千恋*万花~福音輪廻~ 作:図書室でオナろう
闇夜の中に、誰かがいる。
「ふむ……陽が堕ちて陰が登らねば、我が身は未だ窮屈なまま、か」
冷たく低い声。
彼女を知る者がその声を聞いたのならば、唖然とすることであろう。
……まるで、あらゆるものを無機質に、客観的に、機械的に捉えているかのような声であると。
「して、これは悩ませてくれる。今憑代となっている者に迷惑をかけられるほど、不出来なものではなく、むしろ好感が持てるというもの。故に……さっさと器を探さねばな」
しっかりとした足取りで歩く先は神域。
鍵無くば開かぬ扉を、如何なる魔技を用いたのか開けること無くすり抜ける。
「──偶然、というわけでもあるまい……抜け殻がある筈だ」
眼前の仕掛けを見ながら、一人呟く。
「まぁ一人に取り憑いたままでは、怪しまれるか。適当に拝借させてもらうとしよう」
だが、それには目下の悩みがあった。
「……だが、困ったな。拠点をこの憑代として、手足の調達なぞ上手く行くものか……」
しかし、今日に限っては──全てが自由だった。
「──あぁ、今日は都合が良いのだった。目が無いというのは実に素晴らしい」
クツクツと笑いながら、憑代の住む場へと戻っていく。
「子供の頃以来か、宝探しなぞ。いやしかし、これはこれで乙なものだな……」
楽しげに、愉しげに、嗤いながら──闇夜の中に潜む者は、何処へと消えた。
「そうだ。拝借したら甘味でも食べよう」
……とても普通な呟きを残して。
■
竹刀が竹刀に弾かれる。
──寸分の狂いも無い、完璧な軌跡だ。完全にこちらの太刀筋を見切られている。
そのまま高速の切り返し。
受け流しも弾きも出来ない。対応出来る技術が無い。
よって、後退するしかできない。
「ダメだ。太刀筋が寝惚けてる。話にならん」
距離を取った俺を見て、圧倒的力量差と共に、冷たく言い放たれるその言葉。
俺の知る伊奈神京香という女は、何処かヘラっとしたお気楽な奴だが闇を抱えた人間だったが、認識を改めねばならない。
こいつは、根っからの戦士だ。
なるほど、こりゃ不器用にもなる訳だ──
しかし、俺は愚直に撃ち込むしかできない。再び地を蹴り接敵、袈裟に竹刀を振るう。
それをゆらりと。
最小限の動作と、最小限の移動距離で回避し、そして──
「腕の延長線で刀を振るな。このザマでは棒切れを持ってるのと変わらん。刀は武器だ。刃物だ。殴るな。突くな。斬れ。貫け」
容赦無い叱責と共に、左の肘打ち。
斬り込んだ体勢から強引に身体を捻ってそれを回避した瞬間、目にするのは弓を引くが如く引き絞られた右腕。
──突きが来る。
認識した刹那、強烈な勢いを付けて放たれるその一突き。
その異形の血族たる力を完璧に使い、そして真剣であれば人の身など軽く吹き飛ばすであろう圧倒的破壊力を秘めた、一撃絶命の攻撃。
生じた一瞬を決して逃さぬ、正しく殺人技巧。
さて、ここからどうやって逃れたものか。
避けるか? 防ぐか? いや技量が足りない。
──受けたら死ぬ。再生が間に合わない、殺し切られる。
「だったらっ!」
であれば強引に避けられるようにするしかない。
迫る竹刀に対して、逆手に持ち替えた竹刀をその軌跡に横殴りにするように、無理矢理にその軌道をズラす。
無茶なやり方故に、俺の竹刀が宙に飛ぶ。
無論それは予想通り。跳躍し、後ろに回り込みつつ竹刀を順手で掴み、首裏を斬りつけるように振るう。
だが。
「最低限の負荷で弾き隙を作れ。防ぐならば確実に防ぎ、避けるならば確実に避けろ。半端をすれば狩られるぞ──このようにな」
再びの叱責と共に、突き出した腕を腰に戻し、回転しながらの横薙ぎが竹刀目掛けて振るわれる。
受けきれない状態で、力を込めた一撃──無様に撃ち落とされたが、墜落前に地面に足を向けて着地したが、受けた勢いが殺し切れず距離が離れる。
──どこまで離れた?
咄嗟に顔を上げると、居合の構えで俺を見据える京香の姿。
……迎撃か? それとも追撃か? どっちだ?
斬り込むか、斬り返すか。その一瞬の迷いをまるで読み取られたように、奴は意識の隙間を縫うように──
「択を迫れ。惑わし殺せ。見え透いた剣には裏と力があると知れ」
……叱責。
俺の眼前に現れ、再び居合斬りを放つ。
──直撃だ。
「──っ!?」
激痛が走る。追撃の袈裟斬りが見える。咄嗟に軌道に差し込んで防ぐ。続けて二撃、三撃とこちらの反撃を悉く潰す為の、再び一撃絶命の攻撃を入れる隙を作るための連撃だ。
「握るなら攻め続けろ、握られたなら守り続けろ。攻防とは即ち流水の如し。なればこそ瞬間と瞬間の隙間を奪い、切り返せ」
一切の隙を生じない攻撃を繰り出し、防戦一方に追い込んでなおこの言い草。簡単に言ってくれやがる。
だが、だ。
技量が足らず弾き返せないのならば、その攻撃を外させれば必ずしも隙が生じる。そこを狙うしかない。
一撃の軌道を見る──袈裟斬りだ。体勢は立て直している。ならば防げ。軌跡に刀身を滑らせろ。
──防いだ。
次は横薙ぎ。次も防げ。
思考と同時に腕が動き、竹刀と竹刀がぶつかって離れ、腕が外側に大きく弾かれる。
……これが弾き返しって奴か。ぼんやりと把握したが、同じものをやれと言われたら無理だ。
──だからこそものにする。
外に動いた腕での反撃は、大振りの上段か横薙ぎか突きに限られる。
京香は……横薙ぎだ。これでは回避しなければ首を落とされる。
もっとも、通常の反撃であればの話だが。
素早く腰に竹刀を当てる。抜刀術の体勢──姿勢を低くして懐に飛び込む。
そして奴よりも早く、腕を振るい胴を斬り裂く──!!
「見事なり」
楽しげな声。
そして一際大きく響く、竹刀のぶつかる音。──防がれた? どうやって?
鍔迫り合いの状況から、驚愕と共に視線を動かす。
「それは己が技術か。その齢とその環境でよくぞここまで研ぎ澄ましてみせた。だが切り返しだけで殺せるほど甘くはないぞ」
撃ち合いを始めて、やっと褒められたが、しかし確実に殺ったと思った一撃を難なく防がれた。
横薙ぎの斬撃を、咄嗟の逆袈裟斬りで防がれた。化け物め。
「──並みの者であれば、これで死んでいたがな。場数を少しでも踏んで、死地に身を置いたものであれば、死中に活を求めるのは当然だろう」
──鎧着て刀持って和弓担いで馬に乗ったスーパー鎌倉武士どもみたいな常識を持ち出すんじゃねぇぇーッ!!
