Muv-Luv Alternative ~take back the sky~   作:◯岳◯

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誤字指摘、佐武駿人さん、hate04548さん、ひらひらさん、ありがとうございました。

そして 光武帝さん、藤堂さん………マジありがとうございます。


9話 : 鍛鉄の日々

自分は息を吸っているのか、吐いているのか。鑑純夏は足を引きずるようにして走っていた。爪先からくるぶしを越えてふくらはぎを経て膝小僧から太ももまで全てが痛い。喉の奥からは、焼けたような熱い息が出てきては、白い吐息に変換されていく。

 

目の前に走る仲間も同じだった。体力に余裕があるなと言われ、重量物の装備を担いで走らされてからもう何十分が経過しただろう。時計が無いためそれも分からないが、半日と言われても信じられるかもしれない。

 

(せめて、あとどれくらい走ればいいのか分かれば………っ)

 

限界を感じた純夏は、コースの横に設置されているバケツへと走った。時間にして数秒、食道を焼く酸と酸味に耐え抜いた。

 

「っ、けほ………うん」

 

純夏は立ち上がると口を拭い、何でもないようにコースに戻った。やる事は決まっているとばかりに、走り始める。重たい装備を担いでいても、自分の前を行く小隊の仲間の背中を追いかけるために。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あれだよね………紫藤教官に豆ぶつけたら、消し去れそうだよね」

 

「きゅ、急に物騒な事を申すな鑑。あと鬼は豆をぶつけて外に追い出すもので、滅するものではない」

 

突っ伏したまま呟く声に、冥夜が呆れた声で答えた。周囲に人影は居なかったため、幸いにして誰かに聞かれることはなかった。

 

聞いていたのは夜の交流会に出席している207小隊のメンバーだけ。疲労の色が濃い彼女達の中で、そういえばとA分隊の小隊長である涼宮茜が窓の外を見た。

 

「もう節分かあ。誰も話題にしないから、気付かなかったね」

 

「こっちはそれどころじゃなかったしね~………私も、国連軍の訓練がこんなにキツイとは思ってなかったよ」

 

朗らかに笑うも、元気のない声で答えたのはA分隊の柏木晴子だった。晴子は横目でA分隊の仲間を見た後、純夏に話しかけた。

 

「答えられる範囲で構わないんだけど………陸軍の方じゃこんなに厳しくなかったのかな、鑑さん」

 

「んー、厳しい事は厳しかったよ。普通にヘコタレそうになったし。でも教官に豆をぶつけたいって思った事はなかったかなぁ」

 

少なくとも嘔吐専用のバケツ無しには走れないほど、容赦が無かった訳ではない。吐いた回数も多すぎて、喉が詰まる感覚にも慣れてしまった。眠気のせいか糸目になりながら答えた純夏は、冥夜達の方を見た。

 

「その点、一度も吐かずについていける御剣さんと彩峰さんは凄いよね。榊さんも、今日は一回もバケツのお世話になってなかったし」

 

「ええ………ようやくね」

 

「………それほどでもない」

 

千鶴が疲れた顔で、慧は飄々と。一方で今日も二回ほどバケツの世話になっていた美琴は、冥夜と慧を見ながら言った。

 

「ボクはまだ無理だなあ。鑑さんの言う通り、二人は抜きん出てるよね。ボクも体力には自信があったんだけど」

 

「私も、人並みには付いていけると思ってました」

 

美琴が疲れた顔で溜息を吐いた後、壬姫が落ち込んだ声を出した。それを見た純夏は、でも、と皆の顔を見た。

 

「ギブアップしないだけ凄いよ。多分だけど、あっちの………陸軍のみんなじゃ大半が脱落してたと思う」

 

「そうなんだ。でも、一ヶ月でこんなんじゃ、この先どうなるのか………」

 

先が不安になるのか、俯き落ち込んだ声を出したのは、純夏より体力が無い壬姫だった。元気なピンク色のツインテールが萎んでいると錯覚するような光景だが、似たような雰囲気を持つ者が居た。A分隊の高原萌香に麻倉篝だ。二人の目の下には寝不足のせいか、隈ができていた。

 

重い空気が11人の間に漂い始めた。拙い流れだ、と落ち込むのとは別の意味で顔を顰めたのは二人だけ。

 

その一人である茜は、この暗い雰囲気のまま夜を超えると、明日の訓練中に本当に脱落者が出てしまいかねないと思い、焦っていた。励ましの言葉をかけようとしたが、思いついたのは先週にかけた「頑張るしかないんだ」という当たり障りのない言葉だけ。

 

―――先週にも同様の空気が流れていた。一ヶ月前とは異なり、同じ地獄を味合わされている者として、それなりに連帯感は生まれた。嘔吐するという、女子として他人に見せたくない姿を見せ合ったこともあり、初日にあったぎこちなさは大幅に取れた。

 

同時に気安さも生まれる。普通なら言えない弱音も溢れる間柄になる。最初は冗談だったのかもしれない。それでも高原が「いつまで、こんな訓練が続くのかなぁ」と呟いた事が切っ掛けになった。

