「──」
戦地に赴いた清秋院恵那が、最初に感じたのは異臭。
刀剣という金属を常にそばに置く媛巫女は、鼻孔で感じた異様な鉄臭さを鋭敏に感じとりそして眉をひそめた。
鉄が、視界いっぱいに花開いている。
空には黒風──砂鉄の嵐を周囲に侍らせ、大地には玉鋼──鉄剣が筵のごとく突き刺さっていた。
その針地獄の峰で、巨大なオロチが仰向けに裏っ返しになって磔になって横たわっていた。強風は止み、『猪』も『少年』の頭も力なく項垂れていた。
ひとつひとつ丁寧にオロチの頭へ、刃を突き刺され八つの血河が流れ出る。流出する赤黒い血で、世界が赤に染まっていた。
まさに大紅蓮地獄の顕現だ。
(あれが……おじいちゃま?)
鉄山の頂きに座り込み、鉄臭さの源泉に居たのは、満腔から威風をたなびかせる翁。
恵那は少なからず驚いた。恵那の知るスサノオは、幽世の
しかし今のスサノオは違う。
白錆のような総白髪に、黒い頭髪が見え隠れしている。まつろわぬ性や比類なき武略すらも錆びていたのに今や、乾ききっていた肉体には潤いが戻り表情にも活力を感じる。
(まつろわぬ神は不老不死……でも幾星霜の時を重ねちゃったらいかに神様でも朽ち果てちゃう。おじいちゃまもその一人だった)
しかし。
(力を取り戻したんだね! 悪龍ヤマタノオロチを討伐して、在りし日の……暴れん坊だったころのスサノオの時代の力を!)
まるで古びて酸化し腐食していた鉄を叩き直し、脆くなった剥げかけの外表をこぞり落としたように。
光を反射して煌めく鋼鉄のインゴットがむき出しになっている。
スサノオの凄まじさは忠勇なる己の媛巫女にすら牙を剥く。
「……っ!? けほっ、けほっ!」
(っ、咳が止まらない!? おじいちゃまのせいで空気中の砂鉄が暴れてるんだ! 鼻や肺を刺突してっ……呼吸すらまともにできない!)
「ふーっ、やれやれだぜ」
「!?」
屍山血河を作り出した英雄神スサノオは返り血のついた黒が混ざり始めた白い蓬髪を後ろに撫で付けながら、現れた恵那を予期していたようにため息をついた。
「おいおいこんな所でなにしてやがる、恵那? おまえにはクシナダヒメとして須賀の宮殿に待つよう申し付けたはずだ? なんで宮殿から抜け出してこんな場所にいやがる?」
「おじいちゃま! それは……ごほっ!?」
まつろわぬ神は、ただそこにいるだけで人にとって悪影響を及ぼす。その法則はスサノオでも変わらない。
空気中の砂鉄が、歓喜を吠える。
蛇を殺傷し猛っている英雄神の一言で土中に埋まった砂鉄たちを舞い上がり狂喜乱舞している。狂気の躍動は只人でしかない少女の、鼻や喉、気道や肺のなかですらもたやすく傷つけた。
吐く息に血が混じる。
「そもそも、だ。巫女だのなんだのと、それ以前に
呼吸がさらに辛くなった。
それだけではない。まつろわぬ神としての圧力が際限なく増大していき乱風にかき乱され、恵那はバランスを崩して腰をついた。
スサノオの視線は、半生を捧げてきた清秋院恵那ですら覚えがないほど峻厳だった。彼が神話で殺害してきた機織女や女神オオゲツヒメに向けるような冷酷さもある。
このままでは死ぬ。
恵那が確信した時、スサノオと恵那の間に黒い影が割って入った。
影はスサノオの首元を掻き切ろうともがき、煩わしそうに払われた。
「ふん。神殺しに飼われてる神獣にしちゃあ活きのいいのがいるじゃねえか」
──ォ、ォオ……オ……!!
