【数学】爺ちゃんが死ぬ間際まで解いてた数式について聞きたいんだけど
『これなんなのかわかる人いる?
爺ちゃん、数学が趣味っていうちょっと変わった人だったんだ。でもこの間亡くなっちゃって、最期まで紙とペン手放さずに解いてた問題がこれになるんだけど、〇〇の定理みたいな名前付いてたりするのかな?
私は数学とか一切興味ないんだけど、爺ちゃんが最期まで何に取り組んでたのか知りたくなったからスレ立ててみた。
たぶん最初と思うノートの中身載せるから知ってる人いたら教えて。
【写真001.jpg】【写真002.jpg】【写真003.jpg】』
四十人近い人間が雁首揃えて各々の目前にあるディスプレイを覗き込む。一様に教師の指示に従って、同じ命令を同じ間隔で与えていく。命令を処理するコンピュータも含めて、部屋中が同じ『式』で満たされるのはどこかおぞましさすら感じさせた。
あるいは、有象無象の『式』たちが意味もわからず計算機に命令を吐き出す姿に嫌悪感を催したのかもしれない。
日菜と紗夜は小学校高学年に上がった。情報の授業が増え、クラスメイトたちははしゃいでいる。けれど、日菜はこの時間が好きではなかった。嫌いとまでは言わない。しかし嫌であることは確かだった。
物言わぬ機械が淡々と計算処理を片付けていく様を見るのが嫌なのかもしれないし、口ばかりの『式』たちが無意味極まる命令を出し続ける様を見るのが嫌なのかもしれない。
迷いがない。選択がない。あるのは『式』と解ばかり。この時間は日菜が見る世界の最小構成と言える。
退屈の象徴。
何のために息をしているのかすら定かではない。
日菜自身ですら知らぬ、日菜の裡に眠る渇望は、じんわりと日菜の心を蝕んでいた。
マウスのクリック音やキーボードの打鍵音がコンピュータ室に木霊する。
授業が終わりに近づくと、課題を片付けた生徒が電子の海を自由に泳ぎ始める。冷却ファンがかりかりと立てる音にまぎれて、生徒の忍び笑いが聞こえてくる。調べ物学習などでパソコンを使う以上、フィルタリングはかなり穴だらけで設定されていた。やることをやった上で授業終了まで遊び呆けるのは学校側も許容しているのか、神経質に注意を並べる教師は居ない。
そうやって好き勝手にブラウジングする様をくだらないとは笑うまい。日菜もまた、同じ穴の狢であるのだから。
世界に向けて開いている窓の数だけは、目前の機械に一歩劣る。言うなれば、氷川
日菜自身何を見い出すべきなのかすらわからずに、なんとなく目に留まったまとめサイトのリンクを開いた。
誰かが死ぬ寸前まで熱中できたものならば、多少なりとも退屈は紛らわせるかもしれない。
投稿主のレスにざっと目を通し、添付されているノートの写真を見る。
「──────」
頭の中に空白が生まれた。何も考えられなかった。異次元に吸い込まれたような気分だった。
かひゅ、と思い出したように日菜は息を吸う。
ひどい字だった。投稿主の言う通り、老人が震える手で書いたのか、筆圧すら一定ではない。数式と謳っているくせに数字がほとんどない。記号とアルファベットが乱立し、小学校では習うべくもない概念で形成されている。万人のために規定されたルールなど日菜は知らない。記号やアルファベットが何を指しているかなど日菜が知る由もない。
けれど、ひとつだけ。理解した。
───ああ、これは───なんて、美しいんだ。
圧倒、された。感動があった。
目を奪われる、というのだろう。視線が釘付けになり、瞬きすらできなかった。
幾多の『式』を見てきたからこそ言える。夕陽の残滓の中で輝く星の運行よりも。夜空が血を流しているかのように見えるオーロラよりも。風の中で舞う花びらや細氷よりも。黄金色の毛並みをまとった玉兎よりも。朝日に佇む街並みよりも。これまで見てきたありとあらゆる『式』よりも。
