私の両親は控えめに言って最低のクズだった。はっきりと言ってしまえば金の亡者で、どこに出しても恥ずかしい人間だった。金を持っているのに妙な所でせこく、自分の都合を全ての場合において優先とする。彼らの仕事はネットの向こう側にある、いろんな会社の経営の相談役であるらしくて、良く、私に、その手腕を振るって多くの会社の経営を良くしてきたと自慢げに言うのだが、そんな彼らの自慢の種が、実の所、人員削減をメインにした手段により達成されたもので、彼らはコストカット言う名のリストラで一時的に利益が上がったように見せかけることしかできない人物であるということを、私はネットの情報で知っている。
そして多少ネットを漁る程度の知識しかない私程度でもその事を知れると言うことは、当然、私以外のネットの向こう側にいる見知らぬ誰かさんもそんな両親の評判を知っていると言うことで、両親は隠したがっているが、そんな評判に追いやられた結果、私たちはこのような僻地までやって来ざるを得なかったのだと言うことも、私は把握してしまっていた。
しかしそうして逃げてきた先であるここでも、そんな両親の他人を疑ぐって、金に執着し、切り捨てる気質は十全に発揮されてしまって、両親たちと、そんな彼らの子供である私は、村の中においても孤立してしまっている状態にあった。
例えば、両親は、自分たちの実生活を、外見やネット上において良く見せるためになら金と暇を惜しまずに、妙な日用品や見た目のいい高級品。新しい車や、宝石を買ってくるくせに、ちょっとの村内会費も、村のイベントにも参加しない。それに対して文句が来ると、過剰なくらいに反応して、2人ともに怒鳴り、がなりたて、嫌味を言って、来た人全てを傷付けて返す。私たちが住んでいる、私たちを受け入れていくれた村の人たちは、そんな私たちでも一応表面上は村の人間と認めてくれているのだが、心の底では疎ましく思っているのだろう、当然のように、積極的に私たちと関わってこようとはしてこなかった。
大人たちの表面上穏やかな、しかし裏腹で煮えくり返っているのだろうそんな態度は、けれど生活が小さな村の密な生活の中では、すぐに彼らの子供達にも伝わってしまう。結果、小中学合わせて16人しかいない村において、しかし1人だけ腫れ物を触るかのような、仲間はずれにされる状況を招いていた。
―――理不尽だ
私はそうした態度を疎ましく思って、そうした態度を取られた最初のうちは、私なりになんとかしよう、私にとっての万能の辞書であったスマホでネットの検索を行なっていたのだが、調べるに、このような村の中において私のような境遇に陥ってしまったものは、同級生らに苛烈な苛めを受けて心が壊れてしまうものであるらしく、やがてそんな話のみを見続けた私は、子供ながらに、彼らの両親が私の両親を嫌う理由も、そうした彼ら両親の態度を、彼らの子供である私と同小中学に通う彼らがどう扱っていいのかわからないという気持ちになるのも理解できてしまったので、仕方ないかと納得して諦めるようになっていた。幸せと不幸の境界で、自ら積極的に動いて不幸の側に落ちる事を嫌ったのだ。
*
「面倒な事になった」
ある日、父は、母にそう言った。私の頭上を通り過ぎて言った両親の会話によると、父の父、つまり、私にとっての祖父が死んだという連絡が入ったので、早速遺産相続の話をしたのだが、残された遺言状によると、まるで面倒を見てくれなかった私の父よりも、最後まで面倒を見てくれた姉の子である男、つまり、私の従兄弟にほとんど全額を残したいなどと書かれていたらしくて、遺留分の相殺がどうたらこうたらで不満があるとかいう話だった。
しかもその話をよく聞くと、父は、遺産そのものに対してもそうだけれど、それよりも、祖父が実の子である自分よりも遠い血縁にあたる孫に多くを残そうと祖父が画策したことが気に食わないらしくて、母もそんな父に同調して、遺言に異議を申立てると息巻いていた。
――気持ち悪い人達
正直、祖父の気持ちを完全に無視する割に、自分らの気持ちを優先して押し通そうとしている時点で、正直すごくうんざりしていたのだが、やがて「弁護士に一任したい」、と言う従兄弟の意志を、「親族間の出来事なのだから親族の間で解決すべきだろう」、という暴論で押し切り、親族間の会議をこの家で行う約束を取り付けたと、2人して喜んでいたのを見て、その胸糞の悪さは極まった。
