夏の境界   作:うさヘル

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境界 ――、八重青常の侵入

「よければ私の部屋で話さない?」

 

彼女の申し出に僕は驚いた。その、しなを作り、横目で、恥じらいを秘めたようなその誘い方は、まるで男を床に誘うような、彼女の年から考えれば不釣り合いな態度のものだったからだ。

 

「――話すならここでよくないかな?」

 

僕は自身が今しがた抱いた感覚と、彼女の思惑に差異があるだろうことを自覚しながら、それでも僕自身と彼女の為にそんな提案をする。しかし。

 

「ここ、埃っぽいでしょう? ずっといるのは健康によくないわ。お話しするなら空気が綺麗な場所でした方がいいでしょ? ――どう?」

 

そして立ち上がった彼女は上から覗き込むようにして、僕を見下ろす。ひらりと揺れたスカートが窓から飛び込んでくる太陽の光を反射して、キラキラと輝く。それは部屋の中の埃に反射して、部屋中に濃淡のある光をばら撒き、薄暗い部屋を一気に明るくした。

 

「―――」

 

光の中に溶け込んでいながらそうしてしっかりと存在感を放つ彼女のその様は、ひどく扇情的に見えた。僕は僕の不埒な想像が当然外れてくれたことに安堵しつつ、しかし彼女のそんな仕草に新たな邪な想いが生まれてくるのを自覚しながら、彼女の目を眺めた。小さな頭から垂れた黒髪の中に秘された瞳は、如何にも汚れのない宝石のようで綺麗だった。

 

「?」

 

彼女は軽く首を傾げる。挙措から、彼女の誘いの中には一切の不純が存在しないことを僕は確信した。心の中で、そんな彼女を汚してしまいたいという思いが、鎌首を上げた。僕は慌ててその想いをかき消すも、やはり一回湧き上がった不埒な想いは穢れとして心の中に残り、次々と良からぬ想いを生み出してゆく。そうして汚れのない彼女にじっと見つめられていると、相対している僕の汚さが次々と露わになってしまう。断った方がいいだろう、とも思ったが、そうして自分の醜さが彼女の汚れなき瞳を曇らせるというのもまた、彼女を汚す行為になるかもしれないと思って、僕は彼女の誘いに乗り、すごすごと彼女の部屋へと連行されることとした。

 

 

「お邪魔します」

「どうぞ」

 

扉を開けた彼女の後に続いて部屋の中に足を踏みいれると、藤村美緒という彼女の部屋は、年若い女の子の部屋にしては広かった。

 

彼女の部屋は客人である僕にあてがわれた八畳の和室よりも倍は大きな洋室で、そんな大きな部屋を埋め尽くすかのように、部屋の扉から入って左手には、豪奢な飴色の六段の書架が二つ並び、その隣にはそれらの書架と合わせたくらいの大きさの真っ白な桐のクローゼットと、引き出した一段の部分に僕の持ってきた鞄がまるごと収納できそうな四段の和式箪笥が置かれていた。

 

――おぉ……

 

本棚の中には図鑑や誰もが名前を聞いたことくらいはある海外の立派なハードカバーの小説本がぎっちりと詰め込まれ、側に置かれた机や小さな棚には、大型のテレビや最新型のゲーム機が立ち並んでいる。それは子供にあてがうにしては立派かつ過剰すぎる気もするが、あの見栄っ張りの叔父夫妻の性格から考えるに、彼らが彼女にこうした部屋を与えるのは、ごく自然である気もした。

 

――ふむ?

 

しかし、そんなだだっ広い部屋であるのだが、真正面奥、窓端に括られている部屋の大きさに見合った大きさの引き違い窓の中央を境界として反対側、つまり、部屋の右側に視線をやると、一転して、彼女の年にあった子供用の勉強机と、どこにでもあるようなベッド、小さなプラスチックの本棚と洋服棚がちょこんと片隅を占有しているのが見える。勉強机の上には教科書が並び、ベッドの上には端の擦り切れたシーツの布団が置かれ、本棚は雑誌が半端に詰め込まれているも隙間だらけだった。如何にも彼女の年頃に見合っているはずのその様は、この広い部屋と豪奢な家具が立ち並ぶ部屋にあるものとしてはあまりに不釣り合いなものとして僕の目には映った。

 

――なんだろう……、なんだか……

 

閑散としている。不意にそんなイメージを抱いた。よく見ると、そうした窓が敷く境界線を中心として左右に別の属性を持つ部屋は、たしかに彼女のいう通り埃の匂いこそないものの、どこか物寂しい雰囲気があった。よく見れば、整頓された部屋の中において、左側の部分は、あまりに現実離れした気配が佇んでいた。それは。

 

――あまりにも綺麗すぎる

 

チープでありながら生活感の溢れる部屋の右側に対して、豪奢で富貴の匂いに溢れる部屋の左側が綺麗すぎるのだ。

 

――ああ、成る程

 

そして僕は悟る。彼女がこの与えられた部屋の左側の部分を、あまり好んでいないのだろう事を。

 

「……」

 

無言のまま彼女は部屋の右側へと進むと、ベッドの上乗ると、ノソノソと奥へと進み、壁に背を預けた状態で足を伸ばした。この広い部屋の主人である彼女は、やはり自身の部屋の左側にあまり価値を見出していないようだった。

 

――なるほど

 

僕は彼女が豪奢な側に目もくれない様から、この部屋の左側の光景の中に、如何にも、外面を気にしながらもずれた価値観の中に自己完結している誰かの姿を幻視した。

 

――如何にもあの2人らしい

 

おそらく叔父と叔母は、子供にいいものを与えていれば娘も喜ぶし、勝手に良く育つだろうと思って、見栄えよい物を買い与えたのだろう。そんな周囲に対して見栄えはいいが、中身が伴っていない透明な愛情を、根腐れしそうなほど与えられながら、藤村美緒は孤影悄然とそれを拒絶して、本当に必要な部分だけを選りすぐって、自らの周囲にかき集めて、吸収し、成長した。だからこそ彼女はああも純真なのか――

 

――……ん?

