坂本美緒はかく語りき   作:斎藤サイダー

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脚注

坂本美緒 (さかもと みお)
北郷章香 (きたごう ふみか)

竹刀の名称   (先革)[竹竹竹]中結[竹竹竹竹竹竹竹竹竹竹竹]鍔(鍔止)柄柄柄柄
先革 竹刀の先端を覆う白い革
中結 竹刀のやや上端で弦を引き締める。よく目安に使われる。よく位置が移動する。白い革

虎口(ここう) 何かを持つような状態での、親指と人差し指の間の水かきの部分の事
正眼の構え 中段の構え。剣道で、やぁーとか言ってる時の構え


壱の二 剣

 木の板を強く踏む音と共に、竹同士がぶつかる姦しい音が響き渡る。

 刀の切っ先に見立てた先端約十五センチを胴に叩き込むと、いつの間にか現れた相手方の竹刀がそれを防ぎ、すかさず私の隙を突くように切り返してくる。私は後ろへ跳ぶように退がる事で、攻めで伸びきった姿勢を強引に守りへ持っていった。そしてまた竹の悲鳴。打ち込まれた剣線は鋭く、竹刀越しだというのに握る両手がびりびりと痺れた。

 打ち合った箇所から相手に目を遣ると、いつの間にか中段の構えに戻っている。戻りの早さにまるで魔法のようだと思ったものの、使い魔の姿が見えない事から、あれは純然たる技術であるらしいと察する。

 溢れ出る汗を無視して再度打ち込むと、吸い寄せられるように、私の竹刀が相手の竹刀を叩く。否、そうではない。私が振るよりも早く、その位置に竹刀を置いているのだ。そのまま滑るように剣先を落として相手の小手を狙うも、鍔に達するよりも早く、竹刀の腹で弾き返される。押されるように私がふらついた所で、相手から制止の声が掛かった。

 竹刀を下ろし、息苦しさに喘いでいると、近付いてくる足音が聞こえた。立ち合いをしていた相手は行き一つ乱していない。合わせて開始線まで下がり、構え直してから蹲踞(そんきょ)を取る。私が息を整えたと同時に、両者とも立ち上がった。

 ふと、竹刀の先へ目を向ける。

 そこには、一人の女性が立っていた。泰然と構える姿は痩身ながらも巨木を連想させ、さらりと流れる長髪は漆を溶かしたように艶々として美しい。皇国軍人と扶桑撫子の理想を合わせて体現したかのような彼女は、名を北郷章香といった。

 

 

 

 道場に着いた私たちを出迎えたのは、黒い長髪を後ろで縛った女性だった。

 女性は二言三言、父と話すと私の方を向いた。

 詰襟の立った純白の将校軍服を長身に纏い、下から紺のアンダーウェアが覗いている。意志の強い眼はきりりと引き締まり、黒の長い睫毛が縁取っていた。私は彼女に、女性としての可憐さよりも軍人としての凛々しさを覚えた。

 

「君が坂本美緒君か? 私は北郷章香という。皇国海軍所属の魔女(ウィッチ)だ。この道場の師範代を務めさせてもらっている」

 

 爽やかに笑う彼女は端正な顔の造りも相まって貴公子然としており、私は慌てて目を逸らした。

 決して彼女の流麗な顔立ちに赤面したのではない。彼女から発せられる堂々とした自信と、魔女である事を少しも億劫としない態度に動揺したのだ。

 これが正しい魔女なのだろうか。

 先程の飛行していた魔女といい、目の前の女性といい、自分と同じ魔女とは到底思えなかった。こんな立派な人達と自分が同じ存在だとは思えなかった。なんら自らに負い目の無い、日の光が照らすように明るい彼女ら魔女とは違い、陰気でじめじめとした私は、その成り損ないなのではないかと思った。

