Muv-Luv Alternative ~take back the sky~   作:◯岳◯

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4話 : Muv-Luv

横浜基地の副司令室の隣にある、会談のために用意された部屋の中。国内で有数の女傑に数えられるであろう二人―――香月夕呼と煌武院悠陽は机を挟んで色々と話し合っていた。オリジナル・ハイヴ攻略作戦を発令するための手順、根回しのための打ち合わせ。それらを終えた後には、静かに茶を飲んでいた。言葉はなく、湯呑の音と、息を吐く声だけが部屋を満たしていった。

 

ことり、と湯呑が置かれる音。夕呼も遅れて湯呑をテーブルに置くと、悠陽が意を決したように、話し始めた。

 

「―――結局の所。彼女達を焚き付けた理由は、何だったのでしょうか」

 

問い詰めるのではなく、責めるのではなく、単純な疑問を解くための、悠陽の声。武の現状に対して自分で事に当たらなかったのはどうしてなのかという悠陽の問いかけに、夕呼は一口だけ最後のお茶を飲み干し、湯呑をテーブルに置いた後、ゆっくりと答えた。

 

「……今、白銀(あいつ)は目の前のものしか見えていません。最後の木に向かって力を振り絞いながら飛ぶ鳥のように」

 

度重なるアクシデント、障害、激戦。長期間に渡る重圧に加え、大きな負荷を短期間に繰り返し受けたことで精神がすり減り尽くそうとしているから。夕呼は語った。時が来たと、最後の飛翔のために魂まで絞りつくしているかのように見えると。

 

(私に抱きついて来たこと……思えば、アイツらしくなかったわね。気が抜けたことだけじゃないわ、限界が来たという証拠でもあった)

 

気づいたからには、言わない選択肢はない。夕呼は「推測ですが」という言葉でしめた。悠陽は、ただ頷きを返すだけだった。

 

―――日本は未曾有の混乱を乗り越えた。表向きは勝利に次ぐ勝利で沸いているが、代償として失ったものは決して小さくない。クーデターから数えると3戦、予想外かつ奇想天外な戦闘を乗り越えることはできたが、その道中で支払われた命があった。

 

その渦中に居る悠陽は、誰ともなく頷いていた。間違えれば数千万が死ぬ舞台の上。心身を削りながら多くの責務を果たした者の心労は、果たしていかほどのものだったのか。ましてや、ある程度察知し、事態をコントロールした立場にあり、戦いにも赴いた武の心中は察するに余りあった。

 

気づいた悠陽に、夕呼は小さく頷きを返した。2人は、この基地に居る女性、その中の誰よりも背負うものの重さを知っていた。数十、数百を越える命を背負う重責は、時に矢よりも鋭く全身を刺す。最前線で戦い抜いた武が傷だらけになっていることを、2人共が疑っていなかった。故に、思い出させる必要があると夕呼は言った。悠陽は頷き、自分なりの方法を口にした。

 

「―――重い。故の、想いの数々を………人の命は、その者のためだけにあるのではなく。鳥に例えるのであれば、比翼の存在を思い出させる必要があるのでしょうが」

 

抽象的に語る悠陽の言葉に、夕呼はその意図を捉えると、無言で肯定を示した。ただ一言、戦術機を例に出しながら。人類の叡智、技術に地道な作業。いずれかが欠けても、戦術機は戦術機たりえないのだから。

 

悠陽は頷き、夕呼の意図を察した。人は、1人ではないこと。白銀武という存在であっても、自らが片翼であること、比翼の存在を思い出させる必要があるのだと。

 

「―――そして、比翼の役割を担うのは彼と並び立てる存在でなければならないのでしょうね」

 

「ええ、殿下のおっしゃる通りですわ………恐らく、ですが―――白銀に守られている立場にある者の言葉では、根本からの心変わりは望めないでしょうから」

 

それほどに根深いと、夕呼は渋面で話した。彼は鈍感という以上に、臆病な所もありますので、と冗談を挟みながら。

 

夕呼は武の長所でもあり、短所でもある部分についても気づいていた。戦場で、基地で、接してきた誰かを励ますことはある。色々と関係者から話を聞いて知ったのだ。

 

だが一方的に助けることはあっても、その心の奥深くまで入りこもうとはしなかったことも聞いていた。本気で助けようとしているのは確かだ。だというのに、自分のことで本気の愚痴を零す、というのは例外を置いて他にはなかった。

 

その例外のHSSTでも、任務成功のためにという理由がなければ、話さなかったのだろう。故に助けられた側は、逆の立場になった時に初めて気づくのだ。消沈した武を元気づけられるほど、白銀武という人物の内心を、その全てを知っている訳ではないことに。

 

そして、今の武はあまりにも儚いように見えた。話している内に理解してしまうのだ。表面上は強がっているが、仕草、声を近くで観察すれば分かってしまう。好きだからという理由で暴走できないぐらいに、白銀武の心は弱っていると。

 

夕呼は、207Bやその他の協力者はあくまで保険であると割り切っていた。小さな楔でも数があれば、と考えて用意しただけで、本命は別にあった。

 

その話を聞いた悠陽は、夕呼のやりようとは別にして、決して抜けない楔は何かと考えた。そのすぐ後に、彼と最も親しいであろう存在を思い出した。

 

(他でもない特別な戦友である、クラッカー中隊………? 唯一、彼が頼る存在。過去にまだ未熟であった彼と、長らく戦場を共にした者達だけに、ですか)

 

同じ地獄を知り、背を預けあった者だからこそ。初心を思い出させてくれる者達ならば、と悠陽は考えた直後に、違うと断じた。頼り、頼られる存在もそれに匹敵すると。大きなものを背負うこと、果て見えない道。同じ苦しみを知っている自分だからこそ、理解できるものもある―――否、理解したいと、そう信じたいと悠陽自身が強く思ったからだった。

 

そして、もう1人適任が居ることに気づいた。それでも自ら動かないのは、と悠陽は考えた末に、これは1本取られました、と口元を押さえて可憐に笑った。

 

「“天にあっては比翼の鳥となり、地にあっては連理の枝とならん”―――どっしりとした木の役は私に任せよ。飛び立った後、空で忙しなく寄り添い動くのは若者の役割だと、そうおっしゃるのですね」

 

「御冗談を」

 

夕呼は笑顔で答えた。年齢に言及した分だけ、目の奥には剣呑の色が含まれていたが。小さく咳をした後、調子を戻した夕呼はその例外の先頭に居る者の名前を視線で送った。

 

「それでは、お頼みします―――そちらの方も同様に」

 

夕呼は悠陽の後ろに控えていた真耶に声をかけた。真耶は黙して答えず、視線だけで反骨心を顕にした。悠陽が、小さく笑う。

 

「人気者ですね。ふふ……香月博士も例外ではないようですが」

 

「それはもう。借りを返す前に消えられては困りますので」

 

勝ち逃げは許さないと、悠陽の言葉をするりと躱した夕呼は、最後の茶を飲み干した。そして会談の前から告げられていた要望に対し、答えた。

 

「―――サーシャ・クズネツォワは、1フロア上に。既に、待機している時刻です」

 

夕呼の言葉に悠陽は頷くと、礼を告げて部屋を立ち去っていった。残された夕呼は1人、何も入っていない湯呑を持ち上げると、その底を見ながら呟いた。

 

「……覆水は盆に返らない。成らない堪忍をすることこそが堪忍とはいえ、ね」

 

死ねば生き返らない、消えれば蘇らない、その事実を誰よりも知っている武が現状に至った要因はどこにあるのか。繰り返し訪れる重圧を受けて器に罅が入ったのか、底に穴が空いたのか。かつては、戦おうという意志と同じぐらいに、強く生きたがっていた筈だ。

 

だからこそ、かつての姿を取り戻させるために必要な処置は。夕呼は、静かに湯呑をテーブルに置いた後、呟いた。

 

