Muv-Luv Alternative ~take back the sky~   作:◯岳◯

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幕間の2 : 舞台の裏で

暗闇のみがあった。少女は視界に広がる闇の世界を前に、歩くことしかできなかった。足元さえも分からない。落ちているのか、上がっているのか。形無き階梯に惑わされながらも、少女は自分の脚が動く感覚だけを感じ取っていた。

 

どこかに、廃墟が見えるような。

 

それでも脚は前に進んだ。止まらないのではない、止められないのだ。やがて道は険しく、視界の端には赤黒いものが見える。その正体は何なのだろうかと見極める暇もなかった。それは液体で、浴びせられてからは腐臭のみが五感を支配した。

 

普通に生きている人間であれば目にする機会もないであろう、人間の()()。少女はその色に見覚えがあった。京都で、関東防衛戦でも、明星作戦の最中に見せられたそれは、人の死の色だった。

 

腹の脂による()()()は執拗に脚底を滑らせてくるから、一度踏めば普通に歩くことさえ困難になる。事実、その人物は耐え切れずに何度も転び、そのた度に泥のような血の糞は全身にまとわりついてきて。

 

少女は、篁唯依はその光景を前に泣き出しそうになった。止まらない脚、向かう先にある道程の途中には、鮮烈すぎる夕暮れの色が乱れに乱れていた。

 

臓物が臭い。感触までも舌に絡まってくるような。吐き気を覚えた唯依は、そこであるものを見た。

 

一歩どころではない。霞むほどに遠い先にある背中を。大きくなんてない、それでもと歩き続ける姿があった。時折痙攣して、胃の中の毒素を吐いている、吐き散らしている。だが、少年は何でもないように口を拭うと、誰のものかも分からなくなった血の滝をかき分けていった。

 

その歩みは早くなく、どこからやって来たのだろう、四方八方から赤色の鏃が飛んできて、少年のあちこちに刺さっていく。

 

絶叫が、くぐもった泣き声と共に。それでも少年は、突き刺さった矢を抜こうともせずに歩き続けていた。もう矢の本数は数えきれないぐらに増えていた。痛みだけではない、重さだけで潰されそうになっているのに。

 

道中でいくつもの屍を背負って。溢れそうになるぐらい多く、潰れそうな程に重いだろうに。それでも少年は断固として捨てていこうとはしなかった。それでも一人では持ちきれず、転がり消えていく屍の轍がどこまでも。少年の眼から溢れる涙さえ、血の色をしていた。

 

その姿、格好など良いことがあろうはずもない。毅然とは程遠い、みっともなく、ヨレヨレになっている。猛々しい戦士であれば嘲笑するだろう姿に、だけれども少年は前だけを見て一歩、また一歩を踏み出し続けていた。

 

唯依はその足音に、背中に、何も言えずただ見惚れていた。

 

やがて、音に惹かれたのだろうか、輝かしい何かが少年に集い、光となって――――

 

 

「…………ぁ」

 

 

目を開けた最初に、無機質な天井を見た。掠れる視界。感じられるのは背中を包む柔らかな感触だ。それが布団であるとようやく認識した唯依は、次に言葉を聞いた。

 

眼を覚ました事を喜んでいる声。唯依はそれを遠い世界の出来事のように感じ取っていた。何がどうなって自分がここに居るのか分からない。

 

ようやく事態を理解したのは、壊れた懐中時計を見せられてからだった。

 

「それは………父様の」

 

「スーパーカーボン製の懐中時計。それが盾になって、心臓を守ったのです」

 

逸れた銃弾は肉を抉ったらしいが、生命に別状はないという。

危ない所でした、という声が響く中で、唯依は曖昧ながらも笑って見せた。

 

―――だが。唯依は直後に、ぽたり、ぽたりと、水滴が掛け布団を打つ音を聞いた。

 

「中尉………もう大丈夫です」

 

 

唯依はそうして、訳もわからないまま、ただ胸の中にある何かを吐き出すように大声で泣いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

国連軍横浜基地の副司令室。将校でも入れないその部屋に、白銀武は一人で佇んでいた。香月夕呼のものであろう書類が、デスクの上に散らかっている。調度品など何もない殺風景な光景。その中でじっと待っていた武は、気配を感じると拳を強く握りしめた。

