真・恋姫†無双 北郷一刀・商人ルート 天下も金の回りもの 作:MATSUKASA
『走れ、阿蘇阿蘇編集部』 (一刀・楽進・于禁・李典)
”阿蘇阿蘇”
それはこの外史において、一刀の発案の元、発行されたファッション誌である。
自身の商会で売る服の周知・宣伝を目的として作られるこの雑誌は、特に若い女性を中心に受け入れられ、着実に発行部数を伸ばしてきた。
そんな阿蘇阿蘇を作る側の人間、一刀と従業員たちは今、洛陽の商会の一室に集まっていた。
卓に座る彼らの表情は深刻である。これから行われるのは、そんな阿蘇阿蘇の編集会議である。
「忙しい中、今日集まってもらったのは他でもない……次回の『阿蘇阿蘇 特別号』について諸君らの意見を聞きたい」
神妙な顔で、この場にいる者たちの顔を見渡した後で、一刀はそう切り出した。彼の言葉は、ここにいるもの皆にとって周知のことであり、特に驚かれる様子はない。
「先の大乱で落ち込んだ売り上げは少しずつ回復しつつある…………しかしだ。俺たちに求められるのは単に以前の売り上げを取り戻すことではない。それすらを越えていかなければならない」
緊張した雰囲気の中、一刀は自身の考えを告げていく。
「そして、その成功には阿蘇阿蘇による宣伝が鍵を握っていると俺は考えている。今日は是非、君らの忌憚ない意見を伺いたい」
そう、乱が一時的とはいえ鎮静を見た今、一刀が目指すのは原状回復の復旧ではなく、それを超える復興なのだ。
この難事ですら乗り越えて、さらなる事業の飛躍を図ろうと彼は思っていた。そして、それには阿蘇阿蘇の力が必要だとも考えていた。
マーケティング戦略は、ビジネスの成功を左右する。ここで、一度離れた民衆を再度、服に興味を向かせるには徹底的な宣伝戦略が必要であり、阿蘇阿蘇はその中心となるものなのである。
この一刀の考えは、この場に揃った者達にとっても同様のものであり、彼らも皆、一刀の言葉に深く頷いた。
「一刀殿の仰ることは理解できます。そうなると……ここは私たちが新たに得た”手札”を、最大限に活用することこそ肝要かと思います」
「でたな……いきなり妙案……!」
一刀の言葉を受けて、楽進が自身の考えを口にした。そして一刀はそれを大げさに肯定した。
こうした会議において、最も大事なことはとにかくアイデアを出しまくることである。それを一刀は理解していた。
故に、彼はとにかく褒める。褒めて褒めまくることで会議の議論を活発にすることこそ、司会である己の役目であるのだ。
「文謙の案は尤もだ。俺たちは今、手の中にこれ以上なく客に訴求力がある人物を抱えている。これを使わない手はない……次回の阿蘇阿蘇は”張三姉妹”を全面的に押し出す形にしていきたいと思う」
そう、以前はなかったが、今の一刀たちが持つ強み、それは張三姉妹という最高のモデルを持っていることである。
これを使わない手はない。それは一刀とて楽進と同じ考えであった。
張三姉妹は救出以後、一刀たちの保護下に入り、今は商会公認アイドルという形に収まっている。
勿論、彼女たちの抱える事情もあって今はまだ各地に興行するようなことはできていないが、この洛陽近辺で少しずつその活動を再開していた。また、彼女たちの興業と情報の管理は、衛弘自身が行っているため、間違っても以前のような惨事が再び起こるようなことはないだろう、と一刀は思っていた。
「しかし、その為には彼女たちの魅力を最大限伝えるため……あいつの協力を得なければいけない……。それが今日の会議の主題といっても過言ではない」
認識が共有できたところで、一刀は本題を口にした。
確かに、張三姉妹が持つ魅力は圧倒的である。彼女達が服のモデルとなってくれれば衆目を集めることは可能である。
