夏の境界   作:うさヘル

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境界の向こう側ーー、藤村美緒と八重青常

「……、えい!」

 

わざとらしく叫びながら、いつも通りジーパンとシャツの姿で玄関から外へと一歩踏み出す。クーラーの効いていない真夏の日中の外側はやはり暑く、肌を焼く日差しも、体にまとわりつく湿気も、何一つ変わらなかった。それでも。

 

――ああ

 

いつもと変わらない日常、自分から進んで一歩踏み出した玄関から先の世界は、いつもとまるで違って見えた。玄関の先には塀があって、塀の先には堀があって、堀の先には道があって、用水路があって、田んぼがあって、さらに先に行くと、また用水路があって、今度は畦道があって、用水路、田んぼと続き、やがて林、森、山、空へと続いていく。

 

きっとその先、空の向こう側、わたしには見えない境界の向こう側にも、わたしの世界が広がっている。手を伸ばせば届くかもしれない。頑張っても届かないかもしれない。でも、頑張れば手を伸ばせば、どこかで誰かに繋がるかもしれない。それは例えば。

 

――青常さん

 

「ん? なんだい?」

 

心の中で呟くと、そんなわたしの声に反応したわけじゃないだろうが、彼は振り向いた。玄関の先、青常さんは、昨日きた時のままの暑苦しいまでにきっちりとしたスーツ姿のままで、我が家の玄関前に立っている。いつもと違う日常が嬉しくて、わたしは昨日のことを思い出した。……、途端。

 

――う、お、おぉ……、お、ほおぉぉぉぉぉぉ……!

 

羞恥心が私の心に到来した。私は、内心で思い切り変な声を上げて、地面にしゃがみこんで、頭を抱えた。奇声を漏らす事なく自らの裡にとどめた自分の忍耐を褒めてやりたいくらいだった。私はその時初めて、自分を嫌い続けてきた自分の忍耐力に感謝した。いや、そんなことはどうでもいい。ああ……

 

――忘れたい

 

忘れてしまいたい。加速的速やかに、できれば永久的に記憶の奥底に封じ込めておきたい。背伸びして、自分から言い出しておいて、嫌がる青常さんを無理やりひん剥こうとした挙句、興奮して気を失って、気がつくと心配そうに、それでいて気まずそうに視線をそらす青常さんを見た瞬間の、あの奇声を出さずしては思い出すことすら憚られる顔から火をふくどころか、ぽんぽこぴーな恥ずかしさは、今後おそらく、私の生涯においても二度と味わうことのできない最大のものだろう。きっと、あんな恥ずかしい思いをすることは今後ないはずだ。

 

――ないと信じたい。そう信じよう

 

……でも。

 

――あれがもうちょっと、自分の手に届く範囲の、背伸びだったら……

 

それが、ちょっと背伸びして、お互いが気恥ずかしくなるくらいのものであるのなら、それはそれでいいものなのではないかと、私は思う。思うに、私は急ぎすぎていたのだ。望む結果に対して、背伸びしすぎて、急ぎすぎて、必死で手を伸ばしても、届かなくて、ぐるぐると同じところを回るばかりで、だから諦めて、できない自分が嫌いになっていた。……でも。

 

「美緒ちゃん?」

 

今、私のそばには、青常さんがいる。昨夜、ただそこにいてくれただけのこの人は、そうしてただ自分のそばにいて、心配そうな眼差しを私に向けてくれている。そうして昨日と全く変わらない格好をして私を覗き込む青常さんは、けれど昨日とちょっとだけ、変わっている部分があった。それは。

 

――やっぱりぐちゃぐちゃだ……

 

青常さんのシャツだ。それは、私が昨日、その時、あらん限りの力で握りしめて、破るばかりの勢いで脱がしにかかったので、皺だらけのぐちゃぐちゃなものになっていた。ベストとジャケットに隠されているけれど、あの下は、私の涙と鼻水と涎と汗と、その他諸々の汚れで、もっと汚くなっているのだ。そう。それは、昨夜、青常さんが私のそばにいてくれた証。

 

「大丈夫?」

「あ……、はい、大丈夫です!」

「――そっか」

 

――あ

 

そして元通りの姿勢に戻った途端、私が汚した彼の服はベストとジャケットの裏側に隠されて見えなくなった。彼は昨日きたときのように、きっちりとした姿で、鞄を片手にして、我が家の玄関先に移動した。まるでもう他人だ、と言わんばかりのその背中が、私は気にいらなかった。だから。

 

「――行きましょう、青常さん!」

 

私は駆け出して、青常さんの手を胸の中に抱え込んで、彼を引っ張った。

 

「――うわっ!」

 

急な衝撃で彼のきっちりとした姿勢が崩れる。ボタンが外れてジャケットが風に舞い、昨日の証が姿を現した。私は青常さんの牙城を崩せた気がして、非常にいい気分になった。

 

「ちょ、ちょっと、美緒ちゃん! 引っ張らないで!」

「いやでーす!」

「――ああ、もう、まったく!」

 

困惑の表情を浮かべながらも、青常さんは私の腕を振り払わずに、走る私に歩幅を合わせてくれた。青常さんは、私のそばにいてくれることを選択した。ただそれがすごく嬉しかった。

 

「ねぇ、青常さん、聞いてくれる?」

 

湧き上がる衝動を相手に理解してもらうべく、一言添えて、青常さんにいう。

 

「――なんだい?」

 

青常さんは先程までのように、しかし、先程までとは違った、昨日の夜と同じ口調で、私の言葉の続きを待っていてくれていた。だから私は―――

 

「いつか、私がそのスーツを崩しに行きますから、青常さんはそれまで変わらないでいてくださいね!」

 

多分、そうして私が口にした言葉は、青常さんにとってはわけのわからない意味の言葉だったはずだ。しかし青常さんは、やはりいつものように、少し困惑したような態度で私の言葉を受け止めて、そして今までの私の言動から、なんとか自分の中で私の言葉を理解しようとして、咀嚼してくれていた。

 

私はそれが嬉しくて、立ち止まると、胸の中に抱きとめていた腕をさらに強くぎゅっと抱き寄せた。すると青常さんは、昨夜の私のように、私の行動の意味を理解してくれたらしく、自分のすぐそばにいる私に真っ直ぐな視線を向けてくると、口を開いた。

 

「――そうだね。じゃあ、楽しみにしているよ、美緒」

 

――ああ!

 

青常さんはそして境界の向こう側へと帰っていく。そして私の、いつもと変わらない、いつもと違う夏が来た。

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