01 目覚めは翡翠色とともに
ある朝、
腰を落ち着けているソファはこれ以上ないくらいに柔らかい。身体の芯を抜き取られてしまったかのように立ち上がるのが億劫になるほどだ。
どうやら心地の良いソファに沈み込んで、そのまま眠りこけてしまったらしい。
それもギターを抱えたままで。
───そんなに疲れていたかな。
肩や首を回してみるが、疲労はまったく感じない。高級なベッドの上で一晩過ごしたかのようだ。とてもではないが、ソファで一夜を明かしたコンディションとは思えない。
さて、ここはどこだろうか、と脳髄が快楽を伴う微睡みを振り払って、通常運転をし始める。
家ではない。我が家にはこんな上等なソファはない。壁一面が鏡張りになっており、その前にはカウンターテーブルと背もたれの低いチェアが四つ並んでいる。部屋は全体的に白が基調となっており、影を払うかのように配置された白色灯の効果も相まって清潔な印象を受ける。
───ライブハウスの控え室みたいだ。
部屋の造りがなんとなく似ている。一時的にしか身を置かないため、部屋の調度品も自然と最低限のものになった感じ。しかし身嗜みを整えるための設備は充実している。
問題があるとすれば、直近でのライブの予定は無いことくらいだろう。そもそも控え室に入ってから爆睡するなどありえない。
部屋には湊の他に三人いる。一人は初老に差し掛かった男性。手元にはヴァイオリンらしき楽器ケースを携えている。
もう一人は湊よりも少し若い女性。彼女の傍らには楽器ケースが置かれている。楽器の形に沿ったケースの形状からサックス奏者だろうと当たりをつけた。
二人は湊の対面のソファで眠りこけている。
そして最後の一人は、この部屋唯一の出入り口であるドアをガチャガチャと鳴らしていた。
───翡翠を溶かし込んだ少女だ。
膝裏にまで届くくらい伸ばされた、異様に長い髪が照明の光を受けて翡翠色に輝いている。
若いというよりも、幼いと形容したほうが相応しい。小学校高学年くらいだろうか。去年小学校に上がったばかりの
湊の隣には一本のギターが置かれていた。深い蒼色で塗装されたそれは、考えるまでもなく彼女の持ち物だろう。
「あの……君……」
ここはどこで、君は誰。どうして俺はこんなところに。何が何だかさっぱりまったくわからない。
5W1Hの一項目ですら満足に埋められない。訊ねたいことは山ほどあったが、果たしてなんと声をかければよいものか。そもそも目前の少女が湊が求める答えを持っているとは考えられない。
逡巡が、湊に声を出すことを躊躇わさせた。
しかし湊の囁くような呟きを聞き逃さなかったのか、少女はくるりと振り返る。半瞬遅れて、彼女の長髪が扇を描く。
「あ。起きた?」
屈託なく少女は微笑みかけてくる。この状況にまるで物怖じしていない。大した胆力だな、と湊は場違いにも感嘆した。
「頭はちゃんと働いてる? 寝る前のことは思い出せる? あとついでに名前を教えて」
一分一秒が惜しいとでも言わんばかりに、少女は矢継ぎ早に質問を重ねる。しかしそれが今の湊には心地よかった。見ず知らずの場所で目覚めて混乱している頭に、思考の道筋が示されたから。
「湊と呼んでくれ。昨日は自分の部屋で眠りについた。寝る前は夕食を食べて、テレビを見て、風呂に入って、娘とギターをちょっと触って、まあ特に変わったことなんて何もない一日だったはずだ。───あと、ついでで人に名前を尋ねるんじゃない」
「おっと
氷川と名乗った少女は明け透けな態度で喋る。
「あとそこのドアは開かない。ドアノブ自体に鍵は付いてないから、外から何かで抑え込んでるのかも。それかまったく違う仕掛けがあるかだな」
暁は舌を鳴らし、悪態をつく。しかし浮かべる表情は笑顔のままで、それがひどくアンバランスだった。