この数式は───美しかった。
暴力的なまでの衝撃すら伴った美しさから我に返り、改めて数式を注視した。理解するために。解き明かすために。目を光らせる。
そして氷川日菜の脳髄は
なぜか太鼓と笛の音だけがハッキリと見えた。祭囃子のように絡み合う音色。まるで意味がわからない。
「くひっ……ひ、ひひっ……!」
日菜は両手で自身の口を押さえつけ、奥歯を噛む。そうしなければ教室中に哄笑を響かせてしまう。普段なら気にも留めない。けれどいまだけは、何人にも邪魔をされたくなかった。昂ぶる感情を押し込まなければならないのは不満だが、水を差されるのに比べれば億倍マシだ。
ディスプレイを衝立代りにし、身をかがめ、肩を震わす。
血流が速い。小刻みに震える喉と横隔膜のせいで呼吸すらままならない。早鐘のような鼓動は高まるばかりで、一向に収まろうとしてくれない。
無理矢理にでも息を深く吸って、吐く。深呼吸を繰り返している間に、暁の顔が思い浮かんだ。
いまならば、暁の気持ちが理解できる。
───こんな、こんな気持ちになっちゃったら、救われた顔くらいしちゃうよね!
名を知らぬ感情が日菜の胸に募っていく。この気持ちは、この胸の高鳴りは───
「日菜? 大丈夫?」
息を荒くし、身を震わす日菜を案じてか、紗夜が声をかけてきた。
「あのねおねーちゃん。あたしいま、とーっても
満面の笑みで日菜は応えた。久しく浮かべていなかった心からの笑顔だった。
どくどくと心臓が荒ぶる。警鐘のようにがなり立てる鼓動は、きっとこの世の関節が外れる音に似ていた。
「ぞん? まぁ、気分が悪くないならいいわ」
「大丈夫だよ。ここ数年で一番気分が良いくらいなんだもん!」
日菜は唇を歪めた。心配する必要はないと判断したのか、紗夜は自分のディスプレイに向き直る。
日菜も再び目前のディスプレイを見る。ページをスクロールし、他者の反応を読んだ。
けれどわかったことと言えば、ミレニアム懸賞問題のような有名所ではないことと、定理ではなく未知量を求める方程式だということくらい。
このスレに集った人間では何を求められているのかすらわからず、ただただ難解であるということしかわからなかった。
瞬く間に日菜は嵌まり込んだ。無邪気に熱中した。一心不乱に打ち込んだ。
「これが『特別』なんだ。あたしが解く。だって、とってもぞんってするんだもん」
◇
「きら姉、朝だよ。学校行ける?」
数式を解き明かすまでは、氷川暁に最大限の警戒を。日菜の直感はそう囁いた。
思考の大部分を封印する。
勘とは無意識化で脳が多大な情報を処理した結果なのだという。暁から読み取れる数多の『式』の中で、一体どれが引っかかっているのか日菜自身にすら定かではない。けれど、日菜は自身の直感を無条件で信じきった。ようやく見つけた『特別』を取り上げられるくらいなら、杞憂だろうと万全を期した方がいい。そう考えた結果だった。
日菜は無防備に寝顔を晒す暁を揺り起こす。布団にくるまった暁はもぞもぞと身じろぎすると、呻き声と大差ない声を発した。
「…………大丈夫。寝れてたし。行けるって」
もうかつてのような長く長い髪はない。
ゆっくりと上体を起こす様は、さながらゾンビのようだった。一時期に比べればマシになったものの、時折暁の顔色はとんでもなく悪くなる。中学生のとき、睡眠障害を患った影響もあるのだろう。ギターを弾くか、気絶するかの極端すぎる二者択一。それに加え、高校に上がってからの暁はよく外泊をするようになった。
そのおかげで、彼女の目を欺くことはとても容易い。