しかし、それにはどうしても解決しなければいけない課題があった。
”彼女達の魅力を余すこと無く伝える絵”が必要なのだ。
いくら底知れぬ魅力を持つ彼女達とは言っても、それを大陸に広める手段である”絵”がお粗末では、何の成果も得られない。一刀が懸念するのはそこであった。
「んー、子許様に書いてもらえれば万事大丈夫だと思うけど、すんなり引き受けてもらえるかは疑問なのー」
勿論、それを解決する案は存在するが、それを実行に移すために問題があったのだ。于禁が口にしたことである。
衛弘の画力があればこの問題は解決できるだろう。彼女が描く精緻な絵ならば、十二分に三姉妹の魅力を読者に届けることができる。
しかし、それを実行に移すには不安な点があるのだ。于禁が言うように、それを彼女が引き受けてくれるのかどうか、それが問題であった。
元々、阿蘇阿蘇が発刊した当初、絵の描き手は人材の不足もあって衛弘1人が担当していた。
ここで考えてもらいたいのがその時の彼女の仕事量である。
この時代には一刀がいた現代のように便利なコピー機などはない。当然、全ての絵は手書きになる。
阿蘇阿蘇は発刊からすぐに人気を博し、その部数を伸ばしていったが彼女はそれをほとんど1人で担当していたのだ。来る日も来る日も、同じ絵を描き続けた彼女。非常に描くのが早いとはいえ、それでもまさしく苦行ともいえるものであった。
発刊から1年くらいが経った時、ついに彼女は限界を迎えた。「趣味は仕事にしちゃだめなんだー!」という言葉とともに、彼女は筆を叩き折りついには執筆を投げ出したのであった。
その後は一時的に休刊を挟み、その間に各地から絵の腕に覚えがあるものを雇い入れたり、一刀の発案で版画式を導入することで再刊を果たすことになった。
彼女はこの時のことがトラウマにでもなったのか、阿蘇阿蘇の話題になると常の明るさは消え、わなわなと震えだすようになってしまった。
その為、再刊以降は彼女が阿蘇阿蘇に寄稿することはなくなっていた。
一刀も彼女を思い、それ以降はできる限り自分でこの雑誌に関してのことは取り仕切るようにした。
しかし、今回はそんな事情を押してでも彼女の絵が必要である。”どうにかして彼女に再び筆を執ってもらわなければいけない”。それがこの会議の主題であった。
「確かに、子許様の過去のご苦労は存じておりますし、それを伏せてのお願いは難しいですね」
「ゆーても、大将はんに書いてもらわんとあかんのは事実やろ」
楽進と李典も口々に意見をいうが、結論は出ない。
その後も会議は”どうやって衛弘に絵をかいてもらうか”という議題について様々な意見が出たが、妙案は出てこない。
会議は踊る、されども進まず。
終いには、
「どこかの部屋に子許様を監禁し、そこで書いてもらうというのはどうでしょう?」
「それなら、うちが発明した『拘束椅子くん 3号』に縛り付けて、凪が監視につくようにすればいけるかもやな」
かなり物騒な意見も飛び出すようになった。
「それに、秘蔵されている名酒を質としてこちらで抑えれば、抵抗もできないかと」
「うちも、一定時間筆を執らなければ拷問を加えるように椅子を改良せなあかんな……」
かなり過激な意見であるが、手詰まりにも思える現状、彼女達がいう実力行使も止むを得ないのかもしれない。今回のことは商会の為に必要なものであるのは事実なのだから。
そう、一刀が思ったところで2人の意見を聞いていた于禁が声を上げた。
「それは、子許様がかわいそうなの。というよりも、今回のことは必要なことなのだから、店長が事情も全て説明して、正面からしっかりお願いすれば子許様も断らないと思うのー」
