Muv-Luv Alternative ~take back the sky~   作:◯岳◯

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お久しぶりです。

リハビリを兼ねて、短編集更新でございまする。


短編集 : 1

 

●XM3に悪戦苦闘する樹

 

 

操縦桿を両手に入力し、機体が動く。それを動きながらも、修正していく。勿論のこと、状況の事前把握と推移の予測は必須となる。それをリアルタイムで求められるのが衛士だ。曰く、半ば言うことを聞かない半身と慎重にコミュニケーションを交わし、自分の望む通りに交渉するかのよう。一度でもコックピットに乗った事がある衛士ならば、誰もが頷く感想だ。そしてOSは、その交渉を仲介する人間のようであり。

 

「……作成者の色がそのまま出てるな」

 

「同意します。全くもって……とんでもないものを作ってくれました」

 

額に汗を流しながら、紫藤樹と神宮司まりもは誰に向けてでもなく呟いた。同時に零れ出たのは苦笑だ。呆れと歓喜、苦悩が綯い交ぜになった驚愕と。

 

旧OSの調子で動かせば、途端に立ち行かなくなる。基本的な動作であれば問題ないが、速度が肝になる戦闘機動となると、難易度が急激に跳ね上がった。動かし、転倒しそうになり、慌てて体勢を立て直す。瞬間の動作は修正できても、冷や汗と共に積もる焦燥の念は消すことができない。今は敵も何もない、ただ動作を繰り返すだけの練習だから良いものの、仮想敵を前にした演習であれば即座に撃墜されてしまう。

 

もっと、安定した動きを目指さなければならない。時間も無かった。来週にはA-01にOSが配布されるのだ。その時にベテランとして、情けない姿を見せる訳にはいかなかった。

 

「だが……くっ、と!」

 

「まだ遅い……いえ、早い?」

 

少し操縦を試しては、機体の反応を見て修正していく。二人はそこで、昼の休憩を報せるアラームが鳴る音を聞いた。

 

「……もう、か。さて、神宮司軍曹、どうする?」

 

「続けたい気持ちはありますが、一旦落ち着いてからの方が良いかと」

 

間を空ければ、掴める感覚があるかもしれない。そう思ったまりもは休憩時間を取る事を提案し、樹も同感だと頷いた。

 

だが、機体から降りた二人ともが、顔色悪く頭を押さえたまま眼を閉じた。吐き気と必死に戦っているのだ。

 

「三半規管が……新しい操縦の感覚に慣れていないからか」

 

「少し、地面が揺れていますね」

 

まるで新兵の頃のようだとは、どちらも言わず。ただ、獰猛な微笑を零すに留めた。失敗続きの機動の中でも、一部では成功したのだ。その時の快感を、手応えを、見逃す筈もなかった。

 

それを一度味わえば、もう止まらない。休憩を終えて間もなくして、二人は訓練を再開した。OSの性能に欠陥はなかった。そもそもが、歴戦の衛士が編み上げたものだ。戦場の理想に近い形で練られたそれは、ベテランであればあるほどに感覚的に掴む事ができた。何故なら、祈りを叶える形だから。

 

あの時にもっと手早く動くことができたのなら、間に合ったかもしれない。その意図に応えるようにと作られたものだから。

 

そうして、一通りの練習が終わってから。樹はシャワーを浴びて自室に戻った後、椅子に体重をかけて盛大なため息を吐いた。

 

原因は先程の時間に見せつけられたもの。即ち、神宮司まりもと自分の上達速度の差にあった。樹はひとりごちる。やはり、自分には才能が無いと。

 

懐かしい焦燥であった。大陸では日々抱いていたものだ。クラッカーズは粒揃いだった。生身での身体能力に関して、樹はほぼ隊内の水準に位置していたが、操縦センスで言えば最下位に近かったからだ。

 

「……神宮司軍曹もな。流石に、教導隊に呼ばれるだけはある」

 

飲み込みが早く、応用に至るまでの時間は自分よりも短い。A-01の教官役に任命されたのは伊達ではなかったと、樹は今更ながらに思い知らされていた。

 

このままでは、置いていかれるだろう。A-01にも、才能に溢れた者達が集っている。武に関しては言わずもがなだ。間もなくして戦場は激化する。その中でも将来有望な衛士達はきっと、更なる飛躍を遂げることだろう。

 

――ついていけるか。明らかに才能が無い自分が、このままで。

 

樹は内なる声を聞いた。いつだって正直な現実が語るそれは、虚飾の無い真実であり。樹は答えずに、眼を閉じてイメージトレーニングを始めた。

 

慣れたものだからだ。周囲との才能の差に胸を締め付けられるのも、そこから這い上がることも。凡人ではないだろうが、才人では決してない自分が置いていかれないようにするには、何倍もの努力が必要になる。故に、無駄な時間は一切作らない。

 

