「ここで待ってて! おじいちゃまに山を降りていいか聞いてくるからっ!」
「おー」
境内を少し歩いた先で、恵那がスマホを掲げながら去っていった。
一本の松と小さな池のある庭園でラグナと二人で待たされる形になった。
広さもなかなかで体育館くらいはある。よく手入れされていて雑草は見受けられず、池の水も濁った様子はない。
と、池の水面に錦鯉が見えた。
「おぉー、すげぇ大正三色だ。久しぶりに見た」
紅白の鱗に黒い斑紋のある錦鯉だ。
日本の原記憶として思い浮かびそうな錦鯉で、錦鯉どころかフナも久しぶりで感慨も一入だった。
日本原産の川魚となると、欧州どころか中央アジアですら見る機会なんてなかった。
山奥の標高も高い神社にこんな場所が、と驚くが人通りはほとんどない。昼時だからそこそこ観光客で賑わいそうだが。
「気づいていないってことは何か仕掛けがあるんだろうなぁ」
人払いの術は一通り見てきた。人払いの魔術もそうだし、神様が人間に認識されないのも人払いの範疇だ。幽世だって禁足地と銘打って異界ごと人払いしている場所もあった。
神様や魔術の横行する界隈だから見られると不味いものなんて腐る程ある。そのため人よけの技術は大いに発展してきたのだろう。
「まあいいや」
そんな考えをしながら早速座り込んで不動の構えのラグナに背中を預ける。
池のほとりに座り込んで、太ももやふくらはぎを揉みほぐしていく。
少し硬さを感じた。
血流を促すように揉んでおく。
戦いの傷はまだ癒えていない、というより『
ふと。
池に映った顔を視界に捉えた。
差し込む日光がちょうど水鏡になっている。
思えば昨日から鏡を見れていなかったから今気づいた。
いつも通りの容貌が水面に揺れているが……祐一は額をかいた。
「何だこれ?」
手触りがおかしい。
刺青でも彫ったように触覚に違和感があった。
額には鈍い色の
額をコツコツと人差し指で叩くが、変化は無い。
焼きごてで刻まれた奴隷の烙印のごとく、木下祐一という魂魄に刻まれ剥がれることは無い。
まるで──三蔵法師に付き従った孫悟空を戒める緊箍児のごとく。
まるで──磔刑にされ槍で貫かれて死んだ聖人のイバラの冠のごとく。
明らかに不味い代物だ。
今まで散々まつろわぬ神と対峙してきたから分かる。
思わず舌打ちが出る。
刻まれた理由は知らないが、トリガーになったのは日本海で同族二人と殺しあったからだろう。
『
「んー……? mairyakas? ……竜を屠る英雄……、黒き旗と帯をしめ英雄に殉ずる若き戦士たち……それに原王か……」
ちり、ちり。
言葉のあとに聞こえて来たのは鉄の擦れる音。
鈴の音とは違う鈍い金属音が聞こえ、音源をたどると──手首に鉄の枷を嵌められている。
実際に繋がれているわけじゃない。これは幻視。
枷に繋がれた鎖を追っていくと、その鎖は深い地中の底まで伸びていた。
鎖は祐一から伸びる物だけではない。
十は下らない鎖が同じ場所へと群がり……皺だらけの手に握られていた。
『実りの祭事は民を狂わせ、酔わせるもの。血の祭事は戦士を狂わせ、世を狂わせ、まもなく我らが嗣子は蘇る! 諸王は王位を憚り、玉座を捨て、鎖を得る。聖なる嗣子の稜威にひれ伏すがいい。嗣子よ、狂騒の宴とともに栄光を光とともに飲み干しておくれ!』
「──うるせぇ!」
まつろわぬ性に狂いきった神様の耳障りな演説が聞こえてきたから権能をぶつ切りにした。
めちゃくちゃ渋い顔で小指を耳に突っ込んで掃除する。
あの手の輩は自分の無謬さに疑いを持たないからタチが悪いのだ。
「うわぁ……あれがこの呪詛をしかけた祭司なわけか。それに俺だけじゃないらしいな? この馬鹿げた呪詛、つーか祭りに巻き込まれたのは」
