中3の冬。冬休み。
周りはやれ受験だやれ勉強だのと騒いでいるが、俺にはそんなことは関係なかった。
志望校は区内の進学校。あくまで“区内で”1番の高校だ。俺は道コンで道内1番の高校も余裕と判定されたが、あえてそれよりずっと下の高校を志望していた。
理由は1つ。友達が行ける範囲の高校で最も偏差値が高いのがその高校だったからだ。
担任に志望理由を聞かれ、「友達が行くから」と答えたら鼻で笑われた上にくどくどと説教された。そんなもの理由にならない、将来を真剣に、だのなんだの。
しかし俺は主張を曲げる気は無かったので担任教師を睨んでやった。なんだその態度はと立ち上がりかけた担任をさらに鋭く睨み「お前には関係ねェだろハゲ」と罵りつつ中指を立てるとその後職員室に呼び出しを食らった。何故かついてきた清希がすいませんすいませんと頭を下げていたのを覚えている。
それ以降担任が俺に口出しをしてくることはなくなった。普通の生徒なら見捨てられるのは困るだろうが俺はさっぱり困らない。担任は数学教師なのでどれだけ俺が嫌いだろうと俺の成績に4以下をつけることは叶わない。数学で100点以外なんて取ったことないし、宿題は全部清希がやっていた。
そんなこんなでイージーモードの人生を送っている俺だが、残念ながら友達はそうはいかないものだ。毎日のように数学が分からない、数学なんて消えちまえとぶつくさ文句を言っていた。
ぶっちゃけ、困るのだ。友達……つーか清希だからそう言うけどさ、清希があまりに数学ができなさすぎるのは問題だ。
清希が受験に失敗したら、と考えると寒気がする。清希のいない高校生活だとかそんなものは知りたくもない。清希が俺以外の友達を作ったらどうしよう。別に清希に俺以外の友達がいないわけではないけど、俺の知らない奴が清希と友達だとかそんなの吐き気がする。もし万が一、億が一にも清希がそいつに心を許して、もしそいつが同性愛に寛容で、もし清希がそいつに身体を許して、もし、清希が、そいつと……。
手が震える。足がすくむ。呼吸が止まらない。いや呼吸が止まったら困るんだけど。あまりにこれじゃ、苦しい。絶え間なく空気が肺に侵入してくる。もう肺はとっくに満たされているのに、吐く空気より吸う空気の方が多いから、目頭が熱くなって物が考えられなくなる。清希、俺だけの清希……だよな……?
ピコン、という音でハッとして、そこでようやく過呼吸が収まった。過呼吸が収まる理由はひとつしかなくて、俺はLINEの通知を清希のもの以外切っていたから……つまり、清希からのLINEってわけで、安心して落ち着いたのだ。
『今日独歩んち行っていい?』
2学期に入ってから、清希は休みの日に俺の家で勉強するようになっていた。それは冬休みも例外ではなく、昨日は来なかったが一昨日は来ていた。大抵昼飯後から俺の家に来て、晩飯前には帰っていく清希。
今は8時。いつもだったら、清希が来るまでは時間があるんだけど。
俺は顔のニヤつきを抑えられなかった。カレンダーにある文字を大切になぞる。「おばあちゃん、おじいちゃん」と母親の字で書かれている。花袋にわかりやすいように書かれているのであろうそれは、優しく丸い字をしていた。
親父、お袋、花袋の3人は今日明日と祖父母の家に行っている。俺は受験生だからと置いていかれた。飯を自分で用意しなければならないのには腹が立ったが、今はそれもどこか嬉しかった。
『今すぐ来いよ。歯ブラシセット持ってきな』
そう返すと、全てを察したらしい清希は『着替えは?』と聞いてきた。『俺のやつ貸してやる』と送り、俺は唇を舐める。しあわせな1日が始まりそうだ。
いつものように参考書やら問題集やらを持参してきた清希は、俺の家に入って不思議そうに辺りを見回した。
「家の人は……?」
「分かんだろ普通、だから泊まれって言ってンだよ」
「泊まれとは言われてないけど……」
かわいくねーと両頬を挟むように潰すと、清希は眉をひそめた。ほんとかわいくねーやつ。可愛い。
「家の人いつまでいないの?」
「明日の昼には帰ってくるって言ってたような気が……」
「え、それってご飯は大丈夫なの?」
「カロリーメイトがあるからな」
そう言うと急に声を張り上げられる。うるさい。
「大丈夫じゃないでしょ!もー、言ってくれれば食材買ってきたのに。家にあるもの勝手に使ったらだめだよね、あとで買ってこないと……」
