真・恋姫†無双 北郷一刀・商人ルート 天下も金の回りもの 作:MATSUKASA
”新帝即位”
洛陽に凱旋した董卓達はすぐに、朝廷内に広がっていた混乱を鎮め、先帝の遺命であるとして劉協の即位を宣言した。
これは、長子である劉弁を差し置いて異例の即位であった。
長幼の序に照らし合わせてみれば明らかに不合理なこの即位に、表立って非を唱える者たちは董卓による武力で、裏で非を唱える者は張譲・趙忠の謀略で抑えつけられた。
その後、自身は未だに幼い皇帝を補佐するという名目で、董卓は三公の大尉に就任した。その上で”新帝のもとに新たな秩序を敷く”と高らかに宣言し、彼女による新政権が成立させたのである。
先帝の崩御から、僅か一月程度の間に成し遂げられた皇帝の交代劇は、漢王朝の権威をさらに高めたと喧伝されていたが、それを額面通りに受け取る民衆は1人もいなかった。
黄巾の乱以来、力をつけてきた各地の群雄の1人がついに王朝の権威すら飲み込むことになった。概ね、これが今回の騒動を見た庶人の見解である。
かくして、董卓主導による漢王朝の再興が始まることになった。
しかし、その船出は決して順風満帆なものではない。
既に信任を失った民からの嫌疑、そして出し抜かれたことによる各地の諸侯の怨嗟を抱えた波乱の船出となるのであった。
「ああ!! もう、朝廷にはどうしてこんな汚職まみれの役人しか残っていないのよ!」
所々に先日の曹操・袁紹による襲撃の爪痕を残した宮城の執務室の中、並べられた報告書に目を通しながら賈詡はやり場のない恨みを天井にぶつけていた。
権威の頂点とも言える場所に立った彼女たちがまず最初に手掛けたのは、朝廷内の”綱紀粛正”であった。
これは、将来、即位した劉協に政治を担ってもらう事を企図する董卓と賈詡にとって、その前に自分達の手で朝廷の汚れをぬぐう必要があると考えた為である。
しかし、これが最初から大きな課題に直面した。
「これが200年に及ぶ腐敗の先に行き着いた王朝の現状……。子許さんの言う通りだね」
腐敗に次ぐ腐敗でかろうじて成り立つ状態ともいえた今の政権は、潔白な部分を探すほうが難しいのが現状であった。
袁紹と曹操が討ち破った宦官達も腐敗の原因であったが、彼らと対抗していた官僚達も決して汚職がないとは言えない。
むしろ、彼らによる互いに自己の利益を追い求める政争こそが、王朝をさらに腐敗させて来たのであった。
董卓達は汚れを刷新すべく、そうした汚職に手を染めた官吏を洗い出した。そして、その結果が、2人の机にある膨大な書簡である。
汚職が広がっていること自体は2人も認識していた、しかしその数が余りにも多すぎた。
もし、徹底的に汚職に手を染めたことのあるものを官職から追放すれば、朝廷の機能を維持することができない。
この現状を受けて、董卓達は一旦、綱紀粛正の手を緩めることを余儀なくされた。目に余るほどの悪事、民を虐げるようなことをしてきた官吏はその責任を追及したが、それ以外の部分には目を瞑り、それを脅迫材料として今後の職務には誠実に励むことを誓わせた。
毎日のように、報告に上がってくるこれまでの汚職の実態と、それを見極めて処罰するか、目をこぼすかの判断に2人は忙殺される日々を送っていた。
賈詡が思わず恨み言を漏らすのも当然のこと。
「ホント、汚れもここまで極まれば、いっそ清々しいともいえるわ!!」
「でも詠ちゃん、これは私たちにしかできないことだから……」
再度叫ぶ賈詡に、董卓は宥めるように、それでいて確固とした信念を自分に言い聞かせるように呟いた。
思うように進まない改革ではあるが、今のこの現状に対処が可能な立場にいるのは自分達だけである、という自覚が彼女にはあった。
故に、如何に困難で面倒なことであっても投げ出すわけにはいかない、というのが彼女の本心である。
「月……、ごめん、弱気を吐いた。うん、ボク達がしっかりやらないとだよね……子許を裏切るような形でここにいるのだもの、これぐらいで止まるわけにはいかないわ」
董卓の言葉に賈詡も思うところがあったのか、今度は彼女も自分に言い聞かせるように呟いてから、目の前の膨大な書簡と向き合った。