(―――ままならないものね)

 

生きることは残酷だ。当たり前に人が死んでいく時代であれば、なおのこと。それを誰よりも味わっている相手に生を強要する罪は、如何なるものか。

 

夕呼は答えを出せないまま、黙り込み。しばらくして首を横に振った後、執務を再開するべく椅子から立ち上がった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彼女との関係を、どう表わせばいいのか。煌武院悠陽は、眼の前に居る銀髪の女性―――サーシャ・クズネツォワを前に、そんな事を考えていた。クーデターの際に、横浜基地の中で見かけたことはあるが、個人として出会ったことは一度もない。それでも、ずっと意識をしていた。明星作戦より以前、まだ横浜ハイヴが建設されていない、関東防衛戦よりも前に武がその人物と再会したことは聞かされていたからだった。

 

「……本音を吐露するのは少し悔しいですが、私は貴方こそが武様を支えているものだと思っていました」

 

「……え?」

 

部屋に入り、2人きりで対面して僅か数秒。いきなり言葉をぶつけられたサーシャは戸惑い、答えられない内に悠陽から更なる言葉が突きつけられた。

 

「気づいたのは、京都で再会した時です。武様はどこか、遠い……そうですね。遠い所で、遠いどこかを目指して戦っているように感じられました。ですが、仙台で会った時は違っていた」

 

灰色と表現するべきか。潜められていた危うさは消えて、目的が定まったように見えた。その時から悠陽は、武の中に誰か1人、他の者とは異なり特別に大切な存在が居ると思えて仕方がなかった。

 

何を話そうとしているのか、察したサーシャから戸惑いが消えた。殿下だの立場だの過去だの、そういう事は今はどうでも良いと思いながら。視線が定まったサーシャを前に、悠陽は言葉を続けた。

 

「……並行世界の記憶。確かに、武様はその悪夢を持っているのでしょう。覚えているのでしょう。忘れられないがために、戦場に出ることを決めた。ですが、戦い続けようと決めた理由とはまた、異なっているように思えました」

 

切っ掛けは、誰かを助けたいという気持ちによるものかもしれない。だが、戦場に出た後にそれを考えるような余裕を持つことができるのか。悠陽は、違うように感じていた。米国で取られた統計にもあるように、戦場に出た衛士は特別、戦友の安否に心を取られるようになるからだ。

 

恐らくは今よりもずっと未熟で、何もかも不足していた10歳から13歳の頃。そこで共に戦い、休む時も傍に居て接し続けた者が誰なのか。悠陽は集めた情報の中から、1人しかいないことに気づいた。

 

貴方以外には居ないと、悠陽は視線で訴えかけた。

 

サーシャは、その強い視線を正面から見返すことができなかった。政威大将軍とか、いきなり過ぎる話についていけなかった訳ではない。ただ、後ろめたさを感じていたからだ。

 

武の内心について一番詳しいのは自分であることに、サーシャは気づいていた。終わりたいと思っていることも。

 

それを察した時に、相反する2つの考えが心を過った。

 

―――ずっと生きていて欲しいという、素直な心。

 

―――この地獄から解放し、休ませておいた方が良いのではないか、という頭が訴えかける言葉。

 

最初は、生きていて欲しいという想いが勝っていた。だが、横浜で再会してから、成長した武の近くでその姿を見続けている内に、その想いは徐々に小さくなっていた。後ろめたい気持ちがどんどん大きくなっていたからだ。

 

サーシャはその理由を吐露することができないまま、誤魔化すように答えた。

 

「私は……私では、無理。殿下であれば大丈夫だと思います。同じ立場で、タケルの苦悩に共感できる貴方なら」

 

大きなものを背負う、という意味では2人は似通った立場に居る。武は放っておけばやってくる滅びを滅するため、悠陽は国を、帝国に住まう者を。考えるだけで気が遠くなるように重い、多くの人命を、未来への道を通さなければならないという使命を自らに課していた。

 

同盟であり、対等な立場での戦友だと思っていた。あまりにも人の死を見続けてきたがために、守りたいという気持ちが前面に出るようになった武も、悠陽の前ではその癖が出ないようにサーシャは見えていた。手を差し伸べ、抱きしめれば身を預けられるだろう。そう確信できるぐらいには。

 

「……そう、かもしれません。ですが、そうならない光景も見えるのです」

 

「私も、そうです。それに……振りほどかれたら、きっと私は―――」

 

サーシャはその後のことまで想像した。途端、身体の芯から凍るような恐怖に襲われた。今の関係は、ある意味で心地よいものだった。だが、それさえも失われてしまえば、と考えるだけで死んでしまいそうだった。

 

「正直な所を言うと……ずっと、迷っていた。変わることで失うことが、怖かった」

 

自分の思いを隠し続けていた、とサーシャは言った。恋人ではない、友達でも収まらない、気安い家族のような関係。思い出したくもない故郷に居た時を思えば、夢のような環境だった。

 

微睡(まどろ)んで、いた。いつまでもこの夢が醒めないように、って願ってた。でも、夢はいつか終わるものだという事にも、気づいて……」

 

何人死んだのだろうか。その中で、嫌でも悟らざるを得なかった。だから、強くなろうとしたとサーシャは言った。

 

何時か終わる夢の後に、自分の居場所を勝ち取るために。武が止まらないことは、気づいていた。その中で掛け替えのないパートナーとして居ることができれば、と必死になっていたと告げた。

 

悠陽は、その気持ちが分かる気がしていた。自分も同じだったからだ。将軍という立場には、どうしようもない孤独が付き纏う。誰に頼ることも許されない場所で、1人強く生き抜かなければならない。妹の想いを無駄にしてはいけないと、覚悟を決めた上でその道を進むことを決めた。

 

その道中に、夢のような人と出会った。見下げず、見上げず、自然と目線が合うような男性。憧れ、憧れられる関係になりたいと思った。会えなくなってから、捨て去ったある感情が戻っていく事に気づいた。寂しいこと、切ないこと。明星作戦の後、永遠の別れを手紙で突きつけられた時は、心臓が止まるような痛みを覚えた。

 

でも、戻ってきた。それでも、多く迷惑をかけた。クーデターに関する責任の大半は、自分にある。悠陽はそう考え、自分の不甲斐なさを悔いていた。

 

サーシャに似た、悔恨の念がそこにあった。

 

「私は、大丈夫ですから、と……」

 

「……うん。私だけは死なないから、って。それを証明したかったのに」

 

マンダレーの後に、全てが崩れた。出会った時からずっと、見えない過去と死に囚われていた少年。その瞳から翳りを取り払いたかった。求めて、無理を重ねた結果、少年の心を更に追い込んでしまった。

 

それからずっと、ユーラシアで義勇軍として戦っていたという。サーシャはその時の様子を聞くたびに、転げ回って泣き叫びたくなった。そんな想いをさせるために、戦ってきたんじゃないのに、と弱い言葉を吐きながら。

 

「……“死”に囚われて、ですか……いえ、そういう事なのでしょう。武様が常に熱のある言葉を告げるのは―――」

 

「ただ、元気づけようとしているだけ。必死になって、言葉の限りを尽くして接する人の憂いを消そうとするのは、どうしようもなく生きていて欲しいから……人が、あまりにも呆気なく死んでしまう事を、知っているから」

 

人の命は重い。掛け替えのないもので、代わりになるものはない。死者は蘇えらない。そんな理屈を越えて、時代は、世界は、人に死を強いてくる。

 

人は死より逃れるために強くなる。武は記憶から、それを学習した。学ぶたびに強くなり、人の儚さまで学んだ。自分の死を、誰かの死を見て教訓とした。

 

隔絶した経験と強さを得た代償として、どうしようもない絶望と現実を骨まで浸透させられたのだ。

 

説明を受けた悠陽の呼吸が、一拍だけ止まり。下唇を噛みながら俯き、呟いた。

 

