「んっ……」
そんな声をあげながら、目の前の少女、フルローナ・フレス・ディヴァイニスが目を覚ます。寝ぼけたような声を出しながらのご起床とはなかなかのんきなものだ、と男は内心鼻で笑う。決して気持ちのよい眠りではなかっただろうに。
目を覚ましたローナは立ち上がろうとして、縛られた腕に引っ張られるかのように再び椅子に座ることとなった。その後何かを思案するような顔で辺りを見回したかと思うと男に気づく。
「目は覚めたか?」
「えぇ」
案外落ち着いた声であることに男は少しだけ驚いた。この落ち着きはその賢さからくるものなのだろうか。
とはいえこの少女は齢14。自分を落ち着かせるために無理に落ち着いたふりをしているだけなのだろう、と男はローナを観察しつつそう判断する。
ローナはしばらく何かを考えたあと口を開いた。まだまだ状況判断も甘い、と見ていいだろう。
「あなたの目的は?」
「まぁそう急くな。まずはあたりをもう少し観察してみてはどうだ? お前は賢いようだが一つの物事に集中しすぎるきらいがあるようだ。そうでなければ背後からの奇襲にもこれほどまで綺麗にはまることもなかっただろうに」
そう言われてローナはあたりを見回す。男は思わず鼻で笑いながら「素直な奴だ」と言ってしまった。
その言葉を受けてこちらを睨む余裕くらいはまだ、あるようだ。
クライアントの依頼は、率直にいって非人道的なことすら要求していると言ってしまって良いものだった。著しく自我を傷つけないなら何をしてもいい。それはつまり軽い拷問や洗脳なら行って構わないと言外に言っている。
とはいえそんな方法は男の好みではなかった。手を縛るという行為もそうだし、そもそもさらってくるときに殴る、という手段もあまり取りたくなかった。やむを得ずというやつだ。
ではどうやってローナを操り人形にするか。男の取ろうとしている手段、それは、自我を著しく傷つけない範囲でローナの心を折り砕くことだった。
男の見立てではこのローナという少女、芯が強く、人に対して毅然とした態度を取ることが出来る人物だ。だからこそ一度折ってしまえばあとは素人でも、言ってしまえば、操ることが出来るだろう。
男がそんなことを考えている間にもローナは辺りを見回し男が置いておいたずた袋を見つけたようだ。それを見て男はローナに声をかける。
「あのずた袋が見えるか? あの中には何が入っていると思う?」
と、言っても1メートル少しほどのずた袋、というくらいしか特徴のないずた袋だ。中身を当てることは出来ないだろう。理不尽な問いに嫌そうな表情を浮かべるローナを見て、男は続ける。
「まぁ、わからないか。まぁそうだろう。話は変わるがお前の妹、なんと言ったか? ラリルレロ? ライラック? あぁいや、そうだ思い出した」
男は凍りついた表情を浮かべるローナを見もせず、わざとらしく手を打った。
「……マリー、とか言ったな。妹は元気か?」
「なっ……マリーに何を!」
「いいや、聞いただけだ。世間話のようなものだよ」
実際にずた袋に入っているものは赤い水の入った袋であり、ローナの妹であるマリーは入っていない。マリーは今の時間、しっかりとフィンランドの学校でテストを受けている最中である。
しかしハッタリの手札もダウトと言われなければハッタリではなく一枚のしっかりとしたカードとして扱うことが出来るのだ。男はローナの精神を揺さぶる一つの手札としてこのずた袋を用意していた。
ローナも唇を噛みながら、何かを考えていたようだ。さて、大人と子供の、ちょっとした腹の探りあいの始まりである。
「じゃあもう少し世間話をしようか」
「レディを縛るような世間の話はあんまり聞きたくないですよ?」
「まぁそう言うな、少し聞け。……ここに一丁の拳銃がある。何に使うと思う?」
「いきなり拳銃がご登場とは、なかなかダークな世間の話をしてくれるものですね。ふむ、私を脅してなんやこら、じゃないですか?」
「ほう、そうだな。正解だ。きっとなんやこらの内容もわかっているだろう?」
間違ってはいない、という意味の正解であるが。その言葉を受けてまたローナが少し考えて、少しして顔を上げる。