 

しかしそう考えて、僕のそんな考えに違和感を覚えた。僕のその考えは、自分にとって過剰すぎる愛情を過剰と判断できる能力や基準を持っていることが前提条件だ。愛情が過剰か否かの判断に必要な基準は他人との家庭の比較からしか生まれないし、客観の価値観は徹底的に自己を否定し続けた先にしか生まれない。

 

――まぁ、前者はいいとして……

 

強く子供の人格形成に影響を与えるのは親だけではない。同世代の友人や学校の教師、そんな彼らを含めた、彼女の周囲の環境というものも、子供の人格形成に重要な要素だ。おそらく村の中での多くの人と触れ合いの中で、彼女があの叔父叔母の元、“まとも”な判断基準を能力を身につける才能があったのだろう。

 

――問題は後者だ……

 

そうだとして、なぜまだ幼い彼女が、そんな、徹底的に自己を否定した先にあるのみ存在する客観的価値観を持っているのか――

 

「……いつまでそうして入り口にいるつもりなの?」

 

そうして部屋の様子から、ほとんど初対面に等しい女の子の内面と育成環境を探るという我ながら浅ましい行為をしていると、彼女は僕へと言葉を投げつけて来る。

 

「……! ごめんごめん。つい……」

「ふぅん……」

 

慌てて一歩を踏み出して部屋の中へと踏み入れる。彼女はその様子を睨めつけるような、呆れたような鋭い視線で眺めていた。目線が痛い。

 

――警戒されたかな?

 

しかし彼女は僕に向けていた観察の視線を、先程僕が向けていた自身の部屋の豪華な方をへと向けなおすと、しかしすぐに興味を失ったと言わんばかりに、目線を僕の方へと戻した。

 

「まぁいいですけど」

 

――ほっ

 

内心安堵した僕は後ろ手に扉を閉める。内装と同様に豪奢な模様が刻まれた洋室の扉はやけに仰々しい音を立てながら動くと、やがて扉の淵は壁の淵と一定の隙間を保った状態でピタリと揃い、僕と彼女を外界から遮断した。

 

 

「どうぞ」

 

彼女は自らが座っているベッドのシーツを無邪気に叩いた。皺の寄ったシーツが柔らかく揺れて反発する。ベッドの上、壁に背を預けて枕を膝の上に乗せた彼女は、自身のそんな所作が、男をどのように勘違いさせるのか、多くの場合どういう意味を持っているのか理解していない様子だった。

 

――流石にそれは……

 

そのような意味での所作ではないと理解していながらも、それをやると僕自身がいたたまれない気持ちになると直感した僕は、広い部屋の中、客人用のクッションの一つでもあればそれを使わせてもらおうと見渡すも、あいにくそのようなものはほとんど見当たらず、唯一勉強机に付属している椅子の上にちょこんと存在するばかりだった。

 

――仕方ない

 

僕は彼女の無自覚な誘惑を無視して扉から部屋の右奥へと進むと、年月の経過を感じさせる、古びた小さな椅子を勉強机の下から引き出し、腰掛ける。椅子は僕の体重を重いというかのように軋んだ。

 

――うっ……、しかし……

 

子供用の椅子は僕が座るには小さすぎて、文字通り尻の座りが悪いが、かといって女の寝床という領域にズカズカ入り込むよりは気が楽だと自分に言い聞かせ、無理やり腰を落ち着かせる。自意識が強く、少女に対して警戒しすぎかもしれないが、これは職業柄、ほんの些細な気の迷いで、人は簡単に方位を違える事を知っている僕の癖のようなものだ。

 

「……」

「……」

 

しかしそんな僕の思い遣りなど気がついていないのだろう、彼女はムッとした顔を浮かべて、視線で不満を訴えていた。彼女の視線は今すぐ自分のして言いた場所にくるようにと誘っている。僕は無言でその誘いを跳ね退けた。

 

「…………」

「…………」

 

彼女はそれでも目線を逸らさない。やがてまだほとんど皺のない眉間に皺が寄って行く。口は中央へと近寄り、窄んだ状態へと変化していった。

 

――……!

 

そのままぎゅっと眉を顰め、ふくれっ面で不満に文句の一つでも口から漏らすのかと思いきや、彼女はある瞬間を境目に、ふっ、と眉を寄せる力を抜いて、やがて徐々に眉の距離は元の通りに戻ってゆき、口元からも力が抜けてゆく。それは自分の欲しいものはやはり絶対手に入らないのだとでも言うような、諦観と納得の入り混じった顔だった。

 

――それはまだ子供の君がしていい顔じゃない……!

 

「……、はぁ、わかったよ」

「……!」

 

一人の大人として、まだ幼い彼女にそんな顔をさせるわけにはいかない。座り心地の悪い椅子に座っているよりも居心地に悪くなる視線を受けて、僕は彼女の望み通りに、彼女が叩いたベッドの縁に腰かける。我ながら意志薄弱だと思うが……

 

――ああ

 

後悔はない。なぜならたったそれだけの挙措で、彼女がこの世の終わりの時を眺めているかのように曇っていた顔が、希望に満ちた笑顔に変わったのだから。

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