「そういう、事ですか……薄々と分かっているつもりでしたが」

 

あくまで、つもりの範疇だったと悠陽は呟いた。大小、後悔を抱えていることは知っていた。優しい人が強くなろうとする土台には必ずと言っていいほど悲劇が存在する。

 

だが、別の世界の記憶が及ぼす所までには考えが至らなかった。劇薬と劇毒を叩き込まれたようなものだった。そして今、多くの者を助けることに成功したと同時に、いずれ失うことへの憂いも加速度的に高まっている。その現実を知った悠陽は、自分の眼から涙が溢れていることに気づいた。

 

これが悲しみによるものか、哀れんでいるのか、自分の涙の源について悠陽は説明できなかった。ただ、屈託なく笑っている、自分が好きな明るい顔と、その裏に秘められたどうしようもないものを想うと、視界がぼやけてしようがなかった。

 

「それでも……武様は、自分が死ぬことで誰かが悲しまないようにしていると」

 

更にどうしようもない現実に、悠陽は気づき。サーシャは、小さく頷きを返した。

 

「防衛戦で、気づいたのかもしれない。自分が居なくても大丈夫だって」

 

あくまで添え物、自分が居なくても帝国は大丈夫だと確信できたのかもしれない。サーシャは悲しそうに、言った。

 

「だから……誰にでも納得できるような、そんな死に方を選び取ろうとしてる」

 

武は自分の死によって多くの人間が悲しむであろうことも分かっていた。知り合いには優しい人達が多いことを、知っているからだ。

 

約束を求めた女性達も、理屈はどうであれ、自分が死ぬことで約束が果たされなければ深く悲しむことも悟っているのだろう。

 

その中で、自分を取り巻く様々なものをめでたしという言葉で終わらせるにはどうすれば良いのか。悠陽とサーシャは、言葉にしたくないそれを、声にした。

 

「―――オリジナル・ハイヴ攻略の偉業を達成する最中ならば、きっと」

 

「―――名誉の戦死で終わる。仕方がないと、悲しみからすぐに立ち直ってくれるって、信じてる」

 

戦死しても、代わりの者が居る。きっと、攻略を遂げてくれるだろう。

 

生還したとしても、消え去ってしまう。2人は、武自身が無意識にでも、自分が満足したら消えることに気づいているのかもしれない、と考えていた。

 

「―――でも」

 

「ええ―――それでも」

 

憂いや理屈、全てがどうでもよくなる程に、認められないものがある。改めて話している内に、抑えきれなくなるぐらい膨れ上がった想いを共有した2人は、視線だけを交わして頷きあうと、立ち上がった。

 

策も何もなく、正面からぶつかりあう決意を胸に抱きながら。

 

「それでは―――この部屋には別の出口があると聞きましたが」

 

「案内します。気づかれる前に、抜け出しましょう」

 

傍役が居ては出来ない話もある。そんな悠陽の意を汲んだサーシャは止めることなく、むしろ助長する方向に動き始めた。

 

ただ1人、どうしようもなく会いたい人が居る場所へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

深夜、人の姿もまばらになった横浜基地の食堂の片隅。武はそこに隠れるように座りながら、考え事をしていた。制服は整備兵のもので、以前に使用した金髪のカツラを頭に、階級章も外していた。

 

侍っているのは、水も飲み干し空になったグラスだけ。時折、近くを通った基地の兵に視線を向けられるも、誰であるのかまでは気づかれない。武はその事を確信した後に、誰に向けるでもない言葉を小さく呟いた。

 

「……どうして、こうなっちまったんだろうな」

 

武は、純粋な疑問を言葉にした。HSSTによる直接的な破壊活動は阻止した。クーデターの最中にあった、米軍の介入は防いだ。佐渡島は取り返したし、横浜基地も守りきった。最後の仕上げが残っているとはいえ、10年以上も前から望んでいた希望に続く道のりを踏破できたのが今である。

 

喜びに泣きながら、幸福を噛みしめるべきだ。なのにどうして自分はこんなに悩んでいるのか―――苦しみ、迷っているのか。武は自分の心に問いかけたが、返ってきたのは沈黙だけだった。

 

ふと、日中にあったことを思いだしていた。強く自分を求める言葉や、絆を感じさせる想いを向けられた時は純粋に嬉しかった。その一方で、後ろめたさを感じることも確かだった。素直な気持ちで、受け取った言葉に対し、心からの笑顔を返すことができなかったのだ。

 

(……いや。本当は、分かっている筈だ)

 

返さない自分の思惑はどこにあるのか、ターラー教官から刺された釘の意味も。武はじっと、空になったグラスを見つめたまま、ため息をついた。

 

そして、こちらに近づいてる足音に気づいた。武は気づかないフリをしながら、少しだけ唇を噛み締めながら眼を閉じた。今、もしかしたら一番に会いたくなかった人の気配だったからだ。

 

「―――そんなに泣きそうな顔をしないの」

 

「……そんな事はないですよ、純奈母さん」

 

誰にも聞こえないように、武は答えた。周囲に人の気配が無いことを確認すると―――否、誰もいないからやってきたのだろうな、と武は純奈の心遣いを察すると、逃げようとする自分の足を止めた。ありがとう、と純奈は武の内心を察したかのように呟くと、対面する位置に腰を落とした。

 

「色々と……本当に色々な人から、話を聞いたわ。悩んでいると教えられたけれど」

 

「……別に、俺は悩んでないです。やる事は決まってるから」

 

「そう……なら、タケルくんの言う通りなんでしょうね」

 

武のふてくされたような声に、純奈は優しい笑顔を返した。武はバツが悪い顔で黙り込むと、純奈もそれに付き合うように口を閉じた。

 

2人の周囲を、深夜の静けさに食器と換気の音だけが加えられた空気が流れていった。そのまま、5分が経過し。武は、空のグラスに視線と呟きを落とした。

 

「……無我夢中で、やってきた。助けたいっていう気持ちのまま、必死で戦ってきた」

 

守れないものは多かったが、それ以上に助けることができた命がある。武も、そこは疑っていなかった。自分の戦いに意味がなかったなどとは考えていない。

 

―――それでも、どうしようもなく怖い。武は、震える声で呟いた。

 

「どうしたって、死んでいくんだ。自分で、みんなの力を借りて、これ以上ないってぐらいできる限りを尽くしても、助けられない人が居る……これからも、きっと」

 

助け合った仲間も、バカをやった友達も、同じ地獄を共にした戦友達も、未来永劫生きる訳ではない。それどころか、銃後の民間人とは桁違いの確率で死ぬ危険性の方が高い。耐えられないと、武は言った。

 

「これじゃダメだって、慣れようと思って……でも、ダメだった。辛いから忘れたいと思う以上に、忘れたくないっていう気持ちの方が勝っちまう」

 

忘れれば、その者の存在は消える。少なくとも自分という世界の中で蘇ることは二度とない。武は、その想いを禁じていた。二度と、忘れるものかと京都防衛戦の最中に誓ったからだ。それまでも、それからもずっと戦ってきた。長かった此処までの旅、その道半ばに多くの死を見てきた。背負うと誓ったからだ。

 

「……後悔を、しているの?」

 

「まさか。でも……いや、少しだけ後悔というか………ちょっと、疲れたかな」

 

武は弱音を吐きながら、呟いた。人との繋がりはなんだろうと。

 

1人だけでは無理だと思い、仲間を得るべく動いた。背中を預けあえる戦友を、弱音を分けられる共犯者も。死なせないように鍛え、今では頼れる同僚になった者は大勢居る。だけど、その繋がりが強まれば強まる程に、失うことの恐れが増えていった。

 

何かが間違っていると、武は険しい顔で呟いた。こんなに辛い思いをするのならいっそ、別の道があったのではないかと、普通であれば口にしない言葉まで零した。

 