間もなくドアが開かれる。武は部屋の主が戻ってきたことを確認すると、ゆっくりと振り返り、夕呼と霞の前に立つと軽く手を上げながら告げた。

 

「白銀武、ただいま戻りました」

 

「………無傷とはいえないけど一応は約束を守ったようね。それじゃあ色々と聞こうかしら」

 

「はい」

 

武はそうしてユーコン基地での顛末を語った。不知火・弐型の開発からカムチャツキーでのこと、その後のブルーフラッグの結果とレッド・シフト防止作戦について。ひと通りを聞いた夕呼は、肩をすくめながら感想を述べた。

 

「何とか最低限のラインはクリアできたようね。帝国軍の方も、日本製の戦術機が今回の大規模テロを防ぐ任務に大きく貢献できた事に対し、それはもう喜んでいるそうよ」

 

弐型と武御雷、不知火が多数の無人機を相手に立ちまわった事は帝国軍も確認したという。武はその話を聞いて、眉間に皺を寄せた。

 

「篁中尉が死んだというのに、ですか?」

 

「人の生死と国益は全く別のものよ。理解できないアンタでもないでしょうに」

 

素っ気なくも国際社会において、BETA大戦時においては正しい言葉。

武は頷かず、夕呼につめよった。

 

「それでも、唯依は篁家の跡取りです。死亡したとして、巌谷中佐と篁少佐が動かない筈がない。なのに喜んでいるということは――――」

 

「アンタの想像の通りよ――――篁唯依は生きている」

 

「――――」

 

武は一瞬だけ呼吸を忘れた。しばらくして、大きな安堵の溜息が口から零れた。

 

「今はフェアバンクス基地で治療中。来週の頭には帰国するスケジュールだけど?」

 

しれっと何でもないように答えた夕呼に、武は文句を言う前に、まず深呼吸をした。

そうでもしなければ泣き出しそうになる自分を抑えきれなかったからだ。

 

「国連の言い分はこうよ。狙撃犯が捕まっていない今、テロリストの捕縛・殺害の主力となった戦術機部隊の中核を担っていた篁中尉の生存を伝えるのにはリスクが大きい、ってね。ソ連から結構な額を“包まれた”と見た方がいいわね」

 

「…………分かりました。そういう事にしといた方が良い訳ですね」

 

「皆まで言わせないでくれる? あと、ユーコンからデータが届いているわ。インフィニティーズがソ連の研究施設を強襲した一部始終。狙いの通り、札の一枚を手に入れた」

 

ソ連が保有していたG元素の研究施設。インフィニティーズは自慢のステルス性能を活用してそれらを壊して回った。研究所に備えられていた警備カメラもまとめてだ。だが、流石のインフィニティーズも戦術機ではない、人間サイズの監視員が居た事には気づかなかった。

 

人間には到底出せない速度で走り回れる、シルヴィオ・オルランディという規格外を認識できなかったのだ。元より視界を介して脳に録画映像を保存できる彼ならではの裏ワザである。オルタネイティヴ4遂行における障害物を撤去するに足る、取引材料になるものであった。

 

「そうですか………映像は、米国かソ連に提供するのに十分な画質を持っていると」

 

「先に教えといたじゃない。“望遠性能”は300万ユーロの内よ。精度もね」

 

「………そう、ですか」

 

「ええ。あとは当初の予定通り、第三計画の遺産を接収するだけ。それでアンタの言う犠牲の少ない最高の成果は得られる。なのに、アンタはなんでそんなに不貞腐れたガキのような顔をしているのかしらね」

 

「………いえ」

 

渋面で黙りこむ武。夕呼は溜息をついて、ユーコンの状況を伝えた。

 

「例の日系人の少尉、整備員達の説得に成功したそうよ。機体の開発も順調………今頃は予備個体とファーストコンタクトをしている頃かしら。ああ、イーニァ・シェスチナも無事意識を取り戻したって」

 

夕呼は知り得た情報を武に伝えていった。Su-47Eの試験が再開されたこと、クリスカ・ビャーチェノワ少尉がユウヤ・ブリッジスと急接近していること。まるで子供のような純粋さで接されているユウヤは戸惑いつつも、開発にクリスカの話し相手に励んでいるという事。武は良い情報ばかりを聞いてホッとしていたが、それでもと夕呼相手に一歩を踏み込んだ。