今からでもあの皺腕をもぎ取りに走っても良かったのだが、まだ先の戦いの消耗から癒えていない。
化身の一つでも行使すればすぐガス欠を起こすレベルだ。
攻め込むどころか守りすら覚束ない。
「にしても馬鹿げた祭りかぁ、護堂さんのいってたサートゥルナーリアってお祭りみたいだな」
思い浮かんだフレーズが記憶を呼び覚ます。
あれは世界を追放されたあと、その迷い込んだ先のヒューペルボレアで宿敵サトゥルヌスとを出会わせた騒動。
まつろわぬ神を復活させ続ける神具『サトゥルナリアの冠』とその神具に宿っていた神霊『灰色の者』が、祐一を襲撃しそれから先達のカンピオーネ草薙護堂を邂逅させ、そしてこの世界を訪れる切っ掛けにもなった……祐一にとって多くの分岐点となった一件だった。
神具『サトゥルナリアの冠』の誕生経緯はそこそこ複雑だ。
かつて太陽神だったサトゥルヌスが死別し、滅びた肉体は核となり、そして零落した魂魄が”灰色の者”となって神様を復活させ続ける従者となった。
この灰色の者でありサトゥルヌスも、もとは滅んだ太陽神だ。
魂魄──幽霊になった魂が自分を復活させようと従属したために従属神となり、太陽神に従属していた神サトゥルヌスの名を得た。
ヒューペルボレアでしのぎを削り太陽神への回帰を渇望したサトゥルヌスは結局本来の姿──『墜ちた太陽神』の名を取り戻せず『死と時の神サトゥルヌス』としての道を選び、後にベルゲンにて祐一に討滅されたわけだが。
あの一件で草薙護堂はひとつの祭りの存在を教えてくれた。
『サートゥルナーリア』
奴隷と主人の身分が反転する古代ローマの祭りだ。
今回巻き込まれた騒動はどうもそれを想起させる。
カンピオーネという神殺しの魔王が、まるで戦奴さながらに枷を嵌められているのだ。
「ゼッテェー碌なことになんねぇな……」
あの時の全知に近かったサトゥルヌスが絡まなかったのも気にかかる。なんにせよ禄な企みが進行しているのは分かりきったことだった。
祐一は断じた。
それに──
「──見られてるな」
水面に映った祐一の額が鈍く輝いている。
さっき幻視をしてからというもの何者かの視線を感じる。鎖を握っていた奴じゃない。別人だ。
なら、こいつは"お仲間"だろう。
「雲が早い」
怨敵の気配にカンピオーネの肉体が充足し、戦意を煽る。
つまり同族ではない。神殺しの天敵。
暴風とともに強大なるまつろわぬ神の気配を感じる。
『
「……へぇ。風だけじゃなく雨も降るのか……──相当厄介な神様らしいな」
山の天気は変わりやすいと聞くがこれは普通ではない。青一色の快晴が瞬く間に蹴散らされ、びゅうびゅうと強風が吹き荒れる。
祐一とラグナの髪や毛並みを乱していく。
うねる風が池を大きく波立たせ、草原と同じように水面は風を映し出す。
祐一の両目は水面に映る風たちを読み取った。
暴風。
鉄剣。
地底。
空を見上げ、叢雲に翳る神性を見抜く。雲の奥深くに隠された神の影──完全掌握した『
強力な《鋼》の気配。蛇殺しの英雄に類いする争いの神。
しかもどうにも血気盛んで一本気な《鋼》らしい性格は薄く思える。
それよりも厄介さと狷介さを感じる。
出会ってきた神々の中でもっとも似た気配なのがヤマトタケルだと感じる時点でろくな輩ではない。
「
祐一の瞳が熱をもって神力を祓う。
どす黒い雨雲が文字通り雲散霧消していくのを眺めながら、やがて視線が消えた。
やはり挨拶程度でしかなかったようだ。
えらく潔く身を引いた。……ということは近いうちに再会するのだろう。
その時が本気の戦いになる。
一瞬の邂逅だったが収穫は多い。
今回の敵、あれは相当高位の神格だ。それも《鋼》の英雄神。
喜悦が心を気振らせ、血流の潮騒がざわめく。なんだかんだ祐一もカンピオーネ。これまで戦いを愉しむ余裕がなかったが、サトゥルヌスを討滅し気ままな旅をしている最中だ。
