千恋*万花~福音輪廻~ 作:図書室でオナろう
デートから2日。
昨日は田心屋に食器を見せに行ったりしたくらいしか話すことがない。せいぜい、趣味のガーデニングをやったくらいか。
何もなく学院に来て、何もなく過ごす。その筈だったが──
「明々後日にやるんだ」
「はい、そうなりました」
「ん、予定空けとく」
一限目が終わったと同時に茉子から話しかけられて何かと思ったが、どうやらお祝いのことだったようだ。
明々後日……休日だが、仕込み等を考えても結構早い方だな。しかし一体誰が来るやら。
「俺以外には誰に声かけたの?」
「廉太郎さんと小春ちゃん、レナさんに馬庭さん……あとは玄十郎さんとみづはさんですね。今のところは馬庭さん以外は了承を頂いていますね」
「また安晴さんの酒が回りそうなメンツだなァ」
しかしそうか。芦花さんはまだ未定か。小春ちゃんが行けるなら、流石に開けるのは難しいんだろう。
でも駒川も来るのか……これじゃあ、アレだな──
「けど駒川来るなら酒飲めねーな。ったく、別にいいじゃないか。夜な夜な酒飲んで酔っ払ったって……」
「ほほーぅ? 馨くんは夜な夜なお酒飲んで酔っ払ってた時期があると?」
「あっ」
失言に気付いたときにはもう遅い。
「あは……」
茉子は一瞬にして笑顔を見せる。しかしそれはトキメキを感じるような優しいものではない。圧倒的な威圧と恐怖を感じさせるものだ。
普段より数段低い「あは」が、俺に怒ったときの駒川と同質の存在を覚醒させてしまったことを淡々と示してくる。
「い、いや……ほら、一時期自棄になってたろ俺。やっぱりさ、色々悩んで、でも誰にも言えなくてこう……」
やましい理由というわけではない。実際、生きろと言われても悩むときがあったのだ。それで苦しくなって、眠ろうにも眠れないときがあったため、逃げるために酒に手を出した。夜な夜な酔いに逃げて──それが両親に見つかって以来、色々と話したり駒川に助けを求めたりなどして、ある程度の踏ん切りはつけられたが……
「事情が事情ですし理解は示しますけど、あなたには甘いみづはさんがするなと言ったというのは、多分自棄酒が関係無いところですよね」
「ちっ、違うよォー? そんなことないよォー? 週一のペースで350の缶を開けてただけで、別に毎日って訳じゃないよォー?」
ズイとジト目で迫る茉子から顔を逸らしながら、妙に高音域な声でうっかりボロを出してしまう。
そう……意外と酒が美味かったのだ。
酔いで忘れる、ということをしなくなった後、今度は何気無く何の思惑も無しに酒を飲んだのだ。そしたらこれがまた美味く感じて──週一ペースで350の缶を一本、という風にコソコソやってたら両親にバレて怒られ、話を聞いた駒川にもこっ酷く怒られた。
医学的根拠から酒を否定されてしまえばまぁ仕方ないと納得したが、それ以上に如何に魔人の身と言えどアルコール依存症とかになったら嫌だろ? と言われれば同意してしまう。多分そっちが主な理由だった。
以来、飲むのはやめた。当時は成人後の楽しみは多い方がいいというわけではなかったが……今はそう思っている。
……まぁ、たまに親父の酒に付き合ったりして少しだけ飲んだりしたのだがそれはそれ、これはこれだ。
「それはいくらみづはさんでも怒りますよ」
「ぐぅの音も出ない」
呆れ顔でため息を吐く茉子だが、そうされても何一つ文句は言えない。
──逃げるために酒を飲んでいたはずが、いやまさか普通に美味しいからとかいう理由で飲むようになってしまうなど……まぁ、ここ二年以上はほとんど飲んでいないので味など忘れてしまったが。
「まぁいいさ。時刻はさっき聞いた通りでいいんだな?」
「はい。変更があれば、またワタシから伝えます」
「ん、サンキュ」
連絡も終わり、離れていく茉子を見送る。
……何故かは知らないが、どうしてか必ず俺への報告は茉子を通して行われている。
理由は不明であるが、しかし俺としては茉子の隣にいられるので役得である。
「ん? 馨も呼ばれてるのか?」
「まぁね。多分いの一番だったんじゃないかな」