望んだものが得られなかったからだった。並行世界の記憶の中で、惨たらしく死んでいく誰かを助けようと立ち上がった。その先で得られたのは、誰かをまた失うかもしれないという、別方向での恐怖だった。

 

そこに、幸福な終わりは無かった。気づいた時に、絶望した。訓練兵の、まだ体力が無かった頃と同じだった。先の見えない険しい道が、十何年も苦しんできたこの旅は、後どれだけ続くのだろうかと思ってしまった。

 

助けられれば、嬉しい。だが、失うことへの恐怖も高まっていく。もうたくさんだと、自分の中に居る自分が囁くのだ。

 

純奈は、そんな武の内心の全てを読み取ることはできなかった。ただ、じっと見つめるだけ。そして、問いかけるように優しく語りかけた。

 

「それでも―――タケルくんは、逃げたくないと思ってる。それは、責任感というよりも……もっと別のものよね?」

 

純奈の言葉に、武は無言を返した。頷きもせず、否定もせず、口を閉ざしたまま。純奈は小さなため息の後、誰にでもなく言葉を紡いだ。

 

「……君がやろうとしている事、分かるなんて言えないわ。分かっていたとしても、心の底から、どうしても譲れないものなんだってタケルくんが望んだのなら、止められない」

 

何時かの頃と同じように。子供の頃、港で。数年前、明星作戦を前にあることを察した時と同じように。純奈は武が本気の決心を胸に抱きながら選択したものを、止めることはしなかった。ただの言葉だけで止まるとは、思えなかったからだ。

 

自分が許さなくてもきっと、別の方法で国外へ、戦場に出ることを選ぶのだろうと思っていた。純奈は武がそうした行動に出ることを、疑っていなかった。

 

日常生活もそうだが、武が子供の頃に学校で起こしたこと。頑固で、意地でも負けないという姿を前に、白銀光のことを思い出したからだ。

 

だから、止めなかった。止めることで逆に、武の人格が歪むことを恐れた。当時、武は産みの母の顔を知らなかったために、自分が母親代わりとして見られていたことを純奈は自覚していた。

 

だから、歓迎はせずとも、背に手を添えながら送り出した。必ず帰ってきなさいという、約束と共に。そうしなければ、当時から少し危うかった武が、二度と帰ってこないような気がしたからだ。

 

結果的には、武は帰ってきた。かつての子供の頃の良さを持ったまま、危うさも増した姿で。

 

(……立脚点を、最後の一線を、世界が終わっても譲れない目的を武君はずっと前に得たのでしょうね。私なんかでは想像もできないぐらいに厳しい世界で生き抜ける程の強い想いを持ち続けているのだから)

 

その立脚点について、純奈は詳しく尋ねたことはなかったが、ある程度の推測はできていた。誰かを守りたいという気持ちこそが根源にあるものだとは気づいていた。だが、その根源こそが武を苛んでいることまで純奈は理解していた。

 

誰よりも人を好きな人は、誰よりも人を失うことを恐れる。故に、死ぬのが怖いからと、過酷な道から逃げ出すことを自身に許す筈もない。

 

それは悲劇か、英雄譚か。その真実に純奈は価値を見出さなかった。

 

見えているのは、苦しんでいる“息子”の姿だけだったからだ。あまりにも重いものを背負ってきたのだろう。純奈は武を想い泣きそうになったが、すんでの所で耐えると、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。

 

「―――どれだけ辛い道を進んできたのか。その全てが分かるだなんて、冗談でも言えない。でも、言えることがあるわ……タケルくんが今、迷っていることも」

 

「……でも、決めたんです。それに、俺は迷ってなんか……」

 

「ええ。聞いたわ。疲れた、っていう言葉は疑っていない。けれども、全く迷っていないっていうのは嘘よね?」

 

「………嘘、って、その証拠でもあるの?」

 

子供のような反論。純奈は、優しく笑い返した。

 

「証拠はあるわ―――私の勘よ。子供の頃から、何度貴方のおしめを取り替えてきたと思ってるの?」

 

「……え? いや、そんな不思議そうに言われても……っていうか恥ずかし過ぎるんで流石にこれ以上は!」

 

「でも、子供は巣立っていくものなんだって思い知らされたわ。君が影行さんを追って、インドに行くことを決めた時に……でも、止めなかった。意味があると思ったから」

 

あの時に、旅を出ることを選択したからこそ、得られたものがある筈だと。少しさびしいけれど、と憂いを含めた言葉と共に、純奈は小さく笑った。

 

「安全な道を選ばなかった。残る道もあった筈よ。でも、そうしなかった……辛く、苦しい道を進んだ。その中で出会い、親しくなれた人達と一緒に」

 

海外に出たからこそ出会えた人達が居れば、会えなかった人達も居る。純奈の言葉に、武は素直に頷いた。戦場に出たからこそ、眼の前の人を助けることができた。だが、軍人として長らくを過ごした中で、距離が遠くなった人が居ると、純奈は告げた。

 

「タケルくんが日本に残る道を選んでいれば……もっと、私達と同じ時間を過ごすことができた。純夏と、もっと仲良くなっていたでしょう」

 

温かい時間を過ごすことが出来たかもしれない。環境は人を変えるという。もっと別の出会いがあり、別の決断をしたかもしれない。こうして板挟みになり、苦悩することも無かったかもしれない。

 

だが、それは現実にはならなかった。自分たちだけとは限らない、道の途中、心揺れる中で選んできた道があるからこそ、今がある。居る場所も、向かう先も、悩み選び、泣きながら過ごした夜を越えてきたからこそ、今になった。

 

挫けなかったのは、次の日の朝には笑えている―――笑わせてくれる誰かが居たからだ。理屈ではない、当たり前のように前を向けるだけの、向かせてくれるだけの誰かが居た筈だと、純奈は言った。

 

「……そう、ですね。確かに……1人じゃ、無理だった。でも、だって、だからこそ俺は――」

 

「だっても何もないの。それに、時間はまだあるのよ?」

 

勝手に結論を出そうとする武を叱るように、純奈は嗜めた。

 

「そう思いたいだけでしょう? ……気づいている筈よ。疲れ果てているのに、こんなに悩んでいるんだから」

 

終わらせる事を決めた人間は、早い。悩みはあるだろうが、どこか乾いている。純奈の眼には、武がそんな風には見えなかった。横浜から避難する前も、その後も、眼にしたくもないものを見てきた。乾ききった人間は、最後に自分の命を燃やすことを選択する。

 

純奈は、武は乾いておらず。むしろ過ぎるほどに湿っているように見えた。途方もない量の涙を、耐えているかのように。

 

「それを、分かち合う人………本当に、そんな女性に心当たりはないの?」

 

長い時を重ね合った、短い時でも睦み合うより深く、想いを交わしあった誰かがいつも居る筈だった。むせ返るような灼熱の、地獄の窯の底であっても同じ場所で同じ未来を見ることができるのならば何をも恐れる事は無いと、笑いあえる人が。

 

焦がれるぐらい、会いたい人が。このまま死に別れ、会えなくなると考えるだけで切なくなるような大切な人は居ないのか。

 

武は、その問いかけを前に黙り込んだ。純奈はその様子を見ながら、その存在が純夏ではないことに気づいていた。

 

(引き止めていれば、ね……でも、もう過ぎ去ってしまった)

 

武を引き止めていれば、横浜に残っていればまた違う関係になっていたかもしれない。だが、人生を左右する決断は何時だって二者択一(Alternative)だ。もしかしたら、という世界は想像の中でしか存在しないし、触れることはできない。

 

少なくとも今、純夏に武を変える言葉を告げることはできない。あるいは、横浜に残る選択肢とは別の、代わりとなる回答(Alternative Plan)を武が求めた時から決まっていたことなのかもしれないと、純奈は考えていた。

 

