セイント・アンガー from biohazard 作:逸 宗一
伊藤計劃さんが好きなので、『虐殺器官』とバイオハザードのハイブリッドであるSFホラーを書きたいと思っています。
真っ先に嗅いだのは、市場の臭いだった。いや、正確に言えば市場の鮮魚コーナー。つまりは魚屋だった。故郷の海沿いに立ち並ぶカラフルなテント群に横たえられた、うろこをまるで日本のカタナのように銀色に鋭く光らせた大量の魚。
それと、同じ臭い。
しょっぱいようで金物を思わせる、生物の持つ様々な要素を封じ込めた生臭い空気が漂う。
単純な話だ。それらの臭いの正体は、血だ。
予想はしていた。というか、むしろ確実だった。バイオテロの発生した地で血だまりの一つや二つ――それどころか、文字通りの血の海――なんかはないほうが不思議だ。大量の人が殺されているという状況であるにもかかわらず、一滴の血も流さずに死体がゴロゴロ転がっていたりしたらそれこそ新兵器の使用が疑われて、より大パニックになる。皮肉で奇妙な話だけど、ぼくたちのような仕事をしていると、死体が、キチンと血を流すキチンとした死体であってくれるというのは、心から安心できることなのだ。
それでも、ホールに拡がるおびただしい血の海を目の当たりにすると、ぼくは心臓が縮み上がって胃のあたりが酸っぱくなる。その流れ出ているのと同じものが、自分の体にも巡っているという事実、そしてその事実は、横たわる眼の前の骸は他ならぬ自分自身であるという錯覚となり、反射的な拒否感と嫌悪感を与えてくる。
人が倒れている。
正確には、人だったものが。
ショーウィンドウに血しぶきの飛んだブティックの前では、誰かの下半身が倒れている。血に染まったジーパンを履いた下半身は、切り口の腰のあたりから、臓物が大理石のタイルにソーセージのように引きずり出されている。生き別れとなった上半身を探したけど、二秒であきらめた。このフロアには、同じく切り飛ばされた人々の腰から上の部分が五つも六つもあったからだ。
その下半身からしばらく離れたところに、今度は生首が横倒しになっていた。十代後半くらいの男の子は、黒い眼を半分開いて切断面から広がった自身の血だまりを見つめている。化粧品店の前では、女の人がうつ伏せになっていた。頭の上半分がどこかに飛んでなくなっていて、白い油粘土のような脳みそが零れ落ちている。
ぼくはホールを見渡した。ざっと三十人近くもの人々が、百十か二十近くの肉片に細切れにされて散らばっていた。血と脳漿と髄液と、その他名前も知らない、人間を構成するありとあらゆる液体が混ざり合い、溶け合い、デパートの美しい大理石の床に海洋を描く。こうしてみると、ハイスクールの生物の授業で習ったように、人間の身体というものは結局、どこまで行っても水であるということを実感させられる。
血でできた海と、肉片でできた大陸の間を、ぼくたちはまるでガリバーのように進んでいった。ちゃぷり、ちゃぷりと血が波打ち、泡立つ。臭いは相変わらず最悪だったけど、ものすごく静かだった。静寂がきぃんっ、と耳に痛い。
「HQ(本部)。こちらブラボー。目標のポイント・スペードエース、三階ホールを探索中。生存者は確認できず。繰り返す。生存者は確認できず」
斜め前を進む、部隊長のレイトンが本部へと通信を行う。
(HQ了解。各員、慎重に行動しBOWとの接触の際は速やかなる排除を行え)
「ブラボー了解」
レイトン隊長が通信を終える。
「正直言うとさ、こういう時毎回思うよ――」
右斜め前を歩く同僚のディフォレストがぼくの方をちらりと振り返って言った。
「何で――」
何で、BSAAなんかに入っちゃったんだろう。彼はそうぼやいた。ぱちゃっ、と彼の足元で血が跳ねる。ぼくはその跳ねた血を、一瞬ではあったけども凝視する。最初はディフォレストが足を踏み出したからかと思った。けど、ありえなかった。血が跳ねたのは、彼のつま先から少なくとも五センチは離れた個所だったからだ。
ぼくは天井を見上げた。電気が消え、暗くなったデパートの天井に、ヘッドランプの円い明かりが走る。空調やその他用途不明のダクトの格子がはまり込むぼくたちの真上の暗闇に、何かがいた。
強いて言うなら、その姿はトカゲに似ている。左右に大きく広がり、発達した四肢に、盛り上がった背中。腕の先には、人間でいう手の甲のあたりからそれぞれ一本ずつ異様に大きな爪がカーブを描いて伸びている。でも、その正体は爬虫類なんかではない。まるで理科室の人体模型のように、その身体には皮膚と言ったものが一切なく、赤黒い筋組織がずる剝けになっている。先程までの静寂に少しずつ穴を開けるようにぴたり、ぴたり、と粘着質の音が規則的に響き、それに合わせてハァー、ハァー、と荒い呼吸音が聞こえた。
そいつはゆっくりと頭を巡らせ、真下にいるぼくたちを見下ろす。