――だいたい、何が親族間会議よ
親族と言っても、祖父には父とその姉の二子しかいないし、祖母はすでに死別している。さらに従兄弟のご両親は父の姉とその夫のご夫妻すらも既に亡くなってしまっているとかで、実の所、親族と呼べるのは私を含めてたった4人という有様。
――ほんと、気持ち悪い
そんなわけで、彼がこの家に来るというのは、実質のところ敵地に単身乗り込むようなもので、わざわざ馬鹿正直に付き合うこともないと思うのだが、祖父の面倒を最後まで見たという従兄弟はまさに馬鹿正直であるらしく、それでも来てくれるのだという。
――馬鹿な人……。でも、うちの両親なんかよりずっといい人だわ
そうして私はそんな馬鹿正直な従兄弟をまさしく馬鹿だと思いながらも、両親の意地汚さによって間近で被害を受けて来た私としては、害を撒き散らす両親よりも、彼らという害を被った、馬鹿正直な従兄弟に全額上げてやってほしいものだと、心の底から思うようになっていた。
*
そんな馬鹿正直な従兄弟が来るとなった直前の日。私としては曲がりなりにも意見を曲げてくれた人が来るのだから、バス停まで迎えに行くなどという殊勝な真似はしないだろうにしろ、流石にクズの両親でも、せめてバスが朝と夕方の1本ずつ、計2本しかないこの村において、バスが最寄りの駅から出る時刻を教えるぐらいの事はするだろうと思っていた。でも。
――まさか、あそこまで恥知らずだとは……
父母の思考は私の予想より遥かに悪い方向へと吹っ飛んでいて、彼らは駅からの出発時刻を教えるどころか、「住所と連絡先を添えて日時も添えて伝えてやったのだから、勝手に調べてやって来るだろう」と言い放ち、自分達から遺産を奪おうとする敵に対してなぜ敬意を払わないといけないのだと言わんばかりの態度で、作戦を練っていた。
――流石に、その態度は、ないだろう
私はそんな父母の最低な態度っぷりに、心底呆れ果てていた。流石にそのまま両親の愚行を放置して見過ごしてしまっては、ほとんど擦り減った私の良心も痛みを感じると直感したので、仕方なく私は従兄弟を迎え入れる準備を1人ですることとした。
――とりあえず、休むところくらい作ってあげなくちゃ……
親族会議にやって来た従兄弟は、多分いつも父母がパソコン画面に向かってやっているような、長時間の話し合いという名前の一方的な罵りになるだろう会議の後、画面の向こうの相手のように多分疲れ果て、そして我が家に泊まるざるを得ない事態になるだろうことを想定して、物置を簡単に片付けると、布団を干して、簡単な寝室を作った。
そして次の日、私は、両親がネット上にアップするからと言って私に買い与えてくれた、タンスの肥やしになっていた、シンプルながらも見栄えが良く、着心地のいい白いワンピースを簡単に着ると、同じく同色の日傘をさして、バス停まで彼を迎えに行く事とした。
――あ
けれど、そこで、私は私の計画の穴に気がついた。他人との繋がりをまるきり気にしていなかった我が家には、当然、写真なんて気の利いたものはなく、まだ私の記憶が定かでない幼い頃に数度あっただけという従兄弟の顔を、私は当然覚えていなかった。そのため、私の万能の辞書であるネットで、従兄弟の名前――八重青常という名前をネットで調べても、彼らしき人物に写真自体は複数出て来るものの、どれが従兄弟の彼に相当するのかまるで見当がつかず、結局、当日、私は彼を迎えに行く直前になっても、私は従兄弟の顔がわからない状態だった。
――ま、なんとかなるか
とはいえ、こんなバスで3時間もかかるような辺鄙な村、バスを利用するのはそれこそ村人以外で、また、村人以外が村を訪れる事も珍しいため、多分、バスから降りてくる乗客などという奇特な存在がいれば、おそらくそれが彼だろうし、いざとなればスマホで彼に連絡を取ればいいかと楽観的な予測をして、バス停へと向かった。
*
――〜♪
