Muv-Luv Alternative ~take back the sky~   作:◯岳◯

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エイプリルフールではお騒がせしました m(__)m

本当の23-3話、更新でございます。


挿入歌は『INSANITY/奥井雅美』も良いですが、

3.5章の主題歌でイメージしている『DREAMS/ROMANTIC MODE』も合うかも。


23ー3話 : 正気 ~ Insanity ~ (3)

武は自機が高速移動することによって作用するGを感じ、剣戟が響く音を聞きながらも、昔の事を思い出していた。

 

――――その少女に出会ったのは世界を渡ってしばらくしてからだった。戦死者が多く再編成中だという、オルタネイティヴ4直属部隊、通称“ヴァルキリーズ”。その予備隊員の中で唯一の男性衛士であるユウヤ・ブリッジスという日系米国人が居て、彼女、イーニァ・シェスチナはいつもその横に佇んでいた。

 

武はすぐに分かった。彼女も霞と同じ、オルタネイティヴ3により産み出された存在。ESP発現体なのだと。

 

笑顔が絶えない少女だった事を覚えている。ユウヤの横で、いつも彼女は笑っていた。衛士の腕は相当なもので、ユウヤのパートナーとして戦場で活躍していた。霞と仲が良く、頭の回転も早いということで、新型XM3の開発にも参加してくれた。それから、よく話すようになった。激務の中、一緒に飯を取ったこともあった。

 

『タケルは、寂しいの?』

 

誤魔化しのない質問。武は、素直に答えた――――寂しい、と。

 

彼女たちは人の嘘を好まない。取り分けイーニァは、負の感情を隠されることが嫌いだった。それでも、人の好き嫌いは激しいらしい。真剣に向き合わなければ、すぐに何処かへ行ってしまうような。だから、本音を吐露した。追求はなかった。武はその時は質問の意図が分からなかったが、しばらくして気づく機会があった。

 

雪の降る日、イーニァは空を見ながら泣いていた。目から涙はこぼれ落ちていない。だけど、その姿は触れれば消えてしまいそうな程に儚く。ユウヤも同じような顔をしている事に気づいた。

 

重慶ハイヴを攻略した後だったというのもある。気候の激変により一面銀世界になったハイヴを見て、思い出したらしい。聞き出せたのは、一言だけ。戦場で少なくなった男性衛士どうし、悪友のような関係になり、ようやく吐露した心情だった。

 

『………守れなかった』

 

イーニァは、言った。

 

『ううん、クリスカはいつも一緒に居るの』

 

それ以上の追求はできなかった。武は触れられない、触れてはいけないものだと感じていたからだ。寒い夜には辛くないかと聞いたら、頷き、泣かれた。大声ではない。降り積もる雪のように、静かな泣き声だった。

 

XM3の開発が終わった後。どうして手伝ってくれたのかを聞いたら、イーニァは笑いながら答えてくれた。

 

『あっちの世界でね。クリスカが生きていてくれたら、嬉しいなって』

 

夕呼先生が何かを吹き込んだことは、すぐに分かった。否定はしなかった。もとより、そのつもりだったからだ。こちらの世界に戻り、その話を伝えながらユーコン基地に行きたいと言うと、すぐに目的を看破された。

 

『………XG-70を使うために、ねえ。本当はただ助けたいだけなんでしょ?』

 

武は図星を突かれて黙り込んだ所を、更に畳み掛けられた。

 

『聞かないって、顔ね………はあ。どうしてもと言うのなら行ってもいいわ。ただし、約束しなさい』

 

――――例え何が起きようとも、貴方だけは生きて帰って来なさいと。大国の意図で踊らされているだけの、哀れなテロリストを殺そうとも。かつての戦友を見殺しにしてしまう事態になっても。

 

武は己が死ぬことの意味を知っている。だからこそ、殺される訳にはいかなかった。

だからこそ、殺すのだ。

 

(――――殺した。正しくはなくても)

 

武は歯をくいしばった。命を踏みにじった音が、耳にこびりついて離れなかったからだ。気を使ったのだろう、引き金を引いたのはマハディオだった。それでも間違いなく自分が殺したようなもので。増援にやって来たテロリストも同じだ。見逃せば味方に被害が出る。任務達成が困難になり、核爆発で大勢の人が死ぬ。だから、何でもないように殺した。顔さえも知らない相手に、犬死にを強要した。

 

決して、表には出せない。吐き気が収まらなくても。何でもないように、最前線で勇猛に戦うのが突撃前衛だ。

 

だからこそ、目の前の敵を打倒しなければならない。

 

タリサを守るのだ。タリサの妹を殺したのは、βブリッド研究のサンプルを集めるためだと聞かされた。説明するつもりはない。傷と憎しみを産むだけだ。一人よがりだが、タリサには笑っていてもらいたいのだ。もっと自分が早く潰せていればという思いは尽きない。これも自分勝手だろう。だが、負い目があるならば返さなければならない。

 

