意識が、覚醒する。
目を瞑ったままのような真っ暗な空間にはっきりとした変化が現れた。
蠢く影だ。以前見た時より大きく、はっきりとした影。───良く見るとそれは影ではない事に気付いた。
祐一がそれを見るのは初めてでは無かった。だけど好きにはなれないもの。
太陽や強い光源を直接見た後に、目を離しても視界に残像が滲む事が無いだろうか。祐一の見ているものは、それに似たような物だった。
蠢くそれは、ゆらゆら蠢き、少しずつ少しずつ、大きくなっていく。蠢く場所は、歯車のように円を描き広がっていて、ジラジラと、周りを歪めながら蠢き輝いている。
『閃輝暗点』───それが祐一の見ている物の正体だ。
(……これが出てきたあとは、酷い頭痛と吐き気が襲う)
そんな記憶がぽろりと脳裏に浮かぶ。
──不愉快だ。祐一はなんとはなしにそう思った。
この時。この時はじめて祐一はひとり閉じ込められた空間の中で、初めてはっきりとした感情を発露した。……それがトリガーだったのかも知れない。
「───あれ?」
そこを皮切りに、あらゆる感情、記憶、記録が、堰を切ったように溢れて来る。
名前。顔。身体。どこで生まれたのか。───答えが……分かる。
「あー、思い出したぞ」
ポロポロと記憶が溢れ、次々に思い出す。
母。父。弟。幼馴染。友。パルヴェーズ。みんなの顔を、思い出す。
育んでくれた故郷の景色を、鮮明に思い出す。お気に入りの山。美しい湖としだれ梅。田舎だがそれでも大好きな街並み。
そして思い出す。何故、ここに居るのかを。
そうだ、俺は……。耐え切れなくなって家出して、乗った船は転覆し、遠いどこかかへ漂流しんだ。……そんで西アジアにあるイランに辿り着いた。
助けてくれたパルヴェーズと出会い、恩を返す為に旅をして。二人で歩いて町に着き、そして『山羊』に出遭った。
空を見上げて星座を語り、不思議な力の修行をして、四方山話に花を咲かせ、ときには舌鋒を揮って語り合い、また旅をして。
そして最後に『雄牛』に出遭った。地下に落ちて、たぶん死んだ。
そんな己の一生分の記憶が、湧き水が沁み出るようにスルスルと流れ込んで溶けては消えていった。
「────は?」
いや、おかしい。全て見慣れては見知っている筈の記憶の中に、一つだけ異物があった。
───『山羊』ってなんだ?
こんな記憶、知らない。あの町に雨なんて降らなかったし、パルヴェーズを探し回ったりしていない。
ましてや黒雲に潜むものなんて知る筈がないし、パルヴェーズに助けて貰ったなんて知りもしなかった。
ハッとした。蒙が啓かれるような感覚。忘れていた記憶を思い出した時、確かに繫がるものがあった。
パルヴェーズというピースと恐ろしい魔物というピースが、これまでの記憶と疑問とを繋ぎ合わせていく。
洋上で凄まじい『強風』に襲われた事。
真昼の遥か外洋で漂流し、陽も落ちない夕刻には、陸にいた事。
パルヴェーズの異常な身体能力。
町に現れた『山羊』。
パルヴェーズが、町に近付かなくなった理由。
大地から現れた『雄牛』。
そして───彼の使命。
祐一が旅で遭遇した出来事。てんでバラバラで、支離滅裂なはずの事であったのに、欠けていたピースを嵌めると一つの絵を描き始めた。
こうして俯瞰的に見ると、祐一が出遭った異常現象の数々にはパルヴェーズが密接に関わっている気がしてならなかった。
もしかしたら……。祐一の胸裡にひとつの仮説が浮かぶ。
パルヴェーズが居る所に異常が有り、異常が有る所にパルヴェーズが居るんじゃないか? ……そんな仮説が。
そうしてもう一つ、順を追って過去をなぞって行き、祐一はとある推論を導き出した。
───パルヴェーズの使命は、あの魔物たちを倒す事にあるのか?
