真・恋姫†無双 北郷一刀・商人ルート 天下も金の回りもの 作:MATSUKASA
”霊帝崩御”
大陸全土を揺るがしかねないこの報せを受け取ったとき、商会にいた衛弘の反応は極めて冷静であった。
それは、一刀からこの事態をすでに聞き及んでいたからということも関係しているが、それ以上に、この報せよりもこの後に事態がどう転ぶのかの方が彼女にとって重要であったからだ。
そして一刀と衛弘は夜も更けた中、商会に残り、人を遣って情報の収集に努めていた。
そんな時、思わぬ形で彼らのもとにその情報を持った”珍客”がやってきたのである。
今の時間は夜であり、当然、店は閉店している。それにも関わらず、閉ざされた店の戸を激しく叩くような音が聞こえたのである。
こんな時にいったい誰が、と不思議がりながら衛弘と一刀が店の入り口に向かうと、そこにいたのは2人の妙齢の女性。
どちらも上等な衣服を身に纏ってはいるが、ところどころ破け、埃をかぶった姿は一目には判断がつかない姿であった。
しかしその2人の女性の内、片方に衛弘は見覚えがあった。
「あれ?! 何大将軍!! どうしたんです、そんな恰好で?!」
一刀達の店の前にやってきた2人の女性とは、元大将軍の何進とその妹、何太后であったのだ。
とりあえず、この2人の姿が人目に付くのはまずいと考えた衛弘は、すぐに2人を店の奥に誘導し、詳しい話を聞こうとした。
ちなみに、一刀が初めてこの2人を見たときに思った感想は、「何進って結構序盤で死ぬ人だよな。なんで生きているのだろう」という至極失礼なものであった。
そして、今、並んで座る一刀達の前には、渡した毛布とお茶で夜風に冷えた体を温めながら寄り添うように何姉妹が座っていた。
「ええーっと、いろいろと聞きたいことはあるんですけど……、2人はどうしてここに来られたのです?」
「おお、よくぞ聞いてくれた! ここに来るまでには本当にいろいろなことがあってな!!」
衛弘の質問に、待ってましたと言わんばかりで食いついてきた何進は、ここに至るまでの経緯を詳細に語ってくれた。
彼女の話を要約すると、以下のようになる。
まず、皇帝崩御の報せを受けた何進と何太后はすぐに大将軍府へ行き、今後のことについて話し合っていた。するとそこに、宮中より、次期皇帝について話があるという書簡が届けられ、何進は1人で参内した。
彼女が参内したところで、待ち受けていたのは彼女を追い落とすための用意をしていた宦官達であった。
宦官達は何進に”天子様の崩御を利用し、協尚書令を亡き者にしようとした罪”を突き付けてきた。
当然、身に覚えのない罪を着せられた彼女は激高し、異を唱えた。しかし、入念に作られた偽の証拠、そして何進が信頼していた蹇碩という宦官が裏切って偽の証言をしたことによって、彼女は大逆人の汚名を着せられることになった。
禁中に入る前に、武器の類は全て取り上げられていた彼女はすぐに衛兵に取り押さえられ、投獄されてしまった。
しかし、話はここで終わらない。宦官たちの手による何進の失墜が伝わるとすぐに動き出した者達がいた。中軍校尉の袁本初である。
彼女は宦官達によって何進がはめられたと聞くや否や、すぐさまその無法な行いを糾弾し、自身の配下を率いて宮中へと攻め入り、宦官達を誅殺せんとした。
事前に用意していたとしか思えないほどの速さで宮中に押し入ってきた彼女の軍勢に、何進を追い落として得意になっていた宦官達はなすすべなく切り伏せられた。また、袁紹が動くのを見て、典軍校尉の曹操も手早く兵を挙げて、宮中に攻め入った為、彼らは悉くその死体をを宮中に晒す羽目になった。
こうして宮中は瞬く間に戦場となり、大混乱に陥った。