 魔女への憧れはできた。忌避感も薄れた。先程の飛行を見る事ができたのが偶然なのか、父の差し向けたものかは判断が付かないが、それでも父の思惑通りに事が進んだのは確かだろう。しかし、だからこそ、代わりに魔女としてではなく自分自身への猜疑心が強くなった。

 

「君のお父上から話は聞いている。これから暫らく、よろしくお願いする」

 

 一体何を吹き込んだんだ。

 私は父を睨めつけたが、当の本人はどこ吹く風で、いつもの顔に笑みを含めている。心の中で舌打ちし彼女の方に向き直ると、目の前に差し出された手とそれに続く笑顔が出迎えた。

 私はまたしても顔を背けた。

 変な子だと思われてないだろうか、顔は赤くなっていないだろうか。いや、なっているに違いない。耳元が熱いし、短時間で二度も顔を逸らせたのだ。自分の事ながらこの子はおかしいと思う。

 逡巡に少しの間を挟み、きょとんとした彼女を伺うように見て、私はよろしくお願いしますと言った。数々の恥じらいと後悔を胸に仕舞い、私はおずおずと手を伸ばし、彼女の手を握り返した。

 彼女は、ああ、と頷き、朗らかに笑った。

 私には、彼女の笑顔が少し眩しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 物覚えの良い頭。指示通り適確に動く体。

 他の小学校より授業難度の高い軍属学校にあっても、私はそれを障害と感じる事はなかった。周りが漢字の筆記や算術の試験に悲鳴を上げるのを横目に要領よく物事をこなし、体を動かす授業ではどんな競技であれ自分の思い通りに事が進んだ。万事が万事、順調に進んでいたといって良い。

 しかし、それも長くは続かなかった。

 

 授業合間の休み時間、球蹴り(サッカー)に興じていた時だった。

 向かってきた(ボール)をいざ蹴り上げようとして、突然私の視界が大きく崩れた。砂利が入ったかのように右目が痛み、次いでぼやけ始める。勢いのまま球を蹴り飛ばしはしたものの、私はそこから一歩も動く事ができなかった。

 今さっきまで見ていた景色とそれを強引に拡大した景色が、同時に私の網膜に映し出された。両目で見た映像は半ばから歪み、すぐ近くに見える校舎と、その遥か後方に位置する昇降口というあべこべな世界を生み出した。無意識に焦点を合わせようとして、不快感が私を襲った。一瞬元に戻りかけた世界が異様さを取り戻す。

 頭がおかしくなりそうだった。

 右側から心配そうな声が聞こえるのに、その当人の姿は一切視界に映らない。すぐ近くに居るはずなのに、だ。もう一度焦点を定めようとして、眉間の奥がくるくると渦を巻くように痛んだ。両目を開けているだけでも頭が揺れ、地震に見舞われたような錯覚を覚える。吐き気を催し始めたところで、私は掌で右目を覆い隠した。

 

 半分になった視界は、私に一時の平穏をもたらした。事態が落ち着いた事に、そっと息を漏らす。

 いつの間にかしゃがみ込んでいた私に、気遣うような声が聞こえてきた。適当に返事をしつつ、胸の鼓動を抑えるように努める。

 遠方の風景が手の届くような距離に映り、その景色すらも拡大と縮小を繰り返す。閉じた右目の奥に、先程の光景が思い出された。そして、時間を経て当初の混乱が治まった頃には、私は自身の身に起きた異常の意味を本能的に理解した。

 

 

 

 私の右目は、くすみ、澱んだような紫色をしていた。調整ができずに常に遠くを見ているせいか、瞳孔は狭まっており、不思議さよりも異様さを露わにしていた。

 

「これなら引かれても仕方がないか」

 

 鏡を見て、私は一人ごちた。すぐさま眼帯で右目を隠す。

 はじめは色違いの眼に物珍しさが勝っていたのだろうが、観察を続けている内に周囲の視線は好奇から腫れ物を触るそれに変わっていた。

 しかし、恐怖に慄かれるよりはずっとマシだろう。そう考える事で、私は胸の中の切り傷を見ないようにした。

 魔眼が発現して、色の変わった私の目を見た同級生らが放った何気ない言葉。純粋で、悪意など微塵も無く、だがそれ故に私の心を深々と切り裂いた。彼らと私が、違うものになってしまったとのだと気付かされてしまった。

