千恋*万花~福音輪廻~ 作:図書室でオナろう
今自分が見ているものが夢だと理解しているのは、奇妙な浮遊感があるからではない。
それは夢だと確信しているからだ。
……理由も無く。
モノクロの視界。
俯瞰視点で見てるような感覚。
その光景は惨劇そのものだった。
村だったのだろうか? それらしき場所に無残に事切れた亡骸が無数に転がっている。老若男女の区別無く、悍ましいほど平等に。
そして動く影が二つ。
刀を持った黒衣の人物と、血塗れの誰かだ。
やがて黒衣の人物が刀を突き立て、また一つ骸が増える。生者はそいつを除いて皆死んだ。
「あぁ──そうだ」
不意に。
黒衣の人物が呟く。
「そういう表情こそ、生きてるってものだ」
その視線が、何故か俺の方へ向き。
「なぁ? お前もそう思うだろ」
明確にこっちを認識して、そいつが言った。
──
確実に俺を認識していた。あり得ないとか夢じゃないのかよりも先に、そいつを認識した時にまず感じたのは恐怖だった。
いてはいけない。あれは俺と同じで時代には不要なものだ。だというのにあれを見るだけで背筋が凍り、吐き気を催し、本能的恐怖を呼び覚まされる。あれは人である筈なのに、人ではない。人の形をしながらその中身は極めて異質な、それこそ宇宙悪夢的な代物。天啓にも似て、だが決して理解できないもの。
俺と同じで時代には不要なものだが、あれと俺は同じではない。
あれは──
そこまで思考して、その人物が迫っていたことに気が付く。
黒衣──それは真っ黒な和服。貴族的な意匠を備えながら、しかし実用的な印象を与えるもの。
女性としては結構な長身であり、だが酷い猫背がそれを打ち消している。
何処か見覚えのある顔立ちに、何処か見覚えのある髪型。色白の素肌はまるで闇から浮き上がるかのよう。
その瞳は腐って澱んで黒く濁ったもので、右手に持った質素な刀に一切の穢れが無いのとは対照的である。
「……なんだ、お前」
その女は空虚な雰囲気を漂わせながら、失望したように。
「案外、まともなんだな──」
だが楽しげに、俺を嗤った。
途端、世界が暗転し場面が変わる。それを俺は知っている。いつぞや見た、朽ち果てた屋敷だ。
そしてやはりいる。あの見知らぬ女が。
「過去っていうのは消えないの。私のように。あるいは、彼女のように」
女は心底から吐き捨てるように、その表情を歪める。
「そう。私がここにいても、先客である彼女もまたここにいる。虚を絶つ由縁は、そこにあるんだからね」
言い切った後、女はその端正な顔を微笑みへと戻して俺に向かって言った。
「あなたは確かに、彼女と同質。それでも稲上馨という人間はただ一人。忘れないで、何処まで行っても人は人のままってことを──」
「……っ!?」
勢いよく身体を起こす。
見回しても、見慣れた自室の光景。どうやら夢は醒めたらしい。
「……あの女は、一体……」
思い出すだけで恐怖を掻き立てられる、あの黒衣の女。あれは果たして何者なのか……
寝汗も酷くて気持ち悪い。とっととシャワーを浴びよう。
そうして汗を流してさっぱりしてから時間を確認する。まぁ、普段通りの時間だ。いつもはギリギリまでグータラして、遅刻寸前を狙って行くものなのだが、今日はそういう気分じゃない。とっとと弁当を用意して、飯食って行こう。それでまた、あいつらに進展があったのかとからかってやるんだ。
……だって、昨日割と寂しかったし……
そんな折、ケータイにメールがすっ飛んでくる。果たして誰かと思えば茉子。
……あいつがメールなんて珍しい。何があったのやらと思って開いてみれば──
どうやら、将臣と芳乃ちゃんが正式な婚約者となったというか……付き合い始めたらしい。
早いなあいつら!? 昨日風邪とか言ってたけど実は嘘なんじゃないか!? 別に構わないけどつまりなんだ。あいつ惚れた女が風邪で弱ったから自分も休んだのか。健気だねぇ。
さて、根掘り葉掘り聞かんとな。
夢のことなど忘れて、俺は楽しげに学院に向かうのだった。
「なぁにこれぇ」
昨日ぶりに割と早めの登校だったが、教室入って開口一番こんなことを言う俺を許して欲しい。
黒板の前に用意された席に、将臣と芳乃ちゃんが座っている。まるで記者会見のようだ。その前にズラッと並んでカメラとかケータイとかを向けているクラスメイトたち。
シャッター音とか聴こえてくるし、どっからどう見ても記者会見である。田舎とはいえ情報の巡りが早すぎないか?