玄さんが来ると聞いて渋り、しかしレナも来ると聞いて参加を決意した元気な廉がヒョイと声をかけてくる。
……まぁ構想段階から声がかかっていたというか、俺も関係者だしな。
「ふーん……」
「なんだよ」
「意外だなって思っただけさ。お前、こういうの割と付き合い悪かったじゃん?」
「あれは……色々あったんだよ」
ワイワイ騒ぐのはあんまり好きじゃない……ということもあってか、大袈裟なイベントにはほとんどと言っていいほど出たことがない。
だから廉が意外というのもわかる。小春ちゃんも芦花さんも意外だと言うだろう。
……もちろん、それは何も知らなければの話だ。知っている側から見れば、出なきゃいけない話である。
「便利だよねぇ、色々あったって」
何処か拗ねたようにボヤく廉。
そりゃそうだ。こいつからしてみれば目まぐるしく状況が変化しているし、その理由も知らない。疎外感を感じても仕方ないことだろう。
「仕方ねえだろ。知ってもつまんねーことばっかだし、色々あったで済ませた方がいいんだよ」
「そりゃわかってるんだけどさ。昔からお前は──俺に何も言ってくれねぇもんな」
その言葉を聞いて、罪悪感が頭を支配する。
「悪いな」
「いいって」
口数少ないやり取り。
俺が黙るときはそういうときだとあいつも察しているのだろう。それ以上は何も言わずに、将臣に絡みに行った。
「あっ、そうだ。馨さん、当日の仕込みを手伝ってもらえます? 多分茉子一人じゃ忙しくなっちゃうと思うから」
そして俺は申し訳なさそうにやってきた芳乃ちゃんを見て、あのバカは本当に人に手伝わせる気のない阿呆だなと、自分のことは棚に上げて、それを了承するのだった──
どうせ安晴さんも芳乃ちゃんも手伝わせまい。手伝わせても俺か将臣か。まったくあいつは基本一人で何でもやろうとする。
そういうところが放って置けない。
なんか不安だなァ……
予鈴が鳴り響く中、順調に進んでくれるものかなと心配した。
あと、ついでに自分の英語力も心配した。
……ラテン語とかそっちは多少齧っているんだけど、英語はなーんか苦手なのよね、俺。
「ほら稲上、ここ答えて」
「……げっ」
──今日も疲れそうだ。
放課後も過ぎて、夜になればいつものように茉子の帰り道に同行するために、いつもの場所に向かう。
ただ、今日は違った。
「どうした将臣。芳乃ちゃん放っておいて茉子の相手か。ケツの軽い男だ」
自然と表情が険しくなり、低い声になる。
茉子の隣に将臣がいた。
──ムカつく。
どうしてお前がそこにいる?
お前は芳乃ちゃんの隣にいるべきだろう? なんで茉子の隣にお前がいる? そこは……
「なんだよアレか? まとめて食うつもりか? お前が色情魔であるなら殺すべき魔物だ。ふざけた真似をしてみろ、今すぐにでもその首を落としてやる」
沸き立ち荒ぶる妬心に従い、将臣目掛けて無茶苦茶なセリフをぶちまける。はっきり言おう、正気ではない。それほどまでに今将臣に対して妬心と疑心を抱いている。
……単に俺が筋の通っていないことが嫌いということもあるが、妬心の方が多くを占めている。
「落ち着けって馨! そういうのじゃないから! 全然違うから! 怖い顔やめて!」
「ならどうしてお前が茉子の隣にいる」
「元々常陸さんに聞きたいことがあったし、それに俺はお前に用があったんだよ」
「俺に?」
奴の真剣な表情と声から考えて嘘は言っていないようだ。
まぁ、そういうことなのだろう。恐らくは裏の話か。疑心は完全に静まるが、妬心はそれはそれとして少し燻っている。
……その理由は考えないフリをしてきたし、きっと違うだろうと思い込もうとしていたが……まぁ、そんなオチだったのだろう。
──クククッ、貴様も男だな──
茶化すな虚絶。
……認めようとしてこなかったが、こと此処に至っては致し方あるまい……認めよう。
──見て見ぬフリをしていたし、気付かぬフリをしていた貴様らしい、その最果てだ──
やめろ、そんなの俺がわかってる。
──まさか、一度は否定したことが事実とはなァ?──
もういいって!