過去の事を思う。子供の頃、自分を取り巻く環境は正常とは言えなかった。父母の確執、武家のしがらみと、淀んだ期待の眼。何もかもを壊したくなった事は一度ではない。好きにできる力を得られればと、子供じみた空想を描いたことも。だが、それが成される事は一度もなかった。軍人になってからも、ずっと。

 

どうして、自分では駄目なのか。その理由を樹はユーラシア大陸の戦場で知った。人を率いる才能を持つ者が、才能溢れる衛士を指揮して、尚及ばない現実を前にして。

 

大勢では、駄目なのだ。誰もが生きようと戦い、それでも届かないものは明確に存在する。届いたのは一度だけ。奇跡のような運の良さと、鍛えに鍛えられた天賦の才を持つ者達が揃ってようやく。

 

ならば、と樹は何度目かもしれない決意表明をする。凡人が才人に努力の量で負ければ、もうそれはゴミなのだと。優しい嘘をついてくれる者は戦場にいない。人情が通用する世界ではない、自然の摂理が強制的に適用される世界だ。

 

即ち、弱肉強食。必要なくなった屑は喰われて終わるか、喰われるまでもないゴミは屑籠にまとめて放り込まれて、焼却処分される。

 

「――ともあれ、俺にも意地はある」

 

樹には積み上げた武器があった。地道に積み重ねた努力は、嘘をつかない。樹は操縦の基礎に関する技量に関して言えば、かつてのクラッカー中隊の誰にも負けない自負があった。それが無ければ、XM3の習熟にはもっと時間がかかっていただろう。あるいは、ここでお払い箱という未来もあったかもしれない。経験の差が絶対ではないとして。

 

そこまで考えた時、樹は声を聞いたような気がした。

 

――いやいや、悲観的すぎるって。もっとこう、明るく行こうぜ。

 

樹はふっ、と笑った。苦笑だった。どこからそんな自信が出て来るのか、未だに分からないよと。

 

だが、それで良いのかもしれないという想いも芽生えた。少なくとも、才能だのなんだと、努力をしない言い訳を、諦める理由を探すよりは。

 

「まずはOSの癖を、本質を掴むか……模倣も一種の打開策か?」

 

そのために発案者の動きをトレースするのも一つの方法である。樹は慣れた手合で、再び眼を閉じたまま描いた。

 

脳裏に刻まされた奇想天外を―――銀色の機体の機動を。

 

追いつけずとも、その軌跡から置いていかれないように

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

●207B分隊のポジションとこれから

 

 

動作教習応用課程が終わって間もなくして、207B分隊の少女達は食堂に会していた。集まった目的は一つ、次なる演習に向けての作戦会議だ。その最重要項目として、隊員のポジション決めがあった。

 

「まず、慧と冥夜は前衛ね。異論は、ある筈ないと思うけど」

 

千鶴の声に、一同が頷いた。訓練過程を思えば、むしろ前衛以外のどこをしろと、というツッコミが入ること間違い無しだったからだ。

 

「それでも、射撃精度で言えば二人には……特に冥夜には一つ物申したい事があるのだけど」

 

「そういう話はあとで……本筋から外れてる」

 

「うっ……そ、そうね」

 

千鶴は慧の指摘に少しむっとしながらも、尤もだと頷いた。冥夜と言えば、少しほっとした表情になっていた。

 

「残りの中衛と後衛だけど……後衛の一人は壬姫で、中衛は指揮官である私。これにも、異論は無いと思うけど」

 

長距離でも高い精度で援護射撃が出来る壬姫ならば、後衛に据えるのが必然と言えた。指示出しをする指揮官が中衛以外になるのもありえない。

 

残るは二人、鑑純夏と鎧衣美琴。千鶴は整理する意味で、二人の長所と短所を述べ始めた。

 

「純夏は……三半規管が強い分、衛士的な体力はあるわね」

 

素質があったのか、戦術機の揺れに耐えるための適性テストでは、一番の成績を出していた。千鶴達は知らないが、A-01の最高値よりも高い数値を出していたのだ。

 

「あれは驚いたよね」

 

「うむ。他ならぬ其方が一番驚いていたな」

 

「へっ、もう終わり? とか言ってたよねー」

 

「はうあう……あれだけ食べていたのに、凄かったですー」

 

「すごくなかったら、乙女の尊厳がアレでこれだったけどね……」

 

適性を見るテストでは、揺れに酔う者が多く、事前の食事で食べ過ぎれば嘔吐する危険性もある。純夏を除く5人はそれを知っていたため量を控えていたのだが、純夏だけは多く食べていたのだ。

 

「みんな酷いよ。教えてくれても良かったのに」

 

「いや、其方の自信の現れだと思ったのだ。事実、何とも無かったではないか?」

 

「言われてみればそうなんだけど……」

 

「ほら、本筋からずれてる。続けるわよ」

 

千鶴は純夏の特徴を並べた。揺れに対する耐久力と、いざという時の集中力が高いとは、教官からのお墨付きである。一方で、近接格闘能力の低さについても。

 

