DayDream 雨夜に見える月   作:Wolke

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02 認知に囚われて

「日菜が帰ってない?」

 

 玄関まで出迎えに来た紗夜によって、帰宅したばかりの(あきら)は日菜の不在を知った。紗夜は少しばかり憔悴しているように見える。ただごとではなさそうな雰囲気を感じ取った暁は、口の中に残っていたのど飴を噛み砕いた。

 

 今日もちょっとしたトラブルに巻き込まれたあとだったので、さっさと床につきたいというのが本音だが、そうも言っていられない緊迫感があった。

 

「そう、よね。姉さんが知ってるわけないわよね……」

 

「いいから。何があったか教えてくれよ。ちょっと帰りが遅いだけじゃ済まないんだろ?」

 

 うん、と頷いた紗夜が訥々と語ったのは、テスト中に日菜が教室から飛び出したということだ。それも、開いた窓からベランダの外へ身を投げるように。それ以来一切の連絡がなく、日菜を見た者も居ないらしい。

 

 話を聞き終えた暁は、がしがしとベリーショートにまで短くした髪をかく。何やってんだ、という思いは当然ある。それ以上に、暁が厄介事に巻き込まれていた時間帯と、日菜が教室を飛び出した時間帯が合致していた。

 

 ───いやな符合だ。

 

 そして、こういう符合は外れないものでもある。氷川暁は探索者としての思考を強制される。時間は───足りるだろうか? 暁の直感はすぐに行動を起こした方が良いと告げていた。

 

 暁は通学カバンの中を漁り、可愛らしい色合いをした名刺入れを取り出した。名刺入れの中を検め、一枚の名刺を紗夜に渡す。

 

「帰り道、私に似た子供が居たとか、友人がそんなことを言ってた。ちょっと近くまで探してくる。それで、明日の朝になっても私か日菜から連絡が無かったら、ここに電話しろ」

 

「え? でも、姉さん、これ……」

 

「警視庁とか刑事とか書いてあるけど気にするな。貸しは作ってある。まず、氷川暁の家族であることを強調すること。それで妹が行方不明になったことを伝える。できるな?」

 

「う、うん」

 

「あと、細工町(さいくまち)に日記を預けているって伝えれば、それでいい感じに動いてくれるはずだから」

 

 また通学カバンの中を漁る。暁はサイバーグラスと骨伝導ヘッドホン、咽頭マイクをそれぞれ装着すると、用済みになったカバンを紗夜に押し付けて、街へ繰り出した。

 

 この日の夕焼けは、不気味なほどに濃い赤色をしていた。

 

 

       ◇

 

 

 氷川日菜が姉から並々ならぬ薫陶を受けたのは、幼稚園に通っていた時分のことだ。

 

 両親の苦労の甲斐あってか、紗夜と日菜は同じ園に通っている。都内だと定員がどうだの、ポイントがどうとかで姉妹別園になることも少なくはないらしい。双子というやや特殊なケースではあったが、(あきら)という前例があった分、そこは上手く立ち回れたそうだ。必要な手続きなどはもちろんのこと、兄姉が通っていた園ならばポイントが加算されるため、一見さんよりも有利なのだとか。

 

 最終的にはいろいろな幸運や偶然に後押しされ、日菜は紗夜と多くの時間を共有できた。

 

 朝起きて、朝食を食べ、両親どちらかと一緒に幼稚園へ向かう。幼稚園でひとしきり紗夜と遊んだ後は、小学校から迎えに来た暁とともに三人で自宅に帰る。その後も紗夜と遊び、時折勉強を終えた暁を巻き込んで両親が帰ってくるまで過ごす。両親が帰宅すれば、家族みんなで夕食を摂り、お風呂に入って寝る。

 

 大方、この時分の日菜のルーチンはこんな感じ。二十四時間のほぼすべてを紗夜と過ごす毎日だ。

 

 どこの家庭でもある、ありふれた日常の連続。それが少し逸脱したのはこんなとき。

 

「今日はお家の人の似顔絵を描いてみましょう」

 

 そう、幼稚園の先生が言った。動きやすい服装はそのままに、徐々に服の生地が薄いものに変わってきている頃のこと。

 

「はーい!」

 

 と、元気よく日菜は返事をした。追随して他の子たちも返事をする。

 