──愛い子よな、馨。そういうところは"私"に似たか。奥手なのはいかんぞ? お前はとても一途で純粋な男なのだからな……クク、ハハハッ──
らしくない笑い声が内面に響く。
実に俺の先祖だ、ロクでもないところがよーくわかったよ……
「……馨? どうしたんだ? 急に黙って」
「馨くん? 大丈夫ですか?」
「え? あっ、あぁ、わかってる。大丈夫だ」
いかんいかん。
奴と"昔みたく戯言で楽しんでしまった"な。俺らしくもない。
将臣と茉子に笑顔を見せながら、別になんでもないと言う。
さて……
「んで……じゃあどうするんだ? 俺に用があるなら、立ち話だと面倒だろう。茉子には悪いが、先に帰ってもらう感じか」
「そうなるな。ごめんね、常陸さん」
「いえいえ。全然気にしてませんよ。有地さんも馨くんも、送ったり待ってたりしてくれてありがとうございます」
茉子を省くような形になってしまい、将臣が謝ると、茉子は笑顔でそう言って、ペコリと頭を下げた。
「では、おやすみなさい。また明日」
「うん、また明日」
「あぁ、おやすみ」
家路に着く茉子を笑顔で見送ってから、俺たちは向き合う。
先ほどとは違って、真剣な表情でだ。
「……さて、立ち話もなんだ。ウチ来るか?」
「頼む。割と寒い」
「いくらあったかい時期とは言っても夜に薄着はやめとけって」
割と薄着派な将臣には、穂織の夜中は風が透き通っていてかなり冷たいらしい。俺は慣れてしまったものだが。
上着を貸しつつ、将臣をウチに案内するのだった。
■
「着いたぞ」
「悪いな、道忘れててさ」
「いいさ、一度来たきりだろ? 早く入れ。俺が寒くなってきた」
「……悪い」
上は肌着だけの馨が家の鍵を開けて家に入っていく。それを後ろから見ていた将臣は、馨の家を改めて見る。
前に来た時は、馨に礼を言うために茉子に案内してもらった時のこと。あの時は余裕も何もなかったから、全然覚えても気にしてもいなかったが、今見てみるとかなり異質だ。
(……まばらな配置の家。馨の家はだいぶ現代的だけど、他の家はかなり微妙だ。それに道は整備されていると言えるけど、中心に比べれば──)
「何もない」という印象を強烈に与えさせる家の配置と場所。東側の端っこにあることといい、意図的なものを感じずにはいられない。それを無理矢理にそれっぽく見せかけているような……とにかく歪だ。
(……馨、お前は……)
将臣が茉子の帰宅に同行したのは、彼女の家が意外と遠いのだと知って、流石に送りが必要だろうと思ったのと、彼女が何故ムラサメが見えるのかが疑問であったこと。
そして、彼女しか知らないであろう馨の真実を知りたいと思ったことだ。
『ご主人。吾輩は確かに昔から馨を見ておるが──馨の内面は駒川の者以外は知り得ないだろう。芳乃や茉子であってもだ』
『馨さんは昔から一人で考えて、一人で決めてる印象があります。でも私たちも自分の事で手が一杯だったから、本心と接する機会はあまり無かったんです』
『……ワタシは、馨くんのことを何も知らないんですよ。有地さんが思っている以上に、ワタシと彼は距離があるんです』
ムラサメも、茉子も、芳乃も、稲上馨がどういう人間かを知っているが、しかしその本質……いや、どういう考えをしているのかを必要以上に知らない。
馨は何が好きで、何が嫌いで、いつ生まれてなどは知っているが、その根底にあるのものは朧げにしか分かっていない。
ただ三人とも、馨と長らく接していた所為もあってか、言いたくないことなら無理に知る必要は無いと思って引き下がってしまっていた。
……茉子だけは何か察しているようだが、それを問い詰めるほど将臣は割り切れなかった。
(……それとなく聞ければいいかな。ちょっと長くなりそうだけど……朝武さん拗ねないといいなぁ)
きっと知らないと、何処かでひどいすれ違いが起きそうな気がする。
将臣は、茉子や芳乃ほど馨という人間を知らないし、理解し切れてもいない。
「お邪魔します」
ただ悪い男ではないし、根っこは非常に純粋で少年的な人物だ。友達としてもかなり面白い奴だし、できることなら歩み寄りってやりたい。
……いや本当に弟のような人だなと思う。