亦菲を守るのだ。必要ないわよ、と言われることは間違いないだろうが、関係がない。大人になってはいるが、心の奥には鋭いナイフを隠している。不信感という刃物。どれだけの苦境を強いられれば、ああまでつっけんどんな物言いが口癖になってしまうのだろうか。素直になれる相手は、何人居るのだろうか。知らないが、そういった人物が現れる前に死なれては目覚めが悪いのだ。

 

唯依を守るのだ。京都で、友達を失い、泣いていた戦友。守れなかったのは自分も同じだ。彼女も、守れなかったことを悔み、生涯忘れることはないのだろう。多くは語らない。でも、今もきっと引きずっている。ユウヤと同じだから、ずっと。

 

(―――はっ)

 

己を鼻で笑った。いつもそうだった。肝心な所で間に合わない。命は流水。両の掌で包もうとしても、あっさりと零れて落ちてしまう。

 

故に決断は最速に。守るために、殺すしかない。

 

――――見せられた映像。それを前に、本能が喚いていた。

 

殺せ、と。障害物を殺せ、と。具体的なイメージを抱かされる、危険な敵を殺せ、と。

でなければ殺されてしまう。自分だけではない。背負う人が、抱く人が、無残な最後を遂げてしまう。

 

武はそれを見たくなかった。全てだった。それだけが全てだった。

 

本能は身体に。最悪を回避するため、戦い慣れた全身の細胞が勝利のために活性化していく。先に動いては読まれてしまう。後の先を意識しながら、中刀を振るう。規則的な動きは格好の的だ。動かせ、迎撃し、傷を刻んでいく。

 

そうして、仕掛ける機会がやってきた。誘いこんでの一撃、腕で受けられるのは予想の範疇。飛び上がり、回転し、蹴り――――ではなく、踏み台として利用した。

 

相手も、黙っている筈がない。反撃の“おこり”を確認した直後、両足を前に振り上げて噴射跳躍。脚から伝わる衝撃は、回転の速度を鈍らせるためと、反動を活かすため。

 

「――――死ね」

 

前転の後の後転。絶好の機会。反撃の心配は不要、手を伸ばせば容易く。

 

どくん、と鼓動が高鳴る音。

 

『――――や』

 

通信の音が聞こえたのは、その時だった。

悲痛な声。それは、とても聞き覚えがあった。

 

 

『やめろおおおおおおおおおおおおおおっっっ!』

 

ユウヤ・ブリッジスの声。直後に武は、内なる声を聞いた。

 

――――何をする?

 

敵を。

 

――――何のために?

 

守るために。

 

――――他に方法はないから?

 

生きて帰らなきゃ、だから、二人を殺しても、仕方がない―――――なんて。

 

 

同時、武の脳裏に閃光の如く過ったのは、雲ひとつない一面の青空。

無限大に、何でもできるような気持ちになったから、誓った。

 

 

直後、音が戻った世界で武は叫んだ。

無意識下で踏み出した機体、その脚からの震動が伝わり、そして。

 

 

『諦めて、たまるかああぁぁァァッ!』

 

 

咆哮と、自身の取りうる最速の操縦でもって後方に跳躍。直後、武が視界に捉えたものは、あのまま進めば脚部に直撃していたであろう36mmのウラン弾が外れ、地面を穿つ光景だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ユウヤの横槍が空振りに終わってから、即座に動いたのは4人だった。ユウヤは不知火とSu-37UBが居る場所へ、Su-37UBは態勢を立て直しながら距離を、武は更に後ろに。ただ一人、葉玉玲だけは明確な目的を持って動き始めていた。

 

滑りだすような水平跳躍。それを見た武が、大声で阻止した。

 

『撃つな、ユーリン!』

 

制止の絶叫。意図を察したユーリンが、ユウヤから銃口を外した。ユウヤは背筋が凍るほどの殺意を感じ、直後にそれが解けたのを悟り、回避機動を途中で止めるとクリスカの方へと進路を変えた。だが、待ち受けていたのは攻撃行動としか思えない、短刀を抱えて直進してくるSu-37UBの姿。完全に不意をつかれたユウヤは、為す術もなく直撃を――――

 

『さ、せるかぁっ!』

 

亦菲の叫び。ユウヤが直撃を受ける直前に、横から放たれた突撃砲が邪魔をする。Su-37UBは、銃口が向けられるのを感知すると同時に横への回避行動を取り、36mmの雨をやり過ごした。そして、移動先に居たBETAを短刀で切り刻み始めた。状況説明をするなら今の内だと、亦菲がユウヤに通信を飛ばす。

 

『ば、か………警戒する相手が違う、わよ』

 

『あいつが裏切ったんじゃ………おい!?』

 

誰が敵で味方なのか。武が裏切ったと思い込んでいたユウヤは戸惑い、そこに声が届けられた。声はクリスカのものだ。

 

『避難………近寄るな。私から………距離を………取れ………』

 

『何を………何を言ってる!?』

 

『ユ、ウヤ………近寄んな、そいつは………っ!』

 