 

言葉にすれば身体は反応する。応じて腹の中からこみ上げてきたのは、過酷な訓練による苦しみだった。

 

走って、吐いて、走って、吐いて、ただそれだけが繰り返される。逆流する胃液に食道を荒らされたせいで、大きな声も出せない。食欲も湧かず、かといって食べなければ空腹のせいで夜に熟睡もできない。

 

何とか食べて、倒れこむように眠って。翌朝になっても筋肉痛は消えることなく。重い足取りでグラウンドに行けば、自分たちを憎んでいるとしか思えないぐらい、厳しい訓練内容を告げる教官が居る。体力がつき、少し楽になったかと思えば、重量物である装備を担げと命令される。

 

逆らおうにも、その意気の欠片さえ生じない。悪い意味で冗談のような日々。最初の一週間で負けん気は削られ、今はただ自分の身体と応答を続けるだけになった。まだ行けるか、もう行けるか、駄目だ立ち上がらないと、このままじゃまた走らされる。そうした言葉に何とか身体をついていかせるので精一杯。

 

ただ一日を乗り越えていくことしかできない状態になって、三週間が経過した後に起きたのが、不安と不満の小爆発だった。それが先週の出来事だ。その時は分隊長の二人と晴子、冥夜の励ましの言葉で何とか乗り切ったものの、先週とは異なって萌香と篝だけではなく壬姫も不安を爆発させようとしていた。

 

晴子も打開策を考えたが、茜と同様に軍籍に身をおいてから一ヶ月足らずの訓練兵であるため、何を言えばいいのか判断がつかなかった。学校での部活動とは根本から異なる、精神をカンナで削られるような訓練に立ち向かえるようにと励ませる言葉は、一朝一夕には出てこない。千鶴も茜から少し遅れて事態の拙さに気づいたが、同様の理由で先の二人と同じ沼に嵌った。

 

夏に行われるという総合評価演習まで、あと半年。それまでこの地獄が続くのか、と欠片でも思ってしまった事もあった。誤魔化しの言葉が浮かぶも、自分自身が本当にそうなのか、と言う前から思ってしまうようになり、上手い言葉も思いつかなかった。

 

暗く、淀んでいく場。それを切り裂く、明るい声が響いた。

 

「でも、一番厳しい時期は乗り越えられたよね」

 

「え………鑑さん? それ、どういう意味かな」

 

「どういう意味って………一番きついのは始まってから一ヶ月ぐらいだけだよ?」

 

純夏は晴子の質問に答えた後、インドに居た頃の武から送られてきた手紙の内容を元に説明を始めた。

 

訓練で最も厳しい時期は最初の一ヶ月だと。それは民間人が軍人に至る過程の中での、最も辛い期間。肉体と精神の両方を傷めつけられ、それに耐えるための苦痛に耐えられるかどうかを見定めるための。

 

「それに、私達は期待されてる………と思う」

 

「どうして、そう思えるのだ?」

 

「う~ん………教官にもピンからキリまであるってさ。私の幼馴染に聞いた話なんだけど」

 

最も質が悪い教官とは、訓練兵の限界も見極められず、潰してしまう類の者。次に悪いのは、年若い訓練兵に対し、変に厳しくない訓練を施そうとする者。本当にそんな者が居るのか、と冥夜が疑問の声を飛ばしたが、純夏は人それぞれだってと答えた。

 

「その点、紫藤教官は違うと思う。優しくもないけど、悪意で私達を傷めつけてるとは思えないんだ」

 

「………成程。つまり我々は教官から“この程度はできるであろう”と見込まれている、という事だな?」

 

「それも、陸軍の衛士候補生よりも―――ってことだよね」

 

冥夜の言葉に、晴子が言葉を付け足した。人間、期待されて嬉しくない者はいない。それも“あの”紫藤樹に見込まれているというのだから、効果は絶大だった。高原達の目に、希望の色が灯っていく。茜と千鶴はその様子に安堵を覚えた後、純夏の方を見た。

 

「それにしても………流石は訓練兵でも先輩だね。言葉に含蓄があるっていうか」

 

「茜の言う通りだね。そうだ、鑑先輩って呼んでいい?」

 

「えー………体力で負けてる相手に先輩って言われるのはちょっと嫌かも」

 

「でも、満更でもなさそう?」

 

「えっ、ちょっ、そんなことないよ彩峰さん」

 

「………鑑よ。其方、一度話している自分を鏡で見た方が良いと思うぞ」

 

暗に考えていることが顔に出すぎだ、と教えているのだが、純夏は駄洒落かなと首を傾げるだけだった。そうじゃないと諭すも、純夏は理解しているようで理解していないような返答しかしない。

 

そんな漫才のようなやり取りと、見込まれているという新しい情報を呑み込んだ高原達から笑みが零れた。それを見た茜達は、内心で安堵の溜息をついた。

 

