幼い頃の僕にとって世界とは、常に灰色の景色だけだった。
共働きで帰りの遅い夫婦の子供。そのせいでいつも保育園でいつも最後に僕一人になる疎外感や、職員からの陰口が聞こえる日々。
それは幼い心をどんどん侵食して行き、初めは何かあったかもしれない彩りも、いつしか全て凍りつき、何をしても退屈でしかない、そんな日常。
──隣に越してきた、戸山と言います。……ほら、香澄も挨拶しなさい。
だから、そこから彩りをくれた君の事が好きで、君と共に居られる姿になろうと決意した。
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冬の冷たい空気の流れる公園。そこに着いた僕は、公園の時計を見上げる。その二つの針は十時半を指し、待ち人である幼馴染みの少女との約束の時間までまだ少し時間のある事を知らせる。それを見て流石に早く来すぎてしまったと溜息を一つして、ベンチに座る。そうして鳥のアイコンをタップして、スマホを眺める。
少しして公園の出入り口の方を見ると、二本の角のような髪型をした少女の姿が見え、手を振ると、彼女の方も僕の事に気付いたのか、歩くペースを小走りに変えてこちらにやって来る。
「おはよう、香澄。自販機で飲み物買ったけど飲む?」
「はぁ……はぁ……。うん、貰う……。ごめんね、私が今日呼んだのに遅れちゃって……」
「いいよ、まだ集合時間前でしょ。それに、僕も今来たところだし。でもどうしたの、今日会えないかなんて」
僕が待っていた少女──戸山香澄は僕が待つ間に買っていた飲み物を飲むと、屈託のない笑顔を浮かべると話し始める。
いつも周囲におどおどしている彼女が、たまに見せるこの花の咲いたような笑顔が僕は大好きだった。
「うん。……ほら、私達違う高校に進学するでしょ。だから、これまでみたいに気軽に会えないと思って、こうして会える内に会ったおきたくて……。もしかして、迷惑だったりしたのかな……」
そう言って自分を責め始める彼女に軽めのデコピンを一つ。痛い、と僕を少し膨れっ面で見上げる彼女に僕は手を差し出す。
「ほら、また自分を責め始める。香澄の悪い所だよ、それ。……ほら、遊びに行くんでしょ。なら楽しまないと」
「…………うん!」
そう言い、手を繋ぎ歩き始めても少し浮かない表情を浮かべている彼女の姿が、好きな人と手を繋ぐ喜びに高揚する僕の心を、無力感と罪悪感で染め上げる。
──小学校の頃に香澄を襲ったイジメは、明るく歌が大好きだった彼女の事を永遠に隠してしまった。その事を、クラスの違う僕は何も知らず、苦しんでる彼女に何かする事も出来ず、彼女の苦しみに気付いたのはもう、全てが終わった後だった。
クラスが違うだから仕方ない。その事を知る周りの人間はそう言うし、僕も理解している。けれど、素直にそれを割り切れるかと言うのは別問題で、僕はあの時の後悔を引きずり続けている。
──その後に一度だけ、香澄に僕の事をどう思っているか聞いた事がある。
あの時助けられなかった事を、彼女が憎んでいるのを望んだ僕の身勝手なこの質問に、彼女は頬を染めながら僕の事を、温かくて、兄のような存在だと語ってくれた。それがどれだけの救いになっただろう。故に、僕はこの恋心に蓋をしてでも、妹分思いの兄貴分としての仮面を被り続けようと決めたのだ。
──それが、この後悔に僕の自らに課した罰なのだから。
「ねぇ、どうしたの。急に立ち止まって」
不意に投げ掛けられた彼女の言葉にハッとして顔を上げる。見ると、彼女は僕の顔を不安そうに見つめている。僕が彼女を不安にさせている、その事がかつての記憶が蘇らせる。それは駄目だ、その彼女の不安を払う為に僕は笑顔の仮面を被る。
「なんでも無いよ。少し、何処に行こうか考えてただけだから」
あぁ、自分の吐いた言葉に反吐が出る。何がなんでも無いだ。僕の勝手で恩人である彼女を不安にさせておいて、よくもそんな事を言える。彼女の不安な顔を見ろ、お前の力の無さが彼女を不安にさせていると知れ。それを払うのが僕の罪滅ぼしなんだ。
……とにかく、今は彼女に楽しんで貰う事を優先しよう。沈みきった最低の気持ちを少しだけ切り替えて、僕の手を引く彼女との休日が始まった。
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「それにしても、凄いよね」
しばらく街を散策する内に昼になって、立ち寄ったチェーン店のレストランの中、彼女はドリンクバーから持って来た飲み物を少し飲むと、僕に話し掛けて来た。
「ん? 何が?」
「ほら、そっちの高校。凄い進学校って噂でしょ。だから凄いなぁって」
