Muv-Luv Alternative ~take back the sky~   作:◯岳◯

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珍しい一人称で。

武視点で書くと難産でしたが、別の視点に変えるとすんなり書けました。


シリーズ:斯衛之1 風守家の日々

 

「承知致しました、雨音様」

 

「ええ………頼んだわね」

 

もったいなきお言葉。私とお母様は雨音様のお言葉に頷くと、急いで動き始めた。赴くは現状使っていない中で最も格の高いお部屋だ。

 

日々来(ひびき)………分かってるとは思うけど」

 

「うん。埃の欠片さえ許してやらないよ、お母様」

 

深く頷き合う。そう、これは代々風守家の女中を務めてきた我が草茂家が全力を尽くすにあたる事なのだ。私はもう一度、雨音様から頂戴したご命令を、砕けた言葉にして反芻する。

 

―――風守家の当主代理として、主家である崇嗣様の傍役となり、その御命を守らんとする方が、しばらくこの家に逗留することになる。

 

それも雨音様や光様にとっても大恩あるお方であるらしい。その事情を聞いたからには、もう黙ってはいられない。今までに鬼の母より叩きこまれ、培ってきた技術を総動員してお客様にご満足頂けるようにしなくては。でも………ちょっと考えてしまった。

 

大勢なんて贅沢は言わないけど、もう一人だけでも、残っていてくれたら良かったのに。そう思っていたら、母から声がかけられた。

 

「余計な事を考えるのは止めなさい。もう過ぎた事。彼女達には、彼女達なりの理由があったと、そう割り切るの」

 

「でも、お母さんの方が………ご、ごめんなさい」

 

仕事中は母と呼ぶな、と言われた事を思い出した私は、即座に謝罪の意志を示した。こうでもしなければ、仕事の後が怖いのだ。母は女中筆頭の立場である時の叱責もきついが、ただの母としての怒声の方も同じぐらい怖い。

 

でも、黙っていられない。忘れられないのだ。京都に戦火が届くようになった直後、暇を頂くとこの屋敷から去っていった、母にとっての部下達を。母にとっては長年の付き合いで、私的にも親交があった友人達だった。なのに残ったのは調理をする人達と、私達以外の女中が2名のみというのは、受け入れがたい現実だった。でも、他ならぬ母さんが言うのならと、私は自らの仕事に専念することにした。

 

翌日、そのお客様の姿を初めてみたのは、雨音様に呼びつけられた後、来客と話をするために備えられている部屋の中だった。元より、しばらくはそのお客様付きの女中として働くように言付けられていたから、予想外の事ではない。

 

でも、そのお客様の姿は完全に予想外だった。当主代理を許される程の勇猛な方だという前情報から、私は筋骨隆々で髭もじゃもじゃした、いかにも武家武家しい姿を想定していたのだ。でも、目の前のお客様はどう見ても年下で、身長もそう高くなく、顔つきも武家らしくなかった。少し幼さを感じさせられる容貌を見るに、年は5つほど下か。中学三年生か、高校一年生といった所だろう。

 

庶民的な表現をしたのは、このお客様が武家の出ではないと思っていたからだ。お客様―――風守武様は、この屋敷の中が物珍しいのだろう、部屋を案内する途中でもあたりをキョロキョロと見回していた。用意した部屋の中を見て、驚愕に固まっていた事からも、庶民らしさが感じられる。

 

そうして、色々な説明が済んだ後だった。武様は去っていこうとする私を呼び止め、お茶を入れてくれと頼まれたのだ。元より断る理由などない。手早く用意を終えて、要望通りに熱いお茶をお入れする。武様はそれをゆっくりと手に取り、口に含まれて――――次の瞬間、吹き出した。

 

「あっつ………!」

 

えっ、と驚く暇もない。私は直後パニックに陥り、顔から血の気が引いていく音を聞いた。何か粗相が、いえでも熱々でと頼まれたから緑茶の味を引き出せる温度の中で、許す限りの熱いお茶を入れただけなのに、と。

 

涙さえ出ていたかもしれない。武様はそれを見られたのか焦り、どうしようもない事を言い始めた。

 

―――こういう屋敷に招待された時のお約束と思い、熱いお茶を入れられた。

―――でも緊張していて。それでも格好をつけなければと思った同時に勢いもついてしまってお茶の温度を忘れてしまったと。

 

飾らずに言えば、阿呆のする事だった。それでも悪びれず、武様は色々な事をこちらに聞いてきた。風守家の中はどうなのか。屋敷の規模に比べて女中さんが少ないように思えるけど、もしかして先の防衛戦で怪我でもしたのか。その他、風守家の事情をとにかく知りたがっていた。

 

私は即答できなかった。当主代理で雨音様達にとっても恩ある御方だとはいっても、外の人間である事には違いない。代理だけではなく、乗っ取りを考えている者かもしれないのだ。

 

武様はそういった私の様子を察したのだろう、理由について教えてくれた。

 

―――風守光の。自分の母親が守ると決めている家を、少しでも多く知っておきたいのだと。

 

咄嗟に口から驚愕の声が漏れでてしまったが、私は悪く無い。というより、驚くなと言う方が無理なのだ。

 