タリサは逆流しそうになる胃液を抑えながら、ユウヤに状況を説明した。亦菲も補足し、ユウヤはそこでようやく事態を知った。先に仕掛けてきたのはクリスカとイーニァの方で、武がそれに応戦しているのだと。その間にも、クリスカは途切れ途切れの声でユウヤに向けて訴えかけていた。

 

『私に………任せろ………BETA………殲滅………』

 

『素直に、聞けるか………な、にが狙いだ………っ!?』

 

掠れるような小さい声で問いかけたのは、誰より顔色が悪くなっている唯依だった。尋常ではない戦闘力に、標的も何もなく無差別に暴れまわる。唯依だけではない、他の衛士も、紅の姉妹が、ソ連が何を目的として動いているのか、確認しないままでは退避するつもりはなかった。それを“察した”かのように、答えは間もなく返ってきた。

 

『BETA………殲滅………能力を、開放した………コントロール、できない………ぐらいに………』

 

薬物と後催眠暗示の複合使用により、能力を跳ね上げると同時に、二人が絶命するまで動くもの全てを殲滅し続ける狂戦士になる。それを聞いたほぼ全員が、絶句した。

 

『退け………日本、アジア、衛士………殺害…………国際、問題に………』

 

その言葉に、タリサ達は何が言いたいのかを理解した。戦術機の破損程度ならば戦闘中の事故か、あるいは証拠不十分な言いがかりを表向きにしたいくらかの取引で話をつけることはできるかもしれないが、殺害ともなれば面子以前の問題となる。

近寄れば、先程と同じように戦闘に。退けば、Su-37UBに引きつけられるBETAを殲滅するだけで、事は足りる。クリスカ・ビャーチェノワとイーニァ・シェスチナの死をもってだ。軍人として、レッド・シフトを阻止する衛士として何を選択するべきかは、考えるまでもなかった。

 

そこに、声が挟まった。

 

『………ふざけるな』

 

肯定でも否定でもない。ユウヤが最初に抱いたのは、怒りだった。

 

『クリスカ、イーニァ! お前らはそれでいいのか! ここで死んで、それで良いってのかよ!』

 

『私の………意味を………課せられた任務…………それしか………』

 

『おい!』

 

『私………だけ………置いて………いかれたく………ない………』

 

何を言っているのか分からない。放っておけないから此処に居るのだ。だというのに、Su-37UBは、二人はもうどこかに行ってしまいそうだった。

 

『もって………5分か』

 

『っ、少佐、何を………!?』

 

『少尉だ………葉大尉は周囲のBETAを頼んだ。俺はあの二人を止める』

 

武は唯依の顔色を見た後、まともに戦えないと判断し、ユーリンを頼ることにした。

責めることはしなかった。何を見せられたか、全てではないが想像はできたからだ。

 

(むしろ………なんで気絶してないのか、不思議だな)

 

目の前で親友を、故郷を失った映像。あるいは、武自身が持つ反吐の出る光景か。それらを混合されてぶつけられたのだろう。まるで死人のような顔色で、今にも倒れそうだった。だが、その顔で気丈にも問うてくる。

 

――――どういう意味で、何をするつもりか。武は意図を察し、答えた。

 

『あの二人に死なれたら困るんだよ………殺そうとした俺が言う台詞じゃないけど』

 

自己嫌悪している暇もないと、武は苦虫を数百匹噛み潰したかのような表情で答えた。

 

『BETAの残数は100程度………なら、十分に対応できる筈だ』

 

『っ、駄目です! それに、肩の傷が………っ!』

 

『ああ。それに、さっきのユウヤの奇襲でかなーり開いたな』

 

『す、すまん………』

 

『ジョークだって。俺も逆の立場ならそうしただろうし………って、やっぱ時間は待ってくれないようだ』

 

武は周囲のBETAを相手にしていたSu-37UBが、再びこちらを向いたことを確認すると、やべえなと軽口を叩いた。その顔色は悪い。先程の会話の隙に止血は済ませていたが、先程の高速戦闘で傷は更に開いていて、痛いことには変わりはない。武は今すぐにでも泣き叫んでのたうち回りたい衝動に襲われながらも、不知火の両手にある中刀を前に構えた。動きは鈍い。それでも、と戦おうとする武にユウヤが叫んだ。

 

『お前っ………死んじまうぞ!』

 

『まだ、死んでねえ。死んでねえのに、諦められるか………無様と、笑われても』

 

武は自嘲しながらも答えた。どの口が、という思いはある。だが、不甲斐ない自分を無様と思っても、どうしようもない自己嫌悪の渦の中にあっても、脚を止めれば絶望という怪物に追いつかれる。

 

混沌とした状況。先程の全開戦闘が悪影響を及ぼしているのか、あるいは。

だが武は原因を分析する以前に、誰も彼もが動かないで居る現状を動かすために、大声で叫んだ。

 

『葉大尉、早く!』

 

『っ、いつ、も…………なんで、そうやって、そんなになってまで!』

 

胸を押さえながら、心臓が抉り取られる痛みに耐えるように。

泣きそうな声に、武は叫び返した。

 