影は……まだ息があった『猪』。
不撓不屈の『猪』は首だけになっても怒りを絶やさず怨敵への殺意を滾らた。
祐一の盟友たる神獣は、スサノオを射殺さんばかりに血涙とともに睨み据えた。
しかしスサノオは一顧だにしなかった。目をかっぴらいて凝視する『猪』を踏んずけ、情け容赦なく剣を振り下ろす。
ズシャッ。ゴリ。
恵那は思わず目を瞑った。そして破砕音。
降臨術師として人類でも指折りの才能を誇る巫女だろうと……結局はちっぽけな人間だ。神の足元にも及ばない。
肩を抱いてガタガタと震え、俯いた鼻先から涙を落とした。
(あ、あの神獣……は、祐一くんが友だちだって……)
その神獣が砕かれていく。足蹴にされ、鉄を振り下ろされ、肉が飛ぶ。戦いですらない、ただの作業。己に逆らうものを打ち据える圧倒的上位者の裁き。
スサノオの臭いにも、態度にも、"作業"にも……。
恵那は嫌悪を抱いた。
そして気づけば叫んでいた。
「おじいちゃま──いえ。畏れながら言上申し上げます! 須佐之男さま! 荒ぶる神たる御身の怒りは重々承知しております。御身の深謀遠慮をその一片も理解できるはずもありません! ……しかし、このまま争いを続ければ不死ならぬ身の上の我らは死を迎えてしまいます! どうぞ、この場は刀をお納めください!」
「ならん」
「……あ……」
神の言霊が、諫言を叫んでいた恵那を無慈悲に支配した。
神を諌めようとした恵那の目から光が消える。
神の呪言は絶対だ。神を殺める気概のある愚か者でもなくば、またたく間にまつろわぬ神の虜となる。それが仕える神だったならば尚更だ。
太刀の媛巫女は表情をなくし、ぼんやりとした目でスサノオを見ていた。
「恵那、お前はオレに仕える巫女だ。オレに傅き、魂魄のすべてを捧げるのは義務。大人しくオレの用意した御殿でオレの勝利を祈ってな」
「…………っ!」
スサノオの勅令。
足を翻し、御殿へ帰れ。という言霊。
しかし恵那は動かなかった。表情をなくしながらも必死に抗った。呪力を高め、足が捻くれそうになるのをなんとか堪える。
スサノオは呆れて二度目のため息をついた。
「やれやれ、この年頃の娘はどうにもいけねえ。恵那はマシだと思ったんだがなあ? あのクソガキのせいか? ちっ、いつの間にか色気づきやがって……」
さっきまでヤクザの組長じみた恐るべき古強者然としていたのに、今は娘に手を焼く壮年の男親のように表情を歪めた。
「……恵那、よく聞きな。オレが幽世で隠棲するのをやめて地上に舞い戻ったのは、たまたまアカシャの記憶なんていう知識を得たからよ。現世とちがって、幽世には宇宙開闢のときから起こった全ての出来事、これから起こりうる全ての可能性なんぞが書き記されているって話だからな。然るべき力を持つ者は、そいつを取ってこれるのさ」
戦士であるスサノオはできないはずだった。
祐一もかつてヤマトタケルと戦った時、アカシャの記憶を読み取った。しかしスサノオは知恵者であるが予言や啓示の才はなかった。
しかし聖秘儀《王書》の影響か、何らかの駆動因が働いたのかアカシャの記憶を読み取り──再び立つことを決めた。
「あの木下祐一とかいうクソガキが"蛇"を宿していたからよ」
(蛇……?)
