千恋*万花~福音輪廻~ 作:図書室でオナろう
──決行の夜。
俺たちは本殿の中、憑代の前にいた。
忍び装束に着替えた茉子に巫女服姿の芳乃ちゃん、叢雨丸を携えた将臣……そして神主姿の安晴さん。
安晴さんがここにいるのは、彼の希望によるものだ。
『決して邪魔はしない。何もできなかった僕だけれど、せめて……見守らせてくれ』
ただひたすらに見守る側にしかなれなかった彼を思えば、この申し出を拒絶することなどできるはずもない。
危険ではあるが実際、何事も無ければ問題無いし、何事が起きたなら、それをどうにかするのが俺の仕事だ。
……まぁ、身を丁寧に清めるとなると少々痛かったが。
なお犬神は特に何を言うわけでもなし、手を貸すと言っても多少の助言程度で済ましたようだ。見定めるのであれば、確かに納得のいく事だ。
──なぁ馨、上手く行くと思うかい?──
そうなるように祈るしかない。
後は天運に任せる、それだけだ。
──キミって天運とか嫌いそうなのにね──
嫌いというか、好きになれないだけだっての。
でも他に縋るものものない。やれる事を全部やったなら、最後に残るのは天運に任せるか祈るか。
俺たちにできることは少なかったが、やれるだけやったのも事実。よって俺は残ってることをやるだけ。
「ご主人、茉子に叢雨丸を」
「わかった」
ちなみに叢雨丸を持つことは何故か、俺はできなかった。
奇妙なことに、叢雨丸を持つとか渡されるとかで『手に取る』という行為に移ろうとした場合、意識と言動に反して身体が全く動かなくなったのだ。しかも無理に握らせようとすると絶対的に握ろうとしない。
……恐らくは本能的に相容れぬからだろうというのが俺、京香、ムラサメ様の見解だ。
まぁわからぬことはわからぬしな。
「……え?」
ボソリと、叢雨丸を受け取った茉子が間抜けな声を出す。
「茉子?」
「あっ、いえ。なんでもありません。犬神がちょっとコメントをしただけです」
心配そうな芳乃ちゃんに、安心させるような笑顔で対応する茉子。しかし考えてみれば神刀と本物の神である。知り合いというか、関係があっても不思議ではない。
故にだろうか、それ以上何かを言うこともなく芳乃ちゃんは真剣な表情に戻る。
「お父さん、もうすぐ始めるから」
「あぁ、離れているよ」
俺たちから安晴さんが距離を取るのを確認した後、ムラサメ様は言う。
「さて、ご主人……覚悟はいいな?」
「とっくにできてる」
怨念を取り出すというのは、何が起きるかわからない。前例が無いのだから。故に覚悟は問われ、そして間髪入れずに応えられる。
そして憑代を手に持ち、祈るように目を瞑り集中する将臣。
しばらくすると、その身から黒い靄めいたものが溢れ始める。
──その気配、この感覚、何と懐かしいものか。
いつぞや騒ぎ立てていたものと一致する。つまりは当たりだ。
「ッ……」
「未だ剥がれ切っておらぬぞご主人。まだじゃ」
その靄は形を変えていく。
集まり、離れ、そして何度も分離と結合を繰り返して繰り返して繰り返して──
全て出たのだろうか?
そう思う頃には、黒い鎧武者がそこにいた。赤い目のような光を持ちながら、貌の無い鎧武者が……
「ア、アアァ……アト、イッポデアルトイウ、ニ……ィッ」
その怨嗟の声にも聞き覚えがある。
あの時祟り神を殺せ殺せと騒がしかった声。
「ナニ、ユエ……オレガ、オレダケガ……オレヲミトメテクレナカッタノダ、ヤツバカリヲ……」
すぐさま霧散するように揺らぎながら、何故何故とまるで子供のようにそんなこと言う影。
あぁ、なんだ。結局こいつは所詮この程度だったのか。
──本当に、
これで魔人を名乗るとは笑わせてくれる。
魔性も無ければただの餓鬼ではないか。
……こんなものに呪われて死んでいった歴代の巫女姫たちの死はなんだったのだ。
ただの醜い妬みなどという、もっとも低俗な理由で……
「チチ、ウエ……オレ、ハ……」
そうして消え果てる怨念。
気付けば静寂のみが残っている。呆気なく終わり果ててしまったのだ。
こんなショボすぎる恨み言をボヤいて消えたのだ。
奈落より深い恨みの叫びを天へ轟かし、虚しく闇へと吼えるわけでもなし。ましてや虚空の月を、輝く銀河を喰らうわけでもなし。
──なんと、情けないことか。
「終わったの……?」
「気配は消えた、な」
芳乃ちゃんから漏れた言葉に、そして確認するように呟くムラサメ様。
「本当に、終わったんだな……」
安堵の溜息を吐いてから、憑代を元に戻して茉子から叢雨丸を受け取る将臣。
……本当にそうなのか?