「世間話、というからにはもちろん私も喋っていいですよね?」
「もちろんだとも」
「ありがとうございます。……あなたは、ヴィーザル社からオラクル細胞を奪ってくるように言われましたね?」
それを聞いて男は少し驚いた。結論に達するまでの思考が早いし、何よりも正解だ。とはいえこちらが少し驚いた様子を見せた時に口角が少し釣り上がるのを見ると、やはり子供だという印象を受けざるを得ない。
「ほう、なるほどお前は賢いのだな。賢く、素直。容姿も端麗。祭り上げるのには持ってこいの人材なわけだ」
男は心底バカにしたような口調でローナに言った。煽り口調ではあるが、煽り口調過ぎてむしろ煽りにならないほどだ。
「別に私としてはフェンリル社に利用されているつもりはありません。あくまで協力、手助けしていただいているものと思っていますし、もし利用されているだけだったとしても特に何も思うことはありません」
だからかどうか、正確にはわからないが、男の言動に対し毅然とした対応をしてきたのは、素直に褒められるべきだろう。そして男は狙い通り、それなりに芯が強いということを今ここで確信することもできたわけである。
「ふむ、それなりの芯も持つ、か。この程度の煽りではヴィーザルになびかん、と」
「誰が
今度は私の番、とでも言わんようにローナが男を煽ってくる。とはいえ先ほどの男同様煽る気が感じられすぎてむしろ煽られる気にならない。だがまぁ煽りには乗ってやろうとちょっとした遊び心で男は返事を返す。
「だがその
「あら、そうでしたかしら? 神話はあまり詳しくないものでして」
「ふん、まだまだ子供、だな」
「……」
少し素直な感情が出てしまったがまぁ大丈夫だろう。しかしローナの今の煽りの目的はなんだったのだろうか? この少女は今自分から何か情報を引き出したのか? ローナが、自分のことをただ単に子供心から煽ってきたとは思えない男だったが、大局は変わらないと見て男は途切れた会話を再開した。
「話が途切れてしまったな。さて、では本題に入る前に先ほどの質問の答えを聞こう。私が持っているこの銃の銃口。これは何に向けられるものだと思う?」
そう言って男は扱い慣れた風で銃をクルクルと回した。
「……私、じゃないんですか? まさか自分ということは無いでしょう?」
「当たり前だ。自殺志願者以外で自分に銃を向ける輩などいるわけがない」
そうとも限らないのかもしれないが。
「じゃあ正解を教えよう。この銃の銃口はこの転がっている袋に向ける。そしてその上で、私はお前と交渉をしたい。フルローナ・フレス・ディヴァイニス」
「私と、ですか。フェンリル社と、ではなく?」
「それについてはおいおいだな。まずはお前とだ」
案の定ローナは釈然としない顔をしている。なぜ自分を人質にフェンリル社に対して交渉を行わないのかが不思議なのだろう。聞かれたとしても、クライアントの指示だから、としか言えないのだが。
「何も言わないなら私の方から要求を言わせてもらうぞ。私の要求はオラクル細胞……といったか。その細胞について現状判明している情報、そしてお前が私のクライアントの指示を聞くようにさせること、だ」
「クライアントの指示を聞くようにさせること……?」
「あぁそうだ。言葉を選ばずに言うのなら、お前を、なんでも言われたとおりに行動する操り人形にでもしろ、という依頼を受けたのさ。そしてこの方法については、自我を著しく傷付ない方法なら何をして良いとも言われている」
「……拷問でもする気ですか?」
「声が震えているぞ」
それはそうだろう、と男はローナの不運を思う。賢い少女ではあるが、ローナは特段修羅場をくぐっている、というわけではない単なる少女なのだ。当たり前のように怖い、のだろうとは思うがこれもクライアントの依頼のせいだ、まぁ恨むなら恨め、と決め手の言葉を男は放つ。
「まぁ私とてそんな鬼畜生ではない。だからこそこのずた袋なのだよ。さぁその上でもう一度聞こう。お前の妹は今元気か?」
即ち、いつでもずた袋を撃つ準備はできている。それでいてお前が痛い目を見るかどうかはお前次第だ。さぁヴィーザル社に与するか?
