「あの、冶比女さん……?」
「……。」
洛中に構えられた邸宅に二人の女が居た。
家主たる猟虎族の火乃陽と、客人たる栗鼠族の冶比女だ。
二人は向かい合って炬燵に入っている。
それぞれの眼前では中身の減っていない湯呑茶碗が無遠慮に湯気を撒き散らしていた。
暫く続いた静寂の後、火乃陽は湯気の源を一口啜ってから、茶碗とは対称的に遠慮がちな態度で声を発する。
この静かで暖かくてゆったりとしたクソ気まずい空間の中では、火乃陽の思考はどうも逸れがちになる。
猟虎族の若いのが家令としてこの帝都三海邸の管理をしているが、火乃陽は後で家令を褒めようと思った。
ここに猟虎族以外の者が出入りすることなど滅多とあることではないし、猟虎族とて頻繁に出入りするのは家人ぐらいなものだ。
それでも、たまに海から上がってくる同朋達に対して見栄を張りたいと言って掃除やら庭木の世話やらを欠かさなかったのだから尊敬に価する。
玄関に置かれた招き猟虎、応接間の掛け軸、棚に六つ並べて飾られた貴石や奇石。
どれもこれも、見飽きた家主に十年以上も無視されている筈なのに埃一つ被っていない。
いかにも値は張りそうだが決して派手ではないそれらの品々は侘びたり寂びたりしすぎて存在感が薄いのだと、火乃陽の頭の中では長年無視した言い訳が誰に対するでもなく並べ立てられている。
火乃陽の呼びかけに、冶比女は沈黙を返した。
火乃陽がふわふわした長い尾をそわそわと揺らしているのに対し、冶比女はふさふさした長い尾をがちがちに制動している。
冶比女は背筋を伸ばし顎を引き尾を立てた素晴らしい姿勢で鎮座しているのだ。
そんじょそこらの作法の教師は尻尾を巻いて逃げるのではないかという程の芸術的な完成度。
もしも座布団に意思があるならば、彼女に踏まれていることに感謝さえするだろう。
しかし座布団に宿る人格が男だったなら、この座布団は後で火乃陽に焼き殺されてしまう。
座布団は、自身を意思無き道具として作ってくれた製作者にこそ感謝すべきなのかもしれない。
他者の感情の機微に敏い火乃陽は、その優れた知見を以て冶比女の心の内を推し量ってみる。
まずは冶比女の状態を一つずつ列挙しよう。
心拍はやや速く、体温も平常時より少し高い。眉間に皺を寄せ、上下の歯々は堅強に噛み合わされていて──
──あ、これは怒っていらっしゃる。
火乃陽はとても賢敏なために、それを理解できてしまった。
賢敏というか、まぁその、余程の愚人が見ても同じ判断をするだろうけれど。
事の始まりは、神前での冶比女の失態だった。
祖神太爪牙の眼前での嘔吐という、類を見ない惨事。
もはや宮中に冶比女の居場所は無くなる可能性すらある程の大事だ。
とりあえずその場に居合わせた巫達には、この事を忘れるようにと太爪牙が命じたので大丈夫だろう。
太爪牙も冶比女を責めるような事はするまい。
しかし本人がこうも尋常ならざる様相では、周囲の者達から要らぬ詮索をされかねない。
特に冶比女が職を辞すことにでもなれば、身内連中から必ずその理由を問われることになるだろう。
それを防ぐためには冶比女をそのまま家に帰すわけにはいかず、火乃陽は自宅へ招待するしか無かった。
なにしろ、何かの拍子に火乃陽の名が挙がれば事だ。それはもう情け容赦無い事態になる。
冶比女本人が巫などという高官なのだから、どうせその身内も情け容赦無く高官だらけに違いない。
例えば"栗鼠族の下呂比女"などという綽名が付けられて宮中に広まりでもしたら、その原因の一端である火乃陽はその高官達に情け容赦無く報復されてしまうのだ。
世間とは非常に非情なもので、兎にも角にも情け容赦無いのだ。
官職というものは、部族毎に偏りがある。
部族の特色とも呼べるもので、例えば海領統治や水軍に関する官職に就く者には猟虎族や海豹族が多い。