 じくじくと痛み、芯の方から冷えるような感覚に呻き声を上げているのは一体誰だろうか。私は耳を塞いだ。

 ただ魔女になるだけなら、これ程怯えたりはしなかった。

 魔女という存在は多くはないが、それほど珍しいというわけでもない。聞けば、怪力を放つ者や、身に雷を纏う者もいるらしい。だが、それらは語る人間に畏怖ではなく、憧れの眼を浮かばせていた。魔法行使の度に使い魔の耳や尻尾が覗く様は可愛らしく、輝くような力を振るう彼女らはまさしく人々の偶像(アイドル)であった。

 同じように魔法力が発現した私と何が違うのだろうか?

 決まっている。幼児が包丁を手に料理をすると言い出せば、誰だって肝を冷やすだろう。足の届かない子供が車の運転を始めれば、誰もが止めに掛かるだろう。同じように? そんなわけがないだろう。思い通りに魔法が扱えて、初めてそんな口が利けるのだ。手から零れ落ちた包丁に向ける感情は、決して親しみなどではない。

 多分、何も知らない同級生らはそんな事を考えてすらいないだろう。周囲もそれ程意識してはいないだろう。だが、これまで毛先に至るまで自らの体を掌握してきた私は、支配できないものが体の内にある事に恐怖した。取り返しの付かないものに変わってしまったと思った。私の想像する周りからの視線が、そんな私の内情をただ忠実に反映しただけの虚像だと断言する事はできなかった。

 

 そして距離感が得られなくなって、自身の体さえ私を見放したように感じ始めると、それは紙に垂らした墨のようにじわじわと広がっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 道場に上がった私と女性は、演武場の中程で再び対面した。

 父はすでにいない。道場に入ることなく、彼女と幾つか言葉を交わした後によろしくお願いしますと告げ、エンジン音を噴かせながら姿を消した。講導館は家からそれほど遠くもなく、つまりは暗くなる前に自分の足で帰って来いという事なのだろう。あるいは、親の前ではやりにくいだろうという先方への配慮があったのかもしれない。裏を返せば、私の領域に踏み込むような話をするという事だろうか。

 彼女は上体を屈め、目線を私の高さまで持ってくると、私の右目を注視した。視線の先、彼女の注意を集めているのは眼帯の奥、魔眼だろう。

 

「君の右眼を見せてはくれないか?」

 

 私は咄嗟に手で右目を覆い隠した。体が強張り、鼓動が早くなる。

 眼帯で右目を塞いだ、もう一つの理由。同級生の無邪気で心無い言葉は、その日私の胸に深く突き刺さって以来、抜けないままだ。

 私は身を震わせた。

 周りより幾分か頭が良く物事をそつなくこなしていた女子生徒が、ある日を境に眼帯で片方の目を隠して、以来小さなミスを繰り返すようになる。身近に発生した異常に、碌に事情を知らない生徒らが不躾な好奇の視線を向けるのは当然と言えた。

 私の様子を見かねたのか、彼女は長い眉の端を下ろし、困ったような顔をした。

 どうしよう。

 同じように興味を示した同級生らの姿が脳裏をよぎる。

 決めかねてそっと窺い見ると、彼女は優しげな眼差しを向けていた。学舎の子らのように無遠慮でなく、高価で繊細な物に触れるかのような態度だった。あるいは、それは自らを魔女だと言った彼女への先入観が入り混じった勘違いだったのかもしれない。

 しかし、この人になら見せても良いかもしれないと思った。あの子らと違って、この人は魔女なんだから。でも――。

 腹を決めかねる私に、彼女はさして気にする風でもなく表情を戻し、まあいいさ、と言った。

 

