Muv-Luv Alternative ~take back the sky~   作:◯岳◯

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51話 : Shaking

それだけは証明したいんだと。武の絞り出したような声を物陰から聞いていた者達は、誰も何も言えないでいた。

 

「……移動する」

 

これ以上聞くのは野暮に過ぎるからと、抽象的なサーシャの言葉に全員が頷き従った。サーシャは機密の問題があるから、と告げると基地内の隅にある部屋へと皆を誘導した。夕呼から事前に使用許可を取っていた部屋だ。

 

説明しながら部屋に入り、招かれた者達は何も言わないまま着席する。場に居るのはサーシャと元207Bの6人、祷子とタリサと亦菲、ユーリンとユウヤという、それぞれの目的で武に会いに来た結果、はち会わせになった者達だった。

 

「全員、迷いは無くなったようだけど―――」

 

兵士級を含めたBETAと戦うことは決めたが、先ほど隠れ聞いた会話について何かを尋ねなければ気が済まないと、そういう顔をしている。サーシャは鋭い観察眼で、千鶴達の様子が変わった事を見抜いていた。内面深くまで見通せるような超能力は持っていないが、視線や仕草、姿勢から心の変化を把握することは可能だ。武と影行が会話していた時とは、違う。指摘すると、6人は驚いた表情になったが、怯むことはなかった。

 

その中で、誰より早く口を開いたのは純夏だった。

 

―――大陸に居た頃、タケルちゃんはどのような日々を送っていたのか、それを“深い所まで”知りたい。

 

視線を向けられたサーシャとユーリンは他の者の顔を見回した後、小さな息を零した。

 

「個人情報に関することだから………っていう言い訳は通じない顔だ」

 

梃子でも動かないような、とサーシャは苦笑した。そして、本人からも別に隠さなくて良いと言われているし、と前置いて武の過去を、亜大陸での戦いから語った。今までのような軽く触った風な調子ではなく、微に入り細に至る所までを。

 

10歳を少し過ぎた頃、身体が出来上がっていない時から戦い、負け続けたこと。悔しくて泣きながらも次の戦いのために訓練を重ねて。撤退戦の際に限界が来て、入院するもアンダマンのパルサキャンプに、体力をつけるために入ったこと。

 

「あの宴会の時、何でもないように本人は言ってたけど………亜大陸の防衛戦、撤退戦からダッカ放棄までは、何もかもが酷かった」

 

戦況、環境ともに、まともな基地だけしか知らない人間には、想像ができないぐらいに。そう語るサーシャに、タリサが答えた。

 

「末期的だったんだよな……少しだけど、話には聞いてる。亜大陸撤退戦の生還率とか、タンガイルの悲劇とか」

 

代表的な悲劇の名称、それを聞いたサーシャは黙って首を横に振った。大きな出来事だったが、何より忍耐力を試されたのは決定的な瞬間を迎えた時ではなく、それまでの日々の時間だと。

 

「惨めな敗戦が続いたせいで、基地内の士気は最悪。兵種問わず、精神的におかしくなった人が、一戦を越える度に増えていった」

 

整備兵までが自殺するぐらいに、真綿で首を締め付けられるような日々が続いた。何とかしなければならないという気持ちが、じりじりと足の裏を焦がしていたとサーシャは言う。

 

「負けると死ぬ。でも死にたくないから身体を苛める、それでも足りないからもっと、もっと、もっとって………大きな河の水に、バケツだけで挑んでいるような気分だった」

 

一度に掬えるものは限られている。そして、BETAの物量だ。いくら汲んでも終わる気配がなく、気を緩めれば足元ごと掬われて流される塵となっていく。弱音を吐いても、どうしようもなかったけど、とサーシャはおかしそうに笑った。

 

「逃れるための最善の手段が、諦めること。自分の大切なものだけを見れば良い……それだけで抱える負担が何百人から、11人まで減らせる。私だけじゃない、前線に居た人達の9割は、そう考えていたんじゃないかな」

 

抱えすぎず、精神の健康を保つように人は何かを切り捨てた。それでも、戦況は好転しない。BETAは只管に強かった。大切なものさえも守れない日々が続く中で、クラッカー中隊も例外ではなかった。仲間の死がヤスリと化けて、生き残った者の心身を削っていく。

 

「武は……切り捨てることを嫌がったから、もっと酷いことになってた。そういうものなんだ、って流すことが出来なかった。誰かが死ぬ度に衝撃を受けて、泣いてた……不幸なことに」

 

死者を悼む心を持ち続けることは、人間としては正しい。それがどうして不幸なのか。そう指摘する視線があり。言葉にして告げる者が居た。サーシャは、おかしくないと言った。

 

「銃後の世界において、おかしいのは私達のような考えに至った人。武は正しい―――だけど、BETAの存在って、世間一般的に正しいものなのかな」

 

犬猫鳥や植物とは違う、はたして生き物と呼んでいいのかさえ分からないもの。何も生み出さず、自然環境を破壊し続けるだけ。そんな恐ろしい存在が雲霞の如く押し寄せてくることは、世間一般で“正しい”のか。サーシャの質問に、頷く者は居なかった。

 

「おかしいよね。なんで、そんな理不尽が、って………努力は報われるって、頑張れば救いはいつかきっとって、それが正しい世界ってもの。人づてだけど、私は普通の人がそう認識しているって聞いた」

 

故に。あらゆる意味でBETAはおかしい。平穏を求める感情が、あんなものは現実ではあり得ないという形に変わる。だが、現実は現実として厳然たる形としてそこに在り続ける。