久方ぶりに戦いへのめり込めるというもの。
今から戦うのが楽しみだ。
敵が去ったのはいいが、気が昂って仕方がない。
もとより熱しやすく冷めにくい性質の祐一だから裡に宿った激情を持て余す。
「人がいないのは丁度良いかもな」
というわけで『
視線がないのを『
「汝、泥濘のなかで輝く一等星。我、星の狭間に澱なす帳。冥府より深き……深淵に下った敗者の闇。祖は──
先日の戦いではアレクの吸引の権能──『
松の幹へと黒球を埋め込んで、ジャンプすると重力に”引っ張られる”感覚。
そして力に引かれながら幹へと"着地"した。
足元にある幹の具合を確かめながら、立ち上がり軽くジャンプする。
身体は地面に落ちるどころか平行のままだ。
重力操作を銘打っている『
ジャンプしたまま『
速度もなかなかだ。
神速並……とはいかないが、最大速度まで到達すればとある世代の大きなお友達の誰もが知ってる第三宇宙速度へと到達する。
つまりこの権能、めちゃくちゃ使い勝手がいい。
自制しなければ日常生活でも濫用しかねない。
「『鳳』また出番削られるな……。あんま使ってなかったもんなぁ」
足が止まったら即死するマグロみたいなバトルスタイルの祐一だからしょうがないといえばしょうがないのだが。
最初からトップスピードに到達できるが激痛で動けなくなるデメリットがでかすぎる。神速になれる権能を他にも持っていたのもあるが『鳳』と相性が悪かった。
しかしどんな武器だって使いこないしてこそ、戦士の器量というものだ。
神速は使いこなせば無敵に近い。
やるぞー!っと拳を掲げて……消沈した。
「ああ、ダメだな」
頭を振ってため息をつく。
神との邂逅で闘争心が高ぶるのはいいのだが、別の場所にまで火が付いてしまった。
どうしても昨日の一幕がちらついて仕方がない。
恵那という少女の身体の優美さと柔らかさがずっと脳裏に張り付いている。頭髪の甘やかな香りと困ったような笑顔。すべてが祐一の獣欲を煽った。
周知の事実であるが木下祐一は──童貞である。
若いからというのもあるが、一番はあまり異性に寄り付かなったせいだ。
性欲がないわけではない。
というより十代半ばなんてみんな盛った猿だ。祐一もその例に漏れずどうしようもなく女が欲しい夜がある。
王国でも、ヒューペルボレアでも、ベルゲンでも。
女を抱こうと思えば抱く機会はあった。
しかし。
祐一の生まれ持った戦士の相が、女の魔性を忌避していた。
戦士の相が無自覚的に祐一を調教していた。
異性が近づけば、眉をひそめさせ、難しい顔を作って、黙り込むように。
なんせ女の魔性は戦士の剣を鈍らせる。
男を虜にする魔性の女の逸話など世界中で事欠かない。
ギリシャの英雄オデュッセウスと魔女キルケーの逸話などはその代表的なものだ。彼女の艶やかさに神話を代表する英雄でさえ虜となり、飼い慣らされてしまった。
例えば日本の浦島太郎と乙姫。例えばケルトのオシーンとニアヴ。例えばイランのシャフメランとタフマスプ。
祐一の戦士としての勘が囁く。女は危険だ。
決意に惑いを生む。
歩みに迷いを呼ぶ。
紗々とした髪は戦士をしばり上げる拘束具となりえる。
柔肌は叩き上げた鉄の剛直にして烈々しい熱さを奪い去ってしまう。
ファム・ファタールの魔性に魅入られた男と同じく祐一もたやすく魔性に引き込まれる。
だからこれまで異性を忌避していた。
だが。
間違いない。
おそらく清秋院恵那は木下祐一にとって──もっとも
祐一の作っていた険しい壁をひょいと飛び超えてものの見事に懐まで飛び込んできた。
出会って一日も経っていないのに祐一は恵那に陥落寸前だった。