「「「あっ!」」」
期せずして3人の声が重なった。
彼女の言うことは尤もであったのだ。衛弘は何もわがままな人物ではない。
彼女の言う通り、きちんと事情を踏まえて正面からお願いすれば、いくらやりたくないといっても無下にはできないだろう。それにちゃんと、その見返りも用意してあげれば尚更だ。
3人は、自分達が視野狭窄になり、そんな単純なことすら失念していたことを恥じ入ると、彼女の方針を採用した。
そして無事に、一刀がしばらくの間、衛弘の飲みに付き合うことと引き換えに彼女の執筆の了承を得ることができた。
そして彼女の絵を表紙にして発行された阿蘇阿蘇の最新号は、”あの「子許ちゃん♡」先生が復活!!」”という見出しと美麗な三姉妹のイラストで大きな話題となり、商会のさらなる知名度の向上に寄与したのであった。
『筆頭軍師の商人体験記』 (一刀・桂花・衛弘)
「それで、一体誰が来るっていうんだ?」
「それは来てのお楽しみだよ! まぁ、優秀なのは間違いないし、中々に面白い子だからね。期待してくれたまえ!」
ある日、衛弘は突然一刀を呼び出すと、「今からここでしばらく働くことになった子が来る」と告げた。そして、その子が来るからと一刀を誘い、こうして2人は洛陽の店の前でその人物を待っていた。
一刀には彼女の言う人物か誰か、皆目見当もつかないが、彼女がこうして楽しそうにしているときは大体ろくな目に合わないことだけは分かっていた。
「燕がそういうと俄然、不安になってくるのだが……」
「全く、信用がないなぁ……おっ、来たみたいだ! おーい! 桂花ちゃーん、こっちこっち!」
苦笑いしながら衛弘はそう言うと、両手を大きく振りながらそのお目当ての人物の名前を呼んでいた。
つられて一刀がそちらに目を向けると、こちらに向かってくる1人の少女の姿が見える。おそらく彼女が、しばらくここで働くという人物だろう。
その少女は、遠目であるが少し小柄な体躯、衛弘と同じくらいの背丈で頭に何やら猫耳のようなものを被っていた。
(ん? なんだあの服は?)
一刀が最初に抱いたのはそんな疑問であった。
「ちょっと! こんな街中で、大声で真名を呼ばないでよ! それに店の場所くらいわかっているから態々、出迎えなくてもいいって言ったでしょ!」
「ダメと言われると無性にしたくなる、それが人の性なのだよ……」
猫耳の少女は、来ると同時に衛弘に食って掛かる。しかし、そんなことを気にする女ではない。彼女は意味深な顔で、人としてどうなのかと言いたくなるようなことを宣って、まったく堪えた様子ではない。
「しかし、まさか桂花ちゃんがうちの手伝いをしてくれるなんて思わなかったよ! 今は忙しいところだから、猫の手も借りたかったんだ!」
「誰が猫よ!! 私だって好んで手伝いに来たわけじゃないわ。華琳様が西園八校尉に任命されて、都に行くことになったから付いてきたというのに……どうして商人の真似事なんかしないといけないのよ」
歓迎する衛弘とは対照に、不本意だといった様子の彼女は荀彧、字は文若である。
曹操の軍師であるはずの彼女がどうしてここにいるのかは、彼女の主君、曹操が黄巾の乱の功によって新たに、西園八校尉に任命されたことに起因していた。
西園八校尉とは、黄巾の乱の発生を重く見た大将軍の何進が皇帝に、「直属の護衛軍を創設するべき」と上奏したことによって新たに置かれた官職である。
一応、形上は皇帝直属の軍となる西園軍の指揮官であるのでそれなりの地位であるといえる、この新職に曹操は抜擢されたのである。
当然、そういった名目があるので彼女は任命されてから、この洛陽に移ってきていた。
しかし、この西園八校尉という役職、目的は大層なものを掲げていたがその実は杜撰なものであった。