故に、そんな“もの”対抗するには自分をおかしくするしかないと、サーシャは主張した。そして、恐らくはそんな在り方でさえ、大多数の人には受け入れられないことも。

 

最前線に適合するように自分の精神を変えていくしかない。身を軽くするために、動きやすくするために、自分の中にあるものを削る他に方法はなかった。だが、有り様を変えた者の大半が爪弾きにされていった。別段、珍しいことではなかったのは歴史が語る。人を相手にする戦場であっても、苛烈すぎる環境を生き抜くために人でなしとされる手段を遂行する者達は大勢居たからだ。

 

「でも……クズネツォワ中尉がおかしいとか、思ったことありません」

 

「恐らくだけど、それは戦時だから。見えない部分もあるけど、平和になったらどうなるか……」

 

サーシャは自分が神宮司まりものように、まともだとは思っていない。平穏と正気というものをよく知っている者であれば、銃後の世界に戻った後、しばらくすることで“らしい”人間に戻ることができる。だけど果たして自分は、と。サーシャは呟いた後、遠くを見るように呟いた。

 

「今は、私よりもタケルのこと。無意識か、意識的か……どっちかは分からないけど、タケルはずっと耐えてた。多分、カゲユキと、日本で待っている人達が居たからだと思う」

 

おかしくなった自分を、怖がられてしまうことを恐れていた。サーシャはそう言いながら、純夏(温もりの源泉)を見た。

 

「でも、前線が下がるにつれて、戦死者が増えて……だから、疲れたんだと思う。日本に帰りたがっていた。でも、俺だけが逃げる訳にはいかないって言ってた」

 

あちこちに大切なものを作るから、逃げられなくなった。同期と合流したのもその一助となった。その果てに、遂にはハイヴ攻略という前人未到の偉業を達成した。

 

「これで、文句が出ようはずもない。ようやくって、凱旋しようとして―――そこで、裏切られたんだ」

 

サーシャは忘れていない。マンダレー攻略後に、武が零した言葉を。誘拐を幇助した、自分たちを金で売った存在が居たことを教えられた時に、言ったのだ。サーシャは影行が人質にされた事、拉致された事を簡単に説明した後、その言葉を繰り返した。

 

「なんでだよ、って……ただの、一言だけ」

 

それでも、雷が落ちた時の音のような。速く、重く、深く、鋭く、その言葉はサーシャの心を抉り、そして徹した。泣き叫びながら戦ったからだろうか、痛めた喉で、絞り出すように告げられた言葉は。

 

サーシャは覚えていた。精神が一時的に崩壊した後も、元に戻った時も、ずっとその声は忘れなかった。絶望からの諦観から来る声色ではない。怒りからくる言葉であれば記憶から少しは薄れていたかもしれない。

 

だが、とサーシャは自分の胸を押さえながら言った。全てを―――言葉ではとても言い表せない、積み上げたものが裏にあると思わせる―――賭けて伸ばした手を切り刻まれたかのような悲しみを思わせるものだったから、ずっと忘れられないんだと。

 

「………だから、あの頃のアイツはあんなに根暗だったのね」

 

「そういえば、お前は義勇軍時代のあいつに会ってるんだっけな」

 

タリサの言葉に亦菲は頷き、その頃の姿を知らない冥夜達は驚きをみせた。

 

「あの、武が………根暗?」

 

「第一印象はそんな感じね。なにかと辛気臭い奴だったわよ。やる事は滅茶苦茶だったけど……どこかで、何かを諦めてるような。てっきり、大陸奥地での戦いを経験してるからだって思ってたけど」

 

まだ最前線が大陸にとどまっていた頃、中国や東南アジアでは防衛線付近や、その先にある土地を奥地と呼んでいた頃があった。そう名付けられるだけの理由があったからだ。

 

「……まるで未開の土地扱いだけど、そう遠い意味でもないんだろうな」

 

「ええ……行ったことはないけど、想像もつかないような酷い場所だったという事は分かるわ。なにせ、生還者のほとんどが精神病棟に直行だったらしいもの」

 

生存者の捜索というまっとうなものから、上層部の私的な命令―――例えば財産の回収など―――合法とは呼べないものまで色々な思惑があったと、亦菲は聞いていた。それを命じられるのが、決まって最前線近くに駐屯している部隊のみだと。

 

「え……いえ、そんな筈が。だって、侵攻が始まれば最重要となる戦力でしょう?」

 

「そう、激戦で命を落とす者が多い。だからこそ、細工がしやすいでしょ?」

 

色々な理由があったけどね、と亦菲は舌打ちしながら泥を吐くような表情で説明をした。士気は最低で、催眠暗示をかけられる者は圧倒的に足りなく、治安も最悪だった。憲兵の維持に割く余力もなかったと。

 

「そう、だね。大陸での最前線は、そんなだった。一人になるのは襲ってくださいって吹聴してるようなもんだって」

 

「……あったね。部隊間の報復で死人が重なって、タイミング悪く侵攻があってさ。戦力不足で危ない時もあったね」

 

ユーリンの呟きにサーシャが無表情ながらも、どこか怒った口調で答えた。想像の埒外を行くやり取りに、美琴達とユウヤ、祷子が絶句した。基地と言えば、規律に厳しい軍人が集まる場所だ。最前線を知らない者達にとっては、気性が激しい者どうしであっても、多少の諍いが起きた所で、命のやり取りに直結するような事態になること自体が想像できなかった。