色恋とは縁遠い人生を送ってきたが、一目惚れとはこの事をいうのだろうと感じ入った。自分の事だ。誰より分かる。
清秋院恵那は端正な容姿に反して幼さを残した表情をよく浮かべる。ハツラツとしていて距離も近い。よく右手を握ってくる。
思わず脇が甘くなってしまう。
そして直感がこうも囁く。
生粋の大和撫子然とした乙女。思考も明瞭で、教養も深い。
そしてメリハリの激しいスタイルも危険だった。おっぱいがでかい。尻も肉付きが良い。安産型というやつだ。
成熟した優美な身体はきっと祐一な乱暴な振る舞いでも受け入れて包みこんでくれる。
今にでも胎に種を仕込めば頑丈な子を産んでくれるに違いない。
容姿端麗で身体も強いとなれば、優秀な子孫を残してくれるだろう。
そう思うだけで剛直な神々と鎬を削ったときとは毛色の違う”精”が宿る。
火の付いた獣があれを逃すなと叫んでいる。
祐一自身それには素直に頷く。
だが……それはダメだろう。
あーあ、っと投げやりに零しながら地べたに寝っ転がって空を見上げる。いろんな空を見てきた。世界も、国も、時間も違う空を。
そう。祐一は放浪者だ。
どこの馬の骨ともしれない根無し草。清秋院、といういい所のお嬢さんらしい。彼女の血には価値があるのだ。
神々の闘争に明け暮れるこんな過酷な旅に付き合わせるわけにはいかない。
入り込む余地はないのである。
何より祐一は女を幸せにできる器量がないと自覚していた。
番となった女に、似合いの白無垢を着せてあげるなんてとんでもない。
それは恵那に似合う別の
諦めとともに『ラグナ』の黒い毛皮を撫でる。
「お前もそう思うだろラグナ」
旅の侶伴は”家族”だけでいい──”友”と”相棒”だけで十分だ。
一夜の宿など求めない。剣が鈍ってしまう。子など作れば、世に情が出来る。
気兼ねなく死地に飛び込めなくなる。
どこまでも戦士。
どこまでも固陋なまでに突き進む。
どれほど戦傷と戦塵にまみれ、道半ばで潰えようがそれが本望ゆえに。
「一睡の夢ってな」
両目を瞑っていたラグナは少しだけ瞼を持ち上げると、呆れたようにまた寝入ってしまった。
苦笑しながらあたりを見回すと一本松の下に枝が落ちていた。
木の棒を握る。
せっかくだ。
先輩の肢体を忘れられないなら、
池のほとりでシャツを脱いで上半身裸になった。
赤銅色の肌にいくつもの傷痕が覗く。『
パルヴェーズの繊手によって袈裟斬りにされた傷痕。
チンギス・ハーンに撃ち込まれた首筋の三条線。
メタトロンに灼かれた火傷痕。
サトゥルヌスに刻まれた腹部裂傷。
ある時から真っさらだった表皮に変化が起こり、思い出したように古傷が浮かび上がって来たのだ。
カンピオーネの再生力は尋常じゃない。
だから傷跡は残らないはずだ。ならこれは傷痕ではなく絆。そして絆という名の楔。楔という名の呪印。
かつてヒューペルボレアで草薙護堂は《黒の剱》という莫大な破壊をもたらす権能を行使した。そのあまりに強大な力は"暁の秘録"と呼ばれる補助なしにはまともに扱えない代物だった。
祐一の傷痕もそれと同じものだ。
これは記憶。純情一途なる戦士たちが遺したそのきらめきを、その身でもって刻みこんだ褪せることなき《鋼》たちの秘憶。
そんな訳で人様には見せられない身体になっていた。
「──あれ? そういえば目覚めたとき裸だった……ってことは脱がされたんだよな!? 裸を先輩に見られてた!? このズタボロの……いや! それより俺の、俺を見られてた!?」
──るぉん。アホか。
──ひぃん。……まぁいいか。
ラグナの冷めた視線にさらされながら一頻り悶えたあと気を取り直して立ち上がった。
祐一は師エイルほど枯淡に剣へ向き合えなかった。それでも、それなりに真摯に向き合ってきたつもりだ。
