Muv-Luv Alternative ~take back the sky~ 作:◯岳◯
社霞は静かに息を呑んでいた。どれだけ手を伸ばした所で二度と会えないと、一時はそう思っていた人が生きて隣の部屋に居るから。言葉と思いを発しているがために。姉の様子から死んではいない、ここに戻ってくると、そう思える部分はあっても、客観的には9割9分戦死したと判断されてもおかしくはない状況だった。なのに戻ってきた。嘘のようで、嘘ではなかった。
霞は命じられるがままに、二人が対面する執務室の隣にある部屋で待機していた。監視カメラからその人物の姿を見た時は呼吸さえ忘れた。霞は叶うならば、今からでも走って飛びつきたかった。だが、自分の足が地面に縫い止められたように、動かない事に気づいた。
(違います………動かないんじゃなくて、動けない。博士とタケルさん、二人の………強烈な………)
霞はそこで言葉に詰まった。形もない強烈な何かを言葉で表わせなかったからだ。リーディングだなんだと教えられても、“それ”の正式名称は神様だって分からないのよ、と以前に夕呼から冗談混じりに言われた時の事を思い出していた。
今でも、理解するまでには到底至らない。それでも確信できるのは、二人が本気であるという事だ。前のめりというにも生ぬるい。抱いた願い、それが叶わなければ己が身の何もかもが砕け散るような。
光のようで炎に似た“それ”は更なる熱を持ち、まるで隣の部屋の全てを覆い尽くすかのように燃え上がった。
霞は知らない内に額から流れる汗を拭うことも忘れ、隣の部屋を観察し続けた。カメラの向こうに映る、静かに激昂しつつも思考を急速に回転させ始めた白衣の女性の姿を。
外の音が届かない地下の執務室の中。黙り込めば静寂の耳鳴りだけが聴覚を支配する中で、二人は対峙の姿勢を崩さなかった。ようやくと、呆れた溜息が部屋の大気を僅かにかきみだした。
「斯衛も遂に末期ね。いえ、斑鳩崇継だけが狂ったのかしら? こんな狂人を生かしたままにしておくなんて信じられないわ」
声と表情に嘲る色は無いが、それは挑発の言葉だった。武はその意図を察した上で、困った風に笑いながら答えた。
「狂人どうこうはともかく、今の俺は斯衛じゃありませんよ。ついさっき辞めてきたんですよ」
「へえ………遂に追い出されたのかしら」
「ええ、尻を蹴飛ばされて。いいから行くべき場所へ行けって………言葉は違いましたけど、俺はそう解釈しました」
武は視線を受け止めながら苦笑した。夕呼は、欠片も揺らがない姿勢とその目を観察しながら、言葉を重ねた。
「なら、現在無職の哀れな狂人に聞くわ。いいから、真意を先に説明しなさい。まさか、さっきの言葉に馬鹿らしいほどの矛盾が含まれていた事を分かっていないとは言わせないわよ」
「ええ、そうですね。こっちの先生はまだ世界を救っていないですから」
未来の天才と今の天才、仮かどうかを全て措いたとしよう。だが、世界を救ったという功績を考えればどちらの立場が上かは説明するまでもない。通常、挑戦状とは下の者が上の者に叩きつけるものだ。未来から得たという事も考えれば荒唐無稽を越えて、意味不明の戯れ言にさえ劣る。
武はそんな夕呼の主張を、“言い回しを考えたのは俺じゃないんですけど”と前置きながら答えた。
「“チャンスがゼロというのもあんまりだから、取り敢えずコレを読むと良いわ。いくら他所のあたしでも、勝負の舞台に上がれないのでは惨めすぎるからね”らしいです。まあ、百聞は一見に如かずですよ。取り敢えず、見て頂ければある程度は理解できるかと」
「………閲覧した途端にウイルスがばら撒かれない、という保証はないのかしら」
「保証はありません。でも、先生は見ざるをえない。危険な橋でもわたらなければいけないぐらいには追い詰められているから。先ほどの敵意の視線と、電子媒体の持ち方を観察すればある程度は察せます………かなり、余裕がないみたいですね」
武は内心で酷く驚いていた。あちらでは、これまで切羽詰まっている夕呼を見る機会はなかったからだ。記憶の中にある、平行世界の自分に怒鳴り散らしている時に匹敵するかもしれない。
だからこそ、と中身を見ることを促した。夕呼はしばらく黙りこんだ後、電子媒体を自分のパソコンにセットする。
「パスワードは?」
「11010608、だそうです。安易過ぎるけど、どうせあたし以外の誰が見ても理解できないでしょ、とかなんとか」
「………そう」
夕呼は静かに入力し、開かれたファイルを見る。その中から、一番容量が大きい00ユニットというファイル名にマウスのポインタを合わせた。小さく一呼吸した後、画面を睨みつけながら、ダブルクリックでファイルが開かれると、夕呼の目が小さく見開かれた。それを見た武は、ちなみにと告げた。
