ダイヤのエース Plus Ultra   作:奇述師

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 更新ほったらかしてすいません。



精密機械

 

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 早朝、だった。

 

 俺にとってはいつものことだけれど、普通の生活をしている彼女にとっては大分早い時間帯だ。

 

 先輩たちの質問攻めから解放された後、今日の試合のことと後輩の気持ちを失礼ながら9:1の割合で考えた結果、俺は……

 

「……おはよう」

 

 少しばかり戸惑った、彼女がどういう気持ちであのメッセージを送ったのかは想像できない。何せ経験がない。

 

 だが、はっきりと気持ちを言葉にする勇気はとてつもない事だと経験で学んでいるからどう切り出そうか戸惑った。

 

「おはよう、ございます。虹稀さん」

 

 取って付けたような朗らかな声、馴染んだ声音、戸惑いの混じる挨拶。

 

 結局考えたところで答えは出なかった、と言うか正直に言って考える暇がなかった。

 

 ケジメをつけようとは思ったものの答えが出ない。はいと言うには些か考えが足りなすぎるし、いいえと言うのは心が躊躇していた。

 

 気持ちは確かにうれしい、これまで2・3度程度はそういう経験があったけれども心は少しも動いたことは無かった。しかし、今回に限っては違う。

 

 答えが出ない、何なのかわからない。この感情を何と呼ぶのかが理解できない。

 

 ただ一つ、現時点で出た答えを手短に彼女に告げる。

 

 心臓は早鐘を打ち、胸のあたりはモヤモヤしていて、無意識に、自分でもわかる程大きな音を立ててゴクリと唾を吞んだ。

 

「時間がないからはっきり言おうと思う。今は、気持ちに応える事は出来ない、ごめん。けれど決して、慰めとかじゃなくて、嫌な訳では「あはは! どうしたんですか虹稀さん? ただの自己満足ですって! そんなに深刻になんなくていいんですよ。朝から辛気臭いなぁ。あ、そうだ! 忘れちゃいましょう! きれいさっぱり、忘れてしまいましょう。いつも通りに戻るだけです、簡単でしょう? 試合に支障が出ちゃいますよ?」

 

 あくまで朗らかに、しかし捲し立てるような言葉のつなぎ方がらしくない。

 

 無理をしている、いやさせている。時折おかしくなる言葉のイントネーションが、くぐもった声が、朗らかすぎる声音が耳に響く。

 

 痛いくらいに。

 

 忘れちゃいましょう、彼女はしきりにそういった。

 

「………………忘れていいならそうするよ、本当にそれでいいなら」

 

 本音を言うのであればどうでもいい、彼女と付き合うことになろうがそうでなかろうがどうでもいい。

 

 そう考えていたけれども、光ちゃんと実際に話してみると心が戸惑った。

 

 喉まで出かかった付き合ってもいいよという言葉が出てこなかった。

 

 その結果、違う回答が出てきた。

 

 綺麗な回答なんかではない。俺はあくまで返事をはぐらかそうとしただけの人間だ、それが彼女の要求ならば吞むよりほかが無い。

 

 その他の権利なんて持ち合わせていないのだから。

 

 最終確認を取った、どちらにせよ俺が提案するのは答えの先延ばしだ。言い方が悪く、そのことは伝えられなかったけれども、普通に考えてその回答は彼女にとって断りを入れたものと変わらない。彼女が忘れていいというのなら、問題は解決したのも同然だった。

 

「…………私は、虹稀さんのことが好きです。返事はもちろん分かってます、これはただの、自己満足ですから。試合前に……ごめんなさい、自分の中でも、ひと区切りつけたくて」

 

 この状況は前に何度か経験したことはある、とても悲しい出来事であるのは間違いない。実際に過去では断った後に泣いていた人もいた。

 

 もしかしたらという希望が叶うことのない現実になってしまうのは落胆するのも、涙が出てしまう程悲しいのも無理がない。

 