「今は難しくても、少しずつ慣れてくれれば良い」

 

 それは、いずれは見せてもらうという事ですか。

 口にこそ出さなかったものの、私の目を見て察したのだろう。彼女はにこりと笑った。

 

「じゃあ、魔法の話はまた今度にしよう。そうだな……美緒君、君は剣道を習った事はあるか?」

 

 私は頷いた。相手の配慮に少しほっとしながら、彼女の言う意味を考える。

 私も海軍付属小学校に通っている身である。小学校とはいえ軍属である以上、在籍している生徒は身体の成長を阻害しない程度に鍛錬を積まされ始めていた。習う武道の候補は幾つかあって、その内の一つが剣道だった。

 若くして将校であるこの女性も当然付属学校の出であろうし、その内情を知っていたからこその質問とも思われた。

 

「うん、良し。さっきも言ったが、私はここで師範代を任されている。ああ、無論剣道の、だ」

 

 つまりは、だ。この女性は、学校の授業以外で私に剣道の稽古をつける気らしい。まあ、それは別に構わない。野球をやるよりも、よっぽどこの身には向いている。だが、ここは講導館だ。私は魔女候補として連れて来られたのだ。嫌がる私に、いずれその本懐を遂げさせようというのだとしても、剣道と魔女に何の関係があるのか。

 しかし私が疑問を呈するよりも先に、彼女は言葉を紡いだ。

 

「魔法は関係ない。いや、少しもないと言えば嘘になるが、しかし、君自信には大きく関わる事さ」

 

 彼女は私の眼帯を指差した。

 

「魔法が発現して、隠し始めたんだったね? 日常生活を送るには何かと不便だろう。君ぐらいの年だと、昨日と腕の長さが違う事もあるし、ハプニングなんてそこらかしこにあるものだ」

 

 男子に比べて女子の成長は時期が早い、と習った。私自身、成長痛なんて経験こそないものの、身体測定の記録に驚いた事が何度かある。無論、軍属である前に私も一人の女子であるからして、身体測定の度にキログラム重に関心がいった事は否定しないが、ここで言っているのは身長の事である。

 体が出来上がってしまえばそんな事もないんだろうけどね、と続けて、彼女は道場の奥から二本の竹刀を持ってきた。

 

「まずは自分の間合いを掴む事から始めよう。他の方法を知っていれば良かったんだが、魔法を除くとなれば、生憎、私はこれぐらいしか知らなくてね」

 

 言って、彼女は手の中の二本を弄ぶ。

 私にその内の一本を渡すと、演武場中心の開始線に着いた。私も慌てて、対面の線に合わせる。

 

「習うより慣れろ、だ。特に感覚なんてあやふやなものはね。 ――さ、好きに打ち込んできなさい」

 

 

 

 

 

 

 

 何度か、魔眼を行使しようとした事はあった。発現した時の恐怖に怯えながらも何度も右目を開いた。だが体力の消耗と引き換えに返ってきたのは、始めの頃と同じ、訳の分からない景色ばかりだった。

 いう事を聞かない魔眼に、扉を開けるのさえ突き指を警戒してもたつく体。

 かつての自分と比較して、あまりにも弱くて臆病な己に嫌気が差し、代替の手段によって自己欲求を満たそうとするのは、自然な流れだったのだろう。日々の暇潰しの例を挙げれば、友人と遊んだり何かしらの競技に励んだりというのが主だったこの時分に、私は勉学に救いを求めた。人前で興味本位に右目を暴かれるのも、遊びの最中に未だ慣れない視界でへまをやらかすのも極力避けたかったし、発現前に形成されたちっぽけな自尊心はそれを許さなかった。何より、片目を塞がれたと言っても、勉強なら座って文字や教師の声を追えば良いだけだ。精々が消しゴムを取り落とす度に舌打ちするぐらいで、日々の鬱憤から逃げるように私は知的好奇心を満たしていった。