―――童顔で背も低く、大学生はおろか高校生でも通りかねない光様に、15歳程度の子供が居るなど、誰が予想しろというのだ。

 

そうして、驚愕している内に時間が過ぎた。今日の夜は歓待の食事会が開かれる。申し訳ありませんがそのご説明は明日に、と私が答えた後、改めて名前を名乗ることで一日目は終わった。名前の方に少し驚かれていたけど、同じ読みを持つ知り合いでも居たのだろうか。

 

 

 

翌日、武様に当主代理を任命する式事が行われた。風守家の当主の証である“霞斬月”と“夢時雨”の二振りが雨音様の手から武様の手へ託される。

 

その最中は昨日部屋で見たものとは全く異なる、武家らしいというより、軍人らしいと言うのか。背筋は伸び、姿勢も確かな、年齢に似つかわしくない威圧感を持つお姿となっていた――――これから学ばされるという、武家としての常識や振る舞い、そういったラインナップを聞くまでの間、という短い時間だったが。

 

それでも風守家が修めている小太刀術には興味があるらしい。何とも感情を表情に出す方だな、と思った。

 

その夜。私は武様に部屋に呼ばれた。あるいは“そちらの方”かと思ったが、違った。昨日に約束した、風守家を知りたい聞きたい、という用事だった。

 

私はあくまで主観になりますが、と前置いて話した。

 

風守雨音様はお優しく、お強い方だ。私がこのお屋敷で働くようになったのは、15の頃から5年間。雨音様は私より1つ年上という、ほぼ同年代ではあるが、その姿に何度も感銘を受けた。

 

痛感したのは、働き始めて1年が過ぎた頃。無様にも不摂生をしたまま仕事を続けていた私は、少し重たい風邪にかかってしまった時のことだ。初めての病苦に、健常の頃からは想像もつかない疲労感。吐き散らし、熱に魘される日々は二日間だけだったが、それでも私は本当に死ぬかと思った。それでも体力がある私は三日目には回復し、1週間が経過した頃にはいつもの体調を取り戻していた。心の底から安堵した。夜通し、夢か現実か分からないような状態で吐き気に襲われながら、厠と寝床を往復していたあの二日間は本当に辛く、今でも思い出したくないぐらいなのだから。

 

そして、もう大丈夫だとお医者様に言われた時だった。私は興味本位に、雨音様がかかっている病気について、どれぐらい辛いのか聞いてみたのだ。そのお医者様は雨音様の主治医でもあった。彼は患者の情報は漏らせないが一般的な認識として、と教えてくれた。

 

発作が起きた直後は、私が体験した風邪よりも辛い。呼吸困難になり、内臓にも痛みが及び、常人であれば立っていられないような酷い状態になると。

 

冗談を言っているようには見えなかった。だから、私は絶句した。代々女中を務めていたお家。だからこそ、何度か思ったことがあるのだ。どうしてそんなに身体が弱いのかという、理不尽かつ醜い感情を抱いたことがあった。

 

―――恥じた。心の底から、自分の考えが醜いものであると、そう思った自分を責めた。

 

だって、雨音様は弱音の一つも零さなかったのだ。他家の式事に赴いた時の事も聞いていた。発作が起きるも、気丈に御役目を果たし、車に戻った直後に気を失われたと。私には無理だ。あの風邪の中で周囲に気を使うなど、到底できない。

 

更に恥じ入るのは、病弱なのは雨音様のせいではないということ。不摂生をした、自業自得である私とは違う。

 

畏怖し、尊敬した。雨音様は幼少の頃から運命の悪戯に弄ばれ、釜に茹でられるような痛苦の中でありながらも、優しい笑顔を絶やさなかったのだから。

 

 

と、そこまで話した時には、夜も遅くなっていた。その後、お部屋を出る直前、武様に呼び止められると、礼を言われた。誰に対する礼なのかは分からなかったが、どうしてか良かったと思った。

 

 

 

 

 

 

三日目。今日は小太刀術を教えられるらしい。私は武様と一緒に道場に入り、見学させられていた。雨音様に発作が起きた時を考えてとのことだ。

 

その進捗状況について私は分からないが、無駄にはならないと思う。雨音様も、身体が弱いとはいえ鍛錬を怠っている事はない。僅かな稽古時間の中で少しでも上達しようと集中しているからだろう、刹那の技の冴えは尋常ではないと光様がおっしゃっていた。

 

一方で、武様はきちんとした流派を修められてはいないという。それでも体力や筋力は物凄いらしく、厳しい稽古の中であっても、息を一つも乱されていなかった。雨音様は先日と同じく、厳しいお顔で武様に小太刀術を教えられていた―――が、実に楽しんでいる事が分かる。稽古は型と反復動作を繰り返しているだけだが、武様が見事にやり遂げた時の雨音様の笑顔ったらない。

 

まるで肉親に―――立場的には弟に向けるようなもので、実に嬉しげだった。それでいて綺麗だ。どうしても身体が弱い雨音様は健常な者と同じような雰囲気を持つことは出来ないが、静かで儚げな雰囲気は同性でも守ってあげたいと思わせられるような可憐さがある。不遜だけど、思ってしまうのだから仕方ない。