「状況判断の能力は、やや高い……でも、美琴には劣るわね」

 

「うん。美琴ちゃんには敵わないと思う。だから、私は後衛が良いと思うんだ」

 

「……それは、どうして?」

 

「バランスを考えるとね。それに、援護射撃の精度は壬姫ちゃんには及ばないけど、速さについては追いすがれると思うから」

 

射撃動作はある程度の段階に分けられる。撃つべき目標を決めて、機体の向きを修正し、構え、照準を合わせ、機体がロックオンするのを待ち、引き金を引く。その一連の動作が円滑に、正確に出来れば射撃の速度は飛躍的に上昇する。

 

壬姫は構え、照準合わせからロックオンまでが早い。無駄なく、対象に向けての最適な動作が取れるからだ。突撃砲と機体とのマッチングも優れている。あとは、射撃の当て勘と呼ばれるものも一級品だ。時にはノーロックで敵を撃破することもあった。

 

「一方で純夏さんは……敵の見極めが早いね」

 

「うん。あと、逃げ足も早いから」

 

敵に奇襲を受けた時も、無駄に苦手な近接戦闘で迎え撃つ必要はない。一度退避し、得意な距離で突撃砲を斉射すれば良いのだ。

 

「そう、だね。あと、美琴さんは千鶴さんの補佐役が向いていると思う」

 

「同意する。視野の広さで言えば、隊内でも随一だから」

 

壬姫の提案に、慧が頷いた。工作員としての能力に長け、野外での生存能力に長け、勘に優れる能力を持っているということは、それだけ周囲の状況と自分の状況を正確に把握する能力を持っているという事に等しい。隊長が見落としている点を補佐して埋める、という意味では美琴以上の適役が居るとも思えなかった。

 

「……そうね。中衛なら、前衛の援護のために近接格闘戦を強いられることもある」

 

なら決まりかしら、という千鶴の声に全員が頷いた。千鶴はそれを見回した後、けれどもと厳しい表情を見せた。

 

「これはあくまで仮のポジション。必要に応じて、状況は変化すると思ってちょうだい」

「……どういう意味?」

 

「あの意地の悪い男が、生半可な試験を用意するとは思えない。次の演習はきっと、私達の想像以上に厳しいものになるとおも……いえ、なると断言するわ」

 

「そのためには、前衛が後衛の役割を強いられる事もある、か?」

 

「ええ。少なくとも弱点を放置しておくのはあり得ない。それで、先程の話に戻るのだけれど」

 

千鶴は各員の欠点について指摘した。冥夜は射撃技術の遅れについてと、思い切りが良すぎること。技量があると言えど、やはり近接格闘戦の方が被撃墜率は高いのだ。無理に長刀を前面にした戦闘をする必要はなく、敵の撃破速度が上である突撃砲を活かした戦闘を意識した方が良いと。

 

慧は周囲を意識しなさすぎる点。前衛はそれ単独で動いている訳ではない。実戦において前衛の2機だけではカバーできない部分がどうしても出てくるものだ。それがベテランであってもと、千鶴は聞かされていた。その死角を埋めるために、中衛と後衛が居るのだと。慧は、その中衛と後衛を案じた動きをしていなかったように見えた。目の前に手一杯で、冥夜のように一旦落ち着いて戦術に移る、という場面がほとんど無かった事から、千鶴はそういった問題があることを見抜いていた。

 

壬姫は敵を狙い過ぎる点があること。ピンポイントの狙撃が必要でない場面でも、それを意識してしまう事があり、援護速度がやや遅れる状況が何度かあった。応用課程ではその欠点が浮き彫りにならなかったが、隊で動く場合は異なってくる。後衛に求められるのは前衛が窮地に陥らないよう最適な援護射撃を迅速に行う事だからだ。

 

純夏は冥夜とは逆で、極端に突撃砲による戦闘を意識しすぎている点。近接格闘戦を忌避している部分にあった。BETAに近寄られる事を恐れすぎていると、教官から指摘された事もあった。そして、状況判断から行動に至るまで、もたつく癖を直すこと。

 

美琴、千鶴に明確な欠点はなかった。反面、長所と言える点が少なかった。練度も高くなく、器用貧乏と呼ばれても反論できない程度でしかない。無理に長所を作る必要もないとは教官の言葉だが、そこで満足して良い筈もない。千鶴は樹から、苦手分野がないという事は長所につながる。身近な手本――近接で言えば冥夜、慧、遠距離で言えば壬姫から何かしらの技術を吸収すべきだと諭されていた。

 

千鶴が一通り告げると、冥夜が苦い顔で呟いた。

 

「耳が痛いが……概ね否定できんな」

 

「同感だね。それに、上には上が居るから」

 

「うん……最初に操作ログを見せてもらったあの人の事だよね」

 

207B分隊は適性テストから基本動作に移った時期に、これが手本にすべき衛士の操縦だと、ある衛士の操作ログと実際の機動を見せてもらった事があった。

 

