しゅるしゅると耳元で生地が擦れる音がする。わずかばかりのくすぐったさと、目の周りを覆う圧迫感に日菜は目を覚ました。
「え、え? なに? だれ?」
咄嗟に誰何したものの、耳朶を擽る鼻歌に相手が誰なのか日菜は察した。
「きら姉?」
ビリっとテープを切る音がする。生地の上から一ヶ所だけを軽く押されて、彼女の手が離れていく。
「包帯。私が部屋を出るまで取るんじゃないぞ」
がたた、と
日菜は寝具に寝かされていた。適度な硬さと形を保った枕が頭を支え、すべらかなシーツが日菜の身体を覆っている。
すん、と鼻を鳴らせば、高い湿度特有の匂いと消毒液のような粘膜をぴりぴりとさせる匂いを嗅ぎ取った。
まるで入院しているようだ。横たわっているだけで全身が訴える鈍痛を思えば、比喩では済まないのかもしれない。特に右腕など、自分の身体の一部ではないかのように異物感が凄まじい。
「日菜」
優しく暁が問いかける。
「はじめにはっきりさせとこうぜ。……まだ───やるか?」
落ち着いた、静かな声だった。神託を受けようとする巫女のように厳かで、これから死地に赴く兵士のような覚悟を伴っていた。それでも、彼女の声には真摯さが滲んでいる。日菜がどちらを選んでも、日菜の意思を尊重するような。どちらに転んでも受け止める、そんな、決死の覚悟。
脅されているわけではない。威圧されているわけでもない。ただ日菜にすべてを委ね、いかなる結末をも飲み下そうとするその在り様が、日菜の心をぞんっと震わす。
「やら、ない。やらないよ。……おねーちゃんに会えなくなっちゃう」
心の震えが伝播した声音で日菜は応えた。
「そっか」
暁は安堵の息を吐いたようだった。
「おら。もういいだろうが。正気に戻って継続の意思もないし、発狂中のことはノーカンだ。人であることを選んだ以上、こっからは家族の時間だろ? 部外者はとっとと帰れ」
ふっと気配が消えた。消えてはじめて何かがすぐ傍に立っていたことに日菜は気づいた。
しんと沈黙が下りた。無音になってはじめて何らかの機械が動いていたことに日菜は気づいた。
ぎぃ、と椅子が軋む。間の抜けた声を上げながら、暁が深く椅子に座り込んだらしい。
「一番の危機は去ったな」
けど、進行役には泣かれるな、とそれが最も頭の痛い問題であるかのように暁は嘆いた。
「きら姉?」
彼女を案じて日菜は声をかけた。他人を案ずることが、ひどく久しぶりの行いに思える。
けれど余計な気遣いなんてするなとばかりに、日菜は荒々しく頭を撫でられた。寝起きで整っているわけでもない髪が、さらにぐしゃぐしゃにされていく。
暁の手は、少しだけ震えていた。
「怖いの?」
「まあな。正直、今回ばかりはおしまいだと思ってたね」
「だったらどうして、ぞんってするものに近づくの?」
「私は私の歌に挑戦してるだけだって。どいつもこいつも先のないところまで後先考えずに突き進みやがるんだ。そんな馬鹿どもに私の歌を聴かせたいなら、こっちも命くらい賭けないと届かないだろ」
行き着いていて、終わっている。日菜はそう感じた。
優先度の問題だ。氷川暁にとって一番大事なものは歌なのだろう。だから、他人が一番大事なものを賭けたとき、彼女は自身の最も大切なものをぶつけるのだ。同じステージに立つために、己が命を出演料として支払うことになろうとも。
良く言えば、信念に沿って動いている。口を憚らずに言うなら、狂気に突き動かされている。
ぞんっと日菜の心が震えた。
認めよう。ベッドの傍らに寄り添う狂気ですら止められないほど、氷川日菜は度し難い狂気に犯されていた。
「退院したら、魔法使いに師事を乞え。いまはガワを整えてるけど、右手を元通りにしなくちゃいけねぇし、なにより、眼の使い方を教えてもらえ」
うん、と日菜は頷いた。眼球に自分の支配権を奪われる感覚は、もう二度と味わいたくない辛苦のひとつだ。