 

と、雨音様の可憐さをたたえている内にそれは起こった。本日の稽古の締めくくりと、雨音様と武様が二人一組の方をしていた時、雨音様に発作が起きたのだ。胸を押さえる雨音様を前に、武様の反応は迅速だった。雨音様を抱きかかえるように支え、横にしながら主治医を呼んでくるように命じられたのだ。稽古の日は万が一の事があるとして、主治医を待機させている。

 

一刻後、雨音様は自室の部屋に戻られていた。運ばれたのは武様だ。お姫様を抱くように、慎重に雨音様を抱きかかえられていた。その後、敷かれた布団の中で穏やかに寝息を立てられている雨音様を見届けられると、武様は道場に戻られた。

 

そして、すぐに、先ほど教わった動作を反復しはじめた。雨音様のお傍に居られないのか、直接尋ねると武様は言い難そうに頬をかいた。その時の私の顔はどのようなものだったろうか。鏡が無いから分からなかったが、強張っていたように思う。武様は困った顔でも言葉で答えてくれた。

 

「雨音さんは、俺に稽古をつけてくれた。そうだろ?」

 

「はい………それと、どのような関係が」

 

「でも、途中で倒れた。悔しいと思ってるんだ。それに………主治医を呼びにいってもらっている間も、うわ言を繰り返してた」

 

ごめんなさいと、何度も。そうして、武様は告げられた。

 

「その謝罪の意味を失くす。稽古は十分だったって、成長で示す。そうすれば謝罪を向ける先がなくなる。俺も技を身につけられて万々歳ってことだ」

 

親指を立てながら、悪戯をする子供のような口調のまま、笑顔で。告げられた私は、二の句を継げられなかった。

 

「それに、ユーラシアで会ったイタリア野郎に教えられたんだ。女性に対して言わせるべき言葉は“ごめんなさい”じゃなくて、“ありがとう”だって」

 

笑いながら、素早い動きで。徐々に整っていく動作に、私は驚くより他に出来ることがなかった。流派を修められた事がないというのに、素人目にも分かるこの上達の速さはどういった事か。過去にどのような事を―――と思ったが、過去については聞かされていないのだ。それでも、一端が分かる単語はあった。ユーラシア大陸で、という部分だ。

 

私は稽古の邪魔になるかもしれないが、聞かずにはいられなかった。気障っぽい言葉ではあるが、当然のように相手を気遣うことが出来る人間は少ない。それが20にも満たない男性であれば特にだ。その上で雨音様が相手であれば―――風守家を取り巻く複雑な事情を知っている者であれば、武様の立場を考えれば、聞かないという選択肢がない。武様は少し考えられた後、頷かれた。

 

そうして、稽古が終わった後だった。

 

武様は目を覚まされていた雨音様を相手に、まず小太刀術に対する質問を浴びせた。各動作における意図や、足運びの意味についてなど。雨音様は一瞬だけ驚かれていたが、答えない訳にはいかないと、矢継ぎ早に投げかけられる言葉に対し、丁寧に対応されていて。最後に、武様はこう締めくくられた。「次回も稽古の方お願いします」、と。

 

その時の雨音様は、私も見たことがないものだった。呆けたと思ったら………満面の笑みというのはあのような表情を言うのだろう。花が咲いたかのような笑顔のまま、しっかりとした言葉で「はい」と頷かれていた。

 

半刻後。汗を流された武様に呼ばれた私は、雨音様のお傍に居た。どうしてだろうか、と思っている私と雨音様に対し、武様は過去の事を話され始めた。

 

最初は、インド亜大陸の前線に向けて日本を発たれた場面から。武様は自分が経験した事を教えてくれた。船旅から亜大陸に到着し、そこで訓練を受けたこと。死にそうな訓練を乗り越え、戦術機に初めて触れた時のこと。父親が死ぬかもしれないという恐ろしい状況で、戦うと決めた事。

 

感情がこもっている口調だろうか、臨場感を覚えた私は、いつの間にか職務を忘れて聞き入っていた。一方で、気になる事があったが、それは雨音様も同じだったようだ。

 

「影行殿、ですか………光殿の夫」

 

「ええ。ただのバカ親父ですが………戦術機開発に対する情熱は、凄いの一言でした」

 

身内の事だからか、恥ずかしがっていた。気安い関係のように見えるけど、複雑な感情を抱いているような。それでも最後に出る結論が、凄い、なのだろう。

 

その日は亜大陸を撤退する所まで聞かされた。他言無用だと言われたけど、必要ないと思った。だって、他人に言った所で信じてもらえるとは思わないもの。

 

それでも、どうしてか私には。武様が話された内容に、欠片たりとも嘘偽りが含まれているとは考えられなかった。

 

 

 

 

4日目。今日は座学―――武家の常識などを学ばれる時間だ。武様は先日とは打って変わった様子。覇気がないというか、嫌がっているというか。それでも様子を観察している私の視線に気づいたのだろう。言い訳をするように、「だって身体を動かしている方が性に合ってるんだって」と繰り返されていた。