田舎の畦道を鼻歌交じりに歩く。いつもと違って、今日は、使用目的を持っての、スマホの持ち出しだった。久しぶりにスマホが検索とゲームアプリ以外の役に立つのだと思うと、少しだけワクワクとした。アプリを使って友達を作ろうにも、両親の悪評と、バスで片道3時間、往復で6時間はたっぷりかかるというかかる交通事情が邪魔をして、スマホは結局、1人で遊ぶ以外の用途を持つことができなかったのだ。
――〜♪ 〜♪
やがて私は日傘の陰に守られながら、そのままテクテクと歩いてバス停までやって来た。田舎の、バスが通れる程度には広い道の上にぽつねんと存在するバス停は、文字が読めないほど薄くなっている、ほとんど無意味な時刻表が貼り付けられたままだった
――三十分、か
スマホを見ると、予定通り、だいぶ早かった。田舎のバスは、割と時刻があてにならないための処置だった。私はそんな忘却の象徴の隣に置かれた、これまた古ぼけた金属の上に布が張り付いただけの椅子の上、大量に積もっていた土埃を素手で簡単に払うと、お嬢様がやるようにハンカチを敷いて、その上に座った。
――らしくもないなぁ
わざわざ見せる相手もいないのに手入れがめんどくさいという理由でジーパンとシャツを好んで履いていた私にとって、そうして服の汚れを気にしてお上品に座るという事態は未知の体験だ。大人な格好をした私を物珍しそうに見るかのように、太陽は強く私の周りに直射日光を送り続けている。そんな太陽の熱を吸収し続けていた椅子は、プラスチックの部分が目玉焼きを作れそうなくらい熱くなっていた。
――どんな人が来るのかなぁ……
日傘の陰の中、お尻からもたらされる熱さと周りを取り囲む暑さは体内へと緩々と入ってきて、やがて垂らした髪から滴り落ちる汗が地面に影よりも黒いシミを作った。身体中をトロトロと汗が這い落ちてゆく。私はバスが連れて来るだろう従兄弟の顔を想像しながら、最悪の座り心地に変貌するその時まで、ウキウキと浮かれ続けていた。
*
――あ……、つぅ……
浮かれた態度が保てたのは文字通り数分で、だだっ広い田舎の畦道の通りの脇、燦々と照りつけてく太陽の光が私の肌をチリチリと焼いてゆく。在宅勤務の両親がいつも居座っている家や、仲の良い友達が1人もいない学校に我が物顔で居座っているのも辛いので、よく外を散歩している私の肌はほとんどがすでに褐色じみている。だから、今更表に出している肌が黒ずんでいく事に抵抗はなかったが、この、ゆるゆると温度の上昇していく風呂の中に全身を沈めさせられてじわじわとやがて頭がぼーっとしていく、のぼせていくような感覚だけは勘弁して欲しいと思った。
――み、みず……、と、あめ……
ポタポタと垂れる汗の成分を水筒の中身と塩飴で補充するけど、体の中に溜まっていく熱だけはどうしようもない。周りに誰もいないのをいいことに体に張り付いた服を剥がしてはためかせ、服と肌の隙間に風を送り込んで熱を逃がそうと画策していると、そんな私を応援するかのように、バスが少しだけ涼しい風を伴って私の目の前にまでやってきた。
プシュン、と音がして扉が開く。バスの中から、熱の放出に苦戦していた肌には冷た過ぎる風が出てきて私の体をぞくりとさせた。これからの出会いに備えて頭を冷やしておけと言わんばかりの、冷風だった。
――さむっ
そしてそんな真夏の日差しの中に吹き荒んだ凍えそうな風の後、バスの中、料金支払い器に金を突っ込んだ1人の人間が降りてくる。その人間は、このクソ暑い時期に見合わず、荒い目のスーツをベストまできっちりと着込んだ、垢抜けた感じの男の人だった。
「ふぅ」
短くため息を吐いたその人は、バスから降りると、待合所にいる私へと目線を送ってきた。それは純粋に興味の視線だった。その仕草から私は、この人が従兄弟なのだなと確信じみたものを得た。私はバスの中より投げかけられるもう一つの、問いかけるような視線に首を振って乗車拒否の視線を伝えると、私の両親の我儘に付き合って鞄一つでこんな僻地にまでやってきてくれた男の人に対して、たっぷりの同情と、普通くらいの感謝と、少しの真心を込めて、一言をかけてやる。
「お疲れ様」
すると男の人は最初驚いたけれど、すぐ続けざまに人懐っこい笑顔を浮かべなおすと、言う。
「ああ、ありがとう」
――……うわっ!