少女が持つ歪な二面性から目を逸らすように、湊は暁へ話しかける。
「とりあえず、この二人を起こそうか」
対面のソファで眠っている初老の男性と、湊よりも少し若い女性を指差す。何が何だかわからないままだが、このよくわからない場所で眠りっ放しの人間を放置するのは危険だと判断できた。
改めて自分の格好を見れば、普段着として多用している黒が基調の服装にいつの間にか着替えている。昨夜寝間着に着替えてベッドに入ったのが湊にとっての最後の記憶だ。
外出した記憶は当然無いし、寝ている成人男性を起こさないよう着替えさせるのはかなりの手間だろう。筋の通った説明などできない状況。奇々怪々な出来事の連続は湊の正気度をゆっくりと擦り減らす。
湊は大きく息を吸って、また吐き出す。散り散りになりそうな思考をそうやって強引にまとめた。
「起こすのはちょっと待ってくれ。部屋の中を見て回るから」
沈みがちになる湊の思考とは対照的に、暁はどこまでも平静そのものに見える。
言葉通り、彼女は室内を物色し始めた。テーブルや椅子の底面を覗き込んだかと思えば、湊に立ち上がるよう指示を出し、ソファの座面と背もたれの隙間に手を入れる。特に鏡は時間をかけて検分していた。どこか手慣れた作業を見るのは、刑事ドラマの撮影現場を生で見ているかのような錯覚を湊に与えた。
ひょこひょこと室内を動き回る暁を見ている内に、自然と湊も冷静さを取り戻した。
「───髪、邪魔じゃないのかい?」
つい、思ったことを口に出した。女の子の身体的特徴にあれこれ口を出すのは躊躇われるが、暁は髪の毛先が床に触れるのを避け、マフラーのように何重にも首に巻き付けている。明らかに、煩わしそうだ。
そこまでするくらいなら切ればいいのに、と思ってしまうのはデリカシーのない男目線だからだろうか。
「こうでもしないと新鮮味が無いんだよ。……そろそろ終わるから待っててくれ」
新鮮味。
髪を伸ばす理由としては、少し不思議な単語だ。しかし、追求はしない。湊は口を噤む。女児の親として、これ以上掘り下げるのはアウトだと思ったからだ。
とは言っても手持ち無沙汰な現状からは逃れられない。湊にはここは何の変哲もない一室にしか見えない。暁の手伝いを買って出ようとしたが、彼女からは邪魔者を見るような目を向けられてしまった。
奇妙な渦中に巻き込まれたことよりも、そちらの方が湊にとってショックだった。年頃の女の子から向けられるちょっと嫌そうな視線が物理的な痛みを伴って肌を刺す。そしてあと数年もすれば、この視線を愛娘から向けられるようになるのだ。
今は湊を真似て歌ったりギターを弾く愛くるしい友希那が、いずれ父親という存在を恥であるかのように扱うかもしれない。家族間なのに互いにどこか一歩引いたギスギスした空気が食卓を寒々しくするかもしれない。
湊はとてもブルーな気持ちになった。自分の勝手な妄想で勝手に傷つくあたり、本気で間抜けを晒しているな、とも思った。
わけもなく居た堪れなくなってしまった湊は、唯一の話し相手である暁に声をかける。多少なりとも建設的な話題を提供しようと心がけて。
「ここ、ライブハウスの控え室みたいじゃないかな? 実はさっきから知っている場所なんじゃないか思い返したりしてるんだけど、氷川ちゃんはなにか心当たりとかあるかい?」
「心当たり? ハッ! 冗談! こんな人間社会に疎いやつが用意した建物に心当たりなんてあるかよ」
しかし暁にとっては論外とも言えるような話題だったらしい。
酷薄な声音とは裏腹に、やはり表情だけは楽しそうで。その表情を彼女自身は自覚しているのだろうか。
「気づいているのかい?」
「気づかないわけないだろ。部屋の中に蛍光灯のスイッチが無いのは百歩譲っていいとして、窓の無い密閉された部屋で空調のひとつも取り付けないとか───ありえない」