 

その振る舞いは年相応で、素直に可愛いと思えた。雨音様は「ダメですよ」と、おっとりした様子で叱られていた。一方で武様は昨日の話の続きを、と―――授業を中断させようという狙いだろう―――おっしゃられていたが、無言の笑顔を前に折れた。手応えがあるなら粘ったのかもしれないが、暖簾に腕押しは堪えたらしい。

 

………正直な所を言えば、私は誤魔化されそうになっていた。だって、お話される内容がとても興味深いんだもの。

 

夕刻、その日の勉強が終わった武様は突っ伏していた。聞けば、剣術の稽古―――それも私では到底完遂できないほどに厳しいそれより、こういった勉強の方が100倍辛いらしい。雨音様は苦笑しながら、武様の頭を撫でられた。武様は気恥ずかしいのか、ささっとそれを避ける。

 

「ふふ、恥ずかしがらずとも………しかし、気になった事があります。武様は武家の振る舞いなどについて、他のどなたかに教わった事がありますか?」

 

「ああ、一応………樹から。なんていうかそういった気構えとかに五月蝿くて」

 

「樹………もしや、紫藤樹殿ですか? マンダレー・ハイヴを攻略された………」

 

と、そこで雨音様はハッとなられていた。

 

「ターラー教官、とおっしゃられましたが………もしや」

 

驚かれる雨音様。一方で武様も知らされていなかったのか、と少し驚かれているご様子。そうして、驚愕の事実が判明した。亜大陸から撤退した後、武様は日本にまで名が届くほど有名な部隊に入られていたという。

 

その後は、亜大陸撤退からスリランカ、タンガイルの悲劇からバングラデシュの攻防まで。手に汗を握ると同時に、過酷な戦場の事を聞かされた私は寒気を覚えていた。

 

気がつけば食事の時間を大幅に過ぎていて、遅めの夕食を取ることになり。その後、私は女中頭こと母に怒られた。尤も、雨音様自身が「私が続きを聞きたかったから。つまり私の我儘だから、日々来は悪く無い」とおっしゃられた後は、母の怒りも和らいだが。主人が聞きたいというのに、女中である自分が止められる事はできなかった、という理屈があるからだろう。

 

最後、部屋を出た後。ふたりきりになった母はもう怒っていなかった―――どころか笑っていた。雨音様が我儘とおっしゃるなんて、と。それは女中仲間が出て行ってから初めて見た、母の笑顔だった。

 

 

 

 

 

翌日、勉強が終わった後。私は呼ばれた武様の部屋の中で、光様の事を話した。あくまで主観ですが、とまた前置いて私は自分の知る限りの光様のことを教えた。

 

光様に対する印象、というか対応は家中では2つに分かれていた。まずは、私と母を含め、この家に残っている3人は、光様に普通に接していた。雨音様に代わり斑鳩公の傍役を務めるお方に相応しい、という意味で。

 

一方で、去っていった人達。その全てではないが、光様に反感を覚えていた。仕える家の格というのは、女中にとっても大事なものだ。母や私はしないが、こういった家に仕えているというものを自慢する者も居る。そういった人達にとって、元が白の家格である光様が風守家の主のように、傍役を務めている事は納得できないものらしい。よそ者が、外様が、成り上がりが、という陰口を聞いたのは一度や二度ではない。私はその人達が大嫌いだった。だって、自分の事しか考えていないのだ。傍役を務められない雨音様がどういった思いを抱いているか、光様を有りがたく思っているか、普段の様子を見ればそれが分かるのに。光様も、その立場から外に出れば敵が少なくない身らしい。他家に仕えている友達に聞いたが、よく風守光の名を貶める言葉を聞くと言っていた。

 

そして………光様に反感を覚える女中で、私が嫌いになれない人が居る。雨音様と、その母君である夏菜子様をずっと見られていた彼女達は、光様を嫌うというよりも、割り切れなかったのだ。

 

雨音様はずっと気丈に振る舞われてきた。運命を呪わず、武家として相応しく在ろうと、血を吐く思いで努力を重ねられてきた。夏菜子様はそれをずっと見てきた。

 

胸中の複雑さは、いかなるものか。私はある女中が吐いた言葉を、ずっと忘れられなかった。

 

“娘を愛しく思っている。その娘を、上手く産むことが出来なかったのは自分。これから先、どれだけ辛い思いをしようと、血の滲むような努力を重ねようと、武家として認められる可能性は皆無。このままでは、風守光こそが、風守家の当主として在り続けることになる。先代当主であり、夏菜子様にとっては愛していた夫である遥斗様。彼と自分の子供ではない、遥斗様が可愛がられていた光様が、何より認められる事になる………母として、女として、耐えられるものじゃない”

 

反論できるものではなかった。日増しにお二方の軋轢は深くなっていく。それでも、理屈を置けば。感情を考えれば、どちらが間違っているとも言えなかった。

 

誰が悪い訳でもないのに、どうしてこうなったのか。その中で、光様は何も言わなかった。言えなかった、というのが正しいかもしれない。光様は自分が憎まれ役になることを、仕方ないと割り切っていたように思う。