何処か寂しさを感じさせる家に入りながら、しかし愛しの彼女に無理言って来たことに由来する心配事を胸の奥底に抱いた将臣であった。
「珈琲でいいか?」
「ああ」
「ミルクと砂糖は」
「一応用意しておいてくれ」
「へーい」
テキパキとコーヒーを用意する馨に返事をしつつ、将臣はリビングを見渡す。
これといって特徴も無ければ、無駄なものがほとんどないリビング。ビニール袋や雑誌が至る所に放ったらかしなのは馨の気質からだろうか。
(写真だ。あれは……ご両親の結婚式の写真かな? その隣は、小さい頃の朝武さんと常陸さんと馨の写真だ。あとは……廉太郎といる写真なんかもあるな)
リビングの壁には綺麗な状態を保った写真がいくつか飾られている。馨だけが写っているものもあれば、他の人と一緒に写っているものもある。幼少の頃と思われる写真は純真無垢な笑顔を見せているが、歳を重ねる毎に段々と馨の表情は苦笑めいたものになっていっている。
──そして将臣は、その写真の中に芳乃を更に大人っぽくしたような女性が写っているものを発見した。
同時によく知る安晴も写っている。と、なれば……答えはすぐに出た。
(……この人が、朝武さんのお母さん。名前は確か、秋穂さん……だったよな)
芳乃によく似ている。いや、芳乃が秋穂によく似ているというべきか。しかし内面は安晴寄りだったりするのだと過去にムラサメが語っていたのを思い出す。
なるほど、本当にそっくりだ。
「秋穂さんの写真が気になるのか」
「えっ、あ、まぁ……」
「本当にそっくりでな、二人は。本人も言ってたぞ。「私たちコピーアンドペーストみたいでしょ」とか」
いつの間にか用意してきた馨がコーヒーをテーブルに置きつつ、よいこらせとジジ臭い呟きと共に座る。
「ま、詳しいことが知りたきゃ安晴さんの惚気に付き合うことだな。俺はあの人を語れるほど長く接していた訳じゃない。あまりにも短い──それこそ、ただ月並みに優し過ぎる人だったとしか言えないくらいにはな」
何処か遠くに視線を向ける馨の表情は、悲しげなものであった。あまりにも早すぎる離別──それがどれほどの喪失と絶望を与えたのか、将臣には計り知れない。
だが彼は、それが関係者一同にとって、とても大きな意味を持った出来事であり、そういう意味では未だ部外者と言っても過言ではない自分は何も言うべきではないと理解していた。
少し暗い雰囲気になってしまったな、とも思いながら冷めないうちにとコーヒーを飲む。
暑くて苦く、酸味もある。が、しかし──
「なんか、美味しいなこれ」
それはそれとして美味しい。
コーヒーなんてどこも同じだと思っていたが、世界は広いらしい。それを聞いて馨はパッと身を乗り出して喋り出した。
「わかるか? 何せ豆を直接挽いてるからな。マシーンでやってもいいんだが、手回しでゴリゴリやるのが結局一番なんだ」
「お、おう?」
「紅茶もいい茶葉が手に入れば味が大きく変わるが、でもな将臣。珈琲にしろ紅茶にしろ、淹れる奴の淹れ方次第では最終的な味が変化するんだ。面白いだろ?」
目をキラキラさせながら早口で語る彼を見るのは初めてだった。今までは年不相応に大人びた面か、子供っぽい面しか見られなかった。やはり年相応の面もしっかり持っていて、普段は隠れてしまっているのだ。
──どうにかしてやりたい。
傲慢で偽善、要らぬ世話かもしれないが、将臣は本気でそう思っている。
「……っと、興味無い話だったよな。悪りぃ悪りぃ。庭造りと植物の手入れ、それから珈琲と紅茶を嗜むことくらいしか趣味が無くて、ついついお喋りになっちまう」
「いや、気にするなよ。それに俺、馨のそういうところが知りたかったしさ」
「俺は彼女持ちの男に口説かれてるのか? もう少し言葉を選んだ方がいい。じゃないと女の子にボロクソに貶されて知らないぞ」
やけにその実感のこもった言葉には頷くしかできない。
──そういえばこの前、朝武さんと芦花姉のところに行ったとき、少し前に愉快な馨を見たんだーなんて言ってたけど、それがそうだったのかな? ……なんて思ったとき、きっと馨の言う女の子は茉子のことなんだろうと察した。
「んで、お前茉子に何聞いたんだ」
