Muv-Luv Alternative ~take back the sky~ 作:◯岳◯
時系列的には3.5章の現在と同じぐらい。
アルジェリアの空の下。シルヴィオ・オルランディはその四肢を失った場所を、夢で見ることがあった。
友を失った場所だった。レンツォという名前。
何度呼んだのか、数えきれないぐらいに近く、いつも。
兄貴分であった、家族であった、彼と共に戦った。
βブリッドという人間の所業ではない悪魔の研究を終わらせるために銃を取り、そして敗れた。
正確には、歯牙にさえかけられなかったのだ。挑む前に悟られ、残ったのは研究用に囚われていたBETAだけ。
無様に失うことしかできなかった、因縁の場所だ。
シルヴィオは、何時いかなる時でもその事を忘れていない。
愚か故に失った。イタリア半島の南端。遠ざかっていく家族。
手を伸ばしても届かず。
力を得たと思って、解決できると、思い違いだった。
現実は圧倒的に強くて。祈りを携えて伸ばした手は千切れて、届けと背伸びした脚は引き裂かれた。
生き残って、機械に変わって、それでもまだ遠く。
夕焼けは、シルヴィオ・オルランディの脳裏を焦がし続けていた。
――――2001年、9月。
欧州連合に所属するシルヴィオ・オルランディは、ある場所に居た。
自ら訪れた場所だ。そこで、ただ目の前の光景に圧倒されていた。
βブリッドの最先端の研究が行われているという横浜基地に潜入したのだが、そこは想像していた場所と全く異なっていたのだ。
欧州連合の衛士強化計画の研究成果が活かされた肉体は、常人のそれとは比べ物にならない。
その能力を持つが故に世界中を飛び回ったこともある彼だが、現在の目の前の状況は今までに経験したそのどれとも異なっていた。
香月夕呼副司令直属の部隊として紹介された、目の前に並んでいる女性6名。
全員が国連軍のC型軍装、それに何やら未来の方向にアレンジが加えられた服を身にまとっていた。
1人は、置いておこう。
隊長補佐だという女性、碓氷沙雪。階級は大尉らしい。
胸部の装甲は並程度だが、全体的にバランスが良く、何よりその明るい水色の髪がC型軍装に加えられたアクセントとマッチしている。
シルヴィオは何やらほのかに赤い顔でこちらを睨んでいるのが気にかかったが、それもまた良しという言葉を噛み締めていた。
隣に居る人物というか、物体をちらちらと見ているのだが――――シルヴィオは、取り敢えず置いといて、と隣を見た。
次に自己紹介をしたのは、伊隅みちる。彼女は碓氷大尉よりは大きく、香月博士よりは小さい、実に使い勝手のいいサイズを持っていた。
――――『みちるん』と呼んで、の後にハートマークでも付こうかという口調。それに対しては賛否が別れるだろうが、まあ女性だった。
周囲の空気も凍ったが、痛ましい事故として忘れることにした。軍人だからして、多少の奇行は見逃すべきだ。
シルヴィオは日本文化とキリスト教文化圏の違いを学べたと、ポジティブに考えることにした。
次に、風間祷子少尉。日本美人らしい彼女は、初めて見るタイプの人間だった。
奥ゆかしく、オリエンタルな雰囲気を纏う彼女は欧州で出会ったどの女性とも異なった魅力を感じる。
可憐、という言葉が正しいのだろう。接したことのないタイプが故にそのような安直な言葉しか返せなかった自分をシルヴィオは恥じた。
次に、宗像美冴中尉。他の3人とは異なり、声は平坦。だがミステリアスな雰囲気を持つ美人で、シルヴィオは思わず紹介の言葉を脳内に録画してしまった程だ。
この録画とは、サイブリッド化された時に得た機能である。シルヴィオはそれを使い、紹介の言葉を何回もリフレインさせた。
どこか、面倒くさそう―――とは違う、憂いを帯びた深い湖畔を思わせる瞳。
奇妙さもあるが、根底にあるのは言いようのない闇だろうか。シルヴィオは、友・レンツォが生きていればどのような相手を案内役に選ぶのだろうか。
そう考えた上で、結論を下した。
下したかった、と言った方がいいかもしれない。シルヴィオは何やら頷いているスパイフィルターの少女を見ながら、視界の端に映るものを無視した。
両端には、異端が存在した。
(まず、左端…………ブラジル?)