『タンガイルを覚えているからだ! 違う、今回はあの時の比じゃねえ………!』

 

――――お願いだ、ユーリン。

小声で告げられた言葉に、ユーリンは歯を食いしばった。

沈黙は2秒だけ。その後、小さく頷くと指示の言葉が飛んだ。

 

『李、盧はついてこい。最速でBETAを鏖殺する。亦菲はこの場に残り、マナンダル少尉の援護に回れ』

 

タリサの不知火・弐型は脚部を損傷しているせいで機動力が殺されている。それを守るためにとの指示だ。亦菲は命令に対し何かを言おうとしたが、ユーリンの顔を見て黙り込んだ。

 

残されたのは、武、ユウヤ、唯依、タリサ、亦菲。

 

その中でSu-37UBが標的に定めたのは、唯一戦闘体勢に入っている不知火だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ユウヤは、そのやり取りの最中にずっと考え込んでいた。死んでない内に諦めることができるか、という言葉を。自分を不甲斐ないと沈痛な面持ちで、それでも激痛に歯をくいしばりながらも前を向く姿を目の当たりにしながら。

 

勝算は低い。なのに立ち向かうその姿は、正気のものとは思えない。

正常な人間のものではない。だというのに、しった事かと前を向いている。

 

(………そうだった、よな)

 

ユウヤはこれまでの事を思い出してきた。物心がついてから今まで、現実が甘かった試しはない。状況はいつも突然に、自分の都合など斟酌もせず二択を突き付けてくる。誰もお前の事など聞いていないというように、状況はただ状況のままで存在し続ける。

 

今のこの時のように。ユウヤはこのままでは、クリスカが、イーニァが死ぬと想っていた。暴走という言葉の真偽は不明だが、何か拙いことが起こっているのは理解できる。

 

それだけではない。唯一、彼女たちを止めようとしている武の怪我の状態は酷く、武が負ける可能性も十分に有り得た。そうなれば、後に残るのは全員の屍だ。クリスカ達が全てを殺し、果てにはあの二人も死んで、何も残らない。

 

手を伸ばしても、何も掴み取ることはできなかった今までのように。

遺言も無く死んだ、母のように。

 

ならば、とユウヤは自問した。ここでクリスカを殺し、唯依達を守るのが最善なのか。諦め、選択することが何よりの正解なのか。

 

(―――違う)

 

最初の目的は米国人として認められるために。母、ミラに笑っていて欲しかったから。

失い、それでも軍の中で生き続けたのは何だったのだろう。

 

先程のシャロンとレオンとの共闘。手応えを感じた戦闘。一刻でも早くかけつけると、レオンの軽口さえ無視して全力で敵を掃討した。その後に、シャロンとレオンはどういった言葉を返してきたのか。

 

――――昔とは違う。頼もしい味方として、唯依達の元に行く自分を応援してくれた。

ユウヤはそうして、分かったような気がした。

 

(望んだのは――――認められること。お袋が語った誇り高き日本人のように、誰からも尊敬される、そんな自分を…………)

 

ユウヤは母・ミラの事を思い出していた。祖父に否定されながらも、決して頷かなかったその姿を。諦めれば楽になるのに、そうしなかった頑固な母。あるいはその時に、自分は思わなかったのか。本当に誇り高き日本人が存在するのではないかと。

 

間違っていなかったことを、知った。篁唯依。整備班の人間も気のいい連中で、決して自分の仕事に手を抜かなかった。その結晶が電磁投射砲であり、あの男の機体なのだろう。

比べて、自分はどうか。ユウヤは自分を顧みて、自嘲した。

 

――――俺は正しいと主張し、否定する者は殴り飛ばした。

 

――――日系人を誇りとするレオンも。拳を固めた理由は、掴めないと諦めたから。誇りだなんて嘘だと、その言葉を潰したかったから。

 

(何をやっても駄目だって、不貞腐れた。ガキのように八つ当たりをした)

 

膝を抱えて、手を伸ばして、何かを掴み取ることを諦めた。

拳は固く、触れようとするもの全てを拒絶した。諦めた子供の頃からずっと。

シャロン・エイム。かつての恋人と別れた理由も、同じだった。

 

シャロンは何でも受け入れてくれた。全てを包んでくれた。ユウヤはそれが耐えられなかった。包み込まれるまま、何もかもを受け入れれば、いずれは底が知られる。自らの矮小さを、子供の頃から成長できていない自分を認めることになる。それが嫌で、自分から遠ざかった。

 

(小せえ………情けねえ、卑怯だ。まるで祖父さんの言う嫌な日本人そのもの………?)