そういやウチの直系のご先祖様も、歴史的に見ても族滅という恐ろしい言葉が頻繁に出てくる時代で傭兵モドキやってたぐらいにはバーサーカーなんだっけか……いやそもそも歴史的に内乱と戦闘に明け暮れていた時代の人ならば基本的にバーサーカーなのでは? てか京都とかでも市街地戦起きてたんだっけ? 日本人戦闘民族説。
いや戦闘民族だわどう考えても。舐めたら殺すを500年くらいやってたし。
悲しくなりながら、容赦なく繰り出された拳を無防備な腹に受けて、俺は青空と対面して地面さんと仲良くなった──
「戦いにおいて殺気と呼べるものは、相手に向かってこれで殺します、死んでくださいと宣言するに等しいよ。キミはそれがあまりにも先走り過ぎている」
起き上がって適当なところに腰を下ろした俺は、眼前のご先祖様から容赦の無い叱責を受け続けていた。いやそんなこと言われても困るし……
「不満そうだね」
「朝っぱらから起こされて何をするかと思えば慣らし無しで撃ち合いとか気ィ狂ってるんじゃねーのか」
「やかましい」
「クソが」
悪態を吐けば切り捨てられたので更なる悪態を吐く。多分、俺今すごい顔してると思う。茉子には見せられないくらいの。
「基本的に一撃で仕留めるのは、暗殺の類。そういう意味では暗殺者向きね、馨は。短刀ならそれでいいけど、刀──特にその無銘みたいな異形において一撃で仕留めるのは余程の達人でなければ無理。キミのやり口と致命的に噛み合ってない」
「しかもタメになるのがムカつく」
「奪い取るのは敵手の未来、一矢二矢三矢と積み重ねて如何に必殺に至るかってのよ」
「……ふーん」
確かにそうなのだが。
まったくもって正しいのだが。
「……で? それがデートに臨む事と何の関係があるんだよ」
──なんでか知らんがこの女、朝に「おら起きろ! デートに挑むための下準備すんぞ!!」とか叩き起こして、何故か将臣と共に学院に向かえと言い、そして行ってみればいきなり出てきて「構えろ馨。遊んでやる」とか言い出してこれである。
何故俺は朝っぱらからご先祖様にボコられなきゃならんのか。しかも好きな女の子とのデート当日に。
……カッコつかないんじゃん。
「いや昨日の醜態見せといてカッコもクソもあると思う?」
「うぐっ……」
人の頭を読みやがったコイツ……
京香の言う醜態──つまり昨日の昼寝、その後のことだ。
……妙にあったかいと思って目が覚めてみれば、なんでか茉子が隣で寝てた。しかも抱き着いていた。
めっちゃいい匂いした。
ほっぺ突っついてみたらめっちゃ柔らかかった。
頭撫でてみたら髪めっちゃサラサラだった。
──魔性だったとも言える。
てかズルかった。あんなに安心した顔で、可愛い寝息立てて、なんかもう、ズルかった。
余計好きになるしかなくね? いやマジで。
「何だらしない顔してんのさ」
「うっせぇ!」
ニヤつきながら言ってんじゃねぇ!
……しかも、まぁ起こすのも忍びないしと二度寝したら、今度は起きた彼女に膝枕されていたのだ。
それを見られた。バッチリと。将臣と芳乃ちゃんに。
もちろん、からかわれた。
もう昨日は散々だった。
初めて「話しかけんなチクショー!」とか捨て台詞吐いて風呂入ってふて寝したよ俺。
「俺びっくりしたよ。まさか帰ってきてみれば常陸さんがお前を膝枕しててさ」
「お前も大概テンションがイカれてたが、一番テンションヤバかったの芳乃ちゃんだよな」
隣で休んでいる将臣の言葉で、ふと昨日一番ハッチャケていた芳乃ちゃんの言動を思い出す。
──二人ともこれはもう夢のある話じゃないの?
──なんで茉子は平然と膝枕してるの? そしてなんで馨さんは平然と受け入れてるの? やっぱり赤飯じゃない
──あっ、今私すごく後悔してる。茉子、後でまた馨さんに膝枕してくれる? その顔を映像に残したいから
──将臣さんこれもうプリン案件ですよ。プリンですよプリン
──お父さんズルい! 一部始終見てたんでしょ!? ズルい!
──どうして二人は尊いのか
「……ぶっ飛んでたなァ……」
「俺あんな芳乃初めて見たよ」
「俺も初めてだよ」
目をキラキラさせながら、尻尾があったらブンブンしてそうな感じにハイになってた芳乃ちゃん。
まるでガキの頃に戻ったみたいだ。
「でもこれからはそれを間近で見れるのはお前だかんな将臣」
「あー……それもそうか」
「あの子を幸せにしろよ? 婚約者殿」
「気が早いな!」
「ハハッ、仕返しだ」
「何のだよ」
「なんかの」
ケラケラと笑い合う俺たちだが、ご先祖様はそういう雰囲気ではないらしい。ジト目が俺を射抜いている。
「何男色と寝取りに目覚めてんの?」
「はぁー!? テメェっコラァ!! 俺が茉子以外に心奪われる理由が無いんですがコラァ!!」
「どーかねー。あ……ムラサメちゃんに姉貴味を感じてたり、可愛いとか思ってたり、膝枕されるのも悪くないかもとか思ってたりするクセに」
「うぐっ……」
言葉に詰まる。
だって事実だし。
「流石にやりすぎでは」
ボコられた俺を見かねて玄さんが助け舟を出してくれるが──
「おいおい玄ちゃん、私の血筋の倅が恋愛クソザコナメクジなんだよ? ケツ蹴っ飛ばしてもこのザマだよ? へなちょこ過ぎるでしょ」
「あの……玄ちゃんはやめていただけませんか」
「馨にゃ玄さん呼び許してるのに私はダメかい? 不公平だねェ」
困った顔の玄さんと、さぞ楽しそうな京香から分かる通り、この人ですら手玉に取られている。……というか、俺のご先祖様であるのと根っからの剣士であるのもあって、玄さんがタジタジだ。
「しかし玄ちゃん、将臣君には剣術仕込んでないのかい?」
「そもそも仕込めるほど基礎があった訳でもなし。錆を落とすならば、慣れている方が良いというものでしょう。それにワシは、剣術がどうにも合わなかったのですよ」
カラカラと笑ってそう言う玄さんだが、反対に京香の目は極めて冷徹だ。間違いない、気付いている、見抜いている──俺の知らない玄さんの一面を。
「なるほどね。あの鞍馬の倅が、なんで剣術使ってないのか気になってたけど、そういう理由かァ。時代の流れかしらね────とでも言うと思ったか? 疼かせてくれるな、まったく……真剣があれば鯉口鳴らして誘ってたところだ」