「別にそんな事は無いよ。学歴なんて一つの指標で、どんなに学歴が良くても、ロクでもない人間は沢山いるし。それより、僕は香澄の方が心配だよ。勉強は大丈夫かとか、友達がちゃんと作れるのかって」
あ、酷い。と言いつつも少し楽しそうな彼女の姿を見て、会った時の不安な顔が薄れている事に僕は安堵する。とはいえ、引っ込み思案な彼女が友達を作れるか心配なのは本当だ、彼女の姉達には心配のし過ぎとか言われるが、やはり力になれなかった過去を思うと不安になる。
「大丈夫だって。確かにちょっと怖い気持ちはあるけど……うん、多分……作れる、と思う」
「……その様子を見ると、やっぱり心配だなぁ。いっそ僕が女なら、香澄の友達作りを近くでサポート出来るんだけど……」
「えー……。それはそれでなんか複雑……。それに、花咲川って共学になったんだよ?」
「あれ、そうなんだ。去年の情報しか知らなかった。まぁ、これは冗談だよ。さ、料理も来たし、そろそろ食べようか」
そうしてなんでもない談笑を交えつつ昼食をとり、再び街を散策する。なるべく彼女の嫌な記憶を思い起こさせないように、カラオケや楽器店などを通らない道をさりげなく選びながらの散策。
ゲームセンターのクレーンゲームで、可愛いペンギンのぬいぐるみを二人で取ろうとして失敗して、二人で愚痴り合う。
ふと、立ち寄ったアクセサリーショップで見つけた、星型のペンダントを香澄が物欲しそうな目で見ていたので、今日のお礼にと、プレゼントしたら、次に彼女に引っ張られて来た店で、僕の好きなアメジストで出来たブレスレットを同じ言葉で今度はプレゼントされて、二人で笑いあったり。
「ねぇ……。今日は楽しかった?」
「うん、しばらくは勉強ばっかりだったから、こんな休日を過ごせたのは久々で楽しかったよ」
「良かったぁ……。会った時ちょっと怖い顔してたから、もしかして迷惑だったかもって、ずっと考えてから……」
「全然迷惑じゃ無いよ。本当に凄く楽しかったさ。ありがとうね、香澄。……ってこの話もう三回くらいしたね」
「そうだね、あはは……」
そんな心安らぐ温かな日も終わりが近づき、夕凪にも似た静けさの中で、小さな子供達が駆け回る公園に戻った僕達は、名残惜しさからか中々帰る雰囲気になれなかった。そのせいか、しばらく同じ様な会話していると、香澄が唐突に言いたい事があると切り出してきた。彼女が立ち上がると同時に、辺りを駆ける子供達の声が消えた様な錯覚をした。
「私ね、ずっと君に伝えたい事があったの」
「伝えたい事……?」
「うん……。ずっと、ずっと伝えたかった」
風が吹き始める中、彼女はここで言葉を切り、何度か大きく深呼吸をする。
穏やかだったはずの風の音が、うるさく感じられる。
何故か分からない胸の鼓動が、僕の心を締め付ける。
言葉を紡ぐ彼女の唇が、酷くゆっくりに感じられる。
そして──
「私ね……、貴方の事がずっと──」
──その先の言葉を掻き消したのは、強風と子供の大きな泣き声だった。その声が聞こえた方を振り返ると、風船が引っ掛かった木の下で涙を流す幼い子供。周りに大人が居ない事に気づき、咄嗟に彼女に一言謝ってその子の所に向かうと、やはり今の風で風船が飛んでしまったらしい。
泣いているその子を励ましつつ、風船を取る為に木に登る。幸いにも木の低い所に引っ掛かっていたおかげで、あまり時間をかける事なく風船をその子に渡す事が出来た。礼を言い去っていくその子に、もう離さないようにと注意して彼女の元に戻る。
「ごめん、急に飛び出しちゃって。で、何か言おうとしてたけど、何だった?」
「……ううん。やっぱりいいや。……もう帰ろうか」
そう語る彼女の姿の、これ以上踏み込ませない雰囲気に、僕は無力感を感じつつも、もう頷くしか選択肢は無かった。
沈んだ空気での別れ際に彼女は、僕に儚げな笑顔を見せて呟く。
「やっぱり、君は優しいよね。私、君のそういう所、好きだよ」
「えっ? それってどういう──」
「じゃあ、またね!」
それだけ言うと香澄は逃げる様に去っていった。一人残された僕は彼女の言葉に思いを馳せる。
──好きだよ。その四文字の言葉に込められた意味は何なのか。
いや、それは分かってる。彼女はきっと、身内に対しての延長で僕に言ったのだろう。それは、例えるなら兄に対する妹の様な好きである。断じて、男と女の関係ではない。
──でも、もしかしたら彼女が本当に僕の事が好きなのかもしれない。そんな期待を抱く自分が、どうしても嫌だった。
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──ねぇ、聞いて! 私、友達が出来たの!