感想は、理解不能の一言。だが、この世界における頂点の一人だと教えられたからには、誰もが目指さない訳にはいかなかった。

 

「でも……ある程度操縦のことが分かってきてから、更に訳が分からなくなるとは思いませんでした」

 

「ええ。なにがどうなってああなるのか……訓練兵の内は無理でも、いつかは理解しなければならないものなのでしょうね」

 

いつかは理解して、可能ならば超えろ。期待がこめられているから、頂点の風景を見せられたのだと、千鶴は思っていた。その横では、純夏が何とも言えない表情で冷や汗を流していた。

 

「……ん? どうしたのだ、純夏」

 

「あ、え……ううん。なんでもない。ただ、頑張らなきゃって思っただけ」

 

「そうだな……そのための仲間だ」

 

冥夜の言葉に、全員が笑顔を返して頷いた。後はないから、と。ただ一人だけ、少し引きつった笑顔を携えたままでいたが。

 

「でも……1機を打破すれば終わり、というのもね」

 

千鶴は呟きながらも、呻いた。たった1機、倒せば合格というからには、敵手の力量はどれほどのものだろうかと。突撃砲の弾速は言わずもがな、数的有利が勝率に直結するほど、戦術機における戦闘は数が多い方が勝つのだ。6対1だというのに、躊躇いなくそれを最終試験として宣言した理由。

 

「自信家か、あるいは……どちらにせよ変わりないけど」

 

本音を言えば、力量を知っていそうな純夏を問い詰めたい気持ちがあった。他の者も似たり寄ったりだ。だが、どうにもそれをするのは卑怯な感じがして、止めたのだった。

 

まさか、クリアできない程度の相手を用意している筈もないという想いを抱いていた、というのも理由としてあるが。

 

 

 

「……うん。なんとか、しなきゃね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その翌日。隊のポジションを告げられたサーシャは、樹、まりもと相談をしていた。今後の模擬演習の内容についてだ。

 

これから先の指導で、大きなすれ違いがあると取り返しがつかない。そう判断したサーシャが、念のためにと二人の意見をヒアリングする場であった。

 

しばらくして、資料とそれまでの映像を見終わったまりもが真剣な声で答えた。

 

「ポジションは……最善の配置だと思われますね。技量の高低はあれど、今は訓練兵です。特に修正する点は見受けられません」

 

「同感だ。あとは欠点の補填だが、そこに意識が行っていないとも思えん」

 

「指摘される事なく、互いにフォローする形を取れている……成長したね」

 

本人たちの前では口が裂けても言えないけど、とサーシャは呟いた。樹は一言一句逃さず耳に収め、ため息を吐いた。

 

「追い込み過ぎないようにな」

 

「それは、相手方の心配?」

 

「……どっちもだ。捨てていいなんて、思っていないからな」

 

樹にしては珍しい、ぶっきらぼうな物言いに、サーシャは目を丸くした。一方で、まりもは口を小さく開きながら、二人の間に視線を行き来した。

 

「才能はある。急ぎすぎる理由は――あるが、必要以上は毒にしかならない。立場を考えてもな」

 

「……承知した。ありがとう、樹」

 

「礼を言われる覚えはない。あいつらも、俺の教え子だからな」

 

樹はそれだけを告げて、退室した。まりもは数秒だけ逡巡すると、ためらいがちにサーシャに問いかけた。

 

「怒っていたようですが、心当たりが?」

 

「無い。でも、6割が照れ隠しだった―――と、思う。あとの4割は分からないけど」

 

教え子に思う所があったようだと、サーシャは言う。まりもは頷きながらも、得心がいかないように戸惑っていた。

 

「それでも……教え子か。全く、想像もしていなかった。神宮司軍曹は、そのあたりどうだった?」

 

「教え子を持つ事ですか? ……想像だけの世界だった、というべきでしょうか」

 

目指したのは教師。強いられたのは戦国。同じ道を歩もうとした、かつての同級生の嘆きは聞いたことがあった。教え子の訃報を聞かされる度に、心の根がごっそりと削られていくような、と。

 

教師に求められるのは、子供の育成だ。子供自身が望む道を、望む限りに歩ませることが理想。だが、今は乱世だ。BETAを大敵とする、生存競争の真っ只中。その中で子供が望むのは、家族の、国の、世界の平穏。必然的に力を、軍における活躍を成せるだけの力を手に入れたくなるというもの。

 

健全なのか、不健全なのか、そのあたりの判断を下せる程に、まりもは偉くなったつもりはなかった。教えるためにと、躊躇わず拳も奮ったのだ。必要だと思った時に限って。ただ、歪だと思うことは自由だと、その想いを胸に今日を生きている。

 

サーシャは、茶化さずに笑った。

 

「――謙遜は、嫌味だと思う」

 

「……どこを見て、そう思ったのですか?」

 