紹介がある度、彼女達に向かって“切れてます!”と元気に発言していた明るい髪を持つ女性。
シルヴィオはお前の方がキレてるよ、と思ってはいたが、触れたら厄介な事態に陥りそうなため、あえて紹介を省略させた。
『あたし一体なんのために』と落ち込んだ声も聞こえたが、触れぬ方が優しさだと感じたのだ。
(そして、右端………隊長だが)
シルヴィオはその人物に見覚えがあった。否、この場に於いては見覚えていたくなかった。
諜報員の中で、売れている顔というものがある。いうまでもなく、世界的に重要な人物であるという証明だ。
その人物は、女性顔だった。骨格もそうであるらしい。少なくとも、今は“そう”見えている。
加えていえば、腰元まで伸ばされた髪と顔と服が非常にマッチしていた。
「………少佐」
「なんでしょうか」
声も高かった。いかにも女性らしい。
シルヴィオは、更にたずねた。
「その服、どう見ても“キモノ”とやらに見えるのですが」
「はい。C型軍装のバリエーションの一つです」
「そうですか………」
シルヴィオは『原型ねーだろ』とツッコみたかったが、止めた。ついでに、女性隊員達の後ろに控えていたドクター香月が腹を抱えて小刻みに肩を震わせていたが、見ないフリをした。
慈悲というものが存在するならば。許しというものがこの世にあるならば、と。
収拾がつかなくなることを恐れたというのもある。ツッコミ所は激しく満載であったが、それをいうならブラジルのサンバのカーニバルな衣装を着ているもう片方の端っこの少女も同じだからだ。
だが、この場においての最も大きな問題はそこではない。見るべきは、着ている人物の方にあった。
「少佐は…………紫藤樹、ですよね。元、クラッカー中隊の」
質問に返ってきたのは、力ない死人のような首肯だった。
「………魔境だな。何があるのか分からない」
シルヴィオは充てがわれた部屋の中で、呟いていた。
思わずここが現実の空間か、と疑う程の衝撃だった。
果たして自分は夢の中に居るのではないか。疑ったシルヴィオは、今の自分の状況を反芻することにした。
自分は欧州連合情報軍本部第六局・特殊任務部隊『ゴーストハウンド』に所属するシルヴィオ・オルランディ中尉。
サイブリッド化された機械化歩兵で、普通の人間にはない様々な機能を持つように強化された諜報員だ。
この場所は、国連太平洋方面第11軍の横浜基地。
皮肉にも作戦の名前通り、堕天使の長という神から離反したものの象徴であるもの――――背徳的破壊をもたらした脅威、G弾の威力が世界で初めて現実のものとなった場所だ。
その上でシルヴィオは、自分の目的を反芻した。
(目的は、オルタネイティヴ4………ドクター・香月主導の計画。その中で行われているという、βブリッドの研究の実態を暴くことだ)
ここ横浜基地では、後藤機関という研究機関があり、その中では最先端のβブリット研究が行われているという。
シルヴィオは欧州連合が掴んだその情報を元に、この基地に潜入したのだ。
建前は、香月副司令の護衛。戦闘能力なら機械化歩兵に相当する自分で、諜報任務に関する実績も積んだ自分ならば最適だとして、ここ横浜に異動させられたことになっている。
(あくまで、建前は建前。派手なことも出来ないが)
シルヴィオは上官であるゴールドメン局長から破壊工作を禁じられてはいる。
だが心の奥では、何としてもこの基地の裏の全てを暴き、白日の下に引きずり出してくれるという考えを持っていた。
並大抵ではいかないことは承知している。そも、この横浜基地は裏の世界で『無菌室』と呼ばれるほど防諜能力が高いことで知られているのだ。
原因は、1人の少女が居るからだった。
社霞。思考を読むというその能力を持つ少女、スパイの天敵とも言える存在だった。
(あの、クワガタの角か蟻の触覚か………いや、ウサギの耳か? あれで思考を読むのだろうか。それにしても、写真で見た時とは随分違った印象を受けたが)
数年前の写真だろうか、まるで全てをあきらめているかのような瞳。
希望も絶望も価値がないと、そう言わんばかりの色なき表情。シルヴィオが欧州連合の情報局で社霞の映像を見た時に抱いた感想だが、今日に会った彼女のそれとはまた異なっていた。