「あら、早いですね。ワタシもっと遅れるものかと思ってましたよ馨くん」
「おはよ……いや、まぁ、ヘンな夢見たとか色々あるんだけど……これどういうことなの?」
ヒョイと隣に近づいてきた茉子と軽く挨拶しつつ、この状況は果たしてなんなのかと訊ねる。まったくもって理解が追い付かないこの現実は、一体何がどうなって生まれ出たのか。
「芳乃様と有地さんが正式に婚約者となったのが嬉しい安晴様がものすごい勢いで色々な方面に知らせたみたいで、その真偽確認兼質疑応答の記者会見みたいな感じですね」
「それでいいのか安晴さん」
「それでいいんだと思いますよ」
「……はーぁ、なーんか疲れたわ」
プロポーズの話とかを質問されてノリノリで答えている将臣を見ながら、元気だなぁとか思う。
が、しかし──
「どうしたんですか? 今日はやけにワタシとの距離が近いですねぇ。あ、もしかして昨日寂しかったんですか? あは」
意識などしていなかったが、茉子と会えて嬉しいのかだいぶ距離が近かった。ニヤニヤとした表情で楽しげな視線を向けてくる茉子が、こっちの顔を覗き込んでくる。
ここでツンデレ的反応をすると多分また面倒な感じになるので、また素直に反応してやろうじゃないか。
意を決して茉子に、本音を告げた。
「あぁ。寂しかった」
「そ……そう、ですか」
が、どうやら受けが悪かったようで。
茉子はどこかぎこちなく、ただそうとだけ返した。なんとも言えない表情から、失敗したと一瞬で悟り、とりあえず反応を伺うことにした。
「引いてる?」
「驚いただけですっ。ま、馨くんは甘えん坊ですからそんなことだろうと思ってましたよ」
「以心伝心で何よりだ。──で、なんか寄りかかってない?」
「朝から砂糖たっぷりだからワタシも疲れました。少し寄りかからせてください」
「いいよ」
「ありがと」
肩に寄りかかってきた茉子が快適なように、適当に調整してやる。だが悲しいかな、普通に立ったままでは辛いので、二人で壁を背に寄り添うような体勢となっている。
……正直、すごく安心する。妙な話といえば妙な話なのだが。
「ん、満足しました」
「そ、よかった」
ニコニコしながら離れていく茉子に、少し名残惜しさを感じながら、まぁ仕方ないかと甘んじて受け入れる。
それと同時に将臣と芳乃ちゃんへの事情説明が終わり、会見が再開されていた。となれば──
「さて、遊ぶか」
「ですね、遊びますか」
俺たちは言葉少なく決意した。
遊ばねば……将臣と芳乃ちゃんで。人混みの後ろの方に陣取り、質問があるので挙手をする。
「はい、そこの方ー」
廉、お前だったのか、司会。
親友よお前は何をしてるんだと思いながらもヒョイと顔を出して二人に聞いた。
「お二人は昨日休みましたよね」
「はい」
「俺は茉子から風邪とお聞きしていたのですが。小野の質問に対する、二日前から付き合い始めたという言葉から考えるにヤってたしかできないので、実際昨日ナニをしていたのかが知りたいでーす。あは。というか普通に考えて茉子がいるんだからお前休む必要ねぇよなあ将臣ィ……!」
どよめくギャラリー。固まる二人。
俺の言わんとすることを理解した将臣が顔を真っ赤にした芳乃ちゃんの代わりに抗議してくる。
「テメェ馨何言ってんだァッ!?」
「るせぇ答えろやこの幸せ者め! 割と寂しかったぞ! 恋人が風邪だから休みますなんて健気じゃねーかよ!」
「男に言われても嬉しくない! 単にプリン作って風邪引いた朝武さんに食べさせてあげただけだって!」
「あはっ、やーらしーィ! お前隠語かオラァ!? さてはしっぽりか? しっぽり褥の温もりを感じてたんだろ! 俺は頭脳指数が高いからわかるんだぞ!」
「褥の温もり……?」
「朝武さんはわからなくていいから! 本当に何もしてないって!」