「A-01を見た。うん、凄いと思う。だって彼女達は、彼らは、そのままに頑張っていた。感情の綯い交ぜはあった。でも、それぞれが根幹に抱いてる想いは、揺らいでなかった」

夢のために自分を。目的のために夢を。果ては、理想でさえ。サーシャは嬉しそうに笑った。彼女達の中に、轢殺された夢は残っていなかったと。

 

諦観ではなく、希望。妥協ではなく、邁進。それを選び続ける事が出来ている部隊。それはユーラシアでも、クラッカー中隊と、尾花晴臣率いる中隊を置いては、存在しなかったものだから。

 

「だから、勝手に頑張る。教えられた言葉を、叩き込まれた拳を、言葉を忘れていないから」

 

あるいは、自分の中に灯された風景を。

 

――今は亡いであろう、平和だった頃の日本の姿を思って。

 

「帰りたいなら、勝手に帰る。自分の家なら、余程に。だから、心配する必要はないと思う」

 

サーシャだからこそ、分かる気持ちはあった。失われた所。欲していた場所。帰りたいと思う故郷。それを奪われた人は、死にもの狂いで取り戻そうとするものだから。

 

誰も彼もが動き出すのだ。自分たちの家に向かって。

 

 

「……覚悟、決まった。うん、言葉にして分かることもあるって、こういう事だったんだ」

 

サーシャは武からの言葉を反芻して、深く頷いた。何はなくとも言葉にしろ、と。それだけで状況を整理できることや、心境を、目標を見出すことができると。

 

そうであるからには、手加減など不要だ。

 

「徹底的に苛め抜く……神宮司軍曹にも協力して貰う。そして、遠慮なくダメ出しをして欲しい」

 

教える側にも、教わる側にも、利用できるものは利用すべきだと、当然のようなサーシャの言葉にまりもは面食らいながらも、頷いた。無体はせず。逆に、これが訓練兵の――B分隊だけではない、A分隊のあの子達のためになるのだと、奇妙な確信を抱くことができたからだ。

 

一方で、サーシャはあるプランを練っていた。

 

(……純夏の特殊能力を活かす方向性は論外。結局、武の奇襲を妨害する事もできなかったから)

 

見るべき所は見ていた。演習の最中、予知のような能力がどれほど影響するのか。結果は、想像以下。分かっていた事だと、サーシャは言う。

 

(推測から周知、実行に至るまで純夏のスペックじゃハードルがあり過ぎる。活用できて1割。それじゃあ意味がない)

 

結果に繋がらなければ、何をしても意味がない。軍事における常識である。その理屈から言うと、純夏の短期未来予知は論外もいいところだった。武と樹も同様の結論を下していた。とても頼りにはならない、してはいけないものだと。

 

本人の能力が未熟。本人以外に活かすにも、その説得力が足りない。どうしても活用するには隊内に第三計画以下、非人道的な実験を説明しなければいけなくなる。だが、そのリスクは果てしなく大きかった。

 

――人の心が読める。この事実を前に、嫌悪感を抱かない人物の方が稀だからだ。

 

無責任な信頼は時にどうしようもない事態を引き起こす。無垢な理想を歩む道が、最善とは限らないのだ。隊内に不和を撒くよりは、現状維持を。隊の結束を乱し、空中分解の切り札を切るのは、どうしようもなくなってからでも遅くはない。そしてサーシャも、無条件に他人を信じられるような夢想家でもなかった。

 

「……できる限りの方法を。積めて、最後にどうなるのかは分からないけど」

 

不安と期待が同居した胸中。サーシャはそれを表には出さず、取り敢えずはと目の前の教え子達の教導に集中することにした。

 

 

少しでも良い未来を、と信じてもいない神に祈りながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

●武の年末年始の大掃除

 

 

 

年が明けて一週間後。武は横浜基地のハンガー中で、自分の機体と向き合っていた。正確には向き合いながら、雑巾を片手にその装甲を綺麗に磨いている最中だった。

 

「あの……白銀少尉?」

 

「ああ、ちょっと待っててくれ。ここを拭いたら終わるから」

 

武はそう答えると、気になっていた汚れを一気に拭き取り、機体の横にある足場へと戻った。身軽なそれは、軽業師が本業だと言われても信じられる程のものだった。

 

「それで、なんだ? 本格的に動き出すのは、まだ先なんだけど」

 

「いえ……少尉は何をされているのかと」

 

問いかけたのは、武より少し年下の整備兵だ。技術に専念したいと―――徴兵で最前線に送られるのは免れたいという狙いもあったが―――考えていた少年だ。

 

武は、なんでもないように答えた。

 

「ああ、大掃除」

 

「え?」

 

「ちょっと遅れたけどな。やらないよりかは良いかもって」

 

武は淡々と説明した。年末は忙しかったけど、今なら時間が出来たと。その時間を使って出来ることといえば、できなかった大掃除ぐらいだと。その答えを聞いた少年は、顔を少し歪めた。

 

「……自分たちの清掃が不十分だったと、そう言いたいんですか?」

 