(本名は、トリースタ・シェスチナ………300番という名前を持つ、オルタネイティヴ第三計画の忌まわしき遺産、
BETAとのコミュニケーションという目的を元に進められた第三計画の結晶である彼女は、今では対人類用のスパイフィルターとして用いられているという。
そして、シルヴィオがこの基地に潜入することを許された理由でもあった。
社霞が持つリーディングという能力は、シルヴィオの脳髄を覆っているハイパーセラミックで防ぐことができるという。
ソ連から亡命した元第三計画の研究員のお墨付きであり、これが無ければ無菌室の名前の通り、超人的な身体能力を持つ人間でも黴菌のように排除されてしまうことだろう。
さりとて、油断が出来る場所ではない。そこでシルヴィオは、まず部屋の中を“洗う”ことにした。
盗聴器の類があってもおかしくはない。そう立ち上がった時に、ノックの音が。
シルヴィオはいきなり自分を訪ねてくるという事態、そしてタイミングを訝しく思ったが、入室を許した。
まだ捕まるような真似をした訳ではないし、たとえ強引な手段に出られようとも対処方法はある。
そうして、入り口が開き入ってきたのは先ほど言葉を交わした人物だった。
「どうした、宗像中尉」
先ほどの茶番という名前の悲劇の後に、案内役を頼んだ女性だ。
それでも、案内は明日からのはず。
シルヴィオは訝しんだが、次の瞬間には驚愕した。
いきなり、ベッドの上に押し倒されたのだ。
「なっ、宗像中尉………これはどういう――――」
ここまで熱烈なアプローチは、と言おうとした時だった。
動かないで、と一言。そうして、美冴は押し倒した先、悩ましげな声を出した後、ベッドの上の枕の裏側に手を入れた。
「―――盗聴器よ。貴方も、早く部屋を洗って」
「それじゃあ、テープレコーダーは?」
「無事、設置できました。今頃は明日のために準備していることでしょう。私が欧州連合の情報員であり、現地の潜入協力者であることも………」
横浜基地のブリーフィングルームの一室で、香月夕呼と彼女直属の部隊であるA-01に所属する衛士達が集まっていた。
とはいえ、全員ではない。作戦の人員として駆り出された6人だけだ。
「欧州連合から与えられた情報通りの暗号が効いたようですね。確証はありませんが、ある程度の信用は得られたかと」
「予定通りにコトは運んでいる、っと。まあ、及第点と言っておきましょうか」
夕呼は部屋に居る人間の顔を見回しながら、口元を緩めた。
その中の二人はどう見ても尋常な様子ではなかったが。
「あの、副司令。今日の人員についての質問が………」
「ああ、紫藤を参加させたこと? それとも涼宮妹のこと?」
夕呼は、その問いは予想していたとばかりに答えた。
「相手の動揺を誘うために決まってるじゃない。いくら主導権のほとんどをこちらが握っているとはいえ、これは情報戦なのよ? 油断し、相手の判断能力を衰えさせる作業を惜しむのはバカのすることだから」
これから先、A-01はシルヴィオを案内する途中に意図した行動を取らせる必要があった。
美冴の案内の中で、シルヴィオにある反応をしてもらわなければ困るのだ。そして、その中では色々な不自然を織り交ぜる必要も。
「いい、宗像。人間、どうしたって第一印象が残るのよ。それが特徴的であればあるほど」
「それは………分かりますが」
美冴は、横を見た。元のC型軍装に着替え直した紫藤樹の姿を。
視線は遠く、壁の向こうにある何かを見ている。その目は控えめに言っても死んでいた。
「あっちも紫藤の顔は知ってるでしょうしね。でも、衣装の提案を飲んでくれて助かったわ~………本当なら、もう少し過激な衣装で、涼宮姉と速瀬も参加させたかったんだけど」
それに反対したのが、樹だった。嫁入り前の娘を、とか、難しい状況にある涼宮中尉と速瀬中尉を参加させるのは、などといった理由を並べて。
代案として出されたのが、あの格好だった。元々が女顔であり、骨格は着物で誤魔化せる。
その上で化粧まで施された紫藤樹は、誰がどう見てもA-01の女性隊員と同じレベルの美人にしか見えない外見になっていた。
「その割には楽しんでいたように見えたのですが………」