「一応言っておきますけど、中に何が書かれているのかは俺に「黙りなさい」………分かりました」
ほんとあっちの先生の予想通りだよ、と武は3歩下った。直立不動のまま、難しい顔でパソコンを見続ける夕呼を見守る。
そうして、重要な部分を一通り見たのだろう夕呼は、怪訝な表情を浮かべると武を睨みつけた。
「………成程、ね」
「何か分かったんですか?」
「ええ。あたしの性格の悪さと、あんたの意地の悪さがね」
夕呼はそう告げると、執務机の引き出しから銃を取り出した。ゆっくりと立ち上がり、武に銃口を向ける。武はその視線に先ほどまでの怒りがこめられていない事を確認すると、夕呼に問いかけた。
「何のつもりですか?」
「………この論文は未完成よ。いえ、態と未完成に見えるようにした、と言うべきかしら。私の今の理論を否定する論拠と、正しいと思われる理論を示す入り口………その部分しか書かれていない」
「そうでしょうね」
武は頷き。そして、口を閉ざした。
「何のつもりかしら。貴方にはこれが見えないの?」
「見えてますよ。予想してました。だから3歩後ろに下がって、距離を開けたんです」
武の返答に夕呼が顔をしかめた。
「………この距離であたしの腕じゃ、どうやっても急所には当たらない。そう確信してるようだけど、身体のどこかに当たらないとも限らないわよ?」
「そうかもしれませんね。でも、即死しなければどうとでもなります………やりたくはありませんが」
「へえ。あたしを殺して、この基地を去る? できるとでも思っているのかしら」
「いや、何でそうなるんですか。俺が先生を殺す訳ないでしょう。そんな事するぐらいなら、さっさと脱出して次善策を練る方が良いです」
武は冗談じゃないと首を横に振る。夕呼は、訝しげに片眉を上げた。
「じゃあ、どうするつもりだったのかしら」
「武器取り上げて、拘束したまま説得します。納得するまで。愚策ですけど、それ以外にありません」
「ふん、押し倒して縛り上げた挙句に言うことを聞かせるつもり? まるで強姦魔ね、最低最悪の変態だわ」
「えええ………いや、間違ってないかもしれませんが、こう、ちょっとは手加減があると嬉しいです」
でも先生だしなぁ、と武は軽く両手を上げた。
「遊びはここまでにして下さい。考え、まとまったんでしょう?」
「………ええ」
夕呼は頷いた。論文を否定するその方法と文章に加えて、正しい理論の書き方。それを一通り考えてみた結果、意図する事は一つだと忌々しげに口を歪めた。
「これは課題の一つね? 同時に、あたしが正しい理論にたどり着けるかどうか、あちらのあたしとやらから送られた、“挑戦状を書くための紙”となる」
ヒントを出しているようで、これだけでは理論の終点まで辿りつけない。このような事を書けるという事はつまり、これを記した人物が因果律量子論の最終解まで辿り着いているという事。それも、この自分にそう確信を抱かせるほどに。
「………何様のつもりなのかしら。今の日本が置かれている状況を分かっているの? 余計な時間を使っている余裕なんてないのに、あんたはそれを許容するのかしら」
佐渡島のハイヴは健在なのに、課題だなんだと遠回りをする事に何の意味があるのか。間引き作戦でも戦死者は出るのだ。そう睨みつける夕呼に、武はぐっと顎を引きつつ答えた。
「どうしても必要だから、こうしています。今はそれだけしか言えません」
「………どうあっても今この場所で因果律量子論の完成形を渡すつもりはない。そう言うのね?」
「持ってきていませんから。それに、ずっとじゃありません。期限は一週間。それで辿りつけなければ………と、そういえばもう一つのフォルダに色々を書いている筈ですが」
「なんですって?」
夕呼は促されるまま、パソコンのデータを見た。
直後、深く深く息を吐いた。
「全く………言ってくれるもんだわ」
「あの、顔が怖いんですが。あっちの夕呼先生からの伝言ですよね? 何が書かれてたんでしょうか」
「………良いわ。読んで聞かせれば、って書いてあるしね」
夕呼は舌打ちしながらも、書かれている文章を読み始めた。
「“分かっているでしょうけど、この課題は小手調べよ。これだけのヒントを与えられているのに、まさか解けないとか言わないでしょうね? 諦めるんなら、目の前のバカにギブアップって言えば良い。それだけで目的は達成できるわ”………っ」
夕呼は書かれている文章に、眼を細めた。
