「主は優しすぎると思う」
特に仕事も用事もない日の昼下がり。膝元が定位置となる獣人少女、ルミナスがそんなことを呟いた。
手元の本をパタリと閉じて、彼女へと視線を落とす。ルミナスは此方の膝に頭を預けたままで、特に見上げてきたりはしていなかった。
「怒る理由が無いんだから、必要も無いだろう」
「ん。まぁ、特に怒られるようなこともしてない」
「ならいいじゃないか」
「少し気になった。主が怒るとしたら、それはなんなのか」
「悪趣味だよ」
「自覚してる」
何を考えているのか、とその頭を撫でてみる。そこで一先ずこの会話は終わったが──どうやら、彼女はそれではごまかされたりはしなかったようだった。
ルミナスは考えた。あの温厚でお人好しな主人を怒らせるにはどうしたらいいのか。
つい最近で言えば、魔人の少女に四六時中狙われていたとしても、主人は気分を害するような素振りすら見せなかった。元は彼自身が言い始めたことなので当たり前と言えば当たり前なのだが、それでもあれだけ気にくわないような態度を取られてあれだけ飄々としていられるのも珍しい。
本人に言われた通り悪趣味なのは自覚している。優しく、大事に扱ってくれているのも大いに理解している。それならそれでいいじゃないかと言われればその通りなのだ。
しかし、ルミナスは主人のことを知りたかった。大好きで信頼出来る人だからこそ、彼のことを出来るだけ知りたかった。
良い面も悪い面もひっくるめて、ルミナスは主人とこれからも過ごしていきたいのだ。勿論、悪いとこを見たところで今更どうということもない。
人の汚さは嫌というほど見てきた。奴隷に落とされた数年間はまさに地獄。心にも身体にも数え切れない程の傷を負った。それこそ、ルミナスが今こうして何の後遺症も無く過ごせているのが奇跡的な程に。
だからルミナスには、自分の主人にどんなこと隠し事があったとしても、それを知ったとしても抱いている気持ちは変わらない。本当に悪いことをしているのだったら噛み付いて引き留めてやるぐらいの心持ち。同時に、あのお人好しが後ろめたいことをしているとは到底思えないとも考えてはいるのだが。
とりあえず、うだうだ考えていても何も始まらない。頭を使うよりも身体で語るタイプだと自覚しているルミナスは、とにかく考え付くことをやってみることにした。
ケース1:無視してみる。
とにかく自分からは話しかけず、話し掛けられても何の反応も示さない。ぱっとルミナスが思い付いたこの方法をまず試してみることにする。
──朝食の席にて。
「ある……」
朝食の準備を終え、むふーっ、と満足げに息を吐いたルミナスが主人を呼ぼうとして、早くも作戦が頓挫しかけていることに気付くルミナス。
食事の準備は基本的にルミナスが行っている。そして毎朝主人と同居人を起こして朝食の席に皆でつくのが恒例である。
これはいけないと考えつつ、そのまま流れで一日の流れを思い起こすルミナス。そして愕然とする。
いつも自分から構いにもらっていっていたルミナスは、話し掛けられるよりも話し掛ける回数の方が圧倒的に多いことに気付いてしまったのだ。
あれよあれよと言う間に、話し掛けることが多い→話し掛けられることが少ない→主は自分に興味が無いのかもしれない、と思考を飛躍させたルミナスは──
「主ぃぃ──!」
「おぐふっ!?」
自室にて、既に起きて身体を伸ばしていた主人に勢いそのまま突撃をしてしまうのであった。
──ケース1、無視作戦失敗。理由、自滅。
ケース2:だらしなくなってみる。
盛大な自滅をした翌日。
寝る寸前に思い付いた策を実行する為に、ルミナスは布団に潜り込んだままそこから出ようとはしなかった。
いつもなら既に起きて朝食を用意している時間である。つまり完全な寝坊。朝食前にしっかり身だしなみを整えることもあり、普段よりも一時間近く行動を起こしていないことになる。