「手ェ出してねぇのかよ甲斐性無し! キスの一つや二つする暇あっただろうが! どーせ二人きりになるタイミングとかあっただろ!」
「キキキキスなんてできるわけないじゃないですか!? まだ抱き締めてもらっただけですっ!」
「朝武さん落ち着いてっ!」
あ、芳乃ちゃんが自爆した。
「……馨お前色々質問しすぎるからもうダメな」
そこで落ち着きを取り戻したので、廉が待ったをかけてくる。抗議の視線を向けながら反応した。
「なんでだよ廉」
「つーかうるせぇ。お前ら喧嘩すんなよ。そんな不満気な視線見せても……あーあーわかったわかった。これでラストな」
「へいへい。んじゃ、新郎の将臣君に質問。──抱き締めたとき、芳乃ちゃんから良い匂いした?」
「しました」
「有地さん!?」
「おー、やーらしー」
またギャラリーがどよめいて、フラッシュ音がパシャパシャと鳴る。俺には無用の長物だが、しかし……スマホいいなぁ。買い換えたいなぁ。無用の長物だけど。
そんな光景を見ていると、それなりに年相応の感情が沸くというもの。
「ぐぇっ」
「やらしいのは馨くんです」
しかし、そんな感慨は一瞬で破壊された。後ろからよく知る誰かが容赦無く首根っこをキメやがった。とても柔らかな感触と良い匂いが役得だがそうも言ってられない。
「まっ、茉子……ォ! ギ、ギブギブ……! 締まって……あと当たってる……っ」
「というわけでワタシから質問です。ズバリ、お二人は今後ご一緒の部屋で過ごすのですか?」
「まっ、まままま茉子まで何を言ってるの!?」
「申し訳ありません。ですがつい気になって……あは」
「〜ッ! 〜ッ!」
「しまった、馨くんとの身長差だとだいぶ締めちゃうんだった。ごめんなさい、大丈夫ですか?」
やっと解放されて、ゲホゲホと咳き込みながら酸素を求める。なんのかんの言って、頑丈でも苦しいものは苦しい。あとでなんか仕返ししてやる……!
「せめて羽交い締めにしろよお前……」
「つい反射的に……」
「ま、いいけどさ」
忍びとして鍛えられたら咄嗟に出てくるというのは自然なこと。それを責めるつもりは毛頭無い。俺とて意識をしなければ出てくるのが殺人技巧でも不思議では無い。
「それで、どうなんですか?」
「んー……まだ早いんじゃないかなと思います、はい」
「そうですね、まだ付き合い始めたばかりですし」
「ちぇー」とか茉子が言っているがお前どんな想像してたんだよ……
この後も質問はしばらく続き、かなりカオスな展開となった。童貞なのかどうかとかすっ飛んでいたが、お前たちにもう少しアレは無いのかと思った。うん。
果ては先生まで乱入してあれこれと話がややこしくなり、結局は比奈ねーちゃんが邪魔っけな連中(語弊があるが……)を追い出して会見を強制中断させ、事態を収束させた。
ねーちゃんは穂織に住んでいるが、出身ではないので、その辺りの意識が他とは違う。彼女からしてみれば、巫女姫はローカルアイドル的存在ではないのだろう。
いや全く、いつも頼もしい限りだ。
さて、今日も今日とて授業が始まり、俺は適当な態度でテキトーに授業を受ける。
……普通であれば、と付くが。
今日の異常といえば、それこそお付き合いを始めた二人しかないが、ここで常人には関係の無い話を忘れてはいないだろうか。
(カオル。ムラサメちゃん……ですよね? 覗いているのは)
(……だろーなァ)
席の近いレナが困ったように小声で尋ねてきたので、実際確認した上で返事をする。ムラサメ様が見える人間は全員気付いているが、件の二人はだいぶ幸せ気分が抜け切らないのか割とボーッとしてたりする。
……まったく羨ましい。視線を感じると集中できなくて困るのだ。
(……親心かな。ムラサメ様、かなり面倒見がいいから、ちょくちょく学院に来てたんだけど。ここまで露骨なのは初めてだ)
