Muv-Luv Alternative ~take back the sky~   作:◯岳◯

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Chapter 3.5 : 『Strike Back』  
0話 : 旅立つ者たち


対峙するは二体の戦術機。芸術品のように人の手によって洗練されたフォルム、頭頂には兜のような装飾が見える。

 

日本帝国は斯衛軍の最新鋭機。その中でも武家にしか与えられない山吹色をした機体の、74式長刀を構えるその様は堂に入ったものであった。見るもの全てを圧倒する雰囲気は理屈ではなくそこに存在していた。対する白の武御雷も負けてはいない。

 

中隊の仲間に加えて脅威たる敵が入り交じっている最中、周囲を警戒しながらも目の前の強敵から意識を逸らさないでいる。

 

一瞬の停滞。直後に、場は動いた。

 

山吹の機体に乗る衛士の、ひゅっと息を吸う音がコックピットに響いた。起こりとなる動作と共に、日本帝国の象徴たる武御雷が前に飛ぶ。攻撃に至る予備動作はもう済んでいる。担ぐように構えられた長刀は、間合いに入った途端にその姿を霞ませた。

 

「はっ!」

 

気勢を声に、袈裟懸け。くすんだ灰の色を軌跡に見せる閃光の如き一撃が、大気を駆ける。

だが、それを阻むのもまた灰色だった。鉄と鉄が衝突するような、甲高い音。衝撃が攻め手と守り手の両方の中枢へと響いた。

 

「真正面からなんて―――」

 

受け止めた直後、絶妙のタイミングで刃を斜めに、重心は横に。いなした白の武御雷は後ろへと跳躍した。山吹の武御雷の体勢が崩れ、着地した白の武御雷は踏ん張った。炭素で出来た人工の靭帯が縮み、伸びた。

 

「いくらなんでも舐めすぎよ!」

 

脚部の電磁伸縮炭素帯を存分に活かした跳躍、そこに後背の跳躍ユニットの推力が加算される。

同時、白い巨躯は風になった。進路は山吹の機体の正面よりやや横に外れた位置へ。

 

空を向いていた剣は弧を描いて水平に、刃はそのまま敵手の胴へと煌きを加速する。

すれ違いざまに胴を分かたんとする横薙ぎの一撃。だがそれは、機体に届く前に動きを止められた。

 

擦過音、甲高い鉄の、着地する音。至近で対峙する二人は投影された映像越しに睨み合った。

 

「篁隊長!」

 

「山城隊長!」

 

双方の隊の中隊員が流れこんでくる。巴戦であるので、当たり前であった。

一対一が多対多になり、そして。

 

「全機、ここにしか勝機はないと思え! これ以上のやられっ放しは許さん、貴様達の力を示せ!」

 

「了解! お前ら、橘大尉の声に応えろよ!」

 

巴戦の最後の一角、帝国陸軍の戦術機部隊が混迷した場に仕掛ける。

模擬の戦域は再び、鉄と人の衝突音に乱れていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

屋根に守られている広大な空間は、それだけで人の視覚を圧倒する。その中に並ぶのは、超炭素で作られた人類の先刃たる兵器だ。戦術歩行戦闘機、その中でも日本帝国最新鋭の機体として名高い機体があった。愛称を"武御雷"という。その中でも特定の武家にしか与えられない山吹色をしたそれをType-00Fという国内はおろか世界でもトップクラスの性能を誇る機体だ。

黒く美しい長髪を流したまま、山吹と黒が織り込まれた00式衛士強化装備を身にまとう女性衛士――――篁唯依は自らに与えられたそれを、足元からじっと見上げていた。

 

無言のまま、微動だにしない。周辺にいる整備員も、何かしらの考え事をしているのだろうと彼女には近寄らなかった。その中で、堂々と歩を進めた女性が居た。

 

短い髪をした彼女の名前を、山城上総という。かつての昔、まだ髪が長かった数年前の京都。そこにあった訓練学校での同期であり京都防衛戦では機体を並べた戦友である彼女は、難しい顔をしている唯依の後ろに音も無く立った。

 

手を伸ばして肩を叩く。

 

「お久しぶりね」

 

「っ―――!?」

 

驚き、振り返ろうとする唯依の頬に指が突き刺さる。上総は難しい顔から一転、間の抜けたそれになった唯依を見て笑った。

 

「い、いきなりなにを!?」

 

「あら、御免なさい。でも久しく再会するというのに、機体に心を奪われていた貴方が悪いのではなくて?」

 

「あ、ああ………すまない」

 

「いえ………いいのだけれど、ね。貴方も戸惑っているのかしら」

 

急だったから、と上総が言う。そのとおりで、今回に提案された対人類戦闘の模擬演習は通達が一昨日という、あまりにも無茶な話であったからだ。帝国陸軍の1隊、斯衛の2隊が参加するという豪勢な内容。陸軍は不知火が12機で一隊、斯衛軍はそれぞれ武御雷が6機で一隊。

 

その模擬戦は互いに面通しの無いままに始められていた。

 

 

