「それじゃあおやすみなさい」
「うん、おやすみ」
ノエミはクロエの言葉にそう返して、開きかけの本へと目を戻した。本棚から適当に取った本だが、よくわからない理論が細々と書き連ねてあるだけであった。ところどころに残っている読んだ跡からして、クロエはこの本は読破しているようだった。
ため息をつきながらノエミは本を閉じた。そしてクロエの方を見る。まだ眠っていないのだろう、布の擦れる音が時々聞こえた。
しばらくすると、クロエの寝息が聞こえ始めた。それは規則的ではあるのだが、いつもと少し違うとノエミは感じた。
起こさないように足音を殺しながらベッドへと近づく。バイタルサインは正常値の範囲内ではある。しかし何かが違った。
クロエの身体が震えていた。
ノエミはすぐに周囲の気温を測定するが、寒いわけではない。であれば内部の問題である。そしてその問題を解決する手段を、ノエミは持ち合わせていない。
クロエの震えている手を握る。いつもより少し汗ばんだ手は、緊張しているときにでるものだとデータベースが答えてくれた。
しばらく握っているとクロエの震えが収まった。ノエミは手を離してクロエの寝顔を見る。その美しさには妬みこそ感じたが、それ以上にいつもは見せない静けさに生きているのか触って確認してしまいたくなった。
いつの間にか、ノエミの顔はクロエの顔へと近づいていた。特に何かをしようとしたわけではなかった。本当に無意識だった。
「人の寝込みを襲う悪い子はだれだ~?」
「……っ!クロエ起きてたの!?」
「いいや、今目覚めたわ。あなたの髪の毛がくすぐったくて」
そういってノエミの毛先を手でいじる。
「ご、ごめん!そんなつもりじゃ」
「問答無用よ!悪い子にはお仕置きね」
そう言ってクロエはノエミの腕を引いて毛布の中へと引きずり込む。そして腕と足でノエミの身体を拘束する。
「こ、これはど、どういうこと!?」
「一晩中抱きまくらの刑よ」
そういってクロエは抱きつく力を強めた。後ろから抱きつかれた形となっており、首筋にあたるクロエの息がとてもくすぐったかった。
クロエは本気で拘束したわけではなく、ノエミの力があれば簡単に振りほどくことも可能だっただろう。
しかしノエミはその手を振りほどけなかった。
クロエのまだ震えている手を、振りほどくことができなかった。
=*=*=*=*=
「おはよう、ノエミ」
「うん、おはよう」
後ろから耳元でクロエにささやかれて、ノエミは身を捩る。
「久しぶりにこんなに熟睡できたわ。ありがとう」
「う、うん。どういたしまして」
「ああ、本当によく寝た。今度から毎日抱いて寝ようかしら」
「えっ……無理無理!」
ノエミはベッドから飛び出そうとするが、クロエから腰に抱きつかれる。
「だってこんなにあったかいんだもの……」
「無理だよ〜!」
「……ありがとうね」
「何のこと?」
「私を心配してくれたんでしょう?私ったら年甲斐もなく震えちゃって」
「クロエ……」
「さあ、朝ごはんにしましょ?今日は久しぶりに遠出するわよ」
そういってクロエは身支度を始めた。その姿は昨夜のようなものではなく、いつものクロエだった。
=*=*=*=*=
「どこへ行くの?」
「とりあえず遠くよ。日が沈む前までには戻ってくれるくらいのね」
クロエは車にキーを差し込み、エンジンをかけた。時代錯誤のエンジン音は街に響き渡るが、その程度のことで街の日常は壊れなかった。
「それで後ろに積んでいるのは?」
こぢんまりとした車内の後部座席には、カバーのかかった荷物が置かれていた。ノエミは助手席から体をねじってカバーへと手を伸ばす。
「待ちなさい、その下は画材よ。絵も置いてあるわ」
「そ、そうなんだ」
ノエミはそっとカバーから手を離す。さすがの彼女も今エラーを起こす気にはなれなかった。
クロエがアクセルを踏むと、スムーズに車は動き出す。舗装された道を通り抜け、しばらくすると壁が見えてくる。
「壁の外へ行くの?」
「ええ。そうね……久しぶりに海の方まで行ってみようかしら」
