「鶴見さん」
「……」
「あー……鶴見さん?」
「……」
「さっき中井先生に言われたプリントの件なんだが」
「……」
「……鶴見さん?聞こえてるか?」
「……」
「……ルミルミ」
「八幡、キモイ」
「お、おうふ……」
四限終わり。昼休み前の私に廊下から控えめな声がかかった。私の席は廊下側最後列。八幡は首だけをドアの間からのぞかせ、やっぱり聞こえてんじゃねえか……と一人ごちる。
朝のホームルームが終わった後、私は即教室を出た。一限が移動教室だったこともあったが、少なからず私は腹が立っていた。八幡の目の前を無言で通り過ぎ、彩も置いて教室を出た。……ちょっとは話しかけてほしかったとか、追いかけてほしかったとか、別にそんなこと思ってない。断じて、思ってない。その後に彩から八幡が女子に質問攻めにあっていたことを聞いて、まだ不機嫌を引きずってるわけでもない。ないったらない。
ただ、それ以上に。彼の口から「鶴見さん」と呼ばれることは、信じられないくらい嫌だった。返事もしたくないくらいに。
「えーっと、鶴見さん。それ食い終わったらでいいから、昼休みの間に印刷室に来てもらえると助かるんで、まあよろしくです」
八幡は目を伏せたまま私の弁当を軽く指さし、あくまで他人行儀に言う。そのくせ「こんちはー」と私の横で挨拶する彩に、軽く笑顔で返している。……何その態度。
ルミルミでも、ちょっと嬉しかったんだけどな。
また言いようのない苛立ちが湧きかけるが、前の女子たちからの声で頭が冷える。
「え、比企谷ーセンセー。一緒にご飯食べましょうよー」
私と彩の前で昼ご飯を食べていたのは、ちょっと派手目のグループ。その中には、朝八幡に話しかけていた女子もいた。八幡は困ったように視線を泳がせる。
「いや、授業の準備あるから早く行かないといけないんだが」
「いいじゃないですかぁ。生徒との触れ合いも実習のうちですよ。ねー」
「……そんなカリキュラム、マニュアルには書いてねえ」
えー、なんですかそれ、ひどいですー。八幡は昔見たように腐った目で彼女たちに対応していたが、言葉を交わす女子たちは喜色満面。
どうやら八幡も予想外の反応に多少驚いてたのか、まくし立てる女子たちに少し戸惑いながらも対応している。「眼鏡ってすげぇ……」ポツリとそんなつぶやきが聞こえた気がした。
「別に新しく来た教育実習の先生とお話したいっていうのは普通のことじゃないですか?…あ、じゃあ先生は高校生の時は昼休み何してたんですか?」
「……はぁ。別に話すような有意義なことはしてねえ。つーかお前らもこんなことして時間無駄にしてる暇はねえだろ。昼休みは限られてる。有意義に使わんと後悔することになるぞ、俺みたいに」
「ぷっ……確かに先生あんまり青春楽しんでる系じゃなさそうですしねー。あっ、先生国語の準備行くんですよね。なら私たちが――」「比企谷先生」
騒ぐ女子グループに、横やりを入れる声が入る。彼女たちはこちらに怪訝な視線を送るが、声の主は私ではない。
「先生、この後留美と授業の準備しに印刷室行くんですよね。こんなところで油売ってる暇ないと思いますけど」
横に座る彩は女子グループを見もせずにそう言い放ち、キョドる八幡も気にせず、私に耳打ちする。
「ほら、ルミルミも。意地張ってないで」
「べ、別に意地なんて……」
「いや、張ってるから。大体年中無休で」
……え、私ってそんなめんどくさい?
