朝目覚めると、自室のカーテンが開いていた。
これでもかというほど私を照らすそれは、新しい朝を告げる光だった。
昨晩、私たちはこの窓に並んで、見えない星を見た。
都会の明かりが空を明るく照らした、空いっぱいの群青を見た。
光っているのに光っていない星を見て、強い光の中では周囲がやたらと暗く見えるものなのだと思いながら、私は空に輝く月と黄色い髪のルームメイト――大場ななを交互に見た。
私が『星、見えないわね』と言うと、ななは『純那ちゃんが私の星になってくれたらいいのに』と照れくさそうに笑った。
それからカーテンを閉めて眠りについたから、今開いているカーテンはきっと、昨晩、ななが開けたのだろう。これは憶測でしかないが、急に寂しくなって空で輝かない星を見上げていたのかもしれない。甘えるなら私に甘えて欲しいとも思ったけど、それは結局私のエゴだ。そして、私もなんだか寂しくなって、不意に彼女の言葉を思い出し立ち上がった。
「『私のじゅんなちゃん』か」
ベッド脇にしゃがみこみ、マットに両腕をついて眠っているななの顔をのぞき込む。
さすが日本屈指の演劇学校の生徒と言うべきか、肌のツヤがいい。長いまつ毛、整った眉毛、ほんのり赤みが差した頬、うるおいを保った唇。当たり前だという人もいるけれど、ここまで習慣づけるには相当な努力と高い自意識が必要だ。
それを、ななはなんでもないように過ごしているから『みんなのお母さん』になっているのかも知れない。お母さん、という響きに、私は眉をしかめた。
ななは、何回『お母さん』を繰り返して来たのだろう。
あの口ぶりだと、一回や二回じゃない。五、六、いや。もっとたくさんの『一年間』を過ごしてきたのかもしれない。その長い年月の中で、私はななの力になれていたのだろうか?
友達でいられただろうか? それとも、もっと深い仲になっていたのだろうか?
『私の』と不意に付けたあの言葉には、何か、深い意味があるような気がしてならなかった。
「なな。あなたが辿った時間軸で、私たちは」
ななの頬に手を伸ばす。
触れたくなったから。
掴みたくなったから。
欲張り過ぎで子供な彼女を、今だけは独り占めしたくなったから。
この綺麗な寝顔に、キスしたくなったから。
でも、
「ううん。なんでもない」
音を立てないように手を引く。
勇気がなかったから。
卑怯だから。
傷つきたくなかったから。
私の想いは正々堂々、然るべき時に直接伝えたかったから。今は、予行演習。
「私はいつでも、ななのそばにいる。だから――」
「おはよ、純那ちゃん」
ななが言った、目を閉じたまま。私は髪を整えて、深く息をつき、言った。
「起きてたのなら、言ってよ」
「今日のじゅんなちゃんの顔も、初めてだったから、つい」
昨晩のような、照れくさそうな笑み。横隔膜がキュンと釣り上がって、一瞬だけ息ができなくなるような胸の高鳴りが私を襲い、私の心だけを振り回した。
「……そう。ほら、起きて。遅刻しちゃうわよ」
「やだ」
ななは首を横に振った。
「やだって……ちょっと。子供みたいな事言わないでよ」
「私はどうせ子供ですよ〜」
掛け布団を抱きしめながら、ベッドの上でゴロゴロと転がり始めた。わざとらしく子供のように振る舞うその素振りを見て、私は生唾を飲んだ。
「……子供っぽいって言ったこと、気にしてたのなら謝るから。早く起きて」
ななはピタリと止まった。
「ううん、気に入ってるの」
「……そ」
「純那ちゃん、起こして」
そう言って彼女はこちらに両腕を伸ばす。
「もう、しょうがないんだから」
私は手を取った。ななは、ゆっくりと私を引き寄せた。
「抱き締めて」
「注文が多い」
文句を垂れつつも、添い寝してななを抱き締める。ストレッチの時とはまた違う、ななの身体の柔らかさ。女性らしさというか、匂いというか。抱き締めた瞬間のどさくさに紛れて、うなじの匂いを嗅ぐ。人の匂いと言うよりは、南の甘い果実の香りがした。
「するかしないかは別として、純那ちゃんもときどき、私に甘えたくなるでしょ?」
「今もよ」
「……そっか。このまま、こうしてて」
「学校、遅れちゃう」
「でも、離れたくないでしょ?」
「友達として、くっつき過ぎじゃないかしら」
「友達のまま、ならね」
友達。友達って、なんだろう。共に歩み、共に笑い、共に泣き、怒り、思いをぶつけ合える何か。概念としてはわかっているのに、友達がいない訳でもないのに、ななとは既に友達なのに、まだ足りない気がする。まるで、私がななに友達以上のものを望んでいるように。
親友? 姉? 妹? 母? それとも、もっと別の何か?