 本人たちに特別なことをしたつもりはなかったが、いつの間にか紗夜と日菜は年少組の中心人物になっていた。双子という物珍しさもあったのだろう。幼いながらに、姉妹揃って見目麗しかったことも考えられる。しかしそれ以上に、双子は同年代の子供と比べて理解力が高く、手先が器用で、物覚えが良かった。大人でも舌を巻くほどに。

 

 折り紙やあやとり、お手玉といった昔ながらの遊びを教えてみれば、最初にできるようになるのは決まって双子のどちらかだった。大抵は紗夜の方。日菜はムラっ気が多く、先生の話を聞いていないことがしばしばあった。じっとしていられないというか、ひとつの物事に長く集中できない。これはもう生来の気質なのだろうと、両親含め周りの大人たちは苦笑交じりにそう見ていた。

 

 だから、このとき日菜が描き上げた絵を注視した大人は誰一人としていなかった。

 

 似顔絵を描く対象として、家族という枠組み以外の制限は無い。家族の内から誰か一人を選んで描く子もいれば、両親を描く子もいる。父親だけ、母親だけ、はたまたペットを交えた家族全員。選択肢は子供によって様々だ。

 

 氷川紗夜は両親と姉と自分と双子の妹を描いた。

 

 氷川日菜は両親と姉と双子の姉と自分───そしてそれらに付随する模様を描いた。

 

 文字ではなく、数字でもない。しかし規則性があって、異国の文字を思わせる独特な記号の連なり。それが紙面の余白や、時には顔に重なるように描かれている。

 

「日菜ちゃん、これは何?」

 

 そう聞いた先生もいた。

 

「わかんなーい。先生にもわかんないの?」

 

 日菜の返答はおざなりなもので、本人もこの模様が何なのかわかってはいないようだった。

 

 見たことのない異質極まりない模様。けれど不思議と、異彩を放っているわけではない。似顔絵自体はやはり上手い。顔の輪郭や特徴をよく捉えており、クオリティは中々のものだ。だからだろうか。独特な模様が重なっても、不思議と調和が取れていた。初めからこう描かれることが自然であるかのように違和がない。

 

 日菜自身の気質も手伝って、大人たちは日菜が似顔絵を描くことに飽きて別のものを描き始めたのだろうと解釈する。

 

 模様自体もどこかで似たようなデザインを見たのだろうと思い、「カッコいいね」と感想を述べた。

 

 まさか───。

 

 まさか本当に、日菜が()()()()()()()()()()などとは誰一人として想像だにしなかったのだ。

 

 先生の褒め言葉に気を良くした日菜は出来上がった絵を紗夜のもとまで持っていった。紗夜も紗夜で先生から何か賛辞を送られていた。内容まで日菜には聞こえていなかったが、照れたようにはにかむ紗夜の顔を見れば一目瞭然だ。

 

「おねーちゃん!」

 

 と、駆け寄って、紗夜の絵の隣に自身が描いた絵を並べた。仲の良い姉妹が同じ題材を絵にしたのだから、見せ合いっこをする流れになるのは至極当然と言える。互いに描いた絵を見比べて、小首を傾げたのは日菜の方が先だった。

 

「おねーちゃんは描かないの?」

 

 自身の絵の模様を指して日菜が聞く。

 

「これはにがおえなんだから、こんな風にごちゃごちゃしてたらお顔が見えないじゃない」

 

 紗夜の言葉に日菜はぱちくりと目を瞬かせる。このたった一言に日菜がどれほど驚愕したことか、計り知れる人間はいないだろう。

 

 それほどまでに埒外の衝撃だったのだ。まさしく、目から鱗が落ちたようであった。

 

「───そっか! そうだよね! 次は気をつける!」

 

 見えているからといって、すべてを描く必要はない。取捨選択をしてもいいのだと日菜は学んだ。当たり前と言えば当たり前のこと。けれど、日菜には終ぞ無かった思想。自分には無い着眼点を持つ姉を日菜は素直に尊敬した。人間同士に生まれ持った性能差があるなど知る由もなく、心から称賛の言葉を放った。

 

 そして姉を見習い、この日から日菜が自発的に模様を絵にすることはなかった。

 

「おねーちゃんはすごいね!」

 

 困惑したのは紗夜の方だ。あたかも世紀の大発見をしたかのような溌剌とした笑顔で褒められても、何を指して褒めているのかわからなかった。話の流れとして、順当に絵の出来を褒めているのだろうと思った紗夜は日菜の絵に対して同じような称賛を送る。

 

「日菜の絵も、模様だらけだけど、なぜかまとまってて、きれいだと思うわ」

 

