると、ばしゃりと手だけが水面から飛び出してきた。そして、いいからあっちに行け、と言わんばかりに振られて、また水中へと去っていく。
どうやら、この程度ならどうということも無いらしい。
そんな、果たしてやり取りと言っていいのかわからないコミュニケーションを取り続けて早半月が経った頃。
「寂しくなったものだ」
波打ち際。少し前まではそこそこに賑わっていた砂浜の海岸線は、今ではすっかり閑散としてしまっている。
天気が悪いわけでも、海の機嫌が悪いわけでもない。穏やかな波は静かに砂を動かすばかりであるし、ふわりとした雲は青空に転々として、気ままに風に乗るばかりの空模様だ。
だというのに、ここにはひとっこひとり存在しない。
何故か。その答えは単純に、ここが魔物の出没域として立ち入り禁止区域に指定されてしまっているからである。
「思っていたよりかは、状況は深刻……か」
彼女の歌声が、どれだけこの海に影響を及ぼしていたかが分かる。何を思って歌っていたかはわからない。ただ単純に、歌いたいから歌っていただけなのかもしれない。
しかし、その歌が海の平和を創っていたことは疑いようがない。
幸い、近辺にいる魔物は少し腕に覚えがあるような者なら対処できるレベルでしかないが、それもこの状況が続けばどうなるか。
──そもそも、彼女が元通りに歌えるようになったとして、前と同じようにここで歌うとも限らない……どころか、きっとそうはならないだろう。
ローレライという種族は、妖精族と同じように俗世から離れた存在である。
彼女達に、此方の事情など知ったことではない。
極論、海が魔物で溢れようとも海そのものが平和であるなら彼女達はそれで構わないのだ。
「ここまできたら、もう別問題として考えるか」
自分の仕事は、今も尚深い場所にいる彼女を救い出すこと。その後に彼女が人間に見切りをつけるとしたならばそれはそれ。
身勝手な思想で声を奪われた彼女に、また同じように歌ってくれ、なんて。そんなことを言うくらいなら、それこそ、そんな喉こそ潰れてくれて結構だ。
「……まぁ、今もやってることは変わらないのかもな」
ボリボリと頭を掻いてから、踵を返す。
あの日から彼女は徹底してこちらを拒絶したままだ。
彼女の声を取り戻そうとして、試行錯誤の果てに可能性のようなものは見えてきた。後は、彼女自身がそれを受け入れてくれたならば、少なくともどうしようもない状況からは抜け出せる。
しかし、果たして本当に彼女が望んでいなかったとするならば。
今やっていることは、ただの好意の押し付けになってしまっていないのか。それは、こちらの都合で歌ってくれと頼み込むことと、一体何が違うのか。
「…………」
考えようとして、止めた。
この仕事を始めようとして、同じように悩んだことを思い出す。心の底から拒否されたその時、それを無理やりに救い出すことは、果たして正しいことなのか。
悪意か善意かの違いがあるだけで、やっていることはこちらの都合を押し付けているだけなのではないか。
悩んで悩んで、結局たどり着いた答えは。
「俺が救いたいから、救い出す。……それだけだったな」
偽善者上等。やりたいことをやるだけ。
……元より自分はそんな人間なのである。久しぶりに強く拒絶されたからか、そんな簡単なことすらも少し忘れていたようだ。
まずは助ける。不当な状況から救い出す。そこから先は……まぁ、なるようになれ、と言ったところか。
「…………」
また来たのか、とでも言いたいのだろう。
敵意こそその瞳からは感じないが、代わりに呆れたような眼差しを向けられて苦笑してしまった。
彼女を保護してからもう一月は経つが、毎日毎日懲りもせずに同じ顔を見せられては呆れもするだろう。
それでも、有無を言わさず拒絶されていた今までに比べれば進歩したと言える。少なくとも、取り敢えず話だけは聞いてくれそうなのだから。
「…………」
つい、と。磨かれた石の上に指を滑らせる彼女。そこに浮かび上がるのは、水で形作られた文字達である。
──助けてくれたのは感謝してる。今までの態度も謝る。ごめんなさい。