 

「……知らなければそれで良い場所だ。好き好んで行くような所じゃない」

 

タリサの呟きに、亦菲が同意した。劣悪極まる当時の最前線を知らずとも、否、知らないからこそ帰ってきた者達の大半がどうなったのかを見た、率直な感想だった。

 

そんな場所で、8年間。恐らくは姿を消していた期間も戦っていたであろう武が、どんな状態になっているのか。思考から溢れた慧の言葉が、声になった。

 

「だから、白銀は………結果を欲している?」

 

辛く厳しいあの戦いが無駄ではなかったのだと、意味があったのだと誰かに認めて欲しい―――言って欲しい。そんな意図が聞こえるようで、と呟く慧に、サーシャが頷きを返した。

 

「負ければ終わり、ここが正念場って戦いを繰り返し続けた。自棄になるんじゃなくて、明確に勝ちの道筋を見つめたまま、ずっと」

 

首が疲れようとも構わない、諦めずに空を見上げながら幾星霜。そして、重い声でサーシャは告げた。これで最後になるかもしれないから、と。

 

「ずっと、一人で戦い続けてた。世界を背負った気になって―――とかいう青臭さで笑い飛ばせる話じゃない。自分が人類最後の砦だということを、明確に認識してた」

 

その思いを共有できるのは恐らく香月夕呼ぐらいだ。サーシャは呟き、全員の顔を見回しながら告げた。

 

「―――本題に入る。佐渡島で変なものを見た人は素直に手を上げて欲しい。例えば、ここではない世界の考えたこともない光景を見たとか」

 

「え……本題って、今までの話は」

 

「“納得”に至るまでの、前置きでしかない。いいから、早く」

 

率直な質問と急かす言葉に、誰もが戸惑った。そうして少し時間が経過した後、ユーリン以外の全員の手が上がった。サーシャは特に驚きを見せることなく、それぞれが見た光景を質問した。

 

「……アタシは、津波だった。空を覆い隠すような高さの波が来て、そのままだ」

 

「……私も同じ。上官は、やっぱりG弾は、とか叫んでたみたいだけど」

 

タリサ、亦菲に続いて千鶴、慧、美琴、壬姫も似たような内容で答えていった。だが、冥夜は少し異なっていた。

 

「……津波が起きたことは知っている。だが、私はそこで命を落とした訳ではない」

 

「部分的だけど、タケルから聞いてる。シアトルで生き残った米軍と合流する以前から、軍監の斑鳩崇継と真壁介六郎と敵対関係にあったんだとか」

 

サーシャの答えに、冥夜は驚き固まった。周囲の者は、何がなんだか分からないという表情になっていた。出てくる単語と経緯が、今の状況とちぐはぐに過ぎたからだ。そんな場を置いて、サーシャは告げた。

 

「言っておくけど、錯覚じゃない。公表していないけど、それもG弾によるデメリットの一つだから」

 

並行世界で生きた自分の記憶が流れ込んでくるらしい、と。サーシャの言葉を聞いた全員が、訝しんだ。

 

「らしい、というのは……人によって差があるんですか?」

 

「ああ、分かりやすい差がある。バビロン災害が起きた時に生きている可能性が大きい人間ほど、記憶の流入の量が大きくなると聞いた」

 

「……聞いた、ってことは、教官?」

 

「私は見られない。分かっていたことだけど」

 

気にした風もなく、サーシャは話を続けた。

 

「それよりも、聞きたいことがある。並行世界のタケルはどんな感じだった?」

 

本人から聞いたことはあったが、本当なのかどうかサーシャは確認したかった。強い語気で迫るサーシャに、躊躇いがちに壬姫が答えた。

 

「2つ、あるんですけど………1つは、訓練兵ですけど、特殊な訓練を受けたと思われる能力があって」

 

「うん……どう考えても、実戦を経験した事があるような………変に勘が鋭かったようにも思えるよね」

 

口々に出てくる言葉を聞いた、二回目のことか、とサーシャは頷いた。そして、気まずそうに黙り込む5人に向けて、更に尋ねた。

 

「口ごもるという事は、見たと思われる。本人曰く、“長所が一つだけだった頃の自分”らしいけど」

 

「…………見ました。体力も無く、生身での成績はドン底なのに、変に自信満々で、あろうことか神宮司教官をちゃん付けで呼んでた、ような」

 

「私も同じよ。搭乗訓練が始まる前は、隊のお荷物とされていたような………ですが、アレを見て錯覚だと確信したんですけど………?」

 

千鶴の言葉に、全員が頷いた。少し距離を走っただけで体力の限界だという顔を見せる、足手まとい以外の何者でもなかったあの人物と今の白銀中佐が同一人物だと思う方が難しかったからだ。

 

「共通点と言えば、衛士としての適性の高さぐらいしか……あれを見て、あの光景が錯覚か、BETAの新しい能力の類だとか色々と考えていたんですか、まさか……」

 

リアリティが全くと言っていい程にない幻覚を、人は現実として認識しない。荒唐無稽な本を見たぐらいの感想しかないと、207Bの5人は口々に答えた。聞いていた、他の面々も同様だ。体力、技量ともに並ではないものを持つ白銀武とは乖離しすぎていたからだ。

 

脳裏を過ぎった映像と音を、脳だけではない、心で認識してようやく“それ”は記憶となって思い出となる。技量に反映される部分とは、異なるのだ。頭だけで何かを認識した所で、思い出に付随する想いに色と想念は付着しない、ただの空想に落ちて終わる。