そんな混乱の中、何進とそのあとすぐに取り押さえられて一緒の牢に入れられていた何太后は官軍の兵士の手引きで密かに牢を出て、宮中を脱出したそうである。
意外にも、この何進という人物は面倒見がいい一面があり、末端の兵士からは慕われていた。今回の窮地においては、その行いが彼女を救ったと言えるだろう。
ちなみに、袁紹や曹操の手によって宦官達が誅されたというのは何進もその兵士から聞いて知った。
そして、難を逃れた何進は、自分の仇討ちとして宮中に攻め入った袁紹に身を寄せようと考え、彼女の本陣を目指したが、ここであることに気付いた。
どうして袁紹は自分の身柄を助けに来てくれなかったのか?と。
考えてみれば、おかしい話である。曹操はともかくとして袁紹が宮中に攻め入った名目は、何進に謂れのない罪を着せて追い落とした宦官を誅することである。
それならば、彼女たちが真っ先に優先するべきは何進の身柄を保護しに来ることであるはずだ。
そんな疑念をもった何進は、袁紹の本陣を訪ねるのをやめ、しばらく袁紹軍の様子を隠れて探ることにした。
そして、そこでとんでもないことを聞いてしまった。
袁紹軍たちの兵士たちの会話の中で、彼らはこの混乱の中で何進を見つけたら切り捨てるようにと命令を受けている、という事実を彼女は聞いた。
これを聞いた何進は、顔を真っ赤にさせて怒りを露わにした後、すぐに青褪めた。
袁紹軍が何進を保護するどころか、亡き者にしようとしているというのであればこの宮中において彼女の味方をしてくれるものは1人もいないということになる。
宦官、袁紹、そして曹操のどの陣営に見つかっても自分たちに待ち受けているのは死のみである。
彼女はすぐに予定を変更し、一刻も早くこの宮中から離れるために闇夜に紛れて街の方に出てきたそうである。
しかし、街に出たといっても宮中での暮らしが長かった彼女たちに身を寄せるあてもなかった。そうして途方に暮れていたところ、衛弘のことを思い出し、この店にまでやってきたというのである。
「つまりは……嵌めたと思った宦官達に逆に嵌められて、その宦官達も本初殿達に嵌められた。その上、彼女達は何進殿まで殺そうとしてきたということか……。うわー、なんというか……散々ですね」
「おお! 分かってくれるか! 貴様、男にしてはなかなか話の分かるやつではないか。ふむ、見た目も悪くない、どうだ私の側近にしてやってもよいぞ」
「……それは遠慮させてもらいます」
一通り黙って、何進の話を聞き終えたところで一刀は、率直な感想と共に同情の言葉を口にした。
ようやく自分に同意してくれる人を見つけた彼女は、尊大な様子で一刀のことを誘ってきた。
裏切りに次ぐ裏切りにあったという彼女を純粋に憐れんでの発言だったが、これまでの逃避行に心が疲れていた何進にはその憐れみでさえも優しさに感じられたのだ。
一刀が、この状況になってもまだ自分が大将軍という立場にいるかのように振舞う彼女に苦笑いしながらその誘いを断ると、何進はシュンとした様子で席に座りなおした。
「まぁ、そんなことはどうでもいいとして。……本初ちゃんの狙いは間違いなくこの混乱の中で天子様を手中に収めることだろうね。華琳ちゃんはそれに気付いて、遅れないようにと自分も宮中へ踏み込んだというわけかな……」
「なるほど……これから先の群雄割拠を見据え、現在権力の中枢にいる人物を打倒し、皇帝という権威は自陣営に取り込む為に動いたというのか。……本初殿って、店で見るの様子とは違って、意外に強かなんだな」
「なに?! 袁紹の奴、そんなことを狙っていたというのか?! 余に宦官殲滅を上奏してきたのも、共倒れを期待してとは……。なんて不忠者なことか! 今すぐ、余自ら出向いてその首、刎ね落としてやる!!」