 

「篁中尉の狙撃の件について、聞きたいことがあります」

 

意を決しての一言に、夕呼はああと軽く頷きながら答えた。

 

「ああ、あんたが狙撃される事はないって判断した事ね。なに、自分の不始末を発表しに来たの?」

 

シャットダウンするかのような言葉。黙り込んだ武と夕呼の間で視線が交錯した。

そのまま、10秒。先に折れたのは武の方だった。

 

「無事なら………それで良いです」

 

「後遺症に関しては微妙だけど、結果的に彼女は死ななかった。流石はスーパーカーボン製の懐中時計と言うべきかしらね? …………事実は小説より奇なりというけれど」

 

武はその言葉を聞いて察した。言葉を濁して答えようとしない香月夕呼に対して、自分が何を言おうとも無駄だと。その上で自分の見識の甘さを責められたのならば、ここで食い下がるのは恥の上塗りをするのに他ならない。

 

「………タリサと、亦菲は」

 

「きっちりと脅しかけといたから問題ないわ。まあ………容疑者に特攻しなかった所は褒めてあげようかしらね」

 

場当たり的なものではなく、根源に忠告をするように横浜に戻る事を選択した。その冷静さだけは評価に値すると夕呼は苦笑した。その上で釘を差した。

 

「ユーコンに関連する工作について、アンタの出番はもうお終いよ。後は最終局面まで待っていなさい。黒虎元帥の方も、準備は出来たそうだから」

 

「………了解、です」

 

色々な感情がこめられての、返答。霞に一瞥だけ向けて退室する武の背中を見送った夕呼は、呆れ加減を含めた吐息を目の前の空間にまき散らした。

 

「不始末、か。誰に言ってるんだか」

 

「………夕呼せんせい」

 

「社、アンタまでその呼び方は………いいわ」

 

夕呼は疲れた顔で呟きながら、デスクの下に入っていた写真を取り出した。

それはシルヴィオが録画した映像の中の一コマを写しだした写真だ。

そこにはビルの上でライフルを構える、サンダークの協力者となったスタニスラフ・ゼレノフの姿が映っていた。

 

「あわよくば、と思ったけどね」

 

録画された映像の中には、ユーコン基地での日付が分かるものが含まれている。その中で、ソ連の軍人が狙撃銃を構えている映像をピックアップしたのがこの写真だ。確実な証拠にはなりえないが、それでも無視するにはあまりに大きな証拠だった。

 

夕呼はその上で、何より絶妙なのは、と言う。

 

「これ以上狙われないよう、わざと狙撃した。口だけの男じゃなかったようね」

 

狙撃をしたのはシルヴィオ・オルランディ。後顧の憂いを断つために、自ら致命傷にならないよう、スーパーカーボン製の懐中時計を狙って狙撃したのだ。それで篁唯依の周辺の警備は厳戒も極まることになる。

 

未遂犯の射撃前の写真を証拠に、それでも篁唯依を死なせず。ソ連の、サンダークの急所を握る証拠を手中に収める。明確な命令を下してはいないとはいえ、900万ユーロの男はその名に恥じない成果を一気に手に入れたのだ。しらばっくれようとも無駄だ。旋条痕は正しく、銃の持ち主を示すようになっている。シルヴィオが眠っている間に夕呼が付けた新機能の一つだった。

 

「………タケル、さんは」

 

「気づいてるでしょうね。悪ければ篁唯依を見殺しにしなければならなかった、っていう事も」

 

本来ならば篁唯依は見捨てるのが当然。未遂より殺害の方が交渉事には有利になるのだから。いわば偶然の産物に近かった。努めて唯依を護ろうとしたシルヴィオの存在がなければ、死んでいただろう。それだけではない。警戒の網に引っかからず、狙撃の阻止に失敗すれば篁唯依は死んでいた。それでもシルヴィオは下手人の姿を映像として残しただろう。そうならなかったのは、ひとえに運が良かったという事に他ならない。夕呼はそれを一言で総括した。

 