猟虎族の一人である火乃陽も例外ではなく、三つの海国の統治に携わっている。
冶比女の場合は栗鼠族だ。
栗鼠族は諜報の分野において兵部省に一定の影響力を持ち、他に民部省や式部省にもいくらか関わりがあった筈だと、火乃陽は記憶している。
兵部省はまだ良いだろう。
栗鼠族総出で掛かっても初爪将たる火乃陽を退けることはできないし、水軍に関してはどうあっても栗鼠族より猟虎族の方が圧倒的に強い。
だが民部省は不味い。
栗鼠族を敵に回せば、猟虎族が有する陸上利権のほぼ全てを消し飛ばされかねない。
無論一方的にやられるばかりではなく相応の反撃もすることになるだろうが、そんな抗争を繰り広げたところで猟虎族にも栗鼠族にも損ばかりで、利は漁夫にしか無いだろう。
猟虎族は陸領に依らず生きられるし、広大な海領を持ってもいる。
しかしそれでも、陸上利権を失えば猟虎族は生活水準を大きく下げざるを得ない。
獣人種文化の中心地たる帝都は陸上に存在するのだ。
そこで用いられる様式の利器は大抵塩水に浸けると劣化するし、宮廷での作法なども当然陸上のものだ。
猟虎族が陸上の諸事を学ぶ機会が減るということは、猟虎族の将来を考えると非常に困る。
それに大海を領有するといっても名目上のものであって、霊骸汚染や他種族の占領により利用できない水域も多かった。
猟虎族の人口が多くないこともあり、その支配が及ぶ領域は意外と狭い。
名目上の広大な領国に対して、実際の猟虎族の活動領域は甘めに見積もって一割といったところか。
「えっと……あ、そういえばまだ名前も知らないの。
自己紹介から始めよう。な。な。
私は三海正五位上行爪近衛初爪将猟虎道師火乃陽だよ。」
「……知ってます。
貴方は有名ですから……いろんな意味で。」
「アッハイ。」
冶比女は火乃陽を以前から知っていたらしい。
この反応から察するに、良い噂だけでなく悪い噂まで耳聡く聞きつけたに違いない。
火乃陽の悪い噂は色々とあるが、何が特に悪いかといえば、大抵根も葉もあるという点が一番悪い。
「宮中騒乱罪(斬首刑相当)の容疑で逮捕された」だとか「斬首されても死ななかったらしい」だとか、そういった噂は概ね真実だった。
「え?あの人また捕まって斬首されたの?これで何度目だっけ?」や「調べてみたら不敬罪(割腹自裁刑相当)だけでも百回近く処刑されてたぞ」というのもあった。
極めつけは「祖神叛逆罪(部族連座斬首刑相当)で連座の身代わりになって一人で数百回斬首されたらしい」とかいうやつだろう。
祖神反逆罪の検挙や科刑については神祇官が公表しない限りは神祇官と刑部省の機密として扱われる筈なのに、一体何故噂になっているのか。
それから噂にはなっていないようだが、近年では刑部省が火乃陽を検挙する際には捜査どころか逮捕すら行われず、伝令が一人来て刑場への出頭命令だけ伝えて帰っていくようになったのも不可解だ。
火乃陽は気にしないことにした筈の諸々の事実を思い出してしまったが、気にしてもどうにもならないので再び気にするのをやめた。
冶比女との関係改善は、極めて重要度の高い急務だ。火乃陽はそう判断している。
改めて考えてみても、冶比女を自宅に招いた判断は間違いではない筈だ。
何にしても情報は重要だろう。
まずは名前から知るべきだろうと考えての先の発言だ。
とりあえず冶比女にも名乗ってもらえば、冶比女の家柄やら何やら、色々と判ろうというものだ。
猟虎族に三海猟虎や貝塚猟虎といった家門があるように、他の部族にも複数の家があるのだ。
栗鼠族であれば有名所は、民部省の高官を多く排出してきた木蔵持栗鼠に、代々兵部省に関わりのある風早栗鼠、他には──
「……私は要江従三位巫……栗鼠連冶比女です。」
「要江殿ですか。んむ、宜しくお願い申し上げる。
んー……あー、んぅ!?
