あの子が出てきます。
「お前は、何のために、死ねる?」
とある一軒家。広くも狭くもないリビングのソファーに二人の男が座っていた。両者とも、横に長いソファーの端にそれぞれ座り、ひじ掛けに肘をついて、足を組んでいる。
深夜であるにもかかわらず、部屋に電気はついていない。
男が発した質問に対して、はやては口を開いた。
「はあ? 何を言い出すのさ」
「言葉通り、さ」
くっくっくっと喉をひくつかせて笑い、泥水のように黒く濁ったコーヒーをすする男。黒を基調とするくたびれたスーツを纏うこの男ははやての父である。
「大学生にする質問じゃないだろ。中2の僕に聞いてくれない?」
そう言い捨て、はやても手にしていたコーヒーをすする。値段の割に薫り高く、酸味も苦みも抑えられていると評判のコーヒーだ。はやての母が先日買ってきたもので、家族全員気に入っていた。
アイスコーヒーにしてもきっと飲みやすいだろう。
「お前は、俺に、よく似ている」
「そうかな。僕はまだそんな人生の酸いばかりを味わってきたみたいな風貌はしてないつもりだけど」
「中身の、はなしだ。それに、甘いものも、味わって、いる。少量ではあるがね」
「……へえ」
「お前の、母さ 「 や め て く れ 」 ……そう、か」
はやては父の言葉を遮った。この男、事あるごとに母について惚気るのだ。それもなぜかはやての前でだけ。両親の仲がいいのは大変結構なのだが、長男としてどのように反応すればいいのか、はやてには分からない。そもそもこの男は何が言いたいのか。
「愛を、知れと、言いたいのだよ、俺は」
そして、またか。とはやては思う。
はやては自身の父を少し苦手に感じている。気恥ずかしいとか、反抗心とか、そういったことではない。
「人の心を読まんでくれない?」
「顔に、でているのだよ、お前は」
「真っ暗ですけど、ここ」
「では、気配に、でている」
「漫画じゃないんだからさ…」
カップに口をつけ、はあ、と息を吐き出すはやて。
肺の熱が吐き出されるように感じられた。
はやては父が苦手だ。
物語の中でしか見ないような、人の範疇を超えた技を時たま魅せる父は、はやてに薄気味悪さを抱かせている。最も、苦手というだけで嫌いではない。父として尊敬できる男なのだ。要は、相性の問題である。
「存外、簡単な、ものなのだよ」
「さいで」
人の心を読んだうえで会話を進めようとするこの男には友達などいない。
長年の経験から、はやてはそう確信しているし、実際に見たことも聞いたこともない。皆はやてのように男を不気味がるのだ。息子であるはやてですら苦手意識を持つのだ。他人にとってこの男は気味悪さそのものに見えるかもしれない。
なお、はやての弟は父の読心術を「人間離れシリーズ③」と呼んでいた。勿論、1と2があり、3以降も存在する。
「ふむ、何の、はなしを、していたか」
「………」
「そう、あきれる、ものじゃない。ああ、そうだ、そうだった、お前の、死について、だったな」
「なに、真面目に返さんといけないの? この質問」
呆れ声を隠す様子もないはやて。
「当然」
言われて、少しだけ考える。
「………あ~、きょうだいとか?」
「それらは、お前を含め、俺の、ものである。他、には?」
少し意外な答えだった。はやては咄嗟に言葉が継げず、詰まってしまう。
「ふむ、時間、切れ、である。そして、不正解、である」
「不正解? 正解があるとでも?」
そもそも「答え」などあるのだろうか。
この手の質問はいかに自分が納得できるかであるとはやては考えている。それゆえ、自身が最も納得いく答えを出したつもりだったが、男によるとはやての答えは間違いだったらしい。
「当然、ある。お前だけの、唯一の、答えがね」
「というと?」
「お前の死なぞ、何者のためにも、ならない、ということである」