自分の身体の跳ね上がるような鼓動に、自分で混乱していた。
「なな」
「なぁに? 純那ちゃん」
「私、トップスタァになりたい」
「なれるよ、きっと」
ポンポン、と後頭部を撫でられる。何度もなっているからよほど自信があるのか、既に諦めたのかはわからなかったが、今のななには余裕があることだけはわかった。
甘える時は子供みたいに余裕がないのに、甘えられる側となると急に母性を発揮する。今までの私はきっと、ななに甘えてもらえるほど強くなかったのかもしれない。あのキリン風に言うなら、きらめきが足りなかったのかもしれない。
「……けど、あなたの行動を思い出すと、私はマークされてないみたいね」
「それは」
本心と皮肉を半々で混ぜた言葉を投げると、ななは言葉を区切った。
「いつもそばにあるものって、案外綺麗さがわからないんだよ?」
「あなたは、何回私を見てきたの?」
「わかんない。でも、純那ちゃんはいつも頑張り屋さんで、健気で、かわいくて。……胸を張って好きって言えるくらいには、輝いてたよ」
「今の私は?」
「もっと好き」
いじらしいくらい、耳元で囁かれる。自然に身体がななを求めて、抱きしめる力を増していく。それは、ななも同じだった。
「……私は」
「じゅんなちゃん。好きだよ」
ななが続ける。
「好き、好き、好き。好きなんだよ。ずっと」
好き、と言われるたびに、私の身体がギュウギュウとななを締め付けていて、ななは呼吸がしづらそうに時々深く息を吐いていた。でも、苦しいとは絶対に言わなかった。
「私にこんなに好きって言ってくれるななも、きっと初めてなのよね」
私は囁いた。
「好きよ、なな」
「あっ……」
ななの全身から力が抜け、私を抱きしめていた腕がダランとベッドに落ちる。
「好きよ」
「どういう、意味で?」
ななの声が震えていた。期待なのか、恐怖なのか。はたまた演技なのか。
「意味なんて、ない。たた、掴みたい星があるなら、掴みたく――いや、抱きしめたくなるでしょ?」
「……ギュッて、して」
「もう、してる」
「もっと」
身体中の力を振り絞り、痛いくらいにななを抱き締める。ななは負けじと抱き返してきた。
「いたたたた。じゅんなちゃん、力強くなったね」
「舞台少女は日々進化中、なのよ」
「……それ、悔しいなあ」
背中に爪を立てられ、痛みで顔が歪む。
「羨ましいなあ。ここまで純那ちゃんを変えた、かれんちゃんが」
「私は、変わってない」
「……え?」
「変わったんじゃない。思い出したの。私が、トップスタァになりたい理由を」
なりたいものがあるなら手を伸ばす。八歳の時に見たあの輝きを、自分が発したいなら。憧れたなら、輝きたいなら、輝くための何かをしなければならないのだと。それは一度限りのことではなくて、生きている限り何度でもやり直せると、思い出したから。
「……変わってない」
「純那ちゃんがそこまで言うなら、そうかもしれないね」
「でもね。なな。私は、きっと。どんな時間軸でもきっと、ずっと。ななのことが好きよ」
ななは長い長いため息をついた。まるで、自分の中の悪い何かを吐き出すように。
「やっぱり、変わったよ」
「……そう」
自然と私たちの身体が離れていく。ななが、自分で起き上がったから。そのまま私の上に覆いかぶさり、じっと目を見つめる。
「でも、ここまで好きって言ってくれたのは、初めてなの」
「うん」
「私、今、幸せなの。初めてってくらい嬉しいの」
「うん」
「……だから。これからも、たくさんの初めてを純那ちゃんと過ごしたい。どんな瞬間も、どんな声も、どんな表情も。純那ちゃんの全部に甘えたい。私の全部に甘えて欲しい」
「……ほんと、欲張りね」
「さ、学校行こうか!」
ななは満足そうに笑い、立ち上がった。
私も立ち上がり、窓の外に広がる景色を見る。なんでもない青空だった。
青空の上では、いくつもの星々が輝いている。
私はそれらを、いくつまで見つけられるだろう?
「純那ちゃん、どうしたの?」
ななが隣に立っていた。
「寝るときは、カーテンを閉めてよね」
一瞬の驚きの後、ななは無邪気に笑った。
「うん。純那ちゃんがいるから、これからは大丈夫だよ」
しっかりと手を繋いだ。私たちの「初めて」は、これからはじまっていく。