 けれども、彼女はとても悲しい筈なのに、俺が気にしないように努めてくれる(原因をつくったのは彼女だけれども)。

 

 彼女の悲しい声音が胸に嫌な違和感を残してこびりつく。

 

 だからこそ、少し恥ずかしいけれど、本音で話をしようと思う。

 

 全部伝えるのは厳しいけれど、無理かもしれないけれど、この理解らない胸の内を全部話させてもらおう。

 

 もちろん分かってもらえるとは思わない、でもこれが俺に出来る精一杯の誠意の見せ方だから。

 

「前にさ、光ちゃんの応援は特に、凄く元気が出るって話しをしたの覚えている?」

 

「はい……っ……朧気ながら」

 

「光ちゃんは俺にとって特別な存在だよ。お世辞でもなんでもなく、本当にそう思っている。でも今は、彼女とかそういう事は考えられない、答えが見つからないんだ、それを探す……余裕がない。もし、待っててくれるんだったら夏が終わるまで待ってて欲しい」

 

「っ……いえ、大丈夫……っ…………です。ごめん……なさい……ありがとう……ございます……約束してください。必ず、勝って、勝ち抜いて答えを出すって」

 

 嗚咽が一層ひどくなった、自分勝手で我儘で、あまつさえ女の子に告白させたというのに関わらず返事を先延ばしにする最悪な男だ。

 

 彼女のことより野球のことで頭がいっぱいで、おそらく彼女には人並みの青春の思い出すらも味合わせてやれないつまらない人間だ。

 

 彼女の一途さに甘えた回答は、我ながら悪手中の悪手だと思うけれど仕方がない。

 

 そう言う不器用な性格なのは長い付き合いで自分が一番よく知っているから。

 

「ありがとう…………自分でもどんな答えを出すのかはわからない、引き伸ばして悪いけれどそこだけは先に謝っておく。本当に申し訳ない。そしてありがとう、こんな奴を好きになってくれて」

 

 嬉しかったよ、とは言わなかった。過去形だとなんか終わったみたいで嫌だから。

 

「いい返事がもらえるように、頑張って応援しますから……思う存分暴れてください」

 

「仰せのままに」

 

 ―本当に、ごめんなさい

 

 電話を切る直前に何か聞こえたような気がした、多分頑張ってとかそんな感じだったと思う。

 

 流石にこの雰囲気で「他に好きな人が出来たら全然付き合ってもいいからね」とは言えなかった、彼女の気持ちが本物だからこそ口に出せなかった。

 

 1

 

 7月27日、準々決勝。青道―薬師。西東京ベスト4を決める試合という事もあって客の入りは多い。

 

 市大三高を破り勢いよく試合に臨む薬師高校と6年ぶりの甲子園を狙う青道高校との戦いは、大きな注目を浴びるのは必然だろう。

 

 共通点としてはどちらにも確かな潜在能力を秘めた1年生がいるという事。

 

 勝敗のカギは投手が握っていると言っても過言ではない、市大三高戦のように薬師と点の取り合いを始めたら勢いのある薬師に軍配が下りかねない。しかし投手陣がそれを止めることが出来れば青道の優位と勝利は揺るがない。

 

 オーダー交換の時点から互いの監督の駆け引きは始まっている、薬師側だけではなく青道高校も同じくして。

 

 薬師高校の監督、轟雷蔵は想定外の事態に少し黙り込んだ、がいつものように振る舞った。

 

 監督の動揺は選手に伝わってしまうし、それは最も愚かな行為だと理解しているからだ。

 

「いいか! ここから先はテメェらの仕事だぞ!! テメェのために打て!! テメェのために守備につけ!! そんで勝利の味ってやつをしこたま味わいあがれ!!」

 

 一方で青道高校としても思い切った起用方法に幾何かの選手を除いて少なからずの動揺が生じている。

 

 その淀みを払拭するかのように檄を飛ばす。

 

「その一投に、その一歩に、そしてそのひと振りにお前たちの全てが映る。迷いは要らん!! 自分たちの野球を貫き通せ!!」

 