要江って、あの、なんか鎮海探題府の軍監さんもそんな家名だった気がするの……。」
――洛海沿岸の陸国を領有しているため鎮海探題府と繋がりを持ち、近年では諸島資源の採掘や海上輸送にまで手を伸ばしている要江栗鼠。
栗鼠族にも海事に強い家柄があることを火乃陽は漸く思い出した。
とりあえず相手の方が高い地位にあることが明確に示されたので火乃陽は態度を改めたが、地位が高すぎる可能性に思い至るとその衝撃で敬語だとかの配慮は吹っ飛んだ。
「……祖父が鎮海軍監ですが。」
「き゚ぃぅっ!?」
これはあかんの──火乃陽の脳裏にその一言が思い浮かんだ。
実にあかん事に、冶比女さんは要江栗鼠の直系の孫娘さんだった。
本人の位階が従三位なのも輪を掛けてあかんかった。
祖神に最も近く侍る巫という官職に就いていることから恐らく位階も高かろうと火乃陽は思っていたが、やはり予想通りに高い。
猟虎族屈指の高位に叙されている火乃陽でさえ、正五位上だ。
従三位は正五位上より五つも上の位階で、つまり一言で言えばあかんということだ。
従三位巫などという高位高官である冶比女は、恐らく栗鼠族の中でも最大級の権勢を持つ姫君なのだろう。
例え木蔵持栗鼠辺りだったとしても非常にあかん訳だが、要江栗鼠の一門と全面敵対することになれば更にあかん。
況してや栗鼠族全てを敵に回すような事態になれば、それはもう鬼畜的なまでにあかん未来が訪れてしまうだろう。
何としてもそれを阻止せねばあかんのだ。
火乃陽は一歩後退し、炬燵から離脱する。
炬燵の中で温々としていては勝ち目など無いと判断したのだ。
事は猟虎族の興亡に関わる以上、手段を選ぶ余裕など有りはしない。
猟虎族の未来を勝ち取るため、あらゆる手段の行使を視野に入れて全力を尽くさねばならない。
直系の姫を潰されて栗鼠族が許す可能性など、絶無としか言いようがない。
だが、火乃陽の辞書に〇は無い。左右の剛爪の閃きを以て一一〇へと書き足してくれよう。
火乃陽は決断する。
全身全霊を──全武装、戦力、戦術、戦略、必要とあらば自身の首さえも──賭して、命乞いを開始する事を。
冶比女を正面に見据え、左右対称の独特な構えから、前傾姿勢を取り、両手で床に触れ、重心を低く、低く、もっと低く──
「斬首十回あたりで赦し給え!」
──端的に言うと土下座した。
「……は?」
心底理解出来ぬといった表情で、冶比女は火乃陽を見下ろす。
火乃陽はその鋭敏な五感を以て、相手の顔を見ずともその表情を知ることができた。
心底怯えきった表情で、火乃陽は考える。十回殺しても殺し足りぬ程に冶比女は怒っているらしいと。
"万死に値する"という慣用句がある。万回殺さねば満足できぬというのであれば確かに、三つも桁を減らして十回で赦せなどという要求は心底理解不能であろう。
「ひぅっ!?に、二十回!死ぬほど痛いから嫌だけど……二十回までなら我慢するの……っ!」
「……いや、あの。」
冶比女の表情は困惑に満ちたままだ。
まだ赦さぬというのか。桁が足りぬというのか。仮数ではなく指数を増せというのか。
だが火乃陽は屈するしかない。床に額を押し付け、呻くかのように懇願する。
「ひぁぁ……ひゃ、百ぅ……!平に!平に!何卒!もう赦し給えっ……!」
火乃陽の目元から落ちた雫が床を濡らす。
泣き落としとかいうレベルではない。完全にガチ泣きだ。
不死身に近い火乃陽だが、その回復力には限界があるのだ。
百回も連続で斬首されたら流石に死にかねない。
二百回まで行くと確実に死ぬし、百五十回でも多分死ぬ。
連続でなければ……一日三回ぐらいまでに抑えれば、一万回と斬首されても死ぬことは無いだろう。
しかしそれはそれで死ぬほど痛い思いを一万回と味わうことになるので精神的に多分死ぬ。
抑、一回斬首するだけでも一回死ぬ程痛いのだから、かなり無理があるというか無理しか無い。
そのとき冶比女の心の中の天使が囁いた。
(あ、なんかだんだん可愛く見えてきました。
何ですかこの宮中に在るまじき天真爛漫で感情豊かな無礼可愛い生き物は。
毛並みもふわふわしてて触り心地良さそうですし。
こんな超生物と敵対するなんて絶対に駄目です。)
対抗して冶比女の心の中の悪魔も囁いた。
(あ、なんかだんだん恐ろしく見えてきたぞ。
初爪将だし、祖神に叩かれても生きてる化物だぞ。
しかも百回殺しても死なない的なことも言ってるし。
こんな超生物と敵対するなんて絶対に駄目だ。)
冶比女の心の中の天使のような何かまで囁いた。
(首置いてけ!なあ!初爪将首だ!!