登校の支度を終えると日菜は紗夜と家を出る。暁は電車通学のため最寄りの駅へ。双子は今年最後となる小学校へ。
暁と別れたことにより、日菜は思考の封を解く。束ねていた撚り糸を解くように、ひとつにまとまっていた思考が花開く。記憶の中の数式を検証するために、考え事の筋道は二つとなって、四つに増えて、八つへと分かたれて、最後には十六通りの解釈を同時に分析し始める。
日菜は持ち得るすべてのリソースを、数式を解くためだけに捧げた。燃料切れを起こさないよう、ランドセルに入れっ放しになっているブドウ糖を口に含んだ。一瞬で溶けるにも関わらず、舌の上に残り続ける独特な甘みが、頭の回転をなめらかにする。こうして数式をこねくり回している間、外界で起きたことはすべて反射に身を任す。
「──────」
何事かを紗夜が喋った。
「──────」
反射的に、日菜は笑みを浮かべて何かを応えた。
紗夜がなんと言ったのか。自身が何を言ったのか。意識に上らなかったやり取りは記憶に留められることもなく、時間の渦に呑まれていく。
六年間通い続けた通学路へ新たな足跡を刻み終える。教室の自席に根を生やした日菜は、さらに深く自身の裡へと深く潜る。椅子に座したまま、日菜の意識はエレベータの中に居た。一階から九〇階まである超高層ビルディング。現在の階層を示すパネルは九〇階に止まっており、ゆるやかな下降の後に扉が開いた。
エレベータから出た先は狭い一室であった。迫る十六面の壁。ひとつの壁の前には一本の水性ペンが宙に浮き、その光景が十六個展開されている。ペンは一本一本がわらわらと異なる動きをし、さながらケージ別に入れられ暴れ回る昆虫のようだ。
日菜はペンが通った軌跡に目を向ける。なんとなく美しくないと感じたものには、壁一面へいずこからか取り出した水をぶちまける。濡れそぼったペンは息絶えたかのように地に落ちた。
学校にいる間はもちろんのこと、食事中だろうと入浴中だろうと、あるいは就寝中だろうともだ。常に意識の何割かは『宮殿』の中で過ごし、暇さえあれば増改築を繰り返した。
すべてはたった一問の数式を解くためだけに。
───うーん。ある程度まで進むとぜんぶもにょっちゃうなー。
なーんでだー、とぼやいている間にも、十六面に書き連ねられた文字列は残すところ三面にまで減っていた。解には至らない。文字と数字だけではなく、幼少の頃に見ていた不可思議な模様が混じっている。日菜自身にも理解できない無意識の仕事だった。
日菜は再びエレベータに乗る。気分に従って、エレベータは高速で下降する。エレベータが止まり、扉が開いた先には長大な橋が続いていた。川というよりも海を跨いでいるかのような長さだ。川の流れの先に視線を向ければ、遠くで空と水がひとつの青になっている。橋沿いに目を向けると、水平線ぎりぎりにかろうじて岸が見えた。
日菜の下をいくつもの貨物船が走っていく。汽船や帆船、中には超巨大タンカーすらも。時代や国に関係なく、日菜がどこかで見た船が一様に並べられ、動いている。
欄干にもたれかかりながら、日菜は眼下のイメージに思いを馳せた。
そよ風にさざ波を立てる水面。水面によって乱反射する陽光。船の往来がそれらを切り裂き、スクリューによって白く濁る。
いつか見た『式』の動きを、日菜は頭の中で完璧に再現していた。
「何かの流れを表してると思うんだけどなー」
集中する。明晰な頭脳の中で流れる川は、日菜の目前で一部が逆流をし始める。ポロロッカのように川全体が逆流するのではなく、あくまで一部分の流れだけ。不可逆の流れと可逆の流れの狭間で起きる摩擦。現実では起こりえない空想の産物。この妄想が割りといい線いってると日菜は思っている。
惜しむらくは、ただの妄想にまで『式』は見えてくれないということだ。