その後の話題は、体力をつけることの重要性について。茜達も優秀であり、軍人に体力が必要な意味や理由は知っていた。何を鍛え学ぶるにも、体力が不足している状況では満足な集中する事もできない。かといって、訓練時間を減らすことはできない。期間は無限ではあり得ず、日本の戦況は芳しくない。短期間で充実した訓練を乗り越えて、練度の高い衛士になることを国が望んでいる。それを改めて自覚した207小隊の面々は、互いに顔を見合わせると、小さく頷きを交わした。

 

―――訓練過程が基礎体力作りから次の段階に移ったのは、その一週間後だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「嘘、でしょ、早すぎるわよ!」

 

「速瀬、足を止めるな! 奴は狙撃能力も並じゃな―――」

 

「碓氷大尉っ?! くっそ、このバケモンがァ―――!」

 

「バカ、一人で突っ込むな孝之………っ!?」

 

「そ、んな………平少尉まで………!」

 

「こんな、馬鹿げてる………っ、これ博士が組んだコンピューターじゃないんですか?!」

 

「惚けるな、現実から逃避するな舞園! 相手は人間だが、化物だ! 演習とはいえ、1対9で一方的にしてやられる訳にはいか………くそ、もうお出ましか―――っっ!?」

 

「神宮司隊長………えっ、冗談でしょ?」

 

「くっ………最後の機会に賭けるか。速瀬、舞園、覚悟を決めろ! 刺し違えても―――バカな、何故そこに―――」

 

「少佐っ、紫藤少佐?! や、やだ、こないでぇ………!」

 

「舞子?! 応答しなさい、舞子ぉ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「じゃじゃーん。これな~んだ」

 

「それ………トランプ? 娯楽用品は高騰してるのに、よく手に入ったわね」

 

「紫藤教官に相談したら貰えたんだ~。ほら、昨日に“休憩するのも衛士の仕事だ”って言ってたでしょ? それで、全員が参加できるゲームとかないですか、っていったらあっさり貰えた」

 

「其方は………今日の授業であれほど紫藤教官に怒られていたのに、よく相談に行けたな」

 

冥夜の呆れた声に全員が頷いた。銃器組立と分解が苦手なのは多恵も同じで、純夏と同様に神宮司教官から怒られていた事を思い出し、震えながら何度も頷いた。

 

「そもそもの話、どのような相談をすればトランプが貰えるのかな」

 

「ちょっと溜息混じりの嫌味言われたけど、普通にくれたよ?」

 

「………物怖じしないね」

 

「ポジティヴだよねー」

 

「まあ、鑑さんだし」

 

「そうだね」

 

「だ、だべ。そ、それに紫藤教官も友達居なさそうだし、トランプも持て余してたんじゃないかな」

 

「た、多恵? それはちょっと言い過ぎじゃない?」

 

怯えているような口調でも急所を一撃するかの如き大胆な言葉に、茜を含めた何人かが顔をひきつらせた。冥夜は、さもあらんと頷いた。

 

訓練が始まる前に聞いた言葉のせいだ。冥夜は横浜において自分に求められている立場を予め知らされていた。だが、そこに煌武院の家臣である紫藤家が絡んでいるとは聞いていなかった。

 

どういった意図があっての事か。その理由は間もなくして月詠真那から知らされた。今の紫藤家と唯一の跡取りである紫藤樹の立場まで。

 

(功績はあっても、斯衛軍としてではない。他家からも一部の者から認められてはいても、大半は斯衛から抜けた臆病者として扱われている。紫藤家も悪評高かった先々代と、軍功無く戦死した先代のこともあって、山吹の中では孤立しているという)

 

それでもハイヴを攻略した実力と経験は申し分ないであろう衛士が、どうして冷遇されているのか。冥夜には理解できなかったが、本人もそれを望んでいないと聞いた。国連軍への出向を希望した事からも、周囲が嘯いた結果ではない事は冥夜にも理解できていた。

 

冥夜自身は、嫌ってはいない。好感を抱くような時間を過ごしてはいないが、教官としては申し分ないというのが感想だ。隔て無く厳しい訓練を課してくれるのも、有り難かった。厳しくない訓練は訓練ではないというのが冥夜の信条だ。いつかは人質の立場を終えて実戦に立つような状況が訪れるかもしれない。その時に無様を晒さないように自らを磨きたい冥夜にとっては、今の状況は望む所だった。

 

(それにしても、207Bの皆は………榊は恐らく気づいているな)

 

自分たちが人質であるという事を、自分以外は聞かされてはいないだろう。冥夜は千鶴達に出会った初日に、そう結論付けていた。話し方や表情を思えば、自然と分かることだ。

それでも今は、初日のままではない。純夏から聞かされた陸軍での待遇の違いなど、色々聞いた今では、明らかに今の自分達の状況が“違う”事が分かる。

 

心を読める訳もないので、相手がどこまで理解しているのか、それを確かめる術はない。だが、分かる事もある。互いの境遇を口にしなくなっていった事から、何となく“そう”である事は、理解の差はあれ察しているだろうと。

 