楽しげ、神妙──そしてムスッとした顔にジト目。茉子の事になるとすぐこれだ。わかりやすい、露骨すぎる。
忙しなくコロコロと表情を変える馨の姿は新鮮で、普段は一切見せることないものもたまに見えるが、今日は本当に馨本来の人間性というかそういうものが剥き出しになっている。
「だーからそう警戒するなよ。単にどうしてムラサメちゃんが見えるのかって気になっただけだから」
「む、その話か……茉子はなんて?」
「端的に言えば朝武さんの親戚に値するからとは教えてくれたよ。ただその後のことは聞いても教えてくれなかった。シケた話になるだろうからって」
「そうか。──つまり、シケた話をしに来たってことでいいんだな。将臣」
「ああ」
空気が一変する。
馨は残ったコーヒーを飲み切ると、何から話たものかとボヤく。
そして、静かに語り出した。
「稲上と常陸と朝武。はっきり言ってその関係が良好になったのは結構最近の話だ。大昔はビジネスライク以外のものが無かった……と言っても過言ではない」
「なんか想像付かないな。だって稲上は祟り神討伐のために……」
「違う」
彼が言ったことであるのに、他ならぬ彼に否定された。しかも即答で。
その表情は重く、そして……
「祟り神を殺すために呼ばれたわけじゃない」
苦虫を噛み潰したような顔。
重々しく開かれた口から放たれたのは──
「……伊奈神は、常陸家に対する圧力と始末するための処刑人として呼ばれたんだ」
信じがたく、受け入れ難い真実。
疑問が頭を支配される。圧力と処刑人? どういうことだ理解できない。
「え? なんでだよ? どうして忍びである常陸家を始末する必要が──」
親戚で忍びである常陸に対する圧力をかける必要はない。家臣だったのだろう? だというのに何故? そんな関係ではないだろう。
近くで見てきても、常陸と朝武の関係は良好なのに……
「お前、忘れてないか?」
渋い顔をする将臣を諭すように、馨は無表情で言葉を続ける。
「安晴さんは最初に言った筈だ。──ムラサメ様を認識して話すことができるのは、直系の血筋に限られている……と」
そこで……脳裏に浮かび上がった可能性。直系の子孫であるのに別れたもの。呪いの始まり──神を捧げて贄とし水晶を砕いた男。
死んだ人間、あの忌まわしい輪廻を描き出した人間……
「まさか……」
凍り付く。声が震える。
それを見て馨はそれを──
「かつて朝武の血筋は二つに別れて争った。逆恨みから争いを起こし、そして死んだ長男──そうだ、常陸の始まりはそこにある」
一切の慈悲無く、虚無以外の何者でもない表情とともに、ただ容赦無く肯定した。
「詳しい話は知らんが、死んだ連中以外は恩赦で許されたらしい。だが家臣として迎えるのは論外。故に合意の上で、汚れ仕事の忍びというわけだ。もっとも、他の家臣たちはそれを認めるのは難しかっただろうが」
「──だから、常陸さんはわざわざ遠いところから毎朝来てるのか」
「そうなるな。そして不安要素に対するカウンターで稲上は呼ばれた。魔物狩りなんて言うが、結局は人殺しさ。そういうことだったんだよ……殺す事態になったら殺すだけ殺して出てけ。だからここにいる。まぁ、ウチは本家からの逃走用資金とかあって動けないんだけど」
なんてことだ。
あんなに身を粉にして尽くしている女の子に遥か昔の因縁を背負わせる? 何故だ? 何なのだその不条理は? ふざけるなよ。かつて必要であったとしても、今なお続けるものではない。
自然と将臣の顔が憤怒に歪む。
幼少の頃から家族のように仲の良い三人の間にあった闇は想像以上に暗く、そしてみんな違う真実を刻み込まれ、追い詰められ、そして自然と何処か歪んで行った──
「……クソッ」
心の底から吐き捨てる。
──酷い話だ。あんまりにもあんまりじゃないか、こんなのは。報われていない。身を呈してあの呪いと戦ってきた三人が、根本からしてどうしようもないところで蝕まれていたなんて。
そりゃ馨も褒めてくれと叫びたくもなる。褒められずに謝罪されてばかりであるのならば、それは必要なことだと考えてもおかしくない。
糞食らえだ──こんな宿痾。
「おいおい、そんな怖い顔するなよ」
