ViVid Infinity   作:希O望

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第三話になります。
こちらは三つに分割した内の二本目です。
第三話の投稿に際し「残酷な描写」タグを追加しました。
よろしくお願いします。


第三話 過去と本性②

 凶悪な鬼の相貌をした恐ろしい犯罪者に立ち向かった少年は幾度も地を這った。

 

 男の暴力は残虐の一言で彼の小さい身体を容赦なく打ちのめす。

 

 筋骨に満ちた腕が顔面を殴打する。

 

 女性の胴回りほどもある脚が腹部に刺さり身体を折る。

 

 持った剣の柄を振り下ろし額を割る。

 

 崩れ落ちる間際首根っこを掴んで石柱に投げつけた。

 

 肉が潰れ、骨が砕け、鮮血が舞い、血反吐が飛び散る。

 

 一人の人間が壊されていく過程をまともに見ていられる人は少ない。

 

 多くの人質は子供が血にまみれる残酷な有様に顔を俯かせ、目を瞑り、沈痛な面持ちで耳を塞ぐ人もいる。

 

 もうやめてくれと肉親でなくとも叫び出してしまいそうになる。

 

 テロリストの仲間でも息を呑む者がいるほど、その暴行は苛烈を極めた。

 

 それでも、ウィズは立つ。

 

 最早正常な部位を見つける方が困難なくらい満身創痍な姿を晒し、身体中を血に染めて尚立ち上がる。

 

 左腕は折れ曲がり、片足も歪な方向に捻じ曲がっている。

 

 だが、柱に手を添え、支えにして立ち上がった。

 

 ゴポリ、と口から赤黒い体液が零れ落ちる。

 

 死に体に近い身体であったが、無視して、歩く。

 

 一歩踏む出しただけあちこちから血が噴き出す。

 

 それでも構わずもう一歩だけ歩を進める。

 

「あー、俺としたことが、こりゃ見当違いだったな」

 

 少年をこんな姿にした張本人は返り血に濡れた手を払いながら、呆れた目で血だらけの子供を見下ろした。

 

「テメェみてえなイキった餓鬼が手足へし折られて泣き叫ぶ姿が最高に笑えるんだが……テメェ、違ぇな?」

 

 言っている意味がわからない。

 

 朦朧とする意識の中、目の前の凶悪犯が救いようのない屑野郎だということは理解したが最後の言葉がわからなかった。

 

 違うとは、一体何のことか。

 

 ギースは今にも崩れ落ちそうなウィズの髪を掴んで顔を引き上げる。

 

 頭皮を引き剥がされそうな激痛など今の状態からすれば些細なことだった。

 

 ただひゅーひゅーと肺に骨でも突き刺さったのか歪な呼吸と共に男を見据える。

 

「それだよ、その眼。死にかけてやがるのに怯えや恐怖を一切感じてやがらねえ」

 

 殺意と悦楽に染まり切った眼をした男に言われたくはなかった。

 

 大男は不服そうに眉をひそめて続ける。

 

「餓鬼の眼じゃねえ、修羅場をくぐり地獄の底を覗き込んできた老兵の眼だ」

 

 期待した反応をいつまでも返さないウィズに疑問を抱いていたが、改めて瞳を覗き込めば確信に至る。

 

「こんな眼をした奴を餓鬼とは呼べねえ、ただの異常者だ。テメェも大概、外れてやがる」

 

 世間から外れた異常者だと男は言った。

 

 そんなことはわかりきっている。

 

 歪な感情の揺れ、他人との致命的な価値観のズレ、違和感が拭えない親との差異――灰色の世界。

 

 言われずとも自分が異常だということは()()()()()()()()()()()()()

 

「俺はなぁ、悲鳴が好きなんだよ。男より女のが好きだが、そこまで拘りはねえ。激痛に泣き叫ぶ声、大切な人間を傷つけられ嘆く声、絶望に打ちひしがれて泣き崩れる様は見ていて爽快な気分になれる」

 

 聞いてもいないことをべらべらと喋る狂人の価値観など耳にするだけで虫唾が走る。

 

 あるいは同じ異常者同士共感でもしてほしかったのかと思ったが、この下劣漢にそんな殊勝な思いはないただの気紛れだろうと考え直した。

 

 今すぐその口を閉じさせてやりたかったが、少年に残された手段はもうない。

 

 腕も脚も、鉛のように重く動かない。

 

「だからまあ、そういう意味じゃあテメェは期待外れだったなぁ。あー、それならあの女をぶっ飛ばすんじゃなかったか。いい声で啼きそうだったからなぁ!」

 

 瞬間、ウィズの頭が沸騰した。

 

「ぷッ!」

 

 腕も脚も動かないのであれば、口を動かすしかない。

 

 憎き男の顔面目掛けて真っ赤に染まった痰を吐きかけた。

 

 息を吹き出すだけでも胸に激痛が走ったが、そんなもの今気にしている余裕はない。

 

「はっ!」

 

 

 そんな少年の最後の足掻きを鼻で笑い顔を傾けてあっさりと避ける。

 

 

「きったねえ、なぁっ!」

 

 語尾だけ怒気を荒げて、ウィズの胴体を蹴り抜いた。

 

 当然少年の身体はボールのように吹き飛び、掴まれていた髪の一部がぶちぶちと引き千切れる。

 

 受け身もまともに取れずに転倒し何回転もしてようやく止まる。

 

 今度こそピクリとも動かなくなる、こともなくウィズは腕を震わせて再び立ち上がらんとする。

 

 呼吸すらできないほど痛めつけたというのにまだ戦意を失わない姿にギースは吹き出した。

 

「どんだけしぶてえんだ小僧、実はゴキブリの胎から出てきたんじゃねえだろうな!? ぐぅあっはっはっはっは! は、はぁ…………飽きたな」

 

 大笑いから一転、スッと表情が消える。

 

 これほどまでに感情の浮き沈みが激しい様相には狂気しか感じない。

 

 この瞬間、ギースはウィズに対しての興味を無くした。

 

 視界をウロチョロされるのも億劫なため、さっさと始末するかと銃のような剣を握り直した。

 

 その時、部下と思わしき男がロビーの入り口側から駆けてくる。

 

 自分たちが設置した水晶らしきものが飛び出している装置のせいで念話もまともに使えないため、口頭で用件を伝える。

 

「ボス! 管理局の連中が包囲を開始しやした!」

 

 大声で発せられた言葉は伝えられた男だけでなく、捕らえられた一般人たちの耳にも入る。

 

 人質の顔が隠し切れない喜色に包まれる。

 

 助けが来てくれたのだと聞いてしまったら、悲惨な状況だからこそ強い喜びを感じざるを得ない。

 

 しかし、大男の獰猛な笑みがそれをかき消す。

 

 管理局の魔導士が包囲網を築いていると聞かされて、焦りを抱く様子など微塵もなく寧ろどこまでも好戦的に笑った。

 

「くっははは! やっとお出ましか! 暇つぶしが持ったからいいものの、もうちっと遅かったら十人ばかし首を引っこ抜いてたぞ!」

 

 少年の善戦などこの卑劣漢にとっては管理局が来るまでの時間潰しでしかなかった。

 

 他の部下が管制室を占拠したり、情報遮断の結界を張ったりなど尽力している中で首魁の男は子供を散々にいたぶって楽しんでいた。

 

 それを咎められる人間は誰もいない。

 

 絶対的な暴力を有する悪鬼を止められる者は、善人悪人問わずこの場に一人もいない。

 

「くくく……あー、そういや団体のお客様の中に金髪の女はいたか?」

 

「……ミーティングで言われた奴なら最前線で指揮を執ってるようでやした」

 

「そうか! そうか! ぐはは! なら、特大の花火を用意しねえとなあ!」

 

 戦闘狂にして殺人狂の男は歓迎するように笑う。

 

 だが、この時ばかりは鋭利な眼光の中にドロドロの殺意が溢れ出ていた。

 

 怨讐と呼ぶにふさわしい漆黒の光を宿し、吊り上がった口の中は固く噛み締められていた。

 

 その時、揺れる影がギースの視界に映る。

 

 全身を血潮で染めたウィズがゆらりと立ち上がった所だった。

 

 立ち上がりこそしたものの、少年が当初持っていた闘気はすっかり失われ辛うじて地に足を着けている状態だ。

 

 姿勢は中腰で頭と両腕はだらりと力なく垂れ下がり、脚は今にも崩れ落ちそうなほどに震えている。

 

 一歩も動けないのか、微かに開かれた双眼を向けるだけに留まっている。

 

 心の底から冷め切った視線で少年の奮闘を眺めていたギースは重くため息を吐いた。

 

「テメェはもうお役御免だ。メインディッシュが来たんでな、まじい前菜は廃棄処分ってこった」

 

 ちゃきりと銃剣が地面と水平に構えられ、鋭い剣先がウィズに向けられる。

 

「――死ね」

 

 ギースは掻き消えるように飛んだ。

 

 死が、迫る。

 

 逃れようのない絶対的な死が向かってくる。

 

(そうか、終わりか)

 

 少年の内心は驚くほどに穏やかだった。

 

 何時かはこうなるだろうと思っていた。

 

 碌な死に方をしないと確信していたが、まさか今日この日になるとは思わなかった。

 

 ついさっきまでごく普通の日常が流れていたというのに、本当に死と言うものは唐突だ。

 

 だが、ああ、だがしかし。

 

(最後に、一発ぶちかましてやらねえと気が済まねえよなっ)

 

 ギュッと拳を握る。

 

 握るというより、指を曲げて丸めただけの力無き拳だったがそれでよかった。

 

 迫りくる男に対し最期の反撃ができるならば何でもよかった。

 

 最後の最後まで屈することだけはしない。

 

 ウィズは肩まで上がらない腕を必死に持ち上げて、殴りかかろうとして。

 

 その前に、額に凶刃が突き刺さり――――。

 

 

 

 軽い衝撃が、横から、来た。

 

 

 

 普段のウィズならよろめくことすらない、軽くそれでいてこちらを包み込むようにも感じる衝撃。

 

 

 瀕死に近い少年が耐えられるわけもなく、べしゃりと地面に横たわる。

 

 

(一体…………何、が――――)

 

 

 視線を上げる。

 

 

 完全に意識の外から来た弱々しい力の正体を探るため反射的にその方向を見た。

 

 

 見て、しまった。

 

 

 深々と、悪鬼の剣が胸から背中にかけて突き刺さっている。

 

 

 刃は背中の肉を突き破り、恐ろしいまでの赤に染まっていた。

 

 

 口元から血液が溢れ出るように流れ落ちる。

 

 

 普段、細目のせいで殆ど見ることのない少年と同色の瞳が覗く。

 

 

 愛しげに目尻を下げて、ウィズを見る。

 

 

「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――」

 

 

 そこに居たのは父のヨハンだった。

 

 

 ウィズに突き立てられる筈だった凶刃が父を貫いている。

 

 

 理解が、できなかった。

 

 

 思考が機能しない。

 

 

 呼吸を忘れる。

 

 

 心臓さえ、一瞬止まったかもしれない。

 

 

 目の前の惨劇が信じられない。信じたくない。

 

 

 ヨハンは血に濡れた口を何とか開いて、言葉を紡いだ。

 

 

「……ぁ…………ウィ……ズ…………逃げ…………」

 

 

 最後まで言い切る前に刃が無造作に引き抜かれる。

 

 

 傷口から鮮血が舞い、父の身体が血液と一緒に生気も抜け落ちたかのように倒れ込む。

 

 

 足元に転がるヨハンを呆然と見つめる。

 

 

「んだぁ? 今度はパパかぁ!? ぐっはっはっはっは! 揃いも揃ってしゃしゃり出るのが好きな奴らだなおい!」

 

 男の嘲笑が遠い。

 

 ウィズは鈍い身体を引きずって父の元へ跪いた。

 

 まばたきすら忘れて動かない父を眼球に映し出す。

 

 胸と背中からとめどなく血液が流れ出ている。

 

 真っ赤な血だまりが自分の膝まで染める。

 

 何だ、これは――。

 

「あー面白ぇ、こんなに笑わせてくれたファミリーはテメェらが初めてだよ」

 