例外は純夏だけ。冥夜は彼女がどういった立場に居るのか、真那に尋ねてみたことがあった。回答は言えませんの一言。驚いたが、真那の表情からそれなりの理由があるのだな、と冥夜はそれ以上追求することはしなかった。紫藤樹の知り合いの知り合いという事から、その知り合いが鍵だという事は察することは出来ていたが。

 

気になってはいたが、冥夜は深入りすることは止めた。今の隊内での関係を変えたくなかったからだ。

 

(まさか………私の素性に気づかない者が居るとは。ふふっ、視野が狭いと言われても反論できないな)

 

冥夜は入隊する以前から覚悟していた。それこそ一目瞭然だろうと。自分の素性は余さず同期の者達に知られることになると、それで敬遠されるかもしれないと、心の準備は済ませていた。怯えられるか、態度を変えられる事も、そうなった時は仕方がないと。

 

だが、全く気づかない者が居るとは思ってもいなかった。同じ釜の飯を食べる仲間として特別など何処にもない、普通の女子として言葉を向けられる。冥夜に憤る気持ちは欠片もなかった。新鮮さもあったが、気安い関係に対する心地よさの方が勝っていた。

 

(こういう関係を、“友人”というのか………あの者と同じような、心交わす間柄と)

 

冥夜は運命の日、砂場で出会った荒唐無稽な無礼者を思い出していた。偶然にして出会い、奇遇な事に生年月日も同じだった。

 

名前を白銀武という、はじめての“ともだち”。会えたのは一度きりだが、冥夜はその日の事を、少年を忘れた事がなかった。例え短い時間であっても姉と共に遊ぶことができた、唯一の時間でもあったから。

 

真那が駆けつけるまで交わした言葉も覚えている。“泣きたい時は泣いて、笑いたい時に笑え”と。あとは、真那が駆けつけて間もなくのこと。鬼の形相で駆けつけた月詠の事を悪者扱いしていたようで、こう告げたのだ。

 

(困ったら俺を呼べ。絶対に助けに行くから、か………)

 

冥夜は思い出すも、世の無常を息に籠めて二酸化炭素と共に吐き出した。

 

―――白銀武は勇敢に戦い戦死した、と。少年の生死について真那に問いかけた時、冥夜はそう教えられていたが故に。

 

「えっと、御剣さん? どうしたの、もうカード配られてるよ」

 

「ああ………すまない。少し、考え事をな」

 

「ふーん。もしかして友達のこととか?」

 

「………其方は鋭いな。そうだな、そのようなものだ」

 

冥夜は小さく笑うも、純夏はその表情を見てあっという表情になったあと、謝った。冥夜は謝らずとも良いと苦笑を返した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「っ、急に止まった? な、なにが起きたの?」

 

「よしチャンス! 孝之、合わせなさいよ!」

 

「待て、誘いかもしれ―――ってやっぱりぃぃ?!」

 

「くっ、誘爆に巻き込まれる奴があるか! 後でレポート10枚提出だ! ここは慎重に―――そこだ!」

 

「ええ?! な、ななななんで今のタイミングで回避されるの?! くそ、この、ゴキブリみたいに動きまわらないで!」

 

「落ち着け、連携に努めろ。優秀な狙撃手が加わったのだ、作戦どおりに………」

 

「はい。囮には………食いついた! よし―――」

 

「いける………!」

 

「そこよ、クズネツォワ少尉!」

 

「捉えた――――えっ?」

 

「……………………………なんで? なんで、なんでよ!?」

 

「な、何考えて、あの状況で避けて更に前に出るの?」

 

「ボサッと―――クズネツォワ少尉が! くそっ、総員動け、留まっていると一網打尽にされるぞ!」

 

「で、でもあれを避けられて、それも反撃されるなんて、もうどうしたら………」

 

「い、一時撤退を進言します! 一旦態勢を立て直すのが良いかと」

 

「そうね。今日こそは、やられる訳にはいかない………!」

 

「ええ。まだ、10対1から8対1になっただけ!」

 

「そうよ、今日こそは銀のハエ野郎に一矢報いてやる!」

 

「同じ気持ちよ! 今度こそ潰す! これは、負けられない戦いなんだから!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ねえ、茜。教官だけど………その、妙に機嫌が悪い時ない?」

 

「ああ、紫藤教官もそうなんだ。こっちもそうなんだよね………」

 

千鶴の言葉に茜が溜息と共に頷いた。

 

「神宮司教官も一緒だよ。ほんと、極稀になんだけど………」

 

「格闘訓練の時は特に分かりやすいよね。攻撃に容赦っていう成分が全部排除されたような」

 

茜の言葉をフォローするように、晴子が溜息混じりにぼやきを見せた。まだ格闘訓練に入ってばかりという事で、手加減してくれている部分がある。そう気づいたのは、攻撃に容赦が無くなった後だったからだ。慧などは「これなら」と判断し、上達し、一矢報いることができると考え―――自分たちが大海を知らなかった事を痛感させられていた。

 

体力作りが終わって、座学から銃器組立と分解訓練を経て、格闘訓練と射撃訓練。鍛えるべき部分は様々で、覚えなければいけない事は目眩が起きるほど多い。

 