男の読みとしては、ローナが妹(ずた袋)を犠牲にするという選択肢は選ぶわけがない、と考えていた。それは家族愛だとかそういう次元でもそうだが、妹を切ったとしても現状、得が無いことにこの賢い少女なら気づいているだろうと思っていた。だからローナの口から出る言葉は、条件の交渉か、もしくは了承。この賢い少女のことだからどこか食い下がるだろう、と男は踏んでいたが。
「……妹は元気でいてほしいですね。で、それはさておき、さっきの話です。オラクル細胞とその情報、そして私がヴィーザル社の言うことを聞く、という話でしたね? 了承します」
ふむ。少し意外だった。
「もう少し条件やら何やら交渉をすると思っていたのだが意外だな」
だがしかし。
「まぁ何をするまでもなくこちらの要求を飲んでくれるならこちらとしては何の文句もない」
さて、これからが男の肝。本格的にローナの心を折る行為。
男は立ち上がり、銃を構える。
ずた袋に向かって。
「なっ……!」
「どうした? このずた袋はもう要らんからただ処分するだけだ。黙ってみていろ」
「やだ! 待って! やめて! ちゃんと言うこと聞くから! 裏切ったり隠し事したりしないから!」
「ん? 何か言ったか?」
あえて何の感情も篭っていないかのように言葉を放つ。ずた袋の中に入った色水入りの袋を撃つだけの行為なのだ。実際、感情を込めずに引き金を引くことなど簡単だった。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
銃声とともにローナの悲痛な叫びが響く。
「マリィィィィィィィ! あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ! あぁぁぁぁ……。マリー……。マリー……」
これでおそらく自分の仕事は終了だ。しばらくは錯乱しているかもしれないが、少しすればすぐ忘我状態になるだろう。そうすればあとはもう洗脳するまでもない。ヴィーザル社の方で甘いことでも囁いてやればいい。簡単な事だ。
そして、未だ立つ拳銃の硝煙を左手で仰ぎ消そうとした時はじめて、男は自分の左手が無いことに気がついた。
マリー! マリー!
叫んでいるつもりなのに声は出ていなかった。ずた袋に銃弾が命中し、ずた袋の中から赤い液体が流れだす。それは、おそらく『そういうこと』なのだろう。それは大量に流れ続け、すぐさまローナの靴さえも濡らし始める。ぴちゃり、というその音は『そういうこと』が起こったのだ、と一層ローナに耳打ちしてくるようだった。
わけがわからなかった。なぜこんなことになっているのだ? 私がオラクル細胞を見つけてしまったせいなのか? そのせいで妹は、マリーは殺されたというのか?
もう何もかもどうでもいい。そうやって思考を捨ててしまおうとした時にそれを留めたのは頭のなかに響く声だった。
声が聞こえた瞬間、ローナは流れる時間が遅くなったのを、確かに感じた。
『おい、おい!』
あなたは……誰?
『さぁーなぁ。名前なんてねぇよ、勝手に呼んでくれ』
そっか。
こういう時に声をかけてくるのは善神や天使ではなく、悪神や悪魔の類だと相場が決まっている。悪、悪……。
じゃあロキで。
『ほぉー! ご大層な名前付けてくれるじゃねぇか。いいぜ気に入ったロキって呼んでくれ』
で、ロキはどうしたの? 誰? というか何? 何で私の脳内に直接語りかけてるの?
『なんで、と言われても、精神的に死にそうだったから、としか言えねぇな。あとオレはお前がオラクル細胞って名づけたアレだ』
は?
オラクル細胞がなぜ私の脳内に語りかけてくるんだ?