軍神とだって権能の補佐なしでも数合程度なら打ち合える境地に至った。
軍神ウルスラグナの一側面だった”少年”パルヴェーズとの一幕を思い出す。
……あの境地に少なからず近づけただろうか。
(出会ったばかりの頃、パルヴェーズは棒を振るだけで旋風を起こしてたけど……今の俺はどうかな)
棒を振るうと刃音はなるがまだまだ記憶に残る剣閃には程遠い。
瞑目し、今繰り出せる最高の一閃をイメージしていく。祐一には無念無想なんて境地には辿り着けそうにない。
だから、必要なのは騒々しい雑踏のような乱れた感覚。
そのうえで、すべてを薙ぎ払う我の強さを祐一は求めた。
思い描くのは脳裏に焼き付いた朝のワンシーン。
悩ましい全裸の美少女の毛布からのぞくおっぱいの谷間。揉みしだいたぷるんとした乳房の手触り。思い返すたびに抱きつきたくなるような均整の取れた肢体に、剥き卵のようなお尻。
だけど。
迅。風を切って切っ先が閃く。
冷厳な戦士の瞳は蠱惑的な女の裸体を滑った。
向かう視線は、手元の剣。そして影もない敵のみ。
──縦一閃。
祐一の目にあったのは敵手のみだった。
「ん。いいかんじだ」
満足気に笑っていると──
「──ほう」
背中に声がかかった。
「こんな人里離れた場所で修行とは"
「え、"
変なこと考えながら振ってたのバレてたぁ!? っと驚愕しながら振り向くと、壮年の男性が立っていた。道着に袴という出で立ちで妙に姿勢がいい。腰に木刀を差して、筋骨も逞しい。体幹が一切ブレていないところを見るに相当な実力者だ。
顔はダルマみたいに厳しい。
ダルマみたいなおっちゃんだ。
「ダルマみたいなおっちゃん。なんか用か」
「達磨……」
二人の間に、一陣の風が吹いた。
祐一の髪は揺れた。が、年嵩の彼は髭が揺れても髪が揺れることは無い。
存在しないからである。
「オホンッ! ……失礼仕った。大したことではありませぬ。先ほど垣間見た今日日見ぬ素晴らしき一振に"棒振り屋"としての血が騒ぎましてな。一手、お手合わせ願えますかな?」
「いいぜ!」
ニッと笑って白い歯を見せる。
「俺は木下祐一! ダルマのおっちゃんは?」
「ふ、随分と活きの良い少年だ。白虎とお呼びなされ」
「白虎のおっちゃんか。かっけぇじゃん。……ん? 獲物は腰のやつじゃなくていいのか?」
祐一が松の棒を構え、白虎と名乗った壮年の男は腰の木刀ではなく祐一と同じように松の棒を拾った。
「構いませぬよ」
白虎が棒を振れば見事な剣風が祐一の頬に触れる。
破顔一笑。
嬉しくなって笑った。人はこれほど上手く棒を振れるようになれるのか、という感嘆を込めて。
対峙しあってもその感嘆は続く。
水鏡とでも言うべきか。まるで鏡に映した己自身のごとく足先、剣先、剣気を揺らせばたちどころに最適解で反応してくれる。
あれなら心眼の境地にも至っているに違いない。
懐かしいな。
達人との立ち会いなどどれくらいぶりだろう。気を抜けば剣どころか両腕をバッサリと切り取ばされそうな緊張感は師エイル以来だ。
ビックリ箱みたいな同族や天地神明をもって殴りかかってくる神々とは違う強かさを感じる。
剣には剣でもって返すのが礼儀。最大の礼をもって眼前の敵を打ち砕かねば。
(剣は無情、身体は激情)
師の教えをたまには実践してみようか。
『悟りを宿す菩提樹にして曇りなき明鏡の如く』──無為自然。
『森羅万象と天地万物を肯定し激しき烈火の如く』──有為転変。
騒擾に満ちた激情のなかで冷徹なる《鋼》の刃を振り下ろすイメージが乱れ飛ぶ。
これにて静と動の合一を為し、祐一は極地へと至った。渾然一体とした感覚を久しぶりに明確に意識する。
眼前の水鏡のような剣士へと殺気を飛ばしてみる。
すると刹那に反応した。