「禍福は糾える縄の如し。ユーコンでの騒動、悪い出来事ばかりじゃなかったようね」

 

天秤は贔屓なく、悪い方にも傾くが、良い方にも傾く。

夕呼の言葉に、霞は武が考えていたであろう内容を言葉にした。

 

「タケルさんは、自分を責めて……面目ないと、思っているのでしょうか。あれだけ自分で大言吐いておいて、と後悔を………?」

 

「追求するのは野暮よ、社」

 

夕呼は小さなため息のあと、次の話をした。

 

「懸念事項は色々とあるけれど、弐型のフェイズ3、“本来の最終形”を踏まえた上で考えたという、“あちら”のユウヤ・ブリッジスとやらが示した改修案。それをどれだけ形にできるか………」

 

陸軍の大伴中佐からXFJ計画の中止という発言も飛び出ていた。Su-37UBが見せた不知火・弐型を圧倒する戦闘能力を見た上での判断だという。ソ連の方が戦術機開発能力が高いのであれば、G弾の無断投下という愚を犯した米国を頼らずともいいのではないかと。

 

帝国内にも明星作戦やそれ以前に米軍が見せた無責任さを毛嫌いする軍人は多く、帝国陸軍のもう一つの派閥の長である尾花晴臣も、自派閥の者を抑えきれていないのが現状らしい。

 

反論の根拠となるものはただ一つ、Su-37UBを真正面から上回った不知火の勇姿。弐型の優劣は機体性能ではなく、衛士の特殊な技能によるものではないかという意見も出ていた。本来であれば荒唐無稽な話だが、ソ連は後ろ暗い事情を抱えていると思われがちで、明確ではないがそういったたぐいの無茶な理屈を納得させられるだけの素地があった。

 

だが、一番に大きかった要因は不知火に乗っていた衛士が見せた奇天烈な機動によるものらしい。尾花中佐を筆頭として、旗下の衛士の中にはその動きからOSが違うと感じ取った者が居たということだ。二刀で要塞級を打破する映像もショッキングなものだったらしく、衛士の正体に関する事が陸軍ではちょっとしたホットな話題になっているという。

 

「それでも、ソ連に傾倒する声は小さくなった………XM3が無かったら、厳しかったでしょうね。そういう意味では……社。XFJ計画の続行を願う声が大きくなったのは、あんたのお手柄でもあるわね」

 

「いえ、私は何も………武さんのお陰です」

 

霞はどちらかというと、武の心境の方が気になっていた。ユーコンに介入した目的のほとんどが達成できているが、それも綱渡りで、シルヴィオの機転が無ければ篁唯依は間違いなく死んでいたのも事実。人死にを多く見ようが、知人の死に大きな反応を見せるのが相変わらずな所もある。

 

夕呼は霞が何を思っているのかを察し、言った。

甘い。甘いけれど、と。

 

「正直、衛士としちゃ失格でしょうね。いえ、ボーダーラインぎりぎりかしら」

 

自分の無力を理屈で割り切れるようなら協力する価値もないけど。そう言いながら肩をすくめる夕呼に、霞は首をかしげた。夕呼が武を責めているのかどうか、判断がつかなかったからだ。

 

夕呼は霞が小さく葛藤する様子を見ながら、今後の事に思いを馳せていた。

 

(ここまでは予定通り。DIAも動いたようだしね………テロの時に取りこぼした目的をユウヤ・ブリッジスを使ってでも奪取する。これも想定の範疇だわ)

 

諜報員の考える事はどの国も同じだ。人を影から使い、その痕跡を残さず利だけを得る。本来の合衆国軍人であればその手法は取らないだろうが、ユウヤ・ブリッジスはミラ・ブリッジスを母に持つ者である。

 

米国は国防に関して手を抜かない。星条旗の名の下にあらゆる障害物を砕く大型重機のようなものだ。相手の事を考えず、時には矜持や歴史を捨ててさえも勝ちを取りにくる。その理屈から言えば、ユウヤ・ブリッジスは破砕すべき対象の一つになる。利用価値はあるだろうが、“父”の名前を無視できるはずがない。結局の所は邪魔になるような背景を持っているのだ。

 

(あとは、相互評価試験………その成果次第。白銀の奴は、タリサ・マナンダルにアレを渡したでしょうし)