「そうさ。蛇を喰らえば食らうほど《鋼》は力を獲る! そしてあのクソガキの蛇は上玉も上玉だ」
茫洋とした表情の巫女を見下ろしてスサノオは、おごそかに話しはじめた。
「むかし、むかし、あるところに……。一人の女神がいた。女神さまのお名前はシャフメラン。
スサノオが語りはじめたのはトルコ南部に根付く古い伝承だった。
メソポタミア平野にもほど近い古都マルディンや、古城ユランカレがあるアダナで語り継がれてきた古い話。
「ある日、タフマスプという若者が地下湖に迷い込んできた。地下へ続く洞窟をくぐり抜けてきた少年と、地下湖に住んでいた女王シャフメランは一目出逢うとすぐさま恋に落ちた。いくつかの話といくつもの夜を重ねた。しかし長いあいだ歓待を受けたタフマスプだが、やがて地上に帰りたいと申し出た」
浦島太郎と乙姫や半人半蛇のメリジューヌの伝説にも似た伝承。青年と蛇の乙女が恋をするというありふれた異類婚姻譚の一葉なのだ。
「女王シャフメランとタフマスプは地下湖の場所を秘密にするという約束をして、彼が去るのを許した」
しかし異類婚姻譚は多くの場合、破滅を迎える。
「少年が帰った先では国を治める王が病になっていた。弱りきり明日をもしれぬ王だったが……王に仕える宰相が病を治すには女王シャフメランの肉が必要だと言い出した。地下湖から帰ってきたタフマスプはシャフメランのことを話してしまい、拷問にかけられ、耐えきれず地下湖の居場所を吐いてしまった」
そして地下湖には王と宰相、そしてタフマスプがやってきた。
「すべてを知るが故に己の死因も死期も知っていた女王シャフメランは己の肉を王へ。血を宰相へと渡した。シャフメランの肉は万病に効く薬だったが、血は毒だった。毒を飲んだ宰相は死に、王は快癒した」
血肉を捧げた女王は死に至る。その死の間際、シャフメランは愛する少年にも大きな遺品を遺した。
不治の病を癒す肉でも毒となる血でもない、この世唯一の秘宝。
「この世のすべての知識が詰め込まれた頭脳。
スサノオは頭をトントンと叩いた。
「で、だ。あいつの頭のなかにはその蛇には住み着いてやがるのよ、妙に《鋼》に好かれたり付け狙われるのもそこら辺にあるしな」
女神シャフメランの伝説はアラビヤ文学の一大名著たる
しかしとうのヤムリカ女王は、蛇の女王であるものの全知ではなくなっている。
この世の何者も唯一神■■■■には及ばない。それを謳い文句に、ゾロアスター教の神々をはじめとした古き神々の権威は貶められ忘れ去られ、その記述も記憶も抹消された。
王も、宰相も、女神も、少年も。
すべては陽の当たらない洞窟の闇のなかで起きた秘密事。
「──あのクソガキも忘れてるようだな」
スサノオは小馬鹿にするように鼻を鳴らした。
「だとすればお笑いじゃねえか。せっかく手に入れた
ゲラゲラゲラ!
雷雨を背にして老神はいよいよ腹を抱えて哄笑した。
「あのクソガキには宝の持ち腐れよ。だったらオレがもっと有効に使ってやるのよ。例えば蛇を喰らい尽くし、この日ノ本に蔓延るまつろわぬ神も神殺しも鏖殺する! ……とかな」
祐一をヤマタノオロチという蛇へと貶めることで脳内に秘めていた蛇の神性を高め、むき出しにさせ、喰らい尽くす。
その過程を経ることでスサノオという神格は最強の《鋼》へと到れる。
スサノオも蛇殺しの《鋼》の一人。
結局はシャフメランという極上のごちそうに惹かれてやってきた捕食者。それこそ隠棲していた幽世から出張ってくるほどに。
カタカタと恵那の指先が震える。
薔薇のトゲを指先に刺され続けるように拒絶反応を繰り返す。
嫌悪だった。
「無駄だ、恵那。お前はオレの支配から逃れられねえ。お前はオレの巫女だからな」
神に逆らう意志を持てば、たしかに神の支配は免れる。
だが恵那のような幼少からスサノオに仕え、脅威を刷り込まれ続けてきた者が跳ね返すのは難しい。
駄々っ子に言い聞かせるような声音でスサノオは続けた。
