苔むした岩の勾配を、一歩ずつ踏み締める。
額には玉の汗をかき、目に滲んだのを指で払う。こんな簡単な動作さえ、命懸けなのだから堪らない。
『冬の秘湯巡り!Google Earthで見つけた絶景温泉SP』
……と銘打った某テレビ局の番組のロケで、体力自慢の芸人や撮影クルーが怪我をしないよう、先んじて親綱を張るのが、俺の仕事だ。
本当は、こんな岩を通る必要は無い。ただ、いい絵が欲しいという理由で、こんなことをしているのだ。……秘湯がメインだろ、圧倒的無駄。さながら、一塁へヘッドスライディングをする高校球児のように。と不貞腐れていると、なんだかんだでロープを張り終わった。
「ふっ!……よし、いいね」
最終確認を終えて、後は帰るだけ。そこにきて俺は、年に数度ある気まぐれを発動した。
「秘湯、行くか」
重い道具は岩に置き、軽くしたリュックとストックを握って山道を駆け抜けていく。……場所は頭に入っている。温泉と小川が交わる地点があり、いい具合に熱湯と水が混ざりあった場所を見つけるのに苦労しそうだ。
「湯気発見。いいね」
小川へと近づき、指を入れてみる……冷たい。もう少し先か。それを何度も繰り返した後、ちょうどいい湯加減な場所を見つけることが出来た。俺は早速服を脱ぎ、湯に浸かった。
「あーーぁ……眠い」
水面を境にした寒暖差が、俺の思考力を奪い、溶かし、立ち上がる決断を遠のかせる。温い方が易いのだから、仕方ない。コンタクトレンズを着けたままだが、死ぬことは無いからね。
次第に瞼が重くなり、とうとう居眠りをしてしまう。
「──もし」
「すぅ……すぅ……」
「もし、そこの貴方」
「……ん」
肩を叩かれ、目が覚める。浅い眠りの気だるさが、筋肉が軋む音を鳴らして抜けていく。そこへ、耳触りの良い涼やかな女の声が掛かる。
「もし、そこ──」
「にゃごにゃごうっさいわ!」
「きゃっ、いッー!?」
無意識の内から、耳元を壊れたカセット音源みたく無限リピートするソレによって、蓄積し続けたイライラがついに表面化し、手で鋭く払いのけると女が悲鳴をあげる。
どうやら鼻の辺りを裏手で殴ったらしい。というのも、殴った時の感触で冷静になり、恐る恐る振り返ると、鼻を両手でおさえて悶絶している綺麗な……コホン、常なら美人そうな女が恨めしそうに睨んでいたからだ。
「大丈夫ですか?その、すみません」
「ぎにゃい……大丈夫、れす」
「痛いですよね……。あ、鼻血」
「ひどい……こんなところを。全部見られてしまった」
俺の心は、同情の気持ちでもう、張り裂けそうになった。乙女のプライドと鼻の血管を傷つけてしまったのを、どう挽回しようかと思考を巡らせ、とりあえず悶絶乙女の隣で服を着た。
リュックから街で配られていた『献血しよう!』とデフォルメされた鳩が言っているポケットティッシュを取り出し、鳩のキャラを縦に引き裂いてティッシュを四、五枚取り出す。
「使ってください」
「どうもすみません……すんっ」
目尻に光る涙のワケを、聞く勇気は俺には無い。気不味い無言と時間だけが流れ、鼻血が止まるのを待っている間に今の時刻を確認すると、ちょうど日が沈みだす半刻前だった。この季節はこれから一気に暗くなる。
「まずいな、早くしないと……」
「ッ!?そんな、私が悪いのですか!?」
(め、めんどくせぇ……)
「興奮しないでください。日没までの時間が近いので、『まずいな』と独り言をもらしてしまっただけのことです。変な女に変な場所で絡まれたな、なんて思っていませんよ。……それで、テレビ局の方ですか?私は地元の森林組合に所属している服部健吾です」
「……なるほど。服部さん、先程のは私の早とちりだったと、納得しました。それと、すみません。他は何をおっしゃられているのか、存じ上げません」
「え?えぇ……ここ、私有地の山ですよ?許可が無い人は入れない、って建前なんですけど」
この人なんだか怪しいな。とは思ったが、自分の落ち度を清算したかった俺は、軽くたしなめる程度にとどめるつもりになっていた。
このとき、もっと警戒していれば。この瞬間に、一目散に逃げていれば。後にあんな目に遇わずにすんだとも知らずに……。