一気に冷え込む口調と、凶悪な笑み。
伊奈神京香は、激動の時代を生きていた人間だ。死と隣り合わせ故に弱者から強者まで常日頃より殺しと友人である時代──必然的な話だ。
故にこの、強者との立ち合いを望む面は、彼女の数少ない悪癖と言えよう。
ただ玄さんとしては全然やりあう気は無いようだ。全然雰囲気が変わってない。
「む、それは困りますな京香様。あの剣術、老体には応えます」
嘘つけ。
あんた俺とまともに打ち合えるほど動くじゃないか。
何シレッとシラを切ってるんですかね。そんな苦笑した感じで。
「ふん、老境でありながら衰えが見えんぞ。それどころか更に研ぎ澄まされている。密かに剣術を遊ばせているな?」
「家族より剣鬼になる気かと呆れられる程、かつてより振ってます故、そう簡単にやめられるものでもありません」
「違いない。すまんな玄十郎。無理を言った」
と、なんだかお互いにちょっと未練みたいな雰囲気を出しつつスッと普段通りに戻る。それを見ていたムラサメ様は感慨深かそうに──
「あの玄十郎がまさか、ここで一戦交えぬとは。角が取れて丸くなったのう」
と、俺にとっては恐怖でしかないワードを呟いた。
「そうなの? ムラサメちゃん」
「おうさ。昔は馨の祖父と頻繁に剣の腕を競っていたし、強い者とは一戦を交えたいとギラギラしておったぞ」
「若い頃の祖父ちゃんの話ってあんまり聞いたことないけど、なんていうか少年漫画的だったんだな」
「じゃが根っこはあの廉太郎と似て、結構アレじゃったぞ?」
「……ねぇ玄ちゃん。ムラサメちゃんがキミの黒歴史を暴露しそうなんだけど?」
「むっ、ムラサメ様!? 何の話かはわかりませんが、あまりにそのようなことは困ります!!」
「わははは! お主は変わらんな本当に!」
「聞こえてないっすよムラサメ様ー」
すごくわちゃわちゃし始めたが、俺はものすごく気になっていることがある。こいつがはぐらかしたネタ──つまりこれとデートの関係性だ。
「で。これがデートと何の関係あるのか答えろよ」
「え? 大抵の問題は刀振ってる間に解決してるものだからほら」
「どーせ自分が遊びたかったんだろ」
「バレたか」
いたずらっ子のような笑顔。
その言葉を聞いて苛立ちが天を突いた。
「チェストーォッ!」
すぐさま竹刀を振りかぶり、殴りかかる。
「誤チェストにごわす!」
が、しかし流石は剣士。
フツーにこちらより早く殴り倒され、俺はまた青空さんと対面して地面さんと仲良くなるのだった──
それから数分と経たずに、俺はボロボロの気分で完全回復した身体を動かして帰路に着く。
──なーんか、損した気分だ。
「のう馨」
「あんだよムラサメ様」
不意にムラサメ様から声をかけられる。何事かと思って見てみれば、何やら不思議そうな顔が目に入った。
将臣も訳を知らないようで、不思議そうにしている。
「昨晩、何か感じたか?」
「いや、何も。だったら起こされてる筈だし……」
──我も知らんな──
おっと、どうやらご先祖様は引っ込んだようだ。虚絶の方が反応した。
ただ奴が感知していないとなると、ムラサメ様の話は一体?
すると、とても神妙な顔をしながら……
「実は昨晩、ちょうど日を跨ぐ頃か。それくらいに、何者かが本殿の前にいたのだ。黒い……そう、黒としか言えぬ何者かが」
衝撃的な事実を言い放った。
頭が冷える。思考が研ぎ澄まされていく。人の暖かみを持っていたものが全て取り外され、必要無いからと遠ざけていた冷酷な始末屋としての中身が溢れ出す。
「……本当に?」
「嘘を言ってどうする。じゃが、祟り神ではなかったのは確かだ。故に困った」
「ムラサメちゃん、どうする?」
将臣は言葉少なくそれを伝えるかどうかを聞くが、帰ってきたのは否定だった。
「……茉子の犬の話が目下の課題だ。吾輩たちで留めておこう。その黒が敵であったとしても、戦力が欠けているのが事実なのだからな」
「確かにそうだね。……ちゃんとデート頑張れよ? 馨」
「え? 待って? どういうことだよ」
デート頑張れって……言われても。
本気で困惑する。だって偽デートなのに気合を入れる必要とか無くね? というか話の前後があんまり繋がらないような……
そうやって顔をしかめさせていると、二人が揃ってため息を吐く。
そして──
「偽恋人を本物に出来るチャンスだぞお前」
「この機に乗じて茉子に想いを告げてしまえ」
異口同音に、絶対的に不可能なことを言いやがった。
「……お前らなァ……」
俺はもう、逆に呆れ返るしかできない。
……まぁ、なんとなくは想像が付いている。しかしだ、しかし……結局俺自身の踏ん切りが全く付かないのだ。
「……わかってるよ。合理で見れば、ここが一番ベストなんだろ? でもさ……」
求めている。
伝えたい。
なんでもいいからこの気持ちに終わりを打ちたい。
けれどそれ以前に俺は──彼女に相応しくないのが事実だ。
……どうして俺みたいな、こんな奴のことをと思わなくもない。いっそ本当に片想いであれば、ここまで苦しむことはなかっただろう。
「無理だよ、俺には」
……逆にわからなくなった。
彼女に好かれたから好いているのか、彼女を好いただけなのか。
茉子の好意を、なんとなく察しただけに、俺はどう考えてどう動いていいのか、まったくわからない。
逃げられないし、立ち向かうには迷いが多すぎる。
……こういう時、察しの良い自分が殺したい程に憎くなる。
知らないことが罪だとしても、知りすぎることもまた罪である──それをこうも味わうことになろうとは。
「……難儀だな、好きになるって」
愛とは狂気だ。何せ憎悪と紙一重なのだから。正気のままではこんなものとは向き合えない。
狂わねば呪いとなるし、狂ったところでより狂わねば素面でなぞいられない。
無防備であればきっと、求めてしまうし、きっと茉子も求めてしまうんだろう。けれど、俺は……まったくわからない。
……いや、正直に言えば。
関係が変わることによって、茉子が俺の更に身近になるのが、あまりにも怖い。
近すぎる故に、彼女を失望させないだろうか?
俺という存在がどうしようもなく愚かだと知って、逆に苦しまないだろうか?
やがて新しい恋を見つけた時、変な男に引っかかったと後悔しないだろうか?