はやては少し眉をひそめた。それでは質問が成り立たないではないか。
「言ってくれるじゃないか。命がけで何を成すとも、そこに意味などないと?」
「馬鹿が。俺の、言葉を、はき違えるな。お前の、悪い、癖である」
そう窘められ、少し困惑を見せたはやてだった。
この男は何が言いたいのだろうか。
「お前の、死は、
「お前が、死ねば、お前に、近しい、者たちは、
「この怨みは、さらなる、「死」を、招きかねない」
「お前の、「死」は、「死」を、招きかねないのである」
「さて、はやてよ」
気が付けば、男ははやての正面に立ち、真っ黒な顔ではやてを見下ろしていた。
「
「——————っづぁあ?!?!」
はやては飛びおきた。呼吸は荒く、首元は汗でぐっしょりと濡れていた。
見渡すと、自室の床に寝転がっていたことに気が付いた。少し重たい頭を振り、呼吸を整えて記憶を遡る。
「……あぁ、寝てたのか。リュックの相手して疲れたのかね。完全におっさんじゃないか……」
正しくは気絶していたのだが、些細な勘違いである。
「四捨五入すればまだ二十。若い。僕はまだ若い…」
よっこらせ、と言いながら立ち上がり、すぐにベッドへ腰かけた。
まだ頭がぼーっとしている。しばらくぼんやりしていたが、ふと、部屋の隅のセーブスフィアが目に入った。
いつの間にか、色がまた薄くなっている。
「………」
やおら立ちあがり、セーブスフィアに手をかざす。いつも通りの感覚を覚え、寝ぼけた頭もすっきりした。
「……死、」
はやてはセーブスフィアを撫でるように、何度も手をかざしては離す動作を繰り返す。その動作に意味はない。物思いにふける際、ペンをくるくる回すように、手持ち無沙汰に行っている。
「僕は死んだらココに戻ってくるのか」
本来のセーブスフィアと同じように動作するのであれば、おそらく、はやてはたとえ死んでもこのセーブスフィアで復活するのだろう。ゲームのように時間も巻き戻るのか、体だけセーブスフィアに戻ってくるのか。
「確かめる術はない。死んだらそこでお仕舞いかもしれない……」
誰かを実験体にするわけにもいかない。そもそも、ここに来る者たちはこのセーブスフィアに気が付いていない様子である。下手なことを言って混乱させるわけにもいかない、というのがはやての考えだった。
なぜ、はやてのみセーブスフィアを認識できるのか。
間違いなく、自身の「存在」に関係していると確信を抱く。
はやては繰り返しかざした手を引っ込め、しゃがみ込み、セーブスフィアをしげしげと見つめた。
「…何せよ、君を頼らないようにしないとなあ」
何かに言い聞かせるよう呟いていると、はやての部屋のドアがノックされた。操縦室にいた操縦士の一人がはやてを呼びに来たのだ。
呼ばれるままに操縦室に向かうと、アニキが難しい顔をしてレーダーを見つめていた。アニキがはやてに気が付くと、コイコイとはやてを呼び寄せ、レーダーを指さす。
見ると、サルベージ船のレーダーから『シン』が消えていた。
一先ず安堵するはやてだったが、アニキによると、しばらく前に『シン』は突然移動を始め、驚く速度でレーダーから消えたらしい。移動した際の進行方向が船の進む方向とは真逆だったため、広範囲型エコーも移動した『シン』をとらえることができず、今は完全に見失った状態であるという。
〈次の任務に進むぞ〉
アニキがそうはやてに伝えた。当初は近くの大陸に一時的に上陸するという話だったが、『シン』が完全に検知可能のレンジから出たこと、目指していた直近の港の近くに探査に向かおうとしていた遺跡があること、今回の探査は重要任務であり、遺跡が荒らされる前に速やかに探査を進めたいことなどの説明を受けた。
補給の為にいったん港に寄った後、すぐに遺跡に向かうとのことだった。
〈了解。何をすればいい?〉