 

サーシャは、そういった説明を辿々しく説明されて、ようやく納得した。混同していないのは、今の武と並行世界で見た武との差が大きかったからなのだと。

 

「でも、クズネツォワ教官はどうして気づいたんですか? その、私達が並行世界らしい記憶を見たって」

 

「……ハイヴ突入前からずっと、後ろから見てた。これでも教官だし、すぐに気づくことができた」

 

経験を重ねての成長には時間がかかる。世界には一瞬の経験で化ける者も居るが、えてして生死を乗り越えるような状況に直面するものだ。冥夜達だけではない、ユウヤやタリサ、亦菲もそんな状況とは違う、佐渡島に入ってからは戦えば戦うほど、徐々に死角が無くなっていったと、サーシャは呆れた声で告げた。

 

「これまでの努力をバカにされた気分。誇らしいけど、妙に腹が立つというか」

 

「あ、やっぱり誇らしいんだ」

 

「ユーリンの戯言は放っておいて」

 

サーシャは無表情に努めながら、言った。

 

「タケルは、その光景を現実として捉えた。だから、日本を出て父親………カゲユキを守るために戦おうと思った」

 

垣間に見せられた映像を確かな未来と信じたからこそ。サーシャの言葉に、ユウヤが補足した。

 

「信じられないだろうが、とあいつは言っていたけど、間違いない。そこら辺は腹を割って話したからな」

 

あやふやな理由で煙に巻くには許さないと、ユウヤが問い詰めた成果だった。武が伝えた言葉を、一言一句間違わずに、ユウヤは告げた。

 

「“もう、誰も死なせたくねえ”。そう告げたあいつの重さの全てを把握できていると自惚れていた訳でもなかったんだが」

 

想像を越えた地獄を味わってきた者に対しては、気休め以上のものには成らなかったんだろう。だが、とユウヤは続けた。

 

「あいつの事を助けたい。あいつは何をバカなっていうかもしれねえけど、そんなもんは関係ねえ。ずっと、8年………8年だぜ? 誰よりも前で頑張ってきたであろうアイツが報われないのは、俺自身が認められない」

 

努力と成果が比例するだなんて妄言を信じた訳じゃない。ただ、道理よりも理屈の方が勝っちまううんだと、ユウヤは言い、全員が頷いた。

 

―――でも、と。サーシャは俯きながら呟いた。

 

「問題は、武自身にある………疲れてるんだ」

 

並行世界、この世界、区別なく白銀武は戦ってきた。その日々はサーシャが語った通りで、ここではない武を見てきた者達が語る通り。人の耐久力は無限ではないと、サーシャは言った。

 

「直視したくなかったからかもしれない。でも、フランス人に言われてようやく実感した―――タケルは、心のどこかで戦うことを終わりにしたがってる」

 

全てではない。だが、もういいだろうと思っている武が居ることを、サーシャは否定できなかった。誰もが、戦場の中で見るからだ。永遠の憩いを死と見るような虚無感を持った者は、ふとしたことで諦める癖がある。それが致命的な隙に繋がることは、言わずもがなだ。

 

(そして、世界を越えたという代償も……今までのこと、無料だと思うのは楽観的過ぎるから)

 

人類の逆転打となる情報。その物事の大小と、差し出すべき代償が良い方向にかけ離れていると思うほど、世界が優しくないことをサーシャは知っていた。

 

現実に、気づいたからだ。甲21号作戦の前、消えかかっていた武のこと、どこか錯覚だと思いこんでいた自分を蹴飛ばした結果、得られた考察だった。

 

(理由は分からない。確証は得ていない。だけど、間違いない―――武は満足してしまった時、その存在が世界から抹消される、かもしれない)

 

超常的、幻想的意見だ。サーシャは遠回しに、その場に居る者達に説明した。ほぼ全員が困惑したが、純夏だけはその言葉の意味を真正面から受け止めていた。

 

「私も、見た………つまり、もう大丈夫だって判断した時に」

 

「消える、かもしれない。まるで、最初から居なかったかのように……」

 

サーシャが、改めて武の過去を話した経緯もそうだった。

 

理由は二つ。自分自身が忘れないように反芻したかったこと。そして、武が忘れて消えることのないよう、より多くの人の記憶に留まるようにしたかったからだ。

 

(そう―――武に関連すると、決まってそうだ。同じような話を何度もした。もしも、そんな感覚に陥ったのが錯覚じゃなかったら?)

 

物忘れの類であったのであれば良し、そうでなければどのような意味があるのか。サーシャは想像してしまい、身震いをした。その仕草を見たユウヤが、大声で場の暗さを打ち消した。

 

「見張るのなら、任せろ! ……殺しても死にそうにない奴だけど、消えそうって言われたらなんだか笑えねえものがあるしな」

 

「言えてるな。体力バカだし、怪我知らずの頑丈な奴だけど、ちょっと危ういって言われれば……否定できないから」

 

ユウヤとタリサの言葉に、サーシャは頷き、答えた。

 

「まあ、人がいきなり消えるというのも荒唐無稽過ぎるから」

 

きっと杞憂だと、サーシャは小さく笑おうとして―――ふと、視線を落として考え込んだ。

 

「……? 急に考え込んで、どうしたのよ。何か、気づくような事があったの」

 

「……気の所為、だと思う」

 

亦菲の質問に対し、サーシャは小さく首を横に振った。勘違いで、違和感というものでもないと。

 