 計算問題をこなし、異国の文学に触れ、歴史に思いを馳せている間は現実を忘れる事ができた。メンコや缶蹴りの途中に迎えにきた親が茶々を入れる事は間々あっても、こればかりはいくら感けていようと邪魔が入る事はない。現実を逃避する時間はなるべく長い方が良いが、見事壺に嵌ったと言えよう。その結果、定期考査で私を除いた周囲が死屍累々の惨状にあった時などは、醜い優越感を酷く満足させた。

 

「美緒ちゃんは履修何にするか決めた?」

 

 問題集から顔を上げた私が声の方へ目を遣ると、セーラー服に身を包んだ女子生徒が遠慮がちにこちらを見ていた。肩までのおかっぱがさらさらと揺れる。

 彼女は、散々たる件の試験を潜り抜けた稀有な生徒の一人だった。私の隣の席にいた彼女に乞われて授業後に何度か勉強を教える機会があったのだが、試験後に泣いて感謝された時は流石に返事に困ってしまった。だが、それ以来、何かと相談に乗る仲になっていた。今となっては数少ない友人と言える。

 

「もしかして、お邪魔しちゃった?」

 

 おっかなびっくりに訊く彼女に、私は否と返した。どうせ、ただの暇潰しである。

 

「剣道にしようかなって思ってる」

 

「薙刀とか舞踊は?」

 

「踊りはよく分からないし、薙刀はちょっとね……」

 

 小学校とはいえども、軍属学校である。体操科目において、これまでは体力作りのために長距離走や遠泳やらが主な課題だったが、今学年から武道を習う運びとなった。未来の皇国軍人候補として、最低限の護身の術を身に着けさせようというわけだ。履修対象の武道はいくつかあり、他にも空手や柔道、弓道などが選択科目の中に挙がり、ここ最近、教室内はその話で持ちきりであった。何を習うにしても暫らくはその武道一つに掛かりきりになるから、生徒らにとってみれば人生の一大事なわけだ。

 しかし私が剣道を選んだのは、単なる消去法の結果だった。一つの目で不便するのは相も変わらず、日常の生活においても生傷が絶えない。なので空手や柔道では拳が空を切る可能性が高く、手元で常に長さを変える薙刀はそれ以前の問題であろう。弓道は、小学生の内は的に届かないからやめておけと、教諭が直々に脅しに掛かっていた。何か嫌な過去でもあったのだろうかと訝しんだものの、生徒らは皆、素直にそれに従った。すると、他よりも当たる範囲の広そうな剣道が候補に残る。見るからに、手に持った竹刀でどつき回す競技のはずだ。私は他よりも幾分か楽そうだと判断していた。

 

「そっか。美緒ちゃんがそうするなら、私も剣道にしようかなぁ」

 

 彼女は、唇に細い人差し指を当てて思案した。可憐である。

 ただ、その判断は私にとっては、という注釈が付く。舞踊と薙刀以外は男の教官が指導に当たるらしく、つまり男子を主な対象としているもので、その分教導は激しく厳しいに違いない。体操科目の男性教官は皆が根性論を信奉しており、それは周知の事実でもあった。片目に不自由しているとはいえ、体力は未だ健在であった私には問題にならない事だが、他の女生徒にとってもそうだとは言えないだろう。

 そう思って舞踊と薙刀以外は男の教官が付くと言うと、彼女は二の句もなく取り下げた。友情とはかくも儚いものである。

 

 

 

 

 

 

 

 それから私は北郷章香という講導館師範代と打ち合った。

 学校の教練では人数が多いせいか打ち合いは生徒同士の掛かり稽古が殆どだったので、実力の高い人間と剣をぶつけるのはこれが初めてだった。と、いっても手加減や見極めをしていたのだろう。彼女は基本的に私の打ち込みを捌くだけで、隙ができたり体勢が崩れた時に指摘するように竹刀を振るうぐらいだった。

 