今の武をよく知り、共感できる人物でしか、考えを改めさせることはできない。純菜は、純夏では無理であることに気づいていた。それでも、(もう1人の我が子)にも人生を賭けるに足る伴侶(存在)が居てくれるのであれば、と視線も加えて問いかけた。

 

―――面倒くさい理屈とかは置いて、今この時に会いたい人の顔を浮かべなさいと。

 

武は、純奈の質問を受けた後はきょとんとした顔になり。ふと、黙り込んだまま視線を落とした。呆然としたように、目に何も映さず、頭の中で過去だけを見ている顔になった。しばらくした後、ようやくと小さく、確かに頷いた。

 

「……ありがとう、純奈母さん」

 

「どういたしまして」

 

純奈は答えると、不安そうな表情になる武を見ると、可笑しいと笑った。

 

「そんな情けない顔をしないの。きっと、大丈夫よ……食堂のおばちゃんが何を言うの、って思うかもしれないけどね」

 

「そんな事ない! 純奈母さんは、俺のもう1人の母さんだから」

 

武は即座に否定した。今この時も、こうして助かっていると少し怒ったような顔だった。

純奈はそれを見た後、満面の笑みを浮かべながら頷いた。そして立ち上がると、武の前にあるグラスをちらりと見ながら、尋ねた。

 

「ちょっと待っててね―――水のおかわり、いるでしょう?」

 

多くの言葉を交わすためには必要でしょう、と。武は純奈の微笑みと共にかけられた言葉を前に、降参とばかりに手を上げると、お願いしますと頭を下げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何を言うべきなのだろう。サーシャは廊下を走りながら、必死に考えていた。

 

何を伝えるべきなのだろう。悠陽はサーシャの後ろを走りながら、その答えを渇望していた。

 

それでも、望んだ言葉は浮かばなくて。だからといって、諦められる筈が無かった。

 

無人の廊下に、足音と呼吸の音だけが響き続けていた。その間隔は、徐々に狭まっていった。一瞬でも早く会えるようにという想いを、示すように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

誰を思い浮かべたのか。武は受け取った言葉の通り、脳裏に2人の女性の姿を描いていた。

 

国内に留まり続けるだけでは、今のような関係にならなかった2人。戦場で自らを鍛え、覚悟と共に走らなければ遠いどこかに置いていたであろう女性が居た。

 

戦友という言葉だけでは到底言い表せない。家族という言葉で収めるには不適当だった。ただ、自分と同じ苦しみを抱いている事だけは分かっていた。

 

「……そういえば、こんな季節だったか」

 

太陽を意味する名前に反して、悠陽との思い出はいつも雪がちらついて見えた。厳しい時代を象徴するかのように、寒気が肌を刺す世界。その中で、交わした言葉はいつも温度を持って胸の中に残っていた。

 

「そして……基地の中の、無人の廊下を走るのも」

 

あの時と異なる点は、けたたましい警報の音が鳴っていないこと。武は呟きながら、戦う道を選んだ時の事を思い出していた。

 

分岐点の中の問いかけ。武は答えず、無言で誓いながら行動で回答した。一方的に抱いたそれは、約束ではないかもしれない。だが、あの時にあの場所で出会ったからこそ、決断できたのかもしれないと考えていた。

 

兵士になるというビジョンを抱いてからは初めてだった、遠い約束。武はその言葉を反芻しようと、記憶の中に没頭していた。

 

―――だから、反応が遅れた。

 

気づいたのは、曲がり角の向こうから姿を現した後、正面から衝突した後だった。

 

「うわっ?!」

 

「きゃっ!?」

 

悲鳴。次の瞬間に、武は無意識に手を伸ばした。

 

そして、ぶつかった2人も転倒しないようにと手を伸ばして―――掴まれて、引き寄せられた。

 

ぽすん、という間抜けな音の後。武はこちらに引き寄せたからだろう、寄りかかられている2人を見るなり、呟いた。

 

「……えっと、幻?」

 

「え―――」

 

「た―――タケル?」

 

答えた、という事は幻ではないようだ。それもそうか、と武は頷いた後、混乱した。サーシャと悠陽の2人も同様だった。3人を正気に戻したのは、遠くから響いた、悠陽を探す声だった。

 

「―――取り敢えず、ここを離れましょう」

 

「え――いや、でも、あの様子だと相当怒ってるような」

 

「大丈夫です」

 

「あとは、香月博士に任せる」

 

悠陽とサーシャは握りしめた武の手を離さず、強引に引っ張った。武は困惑したものの手を離せず、されるがままになった。セキュリティのレベルが高い区画なので、という理由もあったが、それ以上に2人と話したいことがあったからだった。

 

サーシャが先導し、3人はこの1年で自分の庭になった横浜基地の地下を走り回ると、セキュリティレベルが特に高い部屋へと入った。

 

「ちょっと待って―――点いた」

 

明るくなった部屋に、武と悠陽も入っていく。中は仮眠室になっていて、中央には小さいデスクと椅子があった。武はそれを見た後、2人に向き直ると何かを言おうとしたが、その時に様子がおかしい事に気づいた。

 

「えっと……そういえば珍しい組み合わせだけど」

 

廊下を走っていたことも含めて、おかしい所だらけだった。武が指摘するも、2人は予想外の事態の連続に混乱していた。

 

何より、伝えたいことがまとまっていなかった。武は黙り込んだ2人を見ると、ため息を一つ。次に、椅子に座ることを提案した。長い話になると思ったからだった。

 

「それで……なんで、2人で? イタズラ、って訳でもなさそうだし」

 

と、いうよりも政威大将軍としての立場を考えると、色々と拙いのでは。そう考えての発言だったが、悠陽はいいのです、と答えた後、武の眼を見返した。

 

「貴方に、会いたかったのです。そのために、私達は」

 

「そう……伝えたいことが、あったから」

 

悠陽とサーシャは伝えるも、何を言うべきかまとめきれていなかった。それでも、と言葉の限りを尽くした。途中で、武に関する自分達の考えまで伝えていった。記憶のこと、進んできた道のこと。死に囚われていること、限界だと感じていること。武は、自分の内心を当てられたことに驚き、言葉を返せなかった。

 

情けないな、と呟き。武は、2人の推測が一部分だけ正しいことを伝えた。

 

「確かに……疲れていないと言えば、嘘になっちまうな」

 

本当に、色々な事があったから。頭を抱えながら、深く吐かれた息と共に告げられた武の言葉に、サーシャと悠陽が頷きを返した。

 

「色々な人と、本当に色んな人と出会ったし……っと、そういえばだけど」

 

武は悠陽までこの基地に来ていることを知らなかった。それだけではない、唯依達のような斯衛で、知り合いの人物が来るのであれば、夕呼から事前に連絡があってもおかしくはなかった。

 

「……ひょっとして、夕呼先生の?」

 

「ええ―――来る事を決めたのは、私達自身ですが」

 

「そう、か」

 

心配させちまったか、と武が頭をかいた。そのいつも通りに見える仕草を見たサーシャが、たまらないとばかりに立ち上がった。

 

「どうして……そんなに強がるの?」

 

「……どういう事だ?」

 

何がいいたいのか、と疑問を返す武に、サーシャは肩を震わせながら答えた。

 

「どうして、責めないの? ……武がそんなに苦しんでいるのは私のせいなのに」

 

後ろめたい気持ち、その源にあるもの。サーシャは、初めて出会った時に交わした言葉を繰り返した。

 

逃げるの、と問いかけた。

 

そして白銀武は、逃げることを止めた。戦場という抜け出せない渦の上、崖の前で立ち止まっている武を突き落とす言葉となった。

 

「それは……奇遇だな。さっき、俺もその時のことを思い出してたんだ」

 

君は、ここから逃げたいのか。そういえば言葉では答えていなかったな、と前置いて、武は回答した。

 

「逃げたかったよ。あの日からずっと、考え無い日はなかった」

 

使命は言う。逃げるな、と。

 

運命は言う。逃さないぞ、と。

 