「それにな恵那。──あのガキはお前が待ち焦がれていたガキじゃねえ。そいつはもう死んでる。だからお前の前にあらわれたクソガキはまったくの別人。別世界から現れた異邦人なのさ」
「知ってる、よ……」
「なに?」
震えが強くなった。
ここに来て恵那の反発は、頂点に至った。俯いて上目遣いに睨みつけるだけだった子供は、ついに親へ
「あの祐一くんが別人だって、一目見たらわかるよ! でもあの祐一くんだって──祐一くんなんだ! 恵那にいつか神様のいない世界をって約束してくれた、あの時と何も変わらない! だったら恵那は迷わない! 躊躇わない! 忠義を捧げるのに一点の曇りもない! あの人の役に立ちたいよ!」
恵那の宣言に、まつろわぬ神は困り果てたと言わんばかりに頭を抱え……呟いた。
「困った……。
「──ここで摘んでしまうか」
ゾッとした。
スサノオの視線が恵那の顔を見つめやがて、下にくだり、少女の肢体へと及ぶ。
実りに実った乳房やくびれた腰つき。十全に膨らんだ臀部や、子を宿すために開いた骨盤。健康的な脚のラインからつま先まで。
蕾だった幼少のころより見守った恵那はもう食いでのある女へと見事に花開いていた。
スサノオは恵那を女として求めている。屈服させ、支配し、反抗の言葉すら許さず、その魂魄まで捧げることを強要するために。
スサノオという存在そのものすべてに嫌悪を抱き──。
「そっか」
恵那は声一つ。小さく悟った。
「なんだと?」
冷酷に恵那を品定めしていたスサノオは不可解さに疑問をこぼした。さっきまで支配する寸前まで追い詰めていた恵那が、立ち上がっていた。
それもいつものように軽快な動作で。
まるで、神のプレッシャーなんて感じていないように。
「オレの支配が切られた? いや、そんなはずがねえ……まさか、言霊をすり抜けやがった……」
謀神のごとく超然としていたスサノオは初めて困惑していた。
「はあっ! はあっ!」
この戦場に訪れてからというもの恵那はずっとスサノオに嫌悪があった。
恵那を女として見ている視線もそうだが、老いさばらえたを必死で隠し、若々しさを取り戻そうとする姿にも嫌悪があった。
年甲斐もなく
それに、鉄臭さは見え隠れする脇や首元からにじむ加齢臭を誤魔化しているようで耐えられない。
一言で言うなら娘が父親に言うような「生理的に無理!!!」で切って捨てるような感情。
「あはは、やっと分かったよ。ずっと思ってた気持ちがやっと言葉に出来た。おじいちゃまはおじいちゃま。恵那のコレは神様への反抗なんかじゃないよ。父親の臭いに──嫌悪感を抱くのは当たり前だもんね」
恵那がずっと感じていたスサノオへの嫌悪。それは年頃の娘が誰でも抱く……父親への嫌悪感。生理現象だ。
神への反抗ではない。巫女としての諫言でもない。
娘とはいつの時代だってそうだった。現代でも神代でも変わらない。家長たる父親への反発を吼える。
「おいおい恵那ァいまさら反抗期か!? これはオレが日ノ本を救う聖戦、ガキのわがままも大概だぞ!」
「おじいちゃまのっ、言う通り、はあはあっ……が、ガキのわがままかもねっ! でも、恵那は──
そうだとも。
いつの時代だって──"愛"は最強なのだ。
「恵那は祐一くんのところへ行くんだッ!」
『見事』
いつの間にか恵那の手には白刃の刀があった。インテリジェンス・ソードが痛快に笑う。
『くっ、ハハハハ!!! 痛快ではないか、人の愛とは! いや神々だってそうだったはずだ……我ら神代の頃より、愛とはいかなる神剣や権能も及ばぬ何者にも代え難き最強の武器! スサノオとあろうものが耄碌したな、オオナムヂとスセリビメの逸話すらも忘れたか!』
天叢雲の呵呵大笑を聞くスサノオは──驚嘆の嵐のさなかにあった。
恵那の握りしめている別世界の天叢雲剣というイレギュラーに愕然としていた。
「
特大の見下とし。計算違い。
同一の神格が同じ世のなかにあるなどありえない!