またしても日菜はエレベータに引っ込んだ。
エレベータの行方は最下層。到着するとエレベータの壁は四方へと倒れた。舞台セットの書き割りを思わせる薄っぺらな壁が一枚剥がれると、外には宇宙が広がっていた。日菜は近くにあった地球に腰を下ろして足を組む。宇宙には星の代わりに途中式の残骸が散らばっていた。そこへ、日菜は新たに先ほどまで考えていた三つの途中式を投げ入れる。
もう何百通りの計算過程を試したのだろうか。解には至らなかった残骸を見ながら日菜は思う。
「……本当にこの宇宙の法則が通用するのかな?」
既存の法則はあてにならない。はじめは漠然としていた予感がいまや確固たる確信に変わっている。
だとすれば、それはどこへ行けば見えるのか。一目だけでいい。この宇宙が作り出した常識を打ち破ってくれる一手があれば、解にまで至って見せるのに。
けれど現実にはそんなことは起こり得ない。だからこそもっと想像力を働かせるしかない。
日菜は椅子代わりにしている地球へ向けて、乱暴に拳を振り下ろした。地球が二つに割れる。重力は容易く崩壊し、十三億五〇〇〇万立方キロメートルの海水がいくつかに球状にまとまりだす。地球の断面からは五〇〇〇度前後の鉄とニッケルが混ざった液体金属が流出し、こちらもいくつかの球状にまとまった。そしてさながらビリヤードの如く、海水と外核は衝突を繰り返し、終わりのない水蒸気爆発を連鎖させる。
けれど。
こんなのじゃダメだ。全然足りない。
星一つ潰しても、インスピレーションは得られない。地球の最期を横目に、日菜は意識を浮上させる。
登校直後から何も変わっていない教室。授業がはじまると、一斉にプリントが配られる。印刷された文字は一切読まず、日菜は精神の宮殿の最下層に放り込んだ途中式を綴った。いくら筆跡を睨んでも解は見えない。深く息を吐いて、日菜は身を投げるように背もたれに身体を預けた。
気晴らしに窓の外へ目を向ける。遠くの景色が見たかった。雲粒の連なりから、いまの風速がいくらあるのか。次に雨が降るのはいつなのか。そんなことばかりが理解できてしまう。ままならない。日菜はまた、ため息を吐いた。
そして雲の狭間に奇跡の一手を見た。
一見すると蟻のようだった。人間に似た皮膚と眼球を持ち、爬虫類さながらの耳と口。肩と尻からは鋭い鉤爪を伴った手足が伸びている。ざっと二、三メートルはある体長。地球上に存在するはずもない怪物が、我が物顔で空を闊歩している。
見たことのない『式』が、そこにはあった。
がたん、と音を立てて日菜は椅子から立ち上がった。誰かが座るよう声を荒げている。知ったことではなかった。教室の窓からベランダに飛び出し、雨樋を伝って地上まで飛び降りる。そこからは『式』の残滓を追って、街中を走り抜けた。
ちょっとした障害物を飛び越えて、エアコンの室外機を踏み台にし、塀を登って、民家の屋根に飛び移り、躊躇いなく次の一歩を踏み出していく。空を飛ぶ相手を追って、日菜もまた一直線に地上を走った。
パルクールやフリーランニングと呼ばれる技術だ。日菜にその知識は無かったが、追跡を可能にする『式』は見えていた。あとはその『式』に従って身体を動かすだけでいい。
怪物はひどく窮屈そうに飛んでいた。本来の飛び方を制限され、地球の大気に合わせて飛行しているような印象を受ける。その姿はいまの日菜と変わらない。地図上では直線で移動していても、大小様々な障害物を避けているかのような。向こうは大空を移動しているのだからおかしな話だが、日菜は自身の眼を信じる。そしてその本来の飛び方が見えればいいのに、と日菜は臍を噛んだ。
次に日菜は見た。