 うるさい、黙れ――。

 

 一体どうして、父が倒れている。

 

 脳が状況把握を拒否しているように視界が何重にもブレる。

 

 機能停止した機械のようにウィズはその場から動かない。動けない。

 

「しっかし、そうだよな。テメェのパパはイイことに気づかせてくれたぜ」

 

 もう、喋るんじゃねえ――。

 

 ウィズは恐る恐る手を伸ばす。

 

 一部生爪が剥がれかけ生傷だらけの手を、父の身体へ伸ばそうとする。

 

 だが、僅かに腕が上がっただけで静止する。

 

 恐ろしかった。

 

 もし既に冷たくなっていたらと思うと恐ろしくて触れられなかった。

 

「顔面串刺しの死体よりも、首を刎ねた方がインパクトあるよなぁ!!」

 

 持ち運びしやすいしよぉ! と何が面白いのか天井に向かって高笑いする悪漢。

 

 完全に頭のネジが何本も外れたかのような嗤いに自然と拳が固く握り込まれる。

 

 何故、人を憎んだこともない穏やかな母が無惨にも壁に叩きつけられなければならない。

 

 何故、誰一人傷つけたことのない優しい父が胸を突き刺され血の海に沈まなければならない。

 

 何故、誰よりも平和を愛した二人が、こんな狂人によって傷つけられなければならない。

 

 

 

 ――――そんなの決まってるじゃん。

 

 

 

 ありえざる声がした。

 

「あのクソったれな金色も、餓鬼の生首見たらさぞいい顔になるだろうなあ!」

 

 今狂気の面相で叫んだ男の声ではない。

 

 もっと幼く、もっと高く、それでいてもっとおどろおどろしい声だ。

 

 

 

 ――――弱いからだよ。

 

 

 

 その声は自分の内から聞こえてきた。

 

 ウィズ以外には聞こえない。不可思議な声だった。

 

 満身創痍の身体と朦朧とする意識、そして認めたくない惨状を目の当たりにしたことによる幻聴だと思われた。

 

 つまりは現実逃避だと、少年は断じた。

 

 ふざけるな――。

 

 それでも、その言葉には言い返さないわけにはいかなかった。

 

 あの二人は俺とは違う。俺と違って、ただの一般人だ。そんな二人に強い弱いなんて尺度で測るな――!

 

 

 

 ――――あー、違う違う。

 

 

 声は言う。直接に簡潔に、一切の容赦なく告げる。

 

 

 

 ――――弱いのは、自分でしょ?

 

 

 ――――――――。

 

 心が抉られたように言葉が出ない。

 

 そして、同時に納得もしてしまった。

 

 自分に力がなかったからこそ、二人は傷つき倒れたのだ。

 

 事故や天災、そしてこうした人災に巻き込まれることなど誰にでも起こり得ること。

 

 それを防ぐのは時の運か当人の能力に他ならない。

 

 人間、過酷な状況にこそ最後に信じられるのは自分自身しかいない。

 

 そんなこと、わかりきっていた筈なのに。

 

 愕然とするウィズに向かって、子供のような声は一方的に話しかけてくる。

 

 

 

 ――――それで? このまま死ぬの?

 

 

 悪意も邪気も何もなしに死という言葉を使ってくる。

 

 どこか気が抜けるようでいて腹立たしい声だ。

 

 苛立ちをぶつけるように少年は心の中で叫ぶ。

 

 死ねるか! 死んでたまるか――!

 

「つうわけで、今度こそ死ね小僧」

 

 男が無情にも剣を掲げ、跪く少年を冷たく見下ろした。

 

 母を打ち付け、父を刺し貫き、今も自分を害そうとする怨敵を許せるわけがない。

 

 少年の魂が再び憤怒に染まる。

 

 この男を、黙らせる力が、ぶち殺せる力があれば――!

 

 ウィズの悲痛な渇望は誰にも届かない。

 

 ましてやいるかどうかもわからない神様になんて届くわけもなく応えてもくれない。

 

 握り込まれたボロボロの拳が虚しく震える。

 

 だが、応えは返って来た。

 

 何でもない口調で、あっけらかんと応えた。

 

 

 

 ――――なーんだ、それなら簡単だ。

 

 

 

 瞬間、声の主が鋭利に口を歪めた気がした。

 

 断頭台に立たされた囚人のように俯き、晒された首筋に銀の刃が落とされる。

 

 吸い込まれるように斬首の一刀がウィズの首を刈る。

 

 その直前。

 

 

 

 ――――人間なんて、ヤメればいい。

 

 

 

 まるで悪魔の囁きにも似た言葉が内に溶けた瞬間、ウィズの瞳に光が灯る。

 

 

 

 拳が、紅蓮に燃える。

 

 

 

 パキィィィンッッ!!

 

 甲高い金属音と共に銃のような剣が大きく弾かれ、刀身が粉々に砕け散る。

 

 瞠目するギースの眼前で目を焼くような眩い光明が現出する。

 

 

 ――ヴァリヴァリヴァリヴァリヴァリッッ!!!

 

 

 それはまるで、鋼鉄を無理矢理引き千切ったかのような破砕音が轟く。

 

 ()()()()()()()()()()少年は地面を踏み締めて悠然と立ち上がる。

 

「な、ななっ」

 

 自慢の武器が弾かれ壊れたこと、謎の異音と発光現象、何よりも死に体だった少年が立ち上がってきたこと。

 

 どれも男の想定を超えていて、身体が硬直したかのように動かない。

 

「なんだってんだテメェーーー!!」

 

『オオオオォォォッッ!!!!』

 

 ぐしゃりとウィズの右拳が相手の頬骨に突き刺さる。

 

「うげええぇぇ!!」

 

 真紅を纏った拳は尋常ではない速度で飛んできた。

 

 防御する暇もなく、まともに直撃し吹き飛ぶ。

 

 巨体が成すすべもなく宙に投げ出され、反対の壁に当たる寸前まで飛ばされた。

 

 驚愕したのは殴られた本人だけではない。

 

 周りで見ていたテロリストたちは呆気に取られた。

 

 あのボスが子供相手に無様な声を上げて殴り飛ばされるなんて想像もしていなかった。

 

 そんな想像を絶する事態を引き起こした真紅に輝く少年が一歩、踏み出した。

 

 テロリストは慌てた様子で銃を構える。

 

 得体のしれない存在に対して恐怖を抱いたが故の反射的な行動だった。

 

 しかし、ぐらりとウィズの身体がバランスを崩したようにたたらを踏む。

 

 当然だ、踏み出した左脚は歪に捩じれてまともに歩ける状態ではないのだから。

 

 ウィズは折れた左脚、そして左腕を注視する。

 

 それを見た武装組織の連中は恐怖を誤魔化す様に笑った。

 

 何を恐れていたのか、相手はもう歩くことすらままならない重傷者だ。

 

 ボスを吹っ飛ばしたのも最後の抵抗だ。まぐれだ。

 

 そう自分に言い聞かせ、絶句する。

 

 ゴキュリ。

 

 少年が折れた左腕の前腕を無理矢理元の位置に戻した。

 

 激痛が走った筈だ。そもそもそんなことをしても骨はくっつかない。

 

 だが、痛がる素振りなど露ほども感じさせず、折れた箇所がより一層強く赤く発光する。

 

 まるでその光で固定でもしているかのようだ。

 

 間髪入れず、右手と戻した左手で左脚を掴んだ。

 

 ミチミチッ、ゴギリッ。

 

 今度は捩じれた左脚を力任せに捩じり戻した。

 

 そしてまた、負傷箇所が輝きにとって締め付けられる。

 

 一言で言えば異様な光景だった。

 

 その光景を見ていた者は皆戦慄し、息を呑んだ。

 

 いくら折れた骨を固定しようが、捩じれた脚を戻そうが負傷が全て塞がるわけではない。

 

 全身からとめどなく流れ出る血液は今も身体を滴っている。

 

 だが、少年はもう止まらない。

 

『アアアアアアッッ!!』

 

 喉の奥底から発せられる咆哮は、最早人のそれではない。

 

 獣の如き剥き出しの殺意と咆声を上げ、左脚を思いっ切り地面に食い込ませた。

 

 次の瞬間、ウィズは閃光と化した。

 

 赤き残光を残し、目にも止まらぬ速度で駆ける。

 

「へっ?」

 

 呆けた声を上げたのは先ほどギースに報告していた仲間の一人だった。

 

 真紅の光弾が視界を掠めたと感じた瞬間、身体が横に折れた。

 

 肉やら骨やらが潰れ折れる音が聞こえたかと思えば、床を幾度もバウンドしていき、それ以降起き上がることはなかった。

 

 ただ進行方向に立っていて邪魔だったから振り払った。

 

 本命はたったの一人。

 

「ぐ、おおおおぉ!」

 

 ギースは雄叫びを上げてその場を飛び退いた。

 

 一瞬前に居た空間が爆散する。

 

 赤き閃光と鳴り響く奇怪音を纏ったウィズの腕が床に突き立っている。

 

「舐めんじゃねえぞ小僧おお!!」

 

 破損した武装を投げ捨てて、掌を突き出してエネルギーを放出する。

 

 莫大なエネルギーが赤褐色の砲弾へ瞬く間に形成され、至近距離からウィズを襲う。

 

 これまでとは比べ物にならない爆炎が上がる。

 

 空間そのものが揺れ動いたかのような振動と周囲の空気全てを燃焼しつくすほどの大火力が引き起こされる。

 

 濛々と広がる黒煙によって姿は見えないが、確実に消し炭となったと男は自信を持つ。

 

 ()()()()()()に耐えられる者はいない。魔力を使う人間に勝ち目などない。

 

 そう、絶対的な自信があった。

 

 今この瞬間までは。

 

 煙幕の奥から影が覗く。

 

「ッ!」

 

 次の瞬間、黒煙を突き破り、真紅に染まり切った腕が伸びてくる。

 

 予想だにしていない事態に反応が遅れ、いやたとえ正常に反応できていたとしても間に合わなかっただろう。

 

 それだけ恐ろしい俊敏さで男の太い首を掴んだ。

 

「がっ、この!」

 

 ミシミシと確実に食い込んでくる五指を振り解こうと逆に握り潰さんとするが、弾かれる。

 

 バチリと高圧電流にでも触れたかのようにギースの手が焼かれる。

 

「ぐっ――ッ!」

 

 黒煙を切り裂いて、紅蓮を纏った少年の怒りに歪んだ面貌が露わとなる。

 

 歯茎を剥き出しにした憤怒の表情、これこそ正に鬼の形相であろう。

 

 猛獣のような唸り声を放ち、眼球は血走り瞳孔が縦に裂け、赤黒い眼光でもって敵を射抜いている。

 

 ヒトの皮を被った怪物。それが今のウィズだった。

 

「テメ、ご――――」

 

 何か言葉を発しようとしたギースに豪快な膝蹴りが叩き込まれる。

 

 腹部に深くめり込み、巨大な鉄球をぶつけられたかのような衝撃に身体が投げ出される。

 

 一瞬、視界一面が赤で埋め尽くされたような錯覚に陥る。

 

「っく、そがあああぁ!!」

 

 男は込み上げてくる吐き気を抑えて地面に脚を立てる。

 

 床を盛大に削り取るようにして衝撃を殺すと立て続けに受けた屈辱的な痛打に苛立ち、怒声を上げる。

 

 それは自身の動揺と混乱をかき消す叫びでもあった。

 

「テメェはとっくに終わってんだよっ。食い飽きてんだよ死にぞこないがあ!」

 

 ギースの怒鳴り散らす声に理知的な反応は返ってこなかった。

 

『ガアアアアッッ!!!』

 

 自分の周りを覆う爆煙を振り払うように吼えた。

 

 ウィズを中心に突風にも似た鋭い風が巻き起こり、同時に魔力の波動と思わしき赤い衝撃波が立ち込めていた煙幕を晴らす。

 

 理性など欠片も残っていない少年の変貌に男は顔を歪める。

 

 自分を射抜く猛獣の双眼に言い知れぬ危機感を感じて仕方がなかった。

 