「茶化すなよっ……逆にどんな顔して欲しいんだお前はっ」
「まだ話には続きがあるんだよ将臣。とりあえず聞けって」
一番心を痛めているのは馨である筈なのに、まるで早合点をした子を宥めるような表情と声でそんなことを言う。
──お前だって好きな子が不当な扱いを受けているのなんて殺したいほど嫌だろう? とか思うには思ったが、鼻歌交じりでカップに新しくコーヒーを注ぐ馨を見るとそこまで焦る事でもなさそうだとは考えられた。
「一口飲んどけ。落ち着くぞ?」
「……やっぱり美味いな」
「そりゃいい豆使ってるからな。豆の分くらいは美味くないと困る」
熱さと共に入ってくる苦味と酸味が、怒りでヒートアップした頭に届く。しばらく無言でコーヒーを飲み、ちょうど半分になったくらいで、馨は続きを話し始めた。
「すでに場所移動の話は朝武家から何回も出てるが、向こうが断っているんだ。もう過去の因縁は無い。全て時代と共にもう終わった話だ。心配なら茉子に聞けばいい。補強してくれる」
「……そっか。なら、よかった」
「あと俺の話だが……まぁこればかりは仕方ない。けどもう呪いを生み出そうにも苦労するご時世だ。それこそ虚絶を用いなければ数日で消える雑魚しかできんさ。そんな程度なら、その心配は無いよ」
ケラケラと笑いながら「ほら、なんでもないだろ? あとは気の持ちようで解決するのさ」と呟き、残ったコーヒーを飲み干す。
その姿はまるで、無理矢理自分を納得させているようにも、それだけでしかないとして受け入れているように見えた。
自分の心配は空回りだったみたいだ──その事実に、安心した。
ところが。
「んでだ、将臣……ちょっと芳乃ちゃんには言えない夜遊びしない?」
馨がやけにいい顔でそんなことを言う。
「お前存在そのものがシリアスなのに出てくる言葉割と最低だよな」
もはやその落差に呆れを通り越してはぁ、となるしかない。
「その夜遊びってなんだよ」
しかし恋人に言えない夜遊びとは一体……いやまさかなと少し恐怖しながら尋ねる。そして──
「これからクレープ焼く。んでコーヒー飲みながら食う。俺食いたいし。ものがねぇからシュガーバターだけどいいよな?」
「あっ、これは朝武さんには言えない夜遊びだわ。頼む」
「へへ、任された」
帰ってきた答えにYESで即答した。
そんなこんなで出来立ての、異常なほどに綺麗な形のクレープが皿に乗って出てくる。ついでに準備していたコーヒーも入れ、夜遊びの準備は整った。
「クレープ好きなのか?」
「ああ、パンケーキと並んで大好物だね」
「ちょっと意外かも。甘いもの好きって」
「ま、魚と野菜と米食えりゃいいって公言してっからな。意外なのは否定しないさ」
バターが溶け切らない内に食えよー、と言ってからひょいひょいと食べ始める馨。それに倣って食べ始めると、すぐにあることに気が付いた。
──馨の料理にしてはやけに美味い。
いや、普段が不味いというわけではない。少なくとも将臣は自分以上であると見ている。ただ廉太郎や小春、それに芦花と茉子──料理ができる人たちと比べると見劣りするのは事実だ。
見た目は一級レストランみたいに寸分の狂いも無い完璧なものなのだが、肝心の味がとても雑なのだ。濃すぎたり薄すぎたり……食べて「ほぅ」とは思えるが美味しいかと言われると味の雑さが先に来て何とも言えない。
そんな彼が作った料理にしては珍しく、田心屋で出しててもおかしくないものだった。
「昔、芦花さんの作ったクレープを食ってさ。以来どハマりしちまったんだ」
「芦花姉が?」
「ウチに用事があって来た時に、気紛れに作ってくれたんだ。その味が忘れられなくて再現するために色々やってたら……クレープとパンケーキだけは美味くなってな」
「朝武さんに食べさせてあげたら? 甘いもの好きだし」
「お前がいるだろ。教えろってんなら教えるぜ? 一通り基本は頭に入ってる」
「んじゃ、今度お願いしようかな」
そんな風に二人は友人らしい一時を過ごし、友人らしく笑い合い、友人らしく冗談を言い合って、友人らしく楽しんだ。
だからこそ。
将臣にとって、馨が何故自殺を選んだのかわからなかった。
何故なんだ? 何がそれを選択させたんだ?