ま、なんにせよ、周りを全く気にしない彩のおかげで少し余裕はできた。私は軽く深呼吸し、椅子を引く。
「行こ、八幡」
「え?…お、おお。でも別に食い終わってからでも……」
「ううん、もういいや。おなか一杯。……それよりさ」
私は弁当箱を手早くしまい、優しく、慈悲深く、そしてとても可愛いであろう笑顔を浮かべる。
「一年ぶりなんだから、私に話すこと、色々、あるよね?」
コクコクコク。1年ぶりに会った彼は、こけしのように首を縦に振るだけだった。
「で、八幡」
「おう。……ていうか一応俺教育実習生だから、いくらなんでも『八幡』は──」「なんか文句ある?八幡?」
「ないです」
印刷室。八幡が印刷する数種類のプリントをひたすら仕分けながら口を開く。
「一年ぶりだね」
「そうだな……その、元気だったか?」
「まあ、普通」
「そ、そうか……」
さっきまでの私の不機嫌な態度に、八幡が気を遣ってるのがわかる。そう考えると余計に態度は固くなってしまう……私のバカ。そんな態度だから、年中意地張ってるとか言われるんでしょ。
咳ばらいをし、多少声のトーンをあげる。
「八幡は、どうだったの。元気だった?」
「あー、まあそれなりに忙しかったな。ゼミやら実習やらやりたくもないバイトやら卒論の準備やら。今もこうして実習に来てるわけだしな」
それは本当にそうだったのだろう。彼が忙しそうなのはメールの返信の遅さ、文面の短さからもうかがえた。でも……だからこそ思ってしまう。
「ていうか、なんで実習のこと教えてくれなかったの、来るなら来るって言ってくれれば、私だってあんなにみっともない姿晒さなくてもよかったのに」
「あー……何となく、その、気恥ずかしくてな。普段専業主夫志望とか言ってる分、自分の将来に関わること言うのは。つい言いそびれた。それにまあ、それに実習っつってもたかが3週間かそこらだしな」
それでも教えて欲しかったの。そんな言葉が続きそうになるが、ぐっと飲みこむ。私だって学習する。なんでも口にすればいいというものじゃない。私は八幡にケンカを売りたいわけじゃない。むしろ逆だ。会話を進めるため、無難な言葉を選ぶ。
「八幡は教師になるの?」
「なるかはわからんが、一応取っといて損ないしな、教員免許は。鬼門は採用試験だ」
「ふーん、そんなもの」
「そんなもんだ」
少し冷静に舌が回るようになってきた気がする。思い切って聞いちゃうか。私は八幡を見たときからの疑問を口にする。
「で、そのメガネは?前会った時はかけてなかったよね」
「これは……その、だな」
「?」
なぜか言葉を詰まらせる八幡に、私は首をかしげて先を促す。八幡は少しため息を吐き、メガネをいじる。
「雪ノ下と由比ヶ浜に教育実習の話した時、雪ノ下に言われたんだよ。『その腐った目付きだと、在校生から不審者に間違われて通報されかねないわよ、比企谷君。眼鏡でもして多少は矯正しないと、教員になる前に犯罪者になるんじゃないかしら』みたいなことを。由比ヶ浜も妙に眼鏡しろってうるせえし」
今のは雪ノ下さんの真似だったのだろうか。下手だったとは言わないが、それ以上に、私にしていない話をあの二人にしていたのが腹立たしい。言いにくそうにしていたのはそのためか。
雪ノ下さんと、由比ヶ浜さん。彼女たちにまだ会っているという事実から、私はこの質問をせずにいられない。
「なに、八幡はあの二人のどちらかと付き合ってるわけ?それとも……どっちとも付き合ってるの?」
「ばっ……んなわけねえだろ。ほんとに久々に、流れで居酒屋でちょっと話しただけだ」
「ふーん。そうなんだ」
心外、みたいな言い方してるけど、あの二人絶対八幡に気があるし。八幡絶対どっちか選ぶような男らしいことできないし。なんならあの一色?とかいう人だって怪しいし。
私のジト目に八幡はしばらくの間キョドっていたが、ふと目が合うと少し表情を緩める。……なんか私の顔についてる?