「ありがと! おねーちゃん!」

 

 ひまわりのような笑みを浮かべて日菜は紗夜に抱きついた。上機嫌の日菜を放っておけば、もみくちゃにされるのは目に見えている。日菜を捕まえるように紗夜もまた抱きしめ返すのが常だった。

 

 幼児特有の高い体温を分かち合う。至近距離で混じり合う二人の吐息。重なり合う心音。全身を駆ける拍動がどちらのものなのかわからなくなる瞬間が日菜は大好きだった。やれやれと、しょうがない妹だといった雰囲気を醸しつつも、紗夜もまた満更でもなさそうな表情を浮かべている。

 

 仲睦まじい姉妹の姿がそこにはあった。周りの先生たちも微笑ましく見守っている。最早似顔絵のことを気に留める人はいない。紗夜も日菜も目に映ったものをありのまま白紙に表現しただけなのに、致命的なまでに異なる結果を出力したことに気づけた大人は最後まで居なかった。

 

 子供の中には───ひとり居た。

 

 夕刻であった。

 

 およそ二時間分の延長保育料を払っている氷川家であるが、双子を迎えに行く人間は日によって変わる。

 

 大半をこなすのは母親であるが、小学校の放課が早い日は暁が迎えに赴くこともある。

 

 その日もそうであった。

 

「こんにちは」

 

 翡翠色の異様に長い髪をなびかせて、ランドセルを背負う少女が園の門を叩く。顔を覗かせた先生方にきちんと挨拶をする姿は、礼儀正しく、折り目正しく、お行儀よく、下の妹の面倒を任せられる風格を伴っていた。

 

「姉さん!」

 

 と、紗夜が駆け寄る。

 

「きら姉!」

 

 と、日菜が飛びつく。もう馴れきっているのか、暁は危うげなく日菜を抱きとめた。呼び方はいつの間にか頭の母音が消えてこの形に落ち着いている。本人は「こっちの方がきらきらしてるもん」と語感が気に入っている様子だ。呼ばれる側は何の痛痒も感じていないため、好きに呼ばせている。

 

 勢いよく吶喊した日菜ではあるが、すぐ紗夜によって暁から引き剥がされ、たしなめられる。その間に暁は先生方に一日預かってもらった礼を言っていた。二人の姉の言葉がキリよく途切れたとき、日菜は「きら姉! 見て見て!」と描いたばかりの絵を広げた。

 

「──────へぇ」

 

 日菜の描いた似顔絵を見て、面白そうに暁は目を細める。まじまじと日菜が描いた模様を観察し、「うん」とひとつ頷くに留まった。次いで、

 

「紗夜も描いたの?」

 

 と、顔を紗夜へ向ける。

 

 紗夜は頷き返して、おずおずと暁に絵を手渡した。暁の手の内で絵が広げられる。日菜のものと比べれば、真っ当すぎるほどに丁寧に描かれた線。紙面の上で五人全員が笑っている絵を見て、暁もまた笑みを浮かべた。

 

「おー! 上手いじゃん!」

 

 空いている手で暁は紗夜の頭を撫でつける。行為のためか、称賛のためか、擽ったそうに紗夜は身をよじった。それを頬を膨らませてつまらなそうに日菜は見る。

 

「きーらーねーえー! あたしのはー!?」

 

 日菜はぐずるように暁の服を引っ張った。

 

()りぃ()りぃ。色々聞きたいことはあるんだけど、長くなりそうだから家に着くまで我慢な」

 

「えー」

 

 唇を尖らせる日菜の頭に手を置いて、暁は帰宅を促した。暁は最後に先生方に一礼し、幼稚園を後にする。暁に手を引かれ、紗夜と日菜はその後に続いた。

 

 自宅に着くや否や、日菜は着替えの時間すら惜しいとばかりに暁の部屋へ駆け込んだ。暁の部屋にはギターがあり、そして雑多な本が積み上げられている。主としては図鑑や百科事典など。人体、動物、昆虫、水中生物、鉱物、あらゆるジャンルの本が一緒くたに重なっていた。

 

 やや間があって、暁が自室に入ってくる。両親に紗夜と日菜を迎えに行って帰宅したと一報を入れていたのだろう。ランドセルを下ろし、制服を脱いでいる暁の傍らで、日菜は「ねーきら姉、さっきの続きはー?」と中断された話の再開を要求する。

 

「人が着替え終わるまで待てっての」

 