香澄と僕が高校に入ってしばらくした頃、明日の為の勉強をしていると、彼女からこんなメッセージが届いた。正直な所、それには少し不安だった。なにせ、前日のメッセージで、三十万の稼ぎ方について聞かれた分、その後に友達となったと言うので、その人には申し訳ないが、少し疑ってしまった。
だが話を聞けば、その子は彼女が欲しいギターのある質屋の子らしく、彼女にギターのレベルアップを対価にそのギターを譲渡してくれるのだと言う。その後に通話で一度だけ話をした事で、その子──市ヶ谷有咲さんに対する誤解は解く事が出来た。……まぁ、僕の事を香澄の彼氏だと揶揄われたのは困るが。
──ともあれ、無事に香澄に友達が出来たのは、心配していたから嬉しいし、少し安堵した。でも、どうしてか僕の心には、少し暗い靄がかかっていた。
それは、香澄の友達作りの応援と、実際に友達が出来たと言う報告の度に大きくなっていって、それに比例するように、眠れない日が続いたり、吐きそうなる日があったりと、だんだんと体調が不安定になっていった。
我ながら女々しいとは思う。仲の良い幼馴染に友達が出来ただけで嫉妬するなんて。そう思いはするけれど、この表に出せない感情が消える訳ではなく、黒い感情がかつての後悔と混ざり合う。そんな陰鬱とした思いが、薬に頼らなくては生活していけない程に、僕の身体を侵していく。
そんな自分に苛々する日々を続けている内に、彼女からメッセージが届く。内容は「バンドを組んだので学園祭で演奏するから来て欲しい」といったもの。
正直、最近は香澄との連絡も疎かにしがちになるほどに体調を崩していたので、ギターを始めたと言うのは知ってても、バンドを組んだというのは知らなかった。
それに、香澄からの連絡を見なければ、ほんのちょっと楽になれる気がしたからだ。だから、その誘いに乗ろうかどうか悩んだ。
『良いよ、楽しみにしてるから、頑張って』
それでも行こうと思った。それは多分、幼い日の決意があったからだろう。彼女を悲しませる、それだけは僕にはどうしても出来なかった。
ついにこの日が来てしまった。目の前の花咲川学園を見ながらそう思う。受付を済ませて事前に教えて貰った場所へと向かう。会場である体育館に入ると、中は既に沢山の人がいて、だけど僕の周りには花咲川の制服ばかりで、私服の僕がいて良いのかと孤独感で不安になってくる。
──そうしてステージの幕が上がり、歌い始めた香澄の姿を見て、僕は崩れ落ちそうになった。
……彼女が笑顔を浮かべていたのだ。そこに居るのは、常に迷いや不安に怯えていた頃の彼女の面影など無い、僕が取り戻したかった、本当に楽しそうに歌ういつかの日の香澄と、それを支える仲間たちの姿。
そして僕は理解する。──香澄は間違いなく、自らの手で望んでいた"最高"を手にしたのだと。
だから僕は、その場から逃げ出した。これ以上此処に居ては、自分が自分で無くなる気がした。
それが途轍もなく恐ろしく感じ、ステージで楽しそうにしている彼女達の演奏を最後まで聴く事も無く、人混みを押しのけて体育館を抜け出す。
「…………」
──だから、ステージで寂しそうに此方を見る香澄に気付かなかった。
続きは他作を書いてから。