こうしていればいつまで経っても起きてこない自分に少なからず主人は不満を持つはず。怒鳴られはしないまでもちょっとはムッとなるであろう。その顔が見てみたいが為に、ルミナスは罪悪感からくる落ち着かない気持ちを抑えて布団にこもる。先程からソワソワとしてしまう尻尾と耳はご愛敬である。
そうして更に数分過ぎたところで部屋にノックの音が響いた。きた! と耳と尾が反応し、ルミナスは狸寝入りに入る。
「ルミナス? 朝ご飯の時間だよ」
全く怒りの感情が見えない、いつも通りの優しい声。本当ならここでむくりと起きて甘えにでもいきたいのをぐっとこらえて、あたかもまだ眠っていたいですと寝返りを打って背を向ける。
「珍しいな……。ルミナス?」
ぎしり、とベッドに腰掛ける音。瞼に感じる日の光が少し弱くなり、ルミナスは顔を覗き込まれていると判断した。
あぁ、今自分は主人を困らせているだろうか。だとしたら少し心が苦しくなってくる。そんな想いを呑み込んで、眠った振りを続けるルミナス。
無音の時間がしばらく続き、息がつまりそうになったところで。
「……最近はあまり構ってやれなかったかもなぁ」
そんな声と共に、頭を優しく撫でられてしまった。反応しなかった自分を褒めてやりたいと瞬時に考えるルミナスを余所に、主人は優しい手付きで頭を撫で続ける。
「いつも頑張ってるもんな。たまには寝坊もいいだろう」
ふわりと包み込むような声。大事に扱われているのが伝わる撫で方に、いつの間にか本当に眠くなってくる。
いつしかルミナスの狸寝入りは本当の眠りへと変化していて、気が付けば────
「……寝過ごした」
朝日どころか中天に太陽が昇る頃に、ようやく彼女は目を覚ますのだった。
──ケース2、わざと寝坊作戦失敗。理由、……寝坊。
その後も様々な作戦を考えては実行してみるものの、主人を怒らせるまではいかない……どころかその雰囲気を欠片も見ることすら出来ずにいたルミナスは、うんうん唸りながら木陰にて頭を悩ませていた。
ここは普段主人が天気の良い時によく木にもたれ掛かって読書をしている場所である。今はその主人が出掛けていて不在だが、主と同じ場所にいるというだけでルミナスは幸せな気分になれるのだ。……一番は、その主が使っているベッドの中なのだが。
「……さすがに主、手強い」
「あのお人好しを怒らせるのは難しいと思うけどねぇ」
「それは最初から知ってる」
「……なんだ、驚くかと思ったのに」
「いるの知ってた」
つまらないわねぇ、と木の上にて器用に頬杖をつく人物に鼻を鳴らすルミナス。
魔人としての性格か、そもそもの性格がそうなのか、彼女──リリアナはこうして時折人を驚かすような行動を取ることがある。今のように気配を感じ取れていれば驚くことは無いのだが、普段はわりとふわっとしているもう一人の同居人はよくよく驚かされているようだった。
「で、なんでいきなりこんなこと始めたのよ」
「なんでかって……」
咄嗟に返そうとして、しかし人に語れるほどの確固たる理由は無いような気がして押し黙るルミナス。
それに、語ろうにも聞かせるには多少気恥ずかしい気もする内容だ。
取り敢えず、このまま黙ってしまうのも何か悔しいような気がして、逆に質問を返すことにする。
「リリアナは、主が怒ったところ見たことは」
「無いわよ?」
「無いのか……」
「なによ、失礼な溜め息ね」
なんとなく聞いてみただけではあるが、もしリリアナからその話を聞ければそれで良しと出来そうな気がしていたルミナスはあからさまに落胆して息を吐いていた。別に期待していた訳では無いものの、一瞬もしかしたら、と考えてしまった故の反応である。
頭上の糸を切って着地したリリアナが腕を組んで心外だ、と言わんばかりの態度をしても、ルミナスは別段態度を変えたりしない。
それに対し少しだけ考え込んだリリアナは、一瞬閃いたように眉を上げる。
「見たことは無いけどね。経験上、あの手の人間は怒らせたら怖いわよ?」
「……?」
「ほら、普段静かな人間ほど怒らせたら恐いって言うじゃない。……興味本位であんまり困らせるようなことばっかりしてると──」