 ギースが今まで多くの死闘と修羅場を経験し、そこで培われた動物的本能が警鐘を響かせて止まない。

 

「ちぃ――!」

 

『オオオオォッ!』

 

 ウィズが雄叫びを上げて踏み出した時、同時にギースは懐から一本の注射器サイズの針のような突起物を取り出した。

 

 鋭利で特大の針を自身の首筋に躊躇なく突き刺した。

 

「リアクトォ!」

 

 痛々しい自傷行為にしか見えない行動は覚醒のトリガーだった。

 

 赤錆色の高エネルギーが渦となって膨れ上がり舞い上がる。

 

 爆発的な加速で眼前まで迫ってきていたウィズの突進を逸らすほどの高密度な障壁となった中心部でギースの存在感が大きく増した。

 

「クソったれガァ、こんな餓鬼に本気を出さなきゃならねえとはナァ!」

 

 赤褐色の渦から姿を現したギースの身体は大きく変わっていた。

 

 黒い刺青らしき幾何学模様が蔓のように全身を覆い、白く濁っていた右目が毒々しい紫色に染まる。

 

 しかし、一番目に付くのはその左腕だ。

 

 肘の先から指先にかけて、前腕部が黒い重厚な突撃槍に銀の回転式弾倉が組み込まれた武装へと変じていた。

 

 腕に被せているというよりも肉体そのものが武器と一体化しているかのように見えた。

 

 男の身長程もある長大な漆黒のランスがウィズへと向けられる。

 

 禍々しい瘴気を漂わせる槍に秘められた脅威の度合いは計り知れないものを感じさせる。

 

 絶対にアレに刺されてはいけない。

 

 凶器であれば誰もが感じることであろうが、あの槍に対してはより一層そんな恐怖が沸き起こる。

 

「とっとと死ネエ!」

 

 恐ろしい突きが目にも止まらぬ速さで繰り出される。

 

 この場の誰にも視界に収めることができない鋭い一撃だった。

 

 だが、例外が一人。

 

 確実に頭部を貫いたと感じた黒槍の突きをウィズは首を僅かに曲げて躱す。

 

「っ、ゴラァッ!」

 

 続けて二発。

 

 常人には同時に放たれたようにしか見えない神速の突きを最小限の動きで全て回避した。

 

「だおラアアァ!」

 

 低い雄叫びを上げながら少年の胸を貫こうとする。

 

 身体の正中線を的確に狙った必殺の攻撃は命中する瞬間、横にブレたウィズの脇を掠めるように外れる。

 

 僅かながら隙が生まれ、ギースは背筋に寒気が走った。

 

『ウォオオオ!!』

 

 ウィズの右拳が閃く。

 

 予備動作を一切感じさせない閃光の如き魔拳が男の顔面を粉砕しようと迫る。

 

「ッッ!!」

 

 咄嗟に首を全力で倒す。

 

 空気を削り取るような破滅の拳が顔面スレスレで通過する。

 

 ジュ、と右耳の一部が蒸発するように消し飛んだ。

 

「ぐおおおお!」

 

 今の攻撃をまともに喰らえば消滅した耳のように顔面が無くなっていただろう。

 

 その恐怖を打ち消すように叫び、真紅に輝く少年から距離を取る。

 

 ウィズの赤黒い光を宿した眼球がギュルンとギースを追って離さない。

 

 殺意が噴き出しているかのような凶悪な眼光に男は心の中でまずいと叫んだ。

 

 赤に染まる右手が拳を解き、指を広げてギースの顔を掴もうと振るわれた。

 

 いや、掴むためではない。抉り取ろうとしているのだ。爪を立てて、ギースの顔の肉と骨を根こそぎ抉り飛ばそうと右腕が振るわれた。

 

 男は自分の顔面に指がかかる寸前、咄嗟に右手から無造作な動作でエネルギーの塊を放った。

 

 錆色のエネルギー弾は見当外れの方向に投じられた。

 

 その先には人質となった利用客が固まっている。

 

 ピタリ、とウィズの動きが止まった。

 

 意図して行ったことではない。これまでの少年の動向から無意識に判断し動いていた。

 

 ウィズの左腕が下から上へ、虚空を穿つように掬い上げられた。

 

 ギースを狙ったものではなく、振るわれた方向的に錆色の弾丸を狙ったものだとわかる。

 

 当然、ウィズの剛腕が直撃するわけがない。

 

 しかし、振るわれた際に生じた拳圧と轟音を上げる紅蓮の波動が男のエネルギー弾を飲み込む。

 

 まるでシャボン玉を弾けさせるようにあっけなく人質を狙った弾丸を打ち消す。

 

 打ち消すだけに留まらず、赤の衝撃波は柱の一柱を豪快に削り、二階のテラスの柵を粉々に吹き飛ばした。

 

 瓦礫や細長い柵の一部が一階ロビーにけたたましい音を立てて落下してくるが、幸いにもその付近に人質はいない。

 

 そこにはテロリストの一人が居た。大慌てで逃げ惑っている。

 

 そんなことはどうでもよかった。

 

 問題なのは今、エネルギー弾を消滅させるためにギースへ止めを刺せなかったどころか大きな隙を生んでしまったことだ。

 

 ウィズが視線を戻した時には、既に突撃槍の鋭鋒が腹部を貫くところだった。

 

 ズブリ、と深く少年の脇腹に喰い込んだ。

 

 ギースの口元が鋭利に歪む。

 

「ぐぁハハハ! んな形相してても人助けカッ! 正義の味方(ヒーロー)気取りか知らねえガ、その偽善がテメェを殺すんダアァ!」

 

 蔑むように狂笑を浮かべ、中身をぐちゃぐちゃにするように刺さった槍でかき回す。

 

 黒一色の穂に赤い雫が滴り落ちる。

 

 

 ふと、気づく。

 

 

 あるべきものが、ない。

 

 突いた右腹部の位置から肝臓や胃、大腸などの主要な臓器がある筈だ。

 

 それが、ない。

 

 あり得ない。

 

 これまで数え切れない人間を裂き、貫き、殺してきた男は一瞬呆けたような表情を浮かべた。

 

 本当に目の前の子供は人間をやめて別の何かにでもなってしまったのかと奇想を抱いてしまうほど信じられない感触だった。

 

 この時ウィズは()()()()()()()()致命傷を避けていたのだが、そんなことは男にわかるわけがなかった。

 

 だが、即座に切り替える。

 

 内臓が消えていようが関係ない。

 

 確実に殺すための手段はもう半ば完了している。

 

「爆ぜろ小僧オォォ!!」

 

 突撃槍と化した左腕に力を込め、流れ込ませる。

 

 根元に付いた銀の弾倉が回転し装填された銃弾が火を噴く。

 

 放たれたのは銃弾ではない。

 

 人間を無惨な兵器と変貌させるウィルスにも似た男のエネルギーが注入される。

 

 それに抗う術はない。一滴でも送り込まれれば忽ち人を醜い肉塊へと変える――――ギースはそこまで想像した。

 

 

 しかし、現実は違う。

 

 

 ガチガチ、と銀色のシリンダーが悲鳴を出すように音を立てて震えている。

 

 弾倉が回らない。

 

 別に弾倉が回転せずともエネルギーは注入できる。劇的な症状はないにしても変化は確実に起こる。

 

 それすら、できない。

 

 今度こそ男は激しく動揺した。

 

「な、何故ダアアア! 何故何故なぜナゼ!! 何故ハジけネエエエエ!!?」

 

 これまでにないほど取り乱した様子を見せるギースの眼は信じられないほどに見開かれ揺れていた。

 

 その姿から男がこの戦法に絶対的な自信があったことが窺える。

 

 ウィズの返答は右腕を振り上げることだった。

 

 ヴァリヴァリヴァリリッ!! と振り被った右腕の肘がより赤くより濃く、光を放つ。

 

 同時に右膝も鼓膜を揺さぶる破砕音を発し閃光を放って真紅に輝いた。

 

 動揺を隠し切れず、不安定な精神状態でも少年が何をしようとしているのかわかった。

 

「小僧ォォ――ッ!」

 

 慌てて突き刺さった槍を抜こうとする。

 

 抜けない。

 

 腹部を貫いた箇所を見れば、紅い光が傷とランスを覆うように纏わりついている。

 

 ギースはそれが地獄へと引き摺り込む血に染まった鬼の手のように見えた。

 

「うおおおお! 離――」

 

『アアアアアァァァッ!!!』

 

 真紅の鉄槌が下される。

 

 破壊の意志が一心に込められた右肘が凄まじい破壊力を生んで振り下ろされた。

 

 一撃ではない。同時に蹴り上げられた右膝が唸りを上げて叩き込まれた。

 

 挟み込むように繰り出された肘打ちと膝蹴りがギースの突撃槍を襲う。

 

 途轍もない衝撃が走り、床が幾重にも罅割れ荒れ狂う暴風を生んだ。

 

 そして、バキイイィィンッ! と漆黒のランスが砕かれ、折れた。

 

「がぐあああ!」

 

 折った部分は先端に近いが、亀裂は半ばにまで達し粉々に砕け散った。

 

 肉体と一体化しているが故か、槍が砕かれたことによって痛みが生じているようだった。

 

 苦痛に表情を歪め、苦悶の声を上げるギースは左腕を押さえて数歩ヨロヨロと後ずさった。

 

「あり得ねエェ、ありえ――」

 

 そこをウィズが強襲する。

 

 一気に間合いを詰めると、左脚を振り抜いた。

 

 鞭のようにしなり首から頭部にかけて強烈極まる蹴打が抉り込まれる。

 

 めしゃりと顔面が歪んで、飛んだ。

 

 錐揉み回転しながらロビーのベンチや観葉植物などを巻き込んでゲートの機械に突っ込んだ。

 

「ごぶ、がはっ」

 

 30m近くも吹き飛んだ男は改札機のような機械にもたれかかりながら血液の混じった体液を吐き出していた。

 

 一緒にへし折れた歯が何本か吐き出されている。

 

 カハァ、とウィズの口から獣染みた吐息が漏れ、視線は吹っ飛ばした男へ一直線に向けられていた。

 

 今にも飛びかかりそうなウィズの姿にギースはカッと目を見開き、怒号を上げた。

 

「テメエらあああ!! 何ぼうっとしてやがルウウ!! 今すぐそいつを撃ち殺セエエエエ!!!」

 

 ロビーに響き渡るような大声だった。

 

 余裕のない焦りが滲み出ている声だった。

 

 ギースの部下たちは無敵と思っていたボスが一方的にやられる姿に呆然としていたが、慌てて銃を構える。

 

 目標は真紅の光を纏う少年。

 

 ゴクリと誰かの喉が鳴った。

 

 ボスの命令に緊張しているのか、それともボスを追い詰めた相手への恐怖か、どちらも正しいだろう。

 

 しかし、それ以上の理由がある。

 

 少年の形貌だ。

 

 鬼のような形相もそうだが、何よりも猛獣の如き眼光と赤い蒸気が原因だ。

 

 奇怪音の根源たる光とは別の意味で全身を赤く染めていた夥しい量の血がジュウジュウと蒸発している。

 

 少年が発する紅蓮の輝きが付着した鮮血を気化させ、まるで紅の蒸気を噴き出しているかのように見えていた。

 

 赤黒い眼光がこちらを射抜き、鮮血に染まった熱気が身体を覆っている。

 

 吐き出される吐息でさえ赤く染まっているように感じる。

 

 それはもう猛獣の括りでは収まらない。魔獣そのものだった。

 

 しかも、雰囲気だけではないことは今しがたボスが一蹴された光景を目の当たりにして重々承知している。

 

 それでも引き金を引くしかないのがテロリストたちの宿命だった。

 

 一番最初に発砲したのはギースの一番近くにいた部下だ。

 

 ボスが発する威圧感に耐えかねて、引き金を引き絞った。

 

 隣に居たもう一人も同様だ。

 

 バババッ、とマズルフラッシュが起こり銃弾がウィズに向けて次々に放たれる。

 

 音速に匹敵する速度で飛ぶ弾丸がウィズに迫る。

 