しかし、それでもどうしようもない課題はまだ山積している。
「とりあえず、官吏達の綱紀粛正はこのまま進めていけばいいとして……次に問題になるのは、資金よね」
手元の書簡を整理しながら、悩ましそうに賈詡はもう一つ抱えている大きな問題を口にした。
董卓達が洛陽で権威を手にしてから、新帝の就任、朝廷役職の任命、それらに関わる儀礼などを多くこなしてきた。
また、洛陽を支配下に置いたとはいえ、まだ各地に大きな勢力を持った諸侯が引きめいている現状、自軍の軍備を増強していかなければいけない。
そして、直面したのが資金繰りの問題である。
董卓達が洛陽に入り、新帝の即位をし三公の地位に就任したことは、当然、各地に諸侯からしてみれば出し抜かれたことを意味する。彼らは表立って非難する声はまだ上がっていないものの、董卓達をよく思っていないのは確定的である。
そんな、彼らは様々な理由をつけて、各地の税の納付を滞らせてきた。黄巾の残党対応で忙しい等、理由は様々だが、結果として本来入ってくる各地からの税収が一部今の洛陽には入ってこなくなったのである。
元々、洛陽は巨大な都市ではあるが、それを支えていたのは大陸各地から納められる税金だ。それが一部とはいえ入ってこなくなれば、洛陽における政権運営資金が枯渇してくるのは当然の帰結である。
加えて、今は皇帝の交代劇も相まって、儀礼と軍備増強の出費もかさんでいる。
資金の調達。これもまた、董卓達にとってすぐに解決しなければいけない問題であった。
「やっぱり、私が朝廷の高位についたことをよく思わない諸侯の人は多いんだね。それに子許さん達も洛陽を出て行ってしまったみたいだし……」
「月、いなくなった奴のことを言ってもどうしようもないわ。当面は、各地の諸侯と官吏に税の徴収を徹底するように伝えながら、手元の資金で遣り繰りするしかない」
不安げに言う董卓に、賈詡は現状出来ることを口にしたが、それが何の解決にもならないことは彼女も理解していた。
軍備の増強、官吏の統括、朝廷の権威の回復、どれをするにしても先立つものが必要なのは事実だ。
そういう点では、資金繰りは今の彼女たちにとって最も重要な課題でもある。しかし、そうと分かっていても具体的に何か対策があるわけではないということに賈詡は歯噛みする。
このままだと、資金不足ということで自分たちが考えていることを、そもそも取り組めないままに息詰まることになりかねない。それだけは何としても避けなければと、賈詡は軍師として頭を回すが、いい案は浮かんでこない。
いや、正確には1つ。彼女に考えはあったが、その案はあまりにも董卓に心労を強いるものであり、提言するのは憚られた。
「あれ? 2人してそんなに悩んだ顔をしてどうされたのですかぁ?」
答えの出ない問題に2人が頭を悩ませていた時、不意に部屋の入り口から声をかける者がいた。宦官の頂点、十常侍において最も権力を持っているといっても過言ではない人物、趙忠である。
彼女は、悩ましげな顔をする董卓達とは対照に、いつものように穏やかな表情で不思議そうに問いかけてきた。
「……黄、入るなら一言声をかけなさい。それに、あんたには宦官を含めた官吏たちの処罰をお願いしていたけど、それはもう済んだの?」
自分が悩んでいる時に、突如として現れた彼女に賈詡は、苛立ちを隠すことなく、彼女に任せた仕事はどうしたのか、と問いかけた。
「ああ、その件ならもうご安心を。この国難を前にして、自分の懐を肥えさせようとする不忠者は何人か見せしめとして処分しましたので。残っている人たちは、もう不埒なことを考えることもできないはずですよ」
賈詡の苛立ちをぶつけられても尚、全く意に介さないといった様子で趙忠は自身に任されていた仕事の首尾を報告した。
笑顔で何でもないように言う彼女であるが、おそらくは裏では口にするのも憚られるようなことをしてきたのだろう。
内心ではそんな彼女に毒を吐きながら、賈詡はそれを気取られることはないように努めた。
「そう。でも、朝廷の裏の統率はあんた達に一任しているのだから、くれぐれも今後は私腹を肥やそうとする輩が出ないようにしなさい」
