視界一面に木が広がっていた。
恐らく、視界を埋めるのは、木だ。辺りに街灯が無く、真っ暗闇で、ぼんやりと目の前に並ぶ縦の太い平行線を木の幹だと認識するのに数秒かかった。
「は?」
いきなり過ぎる状況の変化に脳の理解が追い付かず、呆けた声が漏れる。動いていた足は、脳からの指令を途絶されて、止まる。
一体どうしたのだろうか。ついさっきまで自分は住宅街の舗装された道を歩いていたはずだ。酔っているとはいえ、決して森に迷い混んでなどいなかったはずだ。
目が暗闇に慣れてきて、視界に写るものがはっきりする。やはり、木だ。焦げ茶色のような、灰色のような、冬の色をした木の幹が、所狭しと立ち並んでいた。
辺りを見回す。
期待していた住宅街も道路も一切無く、木が侠を全方向から囲んでいた。その、木で囲まれた、少し開けた場所に、侠はいた。
酔いが回り過ぎて幻覚でも見ているのだろうか。いや、唐突過ぎる状況変化に、酔いも眠気も一瞬で飛んでいった。脳はわりとはっきりしているはずだ。頬を思いっきり抓って、現実かどうかを確認する。
現実だ。
ポケットから携帯を取り出して、画面を開く。9時7分、辺りの暗さからして、時間は変わらないようだ。画面の右上の長さの違う4本の縱線のマークには、無情にも、×印が重ねられ、圏外を示していた。
携帯のライト機能をオンにして、再度辺りを見回す。
よく見ると、自分がいる場所の周りの地面には傾斜が掛かっていた。周りにある木も、それに沿って生えていた。どうやら、森の中ではなく、山の中のようだ。
ふいに、手が滑って、携帯が抜け落ちる。
途端にライトに頼っていた視界は暗転し、かなり見えにくくなる。携帯の光が下に数歩分転がって、カサッという草むらに入ったであろう音がして、草越しに漏れる光が動きを止める。
思わず溜め息が出る。今日は厄日かよ、とぼやきながら、仕方なく足を下に向ける。光りを頼りに、傾斜を下り、草むらに手を伸ばす。
光りに目掛けて、右手を草むらに突っ込んだ。
瞬間、右手に燃えるような熱を感じる。
「アッツッ!」
咄嗟に右手を引いて、その勢いで後ろに倒れ込む。
余りの熱さにうつ伏せになって、それを抑えようとする。
あついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあつい
同時にそれが熱さではなく、強烈な痛みだということを自覚する。
イタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイ
視線を右手に向ける。
手首から先が、無かった。
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時は侠が気絶した後まで進む。
頭が揺れるように痛い。全身が鉛のように重く、鈍い痛みがずっと続いている。朦朧とする意識の中、瞼をなんとか開く。
ぼやけてはっきり見えない。
恐らく覚えのない天井が、淡く写った。体の上と下に柔らかい感触がある。布団だろうか。誰かに介抱されたのだろう。
重い首を動かして失ったと思われる右手に視線を向ける。
包帯が厚く巻かれていて、その先は丸くなっていた。力を入れようとして、また、鋭い痛みに意識が飛びそうになる。
「っ...!」
やはり手首から先の感覚は無かった。
音が聞こえた。
金属を石にでも擦っている音だ。刃物を研ぐような音。そこまで考えて、重い体に一気に冷や汗が駆け巡り、不安感を煽られる。
視線を音の方向に向けようとするが、上手く首が動かない。
声が聞こえた。音と同じ方向からだ。
「目が覚めたかい?お前さん、崖の下で気を失って倒れとったよ。」
女性の声だ。口調こそ、年期が入ったような感じがするが、声音は若い女性のものだった。
思ったより穏やかな声に警戒心が離散する。
うるさいぐらいだった頭痛が少しずつ弱まってきた。右手に力を入れる。まだ痛みはあるが、悶える程のものではなかった。
回復が異常に速い、昔からだ。過去に車に跳ねられて、警察が来る頃には立ち上がって、訝しい目で見られたのは苦い思い出だ、相変わらず、右手首から先の喪失感は消えないが。完全に失われたものはもとには戻らない、ということなのだろう。
再び老婆のような口調の若い声が聞こえる。
「その右手はどうせ山犬にやられたんじゃろ。ここらへん一帯はうようよいるからのぅ」
聞き慣れない単語が聞こえた。動くようになってきた頭で思考する。
ヤマイヌ、山に棲む犬という意味だろうか。野良犬なのか。近年、山に野良犬が存在するなんて話は聞いたことがない。犬に似た別種のことだろうか。
頭痛が完全に治まり、体中の鈍い痛みも弱くなる。
全身に力を入れてみる。起き上がれそうだ。
左手で支えて、一気に上半身を起こす。
起き上がった視界で周りを見渡す。
少し古びた、現代では少し珍しい和風の部屋だった。
書院造というやつだろうか。
壁に自分が着ていた上着が掛けられていた。少し乱れているが、見たところ泥も血も拭き取られたのだろう、介抱してくれた人物の気遣いが窺える。
「お前さん、もう動けるのかい?崖から落ちて生きていたことといい、人間にしては随分頑丈なんじゃな。」
声の方に顔を向ける。随分と奇抜な格好をした女性がこちらを見ていた。
歳のほどは、二十代前半位だろうか。