「歌ってください。演奏してください。こちらからの要求はそれだけです」
進行役、と少女は名乗った。
ひとつにまとめた艷やかな黒く長い髪を揺らしながら、その少女は『控え室』に入ってきた。
疲れ果て、倦んだような目をしていた。目元にある泣きぼくろが、魔女の刻印のように視線を吸い寄せる。
可愛らしい顔立ちではあるが、腐り果てたような眼球が言いしれぬ圧力をかけてくる。
胸元にフレアデザインがあしらわれたシフォンブラウスと膝丈の紺のスカート。その上にベージュのジャケットを羽織り、足先の見えないパンプスを履いている。
まるで結婚式に参列するかのようなフォーマルな服装は少女を一層大人びて見せ、彼女も彼女で実年齢を悟らせない。
背は普通、なのだろう。湊の隣に座る少女と比較したが、これは比較対象にした相手が悪い。
若い、とは思う。成人はしていないだろう。街角で見かければ高校生かと思うかもしれない。だが、長年の澱が溜まったような瞳と彼女が纏う異様な雰囲気が、湊よりも年下だとは思わせてくれない。
『控え室』に無機質な電子音が響く。次いで、進行役が口を開いた。
「どなたかひとり、そちらのドアから出て行ってください。ステージに続いていますので、一曲披露すれば解放されます」
一も二もなく、サックス奏者が飛びついた。「こんなわけのわからないところになんていられないわ」と悪態をつきながら、いち早く足早に『控え室』を去って行く。
暁が確認したときは開かなかったドアが、いまはすんなりと人間を呑む。
「私は嫌だね。歌わねぇよ」
暁が否定の言葉を吐いた。
先ほどまで誰に言われるまでもなく、楽しげに、鼻歌交じりでギターを弾いていたとは思えないほど強い否定だった。
「ではここに骨を埋められますか?」
淡々と進行役が言葉を返す。
思い通りに動かなければ生かして返さないと言っている。本気かハッタリか、湊にはわからなかった。倦み疲れた瞳を目にすると、すべて本心のようにも思えたし、全部大嘘なのかもしれなかった。
冷気にも似た何かを感じる。目覚めてから感じていた不気味さがより濃度を上げた。ごくり、と湊は生唾を呑む。おぞましい事実だけが、決して誰をも裏切らない。
どこかで、凄惨な音が───鳴った気がした。
「その前に、アンタを鬼籍に入れるっていうのはどうだい?」
ただ、隣に座る少女は違った。
勝ち気な瞳に危うげな光が灯っている。暁の口元は挑発的に弧を描いていた。
「ま、待て! はやまるな!」
制止の言葉が湊の口を衝いて出た。放っておけば往年のロックギタリストのようにギタークラッシュのパフォーマンスをしでかしかねない凄味を感じた。そしてそのとき壊れるのは、ギターと氷川暁だろうとも。不思議なことに、進行役が傷つく姿を湊は想像できなかった。
「ざけんな。私の歌が聞きたいのならオマエの方が聞きに来い。
それでもなお、暁は止まらない。
わずかに進行役がたじろいだ。瞳が揺れている。それを隠すように進行役は顔を伏せ、深く溜め息をついた。
再び顔を上げた進行役の瞳はもう揺れていない。真っ直ぐ暁を睨んでいる。彼女の顔からはどこか悲壮な覚悟を感じた。湊の頭の中では本能が全力で警鐘を鳴らしている。これからとてつもなく良くないことが起こる。確信めいた予感は外れそうにない。
「ちょっと待ってくれ。お互い落ち着こう。歌えと言うなら歌うけど、俺たちも状況が飲み込めていなくて混乱しているんだ。まずその辺りの説明をしてもらえないかな?」
湊は進行役が暁へ向ける視線を遮るように席を立った。
「仕方ありません。では歌いたくなるようにしてあげましょう」
割って入ったものの効果は無かった。彼女もまた人の話を聞かないタイプだった。
進行役から囁き声が漏れる。
ボソボソと確かに何かを呟いている。声の主は進行役だ。
「──────」
なのに、どうして
なぜ彼女の喉が刃物で裂かれたようにパックリと開いているのか。
『傷口』がパクパクと上下する。湊はそこに存在するはずもない舌先を見た。
囁きは声量を増し、ハッキリとした声になる。
血が一滴も流れない『傷口』からは朗々と言の葉が零れ落ちた。
「ひ───ッ」
喉の痙攣が引き攣った悲鳴となって湊の口を衝いて出た。おぞましい病原菌に犯されたように身体が熱を帯びる。粘つきを持った気持ちの悪い汗がじんわりと衣服に吸われていく。身体の表面は燃えるように熱いのに、身体の芯には氷柱を刺されたかのような悪寒があった。
足腰から力が抜け、湊は倒れるようにソファへ沈んだ。
それは現存する言語ではなかった。
それは人間が発話できる音ではなかった。
意味は欠片もわからなかった。なのに悪意だけはハッキリと感じ取れた。
がちがちがちがち、と頭の中に音が響く。恐懼による震えとともに歯の根が合わさる音だ。湊がそれに気づけたのはどれだけの時間が経ってからだろうか。初老のヴァイオリニストも湊と似たり寄ったりの有り様だ。
そして、その『声』を向けられている少女は湊よりも酷い状態だった。
暁は叫び声を上げている。耳を手で覆い、床の上をのたうち回り、逃れられぬ凶声から逃れようともがいている。長い長い髪が彼女の正気を表すように乱れに乱れていた。
『声』は人を狂わす猛毒だ。