「“平行世界のあたしだからといって、このあたしと同じ程度の頭脳を持っているかどうかは分からない。だから試させてもらうわ。そっちの戦術機バカに託したものを、全て活用できるかどうか。その気持ちを、あたしなら理解できるでしょう?”…………だ、そうよ」
「おおぅ………随分と過激な」
聞いてねえよと武が頭を抱えた。香月夕呼から香月夕呼に送られたメッセージだけはある。プライドと感情をくすぐって怒りと屈辱を感じさせるに、これ以上の煽り方はないと思えた。事実、武から見た目の前の香月夕呼は見たことがないぐらいに怒りを表に出していた。感情を隠すのが得意なのに、それを抑えきれていない。
迂闊に触ると何が起きるか分からないと、武はそのまま夕呼と一緒に黙りこんだ。だが分針が一回りすると、夕呼は再度深く息を吐いた。
「その他にも役立てる情報がある。あっちのあたしはそう言ってるけど、他に何か持ってきているのかしら」
「あります。とりあえずは戦術機の新しいOSですね。あっちの世界ではXM3と呼ばれていますけど、その効果もレポートでまとめられている筈です」
「………細部は省くけど、衛士の損耗率が5割減少した? うそ臭いことこの上ないけど、盛ってないでしょうね」
「作って衛士に使わせればはっきりしますよ。ちなみにあっちでは霞が作ったそうです。あ、改良なら手伝えますよ。プログラムは本当に初歩の初歩しか分かりませんが、色々なデータは提示できます」
武は告げるも、あまり反応がよろしくないと見て、溜息をついた。
「先生も必要になるかと。因果律量子論ほどじゃありませんが、帝国内の協力を得られる良い札になる筈です。ただ、渡すには一つ条件がありますが」
武はXM3が入った電子媒体を取り出しながら、告げた。
「ここにはXM3のデータと、サーシャの治療方法が書かれたデータがあります。譲る条件は、そのデータを使ってサーシャを治療すること。姉さんに渡せば分かる、とあっちの先生は言っていました」
「ふうん………確かに、姉さんが診ているからね。それで、条件はクズネツォワを治療するだけでいいのかしら」
「いえ、サーシャの身柄をこちらに渡して下さい。いざという時の人質に使われるのは御免ですから」
「………つまり、アンタはあたしを信頼していないと」
「信頼と信用は別ですよ。それに、あっちの先生から聞きました。寄りかかる事しかできないバカを近くに置くつもりはないって」
警戒心もなく何もかも無条件に渡して、全てを任せる。効率を重視した最善の方法に思えるが、それは人間が機械のような不変の性能を発揮出来るとした場合だ。そうしていると、どこかで甘えが出る。仲良しこよしで同調しているだけでは、協力して動く意味がない。足並みを揃える必要はあっても、揃って躓いて転ぶ必要はないからだ。
「譲れない所は、はっきりさせておいた方が良い。そう思います」
「ふん………見た目によらず、結構言うわね。まあ、全部渡して後はお願いします~とか言われたら、その通りに良いようにしてやったけど」
「………それ、自分の良いように利用しつくしてあげる、ってな意味ですよね」
言わなければそれを免罪符として論破されるだろう。何とかしてくれる、という甘えを前面に出して協力するだけでは、最後まで色々と隠し事をされたまま利用されるだけ。自分ではない自分が実地で学んだ事を、武は忘れるつもりはなかった。
(それだけ、情報を渡すには未熟過ぎて危険だって判断されたからだけど)
00ユニットのこと、純夏のこと。意図的に情報を開示しないまま、気づけば手遅れになってしまった事は多い。それでも、武は恨まなかった。夕呼がそう判断した理由は尤もなことだと今になって痛感できるからだ。感情だけを優先して動く人間に危険な機密を渡すような人間を無能と言うのだ。香月夕呼がそのような迂闊な人間なら、オルタネイティヴ4はもっと早くに終焉を迎えていただろう。
蟻の一穴で瓦解する小さな城。それがあの頃の、今のオルタネイティヴ4である。私情という余計な不純物を欠片でも混ぜれば、直ぐ様致命的な状況に追い込まれかねない。帝国内でさえオルタネイティヴ4の理論を疑う声はあるのだ。
だからこそ、慎重にならなければならない。使う人材の厳選も必要だ。ただの案山子なら、案山子の役割しか与えられない。交渉できる有用な人物だと思われなければ、この先もついていくことはできないだろう。
逆に考えれば、情報を与えるに足る人間だと思われれば良いのだ。衛士その他、オルタネイティヴ4の真の目的を知りつつ協力できる人間は0に等しい。人材不足も甚だしいため、能力をアピールすれば迂闊に切り捨てられることはなくなる。
それを示すため、武は夕呼と色々な話をした。
