苦しい。苦しい。気が狂いそうになる。どれだけ走っても、心が晴れない。それどころか、ますます苦しくなる。心に渦巻くのは、ステージで歌う香澄と、その仲間達の姿。
「……ははは。結局、僕なんて必要無かったじゃないか」
なにが香澄を助けるだ。香澄の為になろうとするだ。ずっとそう思い続けて、香澄の望む姿を演じて、それで努力したつもりになって、香澄の辛い時に本当に助けになれた事なんて、一度でも有ったか? 無かっただろう。
傷ついた香澄の心の底を聞く事を恐れ続け、傷口を抉らぬように上辺だけ取り繕う。そして、香澄に頼れる友や仲間が出来ただけでこの有様だ。惨め過ぎて、逆に笑えてくる。
いい加減に理解しろ、僕は所詮、香澄の前で哀れな一人遊びをしていただけに過ぎない、愚かな道化師に過ぎなかったんだという事を。
「……もう分からない。僕はどうすれば良かったんだ……」
分からない。心が苦しい。もう嫌だ。楽になりたい。家に着けば薬がある。早く、早く走れ。あぁ、もうすぐ家だ、早く薬を。そうすれば、楽になれる。
「あった……」
家に着き、誰も居ない廊下を駆けて、煩わしい扉を開ける。机に縋り、その上にある薬を貪る。医者に言われた用法なんてもうどうでもいい。この薬を飲めば、この苦しみから逃げられる。だから、もっと。もっと。もっと……!
「それなのに、どうしてっ……!」
──それでも、全く僕の心が晴れないのは何故なんだ。いくら薬を飲んでも、それがもたらしてくれるのは、楽になれるどころか、自分が立っているのかも分からない程に意識が定まらない程の苦痛だけ。
どうして、どうして、楽になれない。苦しいのが嫌だ。頭がごちゃごちゃして気持ち悪い。視界は止まらず回り続け、吐きそうになっても、吐き出せない。
なんで、どうして、どうして、どうして。僕はずっと頑張ってきた。でも、それじゃあ駄目だった。なら、僕はもっと頑張らないといけない。その為に早く、早く楽にならないと。そうしないと──。
「……あれ?」
止まる事を止まないその思考の繰り返しの中で、僕はふと思う。いや、思ってしまった。──僕は、一体何の為に頑張ってきたのだろうかと。
「あ……あぁ…………。嫌だ……やめてくれ」
それを意識した途端、僕の中から大切だった筈の誰かと、その思い出達が消えてゆく。
誰かにプレゼントした筈の何かの記憶。
誰かと一緒のクラスになれず、落ち込む僕と誰かの記憶。
誰かが泣いていて、その誰か対してに何らかの誓いを立てた記憶。
誰かの為にそこから生き続けていたような記憶。
誰かから何かを伝えられたような記憶と、寂しそうな笑顔。
その全てが泡が弾けるように消えてゆく。その中には必ずとある少女の姿があって、その子がその誰かで、とても大切な人だというのは覚えている。
「なのに……なのにどうして、思い出せないんだ……」
消えてしまう。あの少女との思い出が。僕の宝物だった筈のモノが。やめてくれ。これが消えれば、ずっと自分が一番恐れ続けているあの灰色の世界に戻ってしまう。それは嫌だ。もうあの灰色の景色は戻りたくは無い。一度、彩り溢れる温かな世界を知ってしまえば、もうあの冷たい世界など戻ろうなどと思う筈がない。
「嫌だ……。嫌だ嫌だ嫌だ! 君を消さないでくれ……!」
だが、消えてゆく。泡は弾ける事を止まず、僕から彩りを奪い続ける。涙は頬を伝い、落ちてもその理由が分からない。
何処かステージのような場所の上、誰かが楽しそうにギターを鳴らし、高らかに歌う。──その煌く景色に手を伸ばせば、指先に触れる事なく、弾けて消える。
「誰だ……。誰なんだ、君は!」
あぁ、大好きだった筈の君の声も、名前も消えてしまった。君の顔でさえもが、朧げにしか浮かばない。
記憶の中の君へと、いくら手を伸ばしても届かない。いつか伝えたかった筈のたった三文字の言葉さえも、忘却の波に呑まれて行く。
「あぁ……。あああぁぁぁっ……!」
──大丈夫だよ。●●●。僕は君の味方だから。ずっと側にいるから、だからほら、泣かないで、笑っていて欲しいな。僕は君の笑顔が好きだから。
そして、残った記憶の中の最後の一つ、花が咲いたような笑顔の少女の記憶が弾け、それに手を伸ばして、僕は──。
▼○▼
「ここは……何処だ?」
──気がつくと僕は夕暮れの中で一人、とある家の前に立っていた。此処は何処なのか。何故、自分はここに立っているのか。否、そんな事よりも──。
「……なにも、なにも思い出せない」
──僕は、一体誰なんだ。