目の回るような密度だった。それでも、ただ走っている時と比べれば精神的には何十倍も楽になった。教官の優秀さに感動した、という気持ちもある。鍛えられた軍人の技術の高さに魅せつけられたからだ。体力もそうだが、格闘戦といった技術は見る前に分かりやすい。分かりやすく、凄みと人間の能力の高さに驚かされる。努力を重ねれば、いつかは自分達もあの域に到れるかもしれない。そう思わされた感はあるが、晴子はそれが決して悪くはないものだと思っていた。

 

(それにしても、どうしてあれだけ優秀な衛士が国連軍に………ここは最前線じゃないって聞いていたんだけど)

 

経歴を鑑みれば、佐渡ヶ島ハイヴの間引き作戦に参加できるよう、新潟に近い位置にある帝国軍か帝国近衛軍の基地に配属されているのが自然だ。その方が、よりBETAに対する脅威になるだろうに。

 

(………勝手だな。自分は“お国のために”って肩肘張った帝国軍が嫌で国連軍に入隊したのに)

 

窮屈な思いに縛られるのが嫌だった。なのに他人には窮屈でも優秀な軍人は国民の矛であり盾になるべきだと無責任に思って、そうしないからと不満に思っている。

 

晴子は自分の底の浅さに内心で嫌になりつつも、だからなのかな、と苦笑していた。

 

(この小隊は特異すぎる。榊に彩峰は言うに及ばずだけど、珠瀬も聞いたことがある。そして、御剣………どう考えてもアレだよね)

 

あえて言葉にはしないが、相応しい二文字を当てるなら“人質”か“疎開”だろう。どちらにせよ207小隊は普通ではない人間が集まる場所になっている。

 

晴子は何か汚い思惑がこめられた、政治というものの裏側に触ってしまったような気がしていた。一方で、反論に足る材料も見つけていた。鑑純夏を観察した結果でもある。

 

民間人にしか見えなく、特殊な家庭事情があるとも思えない。母は横浜基地で、父は仙台で働いているという。その彼女がどうして紫藤樹と知り合いになるのか。鍵は知り合いという人物―――幼馴染の男の子にあるかもしれないと、晴子は思っていた。

 

(………それに、だよね)

 

晴子は先日、慧と冥夜が語っていた事が妙に引っかかっていた。

 

あり得ないとも思っている。例え偶然であっても、近接格闘戦でいえば207小隊でもブービー賞を取るような彼女が、紫藤樹から1本を取るなんて。直接その訓練を見ていた二人にも理解できなかったという。

 

出会い頭というのもあり得ない。紫藤教官は基本的に後の先、返し技を得意としている。待ちの戦法を用いる相手を上回るには、読みの早さか、綿密に組み立てられた攻撃方法と順序が必要になる。その教官を相手に、まぐれでも一本を取れるか。晴子は内心で首を横に振っていた。

 

(御剣は………完全に相手の行動を読みきった結果だって言ってたけど)

 

御剣冥夜は剣術を修めている。その彼女をして敗け続きである教官の全てを予測しきるなど、あり得るだろうか。偶然によるものかもしれない、という考えもある。だが晴子は、その部分にこそ純夏が207B分隊に移された理由があるのかもしれないと考えていた。

 

何かが起ころうとしている。要人の娘が集められた理由は、何か。晴子は考えるだけで、結論を出そうとはしなかった。藪蛇になる可能性を考えたからだ。

 

それでも、裏で蠢くナニカを前に、心は高揚を覚えていた。

 

―――もしかしたら。

 

その時晴子の脳裏に過ぎったのは、10歳と14歳の弟の顔だった。帝国軍ではなく国連軍に行くと告げた自分に、臆病者だと怒った太一の顔があった。

 

(“ハルーの分まで戦う”、か………太一。私は、家族に戦争なんて行って欲しくなくて………でも)

 

それでも、と晴子は受け入れられなかった。誰かが戦わなければならない事は分かっている。命が失われる危機がある戦いなんて、無いにこしたことはない。かといって、望む心と現実が重なってくれるような奇跡は滅多に起きない。無根拠な期待は叶えられないのが普通だ。

 

そこまで考えた晴子だが、首を横に振って思考を中断させた。今は目の前の訓練をこなしていく方が大事だと判断したからだ。そうと決めたら、スパっと割り切ることができる。晴子が自覚する、自分なりの長所であり、短所だった。

 

その判断力が言う。207Aには大きな問題はないと。分隊長である涼宮茜をトップにまとまっている今の形が最善で、これ以上のモノを求める必要はない。

 

一方で、207Bは違う。晴子は先日、トランプで二人一組としてブラック・ジャックで勝負した時の事を思い出していた。

 

賭け時と引き際が試される遊戯である。将棋や、あるいは単純な訓練などよりは、こういったゲームの方が素の性格を見て取れる。晴子はその時の様子を思い出しながら、小さく頷いていた。

 

(鑑・御剣ペアはよく出来てた。相談して、ちゃんと結論を出せてた。失敗しても、負けちゃったねって笑い合ってたし)