「……なに。なんかおかしい?」
「いや、なんつーか、その……ルミルミ、ちょっとわかりやすくなったか?」
誰のせいだと思ってんの、わかりやすいのは。また私はそんな可愛くない言葉をグッと飲み込み、ため息へと変える。
「だからそのルミルミっての、きもい。……ていうか、私もう高校生だよ。必要以上に感情を隠して、子供みたいに大人ぶりたい歳でもないの」
わかる?目線でそう伝えると、なぜか八幡は噴き出す。なに?わかりやすくて焦る私がそんなにおかしい?これも表情に出ていたのだろうか。また八幡は焦ったように手を振る。
「いや、相変わらず大人びてるというか、厭世的ていうか……今も昔も妙に歳不相応なのは変わってねえな、と」
「だとしたらそうなったの大体八幡のせいなんだけど」
「そうか……でも、その、なんだ」
どれだけ私があなたに影響されたと思ってるの。言外に私はそれを伝える。そんな私の気持ちを分かったのか分からなかったのか、八幡は困ったように笑い、私の頭に手を置いた。
「でかくなったな。…留美」
置かれた手を振り払うのが、いつもの私、鶴見留美だったのだろう。でも今、私はそれができなかった。
……子供扱いかと思ったら、いきなり対等な目線で話してくれる。ずるい。そう思った。そんな言われ方したら、さっきまで渦巻いていた文句も不満も、表に出せなくなってしまう。
この人は初めて会った時からそうだった。小学生の鶴見留美に、高校生の比企谷八幡は常に対等だった。人間関係を諦めた私に、綺麗事も、嘘だらけの励ましも言わなかった。何も言わずに、ただ私の周りの人間関係を壊した。
多分、彼は私に自分を重ねていたのだろう。必死に周りに合わせようとし、迎合し、自分を殺す。そのうえ惨めな思いをするくらいなら、独りでいい。彼はそんな気持ちを分かっていたのだ。
だからこそ、八幡は私の周りの人間関係を壊してくれた。それを彼は勝手にやったことだと言うだろうし、多分その通りなのだとも思う。
でも私と八幡は、傷をなめ合っていたわけじゃない。馴れ合っていたわけでもない。通じ合っていたはずなど、あるわけが無い。
私と彼は一緒じゃなくて、仲間でも、友達でもなくてい、ただの一人と一人。独りであることをお互いに知っていて、だからこそ彼の隣に居ることが苦しくなかった。何も話すことなんてなかった。でも、別に何も話さなくてもいいのだと、彼の独りきりの姿から知った。
だから私はこれまでの間、独りでいいと思えた。
でも一年ぶりに彼に実際に会い、ここ一カ月、綾瀬彩という私以外の人間を近くに置いた今。
私は、思ってしまうのだ。
「……あの、ルミルミ」
だから、ルミルミっていうのは……反射的にそんな文句が出かけ、同時にその声で現実に戻される。顔を上げると、八幡の顔が思ったよりもはるかに近くにある。な、なんでこんなに近いの。心臓がドキドキとうるさく鳴る。しかし、原因はすぐにわかった。
「いや、その……留美。手、放してもらえると助かるんだが……」
「……ッッッッッ!?」
私の両手は考え事をしている間に、いつのまにか頭に置かれていたはずの八幡の手を、思いっきり包み込んでいたらしい。
バッ。音が出るくらい大げさにその手を放す。手を放しても、まだ温もりはこの両手に残っている。ぜ、全然繋いでた記憶がない!なぜか無性にそれを勿体ないと思ってしまう。
「はっ、八幡!」
「お、おう。なんだ」
体ごと距離を置き、私は思わず声をあげる。何か言わなきゃ何か言わなきゃ何か言わなきゃ。焦るほどに言葉はでてこなくなる。自然と視線が下に落ちる。
すると、さっきまで八幡と繋がっていた両手が目に入る。……多分、さっきの無意識が私の気持ちだ。私は、八幡とああなりたいと思っているのだ。普段自分を抑制している分、他人とのかかわりを避けている分、無意識の行動に私は改めて核心を抱く。
「これからは、絶っっっっっ対、私のこと、留美って呼んで」
でも、出てきた言葉は小学生から進歩がなかった。
しかし、進歩がないと自覚しながら、私ははっきりとそう宣言する。……いや、まだ早いよ、告白とか流石に。私だけ勝手に盛り上がって、勝手に気持ちを伝えるとか。まだ早いまだ早いまだ早い。まだまだ私はそんなに大人じゃない。
でも、はっきりとしている気持ちもある。私は彼の口から「鶴見さん」と呼ばれるのは嫌だった。なんか、絶対に嫌だ。理由はよくわからない。けど、それだけは嫌だった。
私の勝手な要望に、八幡は苦笑を浮かべながら、困ったように頭を掻く。
「そう言われるのも久しぶりだな……ま、三週間くらいだが、よろしく頼む。……留美」
「……うん、よろしくね、八幡」
名前を呼ぶだけで、互いに頬が赤らむ。今はそんな関係が心地いい。
でも、いつかは。私は目に見えぬライバルたちに宣戦布告する。
私が八幡をもらうから。
独りでも別にいい。
でも、独りよりすこしだけ、彼の隣は暖かい。