「詠さんは心配性ですねぇ。大丈夫ですよ、もう今の後宮には、
念を押すように伝えた賈詡に、趙忠は笑みを崩さないままに言い切った。
董卓達は後宮勢力をはじめとした朝廷の裏側の統率を趙忠と張譲の2人に一任していた。そこは汚職が蔓延る朝廷においても最も汚れていた場所ともいえる。
”毒を以て、毒を制す”
賈詡はその汚れの支配を、趙忠達に任せていた。尤も、彼女達こそがその汚れの原因でもあるが、だからこそ、それの処し方を誰よりも心得ているのもまた彼女達であった。
初めて趙忠に協力を持ち掛けられた時、賈詡は彼女がその汚れを全て引き受けて、好き勝手をさせないようにすることを協力の条件とした。
そして、趙忠も今の朝廷の状況のままでは、劉協が安心して皇位に就くことは難しいことは理解していたこともあって、それを承諾した。
彼女が後宮を支配するのにどんな手法を用いたのか、賈詡は口にしないでも察することができたが、知りたくもないという思いであえて深く追求することはなかった。
「全く信用がないですねぇ……心配しなくても、私とて白湯様の支配を揺るがそうとする下賤な者共をのさばらせる気はありませんからぁ」
押し黙る賈詡を見て、不満そうに趙忠は口にした。
彼女の言葉を信用するわけではないが、今はこの毒ですら使いこなしていかなければ自分たちに活路はないと考えた賈詡は、ここは彼女の言い分を受け入れることにした。
「それはそうとして、詠さん。何をそんなに悩まれているんです?」
「……どうせ察しているのでしょ。今後の資金繰りについてよ」
一旦、話題が終わったところで、趙忠は董卓達に入ってきた時と同様の疑問を繰り返した。しらじらしい態度で聞いてくる彼女に、賈詡はどうせわかっているくせに、と思いながらも自分たちが抱えている問題を口にした。
また、これは協力関係を結んでいる趙忠達にとっても同じ問題であり、特に隠す必要もないという判断からでもあった。
「ほんと、白湯様が即位されたにも関わらず、忠義のない者ばかりで困りますねぇ。まぁ税収に関してはおいおい、集めていくにしても、今必要な当面の資金はどうします?」
「それが思いつかないから、こうして頭を悩ませているの」
やれやれといった様子の趙忠。賈詡も棘のある言葉でこれに答えた。しかし、趙忠はそんな賈詡の様子を心底不思議そうな顔をしながら、次の言葉を続ける。
「あれー? てっきり詠さんなら、もう思いついているかと思いました。当場をしのげるだけの資金はこの街にあるじゃないですか!」
「……参考程度にその”あて”とやらを聞いてあげる」
まるで自分の考えを賈詡も共有しているだろうと疑っていない様子の趙忠に、賈詡は彼女の次の言葉がおそらく、先程自分が胸にしまい込んだものと同じである予感を抱えながら、先を促した。
「お金がないなら、ある場所から拝借すればいいんですよ。幸いなことに、反逆者の何進とつるんでいた商家もいることですし」
趙忠の口から出た案は、まさしく賈詡が予想したものと同じものであった。
「あんたの言いたいことは分かった。でも、却下よ。確かに何進に連座させる形で縁のある貴族や商家から私財を没収することはできる。でも、証拠もなくそんなことをすれば民の評判を下げるだけよ。ただでさえ、今のボク達は民から信任を得ているとは言い難いのに、そんなことをすれば益々、不信を招くことになるわ。それに……そうなった時、向こうがどう動いてくるかも読めないわ……」
賈詡は自分の中で却下した時と同じ理由を述べて、趙忠の提案を蹴る。確かに彼女の案で得られるものはあるが、それ以上に失うものが多いという判断であった。
「んー、証拠なんてなければ作ればいいんですよ。こちらが証拠を突きつければ、妥当性は保てますから、民の反発も少なくなりますよ」
「そんな都合よく事が運ぶとは思えないね。とにかく、その案は危険が大きすぎる」
賈詡の否定を受けても、趙忠は一切引く様子がなく、証拠なんてでっち上げればいいと悪びれずに口にした。
それでも、賈詡は彼女の案に耳を貸すつもりはないと否定を繰り返した。
「……都合がいいのはどっちですかねぇ?」
「……どういう意味よ?」
しかし、続いて趙忠が口にした言葉に賈詡は彼女の話に耳を傾けた。