なんの含みもない素直な礼を真正面からもらったのはすごく久しぶりで、だからだろう、私は、従兄弟――つまり、八重青常さんの方へ、自然と手が伸びかけていた。
――わ、わっ、わっ……!
私は今の自分の状態を把握すると、近づいていく腕が体を前へと引っ張り出すよりも早く、私の中の負けん気はそんな行為を恥じて、せめて挙動の最終形態を変化させるべく、無理やり体の動きを変化させた。
「すごい格好。見てるだけで暑苦しい」
結果、私は、人差し指で一回りは上の男の人を指差すと言う、無礼な態度を取って、失礼すぎる言葉を口にしてしまっていた。後に家に着くまでどんなやり取りをしたのかは、もうよく覚えていない。きっとのぼせて、浮かれていたせいだろう。ただ。
――今日はすこしだけ、いつもと違ういい日になる
家に着くまでの間、彼と話しているうちに、そう思ったことだけは覚えている。
*
「こんにちは……」
「――ああ」
「――いらっしゃい」
――うわっ……
私の家へとやってきた八重さんは、家に着くなり玄関で私の父母と対峙した。私は父母が時たまパソコン画面の向こう側にいる相手に向ける肉食獣のような顔になったのを見て、そそくさと、我が家の玄関から、元来た外へ退場した。これから行われる話し合いの結果がどのようになるかは知らないけれど、結論が出るまでの経過で、父母が悪魔の如き状態に変貌することだけは確かなのだ。
――君子危うきに近寄らず……
両親があの顔を浮かべた時、そのあと彼らは、馬鹿じゃなかろうかと思うくらい、大きな声で怒号と悪口を撒き散らす。怒号は父の役目で、悪口は母の役目だった。彼らはそして脅し、すかして、そのあと優しくなだめ、また怒鳴るを繰り返す。両親はそれが人の心を簡単に操る方法だと自慢げに言っていたが、控えめに言っても、それはまともな人間の使う手段じゃないと思っていた。私はそうして両親が人のことを口汚く罵るのを見ると、聞くと、それだけで情けなくなって、悲しくなる。
――どうしてそんなに一方的に怒れるんだろう……
私はそんな両親の醜い姿を見たくなかった。そんな彼らのケダモノじみた咆哮を聞きたくなかった。彼らが私の側でも御構い無しに、そんな風にケダモノのような声で叫び散らす時、私はいつだって、どうか彼らに理性を取り戻させてほしい。どうか穏やかに話し合いを行って、そのあと、わだかまりなく過ごせるようになってほしいと神様に願っているが、神様は一度だってそんな私の願いを叶えてくれることはなく、両親はいつもと同じように吠えて、叫んで、相手を脅し、誰かに襲いかかり、そして襲撃された被害者は、精気を失ったかのようにぐったりとしてしまうのだ。それは私に取って、いつものことだった。
だからきっと今回もそうなるに違いない。だから、そう思った私は逃げた。いつも通り、しかしいつもと違う格好で逃げ出した。わざわざ餌場となる場所に居たくなかった。これから獣となる両親を見たくなかったのだ。これからそうして2人に捕食される八重さんを見たくなくて、私は逃げ出して居た。私は臆病者だった。私が去っていく後ろで玄関の閉じる音がする。
――八重さん、ごめんなさい……
私は脇目も振らずに玄関から離れると、家から遠ざかる。必死で逃げる最中、空からは変わらずに太陽の光が私に降り注いで来る。陽光の持つ熱は、身体中の皮膚を焼き焦がすほどの熱量を持っていた。けれど、私の心に生まれた罪悪感と羞恥心は、そんな熱さが可愛く思えるほどの熱を持っていて、太陽の熱なんかよりもよほど早く、私の体と心を後悔で焦がしていく。
―――せっかくいい日になると思ったのに
結局、いつもと変わらない。そんな想いが胸の内をよぎった。
*
八重さんより連絡が入ったのは太陽が頭上を通り過ぎて、山側に大きく近づいた頃だった。いつものようにプラプラしていた私は、まず珍しく高く鳴り響いたスマホを慌てて取り出すと、スマホ画面上に移る「通話/拒否」文字のうち、通話の方向に指先をスライドさせて電話に出る。
「やぁ、終わったよ」
――嘘っ!