「いいから勉強しようぜ」
俺は清希がブツブツ言うのを無視し部屋に入る。言ってから思ったが、今の俺の言い方だと清希もカロリーメイトを食うことにならないか?困る。清希がカロリーメイトだけで今日の昼と夜と明日の朝を過ごすとか無理があるだろ。清希だけでもちゃんと食べてもらわないと。あとで冷蔵庫の中を確認しておこう。
部屋に入った清希は机に問題集を並べていく。そしてうーんと唸ったあと、見ただけで基礎レベルのものだとわかるパステルブルーの本を目の前で開いた。
それから、思い出したようにカバンからメガネケースを取り出す。俺の喉から唾をゴクリと飲む音が響く。聞こえただろうかと焦るが、清希は特に気にするそぶりを見せなかった。
勉強するとき、メガネをかける清希は良い。こう、クるものがある。さらにそれでシャーペンの先を口に当てたりするともっと良い。
しばらく俺はずっと向かいの清希を眺めていたが、清希が険しい顔をし始めた辺りで問題集を覗く。
「これどうやって解けば良いの?」
「そこはまず平方完成をして……」
俺の説明をうんうんと聞く清希。本来俺は人に勉強を教えるなんて死んでも嫌だったのだが、清希に質問されるようになってからは、清希にだけは苦でなくなっていた。
「なるほど、ありがと」
ずっと、これだけだ。これだけの、しあわせな時間。清希は質問をするだけ、俺は清希の質問に答えるだけ。それが良い。
また清希は問題集に目を落とす。こうして見ると清希の目は少し小さくて、鼻はどこか不恰好で。唇は冬の乾燥でかさついているし、ちらりと覗く口内に見える歯はお世辞にも綺麗とは言えない。
そこが良い。筋骨隆々な男とか、超絶美男だとか、興味ない。虚ろな清希の目が良い。その目に光なんて宿らなくて良い。清希は俺の側にいてくれればそれで良い。
「独歩、俺のこと見過ぎ……」
肩が跳ねる。どこか恥ずかしそうな清希が、下唇を噛みながら言ったのだ。
「わ、悪ィ、邪魔して……」
「俺だって独歩のこと眺めたいのに」
それは、ずるいって。そんなこと言われたら。恋する乙女のように心臓が暴れる。多分顔は真っ赤だろう。ほんと恥ずかしい。クロのくせに。
「独歩、暇でしょ?俺が集中できる程度なら……おいで?」
おいで、と言われて俺は犬みたいに四つん這いで清希に近づく。これじゃどっちが主人か分からん。
清希の身体を股で挟むようにして、その身体に手を回す。背中に頬をつけこすると、くすぐったいのかびくびくと震えた。
「しゅ、集中、できな……」
「このくらい我慢する精神力を鍛えねェと、受験はやってられんぞ」
適当なことを言うと、清希は荒い息を吐きながらもシャーペンを動かし始めた。
こいつ。自分が我慢だとか言ったばかりなのに、俺は俺より問題集を見ている清希に腹が立った。むかつく。
俺は腹のあたりで組んでいた手を服の下に滑り込ませていく。冬の重ね着だと、服の上からの感覚は鈍いはずだ。
「ちょ、まって、だめ……」
たるんでないけどそこまで引き締まってもいない腹筋の辺りを撫で、それから少しずつ手を上に移動させていく。ゆっくり、ゆっくり上らせていき、人差し指でお目当ての突起に触れた。
その瞬間、俺の体に肘がぶち込まれる。
「ゔっ」
さっと手を外に出し、そっと清希から離れる。清希は肩越しに俺を見て言った。
「お昼何食べたいの、材料買ってきてよ」
怒ってますね。
「ケーキ……」
「ケーキはご飯にならないでしょ。デザートはケーキ食べるとして、お昼は?」
「……肉入りオムレツ……」
うつむきながら言う俺を見て、清希がふっと笑った。何が面白いのだと顔を見ると、清希は女神かというほどのたおやかな笑みを浮かべていた。
「オムレツ食べたいの?可愛い」
顔が熱くなる。おちょくられているように感じるが、表情があまりに柔らかいので文句は言えなかった。
「じゃあ挽き肉と玉ねぎ買ってきて。あとケーキね」
頷いて立ち上がろうとすると、頭をわしゃわしゃ撫でられた。くそ、クロのくせに。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
勉強してりゃいいのに、清希は玄関から見送ってくれた。なんとなく、夫婦みたいで良い。あ、夫婦はやめよう。自分で考えて恥ずかしくなった。えーっと、夫婦しか思いつかねェや。
外は寒い。雪は降っていないが、空気が体内に入るたびヒリヒリとした痛みを与えてくる。歩くたびに足が積雪に攫われそうになり、体力がどんどん奪われていく。