八将のトップには皇帝の寵愛を受ける宦官が据えられており、また曹操と仇敵の袁紹が彼女の上の位につくなど、おおよそ協調できるような体制とは言い難いものだった。
この西園軍は乱れた天下に今一度、王朝の威光を知らしめようとの意図で、閲兵式まで行い、大々的に設置された。しかし、各地の黄巾党の反乱も諸侯の活躍で下火になった今、特に敵対するような相手もなく、名ばかりの軍になっているのが現状であった。
半ば、名誉職になったこの校尉に就いた曹操がすることと言えば、毎日おべっかを遣いにやって来る貴族達を相手にするくらいのものである。
いざ、出世をして都に来てみればこの体たらく。曹操は非常に腹立たしく感じた。
しかし、一応は皇帝直属の臣である為、この仕事を放り投げるわけにもいかない。
そこで、彼女は自分はこのくだらない仕事をするのは仕方ないと我慢したが、大切な家臣までそれをさせる必要はないと判断した。今後のことを考えればするべきことは山のようにあるのである。
曹操はそう考えて、夏侯淵だけを自分の補佐に残すと、他の家臣たちには各々、今後に向けて牙を研ぐように命じたのである。
そんな経緯の結果、荀彧はここに来た。
なんでも、「桂花、あなたはしばらく燕のところに行きなさい。今後のことを考えるとあの子とのつながりは強固にするべきよ。それに、あそこならこの大陸各地の現状をよく知ることもできる。それは私の覇道に必ず役に立つものよ」、とのことである。
不本意な役目ではあるが、自身の敬愛する主君にこう言われては荀彧に断るという選択肢はなかった。
衛弘には曹操から話を付けておくということで、彼女はこうして商会でしばらくその手腕を振るうことになったのである。
「華琳ちゃんも災難だねー……、ここには権力に媚び諂う輩はわんさかいるから、無駄に忙しそうだ。まぁ、兎に角、私は桂花ちゃんを歓迎するよ!」
「一応、華琳様のご命令だもの、私としてもちゃんと働くつもりよ。それで? 私は何をすればいいのかしら?」
彼女がここに来ることになった経緯を聞いた衛弘は友人の境遇に同情を示しながら、改めて大きく腕を開きながら歓迎の意を荀彧に伝えた。
荀彧としても、主命である以上、中途半端なことをする気はないようである。早速、自分の仕事について聞く。
「とりあえず、桂花ちゃんには一刀の補佐について支店の状況把握や今後の指示を手伝って欲しいかな」
そんな覚悟で聞いた荀彧も、続いた衛弘の言葉には大きく反発する。
「はぁぁ?! なんで私がこんな愚図な男の補佐をしないといけないの?! 私は燕様につけって華琳様に言われているのよ。間違ってもこんな男の下につくなんて御免よ!」
言っておくが、一刀と荀彧はこれが初対面である。まさかこんなひどい言われようをすると思わなかった一刀は、少し困惑する。
しかし、すぐに目の前の少女があの”王佐の才”であるならこの言い分も仕方ないのか、と自分だけが持つ知識でその心を抑えた。
「……桂花ちゃん。私につくってことはその指示には従ってもらうことになる。もし、どうしても一刀の補佐が嫌というなら、無理は言わない。すぐに華琳ちゃんのところに帰るといいさ」
「うっ!」
反発する荀彧に衛弘は、これは冗談ではないよという様子で短くそう告げると、荀彧は押し黙る。ここでは彼女の言うことが尤もであった。
荀彧は暫し悩んだ後、一刀の補佐につくことと曹操から失望される事の2つを天秤にかけ、苦渋の思いで前者を受け入れた。
「……荀文若よ。業腹ものだけど、あんたの補佐についてあげるわ」
「あ、ああ、燕も言った通り、今はすごい忙しいから助かるよ。暫くの間だけどよろしくな」