策謀を練った時、アカシャの記憶を好きなだけさらうことができた。それを下地に幾つものシュミレーションを重ねて、ヤマタノオロチとそれを討伐した今がある。
チェックメイトだと確信していた瞬間、突如として現れた最強の駒。チェスでいえば敵陣にもう一つのクィーンが現れたような理不尽。
こんな埒外の変数があるならば、決して地上くんだりまで出張って来なかった!
ジリ、ジリ。
スサノオの視界に、光り輝く盲点が生じる。
「なに、が」
────時
───間
──が
─引
─き
──伸
───ば
─────さ
─────────れ
──────────世界は止まった。
「────!!!」
時が止まる。いや、これは思い出しているだけ。
アカシャの記憶を読み取る然るべき力がないスサノオがなぜアカシャの記憶を読み取れてしまったと、思ってしまったのか。
なぜ読み取れたことに疑問すら浮かべず、意気揚々と現世まで訪れたのか。
そんなもの、脳をいじくり回されたからに決まっている。
色すらない盲点の先から乙女が出現する。緑の鱗。双翼の翼。鱗に覆われた細長い胴体を這いずりまわしながら……天敵たる英雄神の視界に入る。
「シャフッ! メラぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああンッッッッ! てめえかああああああああああああああああああああああ!!!!!!!」
狂乱するスサノオへ、蛇の神祖モナルカは慇懃な仕草で蛇の尾を直立させながら腰を折り、礼を贈った。
「
顔を上げ、一切の無表情のままモナルカは語った。
「我が王はいささか頭の回りが、にぶい。しかしながら王を蛇へと化身させ、ついに私を思い出せることが出来ました。そして闇のなかでこそ光は崇高と強大さを増します。……お見事と讃嘆する他ないでしょう。賢しげな神にしか成しえない値千金の働きにございました」
「クソアマああがっ!!! オレをはめやがったなぁ!!!!!」
「はい。どうぞ、我がご無礼をお許しくださいませ」
神の怒号にも、なんの感情も見出だせない機械的なセリフを返した。
モナルカは未だに暴れるスサノオの猛りをほとんど気に止めなかった。スサノオの神威や怒りすらなんの意味もなく素通りしていくのだ。
亡霊がそうであるように。
「
「そいつはアカシャの記憶だ!本来あるべき歴史の流れは、今の乱れきった世でも変わらねえ!この世とあの世の均衡を保とうとする、オレが勝者となるはずだ!」
「──ですがこの物語では、敗北によって閉じられる」
「ッ!」
乱れていた蓬髪をさらに乱し、肩で息をしていたスサノオが目を見開いた。
見上げた先にあったのは虫かごの中の虫を眺めるような超越者の冷たい顔。
スサノオは絶対の預言に震えた。
「己が宿願を果たさんとするならば私の描いた絵図を砕いてみなさい、日本神話のトリックスター。まだ死を得ぬ身の上。生きてこそ足掻き、生きてこそ知恵を絞れるというもの。秩序や常識を破壊するのは得意でしょう?」
託宣の巫女のごとくモナルカは啓示した。
「でなければ、我が手のひらの上で最期まで踊り狂うことです」
マグレインオーラが広がり、やがてモナルカの姿もともにたち消えた。
「……?」
スサノオは目をしばたかせた。
何者かと話をしていたはずだったが……いや、そんな事よりも恵那だ。
スサノオは気を取り直して、神剣をにぎり言霊を打ち破った少女へと意識を向けた。
只人でありながら神の支配を打ち破ったものへ賞賛のひとつでもくれてやるべきだろう。それが己の支配でなければ。
スサノオは今にも掌中から跳ね出ようとする恵那へと掴みかかった。
『翁神よ、奪う権能をおぬしだけの領分と思うなよ! 娘──恵那よ! 我が"偸盗"の御業でもって、おぬしの《嘘》を塗り替える! 我が神力を受け入れるがいい!』
「うん! ちはやぶる神の斎垣も越えぬべし──今は吾が名の惜しけくもなし!」
恵那から呪力が消えていく。
通常の魔術師であれば術を使う時、呪力を高めるのが普通だ。それはカンピオーネでも変わらない法則。
しかし清秋院恵那は降臨術師。人には扱えぬ神具や荘厳なる神力を扱うために最適化された巫女。恵那は、神代の兵器を使うために神そのものを身体におろす。
それゆえに通常とは異なった法則となるのは当然。
恵那の手中にある天叢雲から刀光がするどく刃を滑る。くらむほどの神剣の霊力が逆巻き、黒光りする目ばゆい呪力の奔流が恵那を呑み込んだ。
恵那が地面に、膝をつく。
それは、呪力があまりに禍々しく重厚で耐えきれなかったから。
ではない。
恵那が求めるのは俊敏な脚──そのためには二足歩行ではあまりに貧弱。
日本最強の暴れん坊の手を逃れるには烈風を超えた速さが必要だ! 想い人のもとまで馳せ参じるにはどこまで駆け抜けられる足が必要だ!