確かに未だ不可解な点は多い。パルヴェーズが記憶喪失の理由や魔物の正体。それこそパルヴェーズの目的すら分からない。
彼が何者なのか、すらも……。
だが祐一はパルヴェーズが、魔物を倒す事が使命の一つなのだと確信した。
そう考えればパルヴェーズの身体能力の高さも、納得がいった。
だが何故そんな使命を彼が背負っているのだろう?
祐一の心に、また一つ疑問が積み重なる。それと同時に祐一は、一つの可能性に突き当たった。
まさか、パルヴェーズは……。
その問いが、パルヴェーズへ抱く、不信の濫觴となったのかも知れない。祐一は、パルヴェーズへ僅かなりとも、不信感を抱いてしまっている自身をひどく嫌悪した。
そして……例え現実に戻れたとしても、パルヴェーズと今まで通り接する事が出来るのか、ひどく不安だった。
自分が死んで居るのか、生きているのか、それすら分からない状態だ。もしかしたら現実に戻れず、この牢獄の様な空間で、消えさる運命なのかもしれない。
そんな状況でこんな事を考えるのは、杞憂以外の何物でもないのだろう。
だが祐一は、友への疑心を抑える事が出来そうになかった。洪水に見舞われた河川が氾濫するように疑問が溢れ、祐一の心が乱れる。
だけど、それでも……
(パルヴェーズが、分からない。……でも、俺はあいつに聞かなくちゃならない。君は何者なんだって……。それが例え、俺が望まない答えが待ってたとしても、だ)
そこまで考えてふと眼の前に、あの閃輝暗点が広がっている事に気付いた。
数歩先にあるだろう、と感じていたアレは手を伸ばせば触れれそうな距離にあった。
今もじわじわとその鈍い輝きは広がって、近づいて来る。
なんて不愉快なんだろう。
彼の心に沸々と嫌悪の感情が沸き、沸騰し破裂しそうなほど、感情の高まりを感じた。
目を閉じ視界から消し去る。それでも閃輝暗点は追って来る。
煩わしい。頭を振ろうが、意識を閉じようが、脳にこびり付いて離れない。
身体なんて無いから、頭も目も、全て感覚だけの話だ。だが余りの嫌悪感と鬱陶しさに、手で振り払う様な動作をしてしまった。
───バチッッ!
触れた瞬間、紫電が迸る。次いで祐一の全身に素手でドアを開ける時に感じる静電気を、何百倍も強力にした様な鋭い痛みが走った。
この空間で初めて感じた”痛み”だった。痛みは、真なる意識の覚醒に導いた。
不思議な空間に迷い込んだ祐一であったが、現実に帰還する時が来たようだ。
(よかった……。まだ、俺は生きてる……!)
ホッと安堵の息を漏らす。
それと同時に思う。現実に戻れば、───パルヴェーズが居る。
祐一は、現実に戻る事に不安になる心と、旅の相棒への疑心に溢れる心を必死に抑え、顔を上げて光を見る。
それでも抑え切れない疑心が、祐一を苛んで仕方がない。
(パルヴェーズ……。お前は一体、何者なんだ……?)