 

それでも、風守家を背負う立場のまま、勇名を轟かせた。大陸での戦いでもその武を見せ、名だたる方々と一緒に戻ってきた。

 

全てを話し終わった後、武様はため息を吐いていた。

 

 

「………“苦境を愛せ。されば世界は輝いて見える”、か」

 

小さく呟かれたその言葉は、誰の物かは分からず。

 

それでもどうしてか、武様にとって大切な人が発した物であると分かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

翌日、早朝。風守家に招かれざる客がやってきた。私がそう思うのは、以前からその人物が風守家に訪れる度に嫌味と皮肉を残していったからだ。

 

譜代武家、格は“山吹”である小野田家当主、小野田一峰様。端的に表すと、彼は傍役の座を掠め取ろうとやって来たのだ。風守光が負傷し、傍役を退いた事。その後釜に収まったように思える風守武の力不足を明らかにして、我こそが相応しいと斑鳩公に示さんというのだ。

 

公が認められているのに、無茶な理屈だ。それは相手も理解しているらしく、だからこそ仕掛けてきたのだ。

 

一峰様―――いや、もう一峰と言おう。奴は、嫌味ったらしい顔で口を開いて、告げた。

 

「聞けば、任務外での負傷とは言語道断。傍役としては愚かな結果であり―――何より愚鈍で間抜けな話だ。しかも後任に息子を据えるとは。まったく、礼儀を知らぬ外様は始末に終えないもので………ああ、それも仕方ないか。代わりが務まるのが、“それ”しかいないのではなぁ」

 

カカカ、と笑う声。後から聞いた話だが、これは挑発だった。激昂した武様か雨音様を利用し、どちらが相応しいか力で示すべきだという場を作るための行為だと。

 

でも、この時の私はそれさえも忘れていた。敬愛すべき主人を貶められ、黙っていられるはずがない。職務を忘れるほど愚かではないが、我慢できるものではない。立場という制限を取り払った状況であれば、平手の100発の後に金的蹴りをお見舞いしたい所だ。

 

その衝動と戦っている最中だった。武様の声を聞いたのは。

 

「………笑えるなぁアンタ」

 

「ほう………何がおかしいので?」

 

「いや、いかにも道化っぽくて。それで、つまりアンタが言いたいのは―――どっちが傍役に相応しいのか、力比べして確かめようぜ、って所か」

 

「ふん、バカではないらしいな………それで、お主はこの提案から逃げるか? ならば臆病者だと笑わせてもらうが」

 

「それこそ笑えるっての。まあ、受けて立とう」

 

「その言葉、二言はないな?」

 

「おっさんこそ、二言はねえよな」

 

「………っ! ならば、受けてもらおうか。時間は明後日、場所はこの家の道場でだ!」

その言葉に、雨音様がハッとなり、続いて私も気づく。武様は衛士として認められたというが、白兵戦についてはその限りではないのだ。小太刀術も学んでまだ数日であり、長年の間修練を重ねてきた奴と比べれば、不利である事は否定しようがない。

 

予め、情報収集していた上で、この流れに持って行きたかったのだろう。奴はニヤリと嫌らしい笑みを深めた。武様はそれを見て、呆れたように告げる。

 

「おいおい、いやらしい顔を浮かべるなよおっさん。がっつく男は嫌われるらしいぜ?」

「ふん………嫌われても構わぬよ。失敗作と頭の悪い女中風情など、頼まれても願い下げだ」

 

嘲りを隠そうともしない笑みは勝利を確信してのことだろう。挑発を重ねてこちらの平常心を奪うためか。家格が上の相手に吐いたその言葉は許されざる無礼になるが、奴は勝利を収めた後であれば取り返しはつくと思っているのだ。

 

私は、それどころじゃなかった。失敗作、という言葉に雨音様の肩がぴくりと跳ねるのを見た。思わず立ち上がりそうになるが、武様に手で制された。

 

「お客様のお帰りだ………一人で帰れるよな、おっさん」

 

「当然のこと。立会人はこちらで用意しておく………約束、違えるなよ小僧」

 

吐き捨てた一峰は、そのまま悠然と去っていく。

 

その姿が消えた後、私は武様につめよった。雨音様、光様を侮辱されたのに、どうして反論も怒りも返さなかったのか。女中の立場で言えることではなく、失格と言われるだろう。それでも構わなかった。お母さんに平手で打たれるも、納得できない私は更に怒りのまま武様を睨みつけた。

 

武様は、落ち着いた表情で口を開いた。

 

「………“指し手になるならば、まずは事の収め方を学べ”。最近になって教えられた言葉なんだ。だからこそ………」

 

武様はそれだけ言うと、口を噤まれた。だけど、何よりその目が物語っていた。

 

―――激怒と表すにも足りない、それを超えた領域で怒りの感情を燃やしている。激情に駆られて殺す事を決めた人間というのは、こういった瞳をしているのではないか。そう思わせる程に、瞳の奥に見えた感情は苛烈の一言に尽きた。

 