 そうボヤきつつも暁は日菜の呼びかけに応じた。

 

「その模様、ランダムなパターンってわけじゃないだろ? 一部分だけ、紗夜と日菜はまったく同じパターン。紗夜と日菜のパターンは父さんと母さんと半分ずつ同じ。で、私、紗夜、日菜、母さんは四分の一ずつ同じ、だよな? 何を以てそういうパターンにしたんだ?」

 

 話しながら、暁は制服が皺にならないようハンガーに吊るす。下着姿のままクローゼットの中を漁り、適当に肌触りのよい部屋着に袖を通す。服の襟首から長く長い髪を掻き出す仕草がとても煩わしそうだった。

 

「同じ模様? どれのこと?」

 

 対して、日菜は自身が描いた絵を広げて小首を傾げる。記憶通りに画材を動かしただけなので、そんなものがあるとは指摘されるまで気づいていなかったのだ。

 

「日菜が描いた絵だろ……」

 

 と、呆れたような呟きを漏らしつつ、暁はベッドの縁に腰掛けた。そして「貸してみ」と日菜に向かって手を伸ばす。日菜はその伸ばされた手を無視した。とてとてと暁に近寄って、そのまま暁の膝の上に座り込む。

 

 むふー! と息を吐きながら「これで見えるよね」とどこか得意気に日菜は首を回す。ついでに暁の身体にもたれこんで、手を暁の首の後ろに回した。彼女の豊かな髪を手で掬うと、マフラーのように自分の首回りに巻きつける。艷やかな髪が首筋や頬に触れて擽ったい。暁と二人きりで話をするときは、これが日菜のお気に入りの体勢だった。

 

「ほら。こことか、こことかのことだよ」

 

 暁は先ほど自分が指摘した箇所を指す。いまさら日菜の行動にとやかく言うことはなかった。

 

「ホントだ!」

 

 と、日菜は感嘆の声を上げた。

 

「そこで驚くのかよ。日菜が考えたんだろ?」

 

「ううん。違うよ。だって見た通り描いただけだもん。……ふぅん。そっくりな模様なんてあったんだ」

 

 ほかにもあるのかな、と日菜は目を皿にして似顔絵を注視する。しかし、それはすぐ暁によって止められた。

 

「いやちょっと待て。見えてるのか? これが?」

 

 日菜は半身をずらして、暁の顔を見上げた。目前にはどこか緊張した面持ちがあり、その瞳の中にはきょとんと不思議そうな表情を浮かべている自身の顔が映っていた。

 

「きら姉には見えないの?」

 

「───ああ。私には、見えない。この模様はいまも?」

 

 慎重に探るようでいて、それ以上に縋るような声音だった。

 

 日菜にはわからない。どうして空に太陽があるのかと聞かれたようなものだ。あるからある。生まれたときから見えるのが当然なのだから、いままで疑問に思ったことも、この模様が何なのかも考えたことなどなかった。

 

 見えない人がいることを、このとき日菜は初めて知ったのだ。

 

 日菜は暁の顔に手を添える。暁の頬に浮かぶ模様を指でなぞる。汚れではないのだから、拭えるわけでも触れれるわけでもない。ただ見えるだけの、そこに浮かぶだけの模様。

 

「ホントにきら姉には見えないの? 何で? 目が悪いの? どうしてあたしには見えるのに、きら姉には見えないの? ねぇきら姉、何でなの?」

 

 矢継ぎ早に、日菜は質問を重ねる。暁からの返事はなかった。ただ、はらはらと透明な雫が眦から零れ落ちた。雫が日菜の指を伝う。感情に濡れた指に日菜はどぎまぎした。

 

「きら姉!? なんで泣いてるの!? どこかいたいの!?」

 

 日菜にとって、暁の泣き顔を見るのはこれが初めてだった。それゆえに涙を流す本人以上に戸惑って、どうにかしなければと空回って、最後には日菜の瞳にも零れそうなほど涙が溜まる。

 

「日菜? 姉さん? どうかしたの?」

 

 ドアを少しだけ開けて、紗夜が顔を覗かせる。姉の顔を見るや、すぐに日菜は助けを求めた。

 

「どうしようおねーちゃん、きら姉が!」

 

 涙に濡れる暁を見て、紗夜はキッと眦を釣り上げた。

 

「日菜! 姉さんに何したの!?」

 

「ち、ちがうよ。あたし、別に何も……」

 