終わったのか?
ならば何故────芳乃ちゃんの耳は
「っ、皆様! まだ終わってません!」
静寂を切り裂く茉子の警告。
全員がハッとしても何もわからない。
そして、それと同時に──
──馨! あいつ霧散した怨念を
「馬鹿なッ!?」
消えるより早く再生すれば問題無い。
ああつまり、奴は間違いなく──気合と根性一つで再誕しやがったんだ……っ!!
ならばと行動を移そうにも遅い。
「馨!? 何があった!」
将臣の問いも全てが遅い。
「芳乃っ!!」
「へっ? え──」
安晴さんの声が響くと同時に、芳乃ちゃんの後ろに闇が現れる。
その闇は何よりも疾く芳乃ちゃんに取り憑き……
バタリ、と。
まるで糸の切れた人形か何かのように、彼女が倒れ伏した。
「芳乃!? おいしっかりしてくれよ芳乃!!」
「下手に動かすなご主人! 芳乃の意識が無いのだぞ!」
焦る。焦る。
全員焦っているだろう。上手くやればこうならなかったとか色々考えているのではないだろうか。
だがそれよりも対処せねば。
「京香!」
咄嗟に京香の名前を呼ぶと、代わりに出てきたのは俺の声なのに京香の口調という奇妙な一人芝居めいたもの。
「わかんないよ私も!! けれど所詮消えかけの呪いを再誕させたところで最期の力を振り絞ったのには変わらない! というかこういうの詳しいのはコマのヤツだろ!!」
「コマって誰だい!?」
「犬神の古い名前だよ安晴君!! 茉子ちゃん!」
「……はい、わかってます」
──この状況で最も落ち着いていたのは茉子。
「今の芳乃様は呪いが最終段階まで無理に移行させられているだけです。言わば綱引きをしている状況……犬神が言うには、皆で声をかけろと」
「……そうかっ。芳乃自身で振り切れるということか! 皆で声を届けるのだ! 生への渇望を刺激するのだ!」
ムラサメ様の発言に俺たちが頷くと同時に。
「そして有地さん、安晴様」
改めて二人に向き直した茉子が、静かに告げた。
「有地さんは叢雨丸に力を貸すようにと念じてみてください。そして安晴様は──」
「……芳乃様に本音を伝えてください。
そうすればきっと──"あの人"が、それを届けてくれます」
■
「……おやおや、この彼岸の茶屋に来たる客人など最早見ることはなかったが……妙なこともあるものよな」
戯けたような声。
芳乃が目を覚ますと、そこは彼岸花が毒々しい程に一面に咲き誇る異様な野原であった。
辺り一面は紅蓮に染め上げられた世界。照らすのは黄昏の輝き。キョロキョロと見渡して、そして彼女はその更なる異質さに気付く。
(いや、違う……これは彼岸花じゃなくて、蓮の花……)
紅蓮に染め上げられて狂い咲く花は、彼岸花などではなかった。それは彼岸花の茎の上に咲く蓮の花──更に言えば紅蓮などという生易しいものではない。
その紅蓮はドス黒い赤。言うなれば鮮血の類だ。芳乃自身、よく憶えている。この赤は血塗れになった馨の纏う赤と同質の色であり、いつぞや倒れていた将臣の流していた赤の色だ。
血染めの蓮の花──八熱地獄において、紅蓮地獄というものがある。そこでは想像を絶する冷気に置かれて身体から噴き出る血が、赤い蓮の花如き形相を見せるという。
神事に携わる者として、多少なりと知識は得ているが……それにしてもこれは……
(悪趣味ね……なんだか)
違うものと違うものを組み合わせて芸術は生まれるもの。
そして芸術とは、すごいと思えどそこまでで終わる。
だがこれは、理解できない。
そして、理解したくない。
知りたくない、見たくもない、分かり合えない……徹底して根本的に、そして何の理由も無くただひたすらに相容れないもの。
「おい、聞いているのか? うら若き乙女よ」
「ひゃいっ!?」
背後から聞こえる声に驚いて、ピョンと跳ねながら振り向く。
そこにいたのは黒衣の女がいた。
黒、黒、黒、黒、黒……そして白。
貴族的な意匠を持ちながら動き易さも考慮された黒い和装、暗闇の如き黒い目、濡鴉の如き黒い髪──不気味なほどに美しい色白の素肌と相まって闇に浮かんでいるような、あるいは光が蝕まれているような、そんな感想すら覚える。
(……あれ? この人の顔、何処かで見たことがあるような……? 憶えがある……)
だが奇妙なことに、この女性の顔に見覚えがあった。
もちろん、芳乃はこの女性とは初対面だ。だが何故だろうか、何故か憶えのある顔だった。とても身近に感じるような、そんな面影が見える。
しかし、知り合いではないのもまた事実。奇妙な感覚だ。
知っているのに知らない、知らないのに知っている、見たことがあるのに見たことがない、見たことがないのに見たことがある。
矛盾とは違う。強いて言うならば兄弟家族の顔が似ているということが近いだろうか?