どれだけ考えても答えの出ない謎。彼が本当に知っているかどうかすら怪しいが、彼へ問わねばならない事は多い。胸の辺りを握り叱咤する様に、心に「強くあれ」と念じる。
───ただ憚らずに言うのならば、パルヴェーズに会う事が怖かった。
○◎●
「起きたか、小僧。治癒を施したが、なかなか目を覚まさない故、気を揉んでおったが……意外と元気そうに見えるのう?」
久しく聞かなかった気がする……しかし聞き慣れた声。
そんな風のように透き通る声が、祐一の耳朶を打つ。まるで、その声に癒やしの力があるかのように、声を聞いただけで、少し頭痛が治まった気がした。
まだ少し霞がかった頭で、声の方を見る。
「パルヴェ……?」
一瞬、誰だか分からなかった。
直ぐに、彼の類稀な容貌を見て、パルヴェーズだと気付いた。
だが別れた時といま会った時の彼と、同一人物と思えなかったのだ。
まるで初めて会った時に感じた、無機質で神韻縹渺たる雰囲気。これまで旅をして、ごく偶にちらついていた神々しさが、今はっきりと感じ取れた。
パルヴェーズが微笑んでいる。初めてあったときの笑顔で。そう、───アルカイックスマイルで。
祐一の全身をぞくりと気味の悪い悪寒が舐めた。
思わずゴクリと生唾を飲み込む。粘ついた唾は、嚥下するのに酷く苦労した。
(最初に会った時よりも……生々しく、ない……)
目を覚ましてパルヴェーズを見た時より感じていた、違和感。パルヴェーズの声を聞き、幾分か頭痛が和らいだ思考の中で、それは今、確信に変わりつつあった。
以前、初めて会った時と同じ動作を彼が行った時、違和感は顕著に現れ、祐一を酷く動揺させていく。
違和感と疑惑は、膨らむばかりだった。
そうして、ずるり……と、脳内に一つの疑問が生まれた。パルヴェーズへの、クソみたいな疑問が。
あの空間に居て、半信半疑で、パルヴェーズへの不信の濫觴となった疑問。
でも、その疑問は馬鹿にできなくて、だからこそ祐一は考えたくはなかった。
そこまで思ってふと、腹部に手を当てる。
───おかしい。
巨礫が刺さり、穴が空いていた場所が塞がっている。それに、落ちて全身を強く打った筈だ。擦り傷どころか、骨が何本か折れた感覚があった。
まあ、祐一は生まれてこの方、一度も骨が折れた事は無いので、予測でしかないのだが。
そう言えばパルヴェーズは、さっきなんと言っていたか。治療を施したと言っていなかったか?
───あり得ない……。
確かに、パルヴェーズの治癒を与える不思議な力は知っている。祐一自身その力は、目の前で何度も目にしていたのだから。
でもそれは、擦り傷や捻挫などの軽症がほとんどだったはず。あの時、自分が負った怪我はそんな生易しいものではなかった。生死の境を彷徨いほどの外傷だったはず。
あの疑問が、どんどん確信に変わっていくのを、感じた。やめろ。やめろ。考えるな……。
必死になって思考を放棄する。そうしなければこの友人を、まともに見る事が出来そうになかった。
「なあ……パルヴェーズ……」
頭痛と吐き気のせいで、ぐちゃぐちゃな頭を必死に動かし、あの空間で訊こうと決めた事を、口にしようとした。だが……
「……がぁはっ……はぁっ……」
吐き気が酷くなり、また嘔吐いては、吐瀉物が辺りに広がる。……だがもう胃液ぐらいしか、出せるものは残っていないようだ。喉に胃酸のひりつく感覚がこびり付く。
水が欲しい。誰か背を擦ってくれ。そんな声にならない思いが脳裏を走る。
祐一の醜態を見た、パルヴェーズが祐一に近づき、
「大丈夫か、小僧。おぬしがそこまで弱るとは珍しいのう。どれ、背でも擦ってやろう」
何処か心配気なパルヴェーズが、祐一に声を掛ける。そしてパルヴェーズは、背を擦ろうと手を、伸ばした。
無意識だった。
───パシッ。祐一は反射的に、彼の手を振り払っていた。
時間が止まったような、感覚。二人とも、何が起きたか分からなかった。ただただ、目を見開いては、目の前の友を見る。
祐一の血の気が引き、あれほど苛んでいた吐き気は不気味なくらい鎮まった。
交錯する視線。
パルヴェーズと目が合った祐一は、直ぐに目を逸らした。常では見せない、余りにも頼りなさ気な姿。