(とても可愛らしいのですが……少々気になります故、控えてもらいたいものですね)
ふむ……まぁ、確かにそうだな。
少し話をしてやるとしよう──そう決めて虚絶を廊下に出現させ、俺と虚絶の位置を呪術で入れ替えることにより教室から脱走する。
──まさか、我がこのような使われ方をするとはな──
虚絶の困ったような声が聞こえ、こんな声も出せるもんだなと少し感心する。が、しかし即座に打ち切ってムラサメ様に近づき、小声で話しかける。
「よ、ムラサメ様」
「脱走とは感心しないのぅ」
「まぁまぁ……話しない? せっかくだし。俺とあんたの仲だろ」
「吾輩たち、出会いは十数年前だが、実際言葉を交わすようになったのはつい最近じゃぞ」
「別にいいじゃん。ほら、行くぞー」
「……ま、お主とくだらぬやり取りをするのも悪くない」
上手く先生と鉢合わせないようにしながら、ムラサメ様と校舎の外に出る。そのまま木陰の下に俺は腰掛け、彼女はフワフワと宙に浮かぶ。
「……して、ムラサメ様。やっぱ寂しいの?」
「寂しいのではない。ご主人と芳乃が不安で見に来ただけじゃ」
「俺が言えた義理じゃないけど、あんたも大概面倒くさいよな」
なんでもないように言うムラサメ様に呆れながら、この堅物からどうやって本音を引き出したものかと悩む。
──おい、指されたぞ。何を答えればいい──
ええっと……同期するからちょいと待て。あぁ、英語の例文か。これならここの部分を言えばいい。
──やれやれ、英吉利だの亜米利加だのの言葉は
「おい、吾輩の相手をしてくれるのではなかったのか? 馨」
「あっと、ごめんっ。ちょっと虚絶がさ」
ムスーっとしたムラサメ様に謝りながら、全くあの浮かれポンチめと内心毒づく。お前の相棒が微妙な気分なんだぞ。気を利かせてやれって。
……いや、奴らの一瞬は彼女の五百年より重いのかもな。無理も言ってられんか……
雑念を振り払い、単刀直入に彼女に対して切り出した。
「──あんたさ、芳乃ちゃんに妬いてんだろ」
「む……」
「五百年の孤独、そこにやっと現れた温もり。俺たち定命の者には想像も付かない暗闇に差し込んだ光。いくら恋人ができたって言っても、悠久の傍観者たるあんたには、それを独占するだけの権利と義務が──」
「──それは生者にのみ許された権利であり義務だ。死者どころか世界にへばり付いた亡霊に過ぎぬ吾輩には、その資格は無い。それに吾輩はお前と違って、命の重さと向き合うことなく逃げたのだ。それは決して許されるものではない」
だがムラサメ様は断固たる態度と、かつて自ら人柱となることを是とした覚悟を武器に、俺の言葉を叩き斬った。
真剣な表情と絶対零度の言葉で、彼女は自身の内に燻る闇を語り出す。
「よいか、馨。吾輩は命ある者ではない。お主が己を祟りに近しい人と言うのであれば、吾輩は人に近しい精霊だ」
「だからって──」
「だからこそ、じゃよ。吾輩は人として生きる、人として死ぬという選択肢を与えられてなおどちらも選べず、ただあらゆるものから逃げた「なりそこない」だ。そんな愚か者がご主人の手を取って良い筈があるものか」
彼方を見据えるムラサメ様の目は遠い。
「吾輩はな……与えてもらった命を無価値にしたのだ」
「俺も同じだろっ」
「同じであるものか。お主が吾輩のような極め付けの阿呆と同じである筈がなかろう。お主はあくまでもその使命に揺らいでそれを選択した。吾輩は選択すらせずに逃げたのだっ」
「だからなんだよ!? お互いに自分という存在が許せない! そこに何の違いもありゃしねぇだろうが!」
「違うのだ!」
居ても立っても居られず、同じだと語れば彼女はそうではないと否定する。俺たちにしては珍しく、声を上げて睨み合うまでヒートアップしていた。