平行世界の自分の記憶。そこから、あっちの世界へ飛ぶ方法を思いついたこと。それを聞いた夕呼は、呆れた眼で武を見た。
「理屈は分かったけど、普通やろうなんて思わないわよ。とんでもないバカじゃなければね」
「あ~………向こうの夕呼先生にも同じこと言われました。あんたも所詮は白銀なのね、って。どういう意味なんでしょうか」
「知ったこっちゃないわよそんな事。それより、あっちから戻ってこれた方が驚きよ。G弾による時空の歪みもなしに、よく消滅しなかったわね」
「自分でもそう思います。一瞬、マジで消えるかと思いましたよ。でもまあ気合と根性で何とかなりました」
「………バカも極まればこうなるのね」
夕呼は興味深いものを見る眼で、黙りこんだ。解剖、とかぼそりと言っているが、武は聞かない振りをして説明を続けた。
「でも、一時期消えてた影響はあると言っていました。これは俺の予想からあっちの夕呼先生が立てた考察なんですが………」
武はこちらの世界の人間が持っている、“白銀武”に関する記憶に与える影響などを説明した。
因果導体となっていた白銀武が平和な世界に戻った時、BETAが居る世界からは忘れられていた。霞が必死に覚えようとしなければ、ずっと忘れられたまま、戻ってこれなかったという事も。
「………世界は安定を望むもの。消えたのなら、最初から消えたものとして修正する筈。なのにアンタの方は世界から一時的に消えても、その存在を完全に忘れられる事はなかった………その理由は?」
「俺が元々こっちの人間だからでしょう。因果導体になった俺―――あの世界では異分子だった俺とは違って、この俺は元々この世界の一部です」
世界が安定を望むなら、その方法は二つ考えられる。
一つは平行世界の武と同じように、最初からこの世界から居なかったものとして扱うこと。だが、こちらは新たな歪を産むことになる。居なかったものとして扱うには、人々の記憶から白銀武という存在を完全に消去する必要がある。
そのためには家族を始め、クラッカー中隊その他、戦場を渡り歩いて知り合った全ての人間の記憶を消さなければならない。武がそこまで説明すると、夕呼は成程ねと頷いた。
「人格の確立と成長は記憶あってこそ。その中からアンタの記憶が消えることで、大きな影響を与えられる人物は少なくない………それも、その人物から波及する影響を考えると………」
白銀影行に、風守光に、クラッカー中隊に、第16大隊。各所に影響を与える立場に居る者ばかり。連鎖して反応が起きる事を考えると、影響が大きすぎるように思えた。
「それでも人々から記憶を消すか、もう一つの方法―――戻ってきた白銀武という世界のピースをそのまま受け入れるか。どちらが手っ取り早いのか、人の基準では計れないかもしれないけど………賭けてみる価値はあったと言う事ね」
「はい。それでも、全く影響が無い訳でもないと」
大きく影響がない部分。例えば強烈に白銀武を覚えている人間でなければ、無理に記憶を再修正する必要はない。それを聞いた夕呼は、何かに気づいたような眼で武を見た。
「つまり、今のアンタは諜報員からすれば完全にノーマークになっていると、そういう事ね………かなり便利だわ」
「そう思います」
頷く武に、夕呼はようやく背もたれに体重を預けた。
「一応の理屈は一通り分かったわ。あんたはどうしてか分からないけど、平行世界の記憶を受けて、戦おうと思った………いえ、当時研究中だったG弾の影響かしらね。それで、戦わなければ生き残れないと知った」
それでインドに渡るってのがちょっとアレだけど、と言いながら夕呼は続けた。
「でもこのままではオルタネイティヴ5のせいで世界が滅亡すると知った。それを防ぐために、明星作戦で使われるG弾によって発生する時空間の歪を利用して世界を飛び越え、あっちのあたしに会って色々な情報を仕入れようとした」
自殺まがいの方法で、と夕呼は言う。
「それでも何とか成功して、功績を挙げ、こうしてこちらの世界に戻ってこれた。でも理論を使いこなせるのはあたしだけだから、斯衛を抜けた。横浜基地に所属し、オルタネイティヴ4が断念されないように動きたい、ね………客観的に見て、こんな話を聞かされたらまずどう思う?」
「都合が良すぎて胡散臭いと思います。拘束して尋問した上で背後関係を明らかにするでしょう」
我ながら酷く荒唐無稽だ。武は頷きつつ、だからこそと言った。
「夕呼先生しか無理なんですよ。因果律量子論を知る先生だけが俺の言葉に価値を見いだせる」