(私とお母さんが似ているように、この人も、私の知っている人と似ている……?)
「ふぅむ、まだ冥王の御許に向かうには早いと見える」
「あの、あなたは……?」
「私はただ六文銭を渡される役割だよ。だが安心しろ、お前は生の天秤の上に乗っている。そうそう間違えなければ冥府の門を潜ることもあるまいよ」
まったくと言っていいほど状況が飲み込めない芳乃に対して、何でもないように矢継ぎに言葉を投げる黒い女は、近くにある廃屋のような、ボロボロの古い家のようなものを指す。
「立ち話もなんだ、向こうで座って話をしないか。朝武芳乃」
「……さて、お前は何故ここに来た? この彼岸の茶屋に客人など、普通は来るはずなど無いなのだが」
ボロボロの外観には似合わず、新品同然の畳の上に優雅に座った女が、芳乃に怪訝な顔と声で問いかける。
「私は……あっ、そうだ、私は怨念祓いの途中で────」
そこでハッと思い出す。
怨念祓いの途中、姿を現した怨念の残留思念のようなものに取り憑かれて──気付けばこんな妙なところにいた。
芳乃が状況をはっきりと認識すると同時に、女は合点の行った表情をする。
「なるほど……今が鍔際という訳か、朝武芳乃。なればこそここに来たのは運命とも言えよう」
「と言うと?」
「この地は死に損ないが住まう牢獄。故にこの地にいるものは死んでいないが、死にかけてもいるということだ。言わば生と死の狭間、その刹那……と言ったところか」
その言葉に、芳乃は冷静に状況を理解する。つまり今自分は、呪い殺される寸前であると。
「……そう、ですか」
「そうしょげるな。お前の生を望む者がその想いを、声を届けるのであれば、きっとお前の近くにいる者が届けに来る。さすれば自ずと、生への道は拓れる」
まるで安心させるように、どこか不敵な笑顔でそう語る女。
いまいちよくわからないが、兎にも角にも今はここにいるしかできない。
(きっと将臣さんたちが、助けてくれる……)
けれども芳乃は確信している。
こんな呪いなどどうにかする方法を見つけて、きっとみんなが声を届けてくれるのだと。
「ふっ、その愛に満ちた表情……妹を思い出す」
「そんな顔してました?」
「していたとも。とてもとても美しい……あぁ、その優しい顔は女のみに許された表情だ」
しかしおかしな話だ。
何故こんなに、この女を見てそれほどまでに初対面の気がしないのか。
こんな風に表現する人を、知っているような知らないような──
「しかしお前も災難だな。このような場に出るなど普通はあり得まい。因果な星の生まれか? とかく、私も因果な生まれであるが、それ以上と見える」
「あなたは、どのような?」
単なる好奇心なのか。それともその、実に困ったと言わんばかりの表情を誰かと重ね合わせたのか。芳乃は不思議と掘り下げようとしていた。
すると女はキョトンとした顔を見せた後──
「この地の記憶は、余程縁が深くなければ持ち帰れぬぞ。まぁ……そうだな、暇潰しにでも聞くといい」
そう前置きをしてから、黄昏に目を向けて話し始めた。
「ある所に生まれる筈の無い子供がいた。古の時代、現世に顔を出す前の子供は、神の物であるとされてきた」
「七五三に代表される話ですね」
「如何にも。ま、気に入った子がいれば、魑魅魍魎は冥府にて暮らそうと誘う。それが所謂死産に値するものだが……」
と、そこで女は言葉を切り、クツクツと笑いながら、何処か不気味な虚無感すら漂わせつつ、芳乃にとっては不思議なことを言い放った。
「冥府の落とし子というものがある。しかし、死の神と人がまぐわったものではない。冥府"が"落としてしまった子供だよ」
なんだそれはと。
思わず疑問に満ちた表情をしてしまう。
「大抵、子供は冥府に杭と鎖で繫ぎ止めている。だが、揺らぎが起きるとその子供は、冥府の杭と鎖を体内に宿して現世に生まれ落ちてしまう。あまりにも大きな揺らぎである場合のみだが」
そこで何故か。