「わかってても、どうしようもない」
自嘲が漏れ出す。
いや、自嘲だけでなく羨望もまた溢れ出す。終わった奴らは気楽に言ってくれるものだ、と。
「馨……」
「ホントさ、気付いてしまったって感じだよな。知らなければ、ある意味気楽だったってのに。どうして俺は────」
きっと俺は、本当に愛しているのに、君に愛していると伝えられない。
君にそう伝えられるほど、俺は強くない。全然覚悟が決まらない。
あぁ、茉子……どうしてお前は……俺なんかを……
他に何も喋ることなく、帰ってきてみれば。
「……ただいま」
「おかえりなさい」
やっぱり慣れない。
笑顔の茉子に迎えられるのは。
「眉間にシワ寄ってますよ」
「わかってるよ」
「……大丈夫?」
「平気だって」
まぁ、余計な心配をさせたくないし、悩んでるのは……大した話とは言い難いものだ。
所詮、俺が彼女に想いを告げられない、というだけに過ぎないのだから。
──それは大した話であろう。貴様と彼女にとってみれば──
……なんだよ急に。
お前は何なんだ、何者なんだ虚絶。
──ふむ、我は我でしかなかろう。我という存在は、我でしかない。"私"が"私"であるように、貴様は貴様でしかない──
……京香とは違うのか、お前は。
──さてな。知ったところで無意味だろうよ。今の貴様にとって意味あることは、その狂気を如何にして伝えるだけの勇気を持つことだ──
なんだろうか、この違和感。
何かが違う。京香とも、虚絶とも。絶対的に、何かが。
こいつは本当に虚絶なのか? だが……京香以外は有象無象だぞ? なんだ、なんなんだ?
──悩むなよ端末。柄にもないことをするからそうなる。貴様は元より考えたくなければ働きたくもない人間だろうが。惑わば死ぬぞ──
……それは。
──クククッ、お前は既に答えを得ている。なればこそ、後は心に導かれるだけだ。頭と心は、似て異なるもの故に……な。せいぜい馬鹿になることだな、馨──
とても楽しそうに告げると、奴は消えていった。
……馬鹿になれ、と言われても困る。どうやって馬鹿になったものか。それが問題なのだから。
「馨くん」
「なんだよ茉子」
ジッと、彼女に見つめられる。
ただただ無言で見つめられる。
見つめられるから見つめ返すと、少し顔を逸らした。
「顔逸らすなよ」
「……恥ずかしいの」
消え入りそうな声。
よくよく見れば頬が仄かに赤い。
……意識して、くれてるのかな。なんだか意地悪をしたい、いたずらしてやりたいという小学生男子並みのダメな感じが湧き上がる。
多分馬鹿になれの馬鹿とは違うが、別な意味で馬鹿になってる。
だから────
「ひゃっ!? 」
珍しく驚いた、とても可愛らしい声に顔。
そりゃそうだ。俺が肩を掴んで顔を寄せてるんだから。
「目を逸らさないでくれ」
「そ……っ、そんなこと言われても……」
「ダメか?」
「あの……なんで?」
「それ、は──」
なんて言い訳しようか、考えてなかった。いやもう、いっそ言い訳なんか要らないんじゃないか? 俺が茉子の好意に気付いたように、茉子もまた俺の好意に気付いてるかもしれない。
だったらいっそ、このまま──
「……茉子の顔が、見たいから」
「え……っ?」
「それじゃ、ダメか?」
素直になってみるのも、悪くないかもしれない。
──すると茉子は困ったような苦笑とは裏腹に、顔を合わせることはないけれど、嬉しそうな声で。
「ダメじゃないに、決まってるよ……」
……やばい。なんて可愛い生き物なんだ。こんなに可愛い子が俺に好意を向けてる可能性があるって信じられんぞ。
肩を掴んだまま、顔を覗き込む。
「……近いよ」
「じゃあ離していいの?」
「やだ」
「……はい?」
やだってお前……
「どうせなら、このまま──」
「おっ、おい茉子……?」
熱で浮かされたような瞳が、俺を写している。
淡い朱に染まった頬が、はっきりと俺に向けられている。彼女はどこか意を決したような表情なのに、なんだか魅力的で仕方ない。
「……馨、くん」
「あー、馨君だけど?」
小さく求めるような声に、なんとも間抜けな返事しか言えない。他のことなんて考えている余裕が無い。余裕なんて奪われてしまった。
「馨くん」
もう一度、求めるような甘い声。
彼女の白い手が、俺の頬に添えられる。
「あの、茉子さん?」
「……」
「おぅい」
返事は無い。
ただ熱に浮かされたような、蕩けた瞳が向けられるだけ。
「……」
「……」
なんだか全部どうでもよくなって。
そのまま、俺たちは。
まるで甘い蜜に惹かれるように────
「二人とも? 玄関で何してるの」
「ぅおぁっ!?」
「わひゃぁっ!?」
芳乃ちゃんの声に驚いてバッと離れる。
見れば芳乃ちゃん、とてもご立腹なムスっとしたお顔をしていらっしゃる。
「あ、あはー……べ、別に何もしてませんよ!? 本当に何もないですからね芳乃様!? ねっ! 馨くん!」
「へっ? あっ、うん。そうだな! 何もないよ! だからその……ムスっとした顔やめてくれないかな芳乃ちゃん!」
慌てて誤魔化す茉子に合わせて、とりあえず俺も誤魔化す。いや無理あるだろとか色々思うものはあるが、一度言ったんだ、引っ込みがつかん。
……ていうか、あのままだときっと……うん。
──間違い無く、キス…………して、たんだろう……なァ……
「へぇー……」
低く呆れた声に、冷え切ったジト目。芳乃ちゃんのこういう声も好きだ。
……じゃなくて! そんなこと考えてる暇があるのか無いだろう!
「なんでもいいんだけど、ウチの玄関で変なことはしないでね。馨さんも茉子も、そういうことするなら部屋でやること。いい?」
「「はい……」」
「わかればよろしい」
そうして居間に戻っていく芳乃ちゃん。
なんとも言えない雰囲気になった俺たちは、何を話すわけでもなく居間に向かう。
……あれ? 芳乃ちゃんなんか妙なこと言ってたか?