 

そうして、ユウヤは気づいた。母が顔を曇らせていた理由。それは、自分が無様なガキのままで、祖父の言葉を肯定するような、誇りも何もない人間だったからではないかと。

 

軍で認められるよりも以前に。日本人がどうなどとは関係がなく。ただの人間として。未熟ではあっても、成長しようという自分の姿を見せれば、母は笑顔のままで居てくれたのではないか。

 

(………何もかも、見当違いだった。お袋が死んでから。それも今更になって気づくなんてな)

 

乾いた笑いが溢れる。だが、ユウヤはそこで自己に没頭することをやめた。自己陶酔するにも、時間が無いと分かっていたから。

 

過去は変えられないが、時間は今も流れ続けていると。

 

 

『もう、繰り返したくない。二度と、目の前で、誰かを――――』

 

伸ばしても届かなかった手。母、ミラの訃報がフラッシュバックする。同じように、望まぬ戦いの中、死の淵に居る仲間がいる。誰もが尊敬できる仲間だった。

 

無残で非業な死はどこにでも転がっている。ユウヤはこの基地に来て、その本当の意味を初めて知ることができた。同時に、戦死という厳しい結果が現実のものになっていい理由はないとも思った。

 

何もかもが手遅れになる前に。ユウヤは操縦桿を強く握りしめると、最善の選択を思索しようとして、やめた。

 

(分かってたんだよな…………疑うべき点はあるにはある、が―――重要なのはそこじゃねえ)

 

少なくとも同じ目的を持っている同志である。そう判断したユウヤは、疑念の一切を捨て、真摯な言葉で協力を申し出た。

 

 

『クリスカとイーニァを止める! 手を貸してくれ――――シロガネ!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

交戦中に飛んできた言葉。武は考えずに即答した。

 

『クソ遅えよ!、ていうか、こっちこそ手を貸して欲しいっ、てぇ?!』

 

間一髪で回避し、後退する武。ユウヤはすかさずフォローに入りながら、謝罪の言葉を示した。

 

『………悪い。それで、二人を止める方法は思い浮かぶか?』

 

『普通の方法じゃ無理だろうな、ってあぶねえっ!?』

 

作戦会議などさせないと、Su-37UBが奇襲を仕掛けてくる。武とユウヤはそれを何とか回避しながら、続く攻撃を捌き続けた。

 

『どういう意味だ!?』

 

『暴走、敵味方が分からねえ、ってことは理性がなくなってるってことだ』

 

獣に言葉は通じない。先程の声が奇跡だと、武は回避機動を取りながら説明を続けた。

 

『くそ、どうしろってんだよ………っ』

 

『方法は、ひと………!?』

 

考えこむユウヤに、武は答えることができなかった。

 

『俺の機動を真似――――?!』

 

従来の概念ではない、武に似た機動での近接攻撃。予想がつきにくい、まるで機械式の生き物のような動きで放たれたモーターブレーダーの一撃。

 

『こ、のっ!』

 

武は姿勢を強引に変えながらもすんでの所で中刀で受けることに成功するが、無理な体勢だったことが災いし、きりもみ状態で後方に吹き飛ばされた。

Su-37UBはそれを見逃さなかった。追撃をしかけようと、跳躍ユニットを全開に。

 

――――そこで、横合いから入り込んだ武御雷に止められた。

 

『さ、せるか…………やらせてたまるか!』

 

『篁中尉っ?!』

 

戦える状態じゃ無かった筈なのに。武の言葉に反応した唯依は、額から汗を流しながらも、クリスカに向けて叫んだ。

 

『二度と………にどと、私はっ!』

 

思い出した光景。届かなかった命。肉塊から肉片になっていく大切な誰か。唯依はフラッシュバックする光景を前に、だからこそと長刀と振るいSu-37UBを弾き飛ばした。

 

『少佐は後方に! ユウヤ、やれるな!』

 

『当たり前―――唯依、正面からまた来るぞ!』

 

吹き飛ばされた力も利用した上での慣性制御、急速に反転したSu-37UBは再度、武御雷に襲いかかった。

 

尋常ではない機動。唯依はそこで、先程までのSu-37UBの戦いぶりと、それに対応した武の機動を思い出した。

 

敵手の動き全てを読んでいるかのような相手に、先手の取り合いは愚行。

ならば、と唯依は待ちの態勢を取った。そして攻撃を仕掛けやすいように、長刀を斜めに傾ける。Su-37UBはそれを確認した直後に機動を変え、隙のある場所に斬りこんだ。

 

後の先。唯依は最適の角度で斬撃を放ち、Su-37UBのモーターブレーダーを切り飛ばした、が。

 

『うあっ―――?!』

 

Su-37UBは斬られたモーターブレーダーを気にもとめず、そのまま武御雷の頭部を殴りつけ、方向転換。タリサ機が落とした中刀を拾い、ユウヤに向けて斬りかかった。

 

ユウヤはそれを見て、高機動戦にシフトした。斬り合いも選択肢の内にあるが、打開策も無いまま無闇に斬り合うことに、意味はないと判断していた。

 

『シロガネ! タケル、方法は!』

 

どういった理屈か分からないが、Su-37UBは今この時も凄まじい勢いで成長しているように見えた。このままでは全滅は免れないとのユウヤの叫びに、武は大声で答えた。

 

アルフレードから教わった打開策を。

理性も無くなった女に対し、男が取れる方法を。

 

『言葉じゃ止まらねえ、なら、強引にでもいい、取り敢えず掴まえろ!』

 