「もう二度とおかしなものは目にするな。見たらすぐに逃げろ。日菜を止めれる人間はそうそういないって理解してくれたよな?」
「ねぇ、きら姉。だから、あたしに包帯巻いたの?」
「そういう理由もあるにはあるがな。魔法使いが珍しく本気出して念入りに灼いたから、霊的視力はあと三、四日は戻らない、らしいぜ。巻いたのは、私の感傷だから気にするな」
「そっか。じゃあ、きら姉の顔を見ながらお話することは、なくなっちゃうんだね」
寂しさが乗った日菜の声に、暁は「いいんだよ、それで」と返した。なにも、よくはない。けれど、彼女は生き方を変えられないし、日菜はいつ爆発するかわからない危険物だ。その上で、日菜は思う。自分に対する評価くらいは変えられるかもしれない。
「きら姉。あたし、がんばるよ。絶対に繰り返さないから。だから、きら姉が大丈夫って思えたら、また三人で遊んでね?」
ああ、と暁は最後に日菜の頭を一撫でして、病室から出て行った。
にわかに、外が騒がしくなる。
『姉さん! 死にそうな顔してふらふら出歩かないでって何度言ったらわかってくれるの!?』
『いいか紗夜。こういうのはな、死ななきゃ安いって言うんだよ』
『失血死しそうになった人が馬鹿なこと言わないで! 絶対安静の意味わかってる!?』
『わかってるって。大人しく寝てるから。あと、日菜が起きたから相手してやってよ』
『ぐっ……この……ッ!』
低俗なスラングが口から飛び出そうとして、咄嗟に口を押さえたかのような会話の終わり方だった。
病室のドアが開いて、怒らせた足音がリノリウムの床に響く。先ほどまで暁が座っていた椅子が再び軋んだ。
「日菜。起きてるの?」
「おねーちゃん。……病院なんだから静かにしなきゃダメだよ」
「───、───」
激昂を飲み下す音を初めて聞いた。ベッドの上に投げ出していた日菜の左手が紗夜に取られる。ぎゅぅぅうう、とあらん限りの力で左手が握り潰される。
「い、痛い! 痛いよおねーちゃん!」
「───あなたたちが、心配ばかりかけるせいよ」
ぽたぽたと、左手に雫が落ちた。
「心配、させないでよ……っ!」
嗚咽に濡れた紗夜の声に、日菜は胸を締め付けられた。いままでで一番苦しかった。紗夜を泣かせてしまうのがこんなにもつらいとは、知りたくもなかった。
「おねーちゃん。顔の包帯、取って」
見ておかなければならないと思った。自分が招いた独り善がりな行動の結末を、記憶に刻まなければならなかった。
「……大丈夫なの?」
「うん。きら姉が勝手に巻いただけだから」
「……そう。傷だらけの姿を、日菜には見られたくなかったのね」
紗夜の手が包帯にかかる。傷を圧迫するためではなく、目を覆うためだけに巻かれた包帯は、するりと簡単に解けた。
日菜の目に、翡翠を溶かし込んだ髪が映る。
「──────ぁ」
雪のように白い肌が、白日の下で輝いている。長女と同じ、意思の強さを感じさせる瞳。涙に濡れた桃の頬とさくらんぼのような愛らしい唇。透き通るような美しさが日菜の脳裏に焼き付いた。
「おねーちゃん、きれー」
呆然と呟きがこぼれ落ちた。つぅ、と涙が流れる。
十二年。十二年もともに生きて、今更になって日菜は気づいた。自身の姉が、とても───美しいということを。
これまで取りこぼしてきたものの大きさと多さを悟ったのだ。
「ひ、日菜!? やっぱりあなた、どこか頭でも打ったんじゃ」
「違う。違うんだよ、おねーちゃん」
とくとくと心臓が荒れる。けれどこれは決して恐怖などではなく。
「あたし、いまね、とっても、とっても
愛おしさのあまり胸に手を当てる。走り出す鼓動は、恋に落ちる音に似ていた。
下地が整ってしまった。たぶん紗夜回は情報産業革命が起こっていて、ガチなSFになりますね……。