不承不承といった様子の荀彧に一刀は何とか平静を保ちつつ、握手をするように片手を差し出した。しかし、その手が握られることはなく、荀彧はさっさと店のほうに入ってしまう始末である。
とんでもないことを押し付けられた気分になった一刀は縋るような思いで衛弘を見るが、彼女は「まぁ頑張りたまえ」と助けてはくれない様子であった。
こうして、一刀と荀彧の奇妙な協力関係が始まったのであったが、前途多難な初対面に今後のことを心配する一刀であった。
そうして幾日かが経った。
最初の出会いの時は、大いに心配した一刀であったが、やはり荀彧の手腕は凄まじいものであった。すぐに、商会の仕事を覚えた彼女は遺憾なくその手腕を発揮し、補佐についてから一刀の仕事のスピードは大きく向上した。
一刀の心労と引き換えにではあるが。
「ちょっと、あんた! 何よこの報告書!? 数字がズレてるじゃない、よくこんなものを決裁したわね」
「……すみません」
ある時は、仕事のミスをなじられた。
「なによこれ?! 報告書の綴じる順番がめちゃくちゃじゃない! こんなんじゃ後から見返すときに分かりにくいわ。 直しなさい!」
「……すぐにやります」
またある時は、きつい口調で業務の改善を指示された。
「ちょっと、それ以上近づかないでくれる? あなたと同じ部屋の空気を吸っているだけでも譲歩をしているのに、これ以上はできないのだけど」
「……これは、完全に俺は悪くないよな」
理不尽な罵倒を受けることも、茶飯事であった。
とてつもない胃痛の毎日を一刀は送ることになった。
しかし、その一方で彼女のおかげで仕事が捗る様になったのも事実。これまでは一刀1人で処理していた書類を2人体制で見るようになったので当然ではあるが、それを差し引いても彼女の仕事ぶりは見事であった。
黄巾の乱が収まりつつある今、商会は縮小していた生産を回復させる途上にあり、まさしく猫の手も借りたい状況であり、一刀は色々と言いたいことはあったものの、そこはぐっとこらえて彼女と協力しながら仕事に励むのであった。
一方の荀彧はというと、彼女もまた一刀とは別の形で不満を溜めていた。
「ちょっと、燕様。あの北郷一刀って男のことで話があるのだけれど?」
「ん? 一刀のことかい?」
「ええ。あの男、確かに一通りの仕事はできるようだけど、抜けているところも多いし、なにより仕事の速さも並み程度じゃない。 あんなのがこの店の店主で大丈夫なの?」
この2週間余り、一緒に働く中で彼女なりに見えた一刀の評価を口にした。
荀彧からすれば、一刀はそこそこ使える文官程度である。無能ではないが、この大商会の二番手を務めるだけの能力があるとは思えなかったのである。
「ふふふ、確かに事務的な仕事だけなら一刀はそうかもしれないね。でも、私は誰に何と言われようと、彼以外にここを任せる気はないよ! まぁ、桂花ちゃんも何れ、一刀の持つ本当の強みってのがわかると思うよ」
荀彧の疑問にも衛弘は少しの迷いもなく、そう言い切った。
「別に私は一刀に事務仕事の能力だけを求めていないしね。ただ仕事ができるだけの人物なら、むしろこの店は任せていないよ」
「あの愚図男に何があるというの?」
荀彧の問いに衛弘は、「それを探すのもここでの経験だよ」と言葉を濁した。
彼女の言うものが何なのか、荀彧には判断がつかないが、どうもここでは教えてもらえないということは理解できた。
衛弘の言うところの一刀の強みとは何なのか、それを彼女が知ることになるのは、この会話がされた日の夜のことであった。
「私としたことが……不覚だわ」
とっくに日も沈み、暗闇に辺りを覆う中、荀彧は燭台を片手に商会の店舗の廊下を歩いていた。