衛弘と一刀が何進から聞いた宮中での様子を整理しながら、各陣営の思惑を口にすると、何進は怒りが込み上げてきたのか、椅子から立ち上がって「許さんぞ、袁紹め!」と、喚き始めた。
「ちょっと落ち着いてください、何大将軍……もう違うか。遂高様。今ここで出て行っても、取り押さえられて秘密裏に消されるのがオチってもんだよ。本初ちゃん……多分その周辺の軍師の考えは、旧態依然の権力者の一掃だと思うからね。遂高様を見つけたら、すぐに処分しようとしてくるはずさ」
思い出したように怒りを露わにしていた何進も衛弘の言葉を聞くと、改めて自分の置かれた状況を理解したのか、ぐぬぬと歯噛みしながら再度椅子に座りなおした。
店の奥とはいえ、こんな夜分に大声で喚かれれば嫌でも衆目を集めてしまう。それは、身を隠す何進達、そして彼女を匿う一刀達からしても都合が悪い。
一刀もここは堪えてもらうように何進を宥め、どうにか落ち着きを取り戻した。
「まぁ、暫くはここにいてくれれば大丈夫さ。華琳ちゃんも本初ちゃんもここに踏み込んでくるようなことはないからね。ただ、この先……遂高様と何太后が生きているとバレれば、命を狙われることになりますから、2人にはほとぼりが冷めるまで表には出ないで、出来れば名前も伏せてもらいたい」
「う、どうして大将軍たる余がこのような屈辱を……」
「遂高様。……サルは木から落ちてもサルに変わりないですが、権力者は立場から落ちればただの庶民になります。それが分からないあなたではないでしょう? 今のあなたはもう大将軍と太后ではなく、ただの何姉妹です。身の安全は保証しますから、ここは私に従ってください」
悔しさをにじませるような表情の何進に対して、衛弘はその目を真っ直ぐに見つめながら、言い聞かせるように言った。
何進とて彼女が言うことがわからないほど馬鹿ではない。
いや、むしろこれまで多くの人を権力の座から追い落してきた彼女だからこそ、今は自分がその落とされた側に回ったということを理解はできたのだろう。
それに、それでも自分を匿うという衛弘の好意を無駄にするようなことをすれば、本当に自分達は拠り所がなくなってしまう。
何進は頭で理解した現状と収まらない感情に狭間で、葛藤しながらも、ここは彼女に従うことにした。
「……わかった、子許。今はお前に従おう」
「うん、元とははいえ同じ商人だったこともある2人だ、ここは私に任せてくださいな! ……あとは、華琳ちゃんか本初ちゃんが無事に天子様を保護するのを待つとしようかな。この2人なら、どちらが天子様を手中に収めたとしても、旧態の支配を破壊してくれるし、私たちにとっても悪いことにはならないさ」
何進が聞き入れてくれたことに満足した衛弘はこのまま事態を見守ればいいという考えを口にした。
彼女が望む、”現王朝による支配の崩壊と新しい秩序の構築”は、袁紹と曹操のどちらが皇帝を手にしても達成されるだろうと考えたのである。
勿論、その後の身の振り方はいろいろと考えないといけないが、今はその行く末を静観していればいい、これが彼女がこの時点で下した判断である。
これは一刀も同意見であった。
賄賂と汚職にまみれた漢王朝をこの2人なら悉く、潰してくれるはずである。その後に、訪れるのはこれまでの秩序を失った完全なる群雄割拠の時代であるが、それは元々想定していたものである。
そして、その中で主導権を握ることになるのはおそらく、皇帝を手にした袁紹か曹操のどちらかである。
この両者にはそれなりのパイプをこれまでつないできた。どちらが立ったとしても、一刀達がうまく立ち回ることは可能である。
ならば、別にここで何かする必要はなく、静かに見守っていればいい。
図らずも、一刀と衛弘は意見を一致させた。