わざわざ呼びつけるという事は何か別に仕事があるのだろうかと考えたはやてはアニキに話の先をうながす。アニキはその通りだと言うように一つうなずいた。
〈ハヤテ、お前にアミガキを頼む〉
〈アミガキ? えぇと、え~… かい…だし、あ、「買い出し」か!〉
〈ひとまず、食料、機械用素材、くすり、とかだな〉
なるほど、アミガキは買い出しか...と納得しているはやてに、アニキは買い物用のリストを手渡した。はやては目を通してみるが、当然ながら何が書いてあるのか全く理解できない。音声間の意思疎通ならどうにかなるものの、文字を使ったコミュニケーションになると途端に会話できなくなる。要練習事項であった。
〈アルベド族は嫌われている。大事な任務前だし、面倒は避けたい〉
なるほど、とはやては理解した。どうやら事は急を要するようで、できるだけ波風立てず買い物をするならはやてが適任である。黒髪で黒目、さらに共有語であるヒト語であれば流暢に話せるはやてであれば、何の問題もないだろう。
アルベド族が嫌われ者、というところに思う所がないわけではないはやてだったが、いちいち気にしていては話が進まないし、何よりアルベド族のアニキがまるで気にしていない様子なら妙な気を回すべきではないと考え、承諾した。
〈了解。だが、時間かかるぞ〉
問題はリストを先に解読しなければ読めないという点だ。子供の初めてのお使いよろしく、リストそのものを店の者に手渡せばいいのだろうが変に思われないだろうかと心配になる。
〈リュックと一緒に行ってもいい。だが、ヤワ、大丈夫だろ〉
そういってアニキはギルが入った袋を渡してきた。結構な重さである。
〈…
はやては自身に寄せられている信頼の大きさに驚いた。確かに、ここしばらくは共に生活しているが、それでも一時的に所属している部外者に過ぎないというのがはやての認識だった。
袋の中は恐らく相当な金額である。持ち逃げされることを考えていないのだろうかと逆に心配するはやてだったが、どうやらそうではないらしい。
〈お前は、仲間さ〉
はやての疑問を理解したうえで、アニキはニッと笑ってみせた。
「信頼には応えないとなあ」
はやてはデッキで、以前作った日本語とアルベド語の対訳表を見ながら、アニキに渡されたリストを翻訳していた。更にリストに載っている物以外に欲しいものがないか、皆に聞いて回っている。意外と「個人的に欲しい物」というのはあるようで、誰に聞いても何かしら一つは追加で買ってきてほしい物を挙げられた。
翻訳しながら追加された物をざっと見てみる。よく知らない魔物の部位であったり、よく知らない食べ物(果物らしい)だったり、よく知らない特産品だったり。
はやては固有名称を何一つ理解できなかった。
「こういう所はゲームと違うな。モルモルってなんだよ……く、果物?!」
モルボルみたいな見た目じゃなかろうかと戦々恐々するはやて。
「そういえば……、〈なあ、リュックはどこにいる?〉」
ふと、リュックを見かけないと気がついたはやては、そばでゴムボートの点検をしていた船員にリュックの所在を聞く。1日一緒に居る約束だったが、任務が入ったのではやての部屋でおとなしくするよう伝えるつもりだったが、どうやら船内を駆け回った後にお姉さま方の部屋に連れ込まれて軟禁されているらしかった。
どうしてそんなことになったのか、と尋ねると、アルベド族の男は気まずそうに眼をそらし、何も言わずはやての肩をたたいて船内に戻っていった。
「? ま、いいか」
軟禁でも何でも、誰かの目の届くところでゆっくりしているならそれでいいかとはやては納得し、引き続き、他の船員たちに買ってきてほしい物がないか聞いて回り、軟禁されているリュックと女アルベド族数人を除いた全員の希望を聞いたところで、船を止めてもらうようデッキから海面に向かって魔法を放つ。