「……ムラサメ様、どうしてあんたは意固地なんだ。まだ子供じゃないか。俺より年下じゃないか。素直になれよ我儘言えよっ」
「吾輩はもはや人ならざるムラサメだ、ムラサメの前身であった女は既に消え果てたのだ。人柱になったときになっ」
「カッコつけんな! 時間かかっても無理矢理にでも陽だまりに引っ張り出してやるっ!俺にはあんたの手を引くことはできないけど、あんたを先導するくらいはできるからな!」
「なっ──!?」
もうあんまりにも頑固だし平行線なので、ムラサメ様の自罰意識など知ったことかと、俺は遠慮無くそう言い放った。
唖然とした顔が大変珍しいが、この人、要は俺と同じで人だけど人じゃないと自己を定義した所為で自らは超越者的存在だとしているのだ。
俺に生きてと願った茉子のように、俺はこの人に"生きて"欲しい。報われて欲しい。
あんまりじゃないか……年端もいかなかった子が、ここまで変わり果ててしまうなんて……あんまりじゃないか──
「俺は、あなたに報われて欲しいんですよムラサメ様……尊敬する人が報われて欲しいと願うのは、とても自然なことじゃないですか──」
「……」
──本音を言えば、ここに帰結する。
俺はムラサメ様を尊敬している。
これは嘘偽りの無い、本音だ。
「……やれやれ、そういう話か。報われるべきだ救われるべきだの話をしたとき、お主もその一人に入ってるとわかってるのかのぅ」
「そりゃ当然。けれど、俺は……まずはあんたから、と思っただけだよ。俺はあとでいいんだ」
何処か呆れたような表情で、ムラサメ様は俺に問う。しかしそんなことは当然理解している。そして、他ならぬ彼女も俺を心配しているということも。
根負けしてくれたのか、ムラサメ様は静かにフッと笑うと、少しだけ本音を語った。
「そうじゃな──確かに、吾輩は温もりを求めておるのは事実だ。じゃが、流石に恋人との時間を奪うほどではない、というのもまた事実。
ただ時折、ご主人が吾輩に触れてくれればそれでよい。見えるものだけが、見えておればな」
とても穏やか表情で告げられた、その言葉。
──何故か。
何故か俺は、その言葉に深い共感と理解を覚えた。あり得ないことだが、ムラサメ様にとっての将臣は、俺の人間関係の中で対応する存在は無い。
だというのに、それに深い共感と理解を覚えた……はっきり言えば、絶対に理解も共感もできない筈なのに。
俺は孤独であろうとしただけ──ムラサメ様の耐えた時間と環境、それと並べてみれば雲泥の差だ。普通であればそれを憐れみこそできても、理解と共感はできない筈だ。
「さて、そろそろ戻れ。吾輩も吾輩なりに上手いこと立ち回ってみせるさ。なぁに心配はいらぬ。実はな、今でも十二分に幸せだ。──お主にこうやって案じられるのも、悪くない。では、またな馨」
「またね」
話はそれまでだと言わんばかりに姿を消す彼女を見送り、虚絶とまた位置を入れ替えて内に戻す。
静かになってしまった。集中ができるようになったが……それでもなお、少し寂しい。
……十二分と言われても。
やはり尊敬する人が限られた人としか触れ合えない、その存在を知覚できないというのは、中々に応えるものだ──
そんなしんみりとした感傷を抱えながら、流れる時間に身を任せるしかできない。
……というか、相談しよう相談しようって思ってて結局してなかったな。何やってんだ俺は。──とにかく、昼休みとかその辺で相談するぞいやマジで。
「……なぁ、あのさ」
とかなんとか考えていたのだが……
「近いんだけど……」
「そりゃ近いんだから当然です」
昼休み。
というか飯の時間になった途端、茉子が俺の隣に移動してきた。しかも隙間が極限まで小さい。腕を動かせば茉子に当たるくらいには近い。
いい匂いする。