そうして、深呼吸の後。武様は雨音様の前に立つと、道場に行きましょうと言った。雨音様はその言葉に、少し震えを見せたが、何かを思われたのだろう。顔を上げると、分かりましたと頷き、立ち上がった。

 

その後も、次の日も。空が夜に染まるまで、道場から二人の剣音が途絶えることはなかった。

 

 

 

 

 

そうして、勝負の日。招かれざる客を案内した後、もう一組のお客様を案内していた。

 

一人の御方が身に着けているのは、光様や雨音様と同じ真紅の服。それも有名な、真壁家のお方だという。そして、もう一人は私が表現するのも烏滸がましいお方だった。

 

立会人の到着を待っている、武様と一峰が居る道場の中に。お二方のお言葉があれば、一峰の企みもこれで終わりだ。そう思いながら道場に入った後の反応は、大別できるものだった。

 

武様と雨音様は、落ち着いた様子で。一方で一峰その他、お付の者達は驚愕に動揺していた。

 

「こ、これは………崇嗣様。このような場所にご足労頂けるとは」

 

「なに、傍役の資質を示す決闘とあってはな。運良く時間も空いた、物見遊山ゆえ楽にするが良い」

 

崇嗣様はそうおっしゃり、横に居る真壁介六郎様が告げられた。

 

「立会人を務める、真壁介六郎だ」

 

「両者とも知っている顔だろう? そして………ここに宣言しよう。この決闘に勝利した方を、傍役に相応しい者として認めることを」

 

「そ………いえ、ありがたき幸せ! 御前にて我が武威、誇れるような機会が与えられるとは!」

 

約定の言葉に、一峰は感激したように震える。家格としては風守に勝るとも劣らない真壁の家の者の前で宣言されて、嘘ではないと確信したのだろう。一方で、武様は冷静だった。というよりも、お二方をジト目で睨んでいるようにも見える。そうして、武様はため息と共に告げられた。

 

「用意している得物はこれ、防具はなし………このままで」

 

防具もなしに木刀で打ち合うという提案に、驚いたのは奴の方だった。木で作られたものであろうとも、打ちどころが悪ければ死に至ると聞いたことがある。私は危険過ぎると思い、一峰も同様の感想を抱いたようだが、異議を唱えることはなかった。

 

ここで臆した時の事を考えたのだろう。傍役とは文字通り主の傍に仕え、必要となればその身を張って守りぬく者だと教わった事がある。戦場でもないこの状況で臆病風に吹かれたものを崇嗣様は重用しないと読んだのだろう。

 

「それでは、両者前へ!」

 

拙い、と思った。お二方の叱責でこの場は終わりだと思ったのに、事態は最悪の方へ向かっている。狼狽える私は、思わず武様を見てしまった。

 

武様もそれを察したのか、こちらを見て―――親指を立てた。

 

始め、の合図と共に構える。その様子は、一種異様だった。

 

武様は落ち着いている。小太刀術は刀身が短い分、取り回しやすい。故に防御の戦術に向いているという雨音様の教えの通り、迂闊に動かずどっしりと構えている。

 

奴はすり足で横に動き、その隙を探している。体格の差は歴然。だというのに、身体が大きい奴の方が動いているのは、違和感を覚えさせられた。

 

だけど、二人の間に流れている緊張感は本物で、私はどこか息苦しいような感覚に襲われていた。でも、無理もないと思う。間違えば死ぬという状況は、即ち抜身で殺し合いをしているに等しいもの。この時代において剣を持って殺しあうなど、武家であっても滅多にないことだ。

 

そう思っている内に場が動いた。仕掛けたのは奴の方。刀を持ち上げたかと思うと、剣先だけが届くような距離で振り下ろした。カアン、という音が道場に響く。

 

それは武様が振り下ろしの一撃を木刀で受けた音だ。武様はそのまま、身体を横に流して、構えなおした。

 

その時、私は得物の差による戦力の差に思い至った。あの距離なら、武様が剣を振った所で一峰には届かない。故に受けて、捌いたのだ。一峰はそのまま進み、武様が詰め寄る前に向き直った。

 

「ふん………素人では、ないようだが」

 

奴が声を発するも、武様は沈黙を保った。集中されているのだろうか。分からないが、その後も奴は同じような攻撃を繰り返した。素人である私には目視できない速度での連撃。

縦、横、斜めに振られるそれはまともに受ければ一撃で終わる威力を持っている。それでも武様は冷静に、一撃づつ対処していった。その姿は実に堂々としたもので、先日まで小太刀術を知らなかった人の動きとは思えない。

 

徐々に、奴の動きが鈍くなっていく。防具もなしで打ち合っている緊張感のせいか、呼吸が疲労で乱れている。比べ、武様は欠片たりとも息を乱していなかった。

 

そこで奴も幾ばくか冷静になったのだろう、声を上げた。

 

「逃げてばかりとは、臆病者め! 少しは打ち込んで来たらどうだ!?」

 

「………小太刀術は、守るためのものと教わった。傍役として相応しいと」

 

「くっ………!」

 