まもなく、船は止まり、デッキにいた船員たちに手伝ってもらいながらゴムボートを海に落として乗り込み、ボートのエンジンを始動させた。
サルベージ船を上陸させる予定だったが、『シン』が出現した影響か、遠目にも港には多くの船が集まっているように見えた。多くが帆船だったため、アルベド族の船が港に近づいては混乱を招きかねないと判断し、サルベージ船は上陸せずに、はやてのみゴムボートで買い出しに行くことにしたのだった。
問題なくエンジンが作動していることを確認したはやては、エンジンスロットルを回し、ボートで海面を走り出した。エンジンは改造されているらしく、思いのほかスピードが出るのでひっくり返らないよう、港に向けて慎重に操縦する。
「日本のものと操縦が変わらなくて助かった。パワーがあるから、10分もしないうちに着くかな」
はやては気持ちよく流れる潮風を肌に感じていた。海は沖縄のビーチのように透き通っている。海中は色とりどりの海藻やサンゴ、魚たちであふれており、スキューバダイビングをしたら、さぞ綺麗で楽しいだろうと想像した。もちろん、海にも魔物が発生するため、丸腰でダイビングをした暁には海の藻屑となるに違いないが、もし安全が確保されたビーチがあれば、ぜひ遊んでみたいと思うはやてだった。
つらつらと考えていると港が近づいてきた。はやてはボートが目立たないよう、港の隅にボートを泊め、岩陰に隠し、何食わぬ顔で港に歩を進めた。
「お、おおぉ、人がたくさんいるゾ……」
石畳で綺麗に整えられた港は多くの人でごった返していた。この世界にきてから、はやては初めて人の大群を目にし、謎の感動を感じていた。普段サルベージ船には40人前後しかおらず、その数倍は優に超える人数を目にしたはやては、圧倒され、しばらく立ち呆けてしまっていた。しかし、すぐに我に返る。
「うーん、やっぱアルベド族らしき金髪は見かけないなあ。金髪自体は普通にいそうなんだけど……意外といないものなのかな」
サルベージ船で上陸しなかったのは正解だったとぼやきながら、はやては市場らしき場所がないか探しはじめる。アニキの話だと、港には大抵、大荷物を抱えた商人らしき人や出店が集まっているところがあるという。まずはそれを見つけなければならないのだが、しかしなかなか見つからない。
はやては道行く人にそれらしい所がないか聞きながら歩き、ようやく市場らしき場所を見つけた。円形の大きな広場である。港もそれなりに人があふれていたが、ここ、市場になっている広場はまさに人の密集地帯になっていた。
「ま、まじか。こんなに人がいるのか。結構な大金持ってるし、スリには気を付けないといけないな」
ほとんどが出店で、どんな商品を売っているのか一目瞭然で分かりやすい。しかし、はやては買う物の名称が分かっていても、それがどんな見た目をしているのかよく理解していない。一応リストは食べ物、部品、素材などに分類して書き分けたはやてだったが、あまり効率的に買い物できそうにないなと独り言ちた。
「しょ、しょうがない、1つずつまわって聞いてみるしかないか」
はやては、やっぱり最初くらいは誰かについてきてもらうべきだったかと後悔していると、自身と同じように大群を見つめておろおろしている少女を見つけた。少女は背伸びしながら人の大群を見渡そうとしている。誰かを探しているのか、はやてと同じようにお店を探しているのか、いずれにせよ、後ろ姿からでも「私困っています」という様子がありありと見受けられた。
周囲の人々は自分の買い物で忙しいのか、少女を気に留めない。たまに、ちらと少女に目を向ける者がいるだけで、ほとんどは少女に構うことなく自分の用事を片付けようとしている。
何となく少女を眺めていたはやてだったが、少女が背伸びをやめてしょんぼりし始めたところで、なんだかいたたまれなくなり、少女に話しかけることにした。