すると、思いのほか元気な彼の声を聞いて驚いた。彼は長引かせてごめんね、と前置きをした後で、話し合いがつつがなく終わったから戻って来たらいいと、私に提案してくれた。私は心の中で滞ってチリチリと全身を焼いて気怠さを生んでいた熱が、私に取って心地よい温度へと変化していくのを感じた。心の内側から生じる熱は、太陽のものなんかよりずっと熱く私をはやし立てた。
――まさか本当に!?
私はそんな彼の誘いが嬉しくて、すぐに、「はい!」と返事をすると、電話を切るのも忘れて、久しぶりにはしゃぎながら、家に向かって駆け出した。
*
――うわっ、すごっ……
家へ帰ると、クーラーの効いたリビングの机の前で両親が意気消沈していた。魂が抜ける、とか、燃え尽きる、とかのそんな表現が、まさに正しく2人の今の状態を表していると思った。まぁ表現なんてどうでもいい。重要なのは、2人は初めて獣が牙を抜かれたかのような状態になっているということであり、そして八重青常さんは、そんな2人をやり込めることができる程の人間であるという事実だった。
――凄い凄い!
私は、ついに自分の願いが叶えられた事を知って、とても喜ばしい気持ちになった。気持ちはすぐさま満ち溢れて、私は私の願いを叶えてくれた人物に対して何かしてやりたいという気分になった。
――お
ふと放心している両親の前の机の上を見ると、空っぽになったコップが三つ見えた。一つは父の、一つは母の、一つは八重さんのものだろう。コップは唯一、八重さんが使っていたと思わしき物だけが、飲み干されていた。これだ、と思った私は、コップを回収すると、そのまま台所へと行って、お盆の上に自分用のコップをついでに置いて、冷蔵庫の中から氷を二つにぶち込んだのち、プラスチックの麦茶が入った水差しを取り出して乗せて、そして持ち上げた。
――おも……
コップ二つと液体がたっぷりと詰まった水差しが乗ったお盆は、少しばかり重かった。しかしそんな重さすらも、今の私に取っては心地よい刺激だった。私は両手にお盆を持ったまま、彼がいるだろう元物置の、暫定的な寝室へと向かう。胸の鼓動は早まり、その高鳴りにつられて、私は自然と早足になっていた。
*
――鼻がムズムズする……
八重さんがいるはずの和室の部屋の前までやって来ると、そこはまだ少し埃の匂いがした。和室との境界である襖のこちら側、フローリングの廊下の上では、太陽の光がキラキラと空気中の埃と反応して、細やかに輝いている。一応私が前日に掃除をしたわけだが、そんな付け焼き刃の行為では、日頃の無精の積み重ねを追いやるにはとても足りなかったらしい。私はそんな部屋に八重さんを通してしまって恥ずかしいやら、しかし八重さんが私の掃除した部屋を使ってくれて嬉しいやらで、なんとも形容しがたい気分になった。
――ううむ
逃げたい。そんな気持ちも湧いたが、とはいえ、どうせ彼がバス停に戻る時は見送りをしようと思っているわけだから、その時までには最低一度顔を合わせるわけだし。
――ええい!