「このままいけば何れ私たちは資金が枯渇して行き詰りますよ。それなのに、手は汚さないでどこかから資金が調達できるかと都合よく考えているのは詠さんの方ですよ」
そして、続く彼女の言葉に、賈詡は押し黙ることを余儀なくされた。極端ではあるが、彼女が今言ったことも事実であると理解したからである。
趙忠が言う通り、このまま自分たちが動かなければ直に進むも引くもできないような状況に追い込まれる。
であれば、そうならないように方策を示すのが軍師としての役目だということは賈詡も承知している。
「ここまでやってきたのに今更、手を汚すのを恐れて行動しないなら、それは背信行為ですよ。それとも、2人はその程度の覚悟だったというわけですか?」
「違う!! ボクと月はそんな程度の覚悟でこの場所に立っているわけじゃない! それでも、あんたの案を実行すれば、その先に何が起こるか読めない! あいつ等は絶対に、やられて泣き寝入りするような奴らじゃない。それも踏まえて危険が大きすぎると言っているの!!」
「詠さんが言うのは、将来のことばかりじゃないですか。そんな先のことよりも考えないといけないのは、今をどうするかですよ。それとも何ですか、知り合いを手にかけるのは躊躇われるということですか?」
「ふん! あんたみたいに同僚を手にかけても平気な顔をしている奴に言われたくないね!」
煽るような口調の趙忠に、売り言葉に買い言葉といった様子で声を荒げる賈詡。互いに話は、本筋からそれて罵りあい罵り合いの様になってきた。
このままいっても、この話は平行線である。
「少し落ち着いて、詠ちゃん。それに黄さんも」
永遠に続くかと思われた口論に低く、それでいて確かな響きを以て、割って入る声が2人の動きを止めた。
その声をした方を二人が同時に向くと、そこにはこれまで口を挟まずにじっと話の行く末を見守っていた董卓が、静かに机の上で手を重ねて2人を見つめていた。
親友の常ならぬ様子に賈詡は先程までの怒りが水を抜くように引いていくのを感じながら、口を閉ざした。
また、彼女に相対していた趙忠も董卓の有無を言わせぬ迫力に言葉を飲み込んだ。
「2人の言い分は分かりました。それにどちらにも理があることも分かります」
舌戦を繰り広げていた2人が聞く姿勢になったのを確認した董卓はゆっくりとその口を開き、おのれの考えを語り出す。
「そして黄さんが言うように今、手をくすねて行動をしなければ私達はここで道半ばとなるのも事実です。それに、私達は己の手を汚さないで済まそうなんて温い覚悟でここにいるわけではありません……。黄さんの言う通り、何進元将軍に連なる貴族達・商家の資産を強制的に徴収し、この急場を凌ぐことにします」
そして、一言一言に重みをもって、今後の自分たちの行動についての決意を口にした。
「月?! 本気なの?! そんなことをすれば、各地の諸侯はここぞとばかりに月の悪名を広めるわよ!」
「詠ちゃん、私は名声が欲しくてここに来たわけじゃないよ。私達はこの王朝を復興させないといけない。その為に、手を汚さないといけないというのであれば、私は進んでこの手を汚す……ううん、むしろそうしなければ、王朝の再興なんてできない、と思うの」
「月…………そこまで……」
董卓の決定に真っ先に賈詡は異を唱えた。しかし、彼女の反対にも董卓は揺るがない気持ちでもって決定を変える気はないと告げる。
主君の悲壮ともいえる決意を前にしては、賈詡もそれ以上の反論はできない。董卓がやると決めたのであれば、自分はそれを恙なく実行して見せるだけである。賈詡も腹を括った。
「勿論、無関係の民にまで危害を加えるようなことは許しません。資産の徴収は対象を決めて、その相手にだけ行うように軍紀を徹底させます。詠ちゃんは、霞さんと恋さんにこの決定を伝えて、兵の皆さんが暴走しないようにさせて」
そして、董卓は手早く行動を起こすための配下に指示を与える。
「それと、黄さんには、民に不安を与えぬよう、今回のことが確かな大義の下に行われるということを喧伝してください」
「はい、その程度であればお安い御用です」