だが、そう告げたサーシャは、解散して全員が去った後も、部屋に残りながらずっと考え込んでいた。

 

「……ううん、いくらなんでも………?」

 

ノックの音。聞き覚えのある声に、サーシャは入室を促した。そこに現れた二人を見たサーシャは、名前を呼んだ。

 

「ユーリンに、タリサ……何かあった?」

 

「あると言えば、ある。でも、少し……違うね。どうしても、確認したいことがあったから」

 

「ああ……アタシもだな。一つ聞きたいことがあるんだけど」

 

先に、ユーリンが質問した。サーシャの体調に関することだ。

 

「操縦には出てないようだけど、気になったから……その、以前に聞いた通り?」

 

「少なくとも、あと10年は生きていける。そこは変わっていない」

 

「……そう、か。言い方とか、色々と文句を言うのは後にするけど、アイツには話したのか?」

 

「それは………その、聞かれた、けど」

 

誤魔化した、とサーシャは気まずそうに言った。大事な作戦前に動揺させることは拙いと考えたからだ。上手く嘘がつけずに、疑われていることも話した。ユーリンとタリサは、やっぱりかと呟き。その後で、気になる点について言及した。

 

ある意味で、サーシャの体調と同じこと―――武の身体の頑丈さについて。

 

()()()()()()()、という質問に、サーシャはぎくりと身体を硬直させてしまい、即答することができなかった。

 

「……その反応、やっぱりだな。流入する記憶についても、変だと思ったんだ」

 

「うん……何が起きているのかは分からないけど、新しい記憶が生えてくるってことは、脳に物理的な何かの干渉があったってことだから」

 

人の記憶は脳の中の海馬―――側頭葉の古皮質が司っている。経験したことのない記憶が生まれたということは、何らかの変容があったことと同意義になる。

 

非常識にも程がある推論だが、そうであるとしか言い表せない。並行世界とやらの干渉は、物理的にも変容を及ぼしてくる。

 

「つまり、人の肉体が絶対のものだとは言えない………?」

 

子供の頃から鍛え詰めだったのに大きな怪我一つないことも、強力なGで身体を締め付けられても耐えられる肉体も、常識外を更に超えた空間把握能力と操縦技量も。

 

それらが、何らかの干渉による結果だとすれば、無くなった時にどうなるのか。先ほど話した戦時と平和な時の話ではないが、身の置き場がなくなった時に、“外れ”てしまった白銀武という存在はどうなってしまうのか。

 

「……ぜんぶ、私達の我儘で。いっそ、もういいよ、って言ってあげる方が―――」

 

思わず溢れた呟きに、肯定する声も、咎める言葉も上がらないまま、部屋の中は空調が駆動する音だけが響いていた。それを打ち砕いたのは、入り口の扉が開く音だった。

 

「お待たせ、フォローしてきたわよ………って、なんなの、この空気は」

 

「あ、ええ……ありがとう」

 

「そうじゃなくて。何話してたか、聞かせなさいよチワワ」

 

睨まれたタリサは、気の抜けた返事をした後、説明をした。亦菲は一通りを聞いた後、深い溜息を吐いた後に嘲笑を浴びせた。

 

「はあ、アンタ達は本当にバカね」

 

「……どういう、意味?」

 

いきなりの罵倒に、サーシャの顔に敵意が浮かんだ。それを見た亦菲は、鼻で笑った。

 

「相手のことばっかり考えてるからよ。好きなもんは好きだから仕方ないじゃない」

 

「それは……そう、だけど」

 

「ま、我儘になれない程度の思いじゃ、届かないかもしれないけどね」

 

亦菲は吐き捨てた後、サーシャに指をつきつけながら告げた。

 

「言っとくけど、死んで逃げるなんて許さないから。フラれるならフラれるで、きっちり想いを告げた後にフラれなさいよ。まあ、それも明日の戦闘に生き残ったらの話だけど」

 

「って、ちょっ、待て! 言うだけ言って、どこに行こうってんだ!」

 

「はっ、うっさいわね。ヘタレが伝染らないように避難するだけよ」

 

あー気分悪い、と亦菲は言い捨てると、言葉通りに去っていった。残されたサーシャは苦悶の表情のまま黙り込み。ユーリンはタリサに目配せをした後、亦菲を追いかけていった。

 

そしてすぐに追いつくと、どういうつもりか問いただした。亦菲は苛立っていますという感情をそのまま表情に映しながら、吐き捨てるように言った。

 

「どいつもこいつも、良い子ちゃん過ぎるのよ―――このまま行けばアイツ、居なくなるわよ」

 

消える、と言った方が正しいかもしれないけど。直感から出たという言葉と共に、亦菲は舌打ちした。

 

「出方を伺うとか、そんな遠慮なんか絶対に無駄よ、全力でこっちに引っ張った上でどうにかなるか、って所かしらね」

 

強引過ぎる理論だが、ユーリンは反論できなかった。同意できる部分があったからだ。

 

同時に、気づいた。亦菲の動きは、サーシャを焚きつけるもののようだが、亦菲の気質であれば何かを言うより前に動くのがそれらしいと思える。どうして迂遠な方法を、と視線で訴えるユーリンの視線に気づいた亦菲は、悔しげに答えた。

 

「それで良くなるなら、何かを言う前に動いてるわ。でも、私だったら………言いたくないけど、突っぱねられる可能性がある」

 

白銀武は周囲を見ている。そして、慎重だ。一線を引いている原因がもし私の想像通りなら、と亦菲は悔しそうにしながら、言葉を繋げた。

 