芳乃は自らの魂がその続きを聞きたくないのだと、不意に気がついた。何故かはわからない。わからないが聞いてしまえば何か危ういと、不思議に。
だが女は芳乃が口を挟むより早く続きを語る。
「人の世に神の世の物を持ち込むのさ。その力は他を圧倒する……精神がただの人間であればへし折られるのみ。適応するなどあり得んのだ、人間ならばな。誰が言ったか。神の如き者でありながら、我は神に非ずと声高らかに否定する者──それは
そこまで聞いて、芳乃は何となくこの女がその否神と呼ばれた者か、それに近しい存在なのだと察した。
「時にこんな話を知っているか。神と人の、小さな愛の物語を」
しかし女は急に、話を変えてきた。
「知らないですね。よろしければ、教えてもらってもよろしいですか?」
純粋に知らぬ故に、彼女はそう言った。
女は「それはすまなんだ」と謝罪した後、「所謂種明かしになるが……」と言った上で。
「仔細は省くが、最後に神は、その命を以ってして、違う者と結ばれた愛する者の子供を救うんだ。それを見た神の弟は、名代としてその一族を守護することになる」
そう語った。
だが──
「……けど、私は言ったよな。冥府の落とし子とは、揺らぎが起きれば生まれるものだと」
更に、そう続けた。
芳乃が察したのは表情に現れたのだろうか、何処か満足そうに女は続きを語り続ける。
「傲慢で不公平な神の愛が、人に業を無理矢理に背負わせる……業を背負い苦しみ嘆き、他と違う己を必死に律して精一杯生きている者を横目に、奇跡とやらで救われた奴らは神に感謝しながら生きている」
「……それは……」
「まぁ私はそんな不幸な側、というだけさ。気にするなよ。それよりもそろそろだな」
女がそう言うと同時に、芳乃の心中に声が響き渡る。
「芳乃ちゃん、俺は君まで見送りたくないっ。だから目を覚ましてくれよ……!」
(馨さん……)
「芳乃様、そこで何を見ているかはわかりません。けれどアナタが見るべき景色は、恋人の隣で見るものでしょう?」
(茉子……)
「芳乃、お主はここで終わるな! 始めたばかりじゃろうが! 戻ってこい!」
(ムラサメ様……)
弟分で放っておけない幼馴染と、今まで一緒にいてくれた従者……いいや親族と、ずっと昔から血筋に寄り添ってくれている先人の声。
「芳乃、約束しただろっ。ずっと側にいるって! そっちに行くと俺、約束守れなくなるんだ! だから──!」
(将臣さん……)
とても愛おしい男性の声。
そして──
「秋穂からお前を頼まれたんだ。こんな終わりじゃ向こうに逝った時合わせる顔が無い……それに、まだお前に伝えていないことがたくさんあるんだ。だから芳乃、頼む……っ。お前に秋穂の言葉を伝えさせてくれ……!」
(……お父さん……)
一番苦しかったろうに、それを感じさせない程に父として振舞って、ここまで育ててくれた家族の声。
「一応聞くが、六文銭は?」
「私はまだ、そっちへは行けない。だって自分の人生を、恋人といる幸せを、知っちゃったから──」
まだまだ足りない。
もっともっと幸せになりたい。
していないことだってたくさんある。
あの四六時中デレデレバカップルに砂糖だって吐かせていないんだし。
だからと。
立ち上がって──女を見据えて、宣言する。
「私はまだ、死ねないっ!」
「……ふっ、そうだ。人とは生を叫ぶもの。そうでなくては。ではさらばだ、朝武芳乃」
「えぇ。さようなら」
満足気に頷く女に踵を返して、静かに外へと歩いていく。
そして広がるは終末の黄昏に照らされる、狂い咲き誇る鮮血の蓮の花たち。
その中心に、蒼い空の如き透き通った輝きが見える。
決意と共に近づき、それを見る。
「叢雨丸……」
その名を呟けば、応えるようにその輝きを増す。
想いを乗せて、神刀は確かに彼女の下へとやってきた。
朝武芳乃を、ずっと見守っていたある魂の残影と共に。
その柄を手に取り、両手でしっかりと構える。
視線の先にはいつの間にか現れていた黒い鎧武者。