「あー、もし、お嬢さん。何かおこ…ま……り?」
話しかけてすぐに、もう少しまともな話しかけ方があるんじゃないかと反省したはやてだが、振り返った少女に思考が吹き飛ばされてしまった。
「え? あ、いえ! 大丈夫です!」
ふり返った少女は、着物を連想させる服装をしていた。
「えっと。仲間……というか姉……達家族と一緒に買い物に来たんです。でも、はぐれてしまって……」
結構目立つのですぐに見つかると思うんですが…ときょろきょろする少女に、はやては何も反応できなかった。まさか、と音無き言葉が口から漏れ出す。
「ま、迷子になっちゃった…怒られちゃうかな」
不安なのか、なんとなく帯を整えたりスカートを払ったりしている。固まっているはやてには気が付いていない。
なぜここにいるのか、ここは「あの島」のそばなのか、今関わるべきなのか、介入すべきではないのではないか。色々なことがはやての頭を巡る。あまりに唐突すぎて、混乱の極みに陥っているはやてだった。
「……? あの、大丈夫…ですか?」
石化したように固まったはやてを不思議に思ったのか、少女ははやてに近づき、見上げた。
無防備に距離を詰めてくる、無垢な少女。
「………………」
「………?」
「……えしゅな」
はやては自身にエスナをかけた。混乱も石化もしていない。
それでも、気持ちスッキリした気がしないでもない。
「きゃっ! あぁ、びっくりしたあ。ごめんなさい、驚いちゃって」
「いや、ああ、うん。いやあ、大丈夫大丈夫。僕の方こそ急にごめんね」
「いえ、大丈夫です。白魔導お使いになるんですね。白魔導士の方ですか?」
「あぁ、まあ、そんな感じ、かな?」
「やっぱり!先ほどの白魔導って【エスナ】ですよね? あの、体調が悪かったのですか?」
「いやいや、うん、大丈夫大丈夫。あはは」
「あまり、無理なさらないでくださいね」
「うん、そうだね。もう大丈夫だ。ありがとうね」
「いえ」
少女はふふ、と笑う。とても綺麗で、どこか儚さも感じられる笑みだった。
「ええと、そうか、迷子なんだっけ? 一緒に探してあげるよ。僕の方が背が高いし、早く見つけられると思うよ」
「え?! いえ、大丈夫です! この広場にいると思いますし、すぐに見つかりますから!」
少女は遠慮するが、はやては何も言わず密集する群集を指さす。
とても、すぐには誰かを見つけることなどできそうになかった。
「……え、と」
さすがに一人で人を探すのは難しそうだと気が付いた少女。
「まあ、その代わりと言っては何だけどさ」
はやてはポケットからリストを取り出して少女に手渡した。何の疑問も抱くことなくリストを受け取った少女は、リストに目を通してみる。よく見る果物や魔物素材が書かれていた。
「そのリストにあるもの、僕見たことないんだよね…買い出しに来たはいいけど、何がどれなのか全然わからなくて困ってたんだ」
「…え? でもこれは…」
たしかに、少し珍しい物もリストにはあるが、基本的には誰にとってもなじみ深いものである。それを分からないという事など、あるのだろうかと少女は思った。
「うん。まあよくある物らしいけど、僕記憶を失くしててね」
「記憶…ですか?」
リストに落としていた目線をあげる少女。はやての綺麗な黒い瞳が、そこにあった。
「そう。『シン』の毒気ってやつでね」
「——っ!ご、ごめんなさい! そうとも知らず…!」
少女はすぐに頭を下げるが、はやてはいいからいいからと頭を上げさせた。
「まあそれはどうでもいいんだけどね。それより、買い物が不便でねぇ…」
少女から見て、はやては自身が記憶喪失であることに何の苦も感じていないようだった。いや、買い物に不便を感じてこそいるが、記憶がないことそのものに不安を感じてはいない。
そんな人も、いるのだろうか?