「一方で、私がアンタに協力する義務はない。なのにアンタは、あたしが協力する………せざるを得ない状況に居るという確信を持っている。それも、ここに来てあたしの様子を観察する前に察していた………その理由を聞かない内は判断できないわ」
夕呼の鋭い指摘に、武はうっと呻いた。こうまで見破られるのか、と内心で冷や汗をかく。それでも納得できる事だ。これは情報を武器にした、一種の戦争である。そして戦争は勝ち目がない内から始めてはならないのは、政治と軍事を知る者にとっては常識。武がこうまで情報を開示したのは、オルタネイティヴ4がこのままでは失敗するその理由を知っているからではないか。夕呼の推測は正しく、故に武は黙りこんだ。
急所は色々とあるが、知らない急所を押さえられたまま、立場を下とされたままで動かされるつもりは毛頭ない。その姿勢を言葉の裏に潜ませた夕呼に対し、意趣返しだな、と武は思った。
純夏の事は話さない。そのままで誤魔化すことはできないか、と武は思っただけで内心で首を横に振った。
(信頼じゃない、信用を築く相手になろうと言うのなら、この部分を曖昧にする事は認められない。これが先生の譲れない一線のひとつだな)
このままでは因果律量子論が完成しないはっきりとした理由があるか、完成した所で活用できるものがないか。それはオルタネイティヴ4に取って最も重要となる部分であり、これをはっきりとしないまま都合のいいように踊らされるつもりはない。
武はそれを察しつつ、そうでなければと思った。課題も含めて、武はこちらで主導権を握るつもりはなかった。それでも全てを明らかにするには早く、開示できる部分は多くない。武は深呼吸をした後、言葉を選んだ後に口を開いた。
「俺が………斯衛を辞めて、出来るだけ早く此処に来た理由の一つでもあります」
「そう。それで、具体的に言えば?」
「明星作戦の後、米軍が踏み込んだ横浜のハイヴの最奥―――反応炉に繋がれた其処に、先生が真に望んでいたものはなかった。そうでしょう?」
そして、と武は告げた。更なる成果を求めて、今度は佐渡島ハイヴへの攻略作戦を提起される前に止めに来た、と。
求めるもの。BETAの被験体にされても、人格を保持できていた脳髄は無かったと、言葉の裏に示し。それを察した夕呼は、小さく溜息を吐いた。
「そこまで知っているのね。出来ればその結論を得た理由を問い詰めたい所だけど」
「それも、まずは課題が解けた後でお願いします。そうでなければ納得できない部分があると、あっちの夕呼先生は言っていました」
「分かったわ。あと、もう一つだけ確認しておくけど………アンタ、自分がどれだけイカれてるのか理解してる?」
亜大陸に行った事、明星作戦で行った事。その全てが常軌を逸していて、まともな人間のする事じゃない。そう言われている事を武は察すると、笑顔で返した。
「そんな狂人は信用できない、ですよね。同じ事をあっちの先生にも言われました。で、上手く説明できない俺の言葉を先生はまとめてくれました。徒然草の85段、でしたっけ」
「………“狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり”?」
「はい。“偽りても賢を学ばんを、賢というべし”でしたっけ。その上で独自解釈を聞かされました。でも、納得できたんです」
夕呼が語った独自の解釈は、狂人か、悪人か、賢者か。他者には区別がつかず、判断もできないため、一般的な価値観によりその行動の全てが勝手に決められるというもの。本人がその行為を真似たものだと主張しても、それが真実か否かは分からないと。
「意味と共に教えられました。その上で思ったんです。狂か、悪か、賢か。それは他人の顔を窺って決めるものじゃないんだって」
「………それが、世の常識に真っ向から反対するものでも?」
「はい。だってそうじゃないですか。横浜の魔女だなんて呼ばれた先生こそがあの世界を救ったんですから」
狂人と罵られても、構わず自分の信じるがままに動き続け、遂にはカシュガルの最奥に居る最重要存在を打倒した。手足は衛士だとしても、そこまで導いた頭に代わりはない。間違いなく香月夕呼という天才だからこそできた偉業だ。
「だから狂っているかどうかは知りません。崇継様と一緒ですよ。俺はただやるべき事をやります。自分が信じた正しい方法で」
それこそが狂人か、狂信者の理屈かもしれない。だけど、これが最も冴えた良い方法だと信じた。武は主張しながら、頭を下げた。
「明星作戦の時の賭けの勝ち。それらを全部使ってでも―――お願いします。横浜基地に置いて下さい。先生と一緒に、戦わせて下さい」