そいつには眼がない。いや、それは正確ではないかもしれない。何故ならそいつの頭部は最早、一番大切な器官を守るということすら忘れてしまったのか、本来格納されるべき脳みそが剥き出しになっているからだ。脳の前部が大きく顔面に向かってせり出している。だから、眼は本当はあるのかもしれないけど、その垂れ下がったおつむのおかげで顔の上部が隠れてしまって判断できないのだ。
ただ、わかることはある。そいつの名前。そいつの正体。そいつの、獲物の発見方法。それは――。
「リッカーだ!」
ぼくの視線を追って天井に眼を向けたディフォレストが悲鳴を上げる。制止する間もなく、「そいつ」こと「リッカー」は、ナイフのような牙の並ぶ口をカッと開き、甲高い悲鳴をあげたかと思うと、爪を振り回しながら天井を離れた。盲目の怪物は、悲鳴という「音」をたてた哀れなディフォレストの胸を自由落下する際に切り裂き、温かな鮮血を浴びながら床に拡がる海に着地する。
ディフォレストが今度は静かに仰向けに倒れる。ばちゃん、という水音が、リッカーの唯一の情報源である聴覚を更に刺激した。
「ブラボー、エンゲージ! 敵襲!」
もはや静かにしても無駄だと悟ったのか、レイトンが怒号をあげた。
ぼくは構えていたアサルトライフルを持ち上げて光学サイトをのぞき込むと、こちらに猛然と四足歩行で向かってくるリッカーに向かって引き金を引いた。
マズルフラッシュがぶつ切りの光源となって、暗い店内をちかっ、ちかっ、と断続的に照らす。他の隊員たちも同じくライフルを構えて、リッカーを狙い撃ちにしていた。
リッカーは、ぎゃあぎゃあと喚いて、身体中から血を噴き上げながらのたうち回る。誰かの放った弾丸が、正確にリッカーの脳みそを貫いた。ぱんっ、と一際鮮やかな音がして、可哀そうなほどに膨れ上がっていた脳の右側が、文字通り撃ち砕かれる。いくつかの組織の破片が、脳漿をまき散らして後方に飛び、血だまりにばちゃっと叩き落された。
リッカーが後ろ向きに吹っ飛ぶ。やがて怪物は、ぽっかりと穴の空いた脳組織を剥き出しにしたまま、弱々しい声を上げ、沈黙した。
「目標、沈黙」
フィッシュがつぶやいた。
「ファーマー、ダニエラ、ビアズリー、オカンポ。周囲の警戒を続行。ヨハンネスとフィッシュ。ディフォレストの様子を見てやれ」
レイトンが素早く指示を出した。
「了解」
ヨハンネスが言い、フィッシュとともにディフォレストのもとに駆け寄る。
「まさか」
ぼくは唇を舐めて言った。濃厚な空気のせいで、口元までもが血の味がする。
「ここまでなんて」
「考えられないことはないからね」
右横でダニエラが言う。
「『トライセル』が解散してから、リッカーはハンターと並ぶくらいにはポピュラーなBOWよ」
ダニエラの言うとおりだ。リッカーは、今や戦場における銃器や戦車と同じ意味合いを持つくらいに、人気者のBOW(生体兵器)だ。現にヨーロッパの東スラヴ共和国では、つい数年前まで続いていた内戦に、リッカーが多数投入されていたとのデータもある。生体兵器を利用した東欧の小さな戦争は、アメリカとロシアの連合軍による介入で終わりを見たものの、一つの戦争を左右するほどの力を秘めたこのBOWという存在――そしてBOWが実戦に充分使える兵器であるという事実――に、世界は心底震えあがった。
「リッカー……」
ぼくはつぶやく。
「まるで、ラクーンシティだな」
オカンポが言った。
「テロリストの連中は、本当にラクーンを再現したいらしい」
ぼくは頭半分を吹き飛ばされたリッカーの死体を見やる。開いた口からは、名前の由来となった異常に長く、鋭い舌が、だらりと床に向かって垂れていた。
「ラクーン事件は」
ダニエラが言った。
「最大で最高の、BOWのデモンストレーションだったからよ」
「ディフォレストはどうだ」
レイトン隊長が言う。
「死んではいません。けど、出血がひどいです。このままだと、正直やばいかも」
「応急処置として、調合ハーブを使用しましたが……」
ヨハンネスとフィッシュが言う。レイトン隊長が指示を出そうと口を開いた瞬間、たたたたん、たたん、たたたたん、と乾いた音と何やら獣じみた叫び声が、下の階の方から非常階段を通じて聞こえてきた。
(デルタよりHQ! ポイント・スペードエース二階にて、BOWと交戦中。だぁっ、くそっ。ホルヘがやられた。至急応援を求む!)
通信回線に、二階で展開しているデルタチームの通信が入る。
(こちらHQ了解。ブラボー、二階に救援に向かえるか)
「一名が先ほどの戦闘で負傷。もう二名が負傷者のケアで離脱予定のため、現在戦力は低下しているが応援は可能だ。また、三階は制圧が完了した。待機要員を至急送ってくれ」
(了解した。三階の確保にはエコーチームを向かわせる。そちらでも二名、三階に待機させ、至急二階に応援に向かわれたし)
「ブラボー了解。おいお前ら聞いたな。ヨハンネスはディフォレストを連れて先に離脱しろ。ファーマーは二人の護衛だ。ハワードとローレンスはここで三階を確保しとけ。他は二階までデルタの救援に向かう。おれについてこい」
「了解」
ぼくたちは頷いた。ディフォレストを担ぎ上げたヨハンネスを尻目に、ぼくたちは血の海に一歩踏み出した。