夏だったらなァ、チャリですぐなんだけど。俺は白い息を吐く。こういうとき北海道ってだるいなと思う。それでも清希に言われたおつかいなので、そこまで苛立ちはしなかった。
スーパーに入ると、主婦と思われる女やその子供たちがカートやカゴを持ちながらうろちょろとしている。いつもの買い物の光景だが、1人でいるということに違いがある。
「もう、ダメでしょ、戻しなさい」
「はーい」
母親が息子を戒める。よくある光景だ。けれどその“普通”が俺の心に刺さる。
俺も家族を作りたいと思ってしまう。無理だと分かっているのに。結婚して、2人で暮らして、そのうち子供ができて、子供を育てて、子供が離れてまた2人に戻って、穏やかに老いる。そんな当たり前の夢物語を脳裏に描いてしまう。
無理だよ、と悪魔が笑う。無理だよ、俺たちには無理だよ。その悪魔は清希の顔をしていた。
俺だって別に普通の生活を送れないわけじゃない。清希を無駄に傷つけたくないから言ってはいないけれど、俺は中学で2人の女子と付き合った。そして2人ともすぐに別れた。
1人目は「一緒に帰ろう」などと言ってきたので「無理」と返すと、心底不思議そうに「なんで?」と首をかしげられた。「クロと帰るから」と当然のことを言うと「彼女より友達を優先するの?」と何故か憤られた。「クロより優先できるやつなんていねェよ」と言うと、次の日振られた。見た目はそこそこだったが、意外と面倒な女だった。
2人目はLINEがうるさかったので自分から振っておいた。朝にはおはよう、夜にはおやすみだなんて彼女かよ、と腹立っていたが、今考えると彼女だった。清希以外のやつからのLINEなんて見たくもないと思い始めたのはその頃からだった。
中1の1学期の時点で2回女と(そこそこひどい理由で)別れた俺は、女子の中で噂が広まったのかもう告白されることはなかった。俺にはそれが好都合だった。
……どうでも良い過去だなァ、と思う。普通にしていれば女に困ることはないんだろうなとは改めて感じたが、女に言い寄られるからなんだ。なんの得にもならない。関わる女はハブタスみたいなやつくらいで良い。
「挽き肉……何グラム……?」
しばらく売り場を歩いていた俺だが、肉のコーナーで立ち止まる。買ってこいと言われたのは挽き肉。どのくらい買ってこいだとかは言われていない。
俺は料理を全くしないので、肉入りオムレツ2人分にどのくらいの挽き肉を使うのかはわからない。いつも食べるハンバーグは300グラムだが、まさかオムレツにそれほど使うとは思えない。
2人で、200グラムとかだろうか。自信はないが多すぎても困るだろうし、この辺りにしておく。
レジで会計をしてから、スーパーの中にあるケーキ屋に入る。中学3年の男子が1人でケーキ屋かァ、笑える。俺はそそくさとケーキを2つ選んで店を出た。
「ただいま」
そう言って家の中に入ると、清希が大慌てで迎えてくれた。
「おかえり」
楽しそうだ。清希は学校にいると顔が暗いが、長期の休みだと表情が朗らかで幸せそうになる。相変わらずの光のない瞳をしているが、下がった眉は安心を表しているようで良い。
「じゃあお昼の準備しようかな。独歩はテレビでも見てて?」
「俺も手伝うって」
そう言うと、清希は俺を制止するように手の平を見せた。
「だめ。俺が作るの」
もしかすると清希にとって俺は邪魔なのかもしれない。調理実習で豆腐をみじん切りにした俺をキッチンに入れるのは不安なのか。そうだなァ。
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
俺はレジ袋を渡し、ケーキを涼しい玄関に放置してリビングへ行った。録画してあるアニメでも見るか。
アニメ1話とAパート見たあたりで「できたよ」と声がかけられた。振り返ると、顔を真っ赤にした清希がエプロン姿でいる。
「それ、俺の……」
「部屋で見つけた」
清希が身につけているのは、家庭科の時間に作った不恰好なエプロンだった。所々から糸がぴょんと出ている。
「食べよ」
食卓に並べられている皿を見ると、綺麗なオムレツがのせられていて……ケチャップで、ハートマークが描かれていた。
「これ……」
「い、いいから食べよ」
耳まで真っ赤な清希を見てると、こっちまで恥ずかしくなってくる。しばらく無言が流れたが、しびれを切らしたように清希が口を開く。