そこで言葉を意味ありげに切ったリリアナは、ほんの少しだけ視線を他所にずらす。その先には件の主人が部屋でくつろいでいる姿があり、妙に芝居がかった口調は普段なら胡散臭いと切り捨てるところだったが──
「本当に嫌われちゃうかも知れないわよ」
それまでの口調から一転、突然深刻さすら感じられる真面目な口調で言われてしまい、ルミナスの心は大いに揺さぶられてしまう。
「きら……嫌われ、る?」
「そうよぉ。底が抜けたようなお人好しかもしれないけど、人間どこに許せないポイントがあるかわからない。このまま貴女が今みたいなこと続けてたら、うっかりそれに当たっちゃいました、なんてこともあり得るのよ? そうなった時に、彼が許してくれる保証なんてどこにもない」
いったいいつの間に作ったのか、リリアナの手には糸で作られた拳大の球体がある。それを弄びながら、やがて握り込んだ彼女は、ひとつ間を置いてにやりと見せ付けるような笑みを見せてから、
「いつか、貴女達の関係も」
ぐしゃり、と手の中にある糸玉を握り潰し、
「こうなったりして」
何も言えなくなってしまうルミナス。わかっていたようで、実際に言葉にされると、ましてや他の人物から言われてしまうと、それは自覚していたよりも遥かに重みを持って彼女の胸にめり込んだ。
「それに、人間外側を取り繕うことだってできるしねぇ。彼そういうの得意そうだし、もしかしたら手遅れってことも……」
そこに更に追い討ちをかけていくリリアナ。
最初こそ無意味だからやめとけ、くらいの気持ちで話していた彼女は、ここにきてルミナスの反応に面白さを感じていた。嗜虐心、と言うには些か可愛らしいものだが、それに近いものである。
そして、その効果は抜群であった。
「……や、やだ」
「ん?」
「主に嫌われるのだけは、やだ!」
尾を逆立たせて、全身に力を込めての、心からの叫び。
自分の身体を抱きへたりこんだかと思うと、尾を股の下に通し丸め、両手で耳を抑えてうずくまってしまう。
「あらあら」
その反応に、これは予想外と口に手を当てたのはリリアナだ。
ルミナスが彼になついているのは目の当たりにして知っているし、その理由も経緯も当然知っている。
しかし、この反応を見てその度合いが予想以上だと認識する。下手をすればパニックにすらなりそうな程に取り乱した彼女に、脅かしすぎたかとリリアナが頬をポリポリと掻いたところで、
「何をしているんだ、全く」
ポン、とルミナスの頭に置かれた手。呆れたような──そして、若干の怒りのようなものを孕んだその声に、リリアナは軽く肩を竦める。
「アタシが見たかった訳じゃないんだけどねぇ……」
やだやだ、と首を振りながらも、ひとつ謝罪だけを残してリリアナは木の上へと退散していくのだった。
「ほら、何があったか知らないけどもう安心しなさい」
「…………」
部屋にルミナスを抱えて戻った彼は、いつもよりもべったりとくっついて離れない彼女を慰めるようにその背中を撫でていた。
話の全容こそ知らないが、取り敢えず彼女が悲しむことは望むところではない。その想いから、とことん付き合ってあげようと考えていたところで、ルミナスはようやく顔を上げた。潤んだ瞳で、自らの主を見上げた彼女。
「嫌いに、ならない?」
「何を言っているんだ。なるわけがないだろうに」
「だ、だって、私……主、困らせた」
「最近のことを言ってるのかい? だったら、それは考えすぎだ。あれくらいで怒るほど心は狭くないよ」
「ごめんなさい。謝るから、嫌わないで」
「もう。今日はずっとこうしててあげるから安心するんだね」
「むにゅ……」
そんなことを気にしていたのか、と呆れ半分愛しさ半分で両手で彼女の頬を挟んでから、全体をからかうように
撫で回す。
そして、その頭を胸に抱き抱えながら、彼はそういえばと数日前のルミナスとの会話を思い出しながら。
「……一応、成功はしているのかな?」
「……ん?」
「なんでもないよ」
反応したルミナスの頭を撫でながら、リリアナのあの反応はそういうことかと苦笑する彼なのであった。