「息抜きよ、息抜き。それにせっかくだから楽しまなきゃ損じゃない?」
「………その度に胃が痛い思いをさせられるのは、避けられないんでしょうか」
地の底もかくや、という声を出したのは樹だった。
夕呼は、あら、と面白そうに言った。
「ようやく生き返ったの。でも、まだ顔色が悪いわね。ゾンビみたい」
「誰のせいだと思ってるんですか………くそ、あの写真が無ければ………っ!」
「社の方のアレ? なら、矛先が違うんじゃないかしら」
「楽しんでいたのは確かでしょう。というか、神宮寺軍曹まで巻き込まないでください」
樹は疲れた声で告げた。なぜなら、先日に見てしまったからだ。
ブラジルのサンバ衣装とは違う、C型軍装を少しアレンジした軍服のデザインを完成させるため着せ替え人形にさせられていた神宮寺まりもの姿を。
「聞く所によると、社まで参加させようとしていたとか」
「あら、可愛い服を着たい、って言われたからには応えるのが筋じゃない?」
「………いえ、それは分かるのですが」
樹と夕呼が話す。その内容に、二人と霞以外の全員が引っかかった。
A-01の面々は、社霞というロシア人らしき少女とはこれが初対面だ。他者の思考を読めるスパイフィルターと、夕呼から冗談交じりに紹介されたのが今日のことだった。
「あの………少佐。少佐は、彼女をご存知なんですか?」
「あ、ああ。まあ、知っているな。親しいとは言い難いが。それより、オルランディ中尉にはリーディングをブロックできると信じてもらえたのか」
「一応は………いえ、わかりません。禅とヨーガ、というものに説得力があるのかないのか」
美冴は欧州連合の手のものとして香月副司令に怪しまれていない理由、すなわち思考を読まれていない理由として、自分は禅とヨーガの心得があるから、雑多な念しか拾われないのだと説明した。
今は正式に部下になったので、リーディングをブロックする装置を与えられているとも。
「まあ、元々がな………それはともかく、社とは仙台に居た時からの知り合いだ」
樹は自分の知人が彼女と親しく、それもあって顔を合わせたことは何度かあると説明した。
仙台の訓練校を知る碓氷と伊隅は、そういえばと思い当たる節があったことを思い出した。
「銀髪の幽霊、なんてのが出るとかありましたね」
「ああ、基地の怪談の一つに………夜な夜な童女のような笑い声で基地を徘徊する少女で、目が合うと首を締められて、連れ去られるんだとか」
スパイフィルターの情報が、形を歪められて伝わったのか。
碓氷と伊隅の言葉に、樹は苦笑を返した。苦笑しか返せなかった、とも。
「ま、それはともかくとして………社の方も見てたわね。事前情報には、そういった特殊趣味があるって話はなかったけど」
「スパイフィルターとして怪しんでいたんでしょう………ちなみに、もしそういった趣味があれば?」
「あんたを護衛に、社を案内につかせるって案もあったんだけどね~。それでも、前情報通りでロリコンなら、ちょっと危ないわね」
「ああ、万が一があったら………怒り狂いそうですね、あいつは」
「そうね。まあ、大陸に居た時の知り合いらしいから半殺しで済ませるとは思うけど」
樹、夕呼、霞以外の面々が首を傾げた。あいつという人物は、シルヴィオと知り合いで、スパイフィルターの少女とも知り合いらしい。
それでも名前が出てこないのは、知るべきでないからか。訊きたい気持ちはあったが、軍人である全員はNeed to knowよりそれ以上詮索はしないことにした。
「ともあれ、これからが始まり。明日から頼むわよ、宗像………今更だと思うけど、注意すべき点は分かるわね」
「はい」
美冴は脳内で反芻した。傷痍軍人であった彼は、欧州の衛士強化プログラムによりサイボーク化――――サイブリット化している。骨格はハイパーセラミック、靭帯は戦術機と同じ電磁伸縮炭素帯。時速100kmで走ることのできる、生身では到底敵わない男だ。
「そういうこと。情報戦だからって、気ぃ抜くんじゃないわよ」
「―――了解です」
そうして、翌日。シルヴィオは早速情報収集に動くことにした。
横浜に来た目的である、後藤機関への潜入。それには基地内に散らばった4つの鍵が必要だと昨日のテープレコーダーで分かったのだ。