初爪将首だろ!?なあ初爪将首だろお前!
……あ、ついでに栗鼠首も置いてけ!)
冶比女の心の中の冶比女は泣いた。
(首なんて要りません!絶対に要りません!
といいますか、そもそも何故に斬首なんですか!
そういう怖いこと言うのやめてください!)
「わ、わかりました。よくわかりませんけどとりあえず赦しますから。
斬首なんてしなくていいですから。
……えと、あの、だから、泣かないでください。
三海殿の所為ではないですから、そのように怯えずとも大丈夫ですから。」
冶比女も炬燵から出て、伏せている火乃陽を起こして抱きしめた。
今度は火乃陽が混乱する番だった。
一体何を言われたのか。まさか赦されたのか。
聞き間違う事など有り得ず、確実に「赦します」と言われた筈だ。
火乃陽は思考を巡らせる。
あれほど怒っていたのに何故。涙に絆されたとでもいうのか。
いや、抑、何か前提が間違っているのでは。
例えば冶比女は怒っていなかっt……火乃陽は完全に理解した。
「ん……見苦しい所を見せて、申し訳無いの。
要江殿の御温情に感謝致すよ。」
「見苦しくなんてありません。三海殿は可愛……いえ、あの、とにかく見苦しくないです。」
「ん!んむんむ。わかるよ。猟虎族は最強に可愛いもの。特に毛並みが最強にもふいの!」
冶比女が言いかけて止めた言葉を、火乃陽は聞き逃さなかった。
火乃陽は音速で食い付いた。
火乃陽は獣人種が最も可愛い種族だと信じているが、更に言えば獣人種の中でも猟虎族が最も可愛い部族だとも信じている。
そして火乃陽は、可愛いは正義だとも信じている。
食い付かない筈が無かった。
「いえ、猟虎族とか、そういう意味では。
……といいますか、聞き捨てなりません。
毛並みは栗鼠族の尾が最強です。最強可愛いのは栗鼠族です。
私の尾の虜にしてあげます。思い知ってください。」
対する冶比女も、可愛さには拘りがあるらしい。
やや怒り気味な態度で言った。今度は間違いなくやや怒り気味でいらっしゃる。
そして長い毛に覆われた尾で、火乃陽の顔を軽く引っ叩いた。
「わぷ……ぅ……ぁー……ふさふさ……これは強い……栗鼠尻尾、強いの……。
ぅー……でも最強は猟虎族だよ!思い知るのは要江殿の方!」
尾打は一度のみならず、二度三度と繰り返される。
このような対応をされては、火乃陽は黙って引き下がることなどできない。
柔らかい毛に覆われた尾で、冶比女の顔を撫で回す。
「わ、わ、あぅ、可愛、あ、あー、これは反則です、あー無理、これは無理です、あー、ふわっふわしてます。
言うだけの事はあります、強すぎます、あー何ですかこの生意気なふわっふわは。
といいますか、何ですかこの可愛い生き物!あー、あーもー!」
二人は互いの尾の誘惑に屈したが、数刻に及ぶ審議の結果、僅差で火乃陽が勝利した。
そして関係改善の方も、なんか成功したらしい。
「三海殿、猟虎族の素晴らしさは祖父始め一族の重鎮達にもお伝えしておきます。
これまでの失礼な態度はお詫びします。どうか私と仲良くしてください。」
「私も栗鼠族の尻尾については猟虎族に広めておくよ。
んむ。好きなだけ私の尻尾に溺れるが良いの!私も要江殿の尻尾もふるよ!」
「あ、その、できれば私のことは要江殿ではなく冶比女と呼んでくれると嬉しいです。」
「冶比女な。わかったの。
冶比女も私を火乃陽と呼ぶが良いよ!」
「わかりました、火乃陽ちゃん。」