 私は、この竹刀を振るう時間が好きだった。

 相手を棒でたこ殴りにする競技ではないと知った時は自身の浅慮を恥じたが、いざ続けてみると、中々どうして私にはお誂え向きの武道だと思った。片目だけという欠点が殆ど介在しなかったからだ。

 学校の教練では剣先から中結までの約十五センチで叩く事を教えられ、即ち剣先から七・五センチの所を中心として打てば、教示くだされた事を実践できる。遠近感が掴めなくとも、このぐらいの大きな誤差ならば許容範囲内だった。唯一、四つ割の竹が擦れ合う音はガチャガチャとして耳触りが良くなかったが、片目のみが苦にならないという点で私は満足した。

 

 どれだけ打ち合っただろうか。小休止を挟んで何度か打ち込みをしている内に、、私はふと違和感を覚えた。

 学校の稽古では、踏み込みと同時に竹刀を振るとだけ習った後、ひたすら生徒間で打ち合いをしていた。しかし剣道を始めたばかりの拙い手際では竹刀が防具をすり抜ける事が多く、胴着は分厚く作られていたものの、生身を打たれると悲鳴を上げるぐらいに痛い。すると、視線は自然と襲い掛かってくる剣先に向かっていき、できるだけ相手の攻撃を竹刀で防いだ後に、素早く粗を探して攻守を転じる形になっていった。なので打ち合いとは力一杯、踏み込みと同時に竹刀をぶつけ合うだけのものだったし、生徒同士で互いにそうしていたので、それが当然だと私は思っていたのだが、この女性を見る限りどうも違うらしい。

 なんというか、彼女は力は入っているのに抜けていて、こちらを見ているのに見ていないのだ。自分でも何を言っているのかさっぱり分からない。

 考えが上手く纏まらない。息が切れて、頭に血が回っていないせいだろうか。流れる汗が鬱陶しい。

 私は数回深呼吸をすると、セーラーの裾で頬を伝う汗を拭った。相立つ彼女は微笑みを張り付け、中段に構えたまま動こうとしない。

 息が整う頃には、今の彼女の微細に至るまで観察できるぐらいに冷静になっていた。

 何が違うのだろう。

 気になり出せば、止まらなかった。負い目から目を逸らすために知的好奇心を満たし続けた日々は、私がこの疑問を放置する事を許容しなかった。

 違和感の原因は何だ。彼女と他の生徒の違いは。記憶の中の少年少女らと、目の前の剣道家の差異を洗い出そうと頭を働かせつつ、目の前に佇む女性を見据えた。

 あちらは積極的に手を出してこない。ならば、いつも剣先に向ける集中を別の所に回そう。

 打ち込みつつ、目は女性の顔、目線、腕、手、脚に向け、観察していく。そちらに気を遣り過ぎて空振る回数も増えていくが、黙殺する。体をただ竹刀を振り回すだけの機械にして、私はその時々の彼女の様子を頭に入れていった。

 数十合ほど打った頃だろうか。剣先が彼女の竹刀を叩いた瞬間、体勢が崩れた私に彼女がすかさず打ち返してきた。私が行うよりも何拍も早いそれは、しかし想像とは違う術理で動いていると私の直感が喚き立てた。そして、そこからは何か得られるだろうという確信があった。

 もう一度、試してみよう。

 今度は、体中の全神経を、彼女の一振りを見るのに費やす。

 先程よりも大きく隙ができるように乱雑に竹刀を振ると、やはり彼女は思惑通りに動いた。

 彼女の瞳の位置は先程から変わらない。私の竹刀を上向きに払うと、その勢いのまま上段に構え、同時に右足を半歩退いた。竹刀を弾かれた私の体は更に大きくバランスを崩すが、気にしない。

 目線の先はやはり変わらない。私の竹刀を弾いたから、剣先を見る必要がなくなった? ――いや、違う。先程から、彼女はずっと私を見たままだ。そもそも、こちらの剣先に目を向けた事があったか?