「いや、ただ自分がしたかっただけだ。それに、こうしている内に機体への理解度が高まりそうなんでな」

 

予想外の言葉に、少年の整備兵は目を丸くした。それに構わず、武は続けた。

 

「俺も、先輩的な人から教わったんだけどな。こうしていると、機体に愛着が湧くって。それで、同時にこう思えるらしい。これだけ尽くしたんだから、裏切られる筈がないと」

女性でも、機体でも、愛情をかけたものに裏切られる筈がない。逆に、そういう時は胸を張って言えるという。これは、間が悪かっただけなのだと。

 

「不思議と、機体の理解が深まるって意味もある。間接思考制御も、突き詰めればフィーリングだしな。表面を拭き取って、装甲の曲線を手で感じ取って、その装甲が受ける風圧を全部じゃないけど把握して。そうすると、姿勢制御の精度が上がるような感じがする」

気休めだけど、と武は笑い。今までは全て余分だと、苦笑を重ねた。

 

「詰まる所は、交流だ。戦場に出れば衛士と戦術機が一対。比喩なしで、唯一無二の半身だからな」

 

その半身を汚いままに、年を越す事はできない。武の言葉に、少年の整備兵は深く感銘を受けたように頷き。直後、はっとしたように告げた。

 

「でも、大掃除の時期は過ぎてますよね?」

 

「へっ、その心配はないって。なにせ、大掃除を年末に済ませなければならないという軍規はないからな!」

 

武は力強く断言した。脳裏に浮かぶのは言い訳の言葉。そして、元旦に疲れた顔をする父の顔。記憶には残っていない。でも生まれて間もなく―――具体的には二週間後ぐらい――になって、煙に盛大に咳き込んでいる母の姿と、棚から落ちた重量物に顔を直撃された父の姿と、「いのちはだいじに」と父に告げられてしょんぼりする母の姿だったりする。

「成程……既成概念に縛られるよりは、自らが望む事を優先すべきだ、という事ですね」

「ああ、うん。まあ、そんな感じだな」

 

武は概ねにおいて同意した。若干面倒臭くなったともいう。

 

「……それに、前の2機は十分にしてやれなかったからな」

 

「え?」

 

「F-5に……F-15J。どっちも、無茶させたせいで壊しちまったから」

 

破壊されるのではなく、耐用年数を越える。各部品の疲労限界が来る。兵器としては本望だろうが、武はそれまでにずっと聞いていたのだ。全身から悲鳴染みた軋みを上げる相棒を。

 

「それに、商売道具の整備は義務だしな。整備兵だって同じだろ?」

 

「はい。確かに……手入れを怠った時は、思いっきり怒鳴られます」

 

殴られるのも当たり前。ネジを締める、その半回転の緩みが衛士を殺す事がある。精密機器の塊とも言える戦術機において、各部品に要求される精度は高いの一言だ。手入れを怠って、作業速度が落ちて、気が緩んで、などといった理由は言い訳に他ならない。

 

日本においては少ないが、いい加減な整備を繰り返した整備兵が行方不明になる事態は決して少なくない。それだけ、衛士は貴重だというのもあるが。

 

「それに、こういった方面で怠けるとな……即座に鉄拳が飛んでくる環境だったから」

 

「え? それは……き、厳しいんですね」

 

整備兵の言葉に、武は躊躇いながらも頷いた。そして、ふと横に顔を向ける。するとそこには、武と同じように布を片手に持った樹とサーシャの姿があった。

 

「……あの紫藤少佐まで。ということは、衛士にとっては当たり前の事なんですか?」

 

「ああ、うん。まあ、そういう所かな」

 

樹とサーシャの顔色が悪く――きっと一時間前に告げた、掃除忘れてるぜという指摘のせいだろうが――なっているのを見た武だが、沈黙に努めた。余計な事を教えて、情報流出を恐れたからだ。

 

「しかし、戦術機を大掃除ですか……」

 

「古来には日本刀の手入れもそうだったって聞くぜ? なら、別におかしくはないだろ」

どちらも戦場における半身、相棒であり、あるいは存在意義にまで至る。年を新しくするのだから、放置するだけというのも、理屈ではなく気持ちが悪くなる。

 

報いたいと思うのだ。手荒に扱うことはできない。向かい合うのは“不知火”。九州は熊本、八代の夏に訪れる火影を起源にする機体だから。

 

九州を取り戻す。そしてあくまで火が影であるようにと。本州の全てを炎に包ませないよう、影である内に留めるという誓いに乗せて。

 

京都より北陸、東海を経ての関東防衛戦。その最中で散った多くの英霊が静かに眠ることが出来るように。ただそのまま言うには恥ずかしい武は、誤魔化すように告げた。

 

「それに、綺麗な機体で出撃するとモテるからな! 主に女性とかに」

 

「ダウト」

 

「ダウト。というか、またあのイタ公の仕業か……!」

 

厳しいツッコミが2つ。両方に色の違う殺気がこめられて。

 