この混乱をある程度、予想し、その中でも比較的に自分達に都合がいい展開に事は運びそうである。
一刀と衛弘は、張り詰めた気を少し緩めた。
「あら? その曹孟徳とやらも袁本初も天子様を保護することなんて出来ないわよ。だって、天子様はもう後宮どころか多分、洛陽にもいないもの」
しかし、急に入ってきた言葉によってその安堵は根底から崩されることになった。
これまで、事態の張本人でありながらまるで他人事かのように話に興味を示さなかった何太后が、衛弘の言葉に反応したようにそう言った。
まるで、当たり前のことを言うような口ぶりの彼女であったが、その言葉は衛弘と一刀にとって、どうしても聞き逃せない内容であった。
「ちょ、ちょっとまって!! 天子様が後宮にいないってのはどういうことなんだい?!」
「わわっ、そんなに詰め寄らないでよ。だって、陛下が崩御されたと伝わって、妾が姉さまのところに後宮を出て向かおうとした時に見たのだけど、宦官の黄(趙忠の真名)と張譲が天子様を連れて歩いていたのよ。あの時は何とも思わなかったけど、今思うと、たぶんあれはこの混乱を避けるため、こっそりと洛陽を出るためだと思うわ。だから、もう後宮には天子様はいないというわけ」
急転直下の事態を告げた彼女の言葉に、衛弘は慌てて詰め寄りながら、その真意を尋ねた。すると、何太后の口から語られたのは、到底無視できない話であった。
彼女が嘘を言っていないのは理解できた、故に、天子様が宦官の手引きで混乱の前に洛陽を脱出したのは事実なのだろう。
そうなると、これまでの一刀達の考えは根底から覆されてしまう。
「確かに、余を嵌めるために雁首揃えていた宦官どもの中にも奴らの姿は無かったな……まったく黄め、どこまでも抜け目のない奴だ!」
何進が思い出したように、口にしているが、その言葉が耳に入らないほど一刀と衛弘は思考に耽っていた。
「……どういうこと? 天子様を連れ出して逃げたところで、奴らに、対抗するための武力なんて無いはず……」
「それに、一時的に難を逃れたといっても洛陽を抑えられてしまえば戻るところを失う。結局のところ、逃げた意味なんてなくなるよな……」
一刀と衛弘は事態を飲み込めないでいる目の前の2人を無視しながら、互いに考えられる可能性を口にする。
「一刀の言う通り、ただ逃げるだけならそれに意味はない。ただ死ぬのが先延ばしになるだけどよ……。あるいは何処かに隠遁でもする気なのかな?」
「そんな先があるとは思えないが……孟徳殿と本初殿が洛陽を取れば、どこに隠れても何れは見つかることになるだろうし、それも結局先延ばしでしかない。……もし、この逃亡に何か意味があるとするなら……表立って洛陽に凱旋するための”アテ”があるとか……」
「「あっ!!!!」」
”アテ”
一刀が、そう言った時、2人は同時に1つの可能性が頭に浮かんだ。
それは、考えうる限りで最悪の可能性であった。
この洛陽の近辺にあり、洛陽を制圧するのに十分な兵力を兼ね備えている軍、それを使ってこの混乱を上から抑える。
もし、それを見越して宦官の趙忠と張譲は天子様を連れ出したというのであれば、その行先は1つしか思いつかなかった。
「まずい…! まずいよ! 一刀、すぐに華琳ちゃんと本初ちゃんに親書を送ろう! このままだと2人は逆賊の汚名を着せられて、討たれてしまう」
「ああ! 今2人に倒れられては、俺たちは華北における後ろ盾を失うことになる。すぐに送るよ! 孟徳殿は燕の名前で送れば伝わるだろうけど、本初殿には俺と燕の連名で送ろう。商会の当主と二番手からの報せであれば、彼女も無下にはできないはずだ」