少女には分からなかった。
「で、だね。僕が一緒に君の連れを探してあげるからさ。一緒に買い物してくれないかな?もちろん、途中で見つけたら、そこまでで大丈夫だからさ」
「そ、そういうことでしたら…。はい! 任せてください! あ、でもちゃんと買い物にも最後まで付き合いますから」
よくわからないが、少女ははやてが困っている様子だったので、力を貸すことにした。
自分の姉を一緒に探してくれるというので、どちらにとってもありがたい話だろうと少女は考えた。
「うん、じゃあよろしくね。僕ははやて。柊木はやてといいます」
はやてはよしっ!と意気込む少女に自己紹介をした。
少しだけ落ち着かせるように少女の頭に手を載せて。
「あ、……す、すみません、えっと、私はユウナといいます。よろしくお願いします!」
「………ですよねぇ(震え)」
「え?」
「いやいや、なんでもないよ。じゃあ、行こうか。人探ししながら買い物だ」
はやてはごまかすように笑い、人ごみに向かって歩き出す。
「あ、はい!はやてさん!」
はやての下まで走り、少し後ろをついて歩くユウナ。
はやては振り返り、ユウナとの距離を確認した。三歩ほど、距離が空いている。
「ユウナちゃん、そのお姉さんと一緒の時もこの距離で歩いてた?」
「え? あ、はい。そうですね」
「それじゃまたはぐれちゃうよ。こっちおいで」
はやてはユウナの手をつかみ、少し自分に引き寄せた。
「あ、」
「そうだなあ、この辺掴んでて?」
そういってはやては自分の服のすそをユウナに握らせる。
「…っ! あの、ふ、服にしわが……」
「いいからいいから。またはぐれるよりマシだしね。それとも手つなぐ?」
「えっ?! あの、えと、えと」
男の人の手をにぎるなんて、どうしよう、どうしよう、でもはぐれちゃだめだし…
あ、でもさっき……
そんな風に頭がいっぱいいっぱいになってしまったユウナだが、くくっ、と小気味良く笑う声が聞こえて顔を上げる。
はやてがとてもいい笑顔を浮かべてた。
「——~~~~っ!!!」
ユウナは顔を真っ赤にして俯いてしまった。
「あっはっは!ごめんごめん、あんまりかわいくテンパってるから、つい」
「か、かわっ?!」
かわいいなんて、言われたことがない。
また、からかっているのだろうか。
顔が熱い。赤くなっていないだろうか。
ああ、恥ずかしい…
ユウナは何といえば良いのか分からなくなってしまい、黙り込んでしまう。
「まあ子供扱いするのもあれだしね。しわなんて気にしなくていいから、掴んでて」
はやてはユウナの頭をひと撫ですると、ゆっくりと歩き出した。
ユウナは未だ混乱していたが、服に引っ張られるまま、はやての後ろをついていく。
(……あ、)
少し落ち着いたユウナは、はやてがゆっくりと、人を分けるように歩いていることに気が付いた。
店の前に行くのであれば、人の間を縫うように歩く方が早いのだが、わざわざ人垣を分けて進んでいる。すみませんね、どーもどーも、といいながら歩みを進めるはやて。たぶん、いや、間違いなく自分のために、歩きやすいように、はやては進んでくれているのだとユウナは理解した。
困っていた自分に声をかけてくれたこともあり、ユウナははやてに「優しい人」という印象を抱く。
あの父の娘ということで気を使われたことは何度もあった。
そのたびに申し訳なく思い、気まずく思うことも多々あった。
しかし、はやての言動は純粋な親切心によるものだった。
大召喚士ブラスカの娘としてではない、ただの「ユウナ」を気遣う優しさだった。それは兄や姉と慕う彼らのような、暖かい気持ちにさせてくれるもの。
そうだ、はやてさんは「優しい人」なんだ。
ユウナは、はやての服を握り直した。
「あれ? ユウナちゃんお耳真っ赤ね?」
でも女の人みたいな喋り方でからかってくるから、きっと「いじわるな人」でもあるんだろう。
ユウナは空いた片方の手で片耳を隠しながらそう思った。
いつの間にか、「独り」だった不安は消えていた。
ユウナちゃん、ふらいんぐ登場