スサノオの《嘘》の権能が、偸盗を介して恵那に新たなる力を与える。
クシナダヒメの役を任じられた娘は、その窮屈な縛りに反発した。
『
叢雲が権能を発動する。偸盗ともうひとつの権能……己自身と他の権能を新たな力と変える"融合"の権能を!
逆手に持ち上げた刀を掲げる。
おもむろに天叢雲を、刀の柄を大きく咥えた。白い歯でがっちりと柄を噛んだ少女に異変が起きる。
刀を咥えた犬歯が、長く、鋭く。艶やかな口唇は横一文字に裂けていき上顎と鼻がどんどん突き出していく。人の耳は皮膚のなかへ消え、代わりに頭頂部に三角形の獣耳が現れる。
変化は顔だけではない。
地面へと下ろした両腕は、大地を掴む前肢へ。
両足は大地を蹴りあげる後肢へ。
黒髪が風にたなびき恵那の肉体を覆うと、そのまま体毛へと置き換わった。
仕上げに臀部の尾骨から、しなやかな尻尾。
女神なんて窮屈な箱におさまるのは真っ平御免とばかりに天衣無縫に振る舞う。
清秋院恵那は、箱入り娘とはまったく逆の烈女なのだから!
──アォオオオオオオオオオオオン!!!
クシナダヒメの役を与えられていた少女は、天叢雲剣が偸盗した《嘘》の権能で人から外れた。
人から──獣へと。
刃を咥えた蒼き狼へと。
変化はまだ終わらない。
実のところチンギス・ハーンの異名"蒼き狼"は、青色の狼を意味するものではない。
正確には灰色の
黒曜の毛皮に、流星じみた白が混ざる。
流れ星が夜を駆け抜けるように黒い体毛を疾走する。白は、鼻先を眉間まで染め上げ……やがて地面を踏みしめる四肢の足先と尻尾の先っぽを白く染め上げた。
『よき
叢雲が刀身を揺らして笑う。
『おぬしの今の名は?』
「祐一くんのもとへ駆けつける
恵那が選んだのは猿神退治の犬、しっぺい太郎。
"猿神退治"とは日本版ペルセウス=アンドロメダ型の神話と言われる魔物退治の類話だ。
破魔顕正をなす《鋼》の犬。
それこそ今、清秋院恵那が変貌した正体。
「征くぞ!」
「うん!」
刀を咥えた
「はっ! いかせると思うか!? 随分と甘ったれ──」
──ルォォオオオオオオオオオオオオオォオオオオオオオオオオオオオォォオオオオオオオオオオオオオォオオオオオオオオオオオオオォォオオオオオオオオオオオオオォオオオオオオオオオオオオオォォオオオオオオオオオオオオオォオオオオオオオオオオオオオォォオオオオオオオオオオオオオォオオオオオオオオオオオオオンッッッッッ!!!!