──そうして気が付けば、ほとんど無意識の内に言葉がスラスラと吐き出されていった。
「言いたくなかったらいいんだけど……なんで馨は自殺を選んだんだ?」
将臣は死のうとしたという事実は知っていても、その理由を知らない。絶望したから自殺する……というのは、なんだか馨らしくないし、もし言っていたら周りの大人たちが全力でどうにかしようとするだろうし、芳乃も茉子も止めることが簡単に想像できる。
……しかし、馨は誰にも何も言わず死のうとした。突然のことだった。相談できる相手は両親がいるというのに。
彼にはどうしてもそこがわからなかった。
そして、同時にそこに何か……馨の人間性の根底があるのではないかと薄々感じていた。
「……死線を潜り抜けた仲であるお前になら、言ってもいいか。これは駒川だけしか知らないことだ」
そして馨は彼に言う義理も無い筈なのだが、しかし何を思ったのか。彼自身すらわからぬ衝動に身を任せ、何故死を選んだのかを明かし語った。
「俺はな、将臣。
──
寝耳に水という言葉があるが、馨から出てきた真実は、将臣にとってみれば、突然隕石が眼前に落ちてきたような衝撃だった。
……なんだそれは?
──せいぜいが、こんな風になれたらなぁ、というボンヤリとした蜃気楼だけだ。
だが目の前の男は、愛した女の幼馴染は、蜃気楼を現実のものにしないと気が済まない……それの何と度し難く、苦しいことか。
「人に生まれたんだ。人として生きて、人として死ぬ。俺は最初にガツンとそう決めた。自分はこう生きて、こう死ぬってな──」
今も昔も変わらず、馨の願いは一つだけ。
──人として生き、人として死ぬ──
魔に近しくして生まれた少年が抱いていた、何の変哲も無い願い。
だが、彼は魔人として生まれたから、魔人として死ぬしかないのだと定義した。
「けど俺は魔人だった。魔人であるのが現実だった。人として生きて死ぬんだって決めたのに、蓋を開ければそれは叶わぬ願いだ。普通の人間なら、そこであれこれ考えてどうこうするんだろうが、俺は違う。それが叶わないなら、生きていたくもない──」
人として生き、人として死ぬ。それが願いであり全て。
自分はこう生きて、こう死ぬ──そう定めたこれを、最初に貫き通そうとした時に、最大にして最強の壁にぶち当たった。
最初に決めたのは人としての生、人としての死だというのに、友を殺す為の存在であるという、最初の現実に彼はぶちのめされた。
「ま、一種の潔癖症みたいなもんだと思ってもらえば分かりやすいな。有り体に言えば、何があっても絶対に間違えたくないし失敗したくないだけ。マンガやアニメの主人公みたく思い通りに行かなくなったときから、自分が憎くてたまらなくなるのさ」
「そんな……そんなのって、生きられないじゃないか!」
「生まれた時から死ぬ時まで間違い一つなく、賢者の如く生きて死ぬ。失敗したからこそ学べた? 必要な失敗だった?失敗してよかった? ──はっ、そんな戯言絶対に吐いてたまるか」
自分がこれと定めた道を走れない?
──なんという無能。
──まったくもって無様極まりない。
──恥晒しにもほどがある。
──筋が通っていない。
──吐き気がする。
馨とはそう思い、そう考える人間だ。
「やると決めたら押し通す。それ以外の選択肢なんざ在りはしない。途中でやめよう? 今からでもゴールを変える? ブレーキかけて道を探そう? ク、ク、あはっ、ハッハハハハハッ──なぁんて思えるわけねぇし選べるわけがねぇよ。大っ嫌いだ、ふざけんなってな!」
一度決めたのならば、後は徹頭徹尾雄々しく貫き通せなければ我慢ができない。理想型そのものになっていなければ気が済まない。傷一つ付かない理想の己であり続けていたい──それこそが、稲上馨という人間……彼の中にある最果ての真実だった。
「そこで諦められるようならなァ、俺は自殺を選んでねェんだよォ! 理想を目指して何が悪い! 擦り傷一つ憎んで何が悪い! 絶対! 完璧! 完全! 無敵! 最強! 最善! 最高! 男の子なら憧れて当たり前だろ!」
……自分は人として生きて死ぬ。そうしたいのにそうできないから。そんな己に価値も意味も無いから。
絶対でもない、完璧でもない、完全でもない、無敵でもない、最強でもない、最善でもない、最高でもない。
最初に思い描いた夢すら追えない。ならばと代替案を考えようとしても、それすら何一つ受け入れられない。
では死ね。
それこそ馨が、自分自身に下した判決である。