 咄嗟に出かけた否定の言葉は、紗夜の顔を見て途切れてしまった。少し前、絵本の解釈に納得できず、紗夜を質問責めにしたことがあった。紗夜はたくさん頭を悩ましてくれたが、そのどれもが腑に落ちず、最終的に紗夜を泣かせてしまったことを思い出したのだ。

 

「ごめんなさい、きら姉。あたし……」

 

 泣いてしまうほどに暁を困らせてしまったのだと日菜は思った。だから謝罪の言葉を口にしようとした。しかし暁が日菜をぎゅっと抱きすくめたことにより、言葉は音にならず消えていった。

 

「違うんだ。日菜は悪くない。ただ私が、勝手に喜んでるだけだから」

 

 溺れる者が藁を掴むようだった。力の加減を忘れているのか、抱き締められているところが痛い。けれども小刻みに肩を震わせる姿を見てしまえば、抗う気など煙のように消えてしまった。迷子みたい、と日菜は思った。終わりが見えなかった迷路からようやく脱出できたように、暁は喜びに震えている。暁が何に対して喜んでいるのかなどわかる由もなかったが、日菜はこうすることが自然だとばかりに暁を抱き締め返した。感じ入るものがあったのか、紗夜も暁に寄り添って、彼女の矮躯を胸中に収めた。

 

「そう、だよな……。これが『未知』なんだ。既視感(デジャヴ)がない。……あはは。こんな新鮮な気落ち、初めてだ。───こんなに近くにあるなんて、青い鳥かよ」

 

 万感のこもった呟きが日菜の顔に落ちてくる。紗夜と日菜が何度か呼びかけたが、感極まった暁には届かない。結局二人は暁が平静を取り戻すまで、身を寄せ合うことしかできなかった。

 

 そして───

 

「クオリアとか、そういう話になるわけだ」

 

 暁が顔を上げる。ようやく、立ち直ったらしい。

 

「クオリア?」

 

 紗夜と日菜の声が重なる。

 

「そう。クオリア。平たく言うと、リンゴの色は赤いけど、私たちが見てる赤色は本当に同じ色なのかって話だよ」

 

 するり、と日菜が首に巻いていた暁の長髪が解かれる。ほらどいて、との言葉とともに日菜はベッドへ放られた。日菜はぺたんとベッドの上で女の子座りをし、暁の動きを眺める。立ち上がった暁は学習机の袖机をひっくり返し、ノートと青ボールペン、暗記用の赤シートを携えてベッドに座り直した。

 

 また定位置に座り直そうと日菜は腰を浮かす。しかし日菜よりもはやく、したり顔で紗夜が暁の膝に乗った。

 

 ム、と日菜が眉根を寄せる。とは言えどちらの姉も大好きなので、ふたりの腿に寄りかかるように、日菜はぐでんと横になった。紗夜からは頬を突かれたりして遊ばれる。

 

 そんな双子のやり取りなどいざ知らず、暁は日菜に赤シートを渡し、ノートに青ボールペンで何事かを書き込んだ。

 

「いいか? とりあえず仮の話として進めるけど、日菜は生まれた瞬間からずっとその赤シートを通さないと物を見れないっていう設定な」

 

「うん!」

 

 日菜は身を起こして、両目を覆うように赤シートを構えた。

 

「紗夜。これ何に見える?」

 

 暁は紗夜にノートを見せる。

 

「……青のハート?」

 

「その通り。日菜は?」

 

 赤シートを通して見ているのだから、いつも通りとは違った視界になる。

 

「紫のハート?」

 

 と日菜は答えた。

 

「普通にソレ通して見ればそうなるんだけどな。ここで『生まれたときから』って設定が活きてくるんだよ。いま見ているハートの色が日菜にとって、()()()()()()なんだ。まだ青色を知らない日菜に、私と紗夜が『これが青色だよ』って教えるわけ。で、それを踏まえて聞くけど、これは何に見える?」

 

「───青のハート」

 

 なんとなく、理解した。

 

 日菜の視界では、暁が手に持っているノートには赤地に紫のハートが描かれている。

 

 そして赤シートを下ろせば、色は白地に青のハートに変わる。

 

 けれど、もしも生まれたときから赤色のフィルターが目を覆っていたとするなら、赤は白、紫は青といった風に認識が変わってしまう。

 

 同じものを見ていても、同じように捉えているとは限らない。

 