心の中のグルグルを追いやるように、襖の黒縁に足を引っ掛け、指先に力を入れ、スパンッ、と音を立てて、襖を端まで追いやる。襖を開けると、物置だった部屋からは、私の声をうるさがるかのように、昨晩処理しきれなかった埃が飛び出てきた。そんな彼らのいらない歓迎を無視して入室し、中を見渡すと、私はすぐ、私の視界の下、私が用意した折りたたんだ布団に身を預けた彼の姿を見つけた。
――あ
「お疲れ様」
労いの言葉が自然と飛び出した。
――うわっ、うわっ!
途端、気恥ずかしくなった。照れ臭さを隠すようにして開けた時より控えめに後ろ足で襖を閉めると、彼は多分無意識だろうに、首を縦に振って、私の言葉を受け取った。そんな、多分彼に取って何気無い仕草であっても、人付き合いの乏しい私に取っては大きな刺激で、身体中の血がギュンと強く巡り、火照った感じになる。胸がドキドキする。
――わー、わー
血の巡りの勢いに乗って部屋の中を進むと、八重さんの寝転がっている横に腰を下ろして、お盆を置く。かちゃんと少しだけ音がなって、ちょっとだけ恥ずかしい気分になった。なぜか急く気持ちを抑えながら、それでもいそいそと氷の入ったコップに麦茶を入れる。すると。
「小さくても花は花、か」
八重さんの言葉が私の全身を貫いた。彼にしては当然で、しかし私からすれば余計な形容詞は付いているけれど、それでもそうして彼のこちから飛び出した言葉が、私の容姿だか、立ち居振る舞いを褒めるものだということを、私の全身が理解した。
――花
花、と。私をそう例えてくれるのか。八重さんは、自分を見捨ててその場から逃げ出した私を褒めてくれている。そんな八重さんの言葉に、私は全身の血液が沸騰したかのような状態に陥った。血流が加速して胸は自分でも驚くほど高鳴っている。グワングワンと耳鳴りがして、頬に、頭に、服と空気と接している肌の部分に、ガンガン熱がこもってゆく。その熱は、まだ明るい窓の外から飛び込んできて私を照らしている太陽がもたらす熱よりもずっと温度が高くて、私はのぼせてしまいそうだった。
――お、お、おぉぉぉ!
興奮は八重さんの言葉と合わさって、私の体に熱をもたらす。窓から差し込む夏の太陽の光が、さらに余計に私の体を熱くしていた。でも私は、そんな太陽の光に感謝した。この白光の極薄いカーテンでも、なければ、私が八重さんの言葉でどれだけ真っ赤になってしまったのか、一目で理解されてしまっただろうからだ。
――……あ、やば
そんな私の挙動不審がバレていないだろうかと横目を使うと、彼の少し慌てた様子が目に入り、どうやら今の言葉は無意識のうちに出たものであるらしいと、私は悟った。私の体の中をめぐる熱がさらに温度を上げる。内心のそんな動揺を悟られるのが、悔しいやら、嬉しいやら、悲しいやら、恥ずかしいやら、自分でもよくわからない気持ちで混乱する頭と体を抑え付けるべく、努めて冷静さを保っているふりをして、素知らぬ体裁で言葉を返した。
「……何?」
今のよくわからない気持ちを知られたくないと思い、表情を作ろうとすると、自然、眉尻に力が入った。
「いや、なんでも」
八重さんはそして、私の向けた視線から目を逸らした。
――……、しまった……!
私はそこで、自身をよく見せたいという思いからの行動が、結果、私は八重さんを射抜くような攻撃的な視線を向けてしまっていることに気がついた。
――うぅ……
私は少しの後悔を抱きながらも、今のよくわからない気持ちを知られずに済んで、ホッとした気分になった。彼はぐいっ、と、グラスを空にする。麦茶が飲み干された後、響く氷の音は、私の卑怯を責めるように音を立てた。