『詳しい話をしてやろうか? 今のお前さんの精神状態じゃオススメしねぇが』
じゃああとで聞かせてよ。
『あぁいいぜ。で、だ。お前さんどうするんだ? この状況は』
どう……って?
『詳しい話はあとで、っつったがお前さんにはこの現状を十分打破できるだけの力があるんだよ。いっちまえば目の前のアイツをぶっ殺して逃げちまうのもありなわけだ。どうだ? お前さんの中にあるのは絶望だけか? よく探してみろ。ほかに湧き上がる感情はないか?』
言われてみれば今感じているものは絶望だけではない気がする。これは……そうだ。怒り。憤怒。憎悪。
私は……この男が憎い。ヴィーザル社が憎い。殺してやりたい。挽き潰してやりたい。
『そうだな、その感情だ。試しに目の前の男にその殺してやりたいって感情をぶつけてみろ。誰もお前に文句は言わない』
出来る……ならやってしまおう。そうだ。殺してしまおう。挽き潰してしまおう。食らってしまおう。
カチリ、と時計が動き出すような音と共にローナの真っ青なその髪の毛が唸りをあげ、薙ぎ払うように男の左手を捉えた。
次の瞬間男の左手があった場所には、元より左腕など無かったと言わんばかりに、ただ空気だけが居座っていた。
「なっ……!?」
自分の左腕の突然の消失に焦りを隠せない男。
見るまで気が付かなかった。出血もしていない。傷口から脳みそに叩きつけるかのように響くはずの痛みも感じない。だから自分の左手が今そこに存在していないことに気がつくことが出来なかった。なぜか、などというのはわからない。一つ確かなことは、現状が常識で測ることが出来る状況ではなく、ともすれば、自分が殺されたことにすら気が付かずに、殺されかねない場面だ、ということだった。
(クソっ! なんだこれは!? この髪の毛は! ヴィヴァイニス家やこいつについての情報は受け取る以外でも俺が自分で納得がいくまで調べたはずだ! その中にこんな、こんな異様なものはなかったぞ!)
とにかく自分の身を守らなくては。ディヴァイニスをさらった時点で指定した口座には入金がされているのだ。無理に欲をかいて報酬を増やす必要など無いし、報酬が支払われているのだから、この少女を殺して、ヴィーザル社の目が届かない場所に飛んでしまえば、自分はこの一件との関わりを断つことが出来る。
受けた仕事は最後までやり切るのがポリシーではあった。しかしそのポリシーに殺されるというなら、そんなポリシーはいくらでも投げ捨てられるように生きてきたのだ。生きるために仕事をしてきたのなら、その仕事に殺されては元も子もない。
だとしたら男の取る選択肢は一つだった。
ローナの頭を正確に狙って銃を構える。そしてまた装填されていた銃弾が、無くなるまで引き金を引き続けた。
この場において、男の一番大きな間違いとは、フルローナ・フレス・ディヴァイニスに手を出したことである。そしてその次に大きな間違いがあったとしたら、それはこれだった。即ちローナの頭を狙ったことである。
現状、脅威なのはローナのその青い髪の毛だ。その髪の毛が男の左腕を消し去ったことは男も認識していた。
ここでもし男がローナの足などを狙って行動を阻害する、などといった行動を取っていれば、あるいは、男は死なずに済んだかもしれない。
銃弾は正確無比な狙いを以てローナに迫る。しかし、放たれた数発の銃弾はすべてがすべて、その髪の毛によって、消失、してしまった。
その信じがたい嘘のような光景が、男がこの世で見た最後の光景だった。
男の左腕を、舐める。銃弾を放ってきたから銃弾を、食らう。そして驚愕の表情を浮かべた男を食い尽くした後のことを、ローナはよく覚えていなかった。何かよくわからない満腹感のようなものを覚えつつ、どこかで間廊を見つけ、それを通ってどうにかこうにか我が家まで帰り、ベルを鳴らしたところで、ローナの意識はぷつりと電気の電源を切ったかのごとく途切れていた。