その声に関係なく、武はこの地獄から逃げたしたくてしようがなかったと言った。

 

「俺はヘタレ、なんだろうな。だから強い言葉で自分を鼓舞し続ける必要があった」

 

進む途中で出会った人達が、戦う理由となった。前へ向かう推進力がなかった。その裏で、止まれば転けるしかなかったんだと、武は困ったように言った。

 

「できるかもしれない、やれるかもしれない、まだ希望は消えてない……自分に言い聞かせてきた。逃げようとする自分を、雁字搦めにした」

 

逃げられる場所があれば、違ったかもしれないと言った。並行世界の自分のように、優しく暖かな、安全な場所があれば脇目も振らずに逃げ帰っていただろうと。だがその場所は、BETAが押し寄せれば命ごと崩れ去ってしまう砂上の楼閣でしかなかった。

 

逃げれば終わる。だから挫けようとする自分を縛るために大言を吐き続けた。助けるという言葉が救うというものに変化したのは、何時だったろうか。思い出せない武は自分の掌をじっと見つめた。その仕草を見た悠陽が、痛ましいものを見るように武に話しかけた。

 

「武様は……守りたいものを守るために、剣を取られたのではないのですか?」

 

「ああ……俺も、そう信じてた。何より、義務だと思ったから」

 

取引には対価が必要となる。記憶、経験という高価に過ぎるもの。その代償として、未来に対する責任も負わなければならないと、武は考えていた。

 

「はっきりと自覚したのは、マリーノ達の言葉を聞いてからだな……“俺らに、お前ぐらいの才能があれば”……何が違うんだ、って」

 

その原因は明らかだ。誰にも与えられなかった、どこかの世界の記憶と経験という卑怯にも過ぎるもの。持ちながら生きて外の世界に出て、空虚な記憶だけではない、息をして心臓を懸命に動かしている人達が居ると知ったからには、もう逃げられなくなった。

 

語るように告げる武に、サーシャは頷きを返した。俯きながら、分かっていたと震える声で。

 

「でも―――武があの時に、避難をしていれば……日本に戻っていれば、こんなに苦しむことはなかった」

 

ユーコン基地から横浜基地に一時だけ帰還した時、サーシャは武の内心を少しだけ垣間見た。幻覚の類ではないと知った。

 

どうしようもなく冷たい雨の中、傘を放り出して走る姿を。休めと言っているのに聞かず、ボロボロになりながらも前に進む姿を。しばらくして、気づいた。その切っ掛けを作ったのは、他ならぬ自分なのだと。

 

「……そういう意味では、私も同じですね」

 

武が国外に出るようになった切っ掛け、公園での出会い。悠陽はその時の事を思い出しながら、悔やむように言った。

 

「あの時、冥夜と共に公園に逃げることを選択したのは、私ですから」

 

風守だけであれば、子供を国外へ追い出す行為は成らなかった。決定打となったのが、煌武院の臣下が動いたこと。

 

「約束も……同じです。私が情けなく求めたから、其方は無茶を重ねた」

 

戦場に出ても絶対に死ぬな、とは無理な要求だ。だが、その我儘を武は困りながらも受け入れた。勇ましいと、そう思った。裏でずっと泣いていることに気づかないまま。

 

2人ともが、武から多くのものを貰った―――でも、自分は何を返せたのだろう。サーシャと悠陽は思い返すも、これと言えるものが無い事を改めて理解すると、悔しそうに歯を食いしばった。

 

頼れる友達だと思っていた。暗い夜の中での、道標になると感じていた。一番星だと、信じた。いつか、きっと、と思いながらも手を伸ばすことが怖かった。星と同じで、朝になると消えてしまう儚いものだと、どこかで感じていたから。

 

武は、2人が落ち込む様子を見て―――慰めることはしなかった。ただ、俺も無敵じゃなくてな、と困ったように笑った。

 

「日本に帰ってきてから、だな。俺が暗殺されかかって、母さんが身代わりになって、病院の廊下が血の海で……また、裏切られたと思ったよ」

 

マンダレー・ハイヴ攻略の時と同じで、守った人間に背中を刺されたような感覚。怒りよりも、悲しみよりも、どうしようもない切なさと虚無感が心を支配した。逃げたくなったと、武は自嘲した。

 

「でも、できなかった……逃げるには、色々な人と出会い過ぎた」

 

素晴らしく、尊敬できる誰かが。自分に未来を託して死んでいった者達も。救われて欲しいと、心の底から思える人達に出会った。

 

「だから、決めた。素直になった。守りたい、戦おう、だから勝って―――最後に、本当に耐えられなくなったら、静かに消えようって」

 

もう大丈夫だと、思えるような日が来たら、責任を持って消えよう。武の言葉に、2人は聞き返した。

 

「責任を、って……何を?」

 

「決まってるだろ? ……数えきれないぐらい多くの人を、死なせちまったんだから」

 

自嘲しながら、武は強く拳を握りしめた。自分を殴りたい衝動を押さえながら。

 

「そうだ、俺なんかじゃなくてもっと強い誰かが記憶を受け取っていたら、未来を知ることができてれば………もっと、もっとだ! もっと、たくさんの………っ!」

 

武は肩を震わせながら、悔しそうに俯いた。

 

「俺の、俺みたい、政治とかが苦手で……衛士をするしか能がないバカじゃなくて! 今もこうして情けない弱音を吐くような俺じゃなくて、もっと強くて才能がある誰かが……崇継様のように、才能もあって地位も高くて尊敬できる人が記憶を受け継いだら、こんなにも人が死ななくて済んだんだ……!」

 

「……どうして」

 

呆然と、サーシャが呟いた。引き継ぐ言葉を、悠陽が声にした。

 

「なぜ、どうして……そんなにも自信を喪失して……いえ、自分を責めるのですか?」

 

「……決まってるだろ。だって、俺には誰も守れないんだから」

 

一時的に助けることができたとしても、最後には守れなくなるに決まってる。それが真理であり確定した未来であると言うような顔での武の答えを聞いた2人は、絶句した。

 

そして、気づいた。並行世界のものだろう、守れない終焉ばかりを見せられた結果、表向きはどうであれ、裏での武は自分に対する自信を失い続けていたのだと。

 

突撃前衛として、指揮官として自信が無い所を見せてはいけない。そう教えられて実践してきた経験はあるが、根本の所で武は自分を信じることができないのだと。

 

「だから……徹底的に、身体を苛めたの?」

 

こんな自分では誰も守れないぞ、と自分を痛めつけた。向上心を欠片も損なうことなく、保ち続けた。恐る恐ると尋ねるサーシャに、武は頷きを返した。

 

そこで、サーシャは207Bへの態度について、本当の理由を察した。武は、自分が誰かを守りきれるということを、信じていないのだ。いずれ、きっと失う。軍人として立つのであれば、戦場から遠ざけることが出来なくなる。だからこそ、任官に立ち塞がる壁となった。

 

「……情けないだろ? それに……恨んでくれていいんだぜ、サーシャも」

 

「え? な、どういう意味?」

 

「だって、さ………具合、良くないんだろ。多分……あの時俺が守れなかったせいで」

 

マンダレーの後、傷ついた身体に追い打ちをかけちまった。体調も、先日教えてもらった通りではないことを察していた武は、情けない表情で、泣きそうになっていた。

 

「ち、違う! それに、私は……!」

 

「……モトコさんに聞いてるよ。もって10年、なんだろ?」

 

「―――っ!? あ、いや、今のはちが……!」

 

慌てるサーシャに、武は顔を更に歪めた。

 

「嘘だよ、あの人が患者の秘密を漏らす訳ないだろ? 当てずっぽうでカマをかけただけだ……けど、近からずとも遠からずって所か」

 

武は目元を覆い隠して、体勢を崩した。だらしなく、椅子に体重を預ける形で腰元がずれていった。

 