「一度しくじれば、頑なになるわ。だから、万が一も許されない。だったら、一方的に否定されないような、長い付き合いがある人間が最初に動かなきゃ………最悪の方向に転ぶのだけはごめんよ」

 

「……本当に、深く、武のことを想ってるんだね」

 

「う、う、う、うるさいわね! アイツもそんなに弱くないし、色々告げるのも生き残ってからの話だし―――ああもう!」

 

「あっ、ちょっと待って! なんで逃げるの、亦菲はやっぱり優しいって―――」

 

嬉しそうに呟いたユーリンの言葉を耳に入れた亦菲は、化学反応が起きたかのように耳から頬までを赤く染め、舌打ちを繰り返しながら早足になった。

 

ユーリンはそれを急いで追いかけながら、教え子の成長に喜び、気遣いに感謝の念を捧げていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………好きなものは好き、か」

 

「発破か、激励か? いや、どっちでも同じか。それで………どうすんだ?」

 

「……逃げることは、しない」

 

サーシャは迷いを振り切った顔で、答えた。

 

 

「それもあるけど………まず、軍人として、A-01の一員としての責務を果たす。戦いに、影響が及ぶ可能性は避ける」

 

「上等だ。つまりは、終わってからだな?」

 

 

タリサの質問に、サーシャは不安な表情を押し隠しながら頷き、答えた。

 

 

「伝えるよ―――明日の戦闘を乗り越えた後に」

 

 

ハードルが高いけど、と。サーシャの呟きに、タリサは頷きながら、その小さな背中を掌で強く叩いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

愛想笑いの一つでもしてみろよ、と何度もため息を吐かれたことがある。橘操緒は、その言葉に頷くことはしなかった。忠告した張本人が亡くなる前から、ずっと。

 

(……“愛”想とは、“相”思。人の心は読めない。だけど人と通じたいのなら、そういう立場になりたいのなら、せめて表向きでも友好の感情を示すのが礼儀だと、お前は言った……バカが。どの口でそれを―――!)

 

操緒は、嘘を吐いた男に対して、思いつく限りの罵倒を浴びせた。どうして、どいつもこいつも私を置いたまま喜び勇んで死んでいくのか。何が相思だと、バカにするなと、怨嗟と悔恨の念を織り交ぜながら吐き捨てた。

 

その様子を見ていた案内人が、気遣うように尋ねた。

 

「顔が悪いですな、橘大尉……いえ、顔色が悪いの間違いでした。癒えていない傷による痛みではないように見えますが」

 

「……問題ないわ。いえ、問題ないです。案内はここまでで結構よ、鎧衣課長。そちらも忙しい身でしょう?」

 

「はっはっは。今の私は課長ではなく、忙しいという訳でもないですが、お邪魔であるというのであればここで」

 

「……感謝はしている。だけど、その話し方だけは許容できないのよ。他人の信頼を得ようともしない、貴方の動き方も」

 

「心外ですな。怪しいおじさんとしては、若い女性に寄りかかられるために生きていると言っても過言ではあるのですが」

 

「いや、どっちよ……もういいわ。時間がもったいない」

 

「ふむ、先ほどおっしゃられた通り見届けなくてよろしいと。完治していないというのに、流石ですな。しかし、本当に体調は?」

 

「動けているんだから、問題ないわよ。それに、最初に話を持ってきた貴方に言われたくはないわ」

 

人を食った話し方をする鎧衣左近の言葉に、操緒はいけしゃあしゃあと何を言うのかと舌打ちをした。だが、気持ちを切り替えて、苛立ちを心の中に収めた。

 

(この場所に来た時点で、鎧衣課長の役割は済んでいる……後は、私の問題だ)

 

成果を得られるかどうかは、自分次第となる。操緒は気を引き締め、深呼吸を繰り返した。傷が痛むが、意図的に無視した。この役割を、誰にも渡すつもりはなかったからだ。

 

(……これが、鬼の所業だという事は分かっている。だが、正道で対抗できる段階はとうに過ぎているのも確かだ)

 

真っ正直に胸を張れる手段を用いるだけで勝てる戦況ではない。操緒は聞かされた情報を元に、覚悟を定めていた。誰かがやらなければ、帝国に未来はないと。

 

その内心を察したのか、トレンチコートを着た男はいつの間にか基地の闇に消えた。

 

操緒は背後を振り返らないまま、蛍光灯だけが床を照らす無機質なコンクリートで出来た通路の奥へと進んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

仏頂面で正しい道理とやらを撒き散らかすなよ、と怒られた事があった。沙霧尚哉は、その忠告に対して、頷きを返すことはなかった。へらへらと笑いながら、どうして威厳ある軍人としての正しきを証明できるのか。

 

生死がかかる現場において、気を緩めることは士気の緩みを生む原因となる。その道理を頑なに信じた沙霧尚哉は、自分の正しいと思う道を進んできた。

 

だが、その道程で見てきたのは全く逆のもの。師である彩峰萩閣や、一部の人間だけが例外だった。世界は、正しくないもので構築されていたのだ。

 

沙霧は、その事実を認識し。その上で、肯定することはできなかった。

 

(―――だが、今になって思うことがある。私は……いや、私だけが本当に正しかったのかどうか)

 

情報を集め、人を集め、通常のやり方ではどうにもできない問題を解決すべく決起した。米国の目論見も、全くの想定外ではなかった。米国、国連の中に特定の計画を主として動く一団のことは、予測されていたからだ。