「海?」
「もしかして見たことがなかったりする?」
「空からはあるけど地上からはないかも」
ノエミは少し思考がざわついた。言葉で表現するならば、それはワクワクといった感じであった。
=*=*=*=*=
なんの障害もなく、車は進んでいた。途中道が封鎖されていたりしたが、クロエはすぐに迂回路を探し当てていた。
「クロエはよくここまで来るの?」
「さすがの私でも久しぶりよ。少し前までは戦闘が激化していたから壁の中から出してもらえなかったのよね」
「でも私を拾いに来たよね?」
「誰も出れなかったとは言ってないわ。出してもらえなければ強硬手段に出るまでよ」
「やっぱりクロエって変わってるよね」
ノエミは笑いが漏れ出る。その態度に対してクロエは抗議するかのように頰を膨らませた。
「絵描きなんて少し変わってるくらいが良いのよ。一般人のままじゃ描けるものもかけないんだもの……っと!」
クロエはブレーキペダルを踏み込む。慣性の力によって前に行こうとする身体を、シートベルトが締め付けた。
「わぁ!びっくりした!」
クロエが止まったのはただの草原だった。クロエは車を停めると、シートベルトを外した。
「まったく……喜ばしいことなんだろうけどね」
クロエに続いてノエミも車を降りると、車道で立ち尽くしている子猫がいた。その未発達な身体は守ってあげなければ今にも折れてしまいそうである。
クロエは慣れた手つきで子猫を抱え上げると、ノエミの方へと歩いてくる。近づいてくるクロエの腕に抱かれた子猫には、嫌がっている様子はなかった。
「あっ、可愛い……」
ノエミにとっては初めての動物との触れ合いであった。体温を持ち、柔らかく、プログラムでは再現できない動きを繰り出してくる。その情報量は知識にあるものの比ではなかった。
「随分とおとなしい子ね。ノエミも抱っこしてみる?」
「えっいいの!?でも私人形だし」
「それだけ人に近ければ大丈夫よ。ほら」
クロエから子猫を渡される。慌てて受け取ると、子猫はノエミの腕の中で身じろぎをして、寝息を立て始めた。
「お疲れだったみたいね。しばらくそのままでいてあげなさいよ」
「う、うん」
ノエミはすやすやと眠る子猫を抱えながら、車に寄りかかる。たまに顔をつついて反応を楽しんでいると、表情筋が勝手に動いてしまう。
そんな様子を見ながら、クロエはいつものごとくデッサンを始めていた。何枚かのボツを投げ捨てた頃、足元から抗議の鳴き声が聞こえてきた。
「親猫がいたのね。ありがとう」
クロエは足元の猫を撫でる。しかし、クロエのことを気にもとめず、猫はノエミの元へと歩いて行ってしまった。
「えっ?親猫?あっごめんね」
ノエミがしゃがみこむと、親猫はノエミの腕の中へと素早く入り込み、子猫の首を咥える。
「ばいばーい」
ノエミが遠くへと行ってしまう猫に手を振ると、起きた子猫とともに振り向き一声鳴いてから、また遠くへと寄り添って歩いて行ってしまった。
「さて、私たちも帰りましょうか」
クロエの言葉にノエミは空を見上げる。気づけば太陽は真上を超えてだいぶ傾いており、今から帰れば街の夕焼けが見られる時間帯になることが予想できた。
「うん!帰ろう!運転変わるね!」
「あら、ありがとう」
珍しくもノエミが運転席へと座った。クロエは、軍製の人形であれば一通りの知識と経験は積んでいると考えていた。
その間違いに気づくまでには、数分もかからなかった。
=*=*=*=*=
後日、掘り出し物だということで絵が出品された。その絵は未完成のようにも見えたが、有名な鑑定士曰く、これは間違いなくかの有名な絵描きによるデッサンであるとのことだった。
その絵はオークションにかけられ、過去に類を見ないほどの競りの末、とあるPMCの団体が手に入れることとなった。その代表者曰く、生物と人形、それに機械が描かれていることに深い感動を覚えたらしい。
もちろん、そんなことはクロエとノエミの耳に入ることはなく、彼女らの生活は何も変わらない。