『はァっ?! いや、それ以外に方法は…………っ』

 

『ああ、動きを止めて、抱きしめて――――押し倒せ!』

 

仰向けに押し倒せば跳躍ユニットは使えないし、動きも止められる。だが相手の隙をついて接近しなければ、近づく前に中刀で串刺しにされるだろう。武はこうも考えていた。相手が理性の無くなった、殻が消失した、心が剥き出しの子供ならば、正面からぶつかる以外の方法はないと。

 

『………命が惜しいなら、逃げてもいいんだぜ?』

 

『いや、やるさ。ここで命を惜しんだって、何も始まらねえからな』

 

命を救うのならば、命を賭けなければ届かない。ユウヤの即答に、武は懐かしい悪友の姿を見た。

 

そのための戦術は、と。相談する暇はなく、Su-37UBは周囲のBETAを切り飛ばしながらユウヤに接近した。

 

ユウヤは、どうすればと焦りながら、回避行動を。

唯依は、標的を自分の方に移そうと動き、目論見どおりに引き寄せることに成功すると、近接格闘戦を挑んだ。

 

だが、Su-37UBは圧倒的だった。白銀武が持つ新しい機動概念さえも取り込みながら、徐々に唯依とユウヤを追い込んでいく。

 

並の衛士ならば20は殺されるであろう、異次元の戦闘力。

ユウヤと唯依は二人で立ち向かうことで、それに対抗した。決して無理な行動はせず、互いをカバーしあいながらも、最小限の動きで抵抗できるように連携でもって対抗する。

 

『っ、機械のような正確さだな…………故に、対応できる目もある!』

 

BETAと同じだった。スペックでは勝られていようが、対峙し続けていれば慣れる。創意工夫の無い攻撃であれば尚更だった。そして、模倣は所詮は模倣。

 

武の戦闘力が異常なのは、奇抜な概念の上に途方もない経験から得られた技術が重ねられているからだ。唯依も、斯衛内では精鋭として知られる衛士であり、見た目だけ似せた攻撃に対応できない程、弱卒ではなかった。

 

それでも、未だ残る黒い泥は確実に唯依を蝕んでいた。打開策が無ければ、全滅する。だが、その方法はどうか。唯依とユウヤは必死に抗戦しながらも、その答えを見つけられないでいた。

 

一方で、機体の限界を感じ、後方に退避していた武も同様だった。作戦は立てられないと判断していた。思考を読む相手に対しては、組み立てた戦術は通用しないどころか、逆手を取られるだけ。

 

(不知火も………関節が、逝っちまったか)

 

機体の状況を知らせる映像には、けたたましいアラーム音と、致命的損傷を知らせる文字が浮かんでいた。ならば取れる方法は一つしかないと、武は叫んだ。

 

『唯依、タリサ、亦菲! ユウヤの道を作るぞ!』

 

即興での戦術で。武の言葉に、答える者は居なかった。余裕が無かった、という方が正しい。タリサ達の意識に対し、微かではあるが現在進行形でクリスカとイーニァの干渉は続いていたからだ。タリサと亦菲も、唯依程に深くはないが、人間の持つ下劣で下衆な部分を連想させる感情らしきものが自分の中に送りつけられているかのような錯覚に陥っていた。

 

正気を手放せ、という言葉が聞こえるような。形のないそれは、人の心を陰に落とす果実、真正の毒であった。正気を保っている方がおかしいと。耐えられる者こそが狂人であると言えるほど、その毒は濃密に過ぎた。

 

人は憎み、謗り、悲しみ、妬み、嫉む。誰もが心の内に陰を持つ。生来から人間に備わっている感情である。故に従うことは当たり前で、という理屈が、悪魔の囁きのように3人の脳を、心臓を襲った。当たり前の衝動だった。人が人の肉の中身を、内臓を、脳片を見るだけで吐き気を催すように。

 

漆黒よりも暗い影のような醜悪さを前に、人は正気でいられない。

 

――――それでも、3人は陥なかった。確かに感じるものがあったからだ。

 

黒の中に、それは燦然と輝いていた。白銀のような一筋の強烈な光と、何もかもを包み込もうとする光を。身体の内外共に傷だらけだろう。なのに這いつくばりながらも、正気の旗を掲げながら、前を進むことを諦めていない。照らされ、気づけば自分の中にもあった。黒いだけではない、何かが光っていた。

 

狂気の中で正気を貫こうという狂気を見た。ならば、狂気も正気も差異はない。

そうして、3人は全てを受け入れて笑った。陰はある。だが、それだけではないことを知っていた。

 

亦菲は知っていた。人間はどうしようもない、くだらない理由で人を貶めることができると。流れる血が違うだけで罵倒し、罵ることができる。他愛もない言葉かもしれないが、それによってどれだけ傷つけられるのか。知って言う奴が居る。知らずにも、重ねて傷つけてくる愚者が居る。言葉は無意味だった。故に認められるためには、痛みを理解させるように。自らも力でもって認めさせるしかないという思いを持っていた。