 狙いは正確だ。武装組織に所属しているだけあって相応の訓練を受けているらしい。

 

 自身に撃ち出された銃弾を視認した瞬間、ウィズはそれを超える速度で動いた。

 

 その場にしゃがみ込み、先の衝撃で罅割れた床の破片をごっそりと掬い取った。

 

 ブゥン、と大きく腕が振るわれる。

 

 この動作の合間に銃弾は半分の距離を埋めている程度だった。

 

 投擲された人の頭ほどもある残骸が空中で弾丸と交差する。

 

 先ほどまでウィズの上半身があった位置を通過し銃弾は後方へと消える。

 

 反対に亜音速に達した投擲物は一直線に銃撃したテロリスト二人を襲った。

 

 近くにいた両者の胸や腕を同時に巻き込み、盛大な炸裂音と肉体が潰れひしゃげる生々しい音が聞こえた。

 

 声を上げる暇もなく、身体中から血を噴き出してロビーの隅まで吹き飛んだ。

 

 ウィズは身体を真横に向き変え、消える。

 

 少年を背後から狙い撃とうとした三人の男たちは突如目標の姿が掻き消えたことに瞠目した。

 

 驚きの声を上げている内に、全く別のテロリストが宙に投げ出される。

 

 消えたように見えるほどの恐るべき速度でウィズが柱の影に移動し、進行方向に居た実行犯の一人を高速移動の衝撃で吹き飛ばしたのだ。

 

 腕や脚を捻じ曲げられて吹き飛んだ男は先ほど少年の拳圧によって降って来た瓦礫を必死で避けていた男だったが、そんなことを覚えている筈もない。

 

 そのまま止まらず駆け、ロビーに設置されていた長いベンチまで辿り着く。

 

 十人分の座席が隣接しているそれを、片手で引っこ抜いた。

 

 ボゴン、と硬く固定されていた筈のベンチを何の抵抗もなく引き抜き、振りかぶる。

 

 鳴り響いた音源へ銃口を素早く向けたつもりだが、この少年に対しては致命的に遅い。

 

 そして、なまじ訓練を受けたが故に横並びに戦列を組んで銃を構えていたことが最大の過ちだ。

 

 あっ、と思った瞬間には長細い影が眼前に飛び込んできていた。

 

 凄まじい衝突音が鳴り響く。

 

 三人まとめて超速で飛来したベンチに押し潰され、全身の骨という骨を砕かれた。

 

 再起不能なのは、改めて確認するまでもないほど明確だ。

 

 それでもウィズは止まらない。

 

 続けざまに動く。

 

 ギロリ、と遠く離れたロビーの入り口を押さえている二人のテロリストを見開かれた両眼が射抜く。

 

 途轍もない覇気に50m以上も離れて立っているにも関わらず二人の男は身を竦めた。

 

 少年は足元に転がる瓦礫から棒状の残骸を見た。

 

 さっき自分で壊した落下防止用の柵の一部だ。

 

 それを足の甲に乗せて蹴り上げる。

 

 肩の少し上辺りまで飛び上がった棒を掴み、槍のように投げる。

 

 一連の動作に一秒と掛かっていない。

 

 音速を遥かに超える速度で放たれたそれを見て避けることなど、その犯人には不可能だった。

 

 肉と血が舞う。

 

 肩口を抉り潰す様に着弾した棒状の残骸は肉と骨をぐちゃぐちゃに砕きながら貫通した。

 

 その勢いのまま地面に突き刺さり、テロリストはロビーに縫い付けられるように押し倒された。

 

 絶叫が喉の奥底から飛び出る。

 

 激痛が身体を支配し、恥も外聞もなく泣き叫んでいる。

 

 残されたもう一人の男がギョッとした表情を浮かべて、仲間の惨状を目の当たりにする。

 

 逃げる。そう決断した時には、既に同じ末路が決定づけられていた。

 

 グシャア! と自分の腕が壁に縫い付けられたのを自覚する間もなく男は悲鳴を上げた。

 

 これでロビーを占拠していた者たちは全滅した。

 

 ギースと言う大男を除いて。

 

 ウィズはギースを蹴り飛ばした方向を見遣る。

 

 そこには壊れた機械だけが残され、男の姿はない。

 

 逃げたのだ。

 

 部下たちがウィズを殺せるわけがないとわかっていたうえで命令し、自分が逃げるほんの僅かな時間を稼がせた。

 

 噛み締められた歯がギシギシと軋みを上げる。

 

 

 逃げた逃げた逃げた逃げた逃げた逃げた逃げた逃げたにげたにげたにげたにげたニゲタニゲタニゲタァアアア――!!!

 

 

 ドス黒い感情が全てを飲み込む。

 

『ガアアアアアアアァアアア!!!』

 

 憎悪の叫びが轟く。

 

『――――ッッッ!』

 

 苛立ちをぶつけるように奴らが残した水晶のアンテナが付いた機械装置を睨む。

 

 そして、思いっきり蹴り抜いた。

 

 少年が生み出す赤の衝撃に耐えられるわけもなく機械は粉々に砕け、折れ曲がり、ただの鉄くずへと変わる。

 

 空中で幾度も回転し高速で蹴り飛ばされていく残骸は、次元港の入り口のドアとガラスを突き破り外まで転がっていった。

 

 そんなスクラップの行く末など露ほども気にせず、ウィズはギースが逃げたと思わしきゲートの奥へと跳んだ。

 

『オオオオオオォォオオオ!!!』

 

 彼の咆哮は獲物を逃がすものかという執念が滲み出ているようにも聞こえ、どこか虚しさを覚える慟哭にも感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ギースは激しく混乱していた。

 

 自分が想定していた展開を根底から揺るがすほどの衝撃的な事態だった。

 

(何だ、何だってんだあの餓鬼は!)

 

 脳裏に焼き付いた人型の赤き魔獣。

 

 最早男の感覚では小柄な子供の姿と認識することすらできなくなっていた。

 

(あり得ねえ、あり得ねえあり得ねえ!! どうして俺様が血を流してる! ()()()()()()()()()()()()!?)

 

 ギースの生物の粋を超えた屈強な身体には裂傷と打撲が痛々しく残っている。

 

 特に蒸発した右耳からとめどなく血が流れ出している。

 

 その負傷が先の眼球のように驚異的な再生力で傷が塞がる様子は全くない。

 

(そもそもだ、そもそもどうして俺様のディバイダ―が通じなかった!? あり得ねえあり得ねえ、あり得ていいはずがねえ!!)

 

 カタカタと震える折れた槍と一体化した左腕。

 

 それは自身の絶対と信じた暴力が通用しなかった故の憤激か。

 

 または自分以上に得体の知れない怪物と相対してしまったことへの恐怖か。

 

 どちらであってもギースにとって認めがたい感情であることに違いはない。

 

(アイツはここで殺す! 何が何でもぶっ殺す!)

 

 散々負傷を負わせられ、挙句逃げ出すなどという選択は自身のプライドが邪魔をしてできない。

 

 それに自分を脅かす存在など最早同類以外にはいないと思い込んでいたがために、降って湧いた脅威を生かしておけるわけがなかった。

 

 今この瞬間、ギースの頭の中に管理局や怨敵である執務官のことは完全に残っていなかった。

 

 残っているのは赤い魔獣の完全抹殺、それのみである。

 

 ロビーの方から激しい振動を感じる。

 

 部下に命令を下したが、一分と持たないことはわかりきっている。

 

 道中、トラップを仕掛けるように爆発弾を設置したが足止めになるかは疑わしい。

 

 そのため全速力でこの場所まで駆け抜けた。

 

 全ては自分をこんな惨めな目に合わせた憎き敵を追い込むため。

 

 そして、来た。

 

 ドゴォン! と通路の奥から爆音と衝撃が伝わってくる。

 

 

 ―――オオオオオォォォ!!!

 

 

 同時に腹の奥底を震わせる怒りの咆哮が届いた。

 

 数秒足らずで咆哮の主はこの場所へと辿り着くだろう。

 

 男は無意識に喉を鳴らしていた。

 

 衝撃はどんどんと近づいてきていて、比例して破壊音も大きくなってくる。

 

 足元を揺らすほどに振動が強くなった瞬間、視界に映る壁が粉砕される。

 

『オオオオオォォオオオッッ!!!』

 

 紅蓮の衝撃が迸る。

 

 粉々になった壁の破片をまき散らしながら赤に染まったウィズが姿を現す。

 

「撃テエエエエェェ!!」

 

 同時にギースが叫ぶように指示を下す。

 

 ギースを中心に広がる十数人もの武装集団が迅速に動き、一斉に各々の武装から火を噴き出した。

 

 放たれるのはギースの細胞を組み込んだ疑似魔導殺しの弾丸。

 

 これにより魔導殺しの力を持たない者も魔力分断の効果を含んだ攻撃が可能となる。

 

 それでも不完全な効果しか出ないが、エース級ならば兎も角一般的な魔導士に相手には驚異的な効果を発揮するのは間違いない。

 

 黒の波紋を宿した弾丸の嵐がウィズを襲う。

 

 弾丸だけではない。ロケットランチャーの如き擲弾を発射し、中には光学兵器にも似たレーザーらしきものまで放射されていた。

 

 凶悪な質量兵器のオンパレードに彼らがかなり力のある犯罪組織であることが窺える。

 

 次々に少年へ被弾する銃火器の猛威。

 

 火薬の炸裂音、甲高い弾丸の反響音、爆撃の炎と爆発音、目を覆うような光線の殺人的な光が溢れる。

 

 ゲートの奥にある待合場の一面が火の海に包まれる。

 

 常人であれば間違いなく文字通り消し炭となる一斉砲火の威力だった。

 

 撃ち込んだテロリストたちも確実に目標を排除したと思い込んでいる。

 

 しかし、ギースは人間離れした眼力で爆炎の中、一歩も動かずに佇むウィズの影を捉えていた。

 

 怪物の両眼に宿る赤黒い光は爛々と輝き、一片の陰りさえ見せない。

 

(クソったれがぁ……だがなぁ、これは耐えられねえだろお! 耐えられるわけがねえんだ!)

 

 内心で自分に言い聞かせるように叫ぶ。

 

 銃弾の嵐が続く中、ギースはすぐ脇に立っていた自分よりも大柄な男を睨むように視線を向けた。

 

 この包囲網を作るよう部下たちに指示した際、この男だけは迎撃せずに自分の傍に立っているよう命じていた。

 

 その男はスキンヘッドの頭部が特徴的な自分の副官的な存在であったが、躊躇なく凶行に及んだ。

 

 寒気を感じたように男が慌ててこちらへ振り向いてきたが、もう遅い。

 

 ドスリ、とスキンヘッドの男の腰へ左腕を突き刺す。

 

 半ばから折れているとはいえ、先端は鋭利に尖っている。人間を刺す程度なら何の問題もなかった。

 

「ぐぎぇ! ぼ、ボスぅ……」

 

 彼は深々と突き刺さった槍を信じられない様子で目を見開きながら見ると、苦痛の声を漏らしながらギースを呼んだ。

 

 部下の戸惑いと悲痛さが綯い交ぜになった顔を見ても、ギースは何ら情を抱いた様子もなく無情に告げた。

 

「テメエらは俺様のお蔭でここまでデカくなれたンダ。俺様が武器を用意し、居場所を作り、何より安心を与えてやっタ――なら、俺様のために死ぬのは当たり前だよナァ?」

 

 グルグルと渦巻くドス黒い狂気が瞳に宿っている。

 

 それを直視したスキンヘッドの男が悲鳴を上げるよりも前に、顔面がぼごりと膨張した。

 

 顔に限らず、腕が、脚が、腹が、背中が、全身がブクブクと歪に盛り上がり人間の形を大きく崩していった。

 

 眼球は釣り上げられた深海魚のように膨れ上がり、肌が鬱血したように紫色に染まる。

 

「ぼ、ぼぼぼぼぼっぽ」

 

 血の泡を吹き出す男の衝撃的な変容に傍に居たテロリストの一人が狼狽するように瞠目していた。

 

 ギースは部下の動揺にも目もくれずに必死に貫いた箇所からエネルギーを注入し続ける。

 