「その様子を見ると、心当たりがありそうだけど―――――」

 

「い、いや。そんなことはない」

 

 

唯依は慌てて否定をした。それはこの上ない程に雄弁な肯定である。

 

上総はもちろんのこと気付き、そうした様子から唯依も自分の失敗を悟った。

 

「………不甲斐ないな」

 

武家の人間として、無防備な背中をとられるなどと、いついかなる時にもあってはならないことだ。

 

内心の動揺と、本来であれば漏らしてはならない情報までもが悟られているかもしれない。

 

「未熟な所を見せた。まあ、山城中尉にとっては今更かもしれないが」

 

硬い表情のまま、謝罪の意志を見せる。それを見た上総は、少し顔を歪めた。

 

「…………過ぎる程に自分を責める癖。まだ、直っていないのね」

 

むしろ酷くなっていると。上総は聞こえないように小声で呟いた。

 

「それよりも、言葉が硬いわよ唯依。名前で呼び合う中にまでなったというのは、私の勘違いだったのかしら?」

 

「いや、それは………周りの者に示しが」

 

「階級が違ったのであれば、もう少し考えるけどね。注意されたら、説明をすればいいわ」

 

同期の桜です、と。それだけで説明はつくだろう。軍人は特に同期に対しては、階級もなにも無くなるという者が多い。成り立ての雛、恐らくは訓練が最も辛いであろう時を共有した仲間であるからだ。羽目をはずしすぎなければ、特に注意されることもない。

 

「そう、ね………では改めて。久しぶりね、上総」

 

「ええ。また会えて嬉しいわ」

 

敬礼を交わし、苦笑しあう。名前で呼び合うようになったのは、訓練学校が最前線近くになった時、戦時徴用される際のことだ。

急な繰り上がり任官に不安を覚えた唯依達は、武家として許される程度には互いに胸の内を話すようになっていた。

 

馴れ合いではない、同じ死地に挑む戦友に対して他人行儀のままなのはどうか。そうした議論を交わした友人は、もう互いに目の前に居る相手だけになっている。

 

「そういえば………佐渡ヶ島でのこと聞いたわ。昇進おめでとう」

 

唯依は開発部隊に居た衛士から聞いていた。

 

佐渡ヶ島のハイヴの間引きの際、中隊長を務めていた譜代武家が落ちた時に、代役として指揮を取り戦果を残した白の武家の衛士がいると。

 

その名前に驚き、同時に誇らしさと嬉しさを覚えていた。

 

「ありがとう。でもようやく、追いつくことができた程度よ?」

 

「私の場合は………」

 

「そういった嫌味ではなくてね。それより、素直に嬉しいわ。一昔前なら考えられなかったけれど、ね」

 

斯衛というのは、とにかく階級が上がりにくい事で知られている。譜代以上の"格"があればそうでもないのだが、冠位が白と黒の者は相当な戦果を出しても、即座には階級が上がらない慣習があった。

 

政治的な、そして過去よりの武家の面子もある。白より山吹に上がるには、冠程の山吹色のお菓子が必要であるという冗談も出ていたぐらいだ。

 

戦果や功績が無視されるわけではないが、とにかくレスポンスが遅く、見合ったものを得られない風潮があった。

 

だが、それも京都が陥落する前までのこと。

 

新しい政威大将軍、そして各五摂家の当主の努力により、斯衛軍は悪い意味での前時代的な体制を排除することに成功していた。

 

功績に報いる上役が居る。古く淀むだけのものは撤廃されて、正しい空気の通り道ができている。それだけで人の士気と意気は上昇するのだ。

 

依然として残る、武家としての慣習と誇りはそのままに。生来の頑強さは衰えることなく。

 

結果として斯衛全隊の戦力は、京都で減じられる前よりも、総合能力としては上であると認識されていると聞く。

 

 

「………と、そろそろ着替えないと」

 

「ええ」

 

 

二人は斯衛のBDUに着替えると、呼び出された部屋に赴いた。

 

ノックをして入室する。そこには、大尉の階級章をつけた帝国陸軍の衛士の姿があった。

 

橙の髪に、片眼鏡。唯依達よりもやや長身である彼女の胸には、豊かな女性の象徴があった。

 

目の前に立ち、姿勢を正す。

 

 

「帝国斯衛軍、篁唯依中尉であります」

 

「同じく、山城上総中尉であります」

 

「帝国陸軍………橘操緒大尉だ。すまんな、わざわざ斯衛の方々をお呼びだてして」

 

 

数時間前では一つ所の戦域でしのぎを削りあっていた隊をそれぞれ指揮していた3人が、敬礼を交わし合った。

 

操緒の補佐を務めていた、隣に居る衛士も敬礼をした。同じく、模擬戦に参加していた帝国陸軍の衛士だ。

 

険しい顔をした、今の御時世では珍しい男性の衛士で、階級は中尉。

 

見るからに操緒より一回りは年上であろう彼は、斯衛の二人を含むものがあるかのように見ていた。

 

 

「――――戸守」

 

「はっ! ………申し訳ありません!」

 