――――笑って、蹴飛ばした。認められずとも、自分は自分である。言い返すだけの最低限の力は必要だろう。だが、同じ所まで落ちる理由もないと。

 

 

タリサは知っていた。誰しもが目的を持っている。妹が殺された理由の一つとして、その犯人も何かしらの目的を持っていたのかもしれない。自分と同じように、手前勝手な理由でも、貫くべき何かがあったのかもしれないと思ったから。例えば、ナタリーのように。悲しみの中で、人は間違える。それは正されるべきだけど、理屈の上の、机上の空論でしかない。考えれば考えるほど、分からなくなった。

――――笑って、放り飛ばした。誰が何を考えようと関係がない。自分は残された弟を守り、死んだ後妹に誇れる自分であり続けられれば良いと。ナタリーも、それが分かっていたから裏切ろうとした。その思いこそが大事なのだ。自らの正しきに従う。指標はすぐ横にあった。自らの信じるグルカの、師の言葉のままに。血肉に染み入らせて、それを飲み込んだ。

 

 

唯依は知っていた。古い掟に、義務。武家としての役割があった筈なのに、守れなかった。蹂躙された祖国。不甲斐ない自分が、まるで塵芥のように思えた。責められていると、そう思ったのだ。それを否定させないため、自らの中に流れる血を肯定した。尊敬する父と叔父に追い付きたいと思った。同時に、苛まれていた。何もかもを守れなかった自分には、篁を守ることなどできないかもしれないと。父が開発に専念してから、努めて連絡を取ろうとしなかった理由がそれだった。不甲斐なさ故、責められることが怖かった。責められず許され、戦友達の死が軽くなってしまうことが怖かった。

――――笑って、斬り飛ばした。死んだ親友達は胸の中に、決して消えはせず。今も生きている戦友たちは戦っている。ならば自分はこの血と役割のまま、無様と呼ばれる恐怖を受け入れる。そして、終わっていないと叫ぶのだ。信じるべき仲間と共に困難に立ち向かうべきだと。何もかもをできないと、終わってしまったと思い上がらず、顔を上げるべきだと。

 

 

3人は黒い泥の中、違う経過でも、同じような結論に達していた。

 

この世界は無慈悲で異常で狂気的である。それでも、自分の底にある正常を変えてはいけないのだ。あの二人のように、一途で、馬鹿と、狂っていると言われようとも、自分が望む自分を曲げてはいけないのだと。

 

そうして、泥を飲み干し。

無意識的に3人は一つの目的へと動いて、それが戦術となった。

 

――――タリサは、Su-37UBが機動速度を落とすように、突撃砲を点ではなく面で放ち。

 

――――亦菲はその機を逃すことなく、逃げ道を潰すように120mmを放ち。

 

――――動きが止まった所に、唯依が絶妙なタイミングで正面から斬りかかった。

 

わざとらしい太刀筋で、受け止めさせるように――――脚を止めさせるように。

 

そうして、進化の過程にあったSu-37UBは止まり。分かっていたかのように、不知火・弐型はその推力を全開にしていた。

 

いざ、最後の跳躍を、と。ユウヤはコマンドを入れる寸前に、Su-37UBが中刀を迎撃に向ける姿を見た。

 

このままでは、串刺しに。そのユウヤの背筋が凍るかという直前に、見た。

横合いから飛び込んできた36mmに、中刀が弾き飛ばされたのを。

 

 

『させ、ねえって』

 

 

苦痛に顔を歪めながらの、武の言葉を決定打に。不知火・弐型はSu-37UBの胴体部を掴み、

 

『うおおおおおおおおォォォォォォォッッッッ!』

 

 

跳躍ユニットを全開にし、死なせないという強烈な意志を前面にしながら、前へ。

そのまま、Su-37UBを地面へと押し倒した。

 

着地というよりは地面への激突。その衝撃に、ユウヤのコックピットの内部が大きく揺れた。振動が収まった後、ユウヤは前後が分からなくなるほどの酩酊感に負けず、通信を飛ばした。

 

だが、呼びかける声に反応はない。機体の機能は完全に停止しているようだが、中の二人は無事なのかは外からでは分からなかった。

 

『くそっ、バイタルも………機体を降りて状況を直接確かめるしかっ!』

 

『まて、BETAは………いや』

 

そこで唯依達に通信が届いた。

周辺に居るBETAの殲滅を確認、作戦は成功したとの報せが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コックピットを降りて、クリスカ達の安否を確認しようとするユウヤ。武はその背中を見た後、自分の意識が急激に薄れていくことを感じ取っていた。

 

(結果を、見届けることはできないか………)

 

武は恐らくは戻ってこれただろうという希望的観測を信じたかった。これ以上のことはできなかったからでもある。

 

(それに………クリスカとイーニァを巡る事態はまだまだ終わってねえ………)

 

武はやらなければいけない事の多さに目眩を覚えていたが、ひとまず最悪の事態を乗りきれたことに安堵の溜息をついた。イレギュラーはあった。3人に対しての、リーディングとプロジェクションだ。武はその理由について、心当たりがあった。