「レナもなんで俺の隣にいるのさ」
「いてはダメですか」
「……あぁ……うん……そう……」
困って廉に助けてと視線を送れば、サムズアップで返されるのみ。いやお前助けろよ、流石にキツイ。
「茉子はわからなくもないけど、レナの理由は……?」
「ふっふっふ、それはですねぇー」
レナは何故か得意げにその大きな胸を張りながら。
「カオルは毎回早く食べ終わってしまうので、おかずの交換が中々できないからですっ」
……なんて、どうでもいいことを言った。
多分今、ものすごく変な顔をしていると思う。
「そんな顔をするほど意外でありますか」
「いや……俺の飯なんて美味くないしやめとけって。というかそんなことかよ」
「そんなことではありません。わたしはカオルの事をあまり知らないのですから、大事な事です」
「そ、そう……かな? 嬉しいけど、さ」
女の子二人に挟まれるなんて初めてだ。どうしたらいいのかよくわからない。むっちゃいい匂いして困る。
「あ、あの……二人とも? 少し離れてくれない? ちょっとさ、健全な男子としてはかなり大変と言いますか、その……」
「寂しがり屋の馨くんが寂しくないように側にいてあげてるんですから、甘んじて受け入れてください」
「マコと普段からこれくらいの位置にいるのですから、平気でありましょう?」
「ま、茉子はいいけどレナはダメだっ。こいつなら昔から知ってるから平気っちゃ平気だけど、レナはその……えっと……もう少し自分が如何に魅力的かを自覚した方がいい」
「へー、ワタシは魅力的ではないということですか」
「面倒くさいなお前な!」
流石にもう構ってられない、構ったら疲れる。しょうがないからジト目を向ける二人を無視して弁当を広げる。
「……あの、やっぱり離れてくれない? 腕がね……」
「──胸に当たりそうだから、でしょう? はいはい、わかってますよー。ワタシ、貴方のことは粗方知ってますから」
「以心伝心で何よりだよ……というわけでレナ、もう少し離れてくれ。流石にな」
「カオルもそういう顔をするんですね」
「なんだよそりゃ」
そういう顔ってどんな顔だよ。
まぁいいかと食べ始める。時折横から無言で茉子がおかず放り込んできたり、取られたり、レナと交換をしたりしたが、逆を言えばそれくらいで終わった。
……気分的には大変疲れたが。
「二人に相談なんだが、如何にしてムラサメ様の友好の輪を増やすことができると思う?」
一息ついたところで、本題を切り出す。
「それはまた……難題ですね」
「けどいつまでも変わらないというのも問題だろう」
「ワタシは、正直どうしたらいいのか思いつきませんね。レナさんから何か意見は?」
「まずいると伝えて信じてもらえる人たちに伝えていくのはどうでしょうか? 見えないけど知っている人もいるのでありますよね」
……なんでもないように言われた一言が、あまりにも盲点だった。
完全に思考の外だった。
ムラサメ様が見えずとも、その存在があることを知っている人はいる。そういう人たちのように、俺たち見える組が、信じてくれそうな奴らに対しての橋渡し役になればいい。
……なんて単純なことだったんだ。とても簡単な答えだったのに、どうして気付けなかったのか。
感極まって、レナの手を取って感謝する。
「それだ──マジでありがとう! そうだよな、見える見えないより先に存在証明だよな! いやホントなんで気付かなかったんだろう……とにかくありがとな! 助かった!」
「お、おおー……どういたしまして。でも、カオル。あまり手を握らないでくれませんか……?」
段々と尻すぼみになる声に合わせて、視線は外れていくし頬に赤味が差していく。レナが異性と接触するのは苦手だと、聞いた話からは推測していたが……いやここまで来るか?
