第1話 手紙〜神の前兆〜
この3年間、何不自由のない生活を送ってきた。
郵便受けに入っていた一通の手紙を意を決して手に取りながら、青嵐透はふとそう思った。
五歳の誕生日から、透はずっとグリモールド・プレイス12番地で生活してきた。イギリスにある由緒正しい屋敷だ。住み始めた当初こそ動く肖像画や屋敷しもべ妖精に驚かされていたが、今はもう慣れた。埃だらけで蜘蛛の巣が天井から垂れ下がっていた不潔な屋敷内の掃除も、三度の食事も衣類の洗濯も、仏頂面のしもべ妖精の手にかかれば一瞬だ。しもべ妖精は透の話し相手にはなってくれないが、透自身、他者との会話よりも読書や勉強を好むため問題ない。時々やってくる訪問者たちが持ってくる未知の書物に、透は興味津々だった。
魔法界。人間の力では成し得ない不思議な魔法や術を行使する、魔女・魔法使いが住む世界。初めは何の冗談かと思った。しかし、あの「運命の日」までを孤児院で孤独に過ごしてきた透にとって、魔法ほど心を引かれるものはなかった。星の数ほどもある数多の呪文。多種多様の幻想的な魔法生物。今に至るまでの壮大な歴史。非魔法族(魔法族は「マグル」と呼ぶ)の世界とはあまりにも違い過ぎる別天地だ。そうして来る日も来る日も魔法界についての知識を蓄えていた透は、もちろん魔法学校の存在も知っていた。透が住むイギリスには「ホグワーツ魔法魔術学校」という有名な学校があるらしい。その学校の事は、1ヵ月に1度ほどの頻度で透のもとを訪れるアルバス・ダンブルドアさんからも聞いていた。グリフィンドール、スリザリン、ハッフルパフ、レイブンクローという4つの寮。動く階段やゴースト。11才の誕生日を迎えた魔法族の子供のもとに送られてくる入学許可証…。
もちろん信じてはいた。知れば知るほど魔法界に憧れを抱くようになった。それでも…
透は改めて自分宛の手紙に視線を落とした。とうとう、この日がやってきたのだ。
「ロンドン グリモールド・プレイス12番地 2階の右側の寝室 青嵐透様」
エメラルド色のインクで記された宛名を優に30回は読み返しただろうか。透は震える手で封筒を開き、中に入っていた紙を引っ張り出した。紙面に几帳面な文字が並んでいる。
『親愛なる青嵐殿
このたびホグワーツ魔法魔術学校にめでたく入学を許可されましたこと、心よりお喜び申し上げます。教科書並びに必要な教材の——』
まだ文言は続いていたが、透の耳は背後で生じた擦れるような音を聞き逃さなかった。素早く振り向くと、見慣れた人物が朗らかに笑っている。悪戯を見つかったかのようなお茶目な笑顔だ。
彼の名は、アルバス・ダンブルドア。
「透よ、また見つかってしまったのう。降参じゃよ。今日こそは君の驚く顔を目にする事ができると踏んでいたが、考えがちと甘かったかね?」
ゆったりとした、耳に心地良く響く声。挨拶がわりにやれやれと肩をすくめた彼は、透が手にしている黄色味がかった手紙に視線を落とすや否や、コホンと咳払いをして空気を変えた。
「何はともあれ、11才のお誕生日おめでとう、透。わしからもちょっとしたお祝いの品を贈ろう。気に入るといいんじゃが…」
手渡された小包に目を丸くすると、ダンブルドアさんは穏やかに「ほんの気持ちじゃよ」と微笑んだ。感謝の言葉を口にし、恐縮しつつ包みを解く。と、黒革の折財布と共に、何か固い小さなものが転がり出てきた。…鍵?色褪せ、錆びている銅色の鍵だ。何に使うのやら…。首を傾げていると「用途は時が来れば分かるじゃろう」という言葉がかかった。不思議な贈り物も含まれていたが、嬉しい事に変わりはない。
「ありがとうございます、ダンブルドアさん」
「ほっほっほ、礼など不要じゃ。ところで透、その手紙にも書かれていると思うが、君は9月1日より、ホグワーツ魔法魔術学校の生徒となる。その前に色々な準備が必要なのじゃが…2枚目の手紙を見てくれるかのう?」
先ほどは気づきもしなかった2枚目の紙に目を通す。制服や教科書、学用品などのリストだが、どこで手に入るのだろう?ニコニコ顔のダンブルドアさんを見、疑問を口にする。
「あの…こういう物は、どこで手に入るんでしょうか」
「ダイアゴン横丁じゃよ」と答えが返ってきた。ダイアゴン横丁。聞き覚えがある。記憶を呼び起こし…思い出した。魔法使いや魔女が必要とくる、ありとあらゆる魔法道具が売られている横丁だ。確か、ロンドンにあるパブと繋がっているのだったか?透がまだ見ぬ横丁に思いを馳せている間にも、相手は話を進めていく。
「あいにくわしには休みというものがないのじゃが、君を一人で買い物させるのはいささか不安でのう。そこで、わしの友人に頼んで君に同行してもらおうかと考えておる。良いかね?」
もちろん異論などない。
「はい。お願いします」
「上々、上々!…おや、もうこんな時間じゃ。では、わしはそろそろお暇しよう。透、君の魔法界デビューが楽しいものになるよう祈っておる」
そう言葉を残し、ダンブルドアさんはクルリと一回転した。透はつむじ風のように消え失せた老魔法使いに思いを巡らせる。前々から感じていたが、彼はなかなか忙しいようだ。今日の滞在は他の日に比べれば長い方で、普段は本を数冊とちょっとした土産話を残して帰ってしまう。
不意にコトリと音がした。顔を上げると、郵便受けの上にフクロウが止まっている。その嘴にくわえていた、フクロウの体の倍ほどもある紙袋を手に取り、やわらかな羽毛を撫でてやる。弱々しくホーと鳴き、小さな来客者は空の彼方へと飛び去っていった。かなり危なっかしい飛び方だったのが心配だ。
紙袋と手紙を抱えて屋敷の中へと戻る。薄日が差し込む陰気な玄関を忍び足で通り過ぎて2階に上がる。右側の扉をくぐると、そこは透の部屋だ。ベッドとクローゼットと机と本棚、それに出窓。床には本棚に入りきらなかった何十冊もの本が山と積まれ、チェスセットやカードなどのゲームは部屋の隅に置かれている。簡素だが広い部屋の中心で、透は紙袋を開いた。
まず目に飛び込んできたのは、大きな白い箱である。その下には紺色のセーター。冬場の寒い時期に重宝しそうだ。モコモコのセーターを畳み直してから箱の方を開くと…チョコレートケーキが入っていた。中央には砂糖とクリームで『透へ 11才のお誕生日おめでとう!!』と書かれている。同封されていた『11才のお誕生日おめでとう。いよいよホグワーツの年ね。近々会いましょう!』というメッセージの綴られたカードを見つめながら、透は頬を緩めたのだった。