ヒントの文章は4種、4行。その最初の一つが、『生命の根源たる焔を宿す地、女主人の悲嘆が静寂に変わる時、我は姿を現さん』というものだった。
シルヴィオはこの言葉から、案内役兼協力者である美冴に自分の見解を告げた。
「生命の根源、焔は――――原子炉。女主人とは副司令だろう。このことから俺は、“基地の原子炉を破壊して副司令を殺害せよと”という意味に取ったのだが」
「――――は?」
「ふむ、中尉の賛同は得られたようだな。早速その段取りに………」
「い、いや待て! ………じゃなくて」
美冴は思わず素に戻りそうになったが、咳き込んで誤魔化した。
これが速瀬中尉なら、思わずゼロレンジスナイプが出ただろう。
美冴はそうしないだけ、自分が担当になった甲斐はあったと強引に納得することにした。
(というか、諜報任務の初っ端にいきなり基地そのものと計画の根っこを破壊しようという諜報員はいないだろう)
4行なのに3行しか無いじゃないか、という以前におかしすぎる。そんな事をすれば4つの鍵以前に、地獄の扉が開いてしまう。
諜報というより宣戦布告にしかならない。
さりとてこのままでは拙い。美冴はそう考え、多少拙い理論であっても、目的地に誘導することにした。
その目的地とは、食堂である。
美冴はシルヴィオと一緒に歩き――――道中で警備についている機械化歩兵から奇異の視線が飛んでくることを感じつつ――――やがて、目的地に辿り着くことに成功した。
生命の根源とは、人間が持つ三大欲求の一つである食欲。焔は調理の炎。そして横浜基地の食堂には、京塚という女性曹長が責任者を務める場所がある。
シルヴィオは欲求の一つに異論を唱えたが、協力者である美冴の間違いないという声を信じることにした。
「なにより、このサバ味噌定食の旨さはただ事ではない…………っ!」
それはシルヴィオをして、魚の煮込みならマンマのアクアパッツァが世界一という信仰を揺るがされる味であった。
魚の白い身と味噌と生姜が織りなす、絶妙な味のバランス。まるで合成食料とは思わせないそれは、食に煩いイタリア人の1人であるシルヴィオをして経験したことのない美味であった。
「なるほど、これが世界中に広まれば確かに…………香月副司令と並ぶ女主人とは、よく言ったものだ」
「ちょ、ちょっと落ち着いて。わかったから静かに食べてちょうだい」
「ああ、そうだな。すまない、あまりの旨さに我を忘れてしまった」
シルヴィオは鯖の味噌煮を味わいながら食べ、やがて食べ終えると同時に席から立ち上がった。
「し、シルヴィオ?」
「美冴、君の言葉に嘘はなかった。京塚曹長の腕は確かだ………だから、礼を言わなければな」
シルヴィオは世界各地を巡った時に、教わったことがあった。
それは、美味い料理を作ることができる人間は貴重だということだ。
その教訓を強く感じたのは、大東亜連合に潜入した時のこと。
合成食料の失敗作らしきものを、興味本位に食べた後に強く感じたのだ。
素材は悪くなかった。少なくとも許容範囲だった。だが、味付けが暴力だった。
味覚を殺そうかという気概を持つ調味料の暴力を、シルヴィオは忘れていない。
その信念を持つシルヴィオは、美冴が止める間もなく京塚曹長にお礼を告げた。
「マダム、礼を。久しぶりに人間の喜びというものを思い出した」
「おやおや、こんないい歳おばちゃんにマダムだなんて………って見かけない顔だね」
「シルヴィオ・オルランディ。イタリア人だ。欧州連合から、“視察”役として派遣された」
シルヴィオの自己紹介、それを効いた京塚曹長はそういえば、と先ほどトレイを2つ持っていった美冴の方を見た。
「祷子ちゃんと一緒じゃないのは珍しいと思ったけど、こういう事だったのかい?」
納得いった、という顔をする。美冴はそんな曹長の言葉に、辿々しくも返事をした。
「そ、曹長は何か勘違いをして………いるわ」
「あら、女の子らしい。純奈ちゃんとも話してたけど、女の子は男で変わるもんだねえ」
からかいの言葉に、焦る美冴。そうして京塚曹長は、シルヴィオの方を見た。
「軍人のくせに細っちいねえ………ってあら、見かけの割には良い身体してるね。あの子と同じで、極限まで引き絞られてるっていうのかい?」