そういうことが言いたかったわけではない。しかし、改めて部屋の中を見回せば、少女の言う通りあって当然の物が欠けている。照明のスイッチは無く、天井には煌々と光る蛍光灯しか存在しない。
建築法だか消防法の改正で空調や火災報知器を取り付けるのは義務化されているはずなのに。思い返せば、いつも使っているライブハウスの控え室にはちゃんと設置されていた。特にボーカリストともなると、喉を守るために湿度に気を配る人も大勢いる。そのニーズに応えないライブハウスには未だ出会ったことがない。
「───本当だ。よく気づいたね」
先入観が無い所為か、時に子供は大人が見落としてしまうことにも気づく。湊自身も娘と話していて、子供が持つ独創的な世界観に驚かされることがある。しかしこの少女の場合、経験と知識に裏打ちされた冷静な観察結果を喋っているような印象を受けた。
「あん? こんなもん導入でやる確認なら常識───」
はたと暁が口を噤んだ。苦み走った表情の中には困惑が透けて見え、暁は考え込むように口元に手を添えた。
「───またかよ。あーもう、また
先ほどまで楽しげに笑っていた顔が一点して、嫌悪が滲み出た表情に変わる。
「大丈夫かい?」
湊は暁の目前で膝を付き、彼女の顔を覗き込む。大人びた、ちょっとやそっとのことじゃ動じないしっかりした子だと思っていた。
きっと、それは間違いではないのだろう。しかし、寄りかかるものが消えてしまったように立ち竦んでいる姿も、湊の見間違えではない。
他人事で済ますほど湊は薄情な
───いや、それだけじゃないのかもしれないな。
冷静さを装っているが、実はこの場で最も混乱しているのは自分自身かもしれない。そう湊は考える。自分よりも弱い人間に気を配れる。つまり、自分はそれだけ余裕がある。余裕があるのだから、慌てふためいたりはしない。
要は、子供を不安がらせないための見栄だ。大人として、一児の父親として、子供を無闇に怖がらせるような愚行を犯すわけにはいかない。
そのような心理が働いていたとしてもなんら不思議ではなかった。もしも湊が独りだったならば、もう幾度も泣き言を漏らしていたかもしれない。
「───氷川ちゃん?」
「大丈夫。ありがとう」
彼女を心配している気持ちは本物だ。涼やかな声音が返ってきて、湊は安堵の息を漏らした。
「どうせ向こうのアクション待ちだ。曲でも弾いて待ってようぜ」
言って、彼女はソファに飛び込むや否や、傍らに置いてあったギターの弦に指を走らせはじめた。途端、暁の表情はわずかに曇る。湊は彼女の演奏レベルが想像以上に高かったことに驚き、その表情の変化を見落とした。
アンプもエフェクターも無いのだ。本気で弾いているわけではないだろう。しかし手遊びで弾くにしては巧すぎる。彼女の本気の音を聞いてみたい。そう思わせるに足る音色だった。
彼女がギターを触り始めて、目前に座っていた二人が目を覚ます。
自分と同じように混乱した二人をなだめすかして、湊たちは互いの自己紹介を行った。結局わかったことは性別も年齢も住所もまったく異なっており、共通点は全員が音楽に携わっていることくらい。
初老の男性はかれこれ四十年近くヴァイオリンを弾いており、趣味で地元のシニアが集まっているオーケストラに所属しているという。女性も同様でジャズを主体としたインディーズバンドを結成しているらしい。
かくいう湊自身もいまや音楽事務所に所属するバンドマンだ。
意外だったのは小学生だと思っていた暁が中学一年生だとわかったことか。中学生にしては背が低く見える。ギターは物心がついたころから弾いているらしく、少女はすでに人生の半分以上をギターに捧げていた。
そして程なくして。暁の言った通り、『向こうからのアクション』とやらがやってきた。