 そしてこれが、どうして日菜に見える模様が暁には見えないのか、という問いに対する回答なのだと理解した。

 

「稀だけど、前例探せば結構出てくるんだよ。たとえば文字を読むときに───」

 

 再度、暁はノートに何かを書き込む。紗夜と日菜が横から暁の手元を覗き込むと、暁は『あ』を少しずつズラしながら何重にも繰り返し書き綴っている。最終的に線はぐちゃぐちゃに絡み合い、過程を見ていなければ何と書いてあるのかわからなくなるほどだ。

 

「ディスレクシアって言ってな、風景とか人物とかは大多数の人と同じに見えるのに、文字を読むときだけこんな風に認識する人とか。───あとは……髪や目鼻みたいなパーツ単位ではちゃんと記憶できるのに、それらが揃って『人の顔』になった瞬間、認識できなくなる人とかな。マンガの神様が描いた漫画の中にこういうのを題材にしたやつもあるんだけど……まあさすがに知らないか。

 つまりまとめると、脳の働きによって人が見るものは簡単に変わっちまうってわけ」

 

「きら姉は頭が悪いの?」

 

「その話はやめようぜ。自分の脳みそがかなりポンコツである疑いが出てきてちょっと傷ついてるから」

 

「───えっ? そうなの、姉さん? だったらお医者さんに見てもらわなきゃ……」

 

「だーかーらー! 日常生活送る上で相互理解が図れれば問題無いんだって! 認識を共有するレベルなら、困ったことは一度も無いから!」

 

 誤魔化すように暁はぐしゃぐしゃと紗夜と日菜の頭をかき回した。ひゃー! と双子は歓声を上げる。

 

 しばらくそうして遊んだのち、ぽつりと日菜は呟いた。

 

「…………見れないのかな? お目々交換したら見れるようになる?」

 

「さぁな。見たものを処理してるのは脳だから、眼球を入れ替えても意味は無いんじゃないか?」

 

「じゃあ頭ごと入れ替えたらわかるかな?」

 

「そっくりそのまま移しても、結局日菜は日菜だからなぁ。……そう。昔ドラマがあったろ。男と女が長い階段ごろごろ転げて、気がついたら意識が入れ替わってたー、みたいな。ああいうことが現実でも起きたら───」

 

 はたと暁が口を噤む。暁は頭痛を堪えるように、額を手で押さえた。

 

「精神、交換……? 大いなる…………Yith……?」

 

 ぶつぶつと到底意味が通るとは思えないことを呟き出す。眼球は忙しなく動き回り、血色も目に見えて悪くなる。

 

「姉さん? 大丈夫? やっぱり病院に行った方がいいんじゃ……」

 

 紗夜の呼び声で我に返ったのか、暁は深く長く息を吐くと、ベッドに身を投げた。いつの間にか暁の髪が絡まっていたのか、引っ張られるようにして紗夜も暁の胸に飛び込むことになった。それを面白そうだと思った日菜も、二人に重なるように横になる。

 

「──────いや、なんでもない。ともかく、他人が見てる景色を認識するなんて、ファンタジックな絵空事が現実にならない限り不可能だよ」

 

「そっかぁ……」

 

 と、少しだけ残念そうに日菜は独りごちた。

 

 ていうか重い、と暁の上から投げ出され、日菜と紗夜はごろごろとベッドの上を転がった。

 

「日菜は誰かの視界を見てみたいのか?」

 

 暁から尋ねられる。

 

「うん!」

 

 日菜は即答した。

 

「おねーちゃんなら、あたしよりももっときれーな景色を見てると思うから!」

 

「そう? たぶん、日菜と変わりないと思うけど……」

 

 日菜の返答には紗夜の方が困惑しているようだった。

 

 フィクションが現実にならないと起こらないような仮定の話。だからこそ、日菜は見てみたいと思ったのだ。一日の大半を共に過ごしているにも関わらず、自分とは異なる解を導き出す紗夜の視界を。

 

 光を湛えた紗夜の双眸は、日菜の目にはきらきらと輝いて映った。

 

 

       ◇

 

 

 もう誰も、日菜が描いた似顔絵に注目してはいなかった。

 

 だから、似顔絵に描かれた模様の一部がDNAパターンを表していたことに気づくのは、かなり先になってから。

 

 後に緑佳月(魔法使い)はこう言い表した。

 

 その瞳は、秘密の事柄を白日の下に曝け出す。是則(これすなわち)───看破(ゲテル)の魔眼である、と。

 

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