 

それさえも飲み込み、殿下に日本を託すという使命を果たした後は、潔く死ぬつもりだった。だが、現実の事態は想像を外れた。

 

沙霧は、どこかで米国の良識を信じていたのだ。まさか、日本の国土を台無しにするような策は取ってこないと。その願いをあざ笑うかのように、BETAは佐渡と新潟の間にある海を越えて、やって来た。あまりにも都合の良すぎるタイミングで。

 

何人が“それ”を目論み、誰が察し、防ぐ手を打ったのか。沙霧はその全てを把握できないまでも、ある程度は読んでいた人が身近に居たことは知っていた。その最後の顔を見た訳ではない。だが、霧島祐悟は望むままに振る舞い、笑いながら散っていったと、沙霧は確信していたからだった。

 

(……愚にもつかないことを考えている。形の上でも愛想笑いでもすれば、霧島中尉は苦笑しながらも事情を話してくれたかもしれないと)

 

女々しい考えだが、と沙霧は苦笑した。同時に、自分の至らなさに気づくことができていた。最重要となる殿下との謁見時に、自分の部隊に工作員が紛れていたこと。その原因の一つとして、自分の指導力の欠如があるかもしれないと、沙霧は考えていた。

 

最初から工作員だった可能性も考えられるが、途中から外部の勧誘に乗った者も居たはずだ。そして、裏切るということは、何かを疑われ、信頼と信用に穴が空いたことを意味する。

 

(形だけでも合わせることをしなかった。悪く言えば、騙すことで穴を塞ぐこともできた。そうしなかったのは……いや、私が目を背けていたものは)

 

沙霧は、自嘲しながら答えを言葉にした。

 

―――結局は、怖かっただけなのだと。いずれ、死ぬと決めていた。だというのに信頼を交換し合うことで、大陸や日本で痛感させられた未練や喪失感が繰り返されることを恐れたのだ。

 

その弱さを、見抜かれていたのかもしれない。沙霧はぶっきらぼうながらも面倒見が良かった、昔の祐悟の姿を思い出していた。そして、忠告を受け入れずに、間違えてしまった自分を情けなく思った。

 

(………殿下を私に預けたあの衛士………あの者はどうだったのか。心の底から怒っていた。憤るのではなく、嘆きながらも、まるで炎のように)

 

感情の動き方を観察すれば、分かった。あの衛士が、霧島祐悟の知人だったことは。

 

それだけではない、あの状況で“人は国のために、国は人のために”という恩師の言葉を告げてきたということは、こちらの事情にも詳しいのだろう。短時間でF-22を数機撃墜する手管を見るに、尋常ではない手合と言えた。

 

ふと、沙霧は霧島祐悟が大陸で戦っていた時に会ったという、愚痴るように零していた衛士の事を思い出していた。大人としての意地を見せつけるしかない、年少の衛士が居たことを。

 

素性は不明だが、親しい間柄だったのだろうと、今になって察しがついた。図抜けた決断力と戦闘力を有していることも。あるいは、横浜基地に居る慧から聞かされたのだろうか。

 

(そこまで考えると………無関係か? いや、どうだか。横浜基地所属であろう、国連軍の戦術機甲部隊………我々は踊るつもりで、踊らされていたのか)

 

外道を往く道化であっても、芯から戯言に過ぎなかったのかどうか。沙霧は問答を重ねたが、思考を断ち切った後、小さく首を横に振った。国内の膿を一掃するにはあの手段を置いて他にはなく、これ以上時間をかけることはできなかったと、今でも確信していたからだ。

 

(……しかし、今の帝国軍上層部には……腹を切った所で、詫びきれるものではない)

 

決起により、ハイヴ攻略の肝となる戦術機甲に関連する戦力が一番打撃を受けたという。作戦上仕方がなかったが、それだけで済まされない事も沙霧は理解していた。

 

悲願である佐渡島攻略の手段が、限られてしまう原因となったに違いない。沙霧は上層部、将官にどれだけ頭痛の種を増やしてしまっただろうと、考える度に頭を地面に擦りつけたくなる思いでいっぱいになっていた。

 

だが、それも遠い話だ。作戦の成否に関わらず、自分を含めた決起軍の衛士のほぼ全員が処刑されることになっていた。

 

本来であれば即日軍法会議にかけられた後、国民や軍人に示しをつけるために急ぎ刑が執行されるのだが、急遽発令された甲21号作戦の準備で、軍内部はそれどころではない状況になっていた。

 

地上の喧騒も、厚いコンクリートの壁と天井に阻まれて伝わってこない。だが、これでも報いかと沙霧は大人しくその時が来るのを待っていた。

 

(………そういえば、昨日とは守兵が異なっているようだが)

 

交代人員だろうが、見たことのない顔だ。沙霧はそう思うも、別におかしな事でもないかと、再び思考に没頭した。ただ、やはり甲21号作戦の結果だけは気になっていた。

 

落ち着かない気持ちで、沙霧はふと顔を上げた。牢がある区画へ繋がる扉が開いた音を聞いたからだ。体内時計が正しければ、作戦の成否に関わらず、何らかの結果が出てくるはず。沙霧は緊張した面持ちで、入ってきた人物の気配を静かに探った。

 

間もなくして、その来訪者の足音がこちらに近づいてくる事に気がついた沙霧は、訝しげになった顔を上げた。

 

吉報であれば、急ぎ足になるだろう。悲報であれば、足音には焦燥の乱れが出る筈。だが、近づいてくる足音は規則的で、冷静さに満ちていた。

 