 

それは相談した内容に対して、二人が納得していた証だ。どう考えても殿下の血縁者であろう御剣にそういった意見を交わせられるあたりが晴子には信じられなかったが、無理をしている様子も感じられないのなら、きっとそれは良いことなのだろう。深入りするつもりはなかった。その必要性も感じられなかった、というのもある。

 

(波長があった、っていうのかな………珠瀬・鎧衣ペアも同じかな。ちょっと積極性がなかったけど、状況は読めてた)

 

鎧衣美琴は不規則なポーカーフェイスというのか、表情を崩すことが少なく、手の内を読み取ることができなかった。一方で壬姫は注視すれば表情を読み取ることができた。それだけならば下位のままだったが、壬姫には強みがあった。

 

いざという時の集中力。賭け時を見極め、狙いすまし、大勢からチップを巻き上げる。洞察力も悪くないようで、あの時はしてやられたと笑うしかなかった。

 

(あとは………最下位になった、榊さんと彩峰さんのペア)

 

結論を言えば、問題しかなかった。方針も正反対。争う声は聞こえ、出した結論もことごとくが裏目になっていた。どちらも気が強く、自分の考えを曲げるという事をしなかった。相手が相手だった、という点があるかもしれない。例えば相手が純夏だったなら、違ったかもしれない。だが千鶴と慧は水と油よろしく、最後まで分離したままだった。

 

晴子もそれとなく、二人のソリが合っていないことは茜経由で耳にしていた。性格も正反対の二人だ。誰とでも仲良くなれる人間が居る筈もない。晴子も、今は打ち解けられなくても仕方がないと考えていた。大きな問題が起きた訳でもない。これから先も、訓練で共に時間を過ごすだろう。その中での心変わりに期待をする

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………“思い切りが良ければベスト、って訳じゃない。何度も書きましたけど、貴方は聞き入れてくれません。猪語で語ればいいのでしょうか。というか猪って知ってますか? あるいはルイタウラ。貴方の事です”………っっんの!!」

 

「わ、わあ! 水月、戦技評価表を破いたらダメだよ」

 

「“先行する前衛をフォローしきれてないっていうか、踏ん切りがついていないっていうか。具体的に言うと踏み込みが甘すぎます。支援とか、対応もどっちつかず。中途半端でヘタレすぎ。そう、これから貴方にキング・オブ・ヘタレという名前を授けましょう”………ぅ」

 

「お、落ち着けよ孝之。いいから、まあ座れ。座ってまずは深呼吸しろ。首を引っ掛けられるロープを探すなって、な?」

 

「“細かい所の判断まで出来ているのはグッド。穴が無い能力も問題なし。努力の証と思われます。でも怖さがないというか、これといった武器がないというか。ついでに面白みも無いというか。あと、成長度合いで言えばドベ2です。もしかして今の自分に満足していませんか? 自分、結構いけてるとか勘違いしてませんか? そんなんじゃあ才能溢れた決定的な武器を持った誰かと闘う事になった時、負けるかもしれませんよ?”………ふふふ………」

 

「い、伊隅大尉? 笑っているのは、なにか面白い事でも書かれ―――ひっ!?」

 

「“狙撃能力は文句なし。でも各所の判断力と操縦技術がまだまだ。あと、やっぱり体力が不足気味。ていうか太った?”………」

 

「お、落ち着いて下さいクズネツォワ少尉。貴方はスレンダーです。間違いありません。太ったというよりは健康的になったと思われます。ですから、そのナニカをへし折るような手つきは………その、見てるだけで寒気がするんです」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………春ですね」

 

「そうですね………早いもので、もう三ヶ月ですか」

 

樹は訓練に教導に忙しかったここ最近を思い返していた。その中で一番に鮮烈だった記憶は、先週の出来事。A-01がそれぞれに配布された“戦技評価表”を見た時のことだった。書いたのはここ最近の対戦相手である戦術機級BETAこと、銀色の不知火を駆る“横浜の銀蝿”―――白銀武だった。

 

例によって、レポートはクラッカー式。A-01は意表を突かれた。今まで、一度も対戦相手の素顔を見るどころか、言葉も交わしたことがなかったのだ。無言で不気味なCPU紛いの化物を相手にしているつもりになっていたのが、いきなりだ。

 

軽い調子で冗句が混ぜられた一文。的確に心を抉ってくるそれに驚き、憤怒した。

 

「香月博士は………大爆笑でしたね」

 

「我が親友ながら………最後の方は腹筋が引きつっていたようですね」

 

落ち込むか憤る隊員達と、その横で見たことがないぐらい大声で笑う白衣の女性。樹はその時の混沌とした光景を思い出し、遠い目をした。まりもは心配そうにしていた霞に背中を擦られる親友の姿が忘れられなかった。

 

「その、あれがクラッカー式なんですか?」

 

「軽いレベルですね。末期はトラウマになるほどの罰ゲームが課せられていました」

 

樹は自分を除いたメンバーが受けた罰ゲームの内容をまりもに教えた。特にアーサーが受けた女装の事は微に入り細に入るまで説明をした。決して、自分が受けた仕打ちに対する復讐ではなく、ただの親切心でのことだった。