 考えている内に、彼女がすうっと小さく息を吸うのを感じた。私の予感と同時に、彼女は竹刀を振り下ろしてくる。見えているのに、来る事が分かっているのに、守るべき体が動いていない。そういえば、観察に夢中で体を動かそうとしていなかったな、と頭の片隅でぼんやりと考えが湧き立つ。

 近付く竹刀。目線は私に合わせたまま、先程から毛ほども動いていない。左足を踏みしめ、右足が僅かに浮いた状態で滑るように間合いを詰めてくる。

 差し迫る脅威たる剣先を無視して、私はそれに付随する彼女の体の動きのみを見ていた。いいや、逆か。体の所作に合わせて竹刀が動くのだから、むしろそちらを見る方が良いのか。

 踏み込みの力強い音とともに、額の寸前で剣先が止められた。

 

 いつの間にか、自身の口角が吊り上っているのに私は気が付いた。

 彼女が一歩下がるとともに、伸ばされた竹刀もその構えの内に収まる。私も体勢を戻し、構え直す。

 この胸がはやる気持ちは何だろう。背中の内側が撫でられたようにざわつくのを感じる。

 湧き上がる欲求に身を任せ、私は三度、雑な剣を振るった。

 しかし今度のは擬態だ。竹刀から程ほどに力を抜き、弾かれても体勢を崩す事は無い。

 彼女は一瞬訝しむように片眉を下げたが、どうやらそのまま打ち返してくるようだ。迫る竹刀を払うと、右足を下げつつ、再度上段に振りかぶろうとする――その瞬間、私は返す刀で以って、彼女の竹刀に叩きつけた。

 爆ぜるような音が響く。

 彼女の竹刀の軌道が大きく逸れ、唖然とする表情が丸見えになった。

 しかし私も驚いていた。

 彼女の脳天ががら空きになったのにも関わらず、打ち込まずに心の中の混乱に収拾を掛けようとする。

 彼女の一振りは、ガチガチに固めた私の竹刀を握りごと吹き飛ばすような一撃だったではないか。それがどうして、こんなにあっさりと弾けるのだ。

 疑問が湧きあがるが、すぐにその解が浮上する。

 力を抜いていたに違いない。そうだ、竹刀を持ち上げるのにそんなに大きな力は要らない。すると、力を込めるのは振り下ろす瞬間だろうか。つまり、彼女は要所要所で力を入れているだけなのだろうか。

 解は新たな疑念を呼び、次なる試みを生み出す。

 私はまた、体を動かし始めた。今度は乱雑にではなく、ひとつひとつ、意図を持って振っていく。

 この時は力が入っているのか、ではこう振るう時は体をどう動かしているのか。

 振るう度に、竹刀を覆う先革と中結が白線となって宙を舞う。これが間合いなのだろうかと、剣戟への思考を続ける傍らで、どうでもいい考えが浮かんでは消える。

 視界の端に映る床板の数から彼我のおおよその距離を把握し、腕と竹刀の届く範囲を勘案する。竹刀をぶつける度に調整していき、感覚ではなく理解で以って、間接的に距離感を認識していく。

 楽しかった。

 竹刀を一振りする度に眼帯が為していた曖昧さが剥がれ落ちていき、瞳の中の世界が精査されていく。

 竹刀の先革が相手の竹刀中腹を捉え、小気味よい悲鳴を上げる。竹同士のぶつかる音は甲高く喧しいだけだが、白い革を纏うだけで、騒がしさは柔らかい破裂音に変わった。

 思えば、こんな簡単な事だったのだ。何故もっと早くに気が付かなかったのだろう。

 私の視界には師範代の女性が、彼女の踏みしめる床が、彼女の握る竹刀が、それを迎え撃つ私の竹刀が映っていた。一点のみに集中せず、全体をぼんやりと眺めて適宜ピントを変えていく。対象物を見てではなく、その周りを観察して、対象を理解していく。

