「これは困ったな……」
静かな部屋でポツリと呟いた。クロエと9はこの場にいない。彼女らは二人で仲良く買い物に出かけてしまったのだ。
「手詰まり……か」
彼の技術不足ではない。しかし、彼にノエミは治せない。
端末の画面にはこう表示されていた。
Errors is Not Found...
=*=*=*=*=
「というわけだ。残念だが俺には治せない。俺は壊れているものを直すことしかできない」
「そう……それじゃあノエミはもう」
クロエは少し俯いた。しかし、彼女の表情は動かなかった。何も言わなくなってしまったクロエに反して、9は声を荒らげた。
「そんな!どうにかならないの?」
「無理だ。下手にメインシステムに手を出すと初期化しかねない。ダミーってのは案外雑に作られてるんだよ」
「せっかく会えたのに……でもエラーが見つからないなんて。なんでかはわかったの?」
「これは仮説に過ぎないんだが、絵がマインドマップに直接作用しているんじゃないか?それならエラーは出ない。マインドマップはほぼ無制限に書き換えを許可しているから、最新情報に書き換わっていることが正常な状態になるんだ」
「絵がマインドマップに直接……」
9は何か引っかかったものがあったのか、立ち上がって窓を見る。そこからは一台の見慣れぬ車が見えた。その後部座席には外からでもわかるくらいに多くの画材が詰め込まれている。
「そうだよ!絵だよ!」
9はクロエの肩を持って揺らす。
「ど、どういうことかしら?」
「クロエさん!新しく絵を描いて!今身動きできない状態が書き込まれているなら、新しい状態で上書きしちゃえばいいんだよ!」
「おい待て9、そもそも起動すらしないんだぞ?どうやって絵を見せるって言うんだ」
「絵はべつに直接見る必要はないんでしょ?写真やカメラ越しでも効果があることは実証済みだし!」
「それでノエミは起きるの?」
「わからない……がやってみる価値はありそうだ。よし、俺は起動してない状態でも絵を認識させるシステムを作る。だからあんたは絵を描いてくれ」
「ええ……わかったわ」
クロエは決意した表情を浮かべた。
だがしかし、その瞳には不安しか写っていなかった。
=*=*=*=*=
「もしもし?……はい、また今回も……ありがとう、また描いたら送るわ」
受話器を置くとクロエはソファに身体を沈めた。辺りにはゴミ箱から溢れたボツの絵が散乱している。
ノエミを男の家に置いて帰って一週間がたっていた。一日筆を動かし続けても、彼女は納得できる絵を描けていなかった。
それでも一縷の望みにかけて絵を送っているのだが、なぜか効果がないという返答のみが帰ってくる。9がその身を犠牲にして実験台となってくれているのに、期待に応えられるような絵はまだ描けない。
目を瞑ってしばらく動かないでいると、呼び出しベルが鳴る。
「鍵は開いてるわ、はいってどうぞ」
「クロエ先生、不用心ですよ……ってなんですかこの散らかった部屋!」
「ああ、ディーラーさん。こんにちは」
「のんきにあいさつしている場合ですか!もうひっどい隈までつけて」
「ごめんなさいね、最近寝ていなくて」
「……ご飯を食べた形跡もないですし」
「たしか朝は食べたわ……いえ、あれは昨日の朝だったかしら」
「おまけに描きかけの絵の山ですか。とりあえずなにか食べるものを買ってきます。せめてシャワーでも浴びていてください!」
そういうとディーラーさんは慌ただしく部屋を出ていった。
のっそりとソファーから立ち上がると、クロエはシャワーを浴びに行く。冷たい水を浴びると、寝不足や栄養不足でぼーっとしがちな思考が冴えてくる気がした。
「はあ……私何をしているのかしら……」
浴室の壁に頭をつく。
しばらく浴室にはシャワーから出た水の音しか流れなかった。
「わたしらしくないわね」
シャワーを止める。鏡に映るクロエの顔には、憑き物が取れたような表情が浮かんでいた。
「クロエ先生、食事用意できてますよ」
「ええ、ありがとう」
「……もう大丈夫そうですね。絵の締切は来月に延期していますので安心してください」
「さすがは私専属ね。でもその心配はないわ」
「ですが……ここ最近は納得のいく絵を描けてないのでしょう?上の者たちはクロエ先生が納得のいく絵を見てみたいと言っていましたが」
「だから言っているでしょう?この私が1カ月と言ったのよ?いままでに私が締切を延ばさせたことがあったかしら」
「……わかりました。こちらも準備に入っておきます。絵ができ次第連絡をください」
「ええ、わかったわ」
「それでは私は帰りますが、くれぐれも食事を抜かないようにしてくださいよ?それとちゃんと寝てください」
ディーラーさんは心配そうにしながらも、クロエの部屋から出ていく。ディーラーさんを見送ったクロエは、出かける準備を始めた。
=*=*=*=*=
クロエは車を走らせていた。もう少しすれば街の門が見えてくるころだろう。日はすでに沈みかけており、視界は真っ赤に染まっていた。
「数日じゃ無理だったわね……」
後部座席には何枚もの絵が無造作に詰め込まれていた。そのどれもが、描かれたものを台無しにするように赤い絵の具でバツ印がついていた。
検問を通り抜けて街へと入り、しばらく車を走らせる。そういえば今日は朝から何も口にしていないと思い出したクロエは、車を降り店へと入った。