 互いの怒号が飛び交いセンターラインに沿うように睨みあう、青道の標的は自分たちを無視、眼中にないと公言した轟親子。

 

 青道・薬師共に今大会初のオーダーで臨む準々決勝。異様な空気に包まれたままゲームが始まろうとする。

 

 薬師

 1 轟  三

 2 秋葉 左

 3 三島 一

 4 山内 右

 5 福田 二

 6 三野 投

 7 渡辺 捕

 8 小林 遊

 9 大田 中

 

 青道

 1 雨宮 左

 2 小湊亮 二

 3 伊佐敷 中

 4 結城 一

 5 増子 三

 6 御幸 捕

 7 山元 投

 8 白洲 右

 9 倉持 遊

 

「ここで言うのもなんだが、昨日はよく寝れたか? 随分朝早かったみたいだけど」

 

「問題ないっすよ、野暮用を済ませただけなんで。今日はそんなに調子悪くないはずですけど?」

 

「いや、何でもねぇよ。ただ、確認だ」

 

「昨日のこと心配しているんだったらそれは俺を見くびりすぎです、この夏を勝つこと以外大事な事なんてありません」

 

 あくまで見据えるのは轟雷市、御幸と話してはいるがベンチ前で素振りをしている彼に向けて闘志を放っている。

 

「その様子なら大丈夫だな……っっても、やってくれるよな、初端からコイツと勝負なんてよ」

 

「逆にコイツを仕留めれば流れを一気に持ってこれる。確かに手ごわい相手ですけど、関係ないっすよ。誰であろうとねじ伏せるだけっすから」

 

「流石分かってらっしゃる……俺から言うことはもう無い。後は結果で示すだけだ、頼んだぞ」

 

「うっす」

 

 御幸はトンとミットで虹稀の胸を叩くと自らのポジションに向かう。投球練習を済ませ、セカンドへボールを投げて「先頭集中!」とグラウンドにいるメンバーに向かって叫びかける。

 

 心配なのは立ち上がりだけ、状態は悪くはない。気持ちの入れ方も充分過ぎるくらい、だが市大三高のエース、真中の球を完璧に捉えた1番打者に対してどこまで通用するのかは完全に未知だ。

 

 ―まずはインロー、プレートはサード側目一杯、外れてもいいからしっかり腕を振って投げてこい! 

 

 サイレンが鳴り響く中投げられた初球、球場を包む始まりの音を切り裂くように金属音が割り込んだ。

 

 最初に審判が告げたコールはファール。

 

 投げられた球の勢いをそのままにバックネット最上段に軌道を変えて飛び、ガシャンと音を立てて地面に転がった。

 

 1ストライク・ノーボール。些か有利になったカウントではあるが轟雷市の存在に青道高校は戦慄する。

 

「ハハ……カハハハハ……ギュ・ギュン、いやギュン・ギューンってボールが来た! スゲェ、スゲェ!!」

 

 ―初球からタイミングばっちりかよ……次は、これだ

 

 結果が表しているように、轟雷市という打者はかなり危険だとグラウンドを守る9人が再確認した。

 

 目を見張るのはスイングスピードと大きなフォロースルー。そして打席にいる彼に向けて向けられるベンチからの信頼の声。

 

 虹稀は表情こそ変えないもの嫌な汗がにじみ出るのを感じていた。

 

 続いて投げた球はカーブ、外角低めを僅かに掠る審判の采配に委ねられたボール。

 

 一度浮き上がり、その後突き刺さるように落ちる回転数の多さによる独自の変化を持つ変化球はあっさり見送られた。

 

 判定はボール、カウントは平行に。

 

「カハハハハ浮いて! 落ちた! スゲェ、スゲェ! ポテンシャル高ェ!」

 

 ―このバッターを1番に置いている時点で待球作戦で来るとは思えない、それにピッチャーがピッチャーだ。それはあり得ない、なら狙いはなんだ? 