「いただきます」
「いただきます」
スプーンでオムレツを口に運ぶ。プロ級に上手いわけじゃない。でも家庭的な味で、なによりあたたかい。
「うまい」
「ありがと。独歩が買ってきてくれた挽き肉、量ぴったりだったよ」
「そうかよ」
ハートマークを崩すのはもったいないけれど、食べないわけにはいかないので割いていく。しあわせだ、ほんとうに。心が充電されていく。
俺はさっさと食べ終わってしまったので、清希が食べ終わるのを待ってから玄関からケーキを持ってくる。
「クロはチョコケーキで良いんだよな?」
「俺の分も買ってきてくれたの?ありがと」
清希の前にはチョコケーキを、俺は自分の前にイチゴのショートを置いた。趣味が見た目と逆だと笑ったのは誰だったろうか。甘いもの好きで悪かったなァ。
清希がチョコケーキを口に運ぶのを眺めていると、「独歩もひとくち、いる?」と微笑まれた。頷くと清希はケーキにフォークを入れ、そのまま俺の前に運んでくる。
「はい、あーん」
心臓がいくつにも増えたみたいに、ばくばくと色々な所が脈打つ。顔が熱い。呼吸が荒くなっている気がする。ほんと、馬鹿だ、俺。こんなことで。
腰を浮かせてケーキを口で受け入れると、清希は満足そうに口角を上げた。
「美味しい?」
見せつけるようにそのフォークを口に入れ、茶色く汚れたそれを拭う清希があまりに扇情的で、俺は頷くことしかできない。ああくそ、クロのくせに。
「独歩のもひとくちちょうだい」
清希はそう言って俺のショートケーキをひとくち食べる。やっぱり清希にはイチゴのショートケーキが似合うなァ。
「ん、美味しい」
そう言って唇の端についたクリームを舌で舐めとる清希を眺めていると、多幸感でどうにかなりそうだった。
甘くて、ふわふわで、しあわせな時間。ケーキと清希、どっちも、それを作り上げていた。
「ごちそうさまでした」
清希は律儀に手を合わせて皿を片付け始める。
「洗い物は俺がするぜ」
宣言するように立ち上がると、清希は「わかった、ありがとう」と笑ってくれた。清希みたいな嫁がいたらなァ、と考えて、清希みたいじゃなくて清希で良いや、と呑気に思い返した。
部屋に戻ると清希は理科の勉強をしていた。数学は一段落ついたんだろうか。
ふと勉強机に目をやると、そこには相変わらずプリントの山ができている。整理できない俺は万年こうだ。……けれど、少々違和感がある。
「……机の上のプリント、触ったか?」
清希の肩が跳ねる。恐る恐るこちらを振り返る清希の顔は青くて、漫画なら縦にスジが入っているだろう。
「空気の入れ替えしたら、プリントとんじゃって……」
空気の入れ替え、なァ……。
清希の発言で、先程清希が俺のエプロンを見つけていたのが腑に落ちた。タンスに入っていたエプロンなんて、普通は引っ張り出してこないだろうと思っていたのだ。
追及しても良いところだが、気付かれないかビクビク怯えるのが可愛いのでこのままにしておく。
「まァ、いいや」
そう呟くと、目に見えて清希は安堵した。そういう頭の弱いところも可愛くて良い。
「圧力の計算はできるようになったか?」
床に座って問題集を覗く。桁の多い計算はどうも手が進まないらしく、所々空欄があった。
「面倒がらずにやんないと本番でミスるぜ」
指でとんとん、と紙を叩くと不満げな顔をされる。入試当日に俺がつきっきりになれるなら計算でもなんでもしてやるが、残念ながらそんなことはできない。
仕方なくといった風に計算を始める清希を眺めるのも、それはそれで楽しい時間だった。
「疲れた……」
午後6時前。
いつもならもう少し遅くまでやっているが、今日は午前中から勉強をしているので相当疲労がたまっているらしい。世の中には正也みたいにもっと長い時間やっているやつがいるんだろうが、清希にはそれは難しい。
「夜ごはんは何にしよっか。さっき夜の分も買ってきてもらえば良かった」
「LINEしたら、冷蔵庫にあるもの好きに使って良いって言ってたぜ」
お袋としては清希じゃなく俺に飯の用意してほしいようだったが、無理な相談だ。
「じゃあ冷蔵庫見てから何作るか決めよう」
そう言ってキッチンへ行く清希に俺はついて行く。夜こそは手伝った方が良いんだろうか。
「なんか食べたいものある?」
冷蔵庫をひと通り眺めた清希が俺を振り返る。リクエストしたら、なんでも作ってくれるのか?