その事を考えると、酷く頭が痛む。脳をミキサーで混ぜられたような、吐き気が込み上げる程の痛みに耐えつつ、家の表札を見る。そこには、見知らぬ筈なのに見知ったような妙に馴染む名前。
「これは……僕の名前……?」
いや、表札に書かれている僕の名前らしきモノだけではない。僕が立つこの家も、この先の道も、この街の事も。何もかもがこの記憶には無いのに、分かりすぎる程によく分かる。だけど──。
「……何故だろう。すごく……怖い」
──どうして、この瞳が写し出す風景は、冷たい灰色に染まった道と街並みなのだろうか。
無感情な冷たさを放つそれは、夕暮れの闇と混ざり合い、這いずるように少しづつ影を作り、僕に手を伸ばす。その影が近づくにつれ、この空白の心の中が言いようの無い恐怖で掻き立てられる。
……あぁ。でも、何故だろうか。
「怖いけど……心地良い?」
この影を受け入れれば、何もかもが楽になれるような気になれる心地良さが感じられる。この頭の痛みも、まるで分からない僕の事も、何もかもがその先に行けば、全てが楽になれる気がして止まない。
もしも、この影に呑まれるだけで、永遠に続くとも思えるこの苦しみから逃れられるなら、楽になれるなら、それはそれで良いのかもしれない。
あぁ、影がだんだんと近づいて来る。疲れ切ったこの心では、もう逃げようとも思えない。ほら、影が僕まで、あと一歩。さぁ、早く。早く僕を楽にしてくれ。
「っ……」
──そうして、影が僕に触れる直前。僕の掠れた記憶に映る影。
花のように笑い、星のように輝く姿の見知らぬ筈のよく知る少女。そして、その少女がこの影に呑まれた先で、あの笑顔を萎らせ、輝きを消してしまった姿。
駄目だ。それだけは駄目だ。星のように光煌く、あの少女のその姿だけは許容してはいけないと、空白の心の中でナニカが叫ぶ。
それなら僕は、どうしたらいい。否、考えるまでも無い。あの少女の為に。そしてこの苦しみと決別する為に、僕の答えはこれしかない。
──這いよる影に背を向け走る。やめろ。こっちに来るな。何も分からなかった僕だけれど、脳裏に浮かぶあの少女の姿を見ては、その先には行ってはならないと確信できる。だから、この先には行けない。
探せ。冷たい灰色ではない、何処か違う場所を。空白に隠れた自分の想いを。
「無い……。こっちも無い……」
左を見る。あるのは冷たい影。右を見てもまた同じ。その影に呑まれぬように走り、そうしてまた探す。それを繰り返す。だけど、景色は変わらず冷たいまま。
もう、無理なのか。またあの少女に会う事は出来ないのか。また自分は無力なのか。繰り返し探す内に、そういった不安が振り払った筈の影を呼び覚ます。それに惑わされ、足を止めてしまおうかとしたせつな、誰かにそっと手を引かれる感覚。反射的にその方を向けば──。
「あっ……」
やっと、見つけた。冷たい灰色じゃない、温かな彩りに溢れた道。それを見れば、なんとなくだが分かる。──この先にはきっと、僕の求めるモノがあるのだと。
一歩、二歩と足を踏み出し、温かな道を歩き出す。そうすれば、その度に溢れる温かな記憶達と、可愛らしい笑顔を浮かべる少女。その記憶と直感を信じて、前に進む。
この道路はあの子と一緒に登下校して、よく同級生や彼女の姉達に揶揄われた道。
その先にある喫茶店はよく彼女と行った場所。手伝いを始めたばかりであろう、その店の娘と思しき女の子の動きがまだ危なっかしくて、不安でつい目で追ってしまえば、あの子の機嫌を損ねてしまった事もあった。
蘇る。進めば進むほど、失くした筈の記憶が戻ってくる。君の事もはっきりと思い出せる。それと共に、一つの思いが湧き上がる。
「君に、会いたい」
会いたい。君に会って伝えたい事がある。ずっと逃げてばかりではいられない。この胸に燻り続ける想いを君に伝えなければ、僕は前に進めない。だから、君に会いたい。
「家には居ない、か……。何処にいるんだ……」
そう思い、彼女の家に行って聞けば、彼女はまだ帰って無いと言う。何処だ、何処に彼女はいる。今まで来た道には彼女は居なかった。思い出せ、此処から彼女のいる可能性のある場所は何処だ。
「学校……。いや、さっき花咲川の人を見たから違う……。バンドメンバーの家で打ち上げか……? ……駄目だ、誰の家も分からない……」
こんな事なら市ヶ谷さんと会う時に家の場所を教えて貰えば良かった。……いや、そんな後悔している暇は無い。とにかく走れ、もしかしたら片付けなどでまだ学校にいるかもしれない。入れないにしても、その場で待つか、聞き込みをしてみる価値はある。そう思い、花咲川への近道である公園を通り抜けようとした時。
「あ……」