続いて趙忠に対しても指示を与え、彼女は直ぐに了承する。そして彼女は満足そうな顔で、その準備の為にと部屋を出て行った。
こうして董卓が下した決断の下、彼女たちは動き出す。
行く先に待ち受けるのは困難な茨の道であることは彼女達も承知の上である、それでも、彼女達はここで立ち止まるわけにはいかなかった。
例え、その道に踏んではいけない虎の尾が敷かれていたとしても、彼女達には最早、引くという選択肢はないのであった……
「お待ちしてました、御当主、一刀殿。洛陽でのご一件、聞いておりますが……ご苦労、お察しいたします」
董卓達が洛陽にて実権を握った頃、衛弘と一刀は兗州の陳留、自身の商会店舗にいた。
店内の執務室で並んで腰かける2人の前に座り、歓迎の言葉を口にした女性。彼女こそが、商会の発足以来、兗州・冀州地域を任された”満寵”、字は伯寧である。
流れるような黒髪と女性にしては長身な体躯、そして、切れ長の瞳を持つ彼女は、一目見て近寄りがたい堅物のような印象を相手に与える。
彼女に初めて会った時に一刀が、「なんか委員長みたいだ……」との感想を抱いたことも、それを物語っていた。
そして実際に、彼女は彼が想像した通りの人物であった。
彼女は正しく、”狷介不羈”を地で行くような女性である。
何よりも規律を重んじる彼女が取り仕切る兗州・冀州の運営は、他の州と比較しても類を見ないほどに盤石なものであった。
徹底的に管理された生産と販売、緻密に計画された規模拡大、そして一切の間違いが混在しない正確な報告とそれに基づいた的確な指示。彼女の指揮するこの地域での商会の体制はまさに揺ぎ無いものであった。
一刀と衛弘もそんな彼女だからこそ、最も力を入れるべき地域といえる兗州・冀州の2つを彼女に委ねていた。
商会にいる3人の地域責任者の中でも頭一つ抜けて一刀達が信頼を置いているのが、この満寵という女性であった。
「急なことになって伯寧ちゃんには迷惑をかけたね」
「いえ、”洛陽を捨てる”という御当主の判断、私も致し方ないことだと理解しておりますので」
そして、そんな彼女がいるからこそ、董卓の台頭によって洛陽での全てを放棄した一刀達は、ここを新たな商会の本拠とすることに決めたのである。
今回、衛弘が洛陽における商会の全てを放棄するという決定を告げた時、一刀は耳を疑った。
洛陽はこの時代の都、即ち最も人口の密集した街である。その上、一刀達は商会を立ち上げて以来、洛陽を本拠地と構えて拡大に励んできた。
つまり、洛陽において商会が費やしてきた金銭や苦労はそのほかの地域と比しても、比べられない程のものである。
それを、全て放棄するというのだから、一刀が耳を疑うのも当然であった。
しかし、驚く一刀を他所に、衛弘は冷静に、そして冷酷にその判断をするに至った考えを口にした。
埋没費用、あるいはサンクコストと呼ばれる考え方がある。これは、何か事業を行うに当たって、それまでに投下した費用を指す言葉である。
そして同時に、回収不可能な費用を示す言葉でもある。
例えば、「映画を見に行くに当たって事前に前売りのチケットを購入したが、実際に見る際にその前売り券を紛失してしまったケース」で考える。
この場合、”映画を見に行く”というのが事業にあたり、”前売り券の購入費用”が埋没費用に該当する。
この状況では、次にとるべき行動として以下の2つがあげられる。
1.前売り券を失くしてしまったので映画を見に行かない。
2.新しくチケットを購入して、映画を見に行く。
人はこのどちらが自分にとって合理的かを判断し、行動しなければならない。
ここでは、前売り券=当日券=2000円であると仮定し、どういった思考経路で判断を下すのかを考える。
多くの人が陥りがちな間違いとしてあるのが、「事前に買った前売り券を紛失し、改めて当日券を買うことになるので、映画を見るために計4000円の費用が掛かる」と考えることだ。そして、今から見る映画に4000円の価値があるかを比較して判断を下す。
しかし、これは合理的な判断とは言えない。
なぜなら、「失くした前売り券の購入費用」は今後の選択で映画を見ようが見まいが、回収できない費用であるからだ。