 

 嫌な汗が御幸の頬を伝った。同時に虹稀も予め上げていた警戒レベルをさらに引き上げる。

 

 尻上がりとはいえ体は充分に温め状態は最高に近い、けれどストレートはタイミングばっちり、自慢の変化球には体勢が崩れない。

 

 沢村達から聞いた情報だが、後は相手になるのはこの西東京では成宮鳴だけだと豪語していたらしい。実際のところ正直頷けると虹稀は底の知れなさに驚いた。

 

 同チームの結城哲也、雨宮瑠偉を達人だとするのならば轟雷市は猛獣だ。

 

 初めての緊張感と未知の敵との遭遇にドクン、と心臓が跳ねたのが分かった。

 

 ―狙いはその投手が一番自信を持っている球、その他なんてどうでもいいって言ったけど……こいつだけはなんか違うんだよなぁ。珍しいことに自信を持っているのは制球、そして悪く言えば自信を持っている球種なんて何ひとつない。良く言えば突出しているものこそないが全て高水準。とは言っても球種は大きく分けてストレートとカーブの2種類、狙うのはもちろんストレートしかねぇだろ

 

 その後真っすぐを外に外し、カウントは2ボール1ストライク。

 

 ―際どい所振ってこねぇ、このまま歩かせるのは避けたい……場面が場面だが頼むぜ

 

 虹稀はサインを確認すると数瞬固まったが、2度頷き、大きく振りかぶった。

 

 そして自ら持つギアを最大まで引き上げる、勝負どころと判断し、更には公式戦の勝負所で投げたことのない球と言うのもあり、いつもよりゆっくりと、力を溜めるように振りかぶる。

 

 大きく上げた足、地面に右腕が付きそうになるまで傾けた体勢から下半身の力を使い上からボールを投げおろす。

 

 本人曰く曲がる気配を見せないスライダー、通称カットボール。

 

 実際今まで御幸は公式戦では数回しかサインを出していない、故に投げる本人は使えない球種と勝手に勘違いしていたが実はその真逆、御幸が隠し玉として用意していた隠れた牙。

 

 投げたことがあるのは先日の明川戦でほんの数球だけ、偵察に来ていたとしてもカットボールを投げれると知らなければ変化も小さいため回転軸のずれたストレートとしか解析できない。

 

 今まで多投しなかったのは秘密兵器として使用するためだ。準決勝、もしくは決勝で投げさせようとしたその球種は変化は微小、しかし並の打者であれば曲がったことに気付きもしない手元で激しくする変化球。

 

 明川打線程度であれば芯を確実にずらしバントのような内野ゴロが転がる程。

 

 その球種の使いどころは今と判断。思惑こそ両者一致してはいないが、想定通りに力を込めて投げ込まれる白球を目掛けて轟雷市は恐ろしい勢いでバットを振り下ろした。

 

 狙い通りのストレートと判断した轟雷市は先程のイメージの軌道のままに一閃。

 

 芯を外れた鈍い音。

 

 反比例するように地を這う白球。

 

 飛び込んだ先は4番結城の守るファーストミットの中。

 

 そのまま自らベースを踏み最初のアウトと流れを手繰り寄せる。

 

 まずは最初の難関を潜り抜けた。

 

 青道高校側のスタンドから追い風のように拍手と怒号の声援、そしてちらほら混じる黄色い声がそれをさらに後押しする。

 

 試合は嫌な静けさを残したまま1回の表が閉幕した。

 

 2

 

 轟雷蔵は想定外の事態に崩れてしまった計算を必死に立て直そうとする。

 

 まさか1番に据え、想定内であれば今頃出塁している筈の息子が「スゲェ! キュガって、バットに当たる直前に曲がった!」と後ろで楽しそうに騒いでいるのを無視して必死に虹稀の想定外の力を情報の海から洗い出す。

 

 ―雷市がファーストゴロだと!? あの程度の球速であいつが詰まるとは考えられねぇ……ん? 今バットに当たる直前に曲がる、つったか? 何がストレートとカーブだけだよ、投げられるじゃなぇか! おいおい、こりゃ聞いてねぇよ