「肉……」
「肉好きだね。鶏肉あるし唐揚げで良い?」
頷くと、清希の顔に柔らかな笑みが浮かべられる。
「じゃあテレビでも見てて待っててね」
すっごく、母性を感じた。それが無性にむずがゆく、どこかでムカついた。クロのくせに。今日これを思うのは何回目だろう。自分でもよくわからない感情だった。
ちょっとした仕返しのつもりで……俺は踵を返した清希の不意をついて……その頬に接吻を落とした。
「ひっ!?」
ムードに欠ける声を漏らし、清希は腰を抜かしたように尻餅をついた。
その顔は嘘みたいに赤くて、瞬きが異常なほど繰り返されている。うん、可愛い。
「口以外のキスは初めてだろ?」
「ず、ずるいよ、独歩はほんと、そういうこと平気でするんだから……」
「今日はいっぱいドキドキさせられてるから、お返し」
「え、それって……」
清希は何かを言いかけたが、話は終わりだと言う風に手をひらひらと振ると、「もう……」と呟いて晩飯の準備を始めた。
唐揚げと白米とサラダと味噌汁。味噌汁はインスタントのやつだし白米は冷凍してあったものだが、俺と同い年の男が用意したものとは思えん。
「なんでクロって料理できんだ?」
いただきます、と手を合わせ終わった清希に聞く。
「仕事柄、親2人とも長く家を空けることが多くて……そういう時は、兄弟で料理の当番回してるんだよね。正希兄ちゃんは絶対料理しないし、星希はまだ小学生だから、回してるっていっても俺と晴希兄ちゃんとなんだけど」
すげェや。俺は感心した。つか感動した。ほんと清希は良い嫁になる。娶ってやる。
あまりの驚きで変なテンションになった俺に、清希は相変わらず余裕の笑みを返した。んなことしてっとまたキスするぞ、とか思った。が、実行には移さなかった。
「美味しい?」
「うん、うまい」
よかった、と笑う清希は本当に可愛い。幸せそうな清希は抱きしめたくなる。大切に大切に、清希がずっと笑っていられるように、俺がなんとかしてやりたい。
「お風呂入ったら何する?」
聞かれて、うーんと唸った。せっかく清希が泊まるのに、何もしないのはもったいないよなァ。
「セッ……」
「それ以外」
まだ言い終わってもないのに拒否られた。別に本気で提案していたわけではないけれど、なんか、むかつく。
「ゲームでもすっか」
そう言うと、清希は子供みたいにそわそわしだした。
「何やる?マリオカート?」
「マリオパーティやろうぜ」
「あ、いいね」
「8?9?10?」
「俺8が好き」
んじゃ8やるか。そう呟き、俺は食べ終わった食器を片付ける。清希もシンクに皿を置きに来た。
「クロ先に風呂入れよ。俺は皿洗ってるから」
「え……」
清希の口から寂しそうな声が漏れる。聞いた人を切なくさせるような声だ。人によってはうざいと感じるのかもしれないが、俺は甘やかしたくなる。
分かってる。清希はきっと、一緒に。
「ンな顔されても困る」
「だって、せっかく泊まるのに……」
しょんぼりする清希が可愛かったから、俺は本心を語ることにした。
「一緒に風呂入ったら、ゲーム、できなくなると思うけど……」
ああ恥ずかしい。だって俺、個室で裸の清希と2人になって、我慢できる気がしない。
しばらく沈黙が流れる。多分、俺の顔も清希みたいに真っ赤だろう。クッソ気まずい。
「……じゃ、じゃあ、先風呂入って来るね……」
清希はぼそぼそ言って風呂場に向かう。俺は気恥ずかしさで嫌ンなって、その場にしゃがんだ。
はークソ、マジで、クソ……。
「ど、独歩……」
洗い物を終わらせてテレビを見ていると、控えめな声で清希が洗面所から何か言っているのが聞こえた。
