ふいに、衣擦れの音が慌しく麒麟の臥室に滑り込んでくる。
女仙の顔が、麒麟を覗き込んだ。
「お目覚めでいらっしゃいましたか」
少し当惑するような表情を見せる女仙に、何かあったのかと、麒麟は尋ねたかった。
しかし、口からは細い息が切れ切れにこぼれるだけで言葉にはならず、問を発することが出来なかった。
もっとも、女仙は麒麟の表情で問われていることが分かったようだ。
女仙がそれに答えないのは、答えることに躊躇しているからだ。
麒麟は、かすかに首をかしげて女仙の目をじっと見た。
女仙は麒麟の藍の瞳を見つめ返した。それはほんの一瞬のことだったが、女仙の胸内には様々なことごとが巡ったのただろう。そして女仙の心はある一点に心が結ばれた。
「昇山者が甫渡宮に」
短く、麒麟の上に答えが降ってきた。
「お会いになりますか」
麒麟は小さくうなずく。
聞くまでもないことだ。昇山者がいると聞けば、麒麟が会わないと言うはずがない。
麒麟の体を気遣えば、人と会うのは避けたほうが良い。今の麒麟は、人と会うだけで酷く消耗する。ゆえに、直接麒麟の面倒をみるのも数人の女仙に限られていた。
昇山者があると聞いた時、女仙は迷った。果たして、麒麟に会わせて良いものだろうか、と。
もちろん、会わせない訳にはいかない。その道理は女仙にも、分かりすぎる程に分かる。もし昇山者に会わないと言うならば、麒麟と、ひいては女仙自身の存在の意義を失うことになる。
王である可能性がある者を門前払いする女仙など、ありえない。そして会わないと言う麒麟はいない。
分かっている。分かっていながらも女仙は迷った。それは、その女仙が女仙である前の、人としての、母としての性であったのかもしれない。
麒麟は女仙の心を知っている、そして微笑む。
女仙はその微笑に救われ、救われない己れを呪うのだ。
麒麟と女仙、ふたつの心にひとつの思いが灯る。
―― これが最後になるかもしれない
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その昇山者は、陣宇と名乗った。前の王の大僕であったという。
大きい男。陣宇の第一印象を問えば、百人が百人、そう答えただろう。
背が高いだけではなく、均整良くついた筋肉は、着ている物の上からも想像がつく程だ。両の腰に差されたふたふりの剣は、この男にふさわしく、大きく長く、力強さを帯びていた。
ほとんど茶のような肌の色と赤銅色の髪が、荒んだ様子を醸していたが、それを差し引いても、その男の逞しさには圧倒される。
この男が、今の今まで昇山しなかったのは何故だろうか。
女仙の誰もが、その疑問を抱いていた。
見れば、陣宇は酷く憔悴している。それは黄海を越える為の過酷な旅のためだけではないようだ。
麒麟は甫渡宮に行くどころか、起き上がることも叶わぬ状態だった。
陣宇は蓬廬宮に足を踏み入れることを特別に許された。
女仙の導くままに、まるで夢の中の彷徨うような覚束なさを醸しながら、陣宇は麒麟の元へと進んでいた。
ひと目で、答えは出ていた。
その男は、擦り切れていた。
麒麟が、かける言葉を見失うほどに。
まるでこの男が、国そのもののようだ。
牀から離れた臥室の隅に額づき、通り一遍の挨拶の言葉を述べる陣宇に、女仙は落胆していた。
最後の望みをかけた男には、王者が纏うべき覇気というものがない。見かけ倒しだ。
陣宇には王になろうと言う気概が無いことが、誰の目にも明らかだった。
当初の『この男が、今の今まで昇山しなかったのは何故だろうか』という疑問は、今となっては『何故この男は昇山したのだろうか』というものにすり替わっていた。
未だ麒麟は否とは首を振ってはいない。王ではないということは、女仙が判断すべきことではない。
しかし、女仙には確信があった。
この男は王ではない。
その詰まらない男に、女仙は腹立たしさを覚えた。どうして、この男は麒麟の前に昇山者として現れたのだろうか。
「なぜ……」
女仙の心は、思わず言葉となって溢れた。
陣宇は、肩をぴくりとさせた。そうして、はじめて魂の一端を見せた。
「私は王であるはずのない者です。蓬山公の御裁定を仰ぐまでも御座いません」
「では、何故そなたはここへ来たのですか」
女仙の声は、怒気に溢れていた。最後の最後、麒麟に希望を抱かせ、失望させるこの男の存在そのものが憎い。
「何故なのでしょうか。私は、何をなす為にここに来たのでしょうか」
乾いた声が力無く、落ちた。
麒麟は、長きに渡り近くにいた女仙にしか分からぬほどの幽かな微笑みを浮かべていた。僅かに指が動き、手を差し伸べようとしているのが分かった。
女仙は、はっとした。
「陣宇どの。どうぞ、お近くに」
麒麟の心を受け継ぎ、女仙は言葉をかけた。
陣宇は言われるままによろよろと麒麟の前に進んだ。何をしろと言われても、従うのではないかという頼りなさだ。
風前の灯なのは、麒麟の命であるはずだ。けれど、この逞しくも弱々しい男の命を麒麟はいたわっている。そして最後の力で、麒麟は男の総てを受け止めようとしている。
男の強さ、弱さ、喜びも、悲しみも、怒りも、罪も、すべては麒麟の上に降り注がれようとしている。
「私は王であるはずのない者なのです」
かすれた声が織り成す男の物語りは、静かに滑り出した。
「私は……王を弑し奉りました」