 

まりもは、クラッカー中隊の英雄像というものに罅が入った音を聞いた。樹は訂正はしなかった。一部を除き、割とどうしようもない面子が集まっていたのは樹にも自覚がある所だった。一方で、まりもは話の中で気になる事を尋ねた。

 

「その………喧嘩にはならなかったんですか?」

 

「あー………あまり覚えがないですね。負けず嫌いな奴らが集まってましたから。口に拳で返礼するのは負けを認めるようで、癪だったんでしょう」

 

単純な奴らでしたから、と樹は頷く。まりもはその様子に、小さく笑った。

 

この光景も日常のものになっていた。互いに敬語なのは、理由があった。教官職が長いまりもに、樹が色々と質問や確認をしていたからだ。まりもは軍歴も本来の階級も上だからと止めたのだが、樹は教えを請う立場である者だから敬語を使わない訳にはいかないと断った。

 

階級も同じで年齢も同じだから、というのが決め手になった。まりもは最初の内は戸惑っていたが、自然に慣れるようになった。反対の立場もある。環境があれこれ変わるのも、慣れていた。

 

(それだけじゃあ………ないけれど)

 

まりもは、小さな笑みの中で良い意味でのおかしさを覚えていた。

 

―――まるで自分が先生になり、他所のクラスを受け持つ先生と話しているようだと。そんな、自分でも贅沢だと笑ってしまうような考えを抱いてしまっていたから。

 

虚構ではなかった。教官を教職と言うのなら、間違いではない。まりもは何人も教え子を育て上げた経験がある。その職務は学校の先生が行うものと、等号では結ばれない。それでも責任感と誇りを持って務め上げるべきものだという点では、何も違いはなかった。

 

紫藤軍曹は、どうなのだろうか。ふとそんな事を考えたまりもは、気付けば質問の言葉を投げかけていた。あの子達はどうですか、と。

 

樹は少し考えると、教え子について語った。

 

「榊千鶴は………生真面目ですね。悪いことではない。訓練にも手を抜かず、才能もある。伊隅に似て能力に穴がない。その一方で、失敗を酷く嫌っている。そのせいか、規則や定石から外れることに忌避感があるようです」

 

経歴は樹も聞いていた。榊首相により兵役免除となる所を、反発して飛び出そうとしていたらしい。入隊に志願した先は帝国陸軍。だが首相の手により、陸軍ではなく国連軍で人質になる事になった。

 

親心と子心が離れているように聞こえる。事実、その通りなのだろう。千鶴が総理大臣としての父をどこまで認め、厭うているのかは想像するしかない。だが、態度を見れば素直に尊敬する対象だけではないことには気付ける。

 

それが、失敗することは許されないと思っている一因になっていると推測できた。全ては分からない。それが父が犯した失策と言われている侵攻時の一件のせいなのか、父の偉大さを眩しく思うが故のことなのか。

 

「頭の回転は早い。ですが、考えているつもりが、定石にこだわり過ぎるあまり思考停止に陥っている節があります。訓練生にそこまで求めるのは酷ですが」

 

問題は、この先のこと。衛士はその能力と経歴の高さ故か、癖のある者が多い。207Bは特にその傾向が顕著だ。指揮官としては、その者達をまとめていかなければならないが、定石だけで全員を統括できる筈もない。ある程度の懐の深さも必要になってくる。

 

「定石の本当の意味を理解できるか。それが、今後の課題でしょうね………彩峰慧は、その試金石になりそうです」

 

樹の目から見た彩峰慧の評価は高い。特に近接格闘におけるセンスは冥夜と並び図抜けたものがあった。射撃に関しては冥夜の上を行く。衛士になった時の事を考えると、総合的な攻撃力では207随一になるだろう。

 

「能力的には、典型的な前衛タイプ………ですが、致命的に足りてないものがある」

 

「それは?」

 

「視野の広さとチームワークの重要さ。あとは指揮系統が意味するもの。本人は気づいているようですが、それは表に見える面だけ。本来の意味では気づいていない」

 

突撃前衛は隊の最前線でBETAと殴り合う。それでも、たった一人で延々と戦闘できる筈もない。部分的に中衛・後衛と連携しながら敵を捌いていくのが基本となる。その全体の動きを統括するのが指揮官だ。

 

突撃前衛も例外ではなく、指揮官の指示に従って動くのが基本だ。だが最もシビアな役割を任せられる前衛が、指示あるたびにその内容を疑っているようでは話にもならない。

 

「成程………榊の指示に反発しているような現状では、ですか」

 

「全ての指示に対して反発している訳ではありませんが………不満を抱いているのが見て取れます。表面上は取り繕えていますよ。でも、あくまで最低限といった状態。あのままでは、この先どうなる事か」

 

樹も気づいた端から注意はしている。指揮系統の重要さに関しては、座学の時も徹底的に教え込んでいる。慧も、無闇に反発するようなバカではない。

 