故に、合理的な判断を下す為には、「今から払う2000円と映画を見ることで得られる価値」を比較し、失くした前売り券の費用は判断基準から除外しなければいけない。
これは、様々なことでも同じことがいえる。
例えば、ギャンブルでこのまま続けるか止めるかの判断、事業を継続するか中止するかの判断なども同じである。
人は得てして、自分の今後の行動について、それまでに自分が費やしたものを判断に入れてしまいがちである。しかし、本当に合理的な判断は、これから自分が出すコストとえられるリターンだけを比べて下すべきなのである。そこに、これまですでに費やしたコストを考える必要はない。
今回、衛弘が”洛陽放棄”の決定を下したのも、これに基づいてである。
これまで自分たちが洛陽での活動のために費やしたものは考慮せず、これから洛陽に残って商売を続けることによって費やすものと得られるものだけを比較し、彼女は洛陽から手を引くことにした。
「しかし、洛陽を完全に放棄するとは……少し私も驚きました」
「まぁ、このまま洛陽に残れば、私たちは骨の髄までしゃぶられることになりかねないからね……」
理解はできるが、大胆すぎるともいえる判断を下した衛弘に、嘆息するように自身の感想を述べた満寵。
衛弘は、出されたお茶を飲みながら想定しうる最悪を基にして今回の判断の理由を返した。
「なるほど、それほどまでに洛陽の宮廷は困窮しているというわけですか……、確かにその崩壊に巻き込まれるわけにはいきません」
衛弘の言葉で今回の判断の理由を察したように、満寵は顎に手を置きながら納得したような表情を浮かべた。
「そういうわけだ、伯寧。俺達はしばらくここを根拠地にしていこうと思う。余計な手間をかけてすまない」
「いえ、一刀殿。謝られるようなことはありません。元々、私たちの支店は枝葉、幹があってこそ生い茂られるようなものです。すぐに手配し、ここに本店の機能の集約と一刀殿達の居室を用意させましょう」
洛陽を棄てた以上、商会はこれまで全体を統括していた本社機能を喪失したことになる。この状況は非常に拙い。
今するべきはこの陳留に、一刻も早くその機能を持たせることにあった。
従来の仕事に追加でそのような仕事を頼むことに申し訳なさを覚えつつ、一刀は頭を下げるが、満寵は当然のことですと毅然とした態度で返した。
「ありがとうね、伯寧ちゃん。というわけで、先ずするべきなのは、この店を商会の本拠地として整備することだ。そこについては一刀と伯寧ちゃんにお任せするよ!」
「承知しました。それで、御当主はどちらへ?」
やることも決まったということで、衛弘は立ち上がり、残る2人に指示を与えて、部屋を後にしようとした。
その背中に向けて、満寵は問いかける。
「ああ、ここを本拠にする以上、華琳ちゃんと孟卓様(陳留太守の張邈)には話を通しておかないといけないから、今から行って今後のことも踏まえた報告をしてくるよ」
立ち上がって、服の皴を伸ばしながら行き先を告げる衛弘に、満寵も納得した。
「それに……洛陽で思いがけない拾い物もあったからね。彼女達を匿ってあげる以上、華琳ちゃんには説明しておかないといけないよ」
「ああ、彼女達ですか……」
続くように衛弘が口にしたことに、一刀と満寵は名を出さずとも同じ人物を想像して、彼女の言葉に同意した。
「じゃあ、私は行ってくるよ! ……今後も踏まえて、くれぐれも頼んだよ」
そして、衛弘は一刀のほうを向いて真剣な顔をすると、意味深な言葉を残して退室していった。
彼女の言う意味をハッキリと理解した一刀は、力強く頷きでその言葉に答えるのであった。
「……それで、一刀殿。今後についての話を聞かせて頂きましょうか」
衛弘が部屋を出て、室内に残されたのは一刀と満寵だけになったところで、彼女は佇まいを正して、本題を口にした。
勿論、彼女がこうして聞いてくることは一刀も理解していた。一刀と衛弘が話し合った今後の方針、それは目の前の彼女も知っておくべき事項である。
故に、先ほどの衛弘の言葉には、その説明を彼女にしておくようにという意味が込められており、一刀もそれを理解していた。
「流石に察しがいいな」