 こんなやり方があるのなら、もっと周りに目を配るべきであった。そうすれば、あんなどうでも良い理由でうじうじとする事もなかっただろうに。

 彼女の足運びと右手に力が入ろうとするのを見て、その剣筋の先を予想する。それに備えて左の下三本の指と右手虎口に力を与えると、果たして彼女の剣先は予想通りの挙動を見せ始める。すかさず、緩い踏み込みと同時にその剣頭を叩きつける。

 別に魔眼が制御できるようになったわけじゃない。眼帯も私の世界の半分を覆い隠したままだ。

 破裂音とともに、彼女の顔に再び驚愕が走る。だが体勢は崩れていない。刀を返して斬りつけるも、いつの間にか戻ってきていた竹刀に行く手を阻まれる。早い。あらゆる姿勢から、この正眼の構えに戻るまでの動作が異様に早い。

 ただ、剣を通して外の世界に触れる事を知った、ただそれだけの事なのだ。 変わったのは身体でも魔力でもなく、一欠片ばかりの気の持ちようだけだ。

 

「若といい、君といい、近頃の餓鬼どもは末恐ろしい化け物揃いだな」

 

 女性が呆れたように何か言った。だがどうでも良い。言の葉は、剣戟の前ではすべて無価値だ。重要なのは、それによって生じる息遣いの変化や体捌きの綻びのみだ。

 

 そういえば、打ち合いを始める前に彼女が何か言っていたが、こういう事だったのだろうか。

 次は女性が打って出てきた。一太刀一太刀が鋭く、私のそれより何呼吸分も早い。私は身の内で竹刀を構える事で、それをどうにか弾き、払い、受け流す。

 何と言っていただろうか。 ――駄目だ。僅か数時間前の事なのに、遥か昔の情景のように、まるで思い出せない。

 一際強い踏み込みとともに、高速の剣が私の頭上に迫る。

 明日にはまた少し、私の手の届く距離は長くなるのだろう。明後日にはもう少し、踏み出す足幅が大きくなっているのだろう。寸毫とはいえ間合いが伸びて、今日の距離では、先革を叩きつけた時の心地良い破裂音は聞こえないのだろう。また竹同士の喧しい音がするのだろう。

 攻勢とは即ち、防御から重きを減らした状態だ。相対する線の軸をずらせば、それだけで防御の隙間が浮いて出てくる。

 師範代が初めて見せた隙だ。剣筋を予測して、その射線から逸れる位置に体を持って行きつつ、相手のこめかみを目掛けて竹刀を振るう。

 構わない。また剣を振るえば、その微細も修正されるだろう。

 明日も、明後日も、その次も。この先ずっと剣を振り続けよう。

 取ったと確信を得た瞬間、正中に戻ってきていた相手の竹刀が目に入る。

 嘘だ。今まさに、私に面を喰らわせようと動いていたじゃないか。

 日々肉体が成長し続けるというならば、その都度、己の体を把握し直せば良い。

 今の私は隙だらけだった。当然だ。自分で相対の軸をずらし、自分で攻めに打って出たのだ。

 私の体は勢いのまま、女性の正面に躍り出ていた。

 一度でも鮮明な緻密さを知ってしまえば、もう二度とあんな曖昧な世界に身を置きたいなどとは思わない。

 無理に打って出た体勢は崩れ、隙と言うのも馬鹿らしい程に大きな穴ができていた。

 竹刀が重なり合った状態で彼女が手元をくるりと回すと、私の手の内から竹刀が絡め取られるようにすっぽ抜けた。巻き上げだ。

 呆けたように宙を浮く竹刀に目を遣り、手の届かないところにいってしまったと悟る。手元には相手の打突を防ぐ手段はない。

 努力しよう。なに、今までいじけて毒を溜め込むだけだった時間を、棒切れを振り回すのに使うだけだ。大した労力でもないだろう。

 竹刀が床板に叩きつけられる音とともに、私の眉間に切っ先が当てられた。

 

 ああ、忘れていた。

 瞳の映し出す世界とは、こんなにも美しかったのか。

 

 

 


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