「それなら問題ないはずです。人間ではない私には、関係の無い仕来りですからね。ってあれ?どうして貴方、服を着てるんですかッ!?……いつの間に?」
「悶絶してる間にです。……人間じゃないってェ!?」
「と り あ え ず、 ね?暗くなりますから。近くに私の住んでいる部屋があります。貴方も一緒に行きましょう」
「うん、いいね」
◆◇◆
「天井低いですね」
「平屋じゃないと落ち着かなくて。ワンルームなんですよ」
「ちょっと暗いですね」
「採光は、考えたんですけど。昼間は入り口の辺りが眩しいので、こう、『Ω』の形に廊下を作って、光を遮る工夫がしてあります。よく眠れますよ」
「なんだか、寒い気がしますね」
「気のせいじゃないです。一番のこだわりですから。じつは奥に氷がたくさん飾ってあるんですよ。この前も、ちょうどあなたぐらいの大きさでしたわねぇ……」
・・・・・。
「これ洞窟じゃん、てか天然の冷蔵庫じゃん!お前雪女じゃね?」
「ふふ、いいリアクション。さて、どうかしら……奥に、もっと奥に行ったら全部話すわ。奥に……もっと」
「いやいやいや、帰ります」
「私が困ります」
「僕は帰りたいです」
「そうですか……どうかお元気で。あの、最後に、握手をしてもらえませんか?理由は聞かないで、お願いします」
鼻血を出していたときとは違って、今の彼女はしおらしくはにかむ美人。手を差し出したときから黒かった髪の毛が一瞬で白に染まって生物のように蠢き、目の色も人間離れした緋に染まっていたとしても、童貞を拗らせた俺に童貞を殺しにきた上目遣いの彼女の願いを断ることは出来なかった。
「それぐらいなら、喜んで」
「
彼女の緋い瞳孔が、獣のように縦に割れた。その景色を最後に、俺の視界が真っ白になる。それはまるで、写真のように焼きついた緋が、その刹那的な時間を切り抜いてしまったかのようだった。
時間の感覚だけが平常で、体はまるで回路が断線したアクチュエータのように動かない。
「ムカつく男。今日から貴方は私の枕ね、いい気味。本当は湯上がりを氷らせる筈だったのに……まだ痛むわ」
俺は枕にされるのか。氷になった俺には、音が聞こえるだけ。このままが永遠に続くとは思えないし、いずれ死んでしまうのだろう。ああ悲しや。
「前の枕は抱き心地が悪かったのよね……変なポーズで固まるから、運んでる途中で腕折れたし。これはどうかしら?……まだ柔らかい」
むにっ。
確かに柔らかい。……えっ、俺触覚残ってるの?
……気を取り直して、氷になった俺には、音と触覚があるだけ。このままが永遠に続くとは思えないし、いずれ死んでしまうのだろう。ああ、女の子の匂いがしてドキドキする。
嗅覚もあるだけ、を後で加えておこう。
ピシリ。
凍っていたコンタクトレンズが自重で罅割れ、崩れ落ちる。真っ白だった視界は、たちまち色を取り戻した。
後になって気づいたことだが、コンタクトレンズの層によって彼女の魔眼を直視しなかったおかげで、効果が半減していたのだろう。
体は動かないことに変わり無いが、光明がさした気がする。
「いつもより、水分が少なかったからかしら?……固さを調整出来るものなのね。初めて知ったわ」
この状態で、固さを調整されたらどうしよう。奇跡のようなバランスでフリーズしている現状だが、次を逃れることは物理的に不可能だ。不安の声が暴風雨のように心の中を吹き荒ぶ。
現在思考しているということは、血液が巡っている筈。イメージでコントロールして、解凍するんだ。
……腕が重たい。……足が重たい。……足が温かい。……隅々まで温かい。……血液が巡る。
ギンッ!
イメージの結果、俺は勃起してしまった。
静まれ……閉じろ俺の毛細血管……おっぱいの感触を忘れるんだ。
シュン……
「とりあえず運ぶとして。よいしょ、と」
ぐあはっ!目を閉じることが出来ないし、いい匂いするし、柔らかいし……あ、駄目だわ。
ギンッ!
「……?なにか当たる。邪魔だから後で折ろうかな」
ひぇっ……。
シュン……
〔 第1ラウンド 雪女 WIN 〕──続く
雪女との純愛を、書こうとしていたんです。()