よく聞こえないのでそちらに行くと、清希は洗面所のドアを少しだけ開け、そこから顔を覗かせている。濡れた髪から雫が滴っていて、俺はなんとなく目をそらした。
「バスタオルとか……あと着替えって、どうすれば良い……?」
そういえば、そこら辺の話を一切せずに清希は風呂に入ってしまった。着替えは貸すって約束だよな。
「バスタオルはそこの棚の上から3つ目の段の右側のが俺のやつだからそれ使え。着替えは……今持ってくる」
「わかった、ありがと」
洗面所の扉が閉められ、中から棚の戸を開ける音が聞こえる。宿泊研修やら修学旅行やらで散々裸は見ているはずなのだが、それでも恥ずかしいらしい。
俺は部屋で今は着ていないパジャマを引っ張り出し、下着なんかも用意した。サイズは合わないくらいがちょうどいい。
俺の身長は高くもないが低くもない。平均から考えると清希の身長は低い方なので、つまり俺は相対的にデカいということになる。要はあれだ、彼シャツって萌えるだろ?
しばらくすると洗面所の扉が開かれ、中から腰にバスタオルを巻いた清希が出てきた。
「着替え……貸してもらって良い?」
俺は用意しておいたものを清希に乱暴に投げつける。清希は驚いたみたいだが、俺の顔を見て察したのかなんか近づいてきた。
「独歩、着替えたあと、このバスタオルはどうすれば良い?洗濯機に入れとく?それとも……」
「うるさい。殺す」
睨み付けると、清希は小悪魔みたいな笑みを浮かべた。風呂上がりの紅潮した顔にそれはもはや暴力的だった。クッソマジでむかつくクロのくせに。
「……バスタオルは洗面所のカゴに入れとけ。それ以外は洗濯機で良い」
「わかった」
クソ、マジでクソ。洗面所に戻る清希の背中のラインを見つめると、自分で自分の息が荒くなっているのを感じる。クソだほんと。
俺は大きくため息をつくと、ソファに寝転がってクッションで顔を覆った。
結局午後10時過ぎまでゲームをして、だんだんと清希は疲れてきたらしい。何時間も勉強してそれに何時間ものゲームを重ねればそりゃまあ精神も摩耗するだろう。
「もう寝る……」
子供みたいに甘えた声を出してくるので、俺は頭を撫でて歯を磨くよう勧めた。
いつ寝落ちしても良いよう、俺も歯を磨いておく。洗面台に清希の持参した歯ブラシセットがあるのがなんとなく嬉しい。
俺の部屋にあるベッドはシングルで、もちろん2人で寝るにはやや狭い。それでも、俺たちは一緒に布団に潜った。
「寒、い……」
暖房はついているが、さすがに夜は冷える。清希は呟きながら俺にくっついてきた。2人の熱が重なって、それを増していく。
俺を抱き枕のようにする清希の手を俺の身体から引き離し、指の間に己の指を差し込んでいく。恋人を繋ぐように。
今日の清希は随分と心に余裕があった。長期休みだから悩みの材料も少ないのだろう。心なしか顔色も良かった。
そんな清希も、もちろん良い。しあわせそうな清希を見るのは俺もしあわせだ。
……けれど。けれどやっぱり……俺ばっかり余裕で、清希は切羽詰まっている、それが理想だ。
「清希」
清希の耳に口を近づけて呟くと、面白いくらいに反応があった。
「えっ」
暗いから見えないけど、多分、清希の顔は真っ赤だ。
「愛してるよ、清希」
からかうように、それでいて心の底からの想いを伝える。繋いだ手はすっかり熱を帯び、どちらのものかわからないが汗で湿っていた。
「……っ、どっ、ぽ……」
ずるいよ。清希が呟いた。吐息まじりの声は加虐心を煽る。
「お前は?俺のことどう思う?」