「ああ、一刀の思う通りにしておいてくれればいいよ。 ああああ! もう! 最悪だよ!! ……でもこれは一刀の忠告を無視した私の責任でもあるね。 …………一刀! 私はこれから出かけるよ! 後のことは任せてもいいかい?」
慌てながらも最悪の事態を想定して、衛弘と一刀は対応策を考える。
一刀達の考えが間違っていなければ、趙忠たち宦官が反撃のために用意した軍、それは一刀達もよく知る人物たちの軍である。
「行先は……聞かなくてもいいか。それなら俺もついていくよ。場合によっては、危険なことになる可能性もある。そんなところに燕1人で行かせるわけには行かない……」
言われずとも、一刀はこれから衛弘が向かおうとしている場所、会おうとしている人物を理解していた。
それと同時に、それが彼女にとって非常に苦しいところであるということも。
であれば、彼に衛弘を1人で行かせる気はない。
「来るな……って言っても無駄だよね。なら、一緒に来て欲しい。多分、これから行く先での話次第で、私たちの今後採るべき方針は大きく変わることになるからね……。一刀にもそれは知っておいて欲しいんだ」
一刀の決意を目の当たりにした衛弘はそう告げると、あっさりと同行を許可した。
ここから一刀達は慌ただしく動き始めた。
目の前で呆けている何姉妹には決して外に出ず、店の奥に隠れているように伝え、手早く彼女たちから得た情報を曹操と袁紹に伝えるべく書状を書き、それを店の者に急いで届けるように託した。
そしてそれが済むと、一刀と衛弘はすぐに馬に乗って、目的の場所へと行くために夜の街をかけていく。
夜空に浮かぶ月を背にしながら、一刀も衛弘に続いて馬を駆る。
この先、どんなことが待ち受けていようとも、目の前の小さな背中を守って見せる。一刀はいつの日かしたのと同じ決意を胸に、ひたすらにその背中を追いかけていくのであった。
「おーほっほ! 宦官なんて物の数じゃありませんわ! 華麗に蹴散らしてしまいなさい」
一刀達が店を出発して暫くした頃、袁紹は自ら前線に出て兵たちを鼓舞していた。
彼女は、自分の軍師である田豊から、「宦官達は何大将軍を罠にはめて殺した」と聞いており、その敵討ちということで盛んに宮中へと攻め入ったのである。
しかし、そんな彼女の下にその田豊が慌てた様子で報告に駆け上がってきた。
「麗羽様、こちらにいましたか!! 状況が変わりました。すぐに兵を纏め、冀州へと帰りましょう!」
「何を言ってますの、真直さん!? まだ、遂高様の敵討ちの途中ですし、それに天子様だって保護できていませんのよ?!」
田豊が口にした言葉に、袁紹は一瞬驚いてから、厳しい口調でその意味を問うた。
彼女が口にした疑問は当然のものである。彼女たちがこの宮中に攻め入った目的は、”何進を追い落とした宦官の誅殺。そして、天子様の保護”であるのだ。
このことは他ならぬ、目の前の田豊が突撃の前に口にしたことでもあった。
それにもかかわらず、その目的が達せられていないのに彼女は撤退を進言をしてきた。軍師の変心に、袁紹は昂った感情のままに叫ぶように応えた。
「いえ、もう当初の目的は叶いません。天子様はすでに洛陽を離れられたとのこと、このまま攻撃を続ければ、今度は私達が朝廷に弓引く反逆者になってしまいます。ここはすぐに撤退しましょう!」
袁紹の叫びを聞いても田豊は、毅然とした態度で同じ進言を繰り返した。
「なんですって?! 天子様が洛陽を離れたとはどういうことですの?!」
「どうも天子様は事前にこの奇襲を察知した宦官の手引きで洛陽を脱出したようです。確かな筋からその情報が入ってきました。また、それによれば、数万の軍勢がすでに天子様を保護し、この洛陽に向かってきている可能性もあるということです。口惜しいですが、こちらの手勢は数千程度。まともにやっては勝ち目がありません。天子様を保護できない以上、このまま攻撃を継続する意味はありません。どうか撤退のご指示を!!」