注射器で毒液を血管に注入するのと同じように、鼓膜から直接脳髄を犯している。暁はまさに死ぬような思いをしているのだ。
湊は己の足を殴りつけ、活を入れる。また、進行役の前に立ちはだかる。それでも、直立できたのはわずかな間だけ。
「頼む。もうよしてくれ。あの子はまだ子供なんだ。酷なことはしないでくれ」
縋り付くように懇願した。恥も外聞もない。自分よりも一回り以上は下である少女に対して、湊は頭を垂れる。
湊の思いが通じたわけではないだろう。ただそのとき、『控え室』に電子音が鳴り響いた。
進行役が黙り込む。そして「次の方」と人間の声音で発話した。湊が顔を上げれば、進行役の喉元が閉じている。
脳溝を這いずり回る名状し難きおぞましい『声』が、これ以上は鼓膜を震わせないとわかり、湊は安堵の息を吐いた。
その間にも初老のヴァイオリニストは進行役から逃げるように、『控え室』のドアへ飛びついていた。
ドアが閉じる。進行役は意に介さない。進行役は湊の横を通り過ぎ、暁の目前でしゃがみこむ。そして倒れ伏した暁に、
「これで歌っていただけますか?」
と、彼女自身の声で語りかけた。
「はは、アハハハハハハハハハハハハっ!!」
返答は、笑い声だった。進行役が顔を顰める。
「───狂われましたか。どうやら、やりすぎてしまったようですね」
「いや、そうじゃない。軽く発狂はしたけど、まあすぐに収まる程度のもんさ」
先ほどまでの哄笑が嘘のように静かになり、暁は理知的に声を発した。進行役の身体が驚いたように跳ねる。
「───ああ、なるほどね。思い出したぜ。閉所暗所に……十五週間くらいか? いつから意識が芽生えるかなんて知らねぇけどそりゃあ発狂もするわな。セーフティがかかってもおかしくはないか。
「何を、言って───」
「未来と過去のお話だよ」
「あなたは今に焦点を当てるべきです。でなければ、未来も過去も消えますよ」
「ご忠告どうも。でも、私は歌いたいときにしか歌わねぇ」
暁は身体を起こした。その顔は涙や涎によってぐちゃぐちゃに汚れていた。だが、その瞳に揺るぎはなく、真っ直ぐ進行役を見据えている。進行役が、その迷いのない眼光にたじろいだ。
湊は気づいた。暁の双眸から、先ほどまであった剣呑な色が消えている。見慣れた目付きだ。心を焦がすほどにどこまでも真摯でひたむきな、音楽に対する情熱を、湊は見た。
服の袖口で顔を拭いながら、暁は口を開く。
「つーか、アンタもアンタだ。伝えたいことがあるなら、他人の口を借りて歌ってんじゃねぇ」
暁が立ち上がる。進行役は一歩後ずさり、動揺が顔にまで表れている。進行役は間違いなく気圧されていた。自分よりも小柄で年下の少女に対し、恐れにも似た感情を抱いている。理解できないものを見るその姿が、ひどく人間のように湊は感じた。
人の皮を被った得体の知れない怪物が、等身大の少女に見えたのだ。
「─────────まだ、足りませんか? それとも、ここで終わりますか?」
進行役が喉元を押さえる。また同じことをするつもりなのだと、考えるまでもなく理解できる。そして湊には暁が脅しに屈しないことまでわかってしまった。
───次は、本当に死んでしまう。
「氷川ちゃん。どうしてだ。たしかに理不尽だし、意味がわからないし、納得できないけど、それでもちょっと歌えば解放するって向こうは言ってるんだ。嘘か本当か判断しようがないけど、歌わないことにははじまらないだろ。どうしてきみは歌おうとしないんだ」
気づけば彼女の前に躍り出て、彼女の肩を掴みながら湊は説得紛いの言葉を吐いていた。
そして、怒気のこもった瞳と視線がかち合う。
「
混濁した感情が湊の胸中に飛来した。かつて持っていた───今も持っていると信じたい───眼前の熱量が湊のハートを蝕む。
「……それはただの子供の我儘だ。氷川ちゃんも一人のミュージシャンの端くれとして上に行きたいのなら、求められているものをいつでも出せるようにしておかなくちゃいけない。大人になれとは言わない。きみはまだ子供だし、実感も湧かないと思う。だけど、今だけは大人の真似事をしてみてくれないか」
体調管理は仕事の内だ。ましてや、気分じゃないなんて理由はどこの業界だろうと通用しない。それは学校でも同じで、暁だって理解しているはずなのに。
「湊さん。さっきは庇ってくれてありがとう。この意味不明な状況で、見ず知らずのガキ助けるのに動けるのは普通にカッコイイ大人だと思うぜ」
薄っぺらい説教で語った大人像には興味が無いとばかりに暁は言った。
そして───三度目の電子音がなる。
「次の方」
進行役が湊を見る。彼女も暁が素直に動くとは思っていないようだ。つい、暁を見る。もう彼女は湊のことを見ようともしていない。愚直なほどに進行役へ向けて情熱に燃える視線を送っている。
湊は暁の先行きにそこはかとない不安を覚える。しかしその不安を湊は飲み込んだ。もうお互いに言葉が届くことはない。漠然と、しかし確固とした確信があった。時間も無い。もう彼女を心変わりさせることは不可能だと悟ったのだ。
『控え室』にある唯一のドアを開ける。
「まだ私の話は終わってねぇぞ───進行役」
背後から聞こえる二人の話し声は閉ざされたドアによって遮られた。
湊は独りでステージに立った。