「……すまん。ごめん。こんな、情けないものを押し付けるつもりはなかったんだが」

 

笑おうと、武は決めていた。笑みを絶やさないと、ずっと。悲しみや辛さを心に秘めて、その苦しみを誰に押しつけることもなく笑っている人に憧れたからだった。悲劇の主人公振るのも、禁じていた。自分だけが悲劇を背負っている、罪を背負っているという驕りを持っている人間が世界を救うなんて絶対に出来ない事を知っていたからだ。

 

だが、今の自分はどうか。武は目元を隠したまま、あまりの自分の情けなさを思い知り、動けなくなっていた。どうせ、みんな、という絶望に心を囚われたまま。

 

沈黙が、部屋の中を支配していく。その直前に、悠陽の呟きが武の鼓膜を震わせた。

 

「……情けない、という意味では私も同じです。仙台で、約束を交わした時に交わした言葉を、覚えていますか?」

 

悠陽は、武の軽口を真似しながら、当時のことを再現した。

 

「どうして俺だけが、こんなに辛いのにBETAふざけんな、無茶ぶりばっかりしてくる奴らに対してお前ら大人だろ、と聞かれましたが………否定できない思いが、ありました」

 

将軍になってから、その想いが強くなった。誰にも零したことのない本音の言葉で、悠陽は続けた。

 

「横浜に留まり、防衛戦に挑むことを決めた時も………ずっと、心の中では恐怖に震えていました。本当にこの決断は正しかったのか。もっと別の良い方法が―――いえ、それ以前にクーデターなど、事前に阻止できていればと、過ぎたことをグチグチと考えている自分がいました」

 

どうしようもない弱音を吐く自分が、頭の中に居る。愛する誰かを失い、泣き叫ぶ家族を幻視した自分が責めるように囁いて来る。

 

あまりにも多くの人が戦いに出る、そう考えれば避けられない光景ではあるが、それが当然のものだと悠陽は考えたくはなかった。

 

故に、納得することはなかった。もっと何か、別の。自分では考えつかないような、良い方法があったのではないかと考えてしまう。こんな小娘ではなく、他の者が将軍であれば―――そもそも、どうしてこの若輩の身で、と武の質問を肯定するような言葉さえ浮かんでくる時もあった。

 

それでも表に出すのは越えてはならない一線であると断じ、隠すことは出来たとしても、内心は情けなさでいっぱいになっていたと、悠陽は偽らざる本音を吐露した。

 

「それ以前に………明星作戦の後、貴方が死んだと聞かされた時です。ふと、何もかもを放り出して泣き叫びたくなりました。酷い、八つ当たりの言葉を……」

 

我慢できなかった分だけ、涙になって溢れた。それでも、一瞬だけ責務を忘れたと、悠陽は当時の自分を思い出しながら、俯いた。

 

「……そして、今も。情けないと自らを責める貴方の言葉を聞いて……安心している自分も居るのです。このままでは置いていかれると、そう思っていたから」

 

対等でありたいと思っていたのに、功績ばかりを上げるだけでなく、周囲から好かれる武の背中を見て、不甲斐なさを感じていた。笑ってくれてかまいませんと、悠陽は視線を落とした。

 

武は、何も答えず目元を覆い隠したまま。

 

それを見たサーシャが、私も、と呟いた。

 

「置いていかれたくなかった……身体が限界だって言われても、安全な場所に避難するのが怖かった。捨てられると、思ってしまったから」

 

ユーラシアで戦っていた時から、消せない考えがある。サーシャは、隊のみんなを疑っている訳ではないけど、と俯きながら話した。

 

「役に立たなければ、存在する価値なんてない……昔は、そうだった。そして、BETAと戦う場所でも、変わらなかった」

 

弱い者は死に、情けない死に様を晒せば罵倒される。勇敢に死ねば話は異なるが、その語り継ぐ誰かも死んでしまうことが日常だった。その中で、サーシャは1人になる事が怖かったと、肩を震わせた。

 

「みんなを、信じたかった……でも、頼り切ることが怖かった。繰り返しになることを、恐れてた……家族に売られた時と、同じように」

 

その過去は、自らに価値が無いことを証明するもののように思えた。今もずっと、とサーシャは拳を握りしめていた。

 

「寿命は……10年、あるかないか。それを伝えなかったのは、何か、望まない反応をされるのが怖かったから」

 

武のことは信じている。だが、他の者はどうだろうか。広まってしまえば、と心の隅に居る自分が囁くのだ。もう使い物にならないと思われてしまわないか。見放され、遠ざけられてしまわないか、と呟く声も。

 

そんな事はない、と反論する自分も居ることは確かだった。だが、捨てられた時の自分が否定するのだ。もう思い出せないが、手を伸ばした所で届かなかった事は覚えていた。自分から離れていく、母だった人は一度も振り返らなかった。代わりに笑みを浮かべる白衣の男の顔だけ。その時のどうしようもない感触が、心臓をぎゅっと押さえてくると、サーシャは自分の胸に手を当てた。

 

「酷い侮辱になることは分かってる……でも、こんなに弱いのが、私の正体」

 

情けない、人を疑う気持ちを捨てられない。故に割り切る部分があり、接した人の内心を慎重に観察しようとする。裏切られ、傷つくことが怖いから探るような真似をする。軽蔑されても仕方がないと、サーシャは呟いた。

 

「そう考えれば……武は強いよ」

 

「……俺が? 俺の、どこが強いって言うんだよ」

 

「だって、辛い記憶があっても、強くあろうとしてるもの。大勢の人を助けてるし、好かれてる。弱音を隠しながら、努力し続けてる」

 

「ええ……それに、武様以外の誰が記憶を引き継いだ所で、もっと良い未来が訪れていたとは思えません」

 

断言する2人に、武は肩を震わせながら答えた。

 

「そんな、訳はないだろ。そんな、根拠もない言葉を信じられるもんか」

 

「いいえ。根拠ならあります」

 

「そう。証拠は、眼の前にある」

 

悠陽とサーシャは言葉を合わせて告げた。

 

―――私が好きな人が成し遂げたことだから、と自信に満ち溢れた声で。

 

武はそれを聞いて、耳を疑った。いきなり、話が数段階すっ飛んでいったように思えたからだ。困惑する武を前に、2人は次々に告げていった。

 

「私なりに……ずっと、見てきた。ずっと前から好きだったから」

 

「私も……時間では勝てませんが、手紙を。心をこめたやり取りを、幾度もさせて頂きました」

 

それが理由だ、と2人は断言した。その論調は好きな人を欲目で見ているとしか思えなかった。

 

だが、反論はできなかった。無茶な理屈が真理であると説かれた結果、反論の糸口さえ掴めなくなったからだ。何を説いた所で、説得は不可能になった。

 

同時、武は「ん?」と呟き、黙り込んだ。

 

「―――って、え?! お、俺のことが好き、って言ったかいま!?」

 

「うん」

 

「はい」

 

こんなに情けない愚痴をこぼしているのに、と訴えかける武の言葉を一刀両断するかのような真剣な表情で、2人は答えた。この想いこそが唯一絶対に偽りのないものであると、心から信じ切った顔をしながら。

 

「……私自身、自分を情けないと思う機会は多かったし、思い出したくない記憶も多い。でも、確かに楽しい記憶も、嬉しい思い出もあるの」

 

1つは、ユーラシアでの戦いの最中、守りきることが出来た避難民の笑顔。

 

2つは、クラッカー中隊と過ごした日々。

 

3つは、横浜基地でのこと。

 

「その中でも、特別だったのは……私を助けてくれた時のこと」

 

必死になって這いずり回ったと聞いた。それ以上に、回復した時に見せた、喜びに打ち震えている武の様子が、どうしようもなく胸を締め付けたと、サーシャは笑った。

 

「こんなに、助けることを喜んでくれる………私に価値が無いなんて、欠片も思えなくなったんだ」

 