田豊が必死の形相で伝えた報告に、血気に逸っていた袁紹も一旦落ち着きを取り戻した。
「……華琳さんたちの軍勢はどうしていますの?」
「曹操殿もこちらと同じ情報を得たのか、すでに攻撃をやめ撤収の用意に入っています。このままでは私達だけが取り残される形になります!」
「きぃー!! あのチビ娘はわたくしの真似をして宮中に攻め入ったのに飽き足らず、少し旗色が悪くなると残りを押し付けて逃げるということですの?! 冗談ではありませんわ! 真直さん! 前線の猪々子さん斗詩さんに伝令を送りなさい。華琳さんよりも先に私たちも撤収しますわ!」
「はっ、すぐに手配します!」
面倒を押し付けられては堪らないという様子で袁紹は、撤退の下知を発し、それを受けた田豊は手早くそれの実行に取り掛かった。
彼女は撤退の命令を部下たちに下しながら今回の行動のついて考える。
(どうして私たちの狙いがバレたの? いや、最初に攻め入った時の宦官の様子からは、全てが予想されていたというわけではないはず……裏に私達の思惑を見抜いて、彼らを身代わり天子様を連れ出した者がいるということ? 抜かったわ……)
今の状況を彼女は冷静に分析し、自分が相手を見誤ったことを認めた。
(天子様を手にできない以上、私たちの行動が大義になることはない。それを見越して、私達をここで討とうということか……。この手紙がなければ、危うくその罠に深入りするところだったわ)
田豊はつい先ほど、自陣に届けられた手紙を握りしめながら、これがなかった時のことを思い、ゾッとした気持ちになる。
罠にはめたつもりが、敵は味方を捨て駒にしてこちらを罠に嵌めようと仕掛けてきた。まだ、確証はないが、田豊はそれが真実だと半ば確信していた。
「数百年の泥沼が生んだ朝廷の奸知。侮っていたわけではないけど……少し見くびっていたわね」
撤退を始めた自軍の兵士達を見つめながら、吐き捨てるように田豊は呟いた。
そして、”この借りは必ず返してやる”。
未だに姿を見せない自分達を嵌めた者に対して、固く決意を決め、自分も冀州へと戻るための用意を始めたのであった。
「急ぎなさい!! 我らはこれより陳留へと引き上げるわ。秋蘭、あなたは兵たちを纏めて撤退の準備を。桂花、あなたは今回の攻撃が”あくまで宦官の無法を正す為であり、天子様に弓引く意図はなかった”と朝廷の者に手回しをしたうえで、撤退に入りなさい」
「「御意!!」」
袁紹が撤退を決めたのと同じ頃、曹操もまた部下に指示を下しながら兵を引く用意に入っていた。
自身の友人から届けられた手紙を読んだ彼女はすぐに、この奇襲の目的がすでに失われたことを理解し、撤退を決めたのである。
袁紹に先んじられるわけにはいかないと、今回の奇襲に及んだ彼女であったが、流石というべきか、すぐに現状を理解し的確な指示を下したのである。
(燕、今回もあなたに助けられたわね……)
曹操は素早く撤退に移り始めた自軍を見ながら、あわや窮地に貶められるのを防いだ報せを握りしめた。
ここにいない友人に感謝の告げると、彼女も素早く兵を引き上げる。
そして、彼女は今後の展開について考えを巡らせた。
おそらく、今回の自分達による襲撃で朝廷に巣くっていた官匪共の大半を駆逐することはできた。しかし、それでも十分とは言えない。
受け取った報せが確かなら、その澱みの頂点にいた人物は今ものうのうと天子様を手中に収め、返り咲こうとしているのだから。
「蒼天は死なず……というわけね。”老いて腐った龍”もなかなかにしぶといわね」
苦虫を噛みつぶすような顔で曹操は小さくつぶやいた。