「……あぁ、まったく」
疲れ果てたような。
あるいは、呆れ返ったような。
けれどもそれら全てはどうでもいい。
芳乃の為すべきことはただ一つ。
この黄泉への誘い手を、斬り裂くことだけ。
「やぁぁぁ──っ!」
全身全霊を込めて駆け出して、私は生きるのだと決意を叩きつけるように叢雨丸を叩きつける。
そして迷いの霧が晴れるように鎧武者は消えながら──
「……昔話の中で、じっとしていて下さい……」
ただ静かに、無へと返した……
その瞬間、眩ゆい光が全てを覆っていく。
その中で芳乃は、ある輝きを垣間見た。
それは──彼女の母親である秋穂の姿。
(ずっと、ずっと側にいてくれたんだ……お母さん……)
もう声も思い出せない。
どんなことを話したのか、どんなやり取りをしたのかさえ忘れてしまった。
思い出そうにも思い出せなくて、だけど絶対に忘れ去ることなんてできない大切な人。
失われてしまった、幼き日の楽園。
その人は、ずっと側で見守ってくれていた。
その輝きの中に、更に母の記憶を垣間見る。
……それは余命幾ばくも無い時のやり取りであろうか?
ただひたすらに娘の幸せを願い、自分以上に幸せになって欲しいと、そう祈る。
けれど時間は無情にも迫っていて、娘の幸せを見るどころか、根本的な解決すら出来ずに丸投げするしかない無力な大人であることの悲嘆。
どれほど願おうとも、自分は先に逝って待っているしかできない。
娘と夫に重荷を背負わせることしかできないけれど。
二人は絶望なんかに負けないと知っているし。
それに──
(なんて綺麗な、笑顔……)
見せてくれなかった笑顔が見れた。
幸せを願っているからこそ、幸せを実感するからこそ泣いてしまうんだと。
(言ってくれなきゃ……わからないよ……お母さん)
どうせなら言って欲しかった。
本音を伝えて欲しかった。
だけど中々本音なんか言えなくて、信じている人にしか弱さを見せることしかできない。
(親子だから、似てて当然かぁ)
まぁ親子なのだから、似ていなければ逆におかしい。
まるで夢から覚めるような感覚。
もう母の残影も、記憶も見れないくなってしまう。
だけどもう振り返ってはならない。
振り返ってしまえば母の祈りと願いに応えられなくなるから。
──芳乃、私よりも幸せになってね──
「うん。お母さんよりも、ずっと幸せになってみせるから……」
「戻ったか」
「──」
「引き留める役割をやってやったのも、あの娘が馨と仲良くしてくれた礼にすぎんしな」
「──」
「クククッ、啖呵を切るのもそっくりだ。いつぞやの夜、あの娘に啖呵を切られたが……本当に似ているよ」
「ま、そこで見ているといい。これからの行く末と、彼女の生を」
■
みんなで呼びかけて、叢雨丸が光って──その眩しさに目を閉じて、また開き直してみると。
「……あれ……? 私……」
芳乃ちゃんが、目を覚ましていた。
耳も無く、怨念の気配も全くない。
今度こそ、消えたのだ。
「芳乃、無理しないで」
「将臣さん……私、もう大丈夫です。みんなの声と、叢雨丸が道を示してくれたから」
「よかった──」
心底から安堵した表情の二人が抱きしめ合う光景を見つつ、昼前の芳乃ちゃんはこういう気持ちだったのかなぁ……と甘さを感じる。
何分? いやまぁ、甘かったねうん。
抱き合う二人が一旦離れて、ここからは親子の会話に。
「お父さん、私……お母さんの思い出を見たの。だからお母さんに負けないくらいに幸せになるし、笑顔もやっと見れたんだ」
「そう、か」
「伝えてないこと、ちゃんと教えてね。色々聞きたいことも、知りたいこともあるから」
「あぁ、もちろん。ちゃんと言うよ」
「……それから、その……お母さん、ずっと側にいてくれた……みたい」
「…………芳乃が言うなら、きっとそうなんだろうね。秋穂が側にいたのは、本当なんだろう」
……実際、近くにいたんだろうな。
本当に。
「だから、落ち着いたら、お墓参り行こう。みんなで」