 ドクンドクン、と脈打つように槍の一部分が赤く明滅しポンプのようにウィルスが流し込まれている。

 

 本来であれば、この凄惨な状態に変質するのはあの少年だった。その筈だった。

 

 一度ギースの槍に刺されれば、人間爆弾化ウィルスの注入を防ぐ手立てはない。

 

 だが、結果は知っての通り失敗に終わった。

 

 まるでウィルス自体が少年の身体に入るのを拒否してるかのように一片たりとも流し込むことはできなかった。

 

 あり得ぬことだ。

 

 少年が紅蓮の魔獣へと変わってからそんなことばかりだ。

 

 しかし、それもこれで最後だとギースは口角を上げた。

 

 臨界点ギリギリまで溜めた人間爆弾が完成した。

 

「死にさらセエエエエ!!」

 

 肥大化した頭部だった部位を鷲掴みにして、ギースは腕力にモノを言わせて放り投げた。

 

 ウィズが降り注ぐ銃弾を無視して飛び出そうとする寸前だった。

 

 弾丸並の速度で飛んできた大の字に広がる異形の影を視認した瞬間。

 

 

 大爆発が引き起こされる。

 

 

 肉が一気に膨張し、血液は火炎となり、臓物は特大の火薬となり、骨は破片手榴弾のように広範囲にばら撒かれた。

 

 血肉に塗りつぶされた赤黒い爆炎と爆風がウィズを飲み込む。

 

 凄まじい衝撃が爆撃の外にいた者たちにも届く。

 

 地形を変えてしまう程の破壊力を秘めた爆発は次元港全体を揺るがすかのように空気を震わせた。

 

 これには訓練を施された武装組織のメンバーたちでも銃を構えることなどできない。

 

 ギースが完全にコントロールしている爆発のため、爆風は全て少年の方向へ向けて吹き荒れている。

 

 それでも衝撃の大きさが大きさのため、その場に伏せて爆発をやり過ごす。

 

 暫くすると爆発も収まり、爆煙が晴れていく。

 

 一面を焦土へと変え、床や天井、壁などは諸共に消し飛ばされている。

 

「フハッ、ハハ、グハハハハ!!」

 

 ギースから思わず笑いが零れる。

 

 この規模の爆発をまともに受けて無事でいられる筈がない。あの餓鬼はくたばったのだ。消し飛んで灰すら残っていない。

 

 そう確信したが故の笑みだった。

 

「グアッハハハハ――――」

 

 

 ザンッ、と砕けた床を踏みしめる音がする。

 

 

 ギースの笑みが凍り付く。

 

 次の瞬間、粉塵を掻き分けて紅蓮の輝きを宿した化け物が姿を見せる。

 

 憤怒に染まった少年が真っ直ぐに眼光を抉り込んでくる。

 

 頬などに煤らしきものを付けている程度でほぼ無傷の様子だった。

 

「――――――――!!!!」

 

 ギースは溢れ出ようとする絶叫を抑えて、近くに居た仲間の頭を引っ掴む。

 

「撃テェ! 撃ちまくレエェェェ!」

 

 動揺を隠し切れない震え声で棒立ち状態の部下たちに大声で命令する。

 

 組織内で絶大に畏怖されているボスからの命令でさえ反応できたのは半数にも満たない。

 

 それほどまでにウィズの生存、そして尋常ならざる異風に戦慄を覚えているのだ。

 

 わかっていても部下の叱責などしている暇はない。

 

 頭を掴んだ部下の脇腹にまたしても左腕の槍を突き刺した。

 

「ぎゃっ!」

 

 悲鳴など無視して人間爆弾を再び生み出そうとする。

 

 もうギースに残された攻撃手段はこれしかない。縋り付くしかない。

 

 これが抱いてしまった恐怖を紛らわせるための自衛行動であることに本人は気づくわけもなかった。

 

 部下の左半身が膨れ始める。

 

 その時、ウィズが鋭く息を吸った。

 

 

 

『グオオオオオオオオォォォオオオオオ!!!!!』

 

 

 

 化生の咆哮が解き放たれる。

 

 この場に居る全員を芯から硬直させ竦み上がらせる威圧的な怒声だった。

 

 しかも、ただ強烈に吼えただけではない。

 

 咆哮と共に紅蓮の波動が飛んだ。

 

 咆哮の衝撃が色づいたかのようなその波動は放射状に一気に広がり、一面を埋め尽くす。

 

 誰も反応することはできなかった。

 

 紅蓮の波動に触れた最初のテロリストが、吹き飛ぶ。

 

 次々に人が枯葉のように舞い上がり、壁や天井に激突し、床を転がり、血反吐を吐いて倒れた。

 

 腕や脚がへし折れた人も多く、武装は総じて拉げ壊れ、波動の凄まじさを物語っている。

 

 そんな中、意識を保てたのはギースのみだった。

 

「グアァ、馬鹿ナ……こんな、こんなことガ……」

 

 無様に床を転がり、呻くように独り言を呟く表情は屈辱を超えて呆然としていた。

 

 咆哮の波動に成すすべもなかったこともそうだが、それ以上の衝撃があった。

 

 ギースの目の前には先ほど脇腹を刺して人間爆弾に変えようとしていた部下の姿がある。

 

 ぐったりと崩れ落ちて意識を失っている部下は左半身を中心に膨れ上がっていた。

 

 その腫れが見る見るうちに引いていっているではないか。

 

 こんなことはあり得ない。

 

 たった一欠片でもウィルスを体内に打ち込まれれば、内部で無限に増殖して爆弾へと変わっていく。

 

 ギースの意思で進行を遅くすることはできるが、完全に止めることもましてや除去することなど絶対にできない。

 

 誰にも解毒できない爆弾毒を乗客たちに投与し、ミッドチルダの次元港で大爆発を連鎖的に引き起こす。

 

 それが当初の計画であり、JS事件以上のテロ事件として管理局に自分たちの脅威を植え付けさせることが目的だった。

 

 だが、治まる筈のない爆弾化が鎮静していっている。

 

 起こり得る筈のない事象だった。

 

 一体何がどうなっているのか。

 

 非現実的にすら思える驚愕の連続で最早ギースにまともな思考能力は残されていなかった。

 

「あり得ネェ、あり得ネェあり得ネェあり得――ッ」

 

 目を泳がせ壊れた機械のように同じ言葉を繰り返していたが、突如悪寒が走る。

 

 今は、そんな現実逃避をしている暇ではないのだ。

 

 反射的に視線を向ければ、既に右腕を引き絞り莫大な力を纏わせた赤き怪物が見下ろしていた。

 

 憎悪と憤怒に染まり、殺意を滲ませ血走った両眼が見開かれている。

 

「ウガアアアア!!!」

 

『オオオオオオ!!!』

 

 ギースはがむしゃらに腕を上げ、ウィズは一心不乱に殴り抜いた。

 

 炸裂する紅蓮の拳が瞬きの拮抗を経て槍と一体化した左腕を押し潰す。

 

 肉と骨と武具が潰れ、ぐちゃぐちゃの肉塊に変わる。

 

「うごアアアァァァ!!」

 

 紅拳の威力はそれだけに留まらず、左腕のガードを突き抜けてギースの顔面を抉り抜く。

 

 途轍もなく重く、途方もない衝撃が頬から脳へ、そして全身へと駆け抜ける。

 

 視界が暗転する。

 

 身体に鈍い衝撃が幾度も走る。

 

 痛覚を通り越して業火の如き熱が顔面を焼く。

 

 視界が戻ると激しく転回している。

 

 そして、背中から壁を突き破る感触が鈍痛となって伝わってくる。

 

 謎の浮遊感と推力に支配され、身動き一つとれない。

 

 時間にして数秒のことであったのだが、ギースの体感では随分と長い間飛ばされているように感じていた。

 

 まるで地獄へと引き摺り込まれる恐ろしい感覚を味わうこととなった。

 

 ようやく勢いが治まり地面へと身体が触れると、受け身を取ることすら敵わず頭から落ちて転がる。

 

「ごぼぉ……ぉぉ、ぐぉぉ……っ」

 

 ゴロゴロと何度も身体を回転させ、最後にはうつ伏せの態勢で地面に倒れ伏した。

 

 顎を砕かれた口元からは血の泡が零れ、原型を留めていない左腕からは夥しい鮮血が溢れ出ている。

 

 まともに声を発することすらできず、ただただ呻き声を上げて身体を痙攣させる。

 

 全身は泥が纏わりついたかのように鈍く、頭痛と吐き気が絶え間なく湧き出て、意識は半分飛んでいる。

 

 これまでの人生で味わったことのない最悪の気分だった。

 

 それでもギースは這いずるように残った右腕を動かして、重たい身体を運ぶ。

 

「に、にげぇ……にげ、にげる……」

 

 もう残ったプライドも粉々にへし折られていた。

 

 恥も外聞もなく一刻も早くあの怪物から逃げたい。距離を取りたい一心で腕を動かす。

 

 ズルリズルリ、と身体を引き摺って少しでもこの場から遠ざかろうとする。

 

 呼吸すらままならず、両脚は鉛になったかのように動かず、全身がバラバラになりそうな激痛に苛まれる状態でも腕を伸ばす。

 

 そもそも一体ここが何処なのか、どこまで殴り飛ばされたのか。全く見当も付かない。

 

 自分が今どこに向かっているのかも理解していない。

 

 ただ、あの恐ろしい悪魔から逃げたかった。

 

「ヒュー、ヒュー……く、そがぁ……くそ――ハッ」

 

 芋虫のように情けなく地を這いずる最中、膨大な威圧が周囲を飲み込む。

 

 息を呑み、震え慄く身体を自覚することもなく恐る恐る背後を振り向いた。

 

 ――いない。

 

 近づいては来ているようだがまだ辿り着いてはいないようだった。

 

 安堵の息を漏らす寸前。

 

 ドゴンッ!

 

 部屋の奥、ギースが飛んできた際に空けた大穴の縁に真紅の手がめり込む。

 

『フゥゥゥゥ――』

 

 真っ赤な吐息を吐き出し、全身から紅の閃光が溢れ、獣の如き眼光で持って射抜いてくる。

 

「あ……ぁぁ……ぁぁぁあ」

 

 代わりに絶望に戦慄き震える声が漏れる。

 

 ウィズが目にも止まらぬ速度で飛びかかる。

 

「うああああああああ!!!!」

 

 今度こそ抑えきれない絶叫が喉の奥底から溢れ出す。

 

 爪が剥げるのも構わず、奥へ奥へと這いずろうと動く。

 

 だが、もう逃げられない。

 

『ジェアアアアアア!!!』

 

「ぶごぼっ!?」

 

 腹部に強烈な蹴り上げが叩き込まれる。

 

 ゴボリ、と口から大量の血液が噴き出す。

 

 空中でひっくり返るように態勢が半回転し、正面から変貌した少年の猛り狂った鬼の形相を見ることとなった。

 

 正に悪鬼羅刹と呼ぶにふさわしい面貌ではないか。

 

 こんなものに手を出してしまったことがそもそもの間違いだった。

 

 後悔、という念が形成される前にウィズの両腕が閃いた。

 

 

 破滅の赤が星のように視界を埋め尽くす。

 

 

 それがギースの見た最後の光景だった。

 

『オオオオオォォォオオオオオオッッ!!!』

 

 ――ヴァリヴァリヴァリヴァリヴァリ!!!