「あなた方2人が何も策のないままに洛陽から逃げてくるわけがないくらい、誰でも理解できます。それで、今度はどんな仕返しを考えているのですか?」
一刀達が何かしらの腹案をもって洛陽を棄てたと満寵は断言したうえで、その詳しい内容を聞いてきた。
今回、一刀と衛弘が洛陽を棄てたのは、前述した通り、今後の費用対効果を考えての判断であったが、洛陽に持っていた店舗を含む多くの資産を喪失することになったのは事実である。
満寵はこれだけの損害を受けた一刀と衛弘がこのままここで黙って再興に徹するだけとは思えなかったのである。
そして、彼女の考えを一刀は否定することなく受け入れた。
彼女の言う通り、2人がここに来たのも全ては今後のための布石であったのだ。
「仕返しって……そんな物騒なことは考えていないよ。でもまぁ、概ねは伯寧が想像している通りだと思うが……俺達は、今の洛陽の政権、ひいては”現王朝”を許容する気はない」
一刀は満寵の言葉に苦笑いを浮かべてから、決意を込めて自分たちの方針を口にした。
一刀達は董卓達と決別した時点で今の王朝に見切りをつけた。この腐敗した権威の下にいてはいくら商売をしたところで、その稼ぎは吸い尽くされてしまう。
一刀達は自分たちが自由に商売をできる環境を作る為にも、旧態依然とした体制を否定する。そして、それこそが一刀達の決意であった。
「……漢の臣民が聞けば激高しそうな言葉ですね。それで、具体的には何をするつもりですか?」
「驚いたよ。伯寧なら、”なんて不敬なことをいうのですか!!”って怒るかと思ったのだが……」
一刀の言葉に今度は満寵が苦笑いを浮かべながら返した。
呆れたようでありながらも、こちらの言葉を素直に受け止めた満寵に、一刀は少なからず驚いていた。
彼女は非常に規律を重んじる為人だと、一刀は考えている。そして、一刀達がやろうとしていることは、その規律ともいえる現在の権威を真っ向から否定することだ。
それに対して、彼女からある程度の反発のようなものがあると予想していた一刀は、あまりにもすんなりと受け入れられてしまった状況に拍子抜けした。
「はぁ、一刀殿は私を理解のない堅物とでも思っているのですか? 確かに規律は人の社会を成り立たせるために必要です。ですが、今の私は商会の人間です。私にとって従うべき規律とは、その商会の御当主と一刀殿が決めることですから。あなたの言うことであれば、私は従いますよ」
「はは、いい部下を持てて俺は幸せだよ」
一刀の言葉に不服といった様子で、満寵は今の自分にとっての規律について語った。
立場が変われば従うべきものも変わるのは当然、彼女の語った基準は非常に明快で、同時に彼女らしいとも思い一刀は笑いながら軽口で感謝を告げた。
「……冗談は要りませんよ。それで、その具体策とやらを聞かせてもらえますか?」
「ああ! ……と言いたいところではあるが、実のところ、すぐにこちらから何か仕掛けるというわけではないけど……」
そして再度、真剣な様子で満寵が”今後の方針”について聞き、一刀もそれを快諾した。しかし、実は一刀と衛弘はすぐに何か行動を起こす気はなかった。
曲がりなりにも相手はこの時代の最高権威である。こちらから何か仕掛ければ、すぐに朝敵として晒されてしまう。
これからのことを考えれば、民意を掴むことが非常に重要になってくることは一刀達も大いに理解するところである。
であれば、最初にその民意を失いかねないようなことはするべきではない。故に、まずは静観するというのが、一刀達の考えた方策であった。
そして、一刀達が行動を起こすのは、第三者、とりわけ庶民から”商会が対抗するのも当然だ”と思われる状況となった時。誰の目から見ても十分な”大義名分”こそが必要になる。
「ふむ……”大義名分”ですか。しかし、そう都合がいいようにものが運ぶでしょうか?」
一刀の考えを聞いた満寵は考え込むようにしながら、気になって点を指摘した。
一刀が言うことも理解でき、その為に今は動かないというのも理解できる。しかし、その方針は相手に依るところが大きすぎるように彼女は感じた。