「ッ!」
まつろわぬスサノオが恵那たちを阻もうと動いた瞬間、怒れる神獣が獅子吼した。
スサノオは動きを止めざるを得なかった。襲来する咆哮の波動に、腰に帯びていた天羽々斬を抜きはなち逸らせることに成功する。
逸らした衝撃は近くの山へとぶつかり、地中深くまで根っこを伸ばしていた木々が面白いようになぎ倒された。それに留まることなく山々があっけなく崩壊していく。
あのスサノオでさえ
爛々と嚇怒に燃える双眸から繰り出される、粘性を帯びた殺意に。
あれを無視すれば死ぬ。武を司る神として確信があった。現に、衝撃を弾いた手が痺れて柄を握るのすら億劫だ。
征け。
スサノオの足が止まった瞬間、その隙を逃がさずラグナが恵那を見下ろした。
「ありがとう!」
「待ち……」
ドォン!
ラグナが前肢を大地に叩きつけ、地響きが起きる。大地が脆い和紙のごとくビリビリなって、空が水滴を落とした水面のごとく何度も波紋を作って震撼する。
苛立ちを顕にする黒き神獣の嚇怒が、大地を震わせ天空を引き裂く。
ビリビリと鳴り響く咆哮がスサノオの握っていた刀を揺らし、そして違和感を覚えた。スサノオの剣、神代から腰に帯びていた剣は刃毀れを刻んでいた。
「んだと? 天羽々斬に刃こぼれが出来てやがる!」
刃毀れした原因、それは神獣の雄叫び。
ラグナは神の武器をたやすく痛めつけて見せた。
ただの一声で。
「此奴……」
スサノオは冷や汗を漏らした。
この神獣への警戒を数段階引き上げる。
ただの神獣だと思っていた。しかし、先程から妙に感じるプレッシャー……これはなんだ?
(たしかに神やカンピオーネの眷属の神獣ってのは、野良の神獣よりも遥かに強力だ。だが……、此奴は明らかにその範疇を超えてやがる……!)
「テメエ、真っ当な眷属じゃねえな?」
スサノオが目を眇めてラグナを観察した。
「神獣や従属神みてえな飼い慣らされてる連中よりも、己が意思で付き従う同盟神に近え。はっ。テメエも、さっきの天叢雲剣と同じか。あのクソガキに──弑逆されてねえ神格って訳か」
そう。
ラグナは祐一に弑逆されていない。
神格の核だったウルスラグナから反逆し、祐一のもとへと走った何者にも御せない悍馬ならぬ悍猪。
その先でチンギス・ハーンやサトゥルヌスなど数多の強敵に致命傷を負わせてきた怪物。
ラグナはやにわに転がっていた同胞、ヤマタノオロチの首と化していた『白馬』の首に噛み付いた。
ゴリ、ゴリ。バリ、バリ。
ごくんっ!
化身が混淆していく。
ウルスラグナの化身のなかでも最も太陽と関わりの深い二つの化身。太陽そのものを象徴する『白馬』と、太陽の前を征き先導する『猪』が交わる。
嚇怒の灼熱はもはや激昂の白焰へと。
ラグナの黒曜さながらの漆黒の毛色に、『白馬』の輝く白が乱入しマーブル模様を描きはじめる。
──ルォォォォォオオオオオ!!!
白に染まりはじめた
ラグナは祐一の故郷だからといって斟酌することはない。破壊することになんの呵責もない。
ただ怒りを叫んだ。
家屋は壊れ、民衆は逃げ惑い、生きとし生けるものの耳元を怪声が過ぎ去り破裂させる。
猪突猛進。それが猪の存在証明。
──
──
お前の悲しみは我が悲しみ。お前の怒りは我が怒り! お前が死ぬと言うなら我も死のう。お前に殺されると言うのなら我は喜んで首を差し出そう。
お前が涙を流すのなら、その涙を贖わせる幾万の血を強いてやるッ!
優しきお前が
天が破れ、荒ぶる神と怒涛の神獣が激突した。
お読みいただきありがとうございました