「毎日の鍛錬は欠かしていませんから。あの子、というのが誰かは知りませんが、きっとその男も同じでしょう」
貴方の食事があればこそ、毎日頑張れたのでしょう。シルヴィオの言葉に、京塚曹長が照れくさげに笑った。
「イタリア人らしくて口が上手いねえ………と、あたしゃこんなことをしている場合じゃなかった」
「マダム、焦っておられるようですが………何かトラブルが?」
理由を聞かれた京塚曹長は、この基地で起きたガスのトラブルについて説明した。
別の場所にあるPXでガストラブルが起きて、そこを利用していた人達が別のPXで食事を取ることになったという。
そして、それはこのPXも同様で、これから通常より多くの食事を作る必要があると。
「純奈ちゃんはあっちの応援に行ってるし、ねえ。あたしだけで200は、ちょっとどころじゃなくキツくて」
「に、200………? 話では100だったはずじゃ」
「ん、話?」
「いえ、なんでもありません!」
「まあ、いいさね。無茶でも通せばいいだけさ。さってと、材料を取ってくるかね」
無理無茶無謀でも、泣いてばかりじゃ始まらない。
そう言わんばかりの背中は、シルヴィオをして頼もしいという答えしか出てこない見事なものだった。
「ガストラブル………テロ、というのは考え難いか。よし、美冴。俺は調理を手伝うことはできないが――――」
「力仕事なら手伝える、ね。分かった。調理の方は任せてちょうだい………それにしても」
「うん?」
「提案する前に手伝おう、って。こっちも時間的に余裕があるわけじゃないのにね?」
少し意地が悪い質問。シルヴィオは、迷いながらも答えた。
「………あいつならば、困っている女性を放っておかなかっただろうしな」
思い浮かぶのは、アルジェリアで死んだかつての友。兄貴分でもあった、レンツォという親友。
「それに、力仕事には自信があるからな」
その時に失った左腕に両足。親から授かった身体を失い、代わりにと機械に入れ替えたこの身。
それを人を害するためではなく、助けるために役立てられるのならば、とシルヴィオは苦笑した。
「………分かった。ありがとう」
「礼はいいさ。ああ、でも運動の後は冷たいものでも食べたいな」
「わ………わわ、分かった。用意しておくわ」
そうして、一時間後。
200食の用意が終わり、別のPX達が移動してくる前に、シルヴィオと美冴は京塚曹長の礼を受け取った後、食堂を去った。
手には、鍵が。それでも、知らないことはあった。
“何故か”いきなり錯乱した横浜基地に務めていた1人の男が、A-01部隊の手により回収されていったことを。
同日、夜。A-01部隊と香月夕呼はブリーフィングルームで集まっていた。
男性陣は上の階級から、紫藤樹、鳴海孝之、平慎二の3人。
女性陣は上の階級から、碓氷沙雪、伊隅みちる、速瀬水月、涼宮遙、宗像美冴、風間祷子、涼宮茜、柏木晴子、築地多恵、高原萌香、麻倉篝の11人。
それに香月夕呼と社霞を加えてた、総勢16人が一室に集まっていた。
「それで、碓氷………決まり手は?」
「………タンクトップの上に、エプロン姿。汗ばんだ宗像中尉の口に、その、オルランディ中尉が………アイスクリームの」
「ストップです、副司令。これ以上は、その………」
「あら、アンタまで顔を赤くして珍しい」
夕呼は面白い、という感情を隠すことなく笑った。
「ま、一つ目は取り敢えずクリアね。それでも、これで終わりじゃないわよ………涼宮姉」
「はい。今日の反省会を行いたいと思います。その、副司令の意見から………男性陣であるお二人の方が良いかと」
「そうね~。紫藤はまあアレだから、次………鳴海、なんでもいいから問題点を挙げなさい。言っとくけど、なんにもなしとか言ったらアレだからね」
「あ、アレってなんですか?」
「言えないわねえ。でも、決して甘くはないとだけは言っておくわ」
未知こそが恐怖の原材料である。加えての、香月夕呼の底知れ無さ。
一方で、突き刺さる視線が二種類。言うまでもなく、涼宮遙と速瀬水月のものだ。
鳴海孝之はそれを前にして、どうすべきかと考えこんだ。
(何を言うべきか………下手を打てば死ぬ。それだけは分かってる)