──気のせいだろうよ──
まぁ、そっか。
──やれやれ……どちらもどちらか。求めれば答えるクセに──
なんか言ったか。
──いや、何も──
……なんか、腑に落ちない。
それから朝飯を食って、気付けばもう学院に行かなきゃいけない時間。
とは言え、俺と茉子は今日は休みだ。将臣と芳乃ちゃんを送る側になろうとは……という感じだが、なんだろう。ちょっと……なんというか、まぁ……うん。
気が早いな我ながら。
「それじゃあ茉子、行ってくるわね」
「お気を付けて。ご一緒出来ず申し訳ありません」
「いいのよ。そんなに気にしないで」
……と、さっくり挨拶をしていたが、何を思ったか芳乃ちゃん。何か茉子に耳打ちしている。
「キスの邪魔してごめんね」
「あっ、あれは馨くんが意地悪するからですっ。ワタシからじゃありませんっ!」
「いいや、馨さんみたいなヘタレが自分から手を出す筈ないもん」
「実感こもりすぎでは。芳乃様」
「別に将臣さんに手を出されないことを不満に思ってるわけじゃないわよ?」
「まぁ、ほら、お二人はそこまでベタベタするよりもーってだけでしょう?」
「何処かの誰かの、なんとも言えない距離感のイチャつきを見せられてああはならないと決意したの」
「あ、あは……それはそのぅ」
「というか、私キスもまだなのに茉子は早いわね」
「申し訳ありません……」
「謝らないでよ茉子。いいじゃない、それくらい積極的な方が」
……何を話してるんだろうな? なんか茉子が忙しそうだ。
そう言えば、と隣にいた将臣が不意に声をかけてくる。
「馨、お前玄関で何してたんだ?」
「まぁ、色々だよ」
「……そーかい」
なんだその含みのある表情と声は。
お前だってこの前、人が外出てる時に芳乃ちゃんとしっぽりした雰囲気になってただろう。
「あとで教えて、ムラサメちゃん」
「よかろうご主人。全て教えてやるとも」
「ちょっと!?」
ムラサメ様は卑怯だぞ将臣!
……いやまぁ、別に知られたっていい筈なんだけどなァ。何故だろうさね?
──しかし、安晴さん異常に勘が鋭かったなぁ……どうしてわかったんだ? 芳乃ちゃんとムラサメ様は見たからわかってて当然だけど、その後は俺ら普通だったぞ?
これが大人かね。
と、そんな風に頭を悩ませていると呼び鈴が鳴る。はてこんな朝っぱらから誰なのだろうか? 近場にいた芳乃ちゃんが扉を開けると、何故かレナがいた。
「おはようございますです」
「おはようございます、レナさん。でもどうしたんですか? 何かあったとか……?」
「マコからデートをすると聞いたので、大丈夫かを見に来たのです」
「あぁ、茉子だものね」
「えぇ、マコでありますから」
「ちょっとお二人とも!?」
「それに相手がカオルでありますから」
「確かに。馨さんだからね」
「おぉい!?」
なんかすげぇ言われ様。
そんなに俺たちって……あー、否定できんわな。
いや待て。なんでレナそれ知ってるの? 多分茉子だよな出所は。
「なんで言ったのさ茉子」
「だって、いざしてみようかってなったらとりあえず報告しておくべきかなって」
「律儀だねお前は」
……まぁなんでもいいんだけどさ。
てかそろそろ時間だな。引き止めるのも悪かろう。
「そろそろじゃない? 学院間に合わなくなっても知らないぜ」
「おっとこれ以上長いすると悪いから、さっさと行こうか」
「そうですね、二人の邪魔でしょうし」
「しっかり楽しんでくださいね〜」
「では、頑張れよ」
そう声をかけると、まるでこれ以上はお邪魔虫みたいな返答をみんながしてからさっさと行ってしまった。
話し声も聞こえなくなり、本当に俺と茉子の二人っきりに──なっちゃった。
……うん、なっちゃったよ。
「……ねぇ、馨くん」
「んぁ?」
「やっぱり、やめる?」
まるで、何かを確認するような言い方。ただやめて先延ばしにするとかそういうものではない。
──俺たちは、この機を逃せばきっと、いや絶対に今のままでズルズルと堕ちていくだけだ。
そんなもの、人間関係としても最悪極まりないし、互いにこの狂気と向き合うことなく目を背け続けるだけ。
立ち向かうしかない、向き合うしかない。
そうしなければ俺たちは、本当の意味で前に進めない。
俺たちにとってお互いの存在が、最後の鎖だ。事態がある程度解決する前の、呪わしき状況に繋ぎ止めているのは俺たち自身だ。
それを振り払うことこそ必要、そしてこのデートで互いに振り切らなきゃ、苦しみ続けるだけだ。
だから。
「やめない。やろう、デート」
「……うんっ」
俺はまるで自分に杭を打つように、その言葉を口にして、彼女もまた、自らに杭を打ち込むように、笑顔で頷いた。
────そうだ、結ばれたいとかそうじゃないとかはどうでもいい。
俺たちは未だに始末屋と従者だ。
微かに人の部分を曝け出しているだけだ。
本当の自分とか、そんな大仰なものではないけれど、最後の鎖を外して、本当に始めるんだ。
そう、"人生"って奴を────
……昼過ぎ。
犬になっても困るし、ついでに学院を休んでデートなものだから何も知らん連中に見つかると面倒だからと、違和感の無い時間帯を選んだ俺たちは、ようやく家を出た。
目的地は田心屋。
あそこならそれっぽいことできるだろうという、実に合理的な理由から選んだので、甘いもクソも無いのだが……まぁ、それでいいならそれでいいかみたいな、うん。
隣で歩く茉子は、あらかじめ水筒を持ってる。そりゃなったら困るしな。
ただまぁ、デートだってのにその仏頂面は……どうしたもんかね?
と、ここで初めて犬になった日の事を思い出す。あれはもはや朝帰りだったが、確か手を繋いでいた筈だ。
なら──
「手」
「? 手がどうしたの?」
「出せよ、繋ぐぞ。デートなんだし」
「あ、そう……だね」
どこかぼんやりした声が帰ってくる。大丈夫かねと頭を悩ませていると、掌に彼女の温もりを感じて──いや待て。
温もりはいい。いいんだが……なんで、指と指が絡んでるの? これ所謂恋人繋ぎだよね?
