01 狂気に囚われて
赤と白とほのかなピンク。日菜の視界を埋め尽くす色彩はおよそこの三色に分類される。
赤子だけが見ることを許された世界。俗世の穢れを知らぬ者のみが触れられる世界。子宮の中の光景は、きっとこんな風なのだろう、と日菜は思った。
空気は湿り、重みを増し、ねっとりと肌にまとわりつく。目に見えないものに包まれている。途方もなく大きなものに抱かれている。そんな感覚。それが───無性に安心できた。
肺腑を循環する空気はどこか血生臭く、されど甘くもあり、鼻孔を通るだけで、舌先で転がすだけで、恍惚とした心持ちになった。焚きしめた香を聞くように、心安らぐ色がこの空気には溶けている。息をするだけで胸の内をくすぐられているようだった。
何者も犯してはならない、神聖な領域とも言えた。
羊水の中を泳いでいる。胎の中を生きている。穢れが無い存在しか居られない場所に日菜は居る。
この世すべてのしがらみから解放された。もう日菜を煩わせるものなど何もない。この上ない開放感。そして───全能感。
いまなら不可能は無いと断言できる。
感極まった日菜の口から、哄笑があふれ出した。信じていたもの。求めていたもの。それが、ここにある。ここにいる。日菜は地面へ身を投げた。全身で幸福を味わいたかった。日菜を受け止めたのは柔らかな肉壁だ。土も小石も砂もない。てらてらと濡れて、すべらか。赤い筋が網目のように走った薄桃色の表面を繊毛が覆っている。人肌の温かさを持った至上の絨毯が日菜の肌を舐める。心地よさに目を細めれば、また喉が震えだす。
日菜は腹がよじれるほどに笑い転げた。笑いすぎて横隔膜が裂けるかと思った。愉快だった。とてつもなく。たまらなく。
地面が脈打つ。脈動している。隣人の息吹をたしかに日菜は感じていた。それが愛おしく、独りではないと勇気づけられ、何度も何度も肉壁へ頬ずりを繰り返した。
元は、公園と呼ばれていた場所だった気がする。
原型のことなど、もう日菜の頭から消えていた。誰にも使われない錆びた遊具など、どうでもよかった。塗装が剥げ落ちた鉄棒の構造物は見る見る内に白色化した。骨、のようであった。肉壁から茨に似た何かが芽吹き、白骨化した遊具に絡みつく。異形の植物はたちまち花を咲かせ、白骨に毒々しい極彩色の彩りを添えた。噎せるような甘ったるい腐臭が日菜の元まで届く。肺一杯に吸い込んで、「いまの方がずっと素敵だよね」と呟いた。
「進むも地獄。戻るも地獄。だからといって足踏みしかしないのは最悪だ」
誰かがしゃべった。日菜は驚いて身を起こす。いつの間にか子猫がすぐ傍にまで近寄ってきていた。子猫が人語を発していた。ちぐはぐで、でたらめで、どんなことでも起こり得て、縛るものなんて何一つない。培った常識が音を立てて崩れていく。最高の慶事だと日菜は歓迎した。
「もう!! サイッッコーだよー!!!!」
たまらず、日菜は叫び声を上げる。
「渇きを癒したいなら大口を開けて空を見上げているといい。雨が降ればいずれ潤うだろう」
子猫が視線を日菜の隣に向ける。そちらを見れば、大型犬が横たわっていた。理知的な眼差しが日菜を見る。日菜は手を伸ばして犬を撫でる。犬はふさふさで柔らかく、陽だまりの匂いが染み付いていた。笑いながら日菜は犬を転がす。犬は仰向けに寝転がり、自身の腹を曝け出した。なおも犬は理知的な眼差しで日菜を見る。日菜は犬の腹を裂いた。がま口の鞄を開けるように、犬を腹をこじ開ける。中に手を突っ込み、収納されていたものを引っ張り出した。
ごつごつして冷たい、玉虫色に輝く右手首があった。ぶよぶよとした弾力を持つ白い毛玉があった。かぐわしい芳香を放つ肥満体の人形があった。それらを子猫と語り合いながら、地面に並べていく。犬は理知的な眼差しで日菜を見ていた。
「なつかしーなー。昔こういうごっこ遊びしたよ。八百屋さんとかお肉屋さんとかさー」
「いま来たものはもう来ない。いま来ないものはいずれ来る」
かつてあった懐かしき日々に思いを馳せる。けれど、とても大切だった思い出はなぜだかすべて色褪せていて。そしてそれ以上に『今』の方が愛おしく、美しく、とても楽しい。世界のすべてを見ているようだった。
世界は日菜ひとりのためにあり、満ちていて、閉じていた。そのことに日菜は満足する。これこそ歪みがない正しい世界なのだから。
───けどまだ何か、足りてないような。
何かが欠けていると日菜は感じた。しかし浮かれている日菜はその正体まで掴めない。きっと大したことじゃないんだろう、と子猫に話しかけ、一人遊びを再開する。
そして誰も居ない世界の片隅で一人遊びに興じていたとき、日菜を呼ぶ声がした。
「よう。ずいぶん楽しそうじゃねぇか、日菜」
譌・闖。E697A5E88F9C。hiNa。ヒナ。ひな。雛。日菜。たしかそれは、あたしの名前。
のぼせていた頭では自分の名前を思い出すだけでも時間がかかった。独りで閉じていた世界には名前なんて必要なかった。名前を呼ばれたことで、再び俗世に囚われた気がした。
「だあれ?」
少しだけ不機嫌な声音。最上の喜びを噛み締めていたというのに、水を差されたのだ。居なくなってしまえ。そう念じた刹那───
【
と、日菜の
声に従い、日菜は見た。
それは女であった。意志の強さを感じる瞳をしている。翡翠の髪を短く揃えている。背は低い。画一的に量産された衣類に身を包んで、手には楽器を携えていた。肩にかけたギターのストラップが胸の谷間に食い込み、女の豊かな乳房を強調している。無聊を慰めるのにちょうど良さそうな、何の変哲もない人間だった。
正常で清涼な格好は、日菜の目にはひどく憐れに映った。
「枠に囚われてるなんてかわいそう。そんなんじゃダメだよ。もっと臓物みたいに温かい格好しなくっちゃ。とりあえず、ぐちょぐちょになろ? 細々したパーツはあたしが見繕ってあげるから!」
「泣くときは赤子のように泣くがいい。疎まれている間は世界に存在している証明になる」
「だよね!」
子猫の賛同に気を良くした日菜はまたも犬の腹部に手を入れ、ずるりと犬の肋骨を抜き取った。歪曲した肋骨は、あたかも獣の爪のよう。肋骨には砥がれた刃があり、剃刀のように鋭い。日菜は骨刀を振るった。次いで犬の首が飛んだ。刃が肉に入ってから抜けるまで一切抵抗は感じられなかった。快刀を携えた日菜は立ち上がって、女に向き直る。その様子を、犬は最後まで理知的な目で見つめていた。
「血化粧をするのは勝手だがな、その前に、まずは私の歌を聴いてくれよ」
女が手を動かす。応えるようにギターが生命を帯びた。
ギターの弦が震え、音色が飛び出る。世界と張り合うような力強い歌声は、日菜にも美しく感じられた。
楽しくなって日菜は笑った。
「あははは! あなた、楽器と一緒に生まれたみたい! だったら楽器とひとつになった方が絶対カッコいいよ! いま作り直してあげるね!」
そして───斬線が閃いた。