そこからだと、サーシャは語った。弱かった自分を見つめ直し、鍛え直したこと。A-01に入っても、他者を遠ざけることなく、溶け込もうとしたこと。前向きになれたのは、武が切っ掛けだったと。

 

そして、嬉しそうに華やかな笑顔で告げた。

 

「喜んでくれる―――大切にしてくれた。だから、思ったんだ。武が、私と出会ったことに意味はあったんだって」

 

嘘偽りのない、想いの丈を感じられた。弱い自分でも、大きく誇れるものが一つ出来たと嬉しそうに語るサーシャの顔は、武をして見たことが無い程に綺麗なものだった。

 

「私も―――私が、塔ヶ島城であなたの姿を見た時、どれほどに嬉しかったか、想像ができますか?」

 

出来ないでしょう、と悠陽は反語で断言した。もしかしたら、と思っていた縋るような気持ち。それ以上に、手勢を率いて誠実に、冥夜との間まで取り持ってくれたこと、その時の自分の胸中がどれほどの喜びで満ちていたか、理解はできないでしょう、と悠陽は断言した。

 

まるで、あの日の夜のよう。告げた言葉に、返してくれた答えの数々が、心臓の奥の奥の血液まで沸騰しそうなほどに、この身の熱を高めてくれたと、悠陽は少しだけ紅潮した顔で語った。

 

「誤魔化しの言葉を告げても、申し訳がなさそうに……私こそ、会わせる顔が無かったというのに」

 

その後の展開は、想像を越えていた。だが、思う限りの最善であったと、悠陽は確信していた。

 

「体調が悪くなったこと、その原因の一つとして、心拍数の増加という要因が確実に挙げられます……公には、できないでしょうが」

 

2人、密室の中。体調が悪い、鋭い気配が圧迫してくる、その次ぐらいには数えられる要因だっと、悠陽は困ったように言った。

 

「そして………以上が、私達の意見です」

 

「うん………その通り。私達の、本音」

 

―――死んで欲しくない。二度と会えないなんて、考えたくもない。

 

熱を帯びながらも、声を震わせながら、サーシャは立ち上がった。悠陽も同じで、光に引き寄せられるように、武へと近づいていった。つられて武は立ち上がるも、2人を制止することができなかった。

 

そのまま、3人は手を伸ばさずとも触れ合える距離となり。サーシャが、武の裾を握りしめながら、言った。

 

「こればっかりは、理屈じゃない………言葉では、上手く伝えられない。でも………死んで欲しくないの」

 

ぽたり、と涙が溢れた。武は、その言葉だけで胸が痛くなり。逆側から、悠陽の言葉がこぼれ出た。

 

「もう、耐えられないのです………たった1人、孤独の夜を過ごすのは」

 

知ってしまう前であれば、耐えられたかもしれない。だが、もう知ってしまった。肉を越えて骨に、魂にまで染みた今では手遅れだった。傍役は居る。頼れる仲間も居る。そんな理屈を越えて、武という存在が消えた先の未来が見えないと、2人は泣いていた。

 

「多くは、望みません………でも、二度と会えなくなるのは。あの時のように、どうしようもなく絶望するような……それだけは、どうか……っ!」

 

ぽたり、ぽたりと涙が落ちていった。武はそんな2人の様子を見ながら、どうして、と呟いた。

 

「俺は、そんな……情けない本音を聞いただろ? なのに、どうして……」

 

「―――好きだから、です。そんな風に弱い自分を認めながらも、諦めることなく強くあろうとする貴方が」

 

「―――そして、どこまでも優しい。優しくあろうという心を重ねながら、人の心の裏を知った上で、信じよう、信じたいという気持ちを捨てないタケルだから」

 

強い弱い、逞しい情けない、立派だの情けないだの、そういう理屈を全て置き去りにするぐらいに。焦がれるのでは済まない、焼ける程に愛している。物理的に熱量が生まれそうなぐらいの言葉で、サーシャは言った。

 

「どうしようもなく、抱きしめたい。抱きしめられたい。口付だけじゃ、足りない。布越しなんて冗談じゃなかった」

 

皮膚さえも邪魔だって思うのに。ただ直に彼に触れて、心臓の音に浸りながら私の奥まで貫いて欲しい。告げると共に、武の服の裾を強く握りしめながら、その顔を見上げた。

 

「戦場に出るのです。確約など、望める筈も無いでしょう―――ですが」

 

「精一杯に生きて、どんな手を尽くしても此処に帰ってくる。その約束だけはして欲しいの」

 

私達じゃなくていい、生きて再会できるのなら、そのためなら何だってするから。希うを通り越して、懇願でも足りないと思えるほどに。縋る気持ちを受けた武は、2人の想いがストンと胸に落ちた音を聞いた。

 

(情けない姿を。弱い所まで全て、見たっていうのに)

 

だけど好きだ、と言われては否定する言葉が浮かばなかった。その必然性も、見当たらなかった。ただ、どうしようもなく、切に、切に、ただ死んでほしくないと願っている。懇願する2人を前に、武は絞り出すような声色で答えた。

 

「約束は……やれることはする。でも確証はできない。なんせ次に挑むのはオリジナル・ハイヴだ。死ぬ確率は今までの比じゃない……それでも、良いのか?」

 

「うん―――必死に生きようとした結果なら、誰も文句は言わない」

 

「ええ―――無茶な要求は、二度としないと決めましたから」

 

ただ、悲しみの中で死んで欲しくはない。望むのなら、その先まで。2人の素直な言葉を聞いた武は、それこそ無理難題だろ、と呟くも、本人は気づかないまま、口元は笑みの形に緩まっていた。

 

「今更だけど、本音を言うとな。俺は2人と会うために走ってたんだよ」

 

振り切れない未練である、会えなくなると思うだけで寂しくなる女性。そう問われて、思い浮かんだのがサーシャと悠陽だったと、武は告げた。

 

「迷っていた……けど、ひとまずは置いておくことにするよ。こんな情けない俺を、必要とするどうしようもない奴が居るって知れたからな」

 

言い訳をするように、言葉尻になるほどに小さい声で。

 

「その……不誠実だと言われても仕方ないけど。俺も、2人の事が好きで……どうしようもなく会いたくなってたから」

 

照れを隠すような仕草で告げられた2人は、顔を見合わせた後、静かに頷きあった。夕呼が居れば、頭を抱えながらそれはトドメの一撃でしょ、と笑っていた事だろう。

 

そんな急所を突かれた2人は、ひょっとすれば世界一の速度で、武の両腕を拘束した。

 

「知っていますか、武様―――約束には手形が必要ということを」

 

「もう絶対に離さないから―――後悔しても、遅いよ?」

 

押し付けた胸が、腕で潰れて半円を描く程に強く。武は何時以来だろう、心地よい感触を堪能しながらも、開かれた掌で2人の腰を掴みながら告げた。

 

 

「もう遅いのは2人の方だって―――逃さねえから、覚悟しといてくれよ」

 

 

諦めていた先の、生への渇望。目を背けていたからこそ衰えていた三大欲求の一つ。

 

それが再び煮えたぎる音が、物理的に聞こえてもおかしくないぐらいに、熱くなった本能が武の中で燃えたぎっていた。

 

 

「―――先に、謝っとく。プッツり、来ちまった。途中で、もう許してくれって言われても逃さないからな?」

 

 

出会えたことに意味はあったと、確信を抱きながら。弱い自分でも愛しているとか言われたら、我慢の限界だと呟いた武は、自分を押さえ込む腕ごと、持ち上げるような。

 

そんな力強い決意と共に武は2人を抱えると、部屋の奥にある白いシーツに包まれたベッドに向かって、静かに、確かに歩き始めた。

 

 

 




あとがき

弱さを認め、吐き出すこと。即ち、これ勇気と言う也。

翼広げんと、両腕を解放する。即ち、誰かを抱きしめようとする所作也。

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