「そういう繋ぎ方するかお前」
多少の抗議と嬉しさを隠す意味も込めて、ややツンケンした物言いをする。
恥ずかしいんだもん。
「だってデートじゃん。今日一日は恋人なんでしょ?」
しかし、茉子は笑顔でそんなことを言いやがった。
顔が熱くなる。そのまま目を逸らす。
なんだこれ、なんなんだこれ。こういう展開かよこれ。
「あは、どうしたの〜?」
「……見てわかれ」
「はいはい、恥ずかしいんだね。馨くん、本当にそういうところだよ?」
「何が!?」
「えへへ、ナイショ」
ニコニコと笑いながら、口に指を当ててそう言う茉子に、思わず見惚れてしまう。ダメだ俺、本当に今日はダメだ。朝も昼も……このままだと夜もダメそうだな。
……あぁもう、これやり直すとか鎖を外すとか以前に、馬鹿になってないか俺……
それからは無言だ。
話が続かない、というかこの状況が心地良くて話す必要も無いと言うべきか。歩幅を合わせて、手を繋いで歩くだけだっていうのに、それがとても幸せだ。
けどそんな時間ほど、えてして早く過ぎ去るのは必然だ。気付けばもう田心屋の前にいる。結構な距離があった筈なのに。
「手、離すか?」
「もうちょっと、このまま」
惜しむ声を聞いて、より強く握る。
そのまま戸を開けて──
「いらっしゃいませ。ってあれ? 馨に常陸さん?」
キョトンとした顔の芦花さんと目が合った。
「こんな時間にどうしたの? というか、学院はどうしたのかな」
どうした、と言われてもデートしていると返せばいいのだが……なんでか俺も茉子も、言い出せない。
「流石にサボりなら苦言を……って、まぁ! そんなにぎゅっと手を握り合ってデートだったんだね! いやお姉さん気付かなくてごめんね〜。奥の席でいいよね? すぐ案内するから」
「へっ? 芦花さん?」
「あっ、あの?」
しかし手を繋ぎっぱなしだったのを見られて、そのまま大人な態度から小悪魔お姉さん的態度に早変わりして、あれよあれよと奥の席へと案内される。
「……えっと、芦花さん」
「何かな?」
「確かにデートしてるけど、やけに嬉しそうだね」
「そりゃ中々進展の無い二人が学院サボってまでデートしてるんだし、ワクワクしない筈がないよ」
「あ、あの馬庭さん。この事は出来れば内密に……」
「うんうん。わかってるよー」
なんか、スゲーニコニコしながらこうも通りがいいとなんというか逆に気になる。
「さて、ご注文は?」
そして流れるように注文を尋ねる辺りもう楽しそうだ。こんなに楽しそうな芦花さんは中々見たことない。
まぁ、楽しそうならいいか。
「ワタシはコーヒーで」
「俺は和紅茶で」
「普段と逆だね」
「まぁ、そりゃ……デートだし」
「待って二人とも。何かデートを勘違いしてない?」
「普段してないことをすれば、それっぽいかなって」
すると芦花さんは信じられないものを見たような表情で、俺たちに対して容赦無く叱責した。
「それならどうして二人はオシャレをしてないの! 普段してないことをって言っても、ただ普段着に変わっただけで、たまに放課後ウチ来る時と同じじゃない!」
「……言われてみれば、そうですね」
「つっても、俺たちが普段と違うことをするのって難しいんだよな」
全くの正論なので、頷くしかできない。そんなぼんやりした俺たちを見て、深いため息を吐いた後──
「よしわかった。常陸さん、ちょっと時間もらえる? オシャレしよう」
「オシャレ……ですか」
「お下がりで悪いけど、雰囲気合いそうな服の一つや二つあるからさ。女の子なんだから、可愛く着飾らないと」
「えっと……じゃあ、行ってくるね」
「あー、うん。行ってらっしゃい」
押し切られたのか、それとも乗り気なのか。煮え切らない返事をしながら、茉子は芦花さんに連れられて奥へと向かっていった。
……さて、暇になってしまった。
運ばれてきた和紅茶を飲みながら、どんな服を着てくるのかと、年甲斐も無く期待していた自分に気付き、どこまでも茉子が好きで仕方ないのだなと、自嘲した。
それから約30分程か。
不意に芦花さんが奥から出てくる。
茉子は出てこないのは何故か。サプライズ?
「おまたせ〜、どうどう? 馨的には期待大?」
「そりゃ当たり前だよ」
「だってさ、常陸さん?」
「この格好ではちょっと……馬庭さん!」
はい?
なんだかトンチンカンなセリフが奥から聞こえたぞ? 多分俺すごい間抜け面してるぞ?
「どんな過激な衣装着せたの? 青少年のなんかが危ない感じ?」
「そんなことしないよ!? というかアタシのお古なんだからそんなのあるわけないってば!」
「でも茉子の反応はどうもそんな感じだけど」
「ううっ、スースーします……!」
「……待ってて馨。連れてくる」
「へ? あ、うん」
突撃、すごいよ芦花姉さん。
再び奥へと向かった後、声が聞こえてくる。
「恥ずかしがってないで行かないと、ほら」
「で、でもこんな格好初めてで不安なんですっ」
「大丈夫だって。常陸さん可愛いんだからさ」
「だからって……」
「馨も悲しむと思うな〜? せっかく着替えた常陸さんに期待大なのに〜?」
なんか俺ダシにされてるんだけど。
「う、ううっ……わかりました……行きます……」
なんか折れてるんですけど。
というか茉子の奴、こんなにヘタレだっけ? あぁでも、いつだか足見てたら恥ずかしがってたから、本人はその魅惑のおみ足が見えるのを嫌がってるのかもしれないな。
なるほど、そりゃ芦花さんも俺をダシにするわ。頑固だからなぁ、茉子は。
そうしておずおずと出てきた彼女は────
「あ、あんまり……見ないで……」
普段の洋混じりの和装とは全く違って、青と白の清掃な洋服に身を包んでいた。赤いネクタイが中々にチャーミング。髪型も変えて、右側にお団子を作っている。
スカートとニーソ(俺は詳しく知らないので間違えててもよくわからんが)の間から見える絶対領域の素肌が……あっ、スカートの裾を握って隠しやがった!
「……やらしいよ……」
「ごめん」
「そ、それで……どう、かな?」
「あー……えっと……その……うん」
「似合って、ないよね……」
「馬鹿言うなお前っ、似合ってるに決まってるだろ。つか俺が言い淀んだのは見惚れてたんだよっ」
落胆したような目線と声を認識すれば、そうではないと声高く宣言したくなるもの。例えそれが自分の恥ずかしい本音であったとしてもだ。
「へ……っ? そうなんだ」
「おべっかじゃないからな」
「うん……うんっ」
本当に花の咲いたような笑顔を見て、俺は思わず頬が熱くなるのを感じる。そうした羞恥心からか、彼女から目を逸らしつつ──
「あと、なんだ……茉子、綺麗だ」
ポロっと、隠しておきたかった本音が漏れ出た。
「綺麗……可愛いじゃなくて?」
目を逸らしているのでわからないが、声は若干不満気だ。しょうがないだろ可愛いよりも綺麗が先に来たんだからっ。
「不満かよ」
「なんだか、ちょっと微妙な気分かも」
「ごめん」
「謝らないでよ、もぅ」
呆れたような声を聞き、少し普段の調子を取り戻して、視線を彼女に向ける。普段とは全く違う色の服装に、全く違う髪型。
オシャレってすごいな。普段だって目も眩むほど魅力的なのに、それ以上に引き上げるなんて。この場合は芦花さんの目利きがすごかったのか。
とりあえず、感謝しなければ。
「芦花さん」
「なぁに?」
「最高。ありがとう」
「どーいたしまして、って言いたいところだけど……デート中に他の女の子に目移りするのはいただけないなぁ」
「女の子って歳かよ。立派に女性じゃんか。ま、気にしてる芦花さんも──」
可愛くて好きだけどさ、と続けようと思ったのだが……いやそれはダメだろうと。
今俺は茉子とデートをしている。茉子の彼氏(代役)なんだ。やべぇ代役でも嬉しいんだが? おい朝のシリアスどこ消えた。
……しかしこの失礼な発言をどうやって取り消したものか。
それっぽいことそれっぽいこと……
「──実に少女的だ。なあ茉子?」
「矛盾してるよ、馨くん」
「え、マジ?」
「……どうせ可愛いとか言おうとしたんでしょ」
「うぐっ……」
「別にいいけど、ワタシだって妬くんだからね」
「わ、わかってるよ」
ダメじゃん俺。
しかしそんな漫才をしている俺たちが面白かったのか、クスクスと芦花さんが楽しげに笑う。
そして──
「なんだか本当に、恋人みたいだね。二人とも」
……そう、言った。
てか言われた。言われてしまった。
「……だってさ」
「うん……」
「……」
「……」
二人揃って、目を逸らして黙り込んでしまう。
いやだって……ね?