 

敬礼と、謝罪。だが身にまとう空気は若干だが威圧的なものが残る。それを察した操緒は、退室を指示した。

 

戸守と呼ばれた男は一瞬だけ不満を見せるが、敬礼をしてすぐに部屋の外へと出て行った。

 

 

「うちの部下が申し訳ない。後で改めて厳重に注意しておく」

 

 

頭を下げる操緒に対し、二人は不快感を抱くよりも前に、単純な疑問を抱いていた。

 

互いに初対面のはずだ。なのにどうして、軍人としてはあるまじき、あそこまであからさまな敵意のような感情をぶつけてくるのだろうか。

 

 

「………逆恨みのようなものだ。重ね重ね申し訳ないが、これ以上の説明は許してくれ」

 

「そうおっしゃるのであれば………それよりも、お久しぶりです。京都以来ですか」

 

「斯衛の新鋭の中でも名高い二人に、私のような凡人の事を覚えていてもらえているとはな。光栄だ」

 

 

間にある空気が若干緩む。特に親交もなく、会話の数も最低限であったが、それでも同じ隊で戦っていた仲間である。

 

そして――――当時の京都を知っている。あの空気を共有した者だという事実。

 

根拠も何もないが、少々の親近感を持つには十分過ぎる材料であった。

 

 

「そのような…………橘大尉の活躍は、お聞きしております」

 

 

衛士のネットワークは伊達ではない。特に、日本の衛士が立てる戦場は狭い。腕の立つ衛士がいれば、あっという間に噂は広まるものだ。

 

その噂の中で、二人は聞いたことがあった。

 

帝国陸軍に期待の新人あり。並ぶ撃震を指揮し、関東防衛戦において相当な戦果を上げた橙の女性衛士がいると。

 

京都防衛戦において活躍したという点もポイントして加算されているようだった。

 

 

「………甚だ、不本意であるがな」

 

 

操緒はモノクルを押すと、納得はしていないという風にため息をついた。

 

唯依と上総はまた疑問を抱いた。先ほどの戦闘では、彼女はかなりの技量を持っていたのだ。

 

搭乗機が不知火ということもあり、機体性能差から総合的には陸軍の敗北に終わったが、彼女だけは小破判定さえ受けなかった。

 

なのに、どうして。表情を変えずに疑問を抱く二人に、操緒は苦笑しながら答えた。

 

 

「関東の所は、納得できる。だが………京都の話だけは勘弁して欲しいな」

 

 

少し表情を歪めた操緒に、唯依と上総は事情を察した。ほかならぬ自分たちも、京都での防衛戦で戦場に立ち、生還した事を讃えられることがある。

 

だが、当人にとっては痛苦以外の何物でもなかった。あそこでは、失った者が多すぎたのだ。

 

軍人として甘い話であるが、できれば触れずにそっとしておいて欲しい話題の一つだった。

 

 

「と、暗い話をするために呼んだのではない。先の模擬戦について、二人とは話しておきたいことがあってな」

 

 

互いに楽勝とはいかず、勝敗がどちらに転んでもおかしくはなかった。

 

そして、拮抗する戦場でこそ露わになるものがある。

 

操緒の提案とは、戦闘の最中で見えた相手の欠点を口頭で説明しあう、というものだ。

 

戦闘の際には相手の弱点をつくことこそが常道である。だからこそ集中して相手を観察、分析する必要がある。

 

その中で見えた、改善すべき点を指摘しあえばどうか。

 

 

「ですが…………」

 

 

上総は難しい表情を浮かべた。唯依も同意する。

 

先ほどの戦闘は対人類を想定したものであり、得られるモノがあるとはいっても、それは人間同士が争うものの中でしかない。

 

日本国内におけるハイヴの数は一つ。2年前までは、2つであった。今は佐渡ヶ島の一つである。

 

それが意味する事は、言うまでもない。今の日本は、人類で二番目のハイヴ攻略に成功した国家として認識されている。

 

だがそこに至る道中、至った当時に失ったものが大きすぎた事も確かである。依然として佐渡ヶ島の脅威は残っており、ユーラシアでのBETAの領域は日に日に増える一方だ。

 

戦後を考えた対人類の戦闘など、磨くに足るものなのか。

 

 

「そうだな………人類の大敵たるBETAに集中したい、という点においては私も同感だ。だが、来て欲しくない事態に限って来るものでな。大戦後の国家間での戦争であれば、まだ許容範囲内だが………」

 

「橘大尉の最悪は、また違うと? いえ、恐らくは………BETAが残っている今の状況においての」

 

「人同士の争いだ。銃口の先に想定されているモノ、それを考えれば………十二分にありえる話だ」

 

 

戦術機での戦闘技術、その方針には大別して二種類がある。対BETA、そして対人類として考えられたものだ。

 

 

「斯衛の戦術は見せてもらった。幼少の頃より、一つの流派の中で技量を磨くというのは伊達ではなかったな」

 

 

生身での対人の心得とは、自分の身体を動かす術だけではなく、機を見る目と対象の心理を読み取る技術が必須である。

 