鋼鉄の人形が両手両足から高出力のジェット噴流を吐き出しながら、怪物に追随する。日菜がこれまで見た人工物の中でも、素晴らしく洗練された『式』をまとっている。数十年は時代を先取りしているテクノロジーの塊だ。さながらマーベル作品に登場するようなソレは怪物に体当たりを敢行し、錐揉みしながら墜落する。
落下中に怪物の鋭い鉤爪で輪切りにされようとも、人形は怪物を地に落とした。
一歩踏み外せば大怪我は免れない危険なコースの終着点は都内にある大きな庭園だった。
日菜は見た。
怪物の落下地点で、二人の少女が待ち構えるように立っている。
ひとりはギターを携えた、翡翠色の髪をベリーショートにした花咲川女子学園の生徒。もうひとりは赤毛をショートヘアにしたすらりと背の高い女子高生。
赤毛の女子高生が、地面に這いつくばった怪物の頭に足を乗せる。まったくもっておかしな光景だった。人間の形をしているのに、彼女の『式』はまるで宇宙のようだった。宇宙に縫い付けられた怪物は、身動きひとつ許されず、ただただ地面を舐めるばかり。
ここで日菜は怪物に乗り手がいたことに気づいたが、その乗り手も蛇に睨まれた蛙のように動けない。
そして、日菜は見た。
ギターが奏でられる。黄金の音色が広がっていく。その黄金は単純な音が連なった『式』をしていた。けれど、それはただの音ではない。もっと大切な、生命の本質が詰め込まれていた。
最初から最後まですべての顛末を日菜は食い入るように瞳に映す。目が乾く。瞬きすらも惜しい。一瞬たりとも目を離したくない。
カルチャーショック、とでも言えばいいのだろうか。
あれだけ求めていた価値観の崩落が、眼前で大盤振る舞いされている。日菜の中で点と点が一本の線に繋がりつつあった。精神の宮殿の最下層に押し込んでいた途中式が意味を成そうとしている。
そこで───
赤毛の女子高生が日菜を見ている。視線が交わる。眼球から自身の裡を覗かれる。
ぞんっと心臓が震えた。
暴かれる前に視線を断ち切る。日菜は脇目も振らず走り出した。日菜の『特別』たる数式をはじめて目にしたときよりも強い衝撃。衝撃の重さを知覚したとき、考えるよりも先に足が動いていた。ペース配分を一切考えない全力疾走は小さな公園で終わりを迎える。
「───、───」
追われてはいない。冷静に考えて追われるはずもない。ただ日菜が驚いて、反射的に逃げてしまった。空転していた思考の歯車が再び噛み合い始める。
荒い息を吐きながら、日菜は手近な木の枝を圧し折った。後顧の憂いははじめから存在しない。小振りな枝を筆代わりに、地面へ数式を連ねていく。すぐに日菜の思考は研ぎ澄まされた。アナロジー的思考が熱を帯びる。口端から笑みが零れ落ちた。
「鍵は宇宙だったんだ! いつまでも人の目線で考えてるから、最後はもにゃって解けなくなるんだ!」
三次元で考えていることがそもそもの間違いだった。明らかに地球産ではない怪物の飛翔能力を思い返す。あれが何の障害物もなく真っ直ぐに飛べる環境を夢想する。三次元如きの窮屈な箱庭ではなく、もっと高次で人間には到達不可能な領域を基盤に演算する。
精神の宮殿の最下層に死蔵された『式』たちが、息を吹き返す。秘められた意味が曝け出され、理屈がつながる。バラバラに散らばった欠片が、ひとつの絵を描き出した。
ようやく、スタートラインに立てた。
手応えがある。実感がある。歓喜があふれる。興奮は臓器を損壊させるのではないかと思うほどに燃えるような熱を伴っていた。けれど思考は反比例するように冷えていき、十数通りの演算を尋常ならざる速度でこなす。日菜はうなされるように手を動かす。頭の中で組み上がった最適な流れを地面に書き殴り、自らの瞳で修正箇所を洗い出し、トライアンドエラーを繰り返した。