何が悪いのか。強いて挙げるのなら―――榊千鶴と彩峰慧の相性が悪かった。

 

「次は………珠瀬壬姫。彼女の狙撃能力には驚かされましたよ」

 

樹は壬姫が弓道を嗜んでいると聞いていた。だがそれだけでは説明がつかないぐらい、狙撃の適性は凄まじかった。その規格外たるや、白銀武の超絶機動を彷彿とさせるほど。

 

「一方で、狙撃手に必要な精神力の強さは持っていませんね。あがり症というか」

 

注目され、緊張していると途端に狙撃精度が下がる。後衛候補として考えれば、万が一の時が怖い。平時は優秀な狙撃手が、不意打ちに呆気無くやられるというケースは少なくない。

 

「鎧衣美琴は、能力的には決して悪くはないんですが………どうにも他の面々と比べると、長所が無いように見えますね。ムードメーカーとしては重宝するでしょうが」

 

マイペースながらも周囲を見ているのか、判断力は悪くなさそうだ、というのが樹の印象だった。

 

「聞く所によると父親譲りの各種技術があるようです。手先も器用だと。そう考えると………真価を発揮するのは実戦ですかね。それも、トラブルが起きた場合の」

 

実戦で必要になるのは戦闘能力だけではない。様々な状況に置かれるA-01には、直接的な戦闘能力だけではない、特殊な技術を持った衛士も必要になってくる。

 

「御剣冥夜は………特に指摘する部分はありませんね。強いて言えば、射撃能力か―――いえ」

 

近接格闘能力では207でも1、2を争うほど。精神力も強く、最終的に一度もバケツの世話にならなかったのは冥夜だけだ。最近では自主訓練で走りこみをするほど、向上心も人一倍強い。

 

「それ以外は………本人にはどうしようも無い所ですからね」

 

協調性はある。それでも積極的に交流していないのは、207の小隊員に遠慮が見えるからだ。無理もないと、樹は言う。

 

射撃能力は千鶴よりやや下。とはいっても、十分に水準以上の成績を収めていた。連携に関しても、衛士になった後ならば問題ないだろう。月詠真那にそのあたりの教導は受けていたのか、組織と部隊の運用と指揮についても、それなり以上の知識を持っている。

 

「その他、どこかに問題を抱えているかもしれませんが………今の自分にはわかりませんね」

 

たまたま発露していないだけで、何かしらの矯正すべきポイントがあるかもしれない。もっとも、そういった弱点を許さない信条を持っているのなら、指摘しなくても本人自ら修正に走りだす。樹はそう締めくくった後、緊張の面持ちになった。

 

「最後に、鑑純夏………成績は207Bでは最下位。よくついていってる方ですけどね」

「頑張り屋だとは、涼宮からも聞いていましたが………何か、問題が?」

 

「問題は………無いといえば無い。実際、かなり助かってはいます」

 

美琴と並ぶ207小隊のムードメーカーで、誰よりも訓練に真摯に挑んでいる。失敗することも多いが、ヘコタレず、前向きに。出来るまで徹底的に努力を重ねる姿は他の隊員のカンフル剤にもなっていた。本人達には告げていないが、三ヶ月の間に207小隊に受けさせた訓練量は帝国陸軍や本土防衛軍以上で、斯衛さえも凌駕するほど。欠けることなく乗り越えられたのは、純夏の存在があったからかもしれない。そういう点でいえば、教官としてはありがたい存在である。

 

だが運動神経の悪さが災いしてか、近接格闘能力のセンスはほぼなし。どうしてか拳による打撃力は相当なものだったが、衛士に必要な才能とは言えなかった。射撃は最下位で、体力も現在は下から二番目となる。

 

直向きさに反して、成果が出ない。才能がもう少しあれば、と思わせられる訓練生。それが、教官という立場から見た鑑純夏の総評だった。

 

だがそれは、ある1点を無視すればの話となる。樹は緊張した面持ちで、呟いた。

 

「先の近接格闘戦………1本取られた、という話は聞いたと思いますが」

 

「はい。偶然が重なった上での出会い頭の事故だ、と報告があった件ですね」

 

まりもの言葉に樹は頷き。

 

ですが、と目を閉じたまま昨日の1戦で起きたことを語った。

 

―――最初から最後まで、完全に動きを予測されて、最後には相打ちになった事を。

 

まりもは驚き、絶句した。両者の技量と身体能力を鑑みれば、あり得ないことだ。特に紫藤樹の白兵戦の技量は並ではない。その域にあって、偶然の引き分けなど起こりようがない。それ以前に、人が人の動きを完全に予測するのは不可能なのに。

 

「そんな、あり得ません。それこそ、()()()()()()()()()()()状況でもなければ………」

 

 

まりもが口にしたのは荒唐無稽な、冗談の類。その言葉を、樹は笑わなかった。

 

 

ただ一言だけ。武と博士に報告する必要があるな、と重苦しい呟きだけが返された。

 

 

―――2001年3月29日。

 

やや早く桜が満開になった、晴れの日の昼下がりのことだった。

 

 

 

 

 


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