僕の発したその声と重なる声。その方を見れば、ずっと探していた少女──戸山香澄がそこにいた。
▼☆▼
「どうして、香澄が此処に……」
目の前に立つ香澄は息を切らしながら、僕の事をしっかり見据える。その目にはかつての気弱さは無い。だが、不安に染まった瞳で彼女は語る。
「どうしてって……。ライブの時、出て行っちゃったでしょ? 始まる前だって、ずっと辛そうな顔してたし……。もしかして迷惑だったり、私に駄目なトコがあったのかなって不安になってそれで──」
「
「えっ……?」
彼女の言葉を遮って、僕は伝えたかった言葉を語る。これがずっと伝えたかった言葉。そうだ、これは懺悔だ。僕は此処で愚かな自分という過去を断ち切る。
「ずっと……ずっと、謝りたかった。君が一番辛い時に助けられなくて、それが一番苦しくて……。でも、謝られなくて……もしもそれで君に拒絶されたって考えると、そんなのは耐えられなくて! だからせめて君の助けになれたらって考えたのに、それすらも出来なくて!」
「やめて……」
「君が一人で友達を作れて、毎日が楽しそうに話すのを聞いて、僕も頑張って君の助けになろうと思っても、君の友達に嫉妬して! ……ははは、面倒くさくて本当に笑えるよね。僕が出来ないってだけで君の大切な友達に嫉妬までしてさ。……ほんと、惨めだよ」
「ねぇ……やめてよ……お願いだから」
「それでも、大切な君の為ならって思ってたけどね……。あのライブさ、本当に良かったんだよ。君があの頃、河原で歌ってた時みたいに楽しそうで、嬉しかった。……でも、僕が何を出来たかって思ったらさ、何も無いって思ったんだ。そしたら全部苦しくなって、こんな弱い僕なら、いっそ死──」
その先の言葉は、頬に走る痛みと共に掻き消された。痛む頬に手を当て彼女へ向き直ると、顔を赤く染め、目に涙を溜める彼女が目に映る。
「どうして……どうしてそんな事を言うの! 何も出来なかった? そんな事ないよ! あの時、君の言ってくれたあの言葉が本当に嬉しかったんだよ……。そんな君を拒絶なんてする訳ないじゃん……。君の弱さにだって気付いてた! 私が音楽に近づくのを辛そうにしながら避けてたの、知ってるよ。だって私も、君のその弱さにつけ込んで避けてたんだもん……。私だって弱いよ……」
「…………」
何も言えない。良く分からない感情が渦巻く。あの時の言葉が彼女にとって、それ程の救いになるとは思ってなかった。この感情に戸惑う僕に、彼女は言葉を続ける。
「面倒くさい? それも知ってるよ! 何年一緒いると思ってるの? そんなの分かるに決まってるじゃん……。でもね、私は、君のその面倒くささに救われたんだよ……」
"だから"そこで彼女は言葉を切り、深呼吸しつつ、辺りを見渡してから、こう続けた。
「──そんな君に救われた私だから、家族に似た感情じゃなくて、異性として、君を好きになったんだよ?」
「えっ……?」
──その言葉で、戸惑う事を超えて、僕の思考が停止する。だって、それは僕の心に押し込んだモノと同じで──。
「いつだっけ、この公園で言おうとしてた事。それがこの言葉。私はね。ずっと君の事が好きだったの。自分を許す事が苦手で、ちょっと面倒くさい所があるけど、私の手を引いてくれるとっても頼りになる貴方が私は好きです。だから、君が自分を許してあげれるように、今度は私が君の手を引いていくから……!」
──だから、ねぇ、私の事どう思ってる?
あぁ、涙が止まらない。きっと君は素敵な笑顔を見せてくれてる筈なのに視界がぼやけて良く見えない。差し伸べられる手も良く見えない。僕は救われて良いのか、彼女の言葉が心に染み入る。そうして、滲んだ視界の中で、彼女の手を、僕は──。
☆☆☆
──ねぇ。僕を呼び掛ける声がする。声のした方を向けば、純白のドレスに身を包んだ、大切な人の姿。
"どうかな?"と感想を求められたので、隠す事でも無いし正直に言えば、頬を赤らめる彼女。それを揶揄いながら、しばらく話していると、ふと彼女がこう聞いて来た。
──あの頃に比べて前に進めた?
その言葉に少し考える。思い出すのは、彼女とのこの関係になった時の事。そして、今に至るまでを思い返し、少しだけ頭を横に振る。
──うん、進めたさ。でもまだ、足りないかな。
僕の言葉に首を傾げた彼女の手を握り、歩き出す。その先には、僕と彼女が繋いできた、天に煌めく星のような縁の証。それを見て、納得したように彼女は笑い、僕の手をしっかりと繋ぐ。お互いが互いの手を引き合えば、決して離れやしない。
──さ、行こうか。僕達の最高に。
──うん!
ありがとうございました。