そして、1人で剣を振るだけの武人はいない。唯依も上総も、誰かと競い合うこと、剣を手に試合をすることは日常の一つとして存在していたのだ。

 

 

「大尉の方こそ。対人類を想定してでの戦闘は、幾度かこなされたようですね」

 

 

このご時世である。部隊によっては対BETAではなく対人類の模擬戦など、シミュレーターでも行わないという所もあるのだ。

 

だが操緒が率いる隊には、いくらかという分を越えての、対人類における戦闘技術を持っていたように見える。

 

唯依と上総が指摘すると、操緒はモノクルを押さえて、答えた。

 

 

「別の考えを持つ者も居る、ということだ。誰かと競う戦場でこそ、見いだせるものがあると」

 

「ですが、個人では限界がありますわ。いえ、もしかして………」

 

「鋭いな山城中尉。それに同じような考えを持つ人間は、不思議と一つの箇所に集まる習性がある」

 

 

類は友を呼ぶともいうがな、と苦笑する。

 

 

「………“戦略研究会”という会がある。そこで少し、な」

 

「いかなる状況にも即応する志を持っていると」

 

「そのようなものだ。今回の模擬戦に呼ばれたのも、その辺りの事情が原因だろう」

 

 

模擬戦における意味。そこの中心に居るものは、1人しかいない。

 

二人が視線を送った先には、篁唯依が。斯衛でも開発部隊に所属していた、そして。

 

止まった言葉に、唯依は複雑そうな表情を浮かべた。

 

 

「佐渡ヶ島で戦っている衛士として、答えて欲しいことがあります。現状の戦術機は………国内に配備されている機体の今後に関して。改善すべき点について、お教え願いたい」

 

 

苦しそうに問いかける声。京都でも、見たことがなかった顔だ。

 

二人はそれに気づきながらも、見て見ぬふりをするという態度のまま答えた。

 

 

「《撃震》………F-4Jの耐用年数だな」

 

配備されはじめてから、もう何年が経過したのか。部品は交換できるとはいえ、全体の耐久度には限界があるのだ。

 

日本侵攻の前より戦っていた衛士からは特にだ。これ以上運用するのは非常に難しいという意見が多く、新しい機体の配備を望む声が大きくなっている。

 

 

「そう、ですね。不知火の配備数は順調に増えているようですが」

 

 

大東亜連合の協力があってこそだ。東南アジアに空いている土地は多い。帝国はその一部を租借する形で、不知火の生産工場を増やすことに成功した。

 

現地では周辺国の難民を受け入れると共に、日本国内に収まりきらなかった難民も受け入れている。

 

重要度が高まれば人が集まり、そして人が集まれば仕事は増えるのだ。かねてより計画されていた食料生産プラントの運用も順調である。

 

衣食住足れば、人が人を辞める理由はない。意味もなくなる。

 

そもそもの前提として、東南アジア各国の国民感情は、親日に傾いていた。

 

前大戦のこともあって、もとより東南アジアの各国からの日本への信頼は厚い。

 

そして噂レベルであるが、大東亜連合内でも第三世代機の開発が研究されているという。

 

日本侵攻、そして明星作戦の際にも増援を送ったかの国々と日本の繋がりは強固なものとなっている。

 

だが、間に合わないだろう。上総と操緒の共通の見解であった。佐渡ヶ島ハイヴより侵攻してくるBETAの数は、確実に増えている。

 

上総が昇進する切っ掛けとなった、中隊長が戦死した理由も、想定以上の数のBETAが攻めてきたからだ。

 

不知火の配備数が増えることは嬉しいニュースではあるが、場を打開する決定打には成り得ない。

 

ハイヴ攻略に必要な戦術機の数は、それだけに多いのだ。

 

 

「質を上げる方法も考えたが………不知火・壱型丙だけではな」

 

 

壱型丙とは、不知火の改修機だ。だが当初の機体は、無理な機体バランスが目立つ上に操縦性が悪く、燃費も悪い機体だった。

 

BETAの数は多く、長期戦を想定できない機体など運用できる場面が限られ過ぎる。そういった意味で、壱型丙の改修は失敗として捉えられていた。

 

大東亜連合の協力によりいくらか改善はされたらしいが、それでも燃費の点しか効果的なものはなく、操縦性の悪さもいくらかマシになったと言える程でしかない。

 

二人も、壱型丙が活躍している場面は何度か見たことがある。だが、そこで話が終わるぐらいであった。

 

おびただしい数のBETAを前に、この機体で戦えると豪語出来ると本心より断言できるものなどいないだろう。

 

ネガティブな意見ばかりが飛び出す。それに気づいた操緒は、ため息をついた。

 

 

「敗北主義者と蔑まれるかもしれないが、やはりな」

 

「ええ………建前ではなく、勝利できるとは言い難い状況ですわね。実際、佐渡ヶ島の戦場ではそういった空気を………軍内の不安を払拭しきれていませんでした」

 

 