「そうだな。そうしよう」
そこで安晴さんと芳乃ちゃんの会話は途切れ、彼女は改めて将臣と向き合う。
「将臣さん」
「……え、俺?」
「あなた以外に誰がいるんですか」
うっ、なんかどっかで見たようなやり取りだなオイ……ちょっと茉子から視線を投げられたりムラサメ様から視線を投げられたりするけど無視だ無視。
「あなたを愛してます。一緒に、幸せになりましょう」
「俺も君を愛してる。だから二人で幸せになろう」
微笑み合う二人。
今日、やっと。
あの二人はある意味で、本当に向き合えたんだろう。
で、そこで大変微妙そうな顔をしている安晴さんと言えば。
「うーむ……ここは親の前でなんてことをと怒ればいいのか、見ぬふりをすればいいのか……馨君、茉子君。君たちはどっちがいいと思う?」
シレッと俺と茉子にキラーパスを投げてきた。
「いや……ここはほら、大人しく砂糖を噛み締めましょうよ安晴さん。そういう空気でしょ?」
「そうですよ。見てはならないんです。ね、ムラサメ様」
「そうじゃのう。ここは二人の世界じゃしな」
「……なるほどね。おーい二人ともー」
そしてハッとして、顔を真っ赤にしながらこっちを見る将臣と芳乃ちゃん。
「僕は何にも見てないからねー」
「そういうわけでお二人とも、外野は気にせず思う存分にどうぞ」
「あー、まー、うん……普段俺と茉子がやってることだし、夢中になっていいんじゃないかな?」
「お主らの思うがままにするといい」
「ちっ、違いますからね!? 忘れてたとか違いますからね!?」
「そ、そうだよ!? 忘れてたわけじゃないからね!? 全員分のプリン作ってあるからね!?」
あ、やっぱりプリンだったんだ。
その後、俺たちは家に戻り、将臣が作ったプリンを食べてから寝た──
のではなく。
俺と茉子は、なんとなく寝る前にプラプラと外を散歩していた。
「終わったね」
「今度こそな」
着替えるのも面倒だからと忍び装束のままだが、まぁ……その、なんと言えばいいか。
よくよく見るとやっぱりその格好はあまり人前で見せて欲しくないものだなと彼氏としては思うのである。
裏山に入って、ちょうど近場の、月明かりに照らされた川の側に二人で腰を下ろす。
「犬神はなんて?」
「ひとまずはよくやったって」
「そっか、よかった」
……まぁ、恨むのも疲れているのだろう。
犬神がどんな性格なのかはわからないが、とりあえず茉子とは愉快にやっているようでよかった。
「ね、馨くん」
「ん?」
「あの二人に負けないくらいに、ワタシたちも幸せにならないとね」
「……あー……まぁ……そう、だな」
えへへと笑いながら言われると、なんだか恥ずかしくなってくる。
それに二人で家を抜け出して、茉子に至っては忍び装束のままだしで、なんというか……とてもその、とてもあれである。
──頬が熱い。
「照れてるの? 顔赤いよ。あは」
「うっせー、俺はこんなんなんだよ」
ニコニコしながら顔を覗き込んでくる茉子から照れ隠しをしつつ、一際綺麗な深夜の満月を見上げる。
「……なぁ茉子。また夜に、二人で月を見よう」
「うん。これからもずっと、同じ月を見ようね」
「あぁ。同じ月を、ずっと」
あの二人の婚約と幸せになろうという誓いに比べれば、とても小さな約束だ。
だけど俺たちにとっては、とても大きな誓いだった。
手を握って、夜の涼しさの中で茉子の温もりを感じる。
今日は一際、あったかい。
だから隣から聞こえる小さな嗚咽は、きっと気の所為だろう。
もしそうじゃなかったとしても、気の所為にしておこう。
彼女の重荷も、やっと降りたんだから。
「──っ」
だけど結局我慢できなくなったのか、胸に飛び込んできた茉子を労いも込めて背中を優しく撫でる。
「見ぬふりをさせてくれよ」
「……ごめんね……っ、ワタシ……ワタシ……っ」
「お疲れ、茉子」
「うん……っ」
本当にお疲れ、茉子──
やっと、終わったよ……
失われし楽園の一つ、それは母との時間