 

 その後も相変わらずストレートに的を絞る薬師打線だがコーナーを丁寧に突くピッチング、御幸の技術によるキャッチングで多少のボール球はストライクになるため変化球を振らざるを得ない。

 

 的が絞れていなかった。

 

 静寂に包まれる薬師打線、一方で青道高校は1回の裏、1番に抜擢された雨宮瑠偉の内野安打から1回裏3点をスコアボードに刻み点数は0-3

 

「やってくれるぜアイツら……」

 

「これでまだ1年ですからね」

 

「真田ァ、肩つくっとけ。これ以上は試合が決まりかねぇ」

 

 2回の裏、9番倉持がショートへ鋭いライナーを飛ばし、1アウト。

 

 続く1番の雨宮瑠偉がフォアボール出塁、2番小湊亮介のエンドランが最高の形で決まり1・3塁のチャンス。

 

 伊佐敷の併殺打の間に青道がまた1点スコアボードに刻み、4番結城にツーベースヒットを打たれたのち薬師はたまらず投手を交代した。

 

「三回の裏・薬師高校選手の交代をお知らせします。ピッチャー三野君に代わりまして真田君、ピッチャー真田君」

 

 実質のエースの登板となり暗い空気が一気に消えた、反転し明るくなる薬師高校だが青道側からすればこの投手さえ攻略すれば勝利は確実なものとなる。

 

 だが、この窮地を任された男は5番増子に死球を当てながらも6番の御幸をしっかり打ち取り点数をこれ以上刻ませない。

 

 ―真田、流石だぜ……勝負はこのあと2巡目だ、雷市の一発には流れを変える力がある。完璧な状態が続いている投手程、ちょっとした歪で大きく崩れてくれるからな。頼んだぜ雷市! 

 

 順調に力を見せる強豪・青道高校。しかし観衆が見たいのは強者が行う当たり前の勝利ではなく、格下・薬師高校の下克上。

 

 これまでの試合無失点、完璧に近い内容で傷がつかないままマウンドに立ち続けた虹稀に最大の試練が降りかかる。

 

「4回の表、薬師高校の攻撃は1番 サード 轟君 轟君」

 

「そろそろ反撃が見たいぞ! あの投手打ってやれ!」

 

「スゲェの打てよ!」

 

 市大戦のような大波乱を期待している。

 

 中学時代とは観客の人数も重みも違うマウンドで、虹稀は知らず知らずの内にプレッシャーを感じていた。

 

 初回から今まで抑えれば抑えるほどに大きくなる薬師高校への声援、負けられないという強い思い。

 

 厳しいコースを初球から突くことが出来るが、初球から突き続けるとその次はさらに厳しい所、その次は……と精神的な疲労が掛かり続ける投球を続けていた。

 

 御幸が意図してそうしたわけではなく、比較的甘いコースから入ることもあるが、虹稀自身の判断でそうしていた。

 

 “全てに対して全力で”

 

 心意気は素晴らしいが、精神の磨耗は計り知れない。

 

 愉しもう、という心意気はない。先輩たちの夏を終わらせたくないという責務で一杯一杯だったのにもかかわらず、特別だと気付いた後輩に返事を返すための執行猶予、という名目で自らに課した責務から“勝たなければならない”という気持ちの方が楽しむという余裕は消え失せた。

 

 故に調子が上がり切らずにいた。心のストッパーが外れずれきれずにいたというところか。

 

 調子は悪くない、持ち味である制球に乱れはない、だが本来の持ち味である尻上がりに調子を上げるエンジンにスイッチが全く入らない。

 

 嫌な汗が一筋、頬を伝わり地面に落ちる。

 

 ―同じ投手に2度もやられんじゃねぇぞ

 

 虹稀の内心の焦りを知ってか知らないでかは定かではないが、轟雷蔵はあくまで不敵な笑みを崩さず息子を信じた。

 4回表、未だ点は入らず、ランナーも出ず、完全に抑え込まれている。

 