心配性だと言われるかもしれない。臆病者だと笑われるかもしれない。だがそれだけに、1998年7月7日よりの戦いは重くのしかかっている。

 

国民はおろか、軍人までもがだ。そして帝国軍人には、憎むべき存在があった。原因を担った外部的要因と、未だに残る忌まわしき場所がある。

 

明星作戦の目標であった、横浜ハイヴ。そこにある“国連軍”横浜基地。厚顔無恥とも言える物言いをした国があるのだ。

 

唯依はそれらを承知した上で、問いかけた。

 

 

「では、外国産機を取り入れるという方針は反対ですが」

 

「基本的にはな。国家に友人は居ない、ましてやこのご時世だ…………大東亜連合であれば、心の整理はつけられるだろうが」

 

「同意しますわ。米国の戦術機であれば論外と斬り捨てますけれど」

 

「山城中尉、それは言いすぎだ。せめて表向きは納得しましたという表情を見せろ………敵の背中は無防備な方が良いだろう?」

 

 

操緒が獰猛な笑みを見せ、上総が頷いた。

 

それを見ていた唯依は、複雑な気持ちになる。

 

 

(………やはり、米国を憎む声は)

 

 

一方的な条約破棄、日本からの撤退。そして戻ってきたかと思うと、許可を取らずに新型爆弾を投下した。

 

挙句に返ってきた答えが、“あのままじゃ負けていたんだから、逆に感謝してもらいたいものだ”というものだった。

 

唯依も、そのままに返ってきた答えであるとは想わない。感謝云々は、悪意が上乗せされた意訳ではあろう。

 

だがそれを真実だと思いたいという傾向がある程に、国内での反米感情は高まっていた。

 

他ならぬ唯依自身も、あの作戦で多くの同僚を失っていた。上総も操緒も、それは同様である。

 

 

(だが………)

 

 

唯依は一週間も前に通達されたこと。尊敬すべき人からの言葉を思い出していた。

 

シミュレーターで電磁投射砲の試験を行い、終えた後だった。唯依が呼ぶ、叔父様――――巌谷榮二が自分に会いに来たのは。

 

話は唯依が進めている電磁投射砲の開発、改善。そして同じく改善が進められている不知火・壱型丙の話になった時に、教えられたことがあった。

 

軍上層部の中で話されていた、現状を打破する方法を。それは、前線を支えている戦術機のことを。

 

耐用年数が続く撃震。次世代機との中継ぎには、どの機体をあてるか。

 

刻一刻と悪化していくという佐渡ヶ島の戦場を思うに、猶予は残されていない。外国産機を導入するという意見もあったが、唯依は強く反発した。

 

上官の言葉を遮る形でまで、意見してしまった。身内に近い人であると、無意識に甘えてしまっていた自分を恥じたが、それ以上に納得できないものがあった。

 

日本には、日本の戦術機がある。先人達が磨き、海外で戦った衛士達、そこに他国よりの戦術も一部取り入れて研磨した誇るべき技術がある。

 

それに、日本より技術力が低い国の戦術機を受け入れても意味がないのだ。

 

かつての74式近接戦闘用長刀のこともある。F-4ショック――――日本に配備される予定だったF-4が後回しにされた事件のことも。

 

欧州もソ連も日本と同様に厳しい戦況に追い込まれているのに、どうして土壇場で裏切られないと思えるのか。

 

可能性がある国々の中で、余裕を持っているであろう米国は心情的・信条的の両方の理由から認められなかった。

 

矜持もなにもないかの国のこと、また繰り返す可能性の方が高いのだ。

 

そう主張した唯依に、榮二は笑った。まだ結論は言っていないと、唯依は自分が先走って勘違いしてしまった事に気づき自省するも、笑い飛ばされた。

 

父様にそっくりで、すぐに自省する癖があると。

 

 

(以前に、父様からも言われたな。そういう所は似てほしくなかったと)

 

 

唯依は機密レベルが高い極秘の開発計画に参加している父・祐唯とは、ここ1年は顔を合わせていなかった。

 

母にだけ顔を見せている。そして唯依は、母の心配する声を聞いていた。

 

目に見えて痩せていると。榮二からは、瑞鶴のことを悔いているのだろうという言葉を聞いた。

 

その父こと篁祐唯と巌谷榮二は今も国内の戦術機開発の関係者からは伝説扱いされていて。その二人からの、意見があったのだ。

 

頼みたいと、告げられたことがある。

 

外国産機の導入は論外だ。壱型丙を改善できれば問題は解決できると、そう考えていたからこそ開発に心を注いで来た。

 

何よりも、京都からの恥を雪ぐため。これ以上負けて、国民を死なせないために。

 

その意見を取り入れた上での、提案だった。

 

命令は、国連軍に転属し、アメリカ合衆国アラスカ州、国連太平洋方面第三軍、ユーコン陸軍基地に赴任すること。

 

クラウス・ハルトウィック大佐指揮下で進められている、各国間の情報・技術交換を主目的とした国際共同計画である『プロミネンス計画』に参加し、日本帝国の開発主任として『XFJ計画』を推進するという内容であった。