挑発を正理の言葉で返された奴が黙りこむ。それでも、諦めていなかったようだ。その笑みを嫌らしいものに変えると、横に歩き場所を変えると、大上段に構えた。

 

というより、木刀しか見えない。何故なら、奴の姿と武様が居る位置が重なるからだ。

 

「ふっ………逃げてばかりでは守れないものもあるとは思えんか?」

 

「同感だぜ………っ、てめえ?」

 

まさか、と思う。しかし、それしか考えられなかった。奴はこのまま突進して、大上段を振り下ろそうというのだ。そして、確信した。あるいは事故として、私に木刀を浴びせるか、体当たりで吹き飛ばそうと考えている。

 

武様もそれに気づいたのだろう、ぴくりと肩を揺らされた。

 

「そうか………やるってのか。二人を侮辱した上で、やろうってんだな」

 

「ふ………」

 

奴は答えないまま、呼吸を整える。万全の一撃で仕留めようという腹づもりだろう。

 

―――そうして、呼吸が平時の者に変わると同時に、武様の刀が少し下がったのが見えて。決着は、瞬間での事だった。結論から言うと、奴が振り下ろした木刀は直撃した。

だが、それは柄の部分でのこと。しかも小太刀で勢いを鈍らされたのだろう。武様はそれを肩で受けられたのだ。

 

奴の表情が驚愕に染まる、その直後に決着はついていた。武様は一気に間合いを詰め、足を引っ掛けながら奴を転ばせると、瞬時に馬乗りになった。

 

「な………貴様っ!」

 

「反則じゃない、って事は分かるよな? 武で競おう、得物はこれだとしか言ってないもんな」

 

「―――っ?!」

 

奴の顔が固まるのを見ると、武様は拳を振り上げながら言った。

 

 

「そんな、くだらない細かい事はさておき―――よくも、雨音さんと母さんをバカにしやがったなぁ、オイ」

 

「っ、待―――」

 

「二人を尊敬する俺から、プレゼントだ………遠慮無く受け取ってくれよ」

 

返事を聞かずに振り下ろされた拳は、奴の意識を刈り取るのに十分なものだった。拳を傷めないためか、掌の硬い所を打ち下ろされた鈍い音が終わったのは、勝負ありと介六郎様がおっしゃってから。

 

奴らの一派は一峰様の元に駆け寄り。武様は拳を収めた後、ゆっくりと立ち上がりお二方を見る。そうして、後始末が終わった後、一峰らが去っていった後だった。

 

武様は、私に少し外して欲しいとおっしゃった。断れる筈もない私は、屋敷の方に戻ると、待っていた母に結果を報告した。母は当然だというように頷くが、私には分かった。とても喜んでいることが。

 

しばらくしてから戻られた雨音様だけど、先日と同じように武様に抱えられていた。意識も定かではない前回とは違い、雨音様は耳まで顔を赤らめられていた。

 

………少し、もしも自分だったらと考えたのは内緒だ。

 

 

その夜、武様と雨音様は庭に出られていた。見上げれば満月。少し雲にかかっているが、それもまた風情だと思った。

 

しばらくして、私は部屋に戻られた武様に質問をした。どうして、あのように冷静に立ちまわることが出来たのか。鋭い攻撃を完全に防ぐことができたのか。武様は、あーと難しい顔をしながら説明をしてくれた。

 

冷静に立ちまわることが出来たのは、慣れているから。大陸でのBETAとの戦いは、終わりの見えない殺し合いだったという。そのような緊張感に慣れた結果、感情を激してもそれに流されない術を自然と覚えたという。異常も長ずれば平常になる。だから慣れていない奴は疲労を重ね、自分は違ったと。

 

攻撃を完全に防ぐことができたのは、グルカの教えを受けたから。バルという師の方が3倍は強くて怖かったと武様が苦笑していた。また、グルカナイフと小太刀は重心の異なりはあるが、刀身の長さは似たようなものらしい。それを使って慎重に立ちまわる術などは修練を重ねていたという。

 

「相手も情報収集したんだろうな………その結果、俺が白兵戦の素人だって思い込んで、仕掛けてきて返り討ち。つまりは自爆だ」

 

それでも嬉しそうじゃないのは、どうしてだろうか。武様はあー、と言いながら黙りこみ、雨音様は苦笑するだけで答えて頂けなかった。

 

「まあ、これで終わりじゃないけどな。白兵戦で仕掛けるのは、もうできない。そう思わされただろう」

 

武様が、ため息と共に疲れた表情になる。どうしてそのような結論になるのかイマイチ分からなかったが、そういうものなのだろう。そして、とまたため息を重ねられた。

 

「次は衛士として………戦術機乗りとしての腕比べ。傍役に相応しいのか、だって」

 

そこで苦笑するのは、どうしてだろうか。私には分からなかったが、どうにも白兵戦より自信があるように思えた。その様子から、私も先の一戦より不安がないのではないかと思えてならない。

 

―――翌日、衛士としての勝負の結果を聞いた。

 

とはいっても、雨音様が一言「酷い事になった」と相手方へ同情心を見せていただけだったが、私は結果を思い知ると同時に、そのようなものなのだろうと納得させられた。

 

 