 勝ちへの光明が見えるとするならばこの回、轟雷市が流れを変えるしかない。

 

 ―調子は悪くない、制球も球威も変化も明川戦以上だ。けれど、哲さん達を圧倒していた時ほどじゃない……今日は落ち着きすぎている

 

 御幸だけが虹稀の異変に気付いていた。

 

 いつも通りのクオリティスタートを切りここまで一人もランナーを許さず投げ続ける好機を見て誰一人おかしいとは思わないだろう。

 

 信頼が芽生え始めたいい兆候ではあるものの、この場面で吉と出るか凶と出るか御幸には判断がつかなかった。

 

 背番号18番のピッチャーは最善を尽くしている、要求通りのボールを要求以上の意図も持って投げ込んでくる。

 

 だから、後は自分のリード次第だと御幸は不安要素をすべて拭って轟雷市に挑もうと腹を括った。

 

 4回表の初球、サインを出す前に御幸は拳で胸を叩いた。

 

 球場の雰囲気が薬師一色であり、燻っている空気が一気に発火するのを防ぐのならばこの打者を抑えるしかないというのは共通認識で確認するまでもない。

 

 きっとこの経験は初めてだろうと考え、御幸は気持ちを強く持て、とメッセージを込めて胸を叩くジェスチャーを送る。

 気後れするな、気持ちを強く。

 

 ―負けられない、この場所を任されている以上1点もやることは出来ない。

 約束をした、思いを背負った。この夏を、上級生を蹴落としてもらった番号を背負ってここに立っている以上、先輩たちとの夏を日本で一番長くするために。こんなところで躓いてはいけないんだ。だから、もっと厳しく、丁寧に……! 

 

 入りの一球は打者との対戦の時に非常に大事になってくる。

 

 ファーストストライクを取り攻めに行くか、外して様子を見るか、詰まるところ初球も大事ではあるのだが2・3球目も重要さで言えば劣りはするが大事なものだ。

 

 山元虹稀という投手はその要望に応えられる選手であり、御幸は決して悪くはないリードをした。

 

 左打者の轟雷市に対し、入りの初球。

 

 内角ギリギリ、ストライクかボールか審判に判断を委ねなければならない微妙な位置から10人いればそれこそ10人が、100人いれば99人はボールだと判断するコースに投げた軌道を見せつけるためにわざと投げたカットボール。

 

 僅かだが、確かにゾーンから外れたボール球なのだから、しっかり腕を振って投げ込もうという意図はあれど、打者を抑えようとする気迫はない。

 

 あくまで軌道を見せるためにただ投げた、そんな球。

 

 思考の末か、本能で判断したのか、定かではないが轟雷市のスイングは間違いなくカットボールのみに絞った軌道だった。

 

 轟雷市は虹稀が白球を弾き出した瞬間体を開き、従来よりも右足をファースト側に偏らせて踏み込んだ。

 

 コースは完全にボール、だが開いた体の向きの偏差を考えるのならば内角甘く入ったカットボール。

 

 強烈な粉砕音。

 

 一瞬の静寂、虹稀を押しつぶさんばかりに浴びせられる歓喜の声援。

 

 初めて経験する逆境は点差は開いているものの逆風に煽られるのが確とわかった。

 

 轟雷市がダイヤモンドを一周しホームベースを踏み点差は1点縮まり1-5、依然として点差上の余裕はあるものの青道側は不穏な空気を、薬師側は追い風を感じている。

 

 虹稀は手の甲で汗をぬぐい悔しさと申し訳なさを歯噛みし自分のものではない歓声を浴びていた。

 

 汗で濡れたアンダーシャツが急に重く、冷たく、圧し掛かる、カランカランと音を立て何かが外れるような音がする。

 ライトスタンドに飛び込んだ白球はその様子を嘲笑うかのように見下ろしている。

 

 精密機械の歯車は間違いなく狂っていて、彼の中に潜む怪物は一向に目を覚ます気配がない。

 

 

 

 

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