これから待ち受けるのは、死にゆくはずの龍による最後の足掻きである。しかし、今の自分にはその弱り切った龍ですら殺しきる力がないということに曹操は顔を歪めた。
(我が覇道に、誇りと信用を失った蒼天は不要! しかし、それを成し遂げるにはまだ、私では力不足というわけね……)
曹操は、これから訪れるであろう混沌の乱世を確信しながら、そこに覇を唱えるにはまだ自身の力が足りないということを自覚した。
しかし、それは覇道を諦めるということと同義ではない。
”私は今日受けたこの屈辱すら糧と変えて、この乱世に覇道を布いて見せる”
言葉にしないでも、揺るぎなき決意をもって彼女は洛陽を後にした。
そして、この自分が行くべき道の先こそ友が描く理想の世であるという確信とともに、彼女は撤退をしながら、自身の覇道を真っすぐと歩んでいくのであった……
洛陽近郊の荒野。その地に、駐屯する一軍があった。
「そう、黄のやつは手筈通りに、天子様をお連れしたのね。わかったわ、急ぎそちらに向かうわ」
その軍の中心に位置する天幕の中、部下からの報告を聞いた賈詡はすぐに身支度を済ませて、謁見の為に移動しようとした。
「ねぇ詠ちゃん……私達、本当にこれでよかったのかな?」
そんな賈詡の背中に、彼女の主君である董卓は不安げな様子で問いかけた。
「大丈夫よ、月。これは私たちのとって千載一遇の好機なの。乱れた朝廷を正して、安定の世を築く、月の理想がもうすぐ叶うのよ」
董卓の不安を少しでも和らげようと、賈詡は優しい声音で諭すようにそう語った。
「うん、確かに今回のことは必要なことだって、私も理解できる。それでも……本当にこんなやり方しかなかったのかなって」
賈詡の言葉でも拭い切れない不安を董卓は口にした。
おそらく予定通りであれば、今の洛陽の宮城は目を覆いたくなるような惨状が広がっていることになるだろう。
心優しいこの少女は、そのことに心を痛めているのであった。
「月の気持ちは分かるよ……それでも、これは必要なことだったのよ」
董卓の思いは、賈詡の思いでもあるのだ。
彼女の気持ちを誰よりも知る賈詡は、同じ痛みを胸に抱えながらも、そう言い切った。
「詠ちゃん……、ごめんね。主君である私がこんな弱気をみせちゃって。うん、もう大丈夫だから……天子様をお待たせするわけにはいかないね、さぁ、行こ!」
目の前の気丈に振舞う賈詡も同じ思いを抱えているのだと気付いた董卓は、自分が弱気になっている場合じゃないと気を取り直すと、彼女の手を取って、天幕を飛び出した。
彼女達の歩みにも迷いはなかった。
自分と信頼する友の理想のために、彼女達は行くべき道を進んでいく。
たとえ、そこにどんな障害があったとしても彼女たちが立ち止まることはもうない。
月に照らされた自陣の中を2人は迷うことなく歩いていくのであった……。
そして彼女達が無事に、迎え入れた”天子様”との謁見を終え、洛陽へと進軍を開始しようとした時、2つの影が彼女達の元を訪れた。
その訪問者の名前を聞き、予想外の事態に董卓と賈詡は驚いたものの、これすらも好機であると判断した賈詡はすぐに、その2人と会談することを決めた。
間もなくして、頭上の月が暗雲に隠れ、陣内に暗闇が広がる中でついにその時を迎えた。
ここから行われる会談の内容は、後世の史書でも触れられることのないようなものである。
しかし、この大陸の行く末を大きく左右することになる話し合いが、この荒野にて始まろうとしていたのであった……。
次話がこの章で一回目のターニングポイント的な話になります。
前話の次回予告は「何進(大将軍として)死す!」ということで、許してください。
原作キャラ死亡のタグは極力付けたくないのです。