前の王は、決して暗君であった訳ではない。むしろ名君として、国に繁栄を、民に安寧をもたらす者であった。
だが何がどうしたのだろうか、ある日突然、すべてが狂いだした。
王は、残虐の刃を抜いた。
長い時を連ねて築き上げられたものが、瓦礫と化すのはあっという間だったという。
大地は荒れ、民は苦行の果てに命を散らした。
麒麟は失道し、王は更に血を欲した。国のすべてを吸い尽くしてしまおうとする王を止められるものは、もはや天命のみであった。
「それをそなたが止めたと」
そのような話を女仙は初めて聞いた。前の王がどのような最期を迎えたのか、確かに詳しくは伝わって来てはいないが、俄かに信じ難い。
王を討つことは、大逆無道の誹りを免れない。その逆賊が王を名乗っても、それは偽王でしかない。だが、あの状況にあってこの男が本当に王の首をとったとしたら、それは誰もが認める偽王となり得たのではないのだろうか。
英雄であると、言う者もあったろう。にもかかわらず、この男は偽王とはならなかった。あまつさえ、昇山を今まで躊躇い続けてきた。そして今も、王となろうという決意を抱いてはいない。
何故? その疑問に再びたどりつく。
「そなたは後悔しておいでですか」
「私は王を殺したことを悔やんではおりません」
男の声音は、今までに無く明らかであった。
ならば陣宇は、何を悔やんでいると言うのだろうか。
王亡き後、偽朝は立たなかった。
「私憤でした」
陣宇は搾り出すように、麒麟の前にその罪悪を曝け出した。
「私が王を誅したのは、決して民や国の為では御座いません……」
陣宇には妻と二人の娘があったのだという。先ず妻が、そして上の娘が王に召し上げられ、ふたりともに自ら命を絶ったのだと。
「それでも私は王に刃を向けることは出来ませんでした。民がどれ程苦しみ、死んだとしても、国がどれ程荒れようと、私には出来なかったのです」
だが、自らの末の娘が見るも無残な屍骸を晒した時、陣宇の中で今までとは違う何かが弾けたのだと言う。
末の娘は、王の前に立ち、その行いを正そうとしたのだと言う。以前から、娘は『誰かか王を止めなくては』と言っていた。その時、陣宇も娘の意見に頷いた。だが、実際に王を止めることも、意見することもしなかった。
「私は怖ろしかったのです……罪を犯すことが、そして娘を失うことが」
そして、何もしなかったことで娘を失った。
「それでようやく、私は王を斬ることが出来たのです。それは、娘を奪われた親の恨み故の行為でした。」
陣宇は、自らを嘲るように語った。
「もしかしたら、本当に呪わしいのは自分自身であったのかもしれません。分かっていながら、何もしなかった自分への恨み。それを晴らすために王を殺すのは、只の八つ当たりだったのかもしれません」
陣宇の声は、その内容に不釣合いなぐらいに落ち着いていた。
女仙は麒麟をの表情を伺った。このような話を麒麟はどう受け止めているのだろうか。陣宇の告白は、麒麟には辛い。
王と麒麟の失道の結末。民から死を望まれる王、民に殺される王。
麒麟は、ただ静かだ。その心の内は分からない。
私憤であろうと、公憤であろうと、王を殺すことは大罪には違いない。陣宇は、その後、裁きを受けることを覚悟していた。しかし、冢宰、六官の長、三公ともに陣宇の命をとることを由としなかったのだという。
陣宇は仙籍から外されることもなく、王宮に留め置かれた。
「罪を犯した者が罰せられない。それが私には耐えられませんでした。罪人が罰せられぬ世は、無法の世です。無法を許しては、国は乱れるのみです」
頑なだ。
この男の言うことは正しいのかもしれない。
だが、
「そなたのしたことは、確かに大逆でもあろうが。そなたが罰せられたのでは皆が救われぬ……とは考えられませぬか」
いつの間にか、女仙は陣宇に心を寄せていた。救われていないのは、この男だ。
「私は何故もっと早く王の命をとらなかったのかと、後悔しているのです」
陣宇は麒麟を見た。
麒麟は静かに陣宇の言葉を受け止めるのみだった。その思うところは、女仙にも伺い知ることができない。
麒麟の沈黙は陣宇を苦しめた。
あえてその痛みを引き受けたまま、陣宇は言葉をつないだ。
「私の力など、目の前の者を倒すことができる程度です。しかし、国があれ程に荒れてしまう前に、民があれ程に苦しみ、死んでゆく前に、王を止める術が私にはあったのです」
陣宇はゆっくりと、傍らに置いた剣に視線を留めた。
その瞳が鈍く光っている。
女仙の胸のうちに、恐ろしい思いが閃いた。
「まさか、そなた」
言葉と同時に、女仙は陣宇と麒麟の間に立ち、両手を広げた。
陣宇は俯くように頷いた。
「私は蓬山公のお命をいただくために、ここに参りました」
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いつまでも王を選べぬ麒麟に苛立ちを感じる民は少なくない。そして、麒麟はもはや死の床についており、王を選ぶ力は残っていないのだという風説が、どこからともなく流れ、荒れた大地に広まっているのだという。
「一日も早く、王を……しかし、今の麒麟にそれが出来ぬのならば、一日もはやく新しい麒麟が生まれて欲しい……そう、願う声を聞きました」
怖ろしい、愚劣な願いを陣宇は、語った。
「なんと……」
女仙は民の愚かさをなじり、そして憐れんだ。
「ならば、今度こそ私が……そう思いました」
浅はかだ。あまりにも。
女仙は怒りを通り越したこの感情のやり場を見失っていた。
悲しい。
この三十余年というもの、麒麟がどれほど民のことを想い、苦しみ、悩んできたか。その心を踏みにじるような生国の民の仕打ち。
「ですが、やはり私には出来ませんでした」
床に顔を伏せたまま、陣宇はそう言った。
「出来るはずがなかった」
陣宇の声は、すべての想いを乗せる言葉を見出せず、もどかしく吐き出された。
「最後まで麒麟であろうとしている蓬山公を、民であることを見失っている自分が、どうして斬ることが出来ましょうか」
女仙は、陣宇の言葉のひとつひとつに気を緩めることなく、耳を傾けた。いつ、この男の心が変わるか分からないのだ。
「国に帰りなさい。そして待ちなさい」
女仙ははやくこの男を立ち去らせなくては、と思っていた。
「何を待てばよいのですか?」
陣宇は顔を上げる。
「王と麒麟が国に下る、その日を待ちなさい」
女仙の言葉は、冷たく響いた。
「生きろと、私に生きよと仰るのですか」
氷のような声に、陣宇はすがる。
「そなたは、生きねばならない」
女仙は自分の分を越えた言葉だと、思いながらも言わずにはおれなかった。
「そなたの国は、荒廃の中にあるのであろう。たとえ一人の民も、今は失う訳にはいかない」
「そんな、私は……」
陣宇は惑う。
女仙は理解する。
―― この男は、死ぬためにここに来たのだ
つと――
麒麟は微笑んでいる。
「……」
何故、麒麟は微笑んでいるのだろうか。
陣宇は麒麟の顔を信じられないという表情で見つめかえした。
陣宇は麒麟の藍の瞳に理解する。
―― 自分は、罰せられたくて、ここへ来たのだ
「どうぞ……至日まで、ご無事で……」
きれぎれの聞き取れぬほどの密やかな声。その声が微笑んでいる。
陣宇はその場に打ち崩れた。
麒麟は陣宇に『生きよ』と微笑んだ。