だとしたらかなり初心だぞ? 余計なお節介だが心配になる。
「悪い悪い。ついクセで」
パッと離すとそれはそれで、何処か名残惜しそうな視線を感じる。無論それは異性愛といったものではない。慣れておくべきかとか、そういう打算的な名残惜しさだ。
俺としては彼女が異性に慣れるのを手伝ってあげたいところだが、さてそれはいわゆるセクハラだろう。エロ本じゃあるまいし。
「……明日のデートで手でも繋ぐ? 慣れるがてら」
「か、考えておくでありますよ」
「男としては前向きに検討してくれると嬉しいね」
「どちらにとっていいのやら……では、わたしはこれで。あとはお二人でゆっくりしてくださいね〜」
「へ?」
「はい?」
笑顔で手をヒラヒラと振りながら自分の席に戻っていくレナ。
時間を確認すれば割とどころかかなり余っている。少なくとも30分は硬いだろう。
「二人でゆっくりったって……なァ?」
「とりあえず、外にでも行きますか」
「だな」
教室の中というのも味気ないので、俺たちにしては珍しく学院の外に向かう。とは言っても、外というか学院の裏山だが……
「こんなとこあるなんて知らなかったな」
「普通は縁が無いところですからね」
そんなやり取りをしながら、スカートの中身見えたりしないかなーとか邪念を抱きつつ、スイスイと進んでいく茉子の後ろを着いて行く。
中身がスパッツだと知っているが、役得は役得なのだ。というか、普通男ならそういうの嬉しいだろ。
……まぁ、相手が茉子だし見てもそういう感情や展開は皆無だろうが。
「……何見てるんですか」
しかし女の子はそういう視線に敏感である。足を止めてジト目……というか猫みたいな口元と、ニヤリとした小動物的表情を向ける茉子にゃん。無言で手刀を落としてこないところに彼女の優しさを感じる。
バレバレなので隠しても仕方ない。大人しく白状しよう。
「いやキュートでセクシーな太ももがね」
「太もも?」
「太もも」
が、しかし。
ここで意外なことが起きた。
太ももを見ていたと言っただけであり、こいつのことだから「お昼から盛んですね、あはっ。やーらしー」とか言ってくるものだと思っていたのだが……
「……ぁ、あんまり見ないで……」
しおらしい態度で、スカートの裾を引っ張って太ももを隠すような体勢を取って、若干満更でもなさそうに、だけどまあ恥ずかしいのか頬を朱色に染めている。
……可愛いんだけど。
そんな茉子の姿を見て、俺も動揺してしまう。
「な、なんだよぅ……そんなしおらしくなって、今更意識されても困るんだけど」
「ちっ、違いますっ! わ、ワタシはほら、足……太いですから……」
「えっ、あっ……そ、そうかァ? むしろ色々鍛えてるんだからそれなりに肉付きが良くないとおかしいんじゃないか?」
茉子の足が太いと言われても、何か違う気がする。比べる相手が違うのではないだろうか? 俺は好きだけど。
「いっ、いいから見ないでっ! 恥ずかしいのっ!」
「うん」
「……見ないでね?」
「じゃあ茉子の顔だけ見てるさ」
「バカ」
バカってなんだバカって。足見ないように上見てるのと何も変わらんやろがい。それから無言で歩き続け、それなりに景色の良いところで腰を下ろす。
「落ち着くね」
「あぁ」
肩に寄りかかってくる茉子に、なんかやけに今日は甘えてくるなと疑問に思う。
ただ、それはそれで心地良いからこのままがいいと思う自分もいて、なんだかおかしくって笑いそうだ。
「ワタシも、なんだか寂しかった」
「そっか」
「手、握って」
「今日の茉子は甘えんぼだな」
視線を合わせる必要も無い。ただ俺たちは、お互いに寄り添っていればそれでいい。
望み通り、その小さな手を握る。
……普通の女の子としては異質な、やや硬い掌。それでも彼女は紛れも無く女の子で、恋がしたいと願う普通の女の子。
「ねぇ」
「ん?」
「芳乃様と有地さんが付き合ったって聞いて、ワタシほっとしたの」
「なんでさ」
「芳乃様、もう因縁に囚われなくていいんだって……ワタシたちの償いは、実を結んだんだって。だから、ほっとした」
「そうかい」
「……あと、馨くんが苦しむ理由が一つ減ったから」
「優しいな、茉子は」
「そうかな」
「そうだよ」
茉子の温もりを感じながら、腕時計に目を落とす。俺たちの速度から言っても、そろそろ戻らないと授業には間に合わない。
「そろそろ戻ろうぜ。遅刻しちまう」
「ぁ……っ」
手を離し、ゆっくりと寄りかかる茉子が倒れないように支えつつ立ち上がり、どうせこいつも着いてくるだろうと思いながら歩き出して──
グイッと、腕が引っ張られた。
振り向くと、俺の手を掴む彼女がいる。
「茉子──」
俯き加減でもわかる、寂しげな瞳。