余裕たっぷりに言うと、清希はいよいよ羞恥心が溢れて逃げ出したくなったみたいに、手を離そうとしてくる。俺はそれを強く握って許さない。
雲が払われたのか、部屋に月明かりが差し込んでくる。それに照らされ、清希の蕩けたような表情が見えた。
「す、すき、だよ、どっぽ……せかいで、いちば……」
言い終わる前に言葉は途切れる。俺が口を塞いだからだ。
「んっ……ぅ……」
清希の鼻にかかった声が漏れ出す。唐突のことに驚いたみたいだったけれど、俺が舌をゆっくり口内に侵入させるとそれは歓迎された。
舌と舌が絡み合う。恋人同士みたいな、熱い接吻だ。清希は舌の先端が弱いので、そこが擦れるたびにびくびくと身体が震えて可愛らしい。もっと、もっと可愛らしい清希が見たい。そんな衝動に駆られて舌の先端を吸うと、より甘い声が漏れる。
「はふ、ぅ……んぁ、ん……」
名残惜しいが口を離す。もう、我慢できない。
「さや、き……」
切羽詰まった俺の声に、清希は荒く息を吸ったり吐いたり。俺は清希の手を取り、自分の熱の中心に押し当てた。
「あ……」
「俺……こんなだから。余裕ぶってるけど……全然だから。なあ、清希……」
し、たいな。
今この空間を支配しているのは2つの羞恥心だった。余裕が無いのはお互い様。人間が用意する仮面なんてもんは儚くて、上塗りで誤魔化すのが俺らのサガだ。その誤魔化しが効かなくなったのが、今の俺たち。ヴェールを脱いだ、丸裸の清希と……鎧を外した、本当の、俺。
清希は息を飲んで、それからしばらく細切れの呼吸を繰り返した。沈黙は互いの熱を高め、生暖かい呼気が漏れていく。
「なあ、清希……お前は……どう?」
今体温を測ったら38度はあるんじゃないだろうか。脳が霞むくらいの、ぼやぼやとした多幸感が俺を襲う。訊かなくともわかる問い。それをあえて尋ねるのが、俺の支配欲を満たす。
「……ずるいよ」
清希の潤んだ瞳が、カーテンの隙間から漏れた月光を受けてきらきらと輝いた。今にも零れ落ちそうな雫を指で拭ってやると、清希はゆっくり瞼を閉じる。
「独歩はいつだってそうだ……ほんと、ずるい」
ずるいのはお前だよ、と心の中だけで悪態をつく。俺がこんな気持ちになるのは清希だけなんだから。ほんと、ずるい。
清希は意を決したように目を開き、俺の身体に腕を回す。それから、耳に口を近づけてきた。
「抱いて、独歩」
……ほら、ずるい。
俺は下腹部が重くなるのを感じて、そのまま衝動に身を任せた。
「どっぽ……さむい……」
清希が背から抱きついてくる。接したところだけが暖かい。ヤることヤッた後の今、清希への想いがつらつらと心から溢れそうだ。
「なあ、清希……お前、上山……行けるよな?」
なるべく軽く聞こえるように、心からの不安を口にする。
「行くよ。俺……独歩にどこまでもついてく」
俺の不安を感じ取ってか、清希がぎゅっと強く抱きついてくる。少しだけ、心が軽くなった。
それでも全部の不安が拭えることはない。清希を想うほど、先に見据える未来への心配が募っていく。俺たちは決して祝福されない。誰にも歓迎されない。社会の癌で、世界の塵だ。そんな俺たちがずっと一緒に、なんて可能なんだろうか。
「独歩……今俺、しあわせ」
俺に言い聞かせるように清希は呟く。わかってる。清希のこれは仕返しだ。散々清希をからかった俺への、可愛らしい復讐。俺はしあわせだよ。だったら、独歩は?そう聞いてきてるんだ。将来の不安なんて忘れて、今を感じよう、と。
だったら答えは簡単だ。訊かれなくても答えてやる。昨日今日とずっと感じてきた、この想い。
鎧を脱いでる今なら、はっきりと言えるから。
「俺も……しあわせだ」