 

 

(………日米。いや、日本と一企業が共同して行う、壱型丙改修計画)

 

 

不知火のベースモデルでもあるF-15Jを開発したボーニング社に協力を受け、彼らが持っているノウハウを活かした上でより良い改修案を完成させるということ。

 

他国の手を借りない、いざという時の裏切りに怯えることもない。その上で一部を他国に頼らざるを得ない状況で、国内のリソースを使わず、機種転換の遅延と行き詰まっている佐渡ヶ島の戦況を変えることができる方法。

 

考えれば考えるほど、それ以外の方法が無いように想われる。

 

だが、ボーニングは米国の企業である。つまりは、背後には必ず米国があるということだ。

 

反論するが、不知火改修の手詰まりの理由を出された唯依は二の句を繋げることができなかった。

 

世界初の第三世代機。聞こえはいいが、可能とした理由の一つに、自国だけで何とかしようとしたこと。

 

無理を重ねた上で、機体にある“遊び”を殺してしまったこと。F-4ショックにより国粋主義に傾倒した上層部・技術者が、改修案を難しくさせている。

 

一理だけではない意見を受け入れられない程、唯依も愚かではなかった。そして、恥じ入ることが増えた。

 

 

(父様はあの戦いで瑞鶴を………叔父様も帝国軍人だ。かつての部下達が、明星作戦で戦死したと聞かされたのだ)

 

 

個人として、思う所無いはずがない。目的のためにと、表情にすら出さずに国を守る方法を模索し続けている。

 

 

そうして、どのぐらい考え込んでいたのか。唯依は気づけば二人に見つめられていることに気づいた。

 

はっとなって、謝罪する。一体何を話していたのか、耳に入っていなかったのだ。

 

慌てた様子をし、また反省する唯依に操緒は苦笑した。

 

 

「必要ならば、受け入れるさ。例えそれが苦すぎる毒であれ」

 

「橘大尉………」

 

「欲しい物と手に入る物は、いつだって違う。だけど、それは私自身の我侭に過ぎない」

 

「大義のためであれば、個人の感情は無視されるべきと考えられるべきですか」

 

「それで組織が成り立つのであればな。むしろ、そういった事ができないからこそ、人類はここまで追い詰められている」

 

恥ずべきことだと、操緒は言う。

 

「だが………それも、見方による。両目で見えるのはあくまで眼前のみ。地平線の果てで何が起きているのか、知らない事の方が多い」

 

操緒は言った。人は人によってしか変わらないと。

 

その言葉の中には、経験談と思わせる重さがあった。

 

「知ることで、何かが変わるかもしれない。その上で………前線で戦う者の1人として、宜しく頼みたい」

 

何を頼むのか、それも告げずに。言葉を引き継いだのはもう1人の衛士だった。

 

「そうですわね………部下を無駄に殺すよりも、と考えてしまう時はあります。失った者に、言い訳をするのが最低な行為であるとも」

 

「…………上総」

 

帝国軍人としての誇りはある。許せない者も。だが、本末転倒という言葉があるのだ。

 

何を捨て、優先すべきなのか。それはいつだって、責任と立場のある者が抱える命題であった。

 

「細かい事は聞かないわ。ただ………志摩子達に誓いなさい。何をするのであれ、中途半端なことだけは許しませんことよ?」

 

「ええ」

 

 

唯依は力強く頷いた。そうだ、自分はもう任務を受けたのだ。

 

反対もせず、やり遂げると決めた。

 

 

「このままでは駄目な事が分かっている。勝てないかもしれない、絶望の未来が待っている………だからこそ、貴方が変えに行くんでしょう?」

 

 

暗い未来を晴らしに、辛い道を進むと決めたんでしょう。そうあって欲しいとの、それは希望だった。

 

そして、上総は告げた。

 

 

「唯依は知ってる? あの――――赤い武御雷のことを」

 

「………ええ。御堂中佐より聞かされたことがあるわ」

 

 

それは伝説であった。明星作戦の直後に発見された、G弾の効果範囲内に剣を突き立てて仁王立ちしていた試製の武御雷があったのだ。

 

他の機体よりも遥かに損傷の少ないそれに秘められた実戦データは膨大で。今になって正式配備された武御雷の開発過程で、大いに役に立ったという。

 

だが、それよりも遺された言葉が胸をうった。

 

 

――――みんなが死ぬ未来なんて、絶対に認めない。

 

 

G弾の爆発の直前に告げられたその言葉、ノイズが酷くて誰の声かも分からず。

 

それでも聞くだけで勇気が湧いてくるような、意志と力に溢れていたという。

 

 

「私はそれを聞いて………どうしてかしらね。負けられないって思った」

 

「ええ。負けたくないって、気持ちになった」

 

 

だからこそ、と。

 

 

「いってらっしゃい。一介の衛士が何を言うのか、と笑われるかもしれないけれど」

 

 

最前線は私達に任せてちょうだいと、旅の無事を祈る敬礼が上総と操緒から成されて。

 