なんだかんだと、武達の周囲では穏やかに。世紀末を超えた年の始めは、台風の前の空のように、静かに過ぎていった。

 

 

 

 

 

●力ある者の心得

 

 

 

 

207衛士訓練小隊のB分隊に奮起を促した、その直後。武はユーコンに発つ飛行機に乗る前に、挨拶を済ませようと夕呼の執務室を訪れていた。横浜基地の地下にある、限られた人間しか入れない部屋。人類の最前線の一つとも言えるその中で、武は深くため息を吐いた。それを聞いた夕呼は、片眉を上げながら問いかけた。

 

「随分と辛そうね」

 

夕呼の口調は、後悔しているのならもう止めるの、などと言いかねないもの。武は少し怒りを含んだ表情で夕呼を睨み返しながら答えた。

 

「なにを今更……止めませんよ。俺から始めた事ですから」

 

「貴方の自己満足のために、ね」

 

刺すような一言。武は咄嗟に何かを言おうとしたが、言葉に詰まった。追い打ちをかけるように、夕呼は続けた。

 

「別に責めてる訳じゃないわ。怒ってもいない。敢えて言うなら、自分で決めておいて悔やむのは目障りだから止めなさいってことかしらね」

 

「……分かっていますが、そこまで言わなくても」

 

「分かってるなら言わないわ。その上で一応の、念のためよ。まさか、あれだけの事をしておいて嫌われないとか、虫のいい考えを持っているとは思えないけど」

 

常識を問う口調に、武は再び言葉に詰まった。夕呼はただ、ため息を吐いた。

 

「あれだけの事をしたんなら、嫌われて当然よねえ? 直接の上官じゃない貴方がしゃしゃり出るわ、上から目線で言いたいこと言うわ。挙げ句の果てに、デリカシーがない言葉を連発して逃げるんでしょ?」

 

「それは……そう、ですが。でも、俺は、望んでしたんじゃなくて」

 

「だから言ってるでしょう。別に責めてるんじゃないのよ。ただ、両立できないものがあるって事は理解しておきなさい。忠言が耳に逆らうのは人間として当然の事よ」

 

「……嫌われたくなければ口を慎め、親身になれ。謙らずとも相応しい言動を、ですか?」

 

「そうよ。それで、口にして反芻してみて――分かったでしょう?」

 

その言葉は抽象的だったが、武は何が言いたいのかを何となく察した。全てを理解できなかったのは、どこか甘えが混じったせいだ。自分以外の誰かがこの役目をしてくれれば、と。繰り返した武は、その可能性を否定する。

 

今更、訓練兵としての立場に戻って207訓練小隊と仲良くなどと、時間の無駄でしかない。力があり知識がある者は、相応の功績を残すことが求められる。苦難の時代であれば余程のこと。

 

上の立場だからこそ、言わなければならない事もある。その際に一定の確率で嫌われるのは、仕方がない部分がある。正論であれ、耳が痛い言葉を大上段に叩きつけられて喜ぶものなど、変態以外に居ないのだから。

 

「それでも嫌われたくないなら、ほうっておけば良かった。なのにその選択肢を選ばなかったのは、アンタ自身の意志以外の何物でもない」

 

拘る必要はなかった。もっと腕が良くて信頼できる人間を。ツテはあったのに、そうした手法を好まなかったのは。武は苦虫を噛み潰した顔をした。

 

夕呼は、武が割り切れていない事に少し驚いていた。誰であっても、派手に動けば目立つし、衆目が集まる。即ち、目障りだと思われる可能性がグンと上昇することを意味するのだから。

 

「なのに……割と打たれ弱いわねえ。アンタ、真っ向から否定された事とか、嫌われた経験ってないの?」

 

「いえ、そんな事は。あっち(大陸)でも、こっち(日本)でも、誰かとぶつかり合うことはありましたよ」

 

「ふーん……あった、ってことは頻繁には無かったって訳ね」

 

夕呼は武の言葉の端から、過去をそれとなく読み取った。そして、察した。

 

(明確な人物の名前が上がらなかった、という事は……大陸の方なら、より苛烈な筈。それでも少なかったのは、隊の人間に守られていたからね)

 

あるいは、子供だからと直接感情をぶつけられる対象にならなかったか。ふと、夕呼は聞いてみた。

 

「それで、あんたに真っ向から文句を言った人間って、今はどうしているか知ってる?」

問われた武は、いくつかの名前を思い出した。大陸では、ケートゥ、パールヴァティー、ダゴール。言葉を交わさずとも決定的に対立したのは、βブリッドの研究に携わっていた者と、それを護衛する衛士だ。

 

「……概ねですが生きてはいない、と思います。って、どうして納得顔なんですか」

 

「決まってるでしょ? そういう奴らが長生き出来る筈が無いじゃない」

 