 

かつて、リーサが教えてくれた言葉だった。羨ましいから、眩しいから、知りたかったのかもしれない。分からなければ聞けばいいと言った自分の言葉のまま、イーニァが暴走したのかもしれない。あるいは、クリスカが。リーディングのできない武は二人の内心の全てを把握することはできなかったが、何となくそういった理由だろうなと思っていた。

おかしいことではない。問題は、それが理性の外れた状態で暴走してしまったということだ。まるで子供の癇癪のように。更なる問題は、そんな存在が強力極まる戦闘力を持っているということだった。この世界は狂っている。武は改めてこの世界の異常さを噛み締めると、自らの胃壁が削れる音を聞いたような気がした。

 

(まあ、残ってるのは…………仕上げに向けての…………唯依が狙撃されることも、ないし)

 

武はあっちの世界で、唯依がこの後何者かに狙撃され、瀕死の重症を負ったことを聞かされた。その事情に関しても、夕呼から説明を受けていた。恐らくは、唯依が戦闘中にクリスカとイーニァの能力などを知ったからだろうということで、その情報を日本に報告される前に、とサンダークが指示したものと考えられる、と。

 

こちらでは、その理由が無くなる。例の計画に関して、より熟知している人物が――――つまりは白銀武という人間が――――存在しているという時点で、唯依を狙う意味が無くなる。

 

そして、実行は不可能になる。オルタネイティヴ4の手の者であるとアピールしている自分を殺害することは、国連と日本に喧嘩を売ることに等しい。いかなサンダークとはいえ、そのような愚挙を実行するほど考えなしではない。

 

最高の形ではないが、一段落はついた。

 

武は疲労が溜まった息を吐き出すと、自分を呼ぶ懐かしい仲間の声を聞きながら、少し眠るために両方の瞼を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日が明けて間もなく、ある航空機の中。

 

“指導者”と呼ばれている赤い髪を持つ壮年の男性を中心に、どれも一癖はありそうな男達が、シャンパンを片手に集っていた。

 

「いくつかのイレギュラーはあったが………捧げられた同志の血と魂は無駄にはならなかった。諸君らもご苦労だったな。本国への帰投後、原隊復帰するまでの36時間は休息に当てて欲しい」

 

「は………」

 

「では、殉教者達に」

 

それを乾杯の言葉に、グラスが重なった。戦時国ではまず見ることのない、薄いガラスでできたグラスの甲高い音が機内に響いた。

 

「フランスが失われた時は、惜しんだものだが………カリフォルニア産もなかなかどうして」

 

「程よい刺激だな。今の達成感を思わせてくれる程度には」

 

「ああ。そして………次なる達成感に挑むための踏み台になるぐらいには、な」

 

「気が早い――――とも、言ってはいられないか。雌狐の動向を思えばな」

 

指導者の言葉に、全員が顔を引き締めた。

 

「察しの通りだ。傾き過ぎた天秤は、調整が必要になる………」

 

「では、極東の………現地での仕込みは既に?」

 

「その案は放棄した。無菌室とも呼ばれるかの基地だ。人員を送り込み、無駄な犠牲者を出すよりも良い方法がある」

 

内部ではない、雌狐の巣穴ごと吹き飛ばす。その言葉に、何人かの者は察しがついていた。

 

「成程。対BETAの最前線だけに、防空システムの程度は知れていますからな」

 

“物”のコースがずれて光線級に撃墜されない限りは、対処できないだろう。

楽な仕事だと、男たちは笑った。

 

「それでも、油断は禁物だ。今回も目的を果たせたとはいえ………まだまだ我々も道半ばである事には違いない」

 

ヴァレンタイン、メリエム・ザーナーの演説により米国の横暴とソ連の怠慢を暴露することはできたが、一歩間違えれば危うかった。

 

「倒れる訳にはいかない。我々を置いて世界を革新できる者などいないのだから」

 

テロリストのような暴徒ではなく、本当の意味で世界を変えられるのは我々だけである。断言する指導者に、男たちは信頼の視線を返した。

 

「敵が未だ強大だ。乗り越えるためには、綿密に、精緻かつ的確な計画の遂行が必要になる………諸君らの一層の奮励と共にな」

 

これからもよろしく頼む、と。指導者の言葉に、男たちは敬礼と共に了解の言葉を示した。

 

指導者はそれを頼もしく思いながらも、ある人物の事を思い出していた。

 

(ひとまずの休息を、か…………彼女はどうであったかな。勤勉な彼女ならば………)

 

答えは出ない。だが理想を掲げ、夢を追いかけるのは素晴らしい事だ。

指導者はひとりごちると、自嘲しながら言った。

 

 

「さよならだ。天国とやらで幸せになってくれ、ヴァレンタイン。死後の世界にそんな場所があるかは分からないが、そうである事を願う」

 

 

指導者の男は自らのグラスに浮かんでは消える泡を見ながら、誰にも聞かれないよう、小さな祈りを捧げた。

 

 


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