唯依はそれに答えて、自分ができるかぎりの最大の敬礼を返した。

 

 

 

 

 

 

 

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「へっくしっっっ!!」

 

「きたなっ! ちょ、アンタ!」

 

「痛えっ!?」

 

べしりと頭をはたかれた男が、痛みに声を上げた。その鼻の先にはわずかな鼻水が、残りはくしゃみをした先にあった書類にくっついている。

 

「あーもう、ティッシュティッシュ………ってアンタが拭きなさいよ。ていうかそもそも迂闊すぎるのよ。私を苛つかせる事に関しては天才的な男ね」

 

「いやあ」

 

「ひとっつも褒めてないわよ。鼻も悪いようだし、耳鼻科にいったら? なんなら私が紹介してやるわ」

 

「耳の奥にある脳味噌を弄くられそうなので遠慮しておきます。それより、夕呼先生」

 

 

ちーんと鼻をかむ男――――白銀武は目の前の白衣の女性に、イラツキの原因であることを尋ねた。

 

 

「例の件について、下準備はできましたか」

 

「概ねの所はね。まだ残っている大きな問題は、どうにもできないけど」

 

「あー………そっちは誰にもどうにもできませんよ。きっと企みを組み立てた張本人であっても」

 

 

遠い目をする武。そこには、今より始めることの他に、含まれたものがあった。

 

それを知っている夕呼は、仕返しとばかりに邪なる笑みを浮かべた。

 

 

「なに、やっぱり207B分隊のことが気になるの?」

 

「ええ………割り切ったと思いたいんですけど、その……やっぱり色々と怖いものが。後のこととか、具体的には考えたくないぐらいに」

 

「本当に罪な男ね。いえ、悪い男と言った方が正しいか」

 

 

数え上げればいったい何人になるのかしらねえ。皮肉げに笑う夕呼に、武はより一層気が重くなった。

 

 

「あー…………それで、崇継様に連絡は取れました?」

 

「自称サラリーマンの話によればね。殿下の方はまだまだ、報せる訳にもいかないでしょう」

 

 

武はそれを聞いて、安堵した。これで、まだ知らない人の中で、一番に伝えたかった人には伝わるだろう。

 

 

(同時に、色々と布石を打っているんだろうけど)

 

 

武は目の前の女性のことを、恐ろしいと思った。あっちで一年、こっちでも半年以上。

 

散々に付き合わされた経験は伊達ではなく、悪魔のような判断力は心底敵に回したくないと思わされる程だった。

 

 

「伊隅と碓氷の方にもね。シミュレーターに突如現れる謎の機体はしばらく休業、って言っておくわ」

 

「ああ良かった。プライドを壊す作業はこれで終了ですね」

 

 

それは仙台基地にも現れた事のある、シミュレーター訓練中に突如現れて中隊を蹂躙する怪物の話だ。

 

技量が上がり、少し天狗になった鼻を折るどころか唐辛子を塗りつけて染み込ませて悶えさせる、隔絶した技量を持つ者。

 

プライドを盗んで返さない、A-01にとっては不倶戴天の敵とされていた。

 

未だに正体は不明。珍妙な機動で蹂躙する様から、新種の宇宙人ではないかという噂がまことしやかに囁かれている。

 

 

「まあ、成果次第ではあることないこと含めてバラすけどね」

 

「やめて下さい」

 

 

武は本気で命の危険を感じて、懇願する。

 

夕呼の悪乗りを受け入れた自分にも責任はあるのだが、割と真面目に武は洒落にならないかも、と不安を感じていた。

 

 

「それよりも…………私がアンタの無茶を許す理由。まさか、忘れていないわよね?」

 

「………どっちかっていうと、夕呼先生にも必要な事なんだけどなあ」

 

「それもわかってるわ。非常識で、今でも納得いってないけどね。でも………アンタと同じ天秤に載せられる程じゃない」

 

「理解していますよ。見返りも………あそこで手に入れなければならないものも」

 

 

武も、非常に難しいことは理解していた。かつて世界を2つに割った両国を、だます必要があるのだから。

 

 

「必要な材料は手に入ってます。あとは、伸るか反るかですね」

 

「現場で気張りなさい。でも、分かっているとは思うけれど」

 

「はい、無謀な真似だけはしません。死んでいいなんて、そんな甘えた気持ちで行くつもりならその前に殺されそうだ」

 

 

何をしてでも生きて帰ってくる。夕呼は決意を示した男、その瞳の奥にある強い炎を見ると頷きを返した。

 

 

「平時とは違いすぎるわ。周囲に味方はいない、そう思って騙し続けなさい。利用できるものは利用しなさい。そして…………忘れかけたのなら、思い出しなさい。アンタが死んだら、後を追って死にかねない娘が3人居るのを」

 

「忘れませんよ。理解してます。俺だって、これ以上あいつらを傷つけたくありません。でも――――」

 

 

武は思う。運命は度し難い。出会いも別れもいつだって急過ぎて、時間が流れるのは本当に早い。

 

神様とやらが居るのなら、それは他人の気持ちが読めない鈍感な奴なのだろう。

 