 

 嘗てないほどに両拳が真紅に輝き、意識を揺るがす奇怪な破砕音を轟かせる。

 

 放たれる無数の赤拳。

 

 大男の全身を打撃の嵐が容赦なく打ち付けられる。

 

 顔面が歪み、胸板が潰れ、手足が捻じ曲がり、拳の連打によって身体中が陥没する。

 

 それは男の存在そのものを滅却せんとする破壊の意志が込められた圧倒的な暴力だった。

 

『オアアアアァァッッ!!!』

 

 とどめの右拳が振り抜かれる。

 

 側頭部を抉り、赤の衝撃波が荒れ狂い、凄まじい破壊力を生み出した。

 

 轟音を響かせギースは全身から血と肉を噴き出して吹き飛んだ。

 

 ドガシャァアン! と豪快に棚をなぎ倒し倒壊させて部屋の奥へと消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「がはっ! がぁぁ……はっ、はっ、はっ……」

 

 ウィズの口から大量の血液が吐き出される。

 

 吐血と同時に真紅の輝きがフッと消え去った。

 

 残ったのはボロボロの状態で今にも崩れ落ちそうな死に体の少年だった。

 

 元々瀕死に近い容体であり、謎の光を原動力にして無理矢理動かしていたのだ。

 

 それが切れてしまえば元の、いやもっと酷い状態に陥るのはわかりきっていた。

 

 ふらつく身体を支えるため、近くにあった棚らしき設置物に手を置いた。

 

 身体中に激痛が駆け巡り、体内に焼き鏝を押し付けられたかのような超高熱が沸き上がる。

 

 必死に呼吸を整えようとするが、肺が正常に機能しない。

 

 頭の中がドロドロに溶けてしまいそうな不快感が襲い、視界が赤と黒に明滅する。

 

 今にも意識がぶっ飛びそうだった。

 

 それでもウィズは歯を食いしばって前を向いた。

 

 奴は生きているのか。生きているのならば――コロス!

 

 偏に激しい憎悪による漆黒の意思があるからだ。

 

 真紅の光が消えてもそれだけは薄れない。

 

 父が、母が、倒れた瞬間を思い出すだけで胸の奥からドロドロと黒い感情が溢れてくる。

 

 血反吐で汚れた口元を拭うことさえせずに前に一歩踏み出す。

 

 ウィズの手が置かれていた棚の一部はべっとりと血で濡れていた。

 

 どれほどの握力で拳を握り込めばそうなるのか、掌に指が喰い込み抉れ血に染まっていた。

 

 掌だけではない、手の甲も皮膚が剥がれ肉が裂け、白い骨が覗いている。

 

 ボタボタと血が滴るのも気にせず、ウィズは奥へと進む。

 

 一歩一歩踏み締めるごとに身体の中で何かが擦り減っていく気がする。

 

「ごほ、がふっ」

 

 咳き込むように血を吐き出し、左右によろけながらも歩みを止めない。

 

 絶対に許さない――。

 

 その一念のみで脚を動かす。

 

 ここは次元港の格納庫だったのか無数の棚と機械などが陳列している。

 

 なぎ倒された棚と散乱する機械類に脚を取られながらも進み、見つけた。

 

 格納庫の壁際まで吹き飛んだらしく、壁に凭れかかるように一人の男が倒れている。

 

 全身が血みどろになり、ズタズタになった手足や潰れた胴体などを見ればおよそ生存しているとは思えない。

 

 だが、ピクピクと指や脚が痙攣気味に動いた。

 

 それだけでなく口らしき箇所から赤黒い血液が吐かれ、身体のあちこちからも血が噴き出ている。

 

 まだ、生きている。

 

 ならば。

 

 

 殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺すころすころすころすころすコロスコロスコロォオス――ッ!!

 

 

 ウィズは狂ったように湧き上がる殺意に身を任せる。

 

 軋む身体を無理矢理動かして、ギースの身体を跨ぐように見下ろした。

 

「――――ラァッ!」

 

 そして、何ら躊躇なく拳を振り下ろした。

 

 ぐしゃり、と相手の顔が歪む。

 

 衝突と同時に鮮血が舞う。

 

 それは一体どちらの血だったのか。

 

 殴られた相手のものか、殴った自分のものなのか。

 

 わからない。もう痛覚は機能していないし、状況を正確に判断する思考能力も落ち切っている。

 

 ただひたすら、憎悪に身を委ねて目の前の怨敵を抹殺するだけだ。

 

「――フッ!」

 

 続けざま、面影一つない歪み切った顔面に左腕を叩き込む。

 

 掌の傷に指が深々と喰い込む筈だが、ウィズの表情が痛みで歪むことはない。

 

 既に彼の相貌は別の感情で歪み切っている。

 

 めしゃり、と生々しい音が耳に届く。

 

 べっとりと血が付着するが、やはりどちらの血かはわからない。

 

 手の甲から赤い体液が流れ、骨が肉を突き破ってくる。

 

 男の肉体はこんな状態になっても一定の硬度を保っている。

 

 生身の拳で殴り続けるのは得策ではない。

 

 それでも、ウィズは止まらない。止められない。

 

 なけなしの魔力で拳を包む。

 

 淡く輝く両拳は先ほどまでの威圧感を微塵も感じさせない。

 

 消えかけの蝋燭のように儚い光だった。

 

「ああぁっ!」

 

 ウィズは構わず拳を打ち付ける。

 

 何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も――!

 

 十や二十といった数を遥かに超え、数え切れない程の拳撃を浴びせかける。

 

 肉が裂け、骨が砕け、その奥にある何かが潰れる感触が伝わってくる。

 

 構わず振り下ろす。

 

 その度に身体が悲鳴を上げる。固定した左腕が再び折れ曲がる。踏ん張る左脚が捻じ曲がる。

 

 血液が沸騰しているかのように熱い。骨格が軋みを上げ、臓物がぐちゃぐちゃに掻き混ぜられているような気持ち悪さを感じる。

 

 構わず殴る。

 

 折れた左腕で殴る。

 

 骨がむき出しになった右手で殴る。

 

 血塗れの拳で殴る。

 

 殴る殴る殴る殴る殴る殴る。

 

 血反吐を吐きながら殴る。

 

 

 

 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ねしねしねシネシネシネシネシネ――――!!

 

 

 

 顔を歪ませながら、殴る。

 

 最早魔力の光すら灯らないボロボロの拳で殴る。

 

「あぁああああぁぁぁぁ!」

 

 もう相手の生死すら目に入らない。

 

 もう自分ではこの感情の激流を止められない。

 

 半狂乱になりながらウィズは骨折した腕をギシギシとひどく緩慢な動きで振りかぶる。

 

 身体は限界を超えている。でも、上げた拳は叩きつけるしかない。

 

 ウィズは更に骨が突き破るのも気にせずに振り下ろす。

 

 

 その時。

 

 

 左手首が何かに掴まれた。

 

 

 白い手だ。

 

 

 細く白くしなやかな指が左手を押さえている。

 

 ウィズは一瞬、呆けたように自分の左手とその手を見つめる。

 

 手首を掴むというよりも、柔らかく支えるように包んでいるが今の少年にそんなことはどうでもいい。

 

 自分の攻撃を邪魔する存在。それは、敵だ。

 

 敵は、誰であっても排除しなければならない――!

 

「がああぁぁッッ!!」

 

 瀕死の重傷を負っているとは思えない恐るべき速度で振り返る。

 

 そのまま握り締めた右拳を叩きつけ――――。

 

 

 視界に、きめ細やかな金色が揺れる。

 

 

 その金色が、母の金髪と重なった。

 

「――――――――――」

 

 声が出ない。

 

 その金色は母の色ではない。

 

 母の金髪はもっと淡い色をしている。

 

 だが、この金はもっと濃い色でそれでいて透き通っている。

 

 そもそも母の髪は肩口で切り揃えられ短めだ。反対に視界に映る美しい髪はかなり長い。

 

 別人だ。それ以前に母の意識が戻ったからといってこんなところまで来れる筈がない。

 

 全くの別人だ。

 

 なのに、ウィズの心にあった激情はすぅ、と引いていく。

 

 優しい母を思い出したからだろうか。

 

 それとも、今目の前にいる人物の瞳が慈愛に溢れているからだろうか。

 

 宝石のような紅い瞳。

 

 女神のように整った美貌を綻ばせ、彼女は穏やかに告げた。

 

 

「もう……大丈夫だよ」

 

 

 何が大丈夫なのだろうか。

 

 一体彼女は何者なのだろうか。

 

 納得できることなど何一つとしてない。

 

 それなのに、ウィズは不思議とその言葉に安心感を覚えた。

 

 気を張り続けた少年の心が溶かされる。

 

 胸の奥にある何かに蓋でもされたかのようにドロドロとした感情が止まる。

 

 ウィズの意識をそこで途絶えた。

 

 微かに覚えているのは倒れ込む自分を抱きかかえて心配そうに声を掛けている女性の面差しだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――――というのが事の顛末だ」

 

 ホテルアルピーノの一室でウィズは自分の身の上話を語り終えた。

 

 3年前に起こったある世界でのテロ事件。その被害者である当人の口から語られた話は少しばかり凄惨だった。

 

 しかし、そこまで詳細を語ったわけではない。

 

 大体のあらましやウィズが感じた主観的な感情を主に話していた。

 

 特に父親のヨハンが刺されてからはウィズ自身も記憶が曖昧なのだ。

 

 はっきり覚えているのは金色の彼女との邂逅くらいだ。

 

「………………」

 

 話を聞いていた少女たちは一様に口を閉ざしている。

 

 ウィズが語り始めた時は、真剣な面持ちで耳を傾けていた小さな少女たちは表情が豊かだった。

 

 フォルシオン家の一幕の時はにっこりと微笑んでいたり、ウィズが赤ん坊を庇うために立ち上がったときは瞳をキラキラと輝かせていた。

 

 反対に彼が大怪我を負って倒されたり、母や父が傷つけられた時は我が事のように悲しそうに顔を歪ませていた。

 

 彼女たちがあまりにも素直な反応を返してくれたお蔭でウィズも思わず饒舌に話を進めていた。

 

 そして、気づけばベッドに沈んでいた碧銀の少女も身を起こし、黙って話を聞きこちらを見つめてきていた。

 

 あのなのはも珍しく真顔でウィズの語りを聞いていたのだ。

 

 話の最中に何かしら突っ込んでくるだろうと思っていたために少し拍子抜けだった。

 

 長いようで短い過去話が終わり、ウィズは周囲の反応をそれとなく窺った。

 

(何か……重くねえか?)

 

 内容が内容のため決して和やかになるような話ではないが、ここまで重苦しい空気になるだろうか。

 

 特に顕著なのはヴィヴィオとリオとコロナのいつもの三人娘である。

 

 暗い表情で目線を下げてしょんぼりしている。

 

(そんな悲観するような結末だったか? 血生臭い話だったがそこまで悲しそうにするかね?)

 

 どうにも釈然としない気持ちだったが、ウィズは考えを改めた。

 

(いや、寧ろ好都合かもしれん。当初の目的を考えればこの空気を崩さずに押し切るか)

 

 身の上話をわざわざこの場でしたのもある目的があってのことだった。

 

 ウィズは今の空気感を利用してそれを遂げようと動き出した。

 

「……えっと」

 

「これでわかっただろ?」

 

「え?」

 

 ヴィヴィオの言葉を遮るようにして少年が半ば一方的に告げた。

 

 無論、ウィズは金髪の少女が何かを喋ろうと口を開き始めたことはわかっていた。

 

 申し訳ないとは思うが、ここは強引にでも自分の話を押し進めることが重要だった。

 

 困惑する少女を見つめながら、ウィズは再度口を開く。

 

「俺の本性だよ」

 

「ウィズさんの、本性、ですか?」

 

 ウィズのこれまでにない物々しい口調にヴィヴィオが不安そうに眉を顰める。

 

 掴みは上々だと内心でほくそ笑みながら、少年は気落ちした表情を浮かべて言葉を続ける。

 

「そうだ、もしかしたらテロリストに立ち向かった行為を勇敢だとか正義感が強いとか思ったかもしれないが、それは違う」

 

 ヴィヴィオだけでなくリオとコロナも固唾を飲んでウィズの言葉に耳を寄せる。

 

 十分に注目を集めたタイミングを見計らって再び口を開く。

 

「あれは暴力で全て解決しようという野蛮な行為そのものだ。俺は相手を捩じ伏せて自分の思い通りに事を進める暴力的な考えしか持ち合わせていないのさ」

 

「それは」

 

「それは違うと言いたいのかもしれないが、決定的なのは父を傷つけられ犯人を一時的に撤退まで追い込んだ後のことだ」

 

 ウィズ自身意識が混濁していたためその時のことは碌に覚えていない。

 

 しかし、曖昧な意識であったからこそその人間の本質的な行動を現しているとも言える。

 

「あの時、俺は犯人を追った。倒れた父にも、そして傷ついた母にも目もくれず、俺はただただこの拳で相手を叩きのめすことしか考えていなかった」

 

 自分の拳を見つめて、如何にもその時の選択を憂いているかのように沈んだ低い声で告げる。

 

「感情に呑まれ親すら見捨てる冷血さ、しかもキレたら何をするかわからない爆弾みたいな危険人物でもある」

 

 自嘲的な笑みを浮かべながらも、どこか威圧するように周囲を鋭い目で見渡す。

 

「力を振るうことを厭わず、何の躊躇もなく人を傷つけながらも平然と生きている冷酷な無頼漢」

 

 拳をギュッと握り締めて、誰かが口を開く暇を与えないよう言葉を途切れさせない。

 

「それが俺だ。ウィズ・フォルシオンの本性であり本質だ」

 

 ウィズは一切の迷いなくそれが自らの本質だと断じた。

 

 彼の決然とした口調に少女たちが息を呑む気配を感じる。

 

 彼女たちが見せる驚きの表情を確認した上で、畳み掛けるように口を開く。

 

「いいか? 俺自身何時、何がきっかけでぶちキレてどんな蛮行をするかわからん。そういう直情的な人間なんだ」

 

「…………」

 

「この話を吟味して、俺との今後の付き合いはよく考えるんだな」

 

 暗にこれ以上自分に近づかない方がいいという意味を込めていた。

 

 沈黙し愛らしい顔を俯かせたヴィヴィオたちを見遣りながらウィズは内心でガッツポーズした。

 

(ちと大袈裟過ぎたが、ビビらせて距離を離す作戦は概ね成功したと見ていいか?)