退けば死、進むも危うければ死。孝之はそこで進むことを選択した。
「あの、伊隅大尉について………」
「わ、わたしか?」
「さすがに“みちるん”ってのは無いかと、ってひぃぃぃっっ!?」
「ちょ、大尉! あくまで参考意見ですから、落ち着いて!」
「いやでも、あれはあれで意図が分からなかったわ………伊隅?」
突撃砲があれば躊躇なくぶっ放しそうな眼をしている女、伊隅みちる。
彼女は夕呼の言葉と後輩の説得によりなんとか落ち着くと、誤魔化すように叫んだ。
「あ、あれは! そう、緊張と方向性が噛み合わなかった事故、そう事故なんです!」
必死の弁明。それを聞いた全員が、事故という単語に頷いた。
「うん………それに、あれは事故だったよね。それも衝突事故」
「ていうか、大事故?」
「不幸中の幸い、だよね。別の二種類のインパクトがなかったら、それだけで意識もってかれてたかも」
「貴様ら………声は覚えたからな。柏木、高原、麻倉。明けての訓練、覚えておけよ」
ドスの効いた声。まだ新人である名指しの3人が、顔を青ざめさせた。
「はいはい。収拾付かないから、次――――平は、どう? というより、成功の秘訣とか分析するべきじゃないかしら」
平慎二は内心で叫んだ。キラーパス、と。それを示すように、宗像美冴の顔は真っ赤だ。
だが、彼には責任があった。
男心を暴走させる要素は何か、と問われた時に意見を出したことがあったのだ。
そのレベルは三段階に分けられているが、可能ぎりぎりな範囲の中に、裸エプロンか、それに準じた格好と。
それにバニラアイスクリームを組み合わせたら落ちない男は居ない、と。
「………孝之」
「大丈夫だ、慎二。俺は信じてるから」
「っ、だよな」
「ああ。景気良く、1人で死んでこい」
「――――この野郎」
裏切ったな、とは声には出さない。そうさせる予感が、慎二にはあった。
というか、普通はするだろう。目の前の二種類の視線は、慎二をして戦慄に値する密度を持っていた。
物理学に感情という要素が密接に絡めば、それこそ10mm厚の鉄板をも蒸発させかえない程なのだ。
慎二は、その視線と、友人の震えを噛み締めた上で告げた。
「裸エプロンに、バニラアイスクリームの棒のコラボレーションは最高だ。その理論は、間違ってはいませんでした」
「………平中尉、貴方は」
変態を見るかのような女性陣からの眼、眼、眼。
それを前にして、慎二は言った。胸を張って、言葉を紡ぎ始めた。
「家庭、というものに憧れを持つ男は多い。このご時世ならばよほど。その象徴がエプロン………それに背徳のスパイスを。裸エプロンとは、そうした一種の志向兵器だと思っています」
「………続けなさい」
「その上で、バニラのアイスクリーム。食する、という行為に罪はない。アイス、食べる、個々には罪はないんですよ。だが、目の前で見れば分かる。男ならば連想せざるを得ない」
「つまりは、悪いことをしていない筈なのに、そのつもりになると」
「はい。意識的な背徳、潜在下での背徳、それが宗像中尉のミステリアスな美貌と、料理をした後にかいた汗にマッチした結果である」
そして、慎二は言った。
「――――って、孝之が言っていました」
「しっ!? しっ、しししし、慎二っ、貴様ぁ――――っっっ!?」
「信頼には信頼を。裏切りには裏切りを………俺の信念だ。残念だよ、親友」
「ちょっ、まっ、俺だけじゃなくお前も………はっ?!」
孝之はそこで重力を感じた。自分の身体に、不可思議に偏った重力がのしかかっているのだ。
右肩と、左肩に。そして孝之は、その発生源であろう背後を恐る恐る振り返った。
「………孝之クン?」
「孝之………この後、時間いいかしら」
「お、おう。いや、これはちがくてな?」
「分かってるよ。でも私、“俺だけじゃなくて”ってことが気にかかるんだぁ」
「ふふ、奇遇ね遙。アタシも、その部分はちょーっと聞き逃せなかったのよねぇ」
しまった、と言える暇もあればこそ。孝之は二人の視線を前にして、頷くことしかできなかった。
例えこの後にどのような悲劇が待ち構えていたとしても。
「あー、三人共そういうのは後ね。なんなら空いてる部屋貸したげるから、そこで一晩中しっぽり話し合いなさい」