「純情過ぎないかな。……まぁ、いいや。それで何食べるの?」
「なんかそうだな、デートっぽい洋菓子とか」
デートっぽい洋菓子ってなんだよ、というすごく微妙な顔をされてしまう。我ながら何を言ってるやらという感じだが、仕方ない。
「馨くんの食べたいのでいいのに」
「お前和菓子より洋菓子の方が好きだろ」
「覚えてたんだ」
「思い出したんだ」
へへっと笑い合う。
「あー、うん。わかった。なんかそれっぽいのね。うん。アタシちょっと今日は糖分控えめにしようかな」
そんなことをボヤきながら、奥へと向かって行く芦花さんを見て、悪いことをしたかなと思いながらも、対面に座る茉子の、その珍しい姿に目を奪われる。
「スースーするとか言ってたけどさ、丈は制服と変わんねえぞ?」
「スパッツ無いのは初めてというか、あんまりないから」
「の、割にはお前の忍び装束はだいぶギリギリの絶対領域だし、しかも露出激しいよな。スパッツ無いし」
「あれは、なんだろう。お勤めだから気にならないのかな。先祖代々だし」
それは知らなんだ。
……まぁ機会があればじっくり見せてもらおうかな。
「しかしまぁ、洋服ね。本当によく似合ってるよ」
「あ、ありがと」
モジモジと恥ずかし気に小声で返事をする茉子が大変いじらしいのですが、ご先祖様私どのようにしたらよろしいのでしょうか。
──抱けば?──
ファックご先祖!
テメェ本当に使えねえな!
──馨がプラトニックすぎるんだよ。てか私に話しかけんな。茉子ちゃん見ろよ──
はい……ごもっともで。
「そのさ、一通りあれこれやった後、どうしようか」
「ね。ほとんど行き尽くしてるし」
「ま、テキトーに回って帰るか」
「そうしよっか」
そんな具合でさっくり決めてからしばらくすると、至って普通の──いや、結構な量のあるパフェが運ばれてきた。多分二人でちょうどくらいか。
「なるほど、デートで定番の二人で半分こって奴だな」
「確かに、ちょうど二人前くらい? あ、馨くんからでいいよ」
「いいのか? 好きだろ、こういうの」
「たまには馨くんのそういう顔が見たいの」
「嬉しいこと言ってくれるね、まったく」
じゃあ遠慮無くとスプーンを取って……そこで気が付く。
スプーンが一つしかない。
なるほどなるほど、アレをしろってんだな? この前は何をやってるやらって感じだったが、今日は意識してそうしろと。なるほど。
ヒョイと掬って、それをズイと茉子に差し出す。
「ん。口開けろ」
「ワタシのスプーンは?」
「無い。だからほれ」
「それなら、ワタシからやりたかったな」
なんて可愛いことを言いつつ、素直に目を閉じて口を開けて待機する。相変わらず可愛い奴だな、とか色々思いながら食わせてやる。
「あーん」
「あーん……うん、美味しい」
赤みの差した頬で、笑顔を見せてくれる。とても可愛い。
「そっか」
俺も照れてしまうが、まぁ頑張って笑顔を見せる。
「スプーンちょうだい」
「え? 俺も?」
「嫌?」
「……茉子がしたいなら」
「じゃあさせてっ」
「うん」
そう言われたらもう断れない。
大人しく諦めて、俺も受け身になる。
彼女にスプーンを渡すと、そのまま掬うのではなく、俺の隣へと移動してくる。
そうして一口分を掬ってから。
「はい、あーん」
「……あーん」
一拍置いて、口の中に広がる確かな甘さと同時に、絶対的に言葉に出来ない幸せを感じる。
「あは。顔、だらしないよ」
「マジか」
「嬉しかった?」
「もちろん」
「そっか。じゃ、お願い」
「ん。なんだか、恋人っぽいな。こういうのって」
そう言うと、茉子はなんとも言えない表情を見せた後、はにかみながら──
「今日一日は恋人でしょ、ワタシたち。そう言ったじゃん」
そういう言い方はやめろと、暗に言われた。つまりなんだ、今日は恋人なんだと。
……嬉しさと恥ずかしさで頭茹だりそうだ。
それからしばらくパフェを食べて、なんとも言えない幸せを互いに噛み締めながら、しかし今日一日だけしかこういうことができないという何処と無い寂しさも覚えていた。
……言えば、確かに、なれる。
彼女もきっと、それを望んでいる。
でなければ今の今までの、あのなんとも言えないアプローチめいたものをする筈がない。
でも、なんだろう。
なんだか、腑に落ちない。
それでいいのか?