既に店は閉じており、もう店員も誰も残っていない店内は昼の賑わいが嘘のように静寂に包まれている。
そんな店内を彼女が進んでいる理由は単純である。昼の時に、執務室に忘れ物をしてしまったのだ。
いざ寝ようとしたときにそのことに気づいた彼女は、どうもそのことが気になってしまい、こうして暗闇の中を1人で店に戻ってきたのである。
常ならぬ店の様子に、不気味なものを感じながら、ゆっくりと彼女は目的の執務室を目指した。
ほどなくして、彼女は目的の場所に辿り着いたが、そこでおかしなことに気が付く。
誰もいないはずの執務室の扉から、明かりが漏れているのだ。
「こんな時間に誰よ。もしかして、強盗?!」
ありえないはずの事態を前にして、彼女はそう考えた。ここは洛陽でも最もお金が集まる場所といっても過言ではない。
当然、それを狙う不埒な輩がいてもおかしくない。
荀彧は一度、大きく身震いをしながら扉の前に立った。
彼女は自他ともに認める非力である。しかし、目の前に仮とはいえ自分が働いている場所を汚そうとする輩が居るかもしれないのだ。まっすぐに見て見ぬ振りをして逃げだすのは気が引けた。
”こっそりと確認し、本当に下手人の仕業であれば、すぐに警邏に伝えよう”
彼女はそう判断し、物音を立てないように注意しながら、ゆっくりと扉を開ける。そして、恐る恐る、明かりが漏れる室内の様子を見る。
「え?! なんであんたがここにいるのよ?」
そして、中にいた人物を見た彼女は、思いがけない状況に声をかけた。
「うわぁ! びっくりした! なんだよ、文若か。脅かさないでくれ。こんな時間にどうしたんだ?」
「それはこっちの科白よ。私は忘れ物を取りに来ただけ、それであんたは何を……それは書簡?」
急にありえない方向から声をかけられた一刀は、驚いて椅子から転げ落ちそうになりながら、その人物が荀彧であることに気づくと不思議そうに聞いてきた。
しかし、この状況に質問したいのは荀彧も同じであった。
彼女も、一刀にこんな遅くに1人で店に残っている理由を尋ね、一刀が手に持つものに目がいく。
一刀が手にしていたのは、昼間に見ているのと同じ書簡であったのだ。
彼の机にはうず高く、それらが積み上げられており、それを見れば一刀がここで何をしていたのかは自然と察せられた。
「いやー、この前の反乱が治まって以来、忙しくてな。俺は文若ほど仕事ができないから、こうして少しでも片付けられるよう、夜中にこっそりやってたんだよ」
「……もしかして、毎日あんたはこんなことを?」
間の悪いような顔をしながら答える一刀に、荀彧は気になったことを聞いた。
「俺だってそんな無茶はしないさ。1週間……7日に1・2日位は休んでいるよ」
笑いながらに一刀は言うが、どう考えても働きすぎだと荀彧は感じた。
荀彧から見ても一刀に割り当てられた仕事の量は決して少なくない。それなのに、その上、夜にも仕事をしているとなれば彼女からしても驚きを隠せなかった。
「なんで、そんなに…………自分でもわかっているでしょ? あんたは精々そこそこできるくらいの人物よ。燕様のような人にはどうあがいても届かない。なのに……どうしてそんなに我武者羅に出来るのよ……」
それは荀彧が抱いた本心である。北郷一刀という人物は決して英傑と呼ばれるような器ではない。彼の周りにいる、優秀な者たちと比べればどうしても劣る。
そんなことくらいは彼も分かっているはずである。それなのに、どうしてそんなにも純粋に進んでいけるのか、荀彧には分からなかった。
「まぁ、俺じゃあ逆立ちしても英雄にはなれないけど……。でも、俺はそんな英傑になるような人物の隣に立ちたいんだよ。それがどんな困難であっても、俺はそれをしたい。だったらやれることをやるしかないだろ」