地面だけしか見えない、90度の会釈。その体勢を維持したまま、武は待った。ここから先は未知数だ。予想もつかない言葉が飛び出てもおかしくはないと、緊張で身体が震えそうになる。それをも気力でねじ伏せること1分。
最初に返ってきたのは言葉ではなく、溜息。その後に呆れた声が響いた。
「あんた、本当に17歳? 30超えてるって言われても信じられるんだけど」
「いや、正真正銘のガキですよ。記憶だけは色々とあるんで、年齢詐称って言われても否定できない所が辛いですけど」
「………そう」
夕呼は背もたれから身体を離し、執務机に肘をついたまま尋ねた。
「取り敢えず、基地から放り出すのだけは勘弁してあげるわ。喜びなさい」
にやりと笑いながらも、眼だけは笑っていない夕呼の言葉。武はそれを見た途端、猛烈に嫌な予感を覚えた。
「あの………なんか急に早退したくなったんですが」
「あんたの眼はそうは言っていないわよ? 分かっているんでしょうに。協力者として認めるかどうか、白銀武の価値はどの程度のものか。今までの言葉に信ぴょう性を持たせるために―――」
一拍を置いて、夕呼は告げた。
「極東最強。そう呼ばれた衛士の力量を見極めさせてもらうわ」
そうして、次の日。武は用意された不知火のコックピットの中で相手の準備を待っていた。
「………これで勝てなければ、俺はお払い箱。そうじゃなくても、約束のいくつかが反故にされる可能性が高まる」
立場的に弱くなる。それはつまり、自分が守りたいと思った人達が、助けたいと思った人達が危険にさらされることになる。
いつかと一緒で、いつもと同じだ。武は苦笑し、操縦桿を握った。
「条件は1対4。相手はこの基地で最も戦闘力が高い4人………多分だけど樹、まりもちゃんは確定。残りはA-01から二人か」
1対12と提案されそうになったが、武はこの後のことを考えれば色々とよろしくないと主張した。任官して間もない衛士も居る。苦労して訓練を乗り越えて早々、全力で心を折られた後で、すぐに立ち上がれる人間はそう多くない。説明をすると、呆れた顔で溜息をつかれたが。
「ともあれ、油断はできない。間違いも許されない………ここからが、始まりだ」
最低限、渡せるものは渡した。希望の運び手である天才との交渉も、全てではないが済んだ。後は場所と立場さえ確保できれば、進むべき道が定まる。足元を確保した後、流れと勢いを殺さないまま、これから先に訪れるであろう多くの困難を打ち砕いていけば目標にたどり着く事ができる。
「正念場だ―――って何度目だよ。でも、なんでだろうな。ワクワクもするんだけど………ホッとする」
あちらの世界で戦っていた時とはまた違う。帰ってきて、緊張のまま言葉を交わした時とも異なる。世界を越えて持ってこれた、搭乗データが蓄積された強化服。着座調整を終えた後の、網膜に投影された映像。操縦桿を握る感触。その全てが新鮮であり、懐かしかった。その理由を、武は知らない内に口に出していた。
「―――ようやく戻ってこれた。この世界の、横浜基地に」
俺はここに居るんだ。武はそう思ったと同時、自然と胸の内から熱い何かが漏れ出てくるように感じた。
感情のまま、その流れを戦闘力に変換できる者を超一流という。それが何の疑いもなくできるような。武はそんな確信を抱くと、おかしくてたまらないという風に笑った。
「勝たなきゃ死ぬ。いつもどおりだ。でも、いつもとは違う」
時勢と状況に流されるだけじゃない。理不尽さに憤りつつも傷つけられるだけだった、あの頃とは全く異なる。確かに見えている。オリジナルハイヴを潰すという、人類の悲願へと辿り着ける道が。ならばここは出発地点。最後の戦いに向けて走りだす、そのスタートライン。純夏を殺させない。サーシャを助ける。みんな、死なせない。夢だと言われても知らない。望むがままに、望むものに手を伸ばす。
おかしいのは、それでもやっている事がいつもと同じだという事。衛士としては当たり前の、簡単な目標。やるからには勝つ。それを疑いなく、この戦いが無駄じゃないと確信できる場所。
抱く気持ちも変わらず。ヴァルキリーズには未入隊。だからこそ、クラッカー中隊の流儀を胸に。
我こそが最後。見るべきを見ろ。倒すべきを倒せ。
準備を終えた相手。戦闘の条件。その全ての説明が終わり、戻ってきて初めてとなる戦闘の開始が告げられた瞬間、武は思わず口ずさんでいた。
「Hello , world」
あちらの世界の霞から教えられた。世界一有名で、誰もが最初に学ぶというプログラムの名前を口ずさみ、武は思うがままに機体を走らせた。
驚愕に言葉を失うというのは、こういう事か。神宮司まりもは目の前の敵にただ圧倒されていた。油断をしていた訳じゃなかった。士気が低くある筈もなかった。親友から聞かされた言葉を思い出すに、手を抜けるはずもない。