 

 ウィズがわざわざこのタイミングで自身の過去話をした理由がそれだった。

 

 この合宿で予想外に親しくなり始めていた少女たちとこれ以上交流を深めないようにブレーキを掛けるためだ。

 

 少年の目標はただ一つ。宿敵へのリベンジだ。

 

 それを成す為に障害となる可能性があることは阻止しなければならない。

 

 例えば、練習熱心で向上心溢れる美少女たちにアドバイスを求められたり。

 

 例えば、戦闘欲が凄まじい美少女に何度も何度も試合を申し込まれたり。

 

 そうしたことで自分の時間を削ることになるのは避けたいという利己的な目的から考えたのが、自分が暴走した事件の話をして少女たちを怖がらせる作戦だった。

 

 正直に言ってウィズは自分が短気であることを自覚しているが、時限爆弾並みに危険だとは思っていない。

 

(そもそも、こんな小さい女の子相手にキレるかっつの)

 

 以前、碧銀の少女相手に盛大に逆切れしたことは彼の中ではキレた内に入らないらしかった。

 

(それに父さんがぶっ刺された時も医療知識皆無な俺が残って碌な対処ができるかよ。それよりもあの野郎を放置する方が何倍も危険だった筈だ)

 

 ウィズという男は過去の後悔を引き摺らない。

 

 それに、あの時負傷した父親を見捨てた形になったが、凶悪犯を打破したことに関しては些かも悔いはない。

 

 まあ結果論だがな、とウィズは自嘲気味に心の中で吐露した。

 

「――――――です」

 

「ん?」

 

 少しばかり思考に耽っていたウィズは微かに耳に届いた声に反応する。

 

 顔を上げると金髪の少女がフルフルと身体を震わせて、膝の上で小さな拳を握り込んでいた。

 

 そして、徐に俯かせていた顔を正面に向けて、パッチリとした瞳を若干潤ませながらもはっきりこちらを射抜いた。

 

「そんなことないです!!」

 

「…………え?」

 

「ウィズさんはそんな人じゃないです!!」

 

 幼い少女が発する並々ならぬ気迫に押され、ウィズは目を瞬かせる。

 

 思わず呆けるウィズを真っ直ぐに見つめながらヴィヴィオは身を乗り出して声を張った。

 

「ウィズさんは冷たい人なんかじゃありません! 優しくていい人です!」

 

 予想以上に食いつきを示した少女の姿と口にした台詞に瞠目していたウィズだったが、困惑を押し殺して反論した。

 

「…………優しくていい人が、喧嘩なんかするか?」

 

「します! 私やなのはママだってたまに喧嘩しますし!」

 

「いや、そんな微笑ましい意味の喧嘩じゃなくてだな……」

 

「優しいからこそ譲れない思いがあるんです! ウィズさんはお母さんやお父さんが傷つけられたから怒ったんですよね? それはご両親を何よりも大切に想っていたからじゃないですか!?」

 

「……だからといって、キレて見境なく人を傷つける奴には変わりない。それに俺はそのことを全く負い目に感じていない。これが冷血でなくて何だと言うんだ」

 

 両親を想う気持ちは否定しなかったものの、人を殴って罪悪感一つ抱かないのは事実だった。

 

 ヴィヴィオの必死な反駁にも一切引くことはなかった。

 

 ジッと瞳と瞳を合わせてくる彼女の姿勢に始めは驚いたが、今は冷静に見つめ返す。

 

(それにしてもこの、こっちの目を絶対に放さないと言わんばかりに見つめ返してくるところは母親そっくりだな)

 

 思わぬところで育ての親と酷似した特徴を発見してしまった。

 

 それにしても、どうして大きな瞳がうるうると潤んでいるのかが疑問だった。

 

 何が彼女の感情をそこまで揺さぶっているのか。

 

「見境なくなんてないです。だってウィズさんが戦ったのはテロリストの人たちだけなんですよね?」

 

「そのつもりだが、あの時の俺は正気が吹き飛んでいたからな。一般人も巻き込んでいるかも――」

 

「少なくともウィズくんが人質の方々に怪我を負わせたって記録も証言もなかった筈だよ?」

 

「…………」

 

 今まで黙っていたなのはがこのタイミングで口を開いた。

 

 無言でウィズは不満なオーラを醸し出すが、彼女にとってそれは何の威圧にもならない。

 

 寧ろ癒しすら感じるものだったが、それ以上は何も言わずに口を閉ざした。

 

 この場は愛娘の主張を優先させたいという親心からなのかは、ウィズにはわからなかった。

 

「……やっぱりウィズさんは優しい人です」

 

「何故そうなる」

 

「だって、意識してなくても無関係の人たちを傷つけないように動いているってことじゃないですか。本当に見境がなかったらそんな風には動かないですよ」

 

 内心で舌打ちをしながら、ウィズは半ば意地なって言葉を返す。

 

「偶々だ、ただの偶然だ。そもそも親を想っているなら見捨てて犯人を深追いするわけないだろ。親を介抱する以上に犯人を追い詰めることを優先した奴がいい人なわけがない」

 

「それは……多分ウィズさんは治癒魔法は使えないですよね?」

 

「……ああ、使えないな」

 

 今も昔も治癒の類の魔法は使えない。詳しく調べたわけではないが、適正もないか低いだろうという妙な確信があった。

 

 どうしてそんなことを確認したのか聞く前にヴィヴィオは続ける。

 

「医学を修めているわけでも……」

 

「……勉強は苦手だ」

 

「でしたらウィズさんはご両親を守るために自分にできる最善を尽くしたんです。けが人を下手に動かすことは危険な場合もありますし、医療方面の知識が無ければ尚更ですよ」

 

「…………」

 

 その意見は奇しくも先ほどウィズが考えていた自論と全く一緒だった。

 

「ウィズさんはこれ以上ご両親や他の誰かが傷つかないように戦ったんだと思います」

 

「生憎とそんな殊勝な精神は持ち合わせてないな。俺はただただぶっ飛ばしたいとしか考えていなかった」

 

 記憶は曖昧だが、怒りに飲まれていたことは何となく覚えている。だから断言した。

 

「それでも私はそう思うんです。まだ知り合ったばかりですけど、ウィズさんは無闇に人を傷つけたりしない優しい人だと感じるから」

 

(何故そこまで高評価なんだ……)

 

 金髪の少女が自分で言ったようにまだまだ知り合ってから間もない間柄だ。

 

 お互いの性格や気質などを理解するには色々と不足していることが多い気がする。

 

(だがまあ、俺もこの子たちが実はとんでもない不良なんですって言ってきても、それはないと断言できるな……いや、それとこれとはなぁ)

 

 片や礼儀作法が行き届き名門学校に通うお嬢様たち、片や見た目も中身も粗野で武骨な底辺学校に通う男、比べることすらおこがましい。

 

 なのに少女はそんなウィズへある程度の信頼を寄せているようだった。正直に言えば疑問しかない。

 

 だが、ウィズの中にはこのままだと計画が失敗するどころか真逆の結果になるのではないかと危惧した。

 

 どうにかしてヴィヴィオの中の自分を壊そうと口を開こうとしたが、それよりも前に別の少女が語り掛けてきた。

 

「私もウィズさんは思慮深くて親切な方だと思います。今朝も色々と気遣っていただけましたし」

 

(今朝って柔軟手伝ってもらったことか? いやその後少し魔法を見て感想を言ったりしたからそのことか? どっちにしろあれくらいで思慮深いとか思うか!?)

 

 ヴィヴィオの背後から顔を出したコロナの友人に共感するような言葉は大袈裟に過ぎると感じた。

 

「いや――」

 

「はいはーい! 私もウィズさんは怖い人じゃないと思いまーす! とっても強くて頼もしい人です!」

 

 二つのおさげを揺らす少女の勘違いを正そうとしたが、その前に元気っ娘のリオが手を高く挙げて追従してきた。

 

 ヴィヴィオの肩から顔を出したコロナの逆側からひょこっと顔を出してにこやかに告げた。

 

 ちらりと覗く八重歯に愛らしさを感じるが今はそれどころではない。

 

「待っ――」

 

「私も一言言わせていただくのであれば」

 

 悉くウィズの反論は許されなかった。

 

 続いてリオとは対照的に静かに手を挙げたアインハルトが少年の方に顔を向けた。

 

 青と紫の美しい瞳が彼の顔を見つめ、咎めるように僅かに細められる。

 

「人を傷つけることに躊躇がないと言っていましたが、先日私と一戦交えた時は随分と躊躇われていたように思うのですが」

 

「……喧嘩と模擬戦は違うだろうが」

 

 あの厳つい凶悪犯な大男と一見すると清楚な美少女然としているお前を一緒にできるかと内心で叫んでいたが、言葉にすることはできない。

 

 憮然とした顔で呟かれたウィズの言葉には力がなかった。

 

 反射的に言い返しただけの言葉に少女たちの意見を変えるような強い思いなど到底宿るわけもなかった。

 

 それでも何かを言わなければならないのだが、考えている内に再びヴィヴィオが口を開く。

 

「ウィズさんは戦うことしかできないって言いましたけど」

 

 紅と翠の瞳が力強い輝きを宿して真っ直ぐにこちらを射抜いてくる。

 

「きっとそれで助かった人たちもいると思うんです」

 

 ウィズはグッと言葉を飲み込む。その台詞に強い既視感を感じざるを得なかったからだ。

 

「だから、あまり自分を責めないでください」

 

「――――――」

 

 穏やかな笑みを浮かべる金髪の少女を見て、少年は息を呑む。

 

(…………なるほど、やっぱりこの子はあの人の娘でもあるわけか)

 

 こちらを案じるヴィヴィオの姿に最早何かを言い繕う気すら起こらなくなってしまった。

 

(そもそもそこまで真剣に捉えなくてもよかったんだよ。どうしてこんな大事になってんだ)

 

 少女たちの思い遣りの深さを甘くみていたウィズは元々即興で思いついた拙い計画の失敗を悟る。

 

 一度深く息を吐くと、腕を組んで座っていたソファにもっと深く座り直した。

 

「もういい、そう思いたいんなら勝手にしろ」

 

 自分から振った話でありながら投げやりな台詞を吐いてそっぽを向いた。

 

 それが少しの苛立ちと多分な羞恥から出た行動であると察した少女たちはくすりと笑う。

 

「はい。勝手にします」

 

 朗らかな顔でそう返されて、少年の顔はより渋く歪む。

 