 

その後も、日々は続いた。光様は関東の病院に避難され、今の段階では戻ってこられないらしい。雨音様と武様は、日増しに仲を深められているという。あれから何度かBETAの侵攻があったが、武様は笑顔で死地に向かって、約束通りに帰って来てくれた。

 

戦時においては変だと言われるが、屋敷の中は数ヶ月前より穏やかで和やかな空気が流れていたように思う。

 

だけど、夢のような日々は終わるのだ。武様は、はっきりとおっしゃられた。

 

次のBETAの規模を聞いた帝国軍は、防衛戦を行うも、最後には京都より撤退する事を選択したと。そして、武様が所属する第16大隊はその殿を務めることになる。

 

雨音様は、冷静に。武様の言葉を聞いた後、頭を深く下げた。

 

「誠に………誠に申し訳ありません。光様と同じく、私は肝心な時に何も………っ!」

 

「そんな事ないですって」

 

武様はいつもの調子で、いつものように明るく、優しい声で言われた。

 

守るべき人達は当然の事で。更に俺が頑張れるのは、やる気が増し増しになるのは、ここに居る家族のお陰だと。この戦時において、ここは安らげる空間だったと。大陸で中隊と一緒に居た頃とは違う、穏やかな場所だったと。

 

雨音様はそれを聞いて、泣きながらも笑われていた。武様はそれでこそです、と親指を立てられていた。

 

そうして、ふと思いついたように庭へ。武様はその地面へ、深く木の小太刀を突き立てると、振り返って私達にどやぁという顔を見せた。

 

「これは………誓いの証だ」

 

「誓いの………もしや」

 

「そう。今は京都から撤退する。するしかないんだ。でも、俺は………俺達はいつか絶対に、ここに戻って来よう。邪魔するBETAを全てぶっ倒した上で、凱旋してやるんだ」

 

BETAの侵攻によって京都は踏み荒らされるだろう。屋敷も庭も壊され、原型を留めない筈。誰よりもそれを理解している武様がどうして。その問いに、武様は背を向けながら答えてくれた。

 

「覚えていればいい。ここに俺達は誓いを突き立てたんだ。たとえBETAに踏み壊されようが、その事実だけは壊れない」

 

これから先、苦難が続くだろう。絶望に襲われるだろう。楽な方にと、膝を屈しそうになるかもしれない。だけど挫けそうになった時、折れそうになった時、ここに誓いを立てた証を忘れなければ、それを頼りに立ち上がれると。

 

「だから………雨音さんも、日々来達も先に避難してくれ。大丈夫だからそんな顔すんなって。俺は―――俺達は斯衛最強の第16大隊だ」

 

頼れる仲間も居ると、笑顔で。そうして武様は、透けるような青空の下、背筋を伸ばしたまま前線に向かわれた。いってらっしゃいませ、という声に振り返らず、手で振ったまま往かれたのだ。

 

 

 

 

―――そうして、私は眼を覚ました。

 

 

「………長い、夢だったなぁ」

 

京都での日々を、一夜にして見たらしい。あまりに濃密な時間に、私は目眩さえ覚えていた。だけど、悪くない。決して悪く無いのだ。

 

屋敷に居た頃とは全く違う、硬いベッド。それでも清潔に保ったシャツを纏い、立ち上がる。ここは帝国斯衛の基地の中。予算も厳しく、私達のような雑用を任せられた者に贅沢が許されるはずもない。

 

今日も、京都に居た頃を思い出したのだろう愚痴る者の声が聞こえる。仕事の厳しさに啜り泣く声さえも。責めることはない。私も、一歩違えば同じように愚痴り泣いていただろうから。

 

「それでも………あの誓いがあるから」

 

雨音様は衛士になられた。症状が僅かなりとも回復したからだ。どのような名医が診てくれたのかは分からないが、以前のような重い発作が起きることはなくなった。それでも体力の無さが生死に直結するのは、日々聞かされる前線の状況を聞けば嫌でも理解させられる。だから、状況が良くなった訳じゃない。いや、以前よりも厳しい状況に置かれている事は間違いないだろう。

 

それでも、戦われている。武様と誓った通りに、諦めず、膝を屈さず。ならば、その女中である私が先に折れることは許されないのだ。

 

「さて、と………今日も頑張りますか!」

 

大声で自分を鼓舞すると、泣いている人の肩を叩く。どのような状況であれ、生きているからには頑張るしかないのだ。諭すような事はできない。そこまでの器はない。だけど、出来る限り、瞬間でも気遣って、温度を伝えて。

 

そうして泣き声が小さくなった部屋を出た私は、腕をまくりながら職場へと向かう。今の私が成すべきことを成せる、戦場へ。

 

手を抜くことは許されない。品質もばっちりに、今日もやり遂げてやるのだ。それだけ厳しい仕事になり、肉体的な疲労も増えるが、構うものかと自分の頬を張った。

 

背筋を伸ばし、胸を張って、悔やむことなく、歩く。

 

 

―――心に1本、愛すべき方達と共に。

 

青空の下で突き立てた誓いの旗を、支えにしながら。

 

 

 

 


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