「謝る必要もないけれど、受け取っておくよ。それで、話を聞いてくれるのかな」
──声のことなら、もう大丈夫。きっと、ずっと私の声を治そうとしてくれていたのもわかってる。貴方の顔、疲れてるもの。
ぴっ、と指で水を弾かれて、頬の辺りにかけられる。目の下のクマのことを言っているのだろう。いよいよ疲れが見た目に現れているのは否めない。
──もういいの。泣きたいほど悲しいけれど、失ったものは戻らない。子供じゃないもの。受け入れて生きていく。
「そう言ってくれるな。せっかく糸口が掴めたんだ。君さえ協力してくれるなら、どうにかなるかもしれない」
──期待させないで。ようやく、納得できそうになってるのに。
「……確かに、完全に失ったものは戻らない。けれど、君の声はまだそこにある。今の状況を受け入れようとする君の心は尊いけれど、ひどく悲しいものだ。それに囚われて、今ある可能性まで捨て去ることは無いだろう?」
自分の言葉に、彼女の目付きが鋭くなった。
言いたいことはわかるので、先んじて更に言葉を重ねる。
「もう一度言おう。君の声は、失われた訳じゃない。その形が変わってしまっただけで、まだそこにあるんだ」
水面が弾けた。上半身を水際に乗せていた彼女が、その尾びれを強く叩き付けたのだ。
紛れもない怒りの行動だが、ここで怯んでいては話が進まない。閉じた口を、もう一度開く。
「どうせ諦めようとしているなら、自分の現状を受け止めるんだ。その上で、前向きに考えて欲しい」
腕が引かれた。肩が抜けそうな程に。
ついで、視界が大量の泡に包まれて。自分の口からも、いくらかの空気が泡となって出ていった。早い話が、彼女が自分を水中へと引き込んだのだ。
太陽の光がまだ届いている。
自らを捕らえた彼女の姿は、美しい。
あれだけ傷だらけだった身体は、もうそこにはなく。その歌声と心以外の傷は完全に癒えていた。
だからこそ。
「しつこい男ね」
その整った顔立ちで、穏やかに笑う。
傷だらけの心を剥き出しにしたその笑顔は、ひどく痛々しくて──息が出来ない水中とは関係無く、胸が苦しい。
彼女の手が、首に伸びてきた。
その手が、指が、躊躇いなく、此方の喉に掛けられて。
「だったら、貴方も私と同じ立場に立ちなさいよ」
食い込んだ。
首が絞められる苦しみよりも、喉に食い込む指の痛みの方が激しい。
その力に容赦はなかったが、猶予はあるようだった。
彼女は選べと言っている。
どうしても関わるのならば、その喉を、声を潰せと。
それが出来ないならば、私に関わるなと言っているのだ。
──時間にして、ほんの数秒だっただろうか。
少し前ならば、考える必要も無かった。当然のように、彼女に喉を差し出していた。
けれど、ほんの少し躊躇ってしまったのは──やっぱり、守る者が出来てしまっていたからだ。
彼女達が、怒って、悲しんで、きっと傷付いてしまうだろうと思ってしまうと、どうしても簡単にはこの身は投げ出せない。
けれど、それでも。
「…………」
目の前で此方の首を絞めている彼女に、最早笑みは無い。じっと、じぃっと見詰めてくる彼女のその手に、自分の手を重ねた。
抵抗ではなく、それでいいなら、と。
苦しむ顔は滑稽だろうが、彼女の問に、答えを出した。
「…………わかった、わよ」
そして──
その手がパッと離された瞬間に、その立派な尾びれで、強かに顔を打ち抜かれた。
水中だというのに身体ごと動かされたその衝撃に、一瞬思考が吹き飛ばされ、それから回復する間もなく彼女は自分を抱き抱えて水面へと浮上する。
そのままぽいっと陸へ投げられ、色々な痛みに苦しむ自分の横に、彼女もその身を投げ出すように寝そべってきた。
「そういう自己犠牲は嫌いよ。でも、ありがとう」
呼吸が落ち着いてきたところで、ぺちぺちと尾びれで顔を叩かれる。
「どの道、貴方に救われた身だもの。諦めたから、好きにしてちょうだい」
ほんの少し、ひねった言い回しに笑ってしまう。
濡れ鼠で咳き込みながら笑う自分を、彼女は眉を下げて、困ったように笑いながら背中をさすってくれるのだった。