こちらの都合などおかまいなし。時には糞を擦り付けて、それがどうしたと笑いながら去っていく。

 

無慈悲で、無邪気に、無造作に。人と人の間を弄っては変えてしまう悪魔のような存在だ。

 

それでも時には、人知の及ばぬ事態を引き起こしてくれる。

 

ひょんな所で予想外の人物が。その縁を作ったのが業深き人間であるのだから、世界というものは分からない。

 

暖かいものがあると信じて。偽りではなく、その中でも確かに存在するモノがあった。

 

 

「………約束があるんです」

 

 

やらなければならない使命と、やりたい事が重なる事が本当に嬉しくて、涙さえ出そうになる。

 

 

「それに、これは必要なことです。行かなければ、百倍の死人が出かねないから」

 

 

成功すれば、目的を達成できる難度はグッと下がる。それができなければ、それこそ賭けになるのだから。

 

 

「留守の間は頼みます。あのムッツリ野郎のことも」

 

「前者は言われるまでもないけど、後者は盛大に歓待しておくわ。アンタは目の前の事と、帰ってきた時の言い訳でも考えておきなさい」

 

「了解です」

 

 

武は唯一夕呼にだけは、敬礼をしない。夕呼も、敬礼を求めない。

 

形だけのものより、もっと重たい繋がりがあるから。

 

 

「――――1人で逃げるんじゃ無いわよ、共犯者さん」

 

「――――その選択はもう済ませましたよ、聖母様」

 

 

確認の意図を篭めて、嫌味の応酬を交わす。

 

それが約束を果たす場所に向けて発つ男の、餞となる儀式であった。

 

 

 

 

 

 

 

◯ ● ◯ ● ◯ ● ◯ ● ◯ ● ◯ ● ◯ ● ◯ ● ◯ ● ◯ ● ◯ ● ◯ ● ◯ ● ◯ ● 

 

 

 

 

 

 

 

荷物を整理しながら、男は考え込んでいた。

 

浮かぶのは亡き上官の顔。今では会うことのできなくなった、数少ない尊敬できる人物の姿だった。

 

初対面で自分の顔を見て、何の嫌味もなく敬礼を返してくる程には。

 

「ユウヤ!」

 

「………ヴィンセントか」

 

 

他の人間であれば、困ったことになっただろう。ユウヤはどこか他人事の様に、自分の事を観察していた。

 

今更言うまでもなく、スヴェン大尉は敬愛すべき上官だった。失ったことで、原因足る自分を私刑にかけようとする者が出るぐらいには。

 

だが、彼は死んでしまった。あれはテスト外だった。

 

機体の性能限界を試そうとしていた自分の後を追った挙句に、崩れ落ちた大岩に潰されてしまった。

 

 

(………死体を見せられることはなかった。だけど、大尉の家族はどう思うんだろうな)

 

 

死亡した前後は色々とあり過ぎた。ユウヤにとっては宿敵と称する以外の何者でもない、レオン・クゼとの殴り合いもあった。

 

今でも傷は治っていない。表面上の傷は塞がっているが、それだけだ。

 

頬の中、喉の深奥に潜む痛みはジクジクと。まるで自分のしでかした事を責めるように奥へと浸透してくる。

 

 

「おい、ユウヤ?」

 

「大丈夫だ………何でもねえよ」

 

 

私物は多くない。戦術機だけに打ち込んできた自分だ。必要な物以外は全て削ぎ落とした。

 

休日もなく、開発衛士として打ち込んできたのだ。

 

立派な米国の市民と認められるため。祖父の怒声の対象に、周囲からの非難の対象に、名家の息女失格の烙印を押された母のために。

 

だが、母は死んでしまった。何も返せないまま、2年前に突然に死んでしまった。

 

心労が祟ったのだと、母の兄、一応は伯父である人物が言う。

 

その他にも言葉を向けられていたが、それ以外には覚えていられなかった。

 

 

胸中は雨が。視界を塞ぐ程の大雨が。

 

 

――――何のために?

 

脳裏に潜む客観的な自分が、目を背けたい事実より言葉を発して来る。対する答えは、未だ持てていない。

 

 

(………命を賭けるその理由、か)

 

 

改めて思う。捨てるに惜しいものなど、本当になかったのだと。

 

 

(持っていくものは、お袋の写真と…………それだけだな)

 

 

過去に一度だけ。映っている母の写真は、少し影があり、困りながらもわずかばかりに楽しそうであった。

 

 

「おい、どうしたユウヤ? まさか腹でも下したんじゃねえだろうな」

 

「言ってろ。問題ねえから、さっさと行こうぜ」

 

 

ぶっきらぼうに、悪態を含めて。背中に後悔を残しつつも、余人には決して悟らせずに。

 

渦中たるユーコンに赴くユウヤ・ブリッジスの旅立ちは、たった1人の随伴に支えられた、寂しいものであった。

 

 

三者三様の、けれども空には太陽が。霞んで見える月の下で、静かに舞台の幕が上がろうとしていた。

 

 

 


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