「いや、そういった方向の燃料投下は………いえ、なんでもありません」
「分かったのなら良いわ。それより、成果に関しては何かある? ――――碓氷」
夕呼はそれまでと同じ口調で、意味ありげに話しかけた。
成果に関しては分かっている。何より、そのために欧州連合の情報員がこの基地に潜入することを認めたのだから。
そして、このタイミングでということは。碓氷沙雪は、溜息をつきながら答えた。
「事前情報は間違っていなかった、ということが分かりました。シルヴィオ・オルランディ中尉の能力は役に立つ。停滞工作員を………指向性蛋白を打ちこまれた人間を炙り出すことができる」
「そうね………打ち込んだ人間を、無自覚に操ることができる。果てはその体内に、超高性能な爆薬を作らせることもできる。だけど、蛋白質の一種だから、検査などではひっかからない」
ウイルスや細菌、ナノマシンの類ではないため免疫系の影響さえも受けない。
専門的な精密検査を受けないと、分からないのだ。
「悪魔より質が悪い薬だと思います。計画が本格始動する前に、それを打たれた人間を………衛士に混じっていれば、最悪のタイミングで事を起こされかねない」
だから、と碓氷は告げた。
「四国防衛戦の時のように、事を起こされないために。もしも、横浜に停滞工作員が居たら………あの時のように、“私の妹の腕と撃震1機だけで済むとは到底思えません”ので」
断言された言葉。それを聞いた面々の中、夕呼と霞と樹以外の全員が驚愕の表情を碓氷に向けた。
「だから………宗像。その、馬鹿らしい任務だと思うが、頼む」
“シルヴィオ・オルランディが性的興奮を覚えた時”。その時に、“周囲に指向性蛋白を打たれた人間を狂わせる電波を発する”。
指向性蛋白を打ち込まれた人間の脳に神経伝達物質のバランス異常を発生させる。結果、極端な感情増幅を引き起こすのだ。
「………分かり、ました。分かっています。それが最優先目的ですから」
指向性蛋白を打たれたのではないか、と思われる人物は無数だ。最も怪しい人間も居て、各所に数人が確認されている。
その中には、整備兵も居るのだ。
もしも自分の機体に細工をされていれば。そう思わせられるだけで、衛士の戦闘能力は低下してしまうのだ。
機体の状態を信頼できない衛士にできることは、たかが知れているものなのだから。
(それでも………引っかかるものがあるのは)
美冴は、その思いは口には出さなかった。
ただ、食堂での顔が。格好をつけた時の顔ではない。
迷わず手助けをすると言い出した後の、その時に苦笑した顔だけが脳裏に浮かんでは消えなかった。
―――だが。
「………ありま、せん」
小さい声。美冴はハッなって、その声の方を。
見れば、銀色の髪を持つ少女が見上げていた。
「道化じゃ、ありません………あの人は」
「え………」
「それだけ、です」
それきり、社霞はトテトテと歩いて夕呼の元にまで戻ると、珍しく苦笑していた夕呼に頭を優しく叩かれていた。
「………そう、かもしれないが」
否定する要素はある。だが、頷ける要素もあった。必要だからと、京塚曹長を助けるために動きまわった彼の思い。
それだけは、道化ではないだろうと。
(礼か、お詫びか………明日からの案内………少しだが、改めるのも良いかもしれないな)
事前情報通りに、好色のような――――それでも、それだけではない。
美冴は恥ずかしいと思いながらも、少し柔らかい態度で案内をしてもいいかという気持ちになっていた。
「神は天にいまし、全て世は事もなし――――か。アホくさいわね」
生まれた頃より祈ったことのない。
そんな彼女は――――香月夕呼は、悲劇と喜劇を肯定していた。
悲劇を誤魔化すことなどできない。滑稽な人間も、極まれば喜劇だ。
それでも――――それでも。
「神のみぞ知る世界の真理、人知に及ばぬ未来の
そして、平等だ。優しく、残酷で、等しく、風化を及ぼす。破滅の風は全てを塵に返していく。
「そんなしみったれた結末に用はないのよ…………待ってなさい、白銀」
反撃の狼煙、その最後の準備を整える
幼い頃よりずっと変わらず世界に挑み続けている1人の女は、地獄にしか存在しない鬼のように笑ってみせた。