相手が勝負の前に告げた言葉が原因だ。A-01、その12人を相手にしたとしても余裕で勝てるが、隊員が自信を失うから止めた方が良いんじゃないかと。そして勝利の商品として、社深雪を好きにさせてもらうと言ったらしい。
社霞の姉だという女性。病弱で臥せっているらしい女性を好きにするとはどういう事か。舐められている所の騒ぎではない。反論できなければ衛士失格、二度と操縦桿を握るなというレベルだ。女性の比率が高いA-01であれば、ふたつ目の言葉も許せる筈がない。隊長代理でありA-01の数少ない男性である紫藤少佐も、見たことがないぐらいに剣呑な雰囲気を発していた。
(………嘘、である可能性があるかもしれないけど。そもそも夕呼がそういう条件で勝負を受ける筈がないのよね)
神宮司まりもは親友の性格の悪さを熟知していた。恐らく、提案は少し違った意味をもっていたはずだ。言葉尻を捉えるか、解釈を変えるかをして、そうとも取れる内容を言ったと、あとで誤魔化すつもりかもしれない。まりもはそれを察しつつも、1対12で勝てるという言葉だけは、例え冗談でも許容できるものではなかった。
A-01の衛士は全て、自分が育てた子供たちである。それぞれがそれぞれの苦境の中で努力と反吐を重ねて一人前になった、自慢の教え子だ。それを頭から否定された上で、反論できる機会を与えられているのに奮闘しないのでは教官失格だ。そう思って戦いに挑んだ。
感情に振り回されて操縦の精度が落ちるほど未熟ではなく。まりもは慎重に慎重を重ねて挑んだつもりだった。前衛に碓氷と自分、援護に紫藤少佐と伊隅。誰もがこの基地ではトップクラスの衛士であり、格上でも戦えるだろうと思っていた。
だが、その推測は最初の接敵で蹴散らされた。発見したのはA-01チームの方が先だった。狙い定め、斉射したのも同様に。だが、その全てが避けられた。
そう思った次の瞬間、まりもは相手の姿を数秒だけ見失っていた。
動いている相手に射撃を成功させるためには、ある程度の予測が必要となる。機動の先を読んで、次に相手が行くであろう地点を絞り、そこに36mmを斉射する。不知火の装甲は薄く、一撃でも当てれば十分なダメージは与えられる。
(なのに―――この動きは)
予測し、照準を絞り、撃つのがセオリー。だというのにまりも達は、接敵からただの一発も撃てないでいた。次に動くであろうという予想。その尽くが外れたのだ。
(奇妙としか思えないわ。何を考えているのか分からない動きで、予測の全てを上回ってくる………いや、それだけじゃ説明がつかない)
まりもは落ち着いて観察した後で気づいた。敵衛士の、あまりにも隔絶した技量に。
回避行動やその事前の行動など、それらを大雑把に分ければ方向転換という言葉で表現できる。敵手はその方向転換に要する時間が短過ぎた。機体が受ける風、動く事によって生じる重心移動と慣性力、その全てを把握していると言われれば納得してしまいそうな程に、方向転換が鮮やかなのだ。そのキレも相まって、まるで視界から消えたような錯覚に落とされる。見失った後に必死で眼で追ってもその繰り返しだ。
1対4だというのに、主導権を根こそぎ奪われている。このままでは、冷や汗が流れると同時に悪夢は形となった。
無造作としか思えない、高速移動しながら放たれた突撃砲の数発が吸い込まれるように伊隅のコックピットに直撃したのだ。途端に報告される撃墜判定の文字も、まるで冗談のように思えて仕方がなかった。どこの誰があんな状態で撃った数発を当ててくるのだ。
このままでは拙い。そう思ったまりもは隊長である樹に態勢の立て直しを進言しようとしたが、先に通信越しの声を聞いた。
『―――成程な。また、香月博士に嵌められたか』
『隊長………もしかして、相手は』
『碓氷の想像どおりだ。最初に気づくべきだった―――あんな変態的な機動を思いつき実践できるのは、この地球上で一人しかいない』
確信が含まれた声。一方で相手もこちらのやり取りが聞こえているのか、追撃を仕掛けてこずに、とどまっている。その様子を見たまりもはもしかして、と樹に尋ねた。
『相手は少佐の知人なのですか?』
『ああ………よく知っている。嫌というほどな。同時に解らされた。あいつはこちらを舐めている訳じゃない。冷静に評価した上で1対12でも勝てると、そう判断しているが故の提言だ―――そうだろう、極東最強のバカ者が』
そうして、まりもは見た。樹の言葉に応じるように、長刀を2,3振り回して構える相手の機体とその動きを。同時に、その一連の動作の滑らかさに鳥肌を覚えた。