「もう少し……ワタシの側にいて欲しいの」
「本当にどうした。何かあったのか?」
「わかんない。わかんないけど……馨くんの側がいい」
「……茉子」
顔を上げて──
「お願い、行かないで──」
やけにしおらしい、彼女らしくない細く弱い声。
そして不安げな雰囲気を感じさせる、寂しげな表情が俺を引き留める。
いつも飄々として余裕を持ちながらも、心の闇を何処かに潜ませた茉子じゃない。弱い部分を曝け出して甘えてくれている、等身大の常陸茉子──
「わかった。じゃ、サボろうぜ」
なら俺は、彼女が俺にしてくれたように、俺も彼女にとっての支えになってあげたい。
たとえ一時であったとしても、彼女が弱みを晒け出せるのが俺しかいないというのなら、俺はそれを受け入れよう。
……それに今までワガママ一つ見せてこなかった茉子がワガママを言ったんだ。付き合ってやらないと失礼ってものだろう。
「うんっ、サボろ」
花が咲いたように満遍の笑顔を見せた茉子は、紛れも無く俺があの日見た、忘れられない綺麗な笑顔と同じだった。
あの日のあの笑顔は、やはり彼女だったのだなと強く実感する。
また二人で腰を下ろし、景色を眺める。
何も言わずに握ってきた手を握り返し、寄りかかる彼女に少しだけ体重を預け、目を瞑る。
茉子の鼓動と温もり、木々を通り抜ける風の音──それくらいしかわからないが……
「くくっ……」
「何?」
「別に」
「そ」
叶うのなら。
もう少しだけでなくて、ずっと──
■
昨日のことを思い返すと、胸にぽっかりと穴が開いたようだった。
こうして二人だけの空間にいることで、それが如何に自分にとって異質な状態であったかと悟る。
(……ダメだな、ワタシ……)
馨に体重を預けながら、茉子はそんな自分を自嘲する。
大抵、甘えてくるのは向こうなのに、今日は自分から甘えてしまっている。それが悪いとか、それに罪悪感を覚えているわけではない。
……ただ、立場が逆になっているだけだ。
家族にも、芳乃にもムラサメにも見せることの無い、自分のどうしようもなく弱いところ。それを知っていて、かつそれから来るものにどうしようもなくなったとき、頼れるのは馨だけだった。
そこにいるだけで頼りになる……とは大袈裟な話だが、実際幼少の頃からそう感じていたのは事実。
都合良く甘えていたと言えばそこまでだが、そんな茉子を拒絶することもなく、ただ受け入れてくれていた。
ずっと隣にいてくれる。
決して自分から離れることのない、大切な人……
たった一日だけ離れただけなのに、どうしようもなく不安だったと、彼から寂しかったなんて言われて、思わず喜んでしまった。
ワタシも同じ気持ちだったなんて──
(醜悪ですね、こんな感情──)
半ば独占欲にも等しいが、それと比べればあまりにも醜いと彼女自身がそう思って止まない。歪んでいると思っている。
その自罰意識から絶対にここから離れることはない、絶対に特定個人に執着することはない。
──だから絶対にワタシの側にいてくれる。
──離したくない。逃したくない。離れないで。行かないで。嫌いにならないで。ワタシは──
結局、授業をサボってまで二人だけの時間を確保したのは、そうした感情に従っただけ。止められなかった、止まれなかっただけ。
ごく僅かな時間とはいえお勤めを放棄し、色々あるであろう彼の時間を奪ってまでするほどのことかと言われれば、決してそうではない。授業をサボる価値があったのかといえばいつでもこんな時間は作れる。
……寂しいと言っていた馨だって、別にここまで必要とは思っていないだろう。朝の触れ合いだけで満足している筈だ。
(だけどワタシは──嫌な女です……)
醜悪な感情に蓋をすることもできず、卑怯な方法を使って他の誰にも邪魔されない、安心できる時間が欲しかった……なんて言ったら、失望されてしまうだろうか。
妬心じゃないって言いながら、実は他の人に心を開いたことに対する妬心だったって言ったら、驚いてくれるだろうか。
「……あったかいね」
「だな」
──だとしてもこの温もりを誰にも渡したくない。ワタシだけの温もりであって欲しい……それが何の感情であるかは、決して考えずに。
それはきっと、漫画で言えば集中線的な場面であろうと自分を納得させて。
ただ今だけは、この刹那だけは──
(レナさんにも、ムラサメ様にも渡さない……)
二人だけで。
──何の邪魔も入らずに。
「ね」
「ん」
「──今だけ、ワタシだけの馨くんでいて」
「本当にどうしたんだよ」
「そんな気分なの」
「はいはい……たまにはお前に甘えられるのも、悪くない──」
日光が映す影は一つのままで。
どうでもいい話だが。
丸々一限サボった二人は、当然怒られた。
ついでに色々と邪推された。