まるで弱みに付け込むようだ。
──やはり、俺たちはやり直すべきだろうな。
「それじゃ、デート頑張ってね〜」
「はいはい、頑張りますよー」
「ご馳走さまでした」
ニコニコと楽しげに、しかし俺たちがそれっぽいことをしていた時にガン見していた芦花さんに見送られながら、俺たちは田心屋を後にした。
「さて、ぶらつくか」
そう言って手を差し出すと、茉子は何も言わずにぎゅっと握りしめる。
「うん。……あの、スカート大丈夫かな」
「芦花さんを信じろ。大丈夫だ。ただ忍者機動したらパ──いや、まぁ、見えるだろうけど。普通にしてりゃいいのさ」
「……はぁ、締まらないね馨くん。もうちょっとムード考えてよ」
「悪りぃ、善処する」
心底呆れた声と、ジト目で正論を言われたので素直に受け取っておく。
けれど、洋服の茉子──まるで普段とは別人だ。これなら一目見て茉子と気付く人間も少ないだろう。
ただ時間もいい時間だ。そろそろ学院から帰る奴らが街に出る頃だし、騒ぎになっても面倒なのは事実。
さてどうしたものか。
「ね、鮎食べに行かない?」
「お前ネタねぇからってそれでいいのかよ」
「あは」
「誤魔化すな。ま、目標が無いよかマシか。行こうぜ、あそこ」
歩幅を合わせながら、プラプラと歩き出す。
不思議と誰も気付かないものだ。茉子がよく行っている店の人も、俺を知っている人も、誰一人とて気付いていない。
……まぁ、暖かく見守られているという線もあるのだが、どうでもいいか。
しかし茉子と歩きながら、今俺はあることに気が付く。
……ここはあの串焼き屋に向かうルートじゃない。何も無い、というかごく普通の裏路地だ。人気がほとんどない。
「……茉子?」
何を考えている? という意味も込めて、彼女の名前を呼ぶ。
茉子は応えるように振り向くと、握っていた手を解き、そのまま俺にポスっと飛び込んできた。
「ワタシさ」
顔を胸に埋めながら、彼女は小さく呟く。
「今日が終わるの、嫌」
「それは……それは、俺も……俺も嫌だ」
やっと、本音が出てきたような気がする。俺も彼女も──
「……今日が終われば、またいつも通りの──よくわからない関係になるんだよね」
「そう、だな」
「……もう、それでいいんじゃないかなって、ワタシ思うの」
「茉子……」
静かに顔を上げ、俺と視線を合わせて、茉子は何処か諦観を纏った声で、言葉を続ける。
「だって、ワタシには芳乃様みたいな勇気は無いし、馨くんだって、踏ん切り付かないんだよね? だったら、今のままで、堕ちちゃえば──」
その言葉を聞いて、もはや思考は置き去りになっていた。ただ反射的に動くように俺は──
「ダメだ」
そう、否定していた。
気付いてしまった? 気付かれていた? だからどうした。そんなものは些細な話だ。
心底驚いた表情の彼女を見て、自分たちがどうなりたいのか、どうあるべきなのかをはっきりさせなければならないと、強く思う。
「ダメだ茉子。それじゃ俺たちは堕ちるままだ。そんなの……そんなのこそお互いに不幸なまま、苦しみ続けるだけじゃないかっ」
「馨くん……」
「俺思ったよ。今日さ、その服に着替えたお前を見て、お前の色んな顔も姿も見たいって。もう姉とか妹とか兄とか弟とか、そんなところで妥協なんてお互いにできないって」
だからと。
今度はふざけてじゃなくて、はっきりと理由を──彼女を離したくないという想いを込めて肩を掴む。
「だから俺、今踏ん切り付いたよ。ありがとう茉子」
「じゃあ──」
喜しさの宿る声に、驚きながらも嬉しさの笑顔を見せる茉子を正面からはっきり見て、俺は遂に──
「やり直そう、二人で。今度こそ。だから──!」
「……うんっ」
「……だから、そのぅ……えーっと……」
裏路地。
二人きり。
ほとんど密着して後一歩。
そして見つめ合っている。
役満であるのにも関わらず、何故か……言葉が出てこない。恥ずかしいだとか、多分色々混ざってると思う。
期待に満ちた表情の茉子が物凄い呆れ顔になっている。
「馨くん?」
ただ名前を呼ばれただけなのに、なんか物凄く悪いことをしたような気分だ。いやめっちゃ悪いことをしてる。
「えっ!? あっ、いや、そのな! だから俺は、そのお前が、えっと……その……あー……」
「ちょっと?」
「………………」
──ホント、どうしよう。
「……」
「……」
「…………」
「…………」
「………………」
「………………ねぇってば」
言葉が、出てこない……
「……………………」
「……………………待ってるんだけど」
だから俺は──
本当に情けないことだが──
「ええっと……友達から、やり直しませんか……?」
死にたくなるほど情けない、そんな……あまりにも無様過ぎる告白をした。
「……友達?」
「うん……」
「ふーん」
ニヤリと茉子が意地の悪い表情を浮かべる。
そしてそのまま──
「あは……その先、言ってくれないんだ」
ヒョイと背伸びして、耳元でそう囁いた。吐息と囁き声がめちゃエロい……じゃなくて!
顔を離して目を逸らしながら、
「言おうと思ったけと言えなかったんだよ!」
なんともさもしい言い訳。
クスクスと笑われてしまい、顔を熱を感じながら名状し難い変な声を出す。
そして笑いながら茉子は──
「バカ」
「うぐっ……」
「ヘタレ」
「でっ、でもさぁ!」
「ワタシのなけなしの勇気を出した告白はダメだって言ったクセに、自分はダメダメな告白だなんて酷いよ馨くん」
「え。あれ告白だったの!? 気付かなかった……」
「は?」
「あっ。いやごめん!」
「もぅ」
まるで子供を見守るような生暖かい声と表情である。
さっきまでのムードは何処へやら。俺たちはあまりにもアホらしい、すっとこどっこいな雰囲気に変わり果ててあーでもないこーでもないというザマ。
なんと、情けないことか。
うぐぐと情けなさと後悔でぐちゃぐちゃになりながら、しばらく何も言えず何もできない状況が続く。
そんな中で、茉子はため息を吐いてから優しく言った。
「いいよ、ワタシ待ってる」
「へ?」
「友達で待ってる。だからちゃんと伝えて。あんまり待てないけど」
「……ありがと」
でも、と茉子は続ける。
「待って欲しかったら、ワタシのお願いを聞いて」
「いいよ。俺にできることなら、なんでも」
「"なんでも"?」
「……できることならだからな」
言葉を間違えたかと考えつつも、しかし茉子の頼みならばよっぽどの無理難題でもなければおおよそ叶えてやるつもりだ。何せ俺のあまりにも情けない無様を見た上で待ってくれるのだし。
すると茉子が急に赤くなってモジモジし始める。
……なんだ? おいまさか抱けとかそういうのじゃないよな? 勘弁してくれよ? そういう展開なら勃つには勃つけど、全然気乗りしないからな?
そして。
「……キ、……キス……して……」
消え入りそうな声で、そんなことを言ってくれた。
「……キスって、あのキス?」
「ちゅー、だよ」
「マジで言ってんの?」
「本気だもん」
「なんで?」
「恋人の時間が、終わっちゃうから」
はっきりと目を見て、けど顔は赤らめたままで、茉子は俺に向かってそう言った。
恋人の時間が終わってしまう──確かにそうだ。これくらいしなければ素直になれない俺たちが、次に素直になれるのはいつなのか。
……それにこいつが、この服を次に着てくれるのはいつなのか。
頬の熱を感じながらも、とにかく俺は返事をする。
「わっ、わかったけど……その、誰かに見られたりとかしないか?」
「あは、気にするんだ」
「そりゃあ、今は俺の……恋人、なんだし……」
「……ズルいよぅ」
「ズルいのは茉子だっ」
赤面しながらはにかむ彼女から、目を逸らしながら呟いて、俺は深呼吸を一つ。
そうして視線を元に戻した時、見えたのは──
「おい端末。また犬になったぞ、この小娘」
「空気読みやがれよォッ!!」
わふぅ、と一鳴きする子犬の茉子と、それを抱えて服だ下着だを持った虚絶。
……もう、なんだよクソがぁ……
「……キスもお預けかよ」
「だからあれほど強気で行けと言ったろうに。して、どうする。湯を使うか?」
「街中で素っ裸はマズい。とりあえず戻んぞ。茉子、いいよな?」
「わんっ」
そうして締まらない俺たちは、ガックリと肩を落としながら、朝武家に帰還するのであったとさ……