―――どれほどの実戦を経験すれば、コレほどの。人間と言われれば納得してしまえそうな程に、機械特有のぎこちなさが無い。どれだけの経験を蓄積すれば、こうも間接思考制御を活用できるのか。紫藤樹の実戦経験を思えば、20やそこらでは収まらない事は自明の理であった。
極東最強。その子供っぽい呼び名と現実離れした称号が真実であると、まりもは理屈ではなく直感で悟らされた。
『っ、それでも私達が負けて良い理由にはなりません』
『同感だ。それに勝つだ負けるだとは別に、一発どころじゃなく殴らなければ気が済まんからな―――碓氷!』
『はっ!』
返答した碓氷は真正面から突っ込んでいく。跳躍ユニットの出力も全開に、機体を少し左右に振りながら突撃砲を繰り出した。
一方で敵機も動き出した。跳躍ユニットを吹かせると、上下左右に機体を走らせる。碓氷は高機動下の射撃を駆使して退路を断とうとするが、先ほどと同じで全く追いついていない。急な方向転換にワンテンポ遅れて反応し、更なる方向転換に遅れ。
まりもがフォローに入るも、同じだ。機体と衛士にかかるGなど存在しないとばかりに動きまわる。そして、追いきれなくなった碓氷の動きが止まった直後だった。
まるで予測していたかのように、急激な方向転換。背後から迫ったかと思うと、背面越しの射撃を全て回避した上で長刀を横一閃に振りぬいた。
―――だが、それは罠だった。相手機が抜けたその先には、待ち伏せの用意ができていた。即席で編んだ、1機の犠牲を前提とした囮作戦。言葉にせずとも、動きで報せる。その程度の練度は保っていた。
稀に意思疎通がズレるが、今回は最高のタイミングで嵌ったと、まりもは内心で勝機を悟る。後は引き金を引けば、2機の十字砲火で相手機体は撃墜される。
そう思っていたまりもの視界に映ったのは、回転したままこちらに向かってくる抜身の長刀だった。
『な―――』
コックピットに直撃する軌道。瞬時に悟ったまりもはこのままでは、と攻撃動作を入力仕切る直前に、回避行動を選択した。予想外過ぎる事態に驚愕の声を発するも、回避行動に移ったのは瞬きほどの後。即座に体勢を立て直す動作も、それに至るまでの判断の早さも、見る者が見れば練度の高さに感嘆の声を発するだろう。紛れも無くベテランでも精鋭と呼ばれる域であり。
だが、この模擬戦場にはそれすらも越える理不尽が存在した。ぞくり、とまりもが背筋に寒気を覚え、その直後に受けた衝撃と、自機の撃墜判定までは僅かに1秒の出来事。
その8秒後に全滅判定を報せる通信が鳴り響いた。まりもは赤く点滅する敗北の報せが何かの悪戯か冗談のように思えた。それどころか、遠い世界の出来事だと感じていた。屈辱を感じるよりも、腹の底から笑えてくるような。あまりにも現実離れした結果に呆然とする以外の行動を取れなかった。
それでも、聴覚は死んでおらず。こぼれた溜息が、模擬戦に参加した全員の衛士の耳を震わせた。
『帰ってきて早々、こうもこてんぱんにされるとは………多少なりとも追いつけたと思ったんだが』
『こっちも追いつかれないように必死だったからな。野郎にも死神にも、とっつかまって尻掘られるのはもうホントに勘弁だし』
『………相も変わらず、か。そうだな。それがお前だ』
呆れたような声。一息を置いて、呟くように問いかけの言葉が発せられた。
『何時戻ってきたのかは問わん。だが………どうして、ここに居る』
問いかけるだけのような、怒りに問い詰めるような、それでいて必死に縋りつくような。
まりもがそう感じた問いかけに、向けられた相手は少年のような声で朗らかに答えた。
『俺も、賭けの負けは出来るだけ早くに払う性分だからな』
『………積みに積まれたポーカーでの負けか?』
『それとマラソンでの負けも含めて、だ』
―――約束を果たしに来た。
まりもはその言葉のやり取りの意味を全く理解できないままでも、声にこめられた何かに。まるで悲願を達成するかのような感慨深い言葉に、微かに胸を打たれていた。
実戦から遠ざかってたまりもちゃんと、実戦経験があまり足りてないみちるちゃんと、経験はあっても才能はみちる・水月に劣る碓氷と、純粋な単独戦闘能力ではクラッカーズでも下から数えた方が早い樹の4人じゃこんなものです。
とはいっても、陸軍の精鋭部隊程度が相手なら互角以上に戦えるんですが。
つまりは修羅なバカが悪い(断言
ちなみにHello,worldは、色々な意味がないまぜになった上での呟きです。
あと関係ありませんが千絵梨のノーマルエンドは至高。
Blaze upってレベルじゃありません。