 

夕呼は武にあらかじめ渡していたものがあった。リーディングとプロジェクションを妨害する装置を2つだ。夕呼は武の物言いから察していた。篁唯依と同じく何らかの接触を受けた者が暗殺されないよう、万が一の防衛策としてその装置を渡したのだと。

 

通常の衛士ならばいざしらず、サンダークならば勘ぐる筈だ。二人がオルタネイティヴ4の隷下に入ったということを。篁唯依の事もある。オルタネイティヴ3の残滓であるポールナイザトミーニィ計画として、致命的に頭が悪い者ではないサンダークは、これ以上の失態を繰り返すことはないだろう。

 

(それでも全ては篁唯依がユーコンに戻ってから………さて、どう転ぶでしょうね)

 

死地を潜りにくぐり抜けた、あちらの世界のユウヤ・ブリッジスに書かせたというメモも未知数だ。戦術機開発は専門外であるからして、どのような副次効果が生まれるのかも想定の外。でもどうしてか夕呼は、開発が失敗に終わるとは考えられないでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その明後日、武は帝国の技術廠・第壱開発局副部長である巌谷榮二の元を訪れていた。目的はユーコンでの事件の顛末を語ることと、第三者から見た不知火・弐型の性能評価

についてだ。榮二はひと通りの報告を受けると、深く溜息をついた。

 

「篁中尉からも聞いたが………今の段階でも、当初の想定以上の成果を得られているようだな。ハイネマンを引っ張りだした価値があるということか」

 

「それでも開発衛士無しには、乗り手に優しい機体にはならないと思われます。壱之丙を忘れた訳でもないでしょうに」

 

ひとえに、開発のサラブレッドであるユウヤ・ブリッジスの努力と才能によるものです。断言した武に、榮二は先程とは違う意味で溜息をついた。

 

「香月夕呼にでも聞いた………いや、影行ならば察することはできるか」

 

「気づいたのは時間が経ってからのようです。当時は愚痴って酒呑んでましたからね………」

 

武は当時の父・影行の言葉を思い出し、小さく呟いた。フランク・ハイネマンとミラ・ブリッジスの合作であるF-14(トム・キャット)は、正しく才能ある者が心血を注いで創りだされた、傑作であったと。

 

榮二は頷きながらも、言葉を発さなかった。ただ、遠く過ぎ去った時間に想いを馳せるように。ここではない、遠くを見る眼をしていた。それでも、今は過去に浸っている時間もない。いつものように忙しなく、武は目的を果たすことにした。

 

主に弐型の開発における障害物についてだ。陸軍の中には尾花とは違う派閥であり、力もある大伴中佐なる米国に対する不信感が強い人物が居るという。その人物が発した提案を聞いた武は、耳の穴をほじくろうとして止めた。

 

「………今更、模擬戦を………正気ですか? 表向きは弐型の一番機と二番機に危害を加えたソ連機を相手にして?」

 

「それも米国の思惑の内だろう。ブリッジス少尉も、事を大げさにしたくはないようだ」

助かる。武はまず最初にそういった判断をしたユウヤに感謝の気持ちを抱いたが、それ以上にソ連の厚顔無恥とも言える態度に腹を立てていた。

 

そうするのは、例の計画に自信を持っているからだろう。事を成した暁には、その程度のスキャンダルなど些事程度で収まると思っているからこその行動だ。国際社会を生きる謀略者にとっては正しい判断ではあるが、白銀武はそれを認める頭を持っていなかった。

 

それでもここでしゃしゃり出るのは筋違いにも程がある。周囲を取り巻く状況がどのように変化しようとも、ユウヤには決断をしてあるポイントまで来てもらわなければこちらから手出しはできないのだ。一手仕損じれば世界を敵に回す。オルタネイティヴ計画とは、それほどに重要な案件で、付随する研究成果にも世界中が注目しているのだから。

 

「承知しました………それで、その………篁中尉は?」

 

「先日戻ってきた所だ。会っていくか?」

 

疑問符で投げかけられた言葉。それが質問ではなく願いのように聞こえた武は、思わず頷いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