沙霧は静かに、その時を待ち。やがて、牢の向こうに現れた人物を見て、やはりかと呟いた。

 

「……どういう意味かな、沙霧大尉」

 

「私に目的があって来たのだろう、そういう足音に聞こえた……それで、橘大尉。今更、この私に何のようがあると言うんだ」

 

「説明する前に、ある程度を察するか―――それでこそね」

 

橘操緒は、感情を消した声で、事実だけを告げた。

 

「状況判断力に優れ、技量も高い。そんな、優秀な衛士だけにしかできない役割があると言えば、どうする」

 

「………橘! 貴様、よもや私を………!?」

 

「あなたを含めた数名、と言った方が良いか。詳細を話す前に言うが、些事に()()()状況ではない―――まずは聞け。受けるか受けないか、判断するのはそれからでも遅くはない」

 

操緒は一方的に告げた後、現在の帝国が置かれた状況を説明した。自分がここにやって来た理由から、公には出来ない策も含めて。

 

沙霧は話が進むにつれて沈痛な面持ちになり、俯きながら黙って聞く姿勢を保った。そして全てを聞いた後、血が出るほどに強く握りしめていた拳を解き、顔を上げて立ち上がった。

 

「栄誉も、栄光も不要―――影から影に、それが約束されれば」

 

「勿論よ。表に出した所で、誰の利にもならないから」

 

「そう答える貴様も、既に覚悟が出来ているようだが」

 

「………ええ」

 

操緒は語るより前に、強い視線と頷きだけを返した。沙霧は睨みつける視線をそのままに、同じく頷きで応えた。

 

やがて、牢の鍵が束ねられた金属輪が、操緒のポケットから取り出された。金属がぶつかり擦れる音が、床から天井まで響き渡った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『順調、とは言い難いですな………定められた刻限に間に合うかどうかは、半々と言った所で』

 

「そうですか。いえ、難しいことは分かっています。ただ、珠瀬事務次官―――“第四計画はあなた方に誠意を期待している”、とだけお伝え願えますか」

 

貴重な情報も、箱ごと潰されれば終わりです。夕呼は事実を告げたことに対し、珠瀬玄丞斎が言葉を失ったことを確認すると、挨拶だけを残して通信を切った。

 

「……やれる事は、やれたかしら。いえ、まだ………」

 

夕呼は呟き、疲れた溜息を吐きながら椅子の背もたれに体重を預けた。そしてテーブルの上にあったコーヒーカップを苛立ちながら手に取ったが、覗き込んだ後に舌打ちをすると、乱暴な仕草でカップを元の位置に戻した。

 

「……はあ。もう限界かしらね。細工は流々、仕上げを御覧じろ―――と胸を張って言えるレベルには届かなかったけど」

 

様々な勢力に方向性を加えた夕呼だが、事態が己の掌より離れつつある事に気づいていた。BETAの予想外すぎる行動と、未だもって不明な行動原理。士気が保たれてはいるものの、決起により高級軍人の何人かが欠落している帝国軍。ハイヴ攻略により疲弊し、本来の戦闘力を発揮できるかは未知数なA-01部隊。色々な不確定要素がもつれ合った今の状況で、その全てを予測し読み取るのは、夕呼であっても不可能だった。ただ分かっているのは、笑ってしまう程に不利な状況に置かれているという事だけだった。

 

「………運良く事が運んだ所で、どうにもならない。本当に………嫌になるわ。賭け事は胴元が儲かるように出来ている、とは言うけれど」

 

不利過ぎて、対抗策も十分ではない。つまりは、今回の決戦の行方は、一種の賭けになってしまう。何かを賭した上で、賽の目を自在に操る神様とやらに勝つ必要があるのだ。夕呼は不本意な状況に陥ったことを、認めざるをえなかった。

 

ずっと挑んできたから、その“敵”の嫌らしさと強さを、夕呼は他の誰よりも深く理解できていた。

 

多くを背負う者にとっては、賭けになった時点で負けに等しいのだ。丁半博打は二分の一で失う。その勝負に連続して挑めば、いずれは必ず負ける、失うのだ。

 

故に、勝つためには策を尽くさなければならない、勝負になる前に、場の趨勢を決するのが最善。失わないためには、勝ち続ける必要があった。

 

だが、遂にそんな余裕は失せた。しかも丁半どころではない、ルーレットでも大穴を当てる必要が―――円盤上に示された色と番号を的中させなければならない。それどころか、的中させてようやく勝負になるかどうか、というのが今の帝国軍が置かれている状況だった。

 

それも、敵が多い、味方が少ない、守るべき拠点までの距離が近いという、単純が故に覆すのが難しい状況だった。

 

夕呼は厳しい現実から逃げるように、天井を見上げた。そして両の掌で顔を覆い隠すと、それでも、と誰に向けるでもなく呟いた。

 

「……“ここを超えれば、人間世界の悲惨。超えなければ、わが破滅。さあ進もう。()()()()()()()()()()()()()()”……すっからかんになるまで、タネは用意したわよ、もう」

 

 

夕呼はユリウス・カエサルがルビコン川を渡る前に行った演説を、部分的に変質させながら話し、言った。

 

 

「―――賽は投げられた。いえ、運命の輪はとっくの昔に回り始めていたのかしらね」

 

 

だから頼んだわよ白の12番、と。夕呼は全てを賭けた色と番号を告げながら、深い眠りの中へと落ちていった。

 

 

 


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