「……なんて悲しい性なんだよ、馨……!」
「駒川も同じことを言っていたさ。だからあいつは、俺に向かって"生きろ"と言ったんだ」
馨の脳裏に浮かぶのは、過去に自分の自殺を止めて、命を捨てようとした己に対する怒りを見せたみづはの姿。それが今の彼の原動力の一つ。
「決めたんだろ? だったら貫けよ、強い男の子なんだろ──あいつはそう言って俺に笑いかけたよ。一度の傷を嫌がるのも仕方ない。だけど魔人が人として生きられないとも決まったわけじゃない。これは失敗じゃなくて必要なことだ。傷のように見えて傷じゃない。最低でも二十歳まで生きろ、それでもダメなら、その選択を尊重する──」
しかし、ふと彼は顔を変える。
憧れの光に身を焦がされた殉教者ではなく、ただ一人の人間としての顔へ。
「……本当に二十歳まで生きるしか考えてなかったが……彼女に生きてと言われてしまったんだ」
そこで生きようと決めたのは、約束を守ると決めたならそれを成し遂げるという自分の性だけではない。
本当は、ずっと見て見ぬ振りをし続けてきた理由があった。
「──その辺はいいか。大声で言うようなもんじゃない」
「好きなんだろ、常陸さんのこと」
間髪入れずに弾き出された言葉。
「…………………………………………………………………………………………………………」
──たっぷり1分以上の沈黙。
そして視線があっちこっち行った後に、空のカップに手を伸ばし、中身を見て止める。
それから表情が面白いように百面相を始める。そこでやっと、ああ周りから見たとき自分もこんな顔をしていたときがあったんだろうなァ……と、将臣は納得した。
ぶっちゃけ、あれで隠せているつもりなのだろうか。関わりの浅い将臣が見ても、馨が茉子に好意を寄せているのは露骨だった。茉子がどうかはわからないが、少なくとも姉的な感情ではないのは確かだろう。
そして、一言。
「……………………………………まァ、うん………………」
内心さっき認めたばかりで、他人に言うのが恥ずかしいからと黙っていたこの男は、物凄く小さな声で、常陸茉子への好意を、他者に認めた。
「……ま、流石に惚れた女に生きてと言われたら生きようと考えるわな」
そう、結局はそれだ。
心の底から愛している女性に生きてと願われた。それだけで生きる理由になる。
……それに、色々考えてみて、無意識下で理解していたことがある。
「人として生きて死ぬ。それが貫けないのなら迷わず死ね。これは変わらんさ。押し通すのも変わらん。そして生きれば、傷を負い続ける自身を責め恨み続け──事あるごとに飽きもせず懲りもせず、己は何と罪深く度し難い存在だと苦しみ呪うんだろう」
しかしそう言い切って、彼は笑う。
「でも──それでいい。それがいいんだ。そうでなければならない。理想を貫けない、間違ってしまう、間違えてしまった苦しみを抱えてでも、生きるということが人の生であり、後悔を抱えて終わるのもまた人の死。過去を振り返ったときに、あぁ──こんな失敗もあったと認めて先に進めば十二分だ」
……そう口にして、ストンと胸に落ちた。
どうやら今の今まで、俺はそこまでたどり着きながら気付いていなかったらしい──馨は静かに笑い出す。
「やっと判った。ずっと知らなかった。生きるということは苦痛を感じることだったんだ。間違ってた──その事実に死ぬほど後悔しているし、今でも死ぬべきとすら思っている。これからもどんな些細な間違いであっても嫌だと思っている。だけどそれはそれだ。そんな間違いもあった、失敗もあった。それだけなんだ」
もう、死を選ぶ必要など無い。
生きるということはそういうことだと理解して、納得したのだから。
「死んでるように生きたくないからって、生きてるように死んでいたけど、これからはそれをやめる。死んでるように生きてやるさ。俺は生きたい……生きたいんだ」
生きるという前提から間違えていた。
だからこそ改めて始める。貫き通してみせると決意した。
「次に自殺を選ぶ時が来るとしたらそれは──俺が本当に人として生きられないとわかった時か。あるいは……茉子を、愛せなくなった時だろうな」
──真実人で無くなったのならば、それこそ……自分が死ぬべき存在になったのだろうと。
神刀の担い手と、妖刀に選ばれし者。
あらゆる意味で対極に位置する、光と闇が如き存在たちは。
「だからな将臣。もしものことがあったら……頼めるか?」
「あぁ。そのときは必ず俺が」
初めてその位置を確認し、理解をして、一つの約束をしたのだった──