苦笑いをしながら当然のことのように言ってのける一刀に、荀彧は瞠目する。
彼女はこれまで何人も、自身が及ばない才を持つものを前にした人たちの行動を見てきた。
人はだれしも自分がどうやっても叶わないものを見たとき、まずは嫉妬し、そして妬み、最後には腐っていく。
実際に、私塾で彼女が学んでいるときに、彼女の才を前にしてそうなっていく男たちは多かったのだ。
しかし、今、目の前にいる男はどうだ。自分よりも遥かに大きな人物を前にしながらも、決して腐ることはない。それどころか、その隣に立ちたいという一念だけでこんな無茶ともいえるようなことをしている。
彼の在り様を愚かということもできるが、不思議と荀彧はそうは思わなかった。いや、より正確には思えなかったのだ。
不覚にも、己の全てをかけて自身が思う英傑に並び立てるように足掻く一刀の献身に、彼女は曹操を支えようと努力する自分を重ねて見えたのだ。
男なんて誰も彼も唾棄すべきくだらない者ばかり、と考えている彼女でも、どうしても一刀の思いを悪く言うことはできなかった。
”一刀はね、どこまでも真っすぐに進める人間なんだ。どんな困難な壁が前にあっても、目的を見失わずに、一歩を踏み出すことができる。歴史をつくるのはいつの時代もこんな人物だと私は思うのだよ! だから、私は彼に期待するし、安心して仕事を任せられるんだ”
いつの日にか聞いた一刀だけが持つという強み、それはこんなことではないかと荀彧は思い至った。
「本当に……あんたってバカね。もう救いようがないくらいバカじゃない」
「おいおい、散々な言い草だな」
荀彧は口ではそう言いながらも、どの言葉に普段のような棘はなかった。
「はぁー、なんかバカを見てたら目が冴えちゃったじゃない。ほら、貸しなさいよ。あんただけじゃいつまで経っても終わらないだろうし、手伝ってあげるわ」
「え? それは悪いよ。これは俺が好きでやってるだけだから付き合わせるわけには……」
「あーもう! 私が手伝ってやるって言ってるのだからおとなしく従いなさいよ! それにあんたが無茶して倒れでもしたら燕様が悲しむわよ。そしたら華琳様にもご迷惑がかかるの! ほら、わかったらさっさとその書簡をこっちに渡しなさい」
荀彧は一方的にそう告げると、一刀の机の上にある書簡の一部を奪い取る様に持つと、自身の机に腰かけてそれに目を通し始めた。
その後、色々と一刀に事務処理の手ほどきをしながら共に仕事を片付けていく。
彼女は男なんて大嫌いである。勿論、一刀のことも嫌いだ。
しかし今だけは、誰かを支えるために必死に羽ばたこうともがく目の前の雛を、少しくらいは助けてあげてもいいかという気持ちになっていた。
この日以来、暫くの間、商会の執務室には2つの明かりが夜遅くまで灯されるのが日常風景となったのであった。
「私はお邪魔だった……かな。ふふ、似た者同士、思った通りに気が合いそうじゃないか。……これで一刀も、もう少し気を抜いてくれるといいんだけど、そうはいかなさそうだね。まぁ、そこは私が見てあげればいいか。ふふ、私のほうこそちゃんと一刀を支えてあげないとだね! ……本当に手のかかる子だよ、まったく」
2つの明かりが零れる扉の外、誰にも聞こえないような小さなこえで呟いた少女。口では呆れたように言うが、明らかに喜びを隠せていないにやけ顔である。
彼女は、自身の為に頑張る男のことを思いながら、その飛翔を邪魔しないようにこっそりと、その場を後にしたのであった。
作者の好きな恋姫キャラは桂花と霞です。
基本的には嫌いなキャラはいないですが。
最後の話は明日の同じ時間に投稿予定です。