フェアバンクス基地から日本に戻ってきて。唯依は未だに夢の中に居るようだった。

それでも果たすべき事を忘れるほど間抜けではない。唯依はXFJ計画の推進者である巌谷榮二に事情を話した後、休息を勧められた。それでも帝都にある家に戻るのは少し待っていて欲しいと言われ、部屋の中で手持ち無沙汰になっていた時だった。

 

ノックの音。唯依はどうしてか、扉を叩いているのが誰か分かっていた。

入室を勧め、対峙したのは想像していた通りの人物だった。

 

「………白銀、少佐」

 

呼びかけるも返答はない。じっと自分の眼を見つめてくるだけ。見られている唯依が気恥ずかしくなり、目をそらした時だった。

 

――――抱きつかれた、と気づいたのは数秒の後。唯依はたくましい腕に包み込まれている自分を自覚した後、自分の顔の血管が爆発したように、顔が赤くなっていく事を見ずとも感じ取っていた。

 

「しょ、少佐………!?」

 

唯依は手をわたわたさせて慌てた。人生初の経験に、脳髄は上手く起動してくれないでいた。それでも聴覚は、抱きしめている人物の声を捉えていた。

 

――――ごめん。すまない。

 

何に対しての謝罪なのか、唯依は分からなかった。理解できるのは、狙撃されて死んだとされている自分の身を心の底から案じてくれた男が居るということだけ。あれだけ規格外の戦闘能力を見せた衛士が、自分が死んだかもしれないという事に虚勢も見せず恐怖している。

 

不謹慎だが、唯依は自分の顔が更に赤くなっていくのを止められなかった。

 

 

 

 

 

 

しばらくして、二人は椅子に座って向かい合っていた。重い沈黙が部屋を包む。そうして、口火を切ったのは唯依の方だった。

 

――――説明をして下さい。抽象的な問いに武は頷き、自分の話せる範囲だけを唯依に伝えた。

 

自分が派遣されたのは、大きく分けて2つ。

もうひとつの理由は言えないが、目的のひとつは不知火・弐型の開発をサポートすること。事前にユウヤ・ブリッジスの調査資料を持っていた日本側は、篁唯依が責任者では開発が難航するかもしれないと考えたのだ。国外の事情に詳しく、周囲に溶け込めつつ視野の広い人物が必要。そこで白羽の矢が立ったのが、風守武こと白銀武だった。

 

「………その、少佐は」

 

「武でいい。俺は10歳の頃からずっと、海外で衛士をやっていた」

 

「そう、ですか………クラッカー中隊とはその時に知り合いになったのですか」

 

確認するような声。武は言葉を濁しつつ、そんなもんだと答えた。

唯依はそれを聞いて、驚きつつも納得する自分を何処かに感じていた。

 

15歳にしてベテラン染みた戦術眼に胆力、戦闘技術。才能だけではないと知った故に、規格外の機動を見せられて欠けたプライドが僅かに補填されるような気がしたからだ。

 

武は頷き、説明を続けた。斑鳩家での密談は省き、風守光が母親だと知ったこと。京都での戦い。暗殺されかけた自分を母が守り、そのせいで重傷を負ったこと。

 

「え………御堂家が?」

 

「崇宰の当主様が認めてくれた理由の一つだ。大きな借りをチャラにするかわりに、推挙してもらった」

 

唯依はチャラ、という言葉に疑問符を浮かべつつも何となく意味を察し、頷いた。

同時に、裏で動いていた様々な事柄を認識し、動揺した。

 

だが、それも一時のこと。ユーコンでのテロを経験した唯依には、それがあり得ない事であると思えなかったからだ。

 

「そうか………それで、私が狙撃されたのは………いや、原因は察している。下手人はサンダーク中尉だろう」

 

「今は少佐らしい。今回のテロで“研究の成果”を実証した功績が認められての昇進だ」

苦々しいという感情を隠そうともしない。唯依はそこで、直感的に問いかけた。

 

「それも………タケルは事前に折込済みだった。だから、予定通りだと?」

 

飾りの無い質問に、返ってきたのは無言のみ。唯依は連鎖的に思いつくことがあって、更に問いを重ねた。クリスカ・ビャーチェノワとイーニァ・シェスチナの両名の言動と見せられた光景を思えば、およそ現実のものとは思えないが推測はできたからだ。