とは言っても祐一も白虎も、指先ひとつ、つま先ひとつ、動かしていない。
武を極めたものたちは、相手の気配や殺気を読み取り、即座に反応を返してしまう。だからイメージだけで戦ってしまえる。対峙するものたちだけの空間が出来てしまう。
半透明な切っ先が向かってきたのもイメージだ。
見えるだけで、三十二条ほどか。
身体をすり抜けていく見事な剣筋を阻んでいく。
右肩に触れてきたものは翻した棒で流して──
頭頂に突きこまれたものは剣先を跳ね上げ──
右足に放たれたものはすくい上げて弾き──
腹部のフェイクから心臓に流れるものを身体を前のめりに反らし──
──うん。ここだ。
無数の半透明の斬撃を、すべて集約させ首を跳ね飛ばす一刀とする。
壮年の頸部を横一閃で断ち切った。
すると即座に白虎が丁寧に頭を下げた。
「参りました」
「おう! 白虎のおっちゃんも強かったぜ!」
一線を終えて互いの健闘を称え合っていると、恵那が戻ってきた。
さっき小雨が降ったのだが雨宿りに失敗したのか、肩口が少し濡れている。
「ごめーん、おじいちゃまがまだ降りちゃダメだって。ほんと、はた迷惑なじいちゃんだよね……アレ? 白虎の先生何やってるの?」
「先輩、戻ってきたんだ。白虎のおっちゃんとも知り合いだったのか? やー。実はさっきまで手合わせしててなぁ、すっげぇ強かったよ」
「え、祐一くん、白虎の先生と試合したの!? いいなぁ、見たかったかも」
「……恵那」
と、そこで祐一と話していた恵那は白虎に手招きされた。
黒い猪に話しかけ始めた祐一を肩から見やりつつ、恵那は白虎に向き直った。
恵那は愕然とした。
途端、白虎は緊張の糸が切れたように膝をついたのだ。
見下ろす形になったから分かる。白虎の道着は背中の部分がぐっしょりと濡れていた。
大量に吹き出した冷や汗によって。
「ど、どうしたの先生!?」
「──二十四手だ」
「え?」
白虎を名乗った彼は、日本でも随一の剣豪たちが集う”撃剣会”の頂点の一角。媛巫女として抜きん出た武術の腕をもつ恵那ですらまだまだたどり着けない高みにいる剣術家なのである。
その一角が今まで見たことがない情けない姿を晒している。
「読み合えたのはそこまで。そしてすべての剣筋を対応しきり、果てには我が首を切り飛しおった……」
声が震えている。
その声音にあるのは畏怖だった。
「世には私よりも若く、私よりも強いものはごまんといる。欧州のサルバトーレ卿など……そうだ。私はあの若者との戦いで何故かサルバトーレ卿が頭をよぎった」
「サルバトーレ卿って……カンピオーネの?」
「うむ。私がどれだけ妙手を放とうと決して勝ち筋見えぬ感覚は間違いない。あの者、おそらくサルバトーレ卿ほど剣の才はそれほど優れたものではない。ややもすれば私よりも劣るかもしれぬ……しかし、武器を選ばぬ特異な類の戦士。我らが標榜する無念無想とは根底から違う。鉄の冷たさと激情による合一こそ、あの者がたどり着いた極地──」
○◎●
「白虎の先生褒めてたよ。武器を選ばないって」
三峯神社から秩父の山奥に戻る山中、そんな事を恵那が報告してきた。
結局、おじいちゃまとやらから山を降りるのは止められたらしく山奥でまた修行に戻るのだとか。
祐一としては思いがけずまつろわぬ神と接近してしまったので、ここらでサヨナラバイバイした方が良い気もしたのだが、いつの間にか右腕をがっちりホールドされていた。
くっ! っと呻きながらお持ち帰りされていた。
意志薄弱な男である。
「武器を選ばないかあ、それエイルにも言われた。やっぱ上にいる人って言うこと一緒になるんだなぁ」
「エイル?」
「剣の師匠だよ〜。ま、死んじまったけどな」
少年から漏れた驚くほど淡白な声が恵那を驚かせた。無機質な声だった。