軍人の全てに学があり政治が分かる、という訳でもないが、見ている者は見ているのだ。武は少年と断言できる背格好、なのに力量は卓越していた事から、羨望や嫉妬の対象になっていた事は容易く想像できる。だが、年端の行かない者に直接そういった感情をぶつける者が居れば、その姿を周囲の人間や部下はどう思うだろうか。

 

問われた武は、即答した。

 

「ええと……とても命を預ける気にはなりません。見捨てはしないですけど」

 

「切った張ったの場で、誰もがそういった判断を下せると思う? ……その答えは聞かないけど、人間逃げられる場所があるなら、逃げたくなるものよ」

 

とても上官として頼れないむしろ有害になる、と。真偽はともあれ、そういった思いを浮かべたらあとは二択になる。そして、人間は楽な方を選びたがる者の方が多い。

 

「むしろ、見捨てない方が生き残る事ができる……頼れる人間と、そう思われる振る舞いを心がけろと」

 

「内心はどうであれ、ね」

 

「……“心は自由であっても良いと思う……だが、その立ち振る舞いや発言は、常に周囲への影響を考慮すべき”ですか」

 

耳に痛い言葉だ。自分ではない自分が犯した失態に、武は臓腑を抉られるような羞恥を感じた。未来を変える、全人類を救うと宣言するのなら、それを信じさせてくれるような振る舞いをしろというあれは、この上なく真っ当な言葉だったから。

 

同時に、改めて理解できることがあった。人は人の心は読めない。だからこそ立ち居振る舞いや言葉の端々から、その評価を決めるのだと。

 

「環境によって振る舞いの正誤を見極める事もね……ユーコンでは特に、弱気を見せないよう注意しなさい。むしろ自信満々、上から目線上等を心がけると良いわ。欧州人や米国人の前で弱みをみせたら、即座に舐められるから」

 

そうした目線から、守ってくれる上官は居ない。なら、多少強引にでも、我意を示さなければならない。そう示す夕呼の言葉に、武は深く頷いた。

 

「好悪と正誤と真偽を見極めた上で最適を、ですね」

 

「ええ。で、必要だと思うなら表面上は仲良くしておきなさい」

 

「……仲良くする理由があるから、ですか?」

 

「よくできました」

 

夕呼から棒読みで言われた賞賛の言葉を聞いた武は、言外に理解した。自分たちも同じだと。

 

(ていうか、頼りにならない奴なら徹底的に使い潰すつもりだよな)

 

どこかの自分は、天才だから、といった理由にもならない理由を盾にして、理想だけを押し付けた。現実味も、具体案もないのに、願望だけをぶつけた。無責任にも程がある考えだ。

 

(腹黒元帥も、同じだよな。責任ある立場なら、無責任に振る舞える筈がないから)

 

仲良くする理由がある内は、そうする。無いのなら相手にしない。それが正しい為政者であり、権力人である。間違えず、正しい道だけを望まれる者達の宿命でもある。

 

「それで? 出来ないのなら出来ないと言っても構わないわよ」

 

「いえ――上等です。どんとこい、ですよ。ガキのままじゃ、いられないですから」

 

武は、出来ないとは言えなかった。言いたくなかったし、目の前にそれをやってのけた人が居るからだ。孤立無援、悪役を務めながら敵だらけ。そんな情勢の中を駆け抜けて、横浜基地の主にまでなった人物が居る。負けたくないという思い、そして任せっきりにはしておけないと、手助けになりたいという気持ちがあった。

 

忘れられない光景があるからだ。この部屋の中で、運命の日。軍人は嫌いだと言いながら、白衣の下に常に国連軍の制服を着ていた香月夕呼が、日本酒を片手にサンタの衣装で管を巻いていた光景を。

 

(そんでもってある時はその後に――――ってこれは思い出すの拙いって)

 

何故か隣の部屋から誰かが転けたような物音がしたが、武は努めて無視した。女の勘で何かを察したのか、睨んでくる夕呼からそれとなく目を逸らすと、姿勢を正して敬礼をする。

 

それは、無言での感謝の言葉だ。夕呼が嫌いな敬礼をしたのは、キツイ言葉ばかりを突きつけられた恨みから。それでも、しっかりとした礼の意志を示すと、武は元の調子に戻った。

 

そうしてユーコンに行くまでにやっておかなければならない情報の交換を済ませると、お互いの立場を告げあって別れた。

 

――“共犯者”と、“聖母”。皮肉に塗れながらも、どこか人情味が混じった呼称で呼び合いながら。

 

そうして、部屋に残された夕呼はある単語を反芻した。

 

悪役に、大人。ガキではいられないという言葉を。

 

 

「………それでも、とアンタに願う人間は少なくないでしょうけどね」

 

 

汚くなった大人が純真な子供に期待するように、女が、男が、想い人に願うように。

 

夕呼はそれ以上は言わず、考えを断ち切るように立ち上がった。

 

隣の部屋で盗み聞きをしていたであろう少女を、軽く叱らなければならないわね、と呟きながら。

 

 

 

 

 


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