「おや、クロエちゃん。ここにくるのは久しぶりだねえ」
カウンター席を片付けている老婆は、優しそうな笑みでクロエを迎えた。
「こんにちは。おばちゃんも元気そうでなによりね」
「おかげさまでね。ちゃんとご飯は食べているのかい?」
「ええ、まあね」
「……まったくこれだから最近の若い者は。ほら、ここに座んなさい」
「ありがとう」
老婆は厨房に入ると、素早くも正確な手さばきで料理を作り上げていく。
数分して出てきたのはお馴染みの定食だった。純和食の一膳は、消化器官が弱っているクロエの喉をすんなりと通った。
「えっと、”ごちそうさま”。でよかったかしら」
「ふふふ、金髪の白人さんが言うと違和感が拭いきれないわね。”お粗末さまでした”」
「やっぱりここはいい店ね。また来るわ」
「いつでもいらっしゃい」
店を出ると、最も街が赤く染まる時間帯だった。しばらくぼーっとその景色を眺めた後、車へと向かう。
ふと、ある二人の姿が目に入った。若いカップルだろうか、夕日へと向かって仲睦まじくあるく姿は、夫婦のようにも見えた。
特段と珍しい光景でもない。この夕日の綺麗な街に、若いカップルは数多くいる。きっとこの後家なり宿なりへと帰っていくのだろう。他の人間なら、目にも留めなかったであろうごく普通の光景だった。
しかし、クロエは違った。慌てるように車に乗り込み、急いで車を走らせる。駆け込むように家へと飛び込むと、窓際のイーゼルに新しいキャンバスを立てる。
下書きなどいらなかった。彼女の頭の中には、先程の光景が鮮明に焼き付いたままだった。
ミスなどない。ミスのように見える塗りも、それを逆にいかして味のある絵としていく。
筆が止まるのは新しい絵の具を取りに行くときくらいなもので、少なくとも彼女の手は止まることはなかった。
「はあ……はあ……できた!」
目の前の絵は、久々に描けたクロエが満足できる出来栄えだった。
写真を撮って車へと乗り込む。この絵だけは、自分で直接届けたかった。車を走らせて目的地へと着くなり、呼び鈴を鳴らす。
「はいもしもし、ってクロエさん?どうしたんですか」
「絵ができたわ」
「……そうですか。どうぞ」
解錠音がしたのを確認して、クロエは中へと入っていった。
=*=*=*=*=
「じゃあ行くぞ」
「ええ、お願い」
クロエはノエミの手を握る。
実行キーを押す音が部屋に響く。プログラムは動き出し、ノエミへと絵を視覚情報として送信し始める。
部屋を嫌な静寂が満たす。絵を見てからその効果が現れるまでに少し時間がかかることはわかっていた。しかし、未だピクリともしないノエミを見ると、また失敗してしまったのかと勘ぐってしまう。そして、これ以上の絵を描けないクロエにとってそれは、もう手段がなくなってしまうことを意味していた。
数十分がたっても、ノエミは起き上がらなかった。男が9に支えてもらいながら、その不自由な足で部屋を出ていったあと、部屋には動かないノエミと祈るように手をにぎるクロエだけとなった。
端末の画面には、送信が完了している旨を伝えるダイアログボックスが表示されていた。しかし、ノエミのシステムをモニタリングしている画面は止まったままだった。
「無理みたいね……」
一時間が経過した。クロエは立ち上がり、最後に自分の絵を見ようと端末を操作して写真を表示しようとした。
ノエミのシステムに、マインドマップの更新を伝える一行が刻み込まれていた。
「……あれっ?え……どうして……クロエ?」
「ノエミ?良かった……目が覚めたのね……」
クロエはノエミに抱きつく。
「クロエ!私、もうあなたと話すことすらできないかもって……」
クロエはノエミを抱く腕に力を込める。
「良かった……本当に……よか……った……」
クロエの全身から力が抜け、その場で崩れ落ちる。
「クロエ!ねえちょっと!」
倒れた音に気づいたのか、9が部屋の扉を勢いよく開いた。
「大丈夫!?って目醒めてる!?」
「えっ?オリジナル!?って今はそれどころじゃない!クロエが!」
「みてみるね……」
9がクロエの様子をみている間、ノエミは端末の画面に映るクロエの絵と自分のシステムのモニタリング画面を見つけた。
「そうか、私クロエの絵で……」
「ノエミだったよね。残念だけどクロエさんは……」
9は顔を下に向ける。
「ただ寝てるだけみたい」
「……えっ」
「たぶん絵を描くために徹夜したんだろうね」
「もう……」
「クロエさん、いつか睡眠不足で倒れちゃうかもしれなかったんだね。あなたが起きるなり眠ってしまうなんて」
「でも起きてからしばらくは……そう私に抱きついて……あっ」
「……ふーん、二人ってそういう関係なんだ」
「ちっ違うよ!ただ一緒のベッドで寝てるだけで!」
「へえ、それでどこまで進んでるの?キスくらいはした?」
「だからそういう関係じゃないって!」
「ははは、冗談だよ。まったくかわいいなぁもう」
わしゃわしゃとノエミの頭を9が撫でる。
それはまるで、仲の良い姉妹のようだった。
ここまで読んでくださりありがとうございます。次話を字数少なめの後日譚にして、この小説は完結ということにしたいと思います。
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