 その時、横から向けられる視線を感じてそちらに目をやれば、微笑ましいものを見る目でにこやかに笑うなのはの姿があった。

 

 何見てんだ、と唸り声が聞こえてくるような鋭い視線で睨むが効果はない。

 

 にこにこと笑いながら何故か腕を伸ばして頭を撫でようとする彼女の手を、首を曲げて避ける。

 

 そんな攻防を続けていると、再びヴィヴィオが声を出す。

 

「…………あの、ウィズさん」

 

 その声は先ほどと打って変わって重く、悲しげな声だった。

 

 まるで最初の重苦しい空気に戻ったかのように少女は申し訳なさそうに話す。

 

「どうした?」

 

 拗ねるように話を打ち切った手前、語り掛けにくかったが小さい彼女の沈痛な面持ちに声をかけないわけにはいかなかった。

 

「すみませんでした!」

 

「……だから、どうした?」

 

 突然頭を下げられても意味が分からなかった。

 

 理由を聞けば今度こそ泣きそうな表情でヴィヴィオが告げる。

 

「私の我儘で辛いことを思い出させてしまって……」

 

「まあ……確かに血生臭い話だったが別にもう終わったことだし、そこまで深刻に考えなくてもいいぞ」

 

「でも、お父さんのこととか……」

 

「…………ん?」

 

 そこでウィズは話が噛み合っていないことに気づき始めた。

 

(もしかして、この子いやこの子たち何か勘違いを)

 

 ベッドの上に座る少女たちが皆悲しそうに顔を俯かせている理由を半ば悟った。

 

「ウィズさんのお父さんは、あの……その時の事件で……」

 

 今にも涙が零れ落ちそうになっている金髪の少女を止めるために腕を伸ばして慌てて遮る。

 

「あー、いや、その、すまん。そこは俺の言い方が悪かった」

 

「えっ?」

 

「父さんな、ピンピンしてるから安心してくれ」

 

 ほんの少し間を開けて、ポカンとしていた少女たちが一斉に目を見開いた。

 

「「「「…………ええっ!?」」」」

 

 三人娘はともかく、アインハルトも勘違いをしていたようで同様に驚きの声を上げている。

 

 ウィズが気まずそうに頭を掻きながら少女たちの反応を見て納得していた。

 

(あの重たい空気は父さんが死んだと思ってたからか、確かに身内が死んだ話をされたら気まずくもなるか)

 

 実際には生きて、今も普通にサラリーマンしている父の姿を思い返して補足する。

 

「あの時、胸を刺されたが奇跡的に心臓や重要な血管、それに背骨なんかも傷つけずに貫通したそうだ」

 

 あとほんの数mmズレていれば危なかったというのだから本当に奇跡だったのだろう。

 

 ウィズから父の生存を聞かされると小学生組はほっと胸を撫で下ろしていた。

 

 アインハルトも大きな動きはなかったが息を一回吐き出していることから少なからず安堵したことが窺える。

 

 他人の親に対してここまで親身に考えてくれる女の子たちの優しさを再確認することとなった。

 

「そうだったんですねぇ。よかったー」

 

「言葉足らずで余計な気を遣わせたな。すまん」

 

「いえいえー、こっちが勝手に早とちりしただけですから」

 

 少年の謝罪に両手を振ってヴィヴィオが困ったように笑う。

 

 そんな二人のやり取りを見ていたなのはが付け加えるように口を開いた。

 

「お母さんのセリィさんもお元気そうだったね。合宿前にご連絡した時もお変わりなくにこやかにウィズくんのことよろしくお願いしますって頼まれたよ」

 

 なのはの一言にウィズ、そしてヴィヴィオが過敏に反応する。

 

「どうしてうちの母親と当然のようにやり取りしてんだ!」

 

「ママ! ウィズさんのお母さんと知り合いだったの!?」

 

 同時に詰問されたなのはは栗色のサイドポニーを揺らし悪びれもせずに答えた。

 

「だって、大事なお子さんを預かるんだから一報入れるのは当たり前でしょ? セリィさんとはウィズくんに魔法を教えた時からお知り合いだよ。たまに料理やウィズくんの事でお話してるの」

 

「……そうか、だから俺が一人暮らししてることも知ってたのか」

 

 苦々しい口調のウィズが思い出すのは昨日高町家を訪れた際に一人暮らしを心配されたことだった。

 

 あの時は深く考えなかったが、自分の近況を把握していた理由がこれではっきりとした。

 

 個人情報の流出を止めたかったが、のんびりしているくせにお喋りな母親の口を閉じさせる方法は十年以上一緒に暮らしていた息子でも知らない。

 

 ましてや隣で座る女性の行動を止めることはそれ以上に困難であると知っているので諦めるほかなかった。

 

「ま、ママ! あんまりウィズさんにご迷惑になるようなことは……!」

 

 母の行動に物申す娘の姿にウィズはおっ、と淡い期待を抱いた直後。

 

「あとでヴィヴィオにもウィズくん子育て秘話を教えてあげようか?」

 

「…………まあ、ほどほどにね」

 

「……おい」

 

 あっさりと引いた金髪の少女を思わずジロリと見遣った。

 

 少女は無言で気まずそうに視線を逸らす。

 

「…………はあ」

 

 色々と踏んだり蹴ったりな結果となったウィズは疲れたように息を吐いて深くソファに背を預けた。

 

 周囲でウィズの子供時代の話を聞きたいとリオをはじめとした少女たちが食いついているのを尻目に少年は天井を見上げて諦観の念を抱いていた。

 

(もう、寝るか)

 

 何が悲しくて自分の幼い頃の秘話とやらを聞かなければならないのか。

 

 恥ずかしいことこの上ないため、自分の部屋に避難して明日に備えて就寝しようと思い至った。

 

 立ち上がろうとソファに手を掛けて力を込めた時、甲高い声に呼び止められた。

 

「あ、ウィズさん!」

 

「っ、なんだ?」

 

 今夜は悉く出鼻を挫かれるな、と辟易しながら声の主に目を向ける。

 

 声を掛けてきたのはまたもやヴィヴィオだった。

 

「お疲れのところすみません。一つだけ聞いてもいいですか?」

 

 辟易した気持ちが表に出ていたのか、それを疲労と見て取ったヴィヴィオが気まずそうにしていた。

 

 ウィズが無言で頷くと、彼女は頭を下げてから質問した。

 

「えっと、実はどうしても気になっているところといいますか……一番聞きたかったことなんですけどぉ」

 

 いじいじと指を絡めて要領を得ない言葉を羅列する。

 

 これまでと違うはっきりとしない口調にウィズが首を傾げると意を決したように言葉を発した。

 

 

「フェイトママとのやり取りはあれだけだったんですか!」

 

 

「……………………」

 

 あれだけというのは最後の最後で邂逅したことを言っているのだと理解する。

 

 話の最後でフェイトの名を出さず上手く濁したつもりであったが、どうやら意味がなかったらしい。

 

 ウィズとしては両親や戦闘のことを差し置いて、断トツで一番触れられたくない話題なのだ。

 

「そう! それ!!」

 

 これまで比較的大人しくしていたなのはがガタリと音を立てて立ち上がる。

 

 ビシッ、と愛娘に指をさして激しく同意を示していた。

 

「どうなのウィズくん!? 私もずっとそれが気になってたんだよ!」

 

「……そんなくだらないこと気にしてたから静かだったのか、あんた」

 

 うんざりした様子で呆れた視線をなのはに向けるが、そんなことを気にする女性ではない。

 

 再び座り直したなのはは距離を詰めてぐいっと顔を寄せてウィズに追及した。

 

 ウィズはひどく鬱陶しそうに顔を遠ざけた。

 

「ずっと疑問だったの。いくらフェイトちゃんでも身寄りがなくて保護したでもない、特殊な境遇の子供でもない子にあれだけ固執するかなって」

 

「固執は、いい過ぎだろ」

 

「ううん、エリオやキャロほどじゃないけどウィズくんのことすごい気に掛けてるもの。そんなこと今までなかったよ!」

 

 最早質問したヴィヴィオを差し置いて、なのはが主体となって聞いてきている。

 

 だが、たとえどちらであったとしても何かしら答えなくてはこの場をやり過ごせないとわかっている。

 

「…………あれですよ、事件の後にもお見舞いに来てくれたり、局での指導にも付き添ってくれたりしましたから交流が少しあったってだけですよ」

 

 少年が明後日の方向を見ながら告げた具体性に欠ける内容になのはは半目になって相槌を打った。

 

「ふぅん、なるほどぉ……それで? どんな話をしたの?」

 

「……どんなって何です?」

 

「まさかずっと無言だったわけじゃないでしょ? 二人の間でどんな会話があったのかなーって」

 

「別に、社交辞令とか普通の世間話とかですよ」

 

 淡々と話すウィズの言葉に納得がいかない様子で唸るなのは。

 

「こっち見てウィズくん」

 

「は?」

 

「いいからこっちを見なさい」

 

 有無を言わさぬ物言いに今まで全く別方向を向いていたウィズが顔を茶髪の女性の方へと向き直す。

 

 向けばかなり近い距離になのはの顔があった。くりっと大きな瞳がより大きく見える。

 

 互いに息がかかるほどの近距離でも気にせず、なのははジーっとウィズを見つめた。

 

「本当にただの世間話しかしてないの?」

 

「ええ、それだけです」

 

 ウィズはしれっと答える。

 

 むむむ、と彼女の口元が歪む。

 

 平然とした表情で動揺ひとつ見せない少年からは虚言を吐いている気配はない。

 

 それがどうしても納得できずにウィズの瞳を覗き込むように徐々にさらに距離を詰めてくる。

 

 なのはの美貌が鼻先がくっつきそうになるほど近づいても、ウィズは飄々とした態度を崩さない。

 

 そもそもこの大人の女性に限った話、たとえ幾ら距離が縮まろうともいきなり抱き着かれたとしても動揺しない自信があった。

 

 これがこの場に居る他の女性陣であれば、こんな至近距離に顔があったとして慌てない筈がない。

 

 一切狼狽した様子を見せないウィズに意地になって見つめ続けるなのはだったが、それを止める影がひとつあった。

 

「ママ、ママ! 近い! 近いよなのはママ!」

 

 顔を真っ赤にして二人の間に入ったのはヴィヴィオだった。

 

 この時ばかりは痛む身体のことなどすっかり忘れて、俊敏な動きで母を憧れの人から遠ざけた。

 

 見れば他の少女たちも頬を染めて成り行きを見守っている。

 

 だが、当事者の二人は全く気にしていない。

 

「だってヴィヴィオ! 絶対ウィズくんは何か隠してるよ! フェイトちゃんと何かあったのは明白だよ!」

 

「今なのはママと何か起こりそうだったのぉ!」

 

「え? どういうこと?」

 

 娘が何に嘆いているのかなのはにはわからなかった。

 

 親子の言い合いが始まったのをいいことにウィズはすくっと立ち上がって素早く部屋の扉まで向かった。

 

「じゃあ俺はもう寝ますんで」

 

「あっ、ちょっとウィズくん!」

 

「質問ならまた後日聞きますよ。明日は俺にとって最重要な試合があるんで、もう休ませてください」

 

 一方的に告げられたウィズの言葉だったが、なのははそれ以上強く言えなかった。

 

 少年が何よりも優先すべきことが何なのかわかっているからだ。

 

「もー仕方ないなぁ。何だか有耶無耶にされちゃいそうだけど……うん、おやすみウィズくん」

 

「……おやすみです」

 

 静かに就寝の挨拶を交わして、ウィズは部屋を後にする。

 

 扉を上げて出た後、部屋の中での会話が微かに聞こえてくる。

 

「試合って、明日何かあるんですか?」

 

「確か午前中はオフで、午後も軽めのトレーニングだけだったような?」

 

「あっ、またなのはさんとの模擬戦ですか!?」

 

「それが違うの。えっと、もう言ってもいいかな?」

 

 なのはが何かを告げて、一拍置いた後。

 

「「「ええええぇぇぇぇぇえええ!!?」」」

 

 その部屋から数歩ばかり離れていたウィズにもばっちりと聞こえてくるような大声だった。

 

 


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