筆跡の上にぽたぽたと血が染み入った。
視界が赤く染まる。
眼が熱い。
「ここまでが前提なんだ! ここからが本当の問題なんだ! あはははッ! すごい! すごいよ! これが指しているのは……これは、これは、これは──────『歌』だ!」
頭痛がする。鼻血が流れる。動悸が激しい。けれど、考えることはやめない。手を動かし続ける。
生きている。
間違いなくこの瞬間、氷川日菜は生きていた。
日菜だけではない。星も、銀河も、宇宙も、その外にすら───息吹がある。
『歌』が見える。
太鼓と笛の音に混ざって、すべての生命が歌っている。
星の囁きがあった。宇宙の拍動があった。互いに惹かれ合いながら、『歌』を交わす。
寄せては返す波のように、広がった波紋が戻ってくるイメージ。矮小な三次元でしか起こりえない現象を、日菜は十一次元に置き直して再演算した。
「そっか。───ぜんぶ、ひとつなんだ」
そこでは時間の流れすら一方向ではなかった。網目や籠目のように組み合わさり、過去から未来へ。未来から過去へ。時には横へ。子孫は先祖であり、先祖は多宇宙に居る自分でもある。
時空の立体交差点とでも言うべき門を抜ければ、すべての宇宙の奥の奥にして底の底に狂気が泡立つ宮廷があった。気を狂わす太鼓の単調なリズム。呪われたフルートの悲鳴にも似た音色。呪詛の如きアンサンブルに合わせて、魑魅魍魎たちが身体をくねらせ踊っている。
何十、何百にもおよぶ不定形の怪物たち。腐り、貪り、歌い、踊る。その混沌の中心に───盲目にして、白痴の───魔王が───。
「───解けた」
日菜の手が止まる。大地にはひとつの解が刻まれていた。
そして───
【見ロ】
と、
クルーシュチャ方程式。
この数式の名前を日菜は見た。方程式から不気味な笑い声が響く。笑い声はこの世のものではない咆哮でもあった。
【視ロ】
自身の眼球に従って、日菜は見る。
あれは意識であり、心であり、魂だ。時空間の概念に囚われず、どこまでも拡散し、ひとところに収束する。何者にも成れ、どこへでも行ける。無限の可能性を内包した不定形の邪神。
「───Nyarlathotep」
なんと発音したのかは、日菜自身にも定かではない。日菜の呼び声に応えるように、三つの火の玉が虚空に浮かぶ。視線が交わる。その炎は忌まわしき神の瞳であった。けれど、瞳に宿る妖し気な光は、氷川日菜も負けてはいない。
「ふぅん。なるほどねー。何にでもなれる意識ってことは、あたしを乗っ取ったりしちゃうんだ。方程式を解いた人間はみんなアナタに成っちゃうんだね。───でも、それもう無理だよ」
だってあたしが見ちゃったから、と日菜は笑った。
這い寄る混沌はあらゆる可能性を秘めている。見ればわかる。かの神が持つ『式』は千変万化の人格であり、変幻自在の現象でもある。固定という概念が無いかのように、邪神の『式』は一瞬足りとも定まらない。まさに、名状し難き混沌であった。
それを日菜は片端から
見て、定めた。
お前はこういうものだと、頭ごなしに縛り付けた。己の精神に侵入される前に、まったく別の存在になるよう軛を打つ。
「折角だから、景品が欲しいな。魔法のランプとか猿の手とか、そういうのでいいや。ねぇカミサマ、神らしく、都合の良い願望機に、
───望みを言え。
そう、言われた気がした。
にこにこと日菜は笑う。緩む頬を押さえきれず、ずっと、ずっと胸に秘めていた想いを口にする。敬虔な信徒のように、どこまでも真摯に口を開いた。
「あたしは───救われたい」
炎が三日月型に歪む。
かくして、氷川日菜の祈りは成就した。
◇
「よう。ずいぶん楽しそうじゃねぇか、日菜」
喜びを邪魔するその声は、ひどく不快だった。