そんな祐一の姿を見たパルヴェーズも、視線を落とし、己の手をまじまじと見て、哀しげな表情を作った。そして何言かを独り呟く。その呟きは祐一には終ぞ聞こえる事はなかった。
「ちが……。そんな、つもりじゃなかったんだ……」
祐一は、パルヴェーズと目を合わせる事なく、顔を俯かせて、譫言のように呟く。パルヴェーズの表情は見えないままだ。
拳を固く握る。握った拳で、膝を打つ。
───死にたかった。
比喩じゃなく、本心で思う。
パルヴェーズに救われた命だ、ここで終わっても惜しくは無かった。
友を拒絶した事。友に拒絶された祐一が、絶対にしたくなかった事。禁忌とも言える行為。
それを犯してしまった祐一は、今すぐ己の首を掻っ切りたい衝動に駆られた。実際、なんの躊躇いも無く、彼はやるだろう。
だけど、出来なかった。
身体を誰かに、持ち上げられた。すぐに分かった。
パルヴェーズが、膝を付く祐一を、背におぶったのだ。
あの何処か神聖な雰囲気を持つ外套が、祐一の吐瀉物で汚れていく。だがそんな事構わず、パルヴェーズは祐一をおぶっては進む。
祐一の動揺は、留まる事を知らないかのように乱れ、荒れ狂った。
細身だが、力強い彼に抵抗出来ず、揺さぶられるだけ。
慌ててパルヴェーズに、問い掛ける。
「お、おい……! 何やってんだよ! ……お、俺が今、何したか分かってるだろ! なのに、なんで……」
「ふふ、何を言っておる。我を”友”と言ったのは、おぬしであった筈じゃ。我は、苦しんでおる友を見捨てるほど、冷血漢ではないぞ小僧」
パルヴェーズは、優しい声音で囁く。
「今は眠れ。その不調はおそらく、『雄牛』と邂逅し、あやつの神力に当てられたのじゃろう。おぬしら、人の子にとっては、莫大な神力を持つ、正に力の塊じゃ。特に、この神無き世界の者にとっては、毒も同然」
パルヴェーズは、一呼吸置き「なに。我が付いておる。安心して眠るがよい」そう言うパルヴェーズの表情は、背負われる祐一からは見えなかった。だが、彼が微笑んでいる事は、容易に察する事が出来る。
(俺は……俺は……俺は……!)
祐一は声も無く、泣いた。己が情けなさ過ぎて、消え去りたかった。自分が大嫌いになりそうだった。パルヴェーズの、外套が更に汚れていく。でも、止めれそうに無かった。
背負われていて、パルヴェーズに己の顔を見られなくて良かった。
啜り泣く祐一は、心の隅で思った。
だが、それでもなお、パルヴェーズへの疑心は晴れない。
あの牛の魔獣はどうなったんだ?
パルヴェーズが倒したのか?
神力って?
俺が負った傷はどうやって治したんだ?
何で、あの町で俺の記憶を消したんだ?
あの黒雲もパルヴェーズが倒したのか?
パルヴェーズの使命って、あの魔物を倒す事なのか?
こんな俺を友だと言ってくれたパルヴェーズを、信じ切れない自分が醜くて嫌悪すら浮かぶ。
しかし疑問は止めどなく溢れ返り、パルヴェーズに聞きたい事は尽きない中で一つの疑問が祐一を苛むのを辞めてはくれなかった。
恩人だと。
相棒だと。
友人だと。
そう思っているからこそ、思い至ってはいけなかった疑問。
『パルヴェーズもまた、今まで出遭った魔物や異常の仲間じゃないのか?』
そんな疑問。あの暗い空間で、微かに抱いた疑問だった。目覚めた時、パルヴェーズの変化に気付いたからこそ、心に深く伸し掛かってきた疑問。
友人を……パルヴェーズを疑いたくない、と言う気持ちは当然ある。疑うなんて事を思うだけで、吐き気が止まらない。
しかし冷静な思考が、弾き出した推論を声高に主張する。現実を見ろ、と。
判断が下せなかった。
その疑問だけですら、いっぱいいっぱいなのに、また、次々と疑問が生まれて行く。それなのに、答えは出ないまま。そんな、袋小路。
少し治まっていた頭痛が、また酷くなっている事を自覚した。祐一の猜疑心が、パルヴェーズの治癒を拒否しているかの様だった。
余りの痛さに意識が霞んでいく……。
ただ不安になった心は無意識にパルヴェーズに回した腕を、強く掻き抱ていた。
パルヴェーズがどんな顔をしたのか分からない。それでも、そっと強く抱く腕に、手を添えてくれた。
血のように、熱い涙が、頬を伝っていく。
ごめん。そこで、祐一の意識は暗転した。