 

BETAに対処するという一点に絞れば説明がつくことがある。人の思考を読み取り、送ることができる能力。そして元・ハイヴに横浜基地が建設された理由も。

 

「横浜の魔女、と言った。つまりタケルは香月博士の下で動いているのだな」

 

「………そうだ」

 

「そして、何か大きな目的のために動いている。非合法と言われるかもしれない、裏側で。その目的は………いや」

 

唯依は言葉を途中で止めた。問いかける度に武の表情が苦悶に染まってきたのだ。

答えられない、という事を個人的に認められなくても立場的に認めなくてはならない。

唯依はそれを、武の表情だけで察することができた。

 

再度、海の底のような空気の中で静寂が場を支配しようとする。

だが唯依は、感情をまとめる前に自分の考えを言葉にした。

 

「――――武が世界のために戦っていること。それを疑いはしない」

 

それは直感であり、証拠を重ねた上での結論でもあった。何よりもクリスカとイーニァが見せたあの感触。味わったことのないアレが、説得力を持たせていた。

 

疑うことはない。唯依の、自分に対しての答えでもあり。

それが口火となって、言葉は紡がれていった。

 

「一人で、ずっと………戦ってきたんだな。認めたくない絶望を叩きつけられても、ずっと、ずっと」

 

理屈を越えて理解させられる。格好をつける暇など微塵もなかったのだろう。這いつくばらされ、悔しさに膝を折られて。

 

唯依は不思議でならなかった。あれだけの虚を抱えているのに。暗示が無ければ人の心は容易に壊れるのに。一度触れれば数十年は忘れられない悪夢の連続だろう。心の弱った状態でフラッシュバックでも起こせば自殺は免れない、黒く暗く昏い人間の底の底を見ているのに。

 

唯依は思った。完全なる理解は不可能。貴方の気持ちが分かるなど、傲慢を言うつもりもない。それでも、唯依にとっては明確になっている事はあった。

 

それは、白銀武がBETAと絶望に屈してはいないということだ。

 

「武が………武である限り、私は信じよう。それに、守ってくれたしな」

 

唯依は僅かに顔を赤くしながら告げた。覚えていた。絶体絶命の危機に、不知火が庇ってくれたことを。

 

「………どういたしまして。でも、守ったのは当たり前だぜ? なんせ、数少ない3年来の友達だからな」

 

強がりだった。でも、真実だったと思う。

それでも、唯依は途端に泣きそうになった。

 

どうしてか分からない。あるいは、涙を見せない目の前の男の代わりかもしれない。

唯依は軋む程に拳を握りしめ、俯いたまま震える声で問いかけた。

 

「どうして………弱音を吐かないんだ。機密とか、守秘義務とかじゃないの。どうしようもなく辛いって、苦しいって、どうして………っ!」

 

一人であんな暗闇に取り残されたら狂ってしまう。狂わない筈がない。ないのに、どうして誰かにそれを打ち明けて楽にならないのか。唯依はそれが悲しかった。

 

上辺だけであれなら、胸の内に広がる地獄はどれほどの灼熱か。それでも強がろうとする姿が痛ましくて悔しかった。

 

――――大丈夫だから、と。唯依はそんな言葉を聞いた気がして、顔を上げた時に、それを見た。

 

心配するなと、おどけた表情で肩をすくめる姿を。でも相変わらず、嘘が下手だった。

 

顔には感情がありありと浮かんでいたのだ。全てを話せない悔しさが、嬉しさか、あるいはもっと別の何かか。唯依に判別はつかなかったが、複雑な表情を浮かべる武の顔から、目を離せなかった。

 

申し訳ないような、喜んでいるような、少し情けない、乾いた部分があって、冗談を混じえての、少し湿った、困ったような笑顔。それでも貫こうという白く輝く意志の剣を見たからだ。

 

認識した途端、唯依は顔ではなく、心臓が赤くなるような感触を覚えていた。そして胸を押さえた。理由は不明だが、外に飛び出しかねない程に高まった鼓動音を鳴らせる自分の心臓を中に留めるために。

 

 

武が部屋を去っていった後、尊敬する叔父が部屋に戻ってくるまで、ずっと。

 


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