結局、こちらが静観していても相手が何か仕掛けてこなければ動くことができないのでは、こちらの動きを相手に握られているに等しいではないか。
向こうが先に仕掛けてくるという前提の上で成り立っている方針、そこに彼女は懸念を抱いた。
しかし彼女の尤もな指摘を受けてもなお、一刀は自信を崩さない様子でその疑問を受け止めた。
「ああ、運ぶ。”都合のいいようにものを運ぶ”のが商人ってもんだ。それに、そのための”餌”も既に用意してある。あとはそれに向こうが喰い付けば……それが俺達の動く時だ」
一刀はこの後の展開が、自分たちにとって都合のいいようにいくはずだと断言した。傍からすれば傲岸不遜、驕りも甚だしいような口ぶりではあるが、彼の正面に座る満寵は全く違う意味でそれを受け止めた。
”俺達が上手くいくと言ったら、それは上手くいく”
揺ぎ無い決意と、それを可能にするだけのものを持っているという自負を感じたのであった。
「静観と言いつつ、しっかり仕掛けはしているということですか……。分かりました、では今からすべきは、その動く時の為にしっかりと備えること……というわけですね」
恐らく、今の大陸にはいくらでも有力な諸侯はいるが、最も敵に回すべきではないのは誰かと聞かれれば、満寵は目の前にいる、柔和な笑みを浮かべる男とここにいない少女ではないか考えた。
今の自分たちが持つものを正確に把握し、それを振るうことに一切の躊躇いを持たない彼らこそ、この大陸で一番恐ろしい怪物なのではないだろうか。
そんな思いが彼女の頭をよぎった。
しかし、それが味方とあれば、これほどまでに頼もしいものもないであろう。
眠れる虎が今、その尾を露わにして、踏みに来るものを待ち構えている。そして、尾が踏まれた時、虎はその磨かれた牙と爪で相手に襲い掛かるだろう。
そして恐らく、この先に起こることは先史にも類を見ないような戦いだ。
(その虎の動きをこれ以上ない特等席で見れるということですか……。ふふ、やはりあの時、御当主の誘いを受けた私の判断は間違っていなかったみたいですね)
満寵は背筋に冷たいものを感じる一方で、自分がその中心の一角に立つことになる喜びに身を打ち震わせた。
(まぁ、その虎の暴威を目の前から受けることになる方々には同情すら覚えますが……。この先の戦いへの好奇心は抑えきれそうにありませんね)
そんな感情を胸に覚えながら、彼女はそれが誰かにばれることはないよう、彼女は努めて平静を装いながら、一刀と共に今後に向けての打ち合わせをすすめていった。
この先に繰り広げられる、1本の剣も1束の矢すらも使わず、それでいて史上にも類を見ないほどの苛烈な戦争への期待を胸に抱きながら、彼女はその時を待った。
そして、この話し合いから、暫くを経て、ついにその時が来ることとなる。
洛陽から届けられた報せ。
”董大尉、何進に連なる貴族・商家に国家への反逆の罪をかけ、その私財を没収する”
これによって、一刀達が用意した”虎の尾”は確かに踏み抜かれることになった。そして、それは同時にこの戦乱の時代において最も奇妙な、それでいて最も激烈な戦争の開始を告げる狼煙となるのであった。
満寵「私気になります!!」
そして一刀は当たり屋、間違いない(凡推理)
ようやくこの章の本筋に入ります。
それと以前から名前だけしか出せていなかった最後のオリキャラをようやく出せました。
久しぶりの人物紹介
満寵 (字 伯寧) 真名:律无(りっつん)
オリキャラその5。
商会の兗州地域の責任者。
元々は官吏として県令を務めていたが、そこで同じ官吏の不正を見て、その同僚を裁いた後に官職を辞した。
そして、故郷に帰ろうとしていたところで衛弘に出会い、彼女の口車に乗せられる形で商会に入り、今の地位に至る。
演義とかだと、呉の面々からすれば張遼以上にトラウマじゃないかという人物。もしかしたらこの作品でもそうなるかもしれないが。
とりあえず、これで当初に予定した全てのオリキャラは出せたので、これ以上は出ない予定です。原作と同様に木っ端役で名前だけ出すような人は何人かいるかもしれませんが、話にかかわるのは